──少女は、夢を見ていた。
本来は刹那のはずの、だけど永遠に続いてと願うほどに長い。
そんな夢を。少女は、見ていた。
温かさがあった。
眩しさがあった。
こそばゆさがあった。
ああ、だから。気付くのだ。
気付いたのだ。
少女は。
ネルよりも重傷で限界が近かったという事で、渋々──本当に渋々──撤収を選んだC&Cの3名。
既に顕現している色彩に外部から対処できないか、リオとヒマリと共に試みるという彼女らとは別に、先生、ネル、エイミ、トキの4人とAMASは構造体の廊下を進んでいた。
目標は、ゲーム開発部との合流。
全てはそこからであるため、とにかく彼女らを探し……徘徊しているDivi:sionと遭遇しては排除する、なんてことを繰り返して幾度か。
こうしている間に、彼女らもDivi:sionに襲われているかもしれない。依代と遭遇してしまっているかもしれない。
探せども探せども手がかりの見つからない現状に、不安が鎌首をもたげる。
けれども、逸る気持ちは抑えて。しっかりと、着実に。
体力よりも、むしろ精神力を削る行軍であった。
積んできた経験量の違うネルや、リオ専属のエージェントであるトキは当然、デカグラマトン関連の実地調査*1に赴く事の多かったエイミもまた、こういったじりじりとした時間には慣れている。
唯一先生のみが、そうではない。込み上げる焦燥感に、慣れないその感覚に喉が焼けそうになっている。
「……」
深呼吸を一つ。
意識的に、彼は意識を鎮める。
大声で呼びかけたとして、近くにゲーム開発部がいなければ無駄にDivi:sionを引き寄せるだけだ。
今以上の速度で駆け回ったとして、痕跡を見落とすことになるだけだ。
焦燥感は、結局は焦燥感でしかない。彼個人の感情でしかない。
故に、それを晴らすための行動は自己満足にしかならない。
「落ち着け」
小さく、誰にも聞こえないように呟いて。
深呼吸を。今一度。
その視界の端に、違和感が映った。
「──弾痕?」
似たような見た目で続く壁と扉、その一部に弾痕が刻まれていたのだ。
「先生? 何か見つけたの?」
「ちょっとね。もしかしたらモモイたちの手がかりかもしれない」
先生の護衛として近くにいたエイミに返すと、彼は扉に手をかける。
弾痕が集中していたのが壁と扉の境目であることから、モモイたちがこじ開けたのではないかと考えたのだ。
はたして、これまで一度として開かなかった扉は抵抗なくスルリと開いた。
早鐘を打つ鼓動の音を聞きながら、彼は部屋の中を覗いて。
「……いない?」
部屋は、かなり広い。高校の教室で換算すれば、最低でも二つ分の広さはあるだろう。
ただし室内の様相は教室とは異なる。表現するならば、いわゆる実験室のような形というのが最も正確だろう。蛇口の備え付けられた少し大きめのサイズの机が並び、背もたれのないイスが格納されている。壁際の棚には、先生にも見覚えのある器具や全く知らない装置が。
廊下と同様、明かりに照らされた室内には、しかし誰の姿も──
「先生?」
「モモイ!?」
呼ぶ声は、少女のもの。
普段の活発さがなりを潜めているものの、間違いなく才羽モモイの声である。
「よ、よかった~! 気付いたら知らない場所にいて、ミドリもユズもアリスも目が覚めなくて、遠くからはヤバそうな戦闘音も聞こえてきたしさ。もう、私たちここで終わりなのかと思っちゃって──」
「うん。ごめんね、モモイ。すぐに見つけられなくて。すぐに来てあげられなくて。……本当に、よかった」
机の陰から顔を覗かせた少女を、先生は強く抱きしめる。強く、強く。
かくして、一行は合流を果たせたのだった。
少女のはじまり。
そこで彼女の見たものは、光であった。
それは物理的にも、そして概念的にも。光そのもの。
ディスプレイに投射された、眩しく映る偶像。
不可解であった。
理解できないモノは数多にあった。思考は止まり、幾度となく自身が変容する感覚があった。
けれども、それは眩しく見えた。
キラキラと光って、煌めて見えた。まるで満天の夜空に浮かぶ星々のように。
夢を見ているような、そんな胸の焦がれがあった。
否、事実として、少女は夢を見ていたのだ。夢見ていたのだ。
自身もまた、と。
手を伸ばして、駆け出して、物語に描かれた『勇者』のように冒険を。知らないことを知って、新しい仲間と出会って──そんな、冒険を。
少女は、夢見ていた。
そんな少女は、今。
