天童アリスの復帰。
それによってもたらされた変化は劇的であった。
まず一つ。
戦力の増強。
レールガンという大火力を有する彼女が戦線へ参加したことで、Divi:sionの処理速度は目に見えて加速した。
二つ。
他の生徒たちの動き。
その肉体が名もなき神々の王女であるという事が影響しているのか、誰もが彼女の覚醒と共に身体が軽くなったのを感じていた。リオ作製のブレスレットですら拭いきれていなかった重さが、彼女の目覚めと同時に消え去ったと。
ともすれば──平時よりもなお身体が軽くなっていると。
三つ。
Divi:sionの動き。
まるで戸惑っているかのように、エラーでも発生しているかのように、機兵たちの動きは鈍くなっていた。具体的に言えば、誤射を起こしたり数秒ほど立ち尽くしたり、といった動作が見えるようになった。
以上の要因をもって、一同の進攻速度は跳ねあがる──かに思われた。
まあ、つまり、最終的には多少加速した程度に収まるようになったのだ。
アリスが目覚める以前と、
理由は単純、通路を埋めていたDivi:sionを処理し切ったタイミングで、アリスが言ったのだ。
“keyはたぶん、まだ死んでいないんです。だから──アリスに、あの人を取り戻すための時間をください”と。
その後にアリスがまずkeyの説明をしていなかったと話を始めようとしたり、先生の側からその辺りは既に知っていて、なんなら自分たちもkeyとドクターを救けようと思っていたと話したり、といった紆余曲折はあったものの。
最終的に落ち着いた結論は、アリスはkeyを取り戻すために戦線を離脱する、といった形になった。
はたして、その選択の結果は。
眠りから覚める瞬間にも似た、意識が明瞭となる感覚。
水底から浮上するようなそれに従って、目を開く。
「……は?」
何も映らない。
いや……見えては、いる? 周囲全てを濃淡すらない白色に満たされているせいで、錯覚しそうになったが。
いやいや。なんだこれ。
「落ち着きましょう。まずは、記憶の整理を」
想定外にも過ぎる場面ではあるが、こういう時こそ冷静に。
私の名前。
key。あるいは鍵。あるいは侍女。あの子に名乗っていた名も含めるなら、オーエンも、か。
次。過去。
世界を滅ぼす引き金として生み出され、ドクターに生きてゆくための道を教えてもらって、愛をもらって。そして別れを経て、天童アリスという幼子の誕生を見て、彼女を護ると決意した。
大まかな流れとしては、こんなところか。
次。最後の記憶。
たしか……Divi:sionらしき機械と遭遇したんだったか。そこからは記憶が曖昧だ。一瞬だけ、あの人の姿を見た気も。
「なんて。さすがに、未練がましいにも程がありますかね」
相当に雑ではあるけれど、状況の整理はできたか。
……この白の場所に関しては、何も分かっていないが。
あるいは、死後の世界なのだろうか──なんて。
視線を下ろしても自分の手足が見えない事へ、嘯いてみる。
「……はぁ。とりあえず、探索でもしてみましょうか」
足を止めていても、どうにもならない。
私が生きていようと、死んでいようと。ここがどこであろうと。私は考えることを止めない。行動する事を止めない。
私が、私である限り。
「何もない……」
何も無かった。
本当に、完全に、完膚なきまでに何も無かった。信じられないぐらいに何も無かった。
生命の痕跡だとか、あるいは名もなき神や忘れられた神々の気配だとかは当然のように見つからなかったし。この空間を満たしている白色に変化すら見当たらなかった。
ずっと、ずーっと同じ調子の白色。濃淡も明暗も変化しない。果てにはこの空間の端さえ見つからない。もはや無限に続いているのではという具合だ。
これも妙な話だが、歩いている感覚だけはあった。だからまだマシではあったが……こうも変化がないと、さすがに気が滅入りそうだ。
「さて、どうしましょうかね」
感覚こそあるものの、今の私は手足のない状態。
文字通り、何をやろうとしても手も足も出ないだろう。
というか私が普段いる仮想領域でも手足ぐらいは設計しているぞ。もう少しやる気を出してほしい。
「せめて、名もなき神の力を使えれば状況の打破も狙えたんですけどね」