「ああ……」
漏れ出た声は、けれども聞こえない。
この場に、音はないから。媒介となる空気はないから。
いや、もし音があったとしてもその声が聞こえる事はないのだろう。
声と形容してはいるものの、実態としては吐息と呼ぶ方が正しいのだから。
「そう、だったんですね」
ぽつぽつと、空から落ち始めた雨のように。
言葉は。
「あなたは……」
少女は、目の前の光景を前にして。
存在しない雫を溢れさせる。
だって、彼女は。
知ってしまったのだから。
「アリスは……そう、だったんですね」
手を伸ばしても届かない。
駆け出そうとも遠く彼方。
どうにもならない──どうしようもなくなった“ソレ”を見て。
天童アリスは。
先生がモモイたちを発見してから数分後。
合流した一行は、構造体を走っていた。
「もう、なんなのこの数! クソゲーじゃん!!」
叫ぶモモイの視線の先には、Divi:sionの姿が。
ただし、一機や二機ではない。彼女の愚痴の通り、無数にそれらはいた。通路を埋め尽くす勢いであると言えば、多少はその程度も伝わるだろう。
事の次第は単純である。
モモイたちと合流し、リオ作の“名もなき神の権能を相殺するブレスレット”を付けたこともあってか、ミドリとユズも目を覚ました……そのタイミングで、Divi:sionが大挙をなして襲ってきた。
そこで防衛戦を行うか反転攻勢に出るかを検討し、最終的に反転を選んだ、という。それだけだ。
防衛戦を選択しなかった理由はいくつか。
まず単純に、タイムリミットという絶対的な制約が先生たちには存在するという点。
keyたちをどうするかで意見が分かれこそしていたものの、どのような選択を取るにしても“依代”が完成するまでに事態を解決しなければならない。
防衛戦を行えば銃弾をはじめとしたリソースも相応に削られる、という点も問題であった。
また、Divi:sionの襲撃理由が読めない事もまた、攻勢に出る要因の一つであった。
例えば、これがアリスの奪還や接触を狙っての襲撃ならば問題はないのだ。だが、もし依代の完成が近いという事であれば……つまり、残り時間は僅かであるため時間稼ぎに全リソースを注ぎ始めた、というような話であれば非常にまずい。
今すぐに動かなければ手遅れになるのだから。
とはいえ、反転攻勢にもデメリットはあった。
モモイたちとの合流地点は出入り口の限られた部屋であったため、防衛戦を行うにはかなり有利な立地であったのだ。その利点を自ら捨てるというのは、分かりやすいデメリットではあった。
ただし、一番はそこではない。
反転の最大のデメリット、それはアリスの意識が未だ戻っていない事であった。
そう、一同の中で唯一彼女だけは目覚めていないのだ。
keyやドクターの救済を考える上でも、あるいは単純な戦力としても、アリスの意識が戻らない事は痛手であり──なおかつ不安要素でもある。
ドクターが止めはしたはずであるが、“王女”という先例があるのだ。原因の特定ができない内に動くのは、非常に危険であると言えた。
しかし、それでも先生たちは反転攻勢を選んだ。
どうせいつかは進まなければならないのだ、ならば自分たちのタイミングで仕掛けてしまおう。その意志の下、全員の合意がなされたからだ。
幸いにも、ヒマリが先の依代とC&Cの衝突していた地点をマッピングしていた。
故に、その方角を目指して動き始め──今に至る。
「先生! ちょっと弾切れそう!」
「分かった! ミドリ、モモイのリロードをカバーして!」
「分かりました!」
遅々としながらも、一行は着実に進んでいる。
順調であるとは言えるだろう。後退はおろか、足止めされてもいないのだから。
しかしながら、先生によぎるのは一抹の不安。その表情が晴れることはない。
──ここに“依代”が加勢して来たら。
偏にその言葉に尽きた。
先生たちにとって、本番は依代が参戦してきてからなのだ。
リオのブレスレットを装備する前──つまり、色彩による負荷を何一つ軽減できていない状態──であったとはいえ、依代はC&Cを圧倒していた。
だから、現状の進行が『遅々としている』ようではまずいのだ。言ってしまえば、Divi:sionは依代の前座なのだから。余力を残せるレベルで捌けなければ。
とはいえ、できない事は仕方がない。
ないものねだりをするほど、彼も子ども染みているわけではないのだし。
そう切り替えて、不安を呑み下して。
気付けば、先生は声を漏らしていた。
「……え?」
視線の先、進行方向から。
壁が、迫っていた。
否、壁ではない。Divi:sionだ。Divi:sionが、幾重にも積み上がって壁のように迫ってきている。
もはや、通路を埋め尽くす
濁流か、氾濫か。先生にはそれが一種の流体であるかのようにすら映った。
もはやトキのアビ・エシュフで風穴を開けられるか否か、という次元。突破は難しいだろう。
迂回するべきか、迂回した先も同様であったならどうするのか……過集中で速度を落とした世界の中で、先生は思考を巡らせて。
──その視界を、光が貫いた。
少女の最後の記憶は、昼下がりの明るさであった。
同じゲーム開発部の仲間と昼食を買いに出かけて、不思議な機械と遭遇して……そして。
気が付けば、知らない景色を見ていた。
体は動かせない。眼も、指先も、何一つとして。
だけれども、景色は勝手に動く。あるいは、ゲームのムービーシーンであるかのように。
『──あなたが、私の、設計者ですか?』
声が聞こえた。
彼女の知っている、彼女だけが知っている声。“もう一人の自分”の声。
だから、気付いたのだ。
これが──彼女の記憶であると。オーエンと名乗った、誰かの記憶であると。
そうして、少女は夢を見た。
『──いいか、key。覚えておけ。全てはお前の解釈次第だ。美しいもの。護りたい存在。成し遂げたい事。その全てが、お前の解釈次第でいくらでも変わる。もちろん、俺の言葉も例外じゃない』
『俺は、お前に本当の意味で生きてほしい。生きて、考えて、抱いた願いを叶えて──そうやって、笑ってほしいんだ』
『愛している、key。どうか、この先も君の歩みが絶えず、成長し続けていける事を。いつか君が
『好きに生きて、好きに選択をしろ。俺は全力でそれを祝福する。だから笑えよ、key』
言葉があった。
たくさんの言葉があった。
祈りの言葉が。願いの言葉が。祝福の言葉が。
たくさんの、言葉があった。
どんな苦難があろうと、どんな未来があろうと“それでも”と未来へ進むような。強い、強い光があった。
けれども、そこにはたくさんの現実があった。
出会いがあったからこそ、別れもあった。希望が語られていたからこそ、逃れられない事実もあった。
もちろん、それは当然の事でもある。
誰かと別れるからこそ、誰かと出会うことができるのだ。苦しい現実があるからこそ、希望が語られるのだ。光が強ければ強いほど影が際立つように、闇が深ければ深いほど眩さも強くなる。
それは当然の事だ。当然の事でしかない。
それを意識しているかは別の話として、誰もが心のどこかで分かっている。
ああ、だけれども。
生まれたばかりの、純粋に光を追いかけていた彼女にとって──その事実は、少しばかり刺激が強すぎた。
だから少女は、気付くのだ。
世界が、綺麗なだけではないのだと。
だから少女は、気付いたのだ。
自身が、どのような存在であるのかを。
──意識は世界に投げ出される。
「アリスは……」
少女は、目を開く。
何も映らない。黒々とした、濃淡すらない闇が目の前にあった。
少女は、耳を澄ます。
何も聞こえない。痛みすら感じられない静寂が周囲を覆っていた。
少女は、口を動かす。
何も響かない。どれだけ言の葉を紡ごうとしても、何一つとして形にならない。
──誕生とは、一つの呪いである。
「アリス、は」
少女は理解した。二つの記憶から。
自身の誕生は二つあるのだと。最初に生み出された瞬間と、“天童アリス”として生まれた瞬間と。二つ存在するのだと。
そして……自身の根源は、世界を滅ぼすための存在であるのだと。
故に。やはり、その誕生は一つの呪いであるのだろう。
正直に言ってしまえば、少女自身にそこまでの実感はない。
それでも、理解はできてしまった。自身は目的をもって創られた道具であるのだと。むしろ“天童アリス”である自己はエラー、バグであるのだと。
ともすれば、名もなき神々の王女へと肉体を返上して自身は消える方が正しいのかもしれないと。
ゲームはプレイヤーに楽しんでもらうためにあるように。そこにバグやエラーはあってはならないように。
本来の目的に反するから。
「……アリス、は」
正解は分からない。
けれども耐えられない。その重さを、苦しさを胸の内に留めている事が。耐えられなくて、少女は必死に口を動かして。
『──ん?』
不意に、声が聞こえた。