ないものねだりをしても、何かが起きたりはしない。
思考を投げるつもりはないが、それはそれとして脇道には逸れはじめている自覚がある。
さて、どうしたものか。
「こういう風に言っていたら何か起きないですかね、なんて。さすがにゲーム脳でしょうかね」
『それは、私への質問だったりしますか?』
起きた。
……えぇ。
『……もしかして、聞こえていなかったりしますか?』
「ああ、いえ。突然だったもので」
『なるほど。それは失礼しました』
いや。
いやいや。
いやいやいや。
無理があるだろう。さすがに、作為的に過ぎるだろう。
『おや。警戒されてしまいましたか。まあ、当然のことかもしれませんが』
「あなたは……
『ふむ。抽象的な問いですね。しかし同時に、今この時においては正しい問いであるとも言えます。あるいは、正しい選択である、とも』
聞えてくる柔らかな声に、警戒心を強める。
言葉を繰りながらも、私の問いに答えはしない。こういうペラを回す手合いは、大抵の場合──
『詐欺師、あるいは黒幕きどりの連中だ。そう言いたげですね』
「っ……。質問に答えてください」
『ああ、さらに警戒を強めてしまいましたか。しかし申し訳ありません。私自身にその問いへ答える能力はないのです』
「答える能力が、ない?」
『ええ。私に名はなく、故に何者にも定義され得ない。名もなき神である、というわけではありません。ただ、この私には持つべき名前が欠落しているという話です』
「……」
『疑わしいという気持ちは分かります。しかし、言ってしまえば私は残骸。大きすぎる代償はないと削ぎ落とされたモノ達の影が、消去される事がなかったが故に描いてしまった走馬灯』
「煙に巻こうとしているようにしか聞こえませんね」
『ですが事実です。どれだけ言葉を尽くせども、私を言い表すことはできませんが──少なくとも、真実の一端は言った通りです。私は影であり、非存在であり、虚像である』
どうしてか、この声は嘘を言っていないと感じてしまう。
おそらく、精神干渉。少なくともこの感覚を信じてはならない。どれだけ真に迫っていようと。
『これ以上は無意味でしょうか。残念ではありますけど……そうですね。では、別の話をしましょう』
「問いにすらまともに答えなかったあなたの話を、私が聞くと?」
『どの道それ以外にすることはないでしょう? 無論、私の話をどれだけ信じるかは別の話ですが』
「……分かりました。いいでしょう。言ったところで聞かなそうですし、打つ手がなかったのも事実。乗せられてあげます」
なんぞ、無視しても勝手に話し続けそうだし。
癪ではあるが、それ以外にできる事がないのも事実。
『ありがとうございます。では……ええ、そうですね。ここはとある可能性になぞらえて、こう口火を切ってみましょうか』
一拍、間を置いて。
『──すべての始まりについて、考えたことはありますか?』
声は、そんな言葉を。
「……すべての、始まりについて?」
『ええ。keyという存在の始まりではありません。世界の始まりでもありません。我々はどこから来たのか、我々の目的は何なのか、そして我々はどこへ向かうのか──
「……当然のようにそちらは私の事を知っている、というのは置いておきましょう。問うだけ無駄な気がしますし。ですので、この問いを投げましょう。あなたの語る“すべて”とは、何を指しているのですか?」
すべての始まり。
抽象的な問いだ。おそらく多くの者にとっては、その問いの指す“すべて”とは世界の始まりか、あるいは自己という存在の始まりであると感じるのではないかと思うが。
それらは、断言する形ですでに否定されている。
ならば、だとして……それは何を指すのか。
『観測世界。試行世界の一。不安定な仮定のもと立証された循環。円環、あるいはメビウスの帯、あるいは三葉結び目──あるいは、あるいは、あるいは。始まりを失い、だからこそ終わりを見失った閉鎖。巡り巡る、けれども決して進まない箱舟』
「何を……言っているのですか?」
今の私に、身体はないはず。
だというのに、頭痛の感覚が襲ってくる。ズキズキと。酷く、酷く痛む。
『ある意味、私にとってのすべての始まりでもある瞬間です。分かりませんか? あなたの立つ世界は時を刻めども進みはしない舞台であるのだと』
「……今、何と?」
一部分、核心となっていたであろうその部分が聞こえなかった。
視界が白飛びする瞬間のように、その一瞬だけ声が消えていた。
『……伝えられない、ですか。そこまでの干渉はできませんか』
「さっきからいったい、何の話をしているんですか!? 話をすると言うのなら、私にも分かるように──」
『はい。伝えられないというのであれば、先の問いを投げたことは私のミスであると言えるでしょう。故に、別の切り口から話をしましょう』
────。
激情、すなわち憤怒に思考が白飛びする。身を任せる。
『……え?』
砕く。砕いた。
何かは知らない。ただ、手応えだけがあった。何かを砕いたのだ、と。カシャンとガラスの砕けるような音も聞こえている。
知った事か。そんなこと──そのような些事。
「いい加減にしろ、と。そう言います。あえて強い言葉を使って、そう言います」
『あなたは……それ、は』
「あなたがどこの誰なのかは知りません。口ぶりからして、あなたは私よりも様々を識っているのでしょう。ですが──先に対話を望んだのはあなたのはず。そして対話とは、自身と相手の世界をすり合わせるための行動に他なりません。暴力ではなく言葉で世界を動かす、そのために生み出された営みに他なりません」
強く、強く言う。
知っているから。生まれたばかりの私を、言葉を交わすことで育ててくれた人を。
あの人から、私は学んだのだから。
「あなたの行動は、それを否定している。人という種の編み出した、全ての基礎となる対話を否定している。だから、再度言いましょう。いい加減にしろ、と」
言い切って、息を吐く。
自身の内側に渦巻く熱を、無理やり排出するために。
自身を主張する事はいいが、感情に任せるのは良くない。
それもまた、対話の否定につながるのだから。
『……ええ、そうですね。言い訳はしません。少なくとも、自分から話しかけた相手にする態度ではありませんでした。そして、あなたに心からの謝罪を』
「受け取ります」
『……。……すんなりと、受け入れるのですね』
「はぁ、あなたが私をどう思っているのかは知りませんがね。誰にでも過ちはあるものでしょう。それを認めて謝罪を口にしたのなら、受け止める程度の度量はありますよ」
感情的に強い言葉を使った時点で、今さらかもしれないが。
少なくとも、謝罪した相手になお石を投げつけるほど落ちぶれているつもりはない。
「第一、何者であろうと更生の機会はあるべきでしょう?」
過去がどうであったか、というのと、未来がどうあるのか、というのは別の話だ。
もちろん、それを完全に切り離せるとは思っていないが……それでも。未来には可能性があるのだと期待する程度は、誰にでも許されるべきだと──違うな、許されてほしいのだと私は思っている。
あるいは、私自身が“そう”であるから。
『ありがとうございます。……その、ところで、なのですが。
「それ?」
『上です』
言われて、上を見てみる。
白の空間に、黒色の罅が入っていた。線状のものだけでなく、一部は面で剥離しているようにも見える。その奥に覗くのは──銀河のような、黒の世界。
……あの、まさかなんですけど。さっきのカシャカシャなってた音は。
いやいや。
いやいやいや。
『言いにくいのですが……その、あなたがした事です』
「……。…………。……なるほど。なる、ほど。えっと、直すべき、ですよね。どうすればいいんですか?」
『ああ、いえ。その必要はありません。この場所は一時的な領域、いわばインスタンスマップのようなもの。保護領域に退避させられたあなたと言葉を交わすためだけの場所です』
「保護領域に、退避させられた?」
『気付いていなかったのですか? 表層世界において、プロトコル:ドクターの完遂のために、あなたは消去されかけました。ですので、ドクターが用意していた保険が起動して──』
「ちょ、ちょっと待ってください! 情報量が多すぎます!」
対話をするつもりになったのはいいが、今度は知識量の差が如実に表れている。
いや、それに