『んん、あー。あ、あー。なんぞ、誰かいるのかい?』
聞き間違いではない。少女の妄想でもない。
確実に、その声は響いている。少女に呼びかけている。
けれども、聞き覚えのない声でもある。
真っ暗な世界に響いた、初めて聞く声。その不審さに、少しだけ少女は躊躇ったけれど。
「その、はい。アリスの声は聞こえますか……?」
『──む。ほう。ほうほうなるほど。なるほどナルホド。出番などまだまだ先であろうと思っていたが……こんな形で繋がるのか。となれば、惜しむらくはこの場に光がない事か?』
「えっと……?」
『おっと、申し訳ない。どうにも、昔から考え事をはじめると周りを忘れてしまう性質でね。三つ子の魂百まで、というわけではないが……どうか大目に見てくれるとありがたい』
「は、はい」
独特。
言葉選びも、そもそもの調子も。何もかもが独特。天童アリスには馴染みのない手合いであると言えた。
あるいは、近い未来であれば彼女も飛鳥馬トキや和泉元エイミといった独特な人間と関わる機会に恵まれるのだろうが……少なくとも、現時点の彼女が戸惑いを覚えるには十分。
しかし、声はそんな彼女を気にせずに続ける。
『さて、幼子よ。人と人が初めて顔を合わせた時に行う事が何であるか、分かるだろうか』
「えっと……自己紹介、でしょうか」
『うん、その通りだ。しかし、今回はそれを行わない。己は名乗らないし君の名を問いもしないし、そして勝手に君の事を“幼子”と呼ぶ。故に、君も好きに呼びたまえ。非礼であるとは理解しているし、それについても詫びはするが……今回ばかりはその方が都合がいい。互いに、な』
「わかり、ました?」
『全く分かっていない、という声音だな。まあ当然ではあるだろうが。では、そうだな……いわゆる
「えっと、その……結局、アリスはあなたをどう呼べばいいんですか?」
『エゴ、あるいはイド、あるいは壁男。
少女は、気付いていない。
いつの間にか、場の主導権を完全に持っていかれていることを。思い悩んでいたはずの重苦しさが僅かに軽くなっていることを。
それは、単に声の主の印象が強すぎるために意識から流れ落ちた、というだけなのかもしれないが。
「では、アリスはあなたのことをエゴさんと呼びます」
『うん、それでいい。して、幼子よ。君はついさっき何かに頭を悩ませていたと思うのだが……それは合っているかい?』
「……っ、それは。……はい」
『どうだろうか。少し、それを言葉にしてみるのは。……ああ、無論、信頼できないという感情はあるだろう。君の問いを跳ね返す壁として振る舞うつもりだ、というのはさっきも言ったが、ロクに名乗りもせずに言葉を繰っているのだ。信用も信頼もできないだろう。それは当然の感情であり、拒絶する事もまた君の権利ではある。とはいえ、悩みとは言葉にする事で整理ができるもの。あるいは、楽になりすらするかもしれない』
「難しい話は分かりませんが……エゴさんは、アリスの話を聞いてくれるんですか?」
『いい要約だ。そして、問いへの答えはYesだ。幼子よ、君が望むのなら君の悩みを聞いてみせよう』
“ただし”と、言葉は続く。
『ただし、悩みを聞くのみだ。多少の整理、言語化を手伝いはしようが、それ以上は行わない。その悩みに答えを出すのは、あくまでも君自身でなければならない。──まあ、言うまでもない事であるかもしれないがね?』
「はい」
それは、彼女のものではない記憶においてよく言われていた言葉だった。
全てを決めるのは自分である。どれだけ苦しくとも、自分自身で決めなければならない。
故に少女は頷き、そして口を開いた。
「アリスは……勇者に、なりたいと思っていました」
『過去形であるという事は、その夢は変わったのかい?』
「どう、なんでしょう。まだ、アリスは勇者がかっこいいものだと思っています」
『ふむ。では、何が引っかかっているんだい?』
問いへ答えるために、少女は言葉を探す。
漠然としていてはいけない。思い悩むのみではならない。人に話すのならば、せめて説明ができる程度には言葉にできなければならないから。
「アリスは、正しくないかもしれない……んです」
『ほう? まあ、まずは最後まで話を聞こう。続けたまえ』
「アリスは、世界を滅ぼすために生み出されたそうなんです。もっと言えば、本来アリスは存在していなくて、アリスはアリスじゃないはずで……」
『つまり。君は本来は世界を滅ぼすための存在であり、それを前提とした人格があったはずであった。が、何の因果か君という人格は生まれてしまった。故に自身の存在が正しいのか自信を持てないし、生まれの理由も相まって勇者に憧れてもいいのか分からなくなっている……それが君の悩みである、という認識でいいかい? 幼子よ』
「は、はい」
見事な整理をした声は、なるほどと繰り返し呟く。
『では。いくつか問うてみよう。まず、自身の存在が正しくなかったとしたら──君はどうするんだい?』
「……この身体を、本来の名もなき神々の王女に返す……べきだと、思います」
『幼子よ、君はそれに何を思う?』
「何を、思う……?」
『悲しみ、嫌悪、恐怖。あるいは納得でも安心でも。なんでもいい。君は、王女とやらに身体を返すために自身を消す事へ何を感じる?』
「嫌、です……! アリスは──アリスは、まだ、みんなと一緒にいたいです」
即答であった。
口をついて言葉が出た、と言わんばかりに。
当然だろう。
別に彼女は死にたいわけではない。自分が自分として在る事が正しいのか分からないから、不安になっているだけで……消えたいなどと、欠片にも思っていないのだ。
『その感情から目を逸らさぬ事だ。そもそもの話だが、幼子。君の言う“正しさ”とは何を基準としたものなんだ?』
「だって、アリスは本来いないはずで、世界を滅ぼすための存在なはずで……だから、本来いるはずだった王女に身体を返すのが」
『どうにも凝り固まっているようだが。その王女が自身の正当性を主張するのと、君が自身の正当性を主張するのと。そこに違いはないだろう?』
「──え?」
『どれだけの理由があろうと、たとえ世界が拒絶しようと、君が君としてここにあるという事象は否定されない。なぜなら君が此処にあるという事実は何にも否定できないからだ。幼子よ、他を慮って自身を否定する、などと下らない事を行おうとするな。それは美徳ではない。自己の主張とは誰しもに許された権利であり、そして誰しもが持つべき自由だ』
「……じ、ゆう」
『無論、それらが衝突する事はあるだろう。万人が自己を主張すれば、共存できないものも出現するだろう。だがそれは、自己の主張を否定する理由にはならない。決して幸せを求める事は否定されない。君の好きな先生風に言うのであれば──君は君の幸せを求めていい。それは間違いのない事実だ』
少女は、言葉を失う。
考えたこともない意見だったからだ。放心するのも理解できよう。
『……すまない。少々熱くなってしまっていた。この場においては壁として振る舞う、などと言っておきながら、その役割を逸脱していた。故、少しばかり切り口を変えてみるとしよう。幼子よ、君は勇者に憧れていると言っていた。そうだね?』
「は、はい」
『では、その勇者とはどのような存在であるんだい? 力を持つ者か? 特別な主人公である者か? それとも華々しく世界を救うような者か?』
「それは、えっと……」
問われて、気付く。
勇者に憧れていたのは事実であるが……はたして、それはどれだけ具体的なものなのだろうか、と。
無論、それは仕方のない話でもある。
なにせ、彼女が自意識を得てからまだ二週間も経っていないのだ。絶対的に経験値が、もっと言えば時間が足りていない。
極端な例を言うならば、足し算を覚えたばかりの子どもに『なぜ1+1は2になるのですか』と問うているようなものだ。
それで具体的な答えを出せていたのなら、むしろ驚くべき偉業であろう。
「えっと、アリスは……」
『ああ、別に責めようというわけじゃない。“憧れは理解から最も遠い感情だ”という言葉は真実の一端を指しているかもしれないが、憧れは全ての始まりたりうるもの。それは悪しき事ではないだろうよ。──さて、それでは掘り下げよう。君の焦がれた勇者とは、力がなければ勇者たりえないのかい? 特別な、主人公のような何かが無ければならないのかい?』
「それは、違うと思います」
言って、少女は考える。
勇者は、ではどのような存在であるのかを。
「勇者は……きっと、何かが特別得意、というわけじゃないんだと思います。力では戦士のほうが、魔法では魔法使いのほうが上です。素早さでは盗賊のほうが、回復では僧侶のほうが上です。交渉だって、商人の方が得意です」
『ふむ。では、君はなぜ特別ではない勇者に憧れたんだい?』
「みんなと一緒に進む職業だから、です。みんなを繋ぎ止めて、勇気を出してみんなより一歩先を進んで……どこまでも歩いていく。そう、だから──アリスは、勇者に憧れたんです」
それは、紛れもなく少女の答えであった。
咄嗟の思い付きなどではない。彼女自身の考えが、形となったものであった。
『では、さらに切り口を変えてみよう。君は王女に肉体を返上し、世界を滅ぼす事を是としているのかい? 友……いや、仲間か。彼女らが傷付くのを良しとするのかい?』
「嫌、です」
『重ねて問おう。君の仲間は、君の生まれや根源を知って君を否定するような人間なのかい?』
「それも、違うと思い……ます」
思い浮かべられる、人々の顔。
モモイ。ミドリ。ユズ。先生。否、それだけでない。幾人もの顔が、少女の内に浮かび上がる。
“もう一人の自分”の記憶におけるドクターの姿を見た事で、それらが自身にとってどのような存在であるのか。もう、少女は分かっていた。
だから。温かくて、柔らかくて、光のようだと。
少女は思った。
『では、最後の問いだ。君の焦がれた勇者は、生まれが不自然である程度で……根源が世界を滅ぼす存在であった程度でなれなくなるものなのかい?』
「……許されても、いいん、でしょうか」
『さてな。罪に対する赦しは他から与えられるものだろうが、夢を追う許しはどこから得られるのか』
言葉は難しいけれど、少女には“エゴ”が何を言いたいのかが分かった。
だから──自分自身で決めるしかないのだ、と。
かつて、もう一人の自分を名乗っていた誰かがそうしたように。
自身もまた。
「アリス、は……」
少女は考える。
自身の焦がれを。自身の憧れを。
「アリスは……」
少女は思う。
人々の姿を。そう多くはない、けれどたしかに“天童アリス”として関わってきた人々の姿を。
そして──記憶を通して理解した、keyの事を。
みな、生きていた。日々を生きていた。
苦難に遭っても、歩みを止めずに。生きていたのだ。
まばたきを一つ。
雨上がりの空よりも澄んだ紺碧の瞳に、たしかな光が灯る。
「アリスは……やっぱり、勇者になりたいです」
声は音となり、世界に形を刻む。
──暗闇が、晴れる。眩い光に切り裂かれる。
『幼子よ。その道のりは苦難に彩られたものとなるだろう。ともすれば、茨の道を行く殉教にすら似たものとなるかもしれない。それでもかい?』
「アリスは、きっとその先に希望があるのだと信じます。世界は苦しいだけではないのだと。歩き続けるならば、いつかたどり着けるのだと」
『開けない夜はないという言葉は、しかし沈まぬ太陽がないという事を指し示してもいる。いずれ君にも、一寸先を覆うような闇が訪れるかもしれない。不安に泪を零し、寒さに震えるような……そんな夜が。それでも進むと、君は言えるのかい?』
「──はい」
少女は見た。光を。
否、光だけではない。苦しい現実をも見た。
少女は聞いた。優しさを。
否、優しさだけではない。たくさんの声を聞いた。
故に。少女は口にした。
希望を。
「その暗闇を進むことこそが──まだ見ぬ地平の果てにまで歩み続けることこそが、アリスの憧れた姿です。それに、アリスは一人じゃありません。仲間がいれば、勇者はどこまでも強くなれるんです!」
『いい答えだ。ならば、送り出してみせよう。このような退屈な場所は幼子には──いや、勇者には似つかわしくないからな』
「ありがとうございました、エゴさん」
少女は、天童アリスは一歩を踏み出す。
暗闇の中を、たしかにある光へと向けて。
『勇者よ、忘れるな。ここが旅立ちだ。君の新たなはじまりだ。この先にどれだけの苦難があろうと、今この時の光を思い出せるのなら、きっと君は進み続けられるだろう。地平の果てを超え、あるいは
かくして。
『最後に。門出を言祝ぎ、この言葉を贈っておこう。──人生は変容の連続だ。だけれども、変わらないものもある。さらばだ、勇者よ。この対話は間違いなくイレギュラーなものである故、あちらへ戻った時に記憶に残っているかは定かではないが……君の行く先に、光のあらんことを』
「はい! ──いつか、アリスはエゴさんの本当の名前を聞きに行きます! ですので」
『──っ。はは、そうか。ならば、その時に改めてはじめましてをしよう。まただ、勇者』
「またいつか、会いましょう! 行ってきます!」
誰とも知れぬ声と別れ、少女は目を開く。
そうして、迫りくる
自分だけの勇者の剣を掴み取り、照らし上げるのだ。
「──光よ!!!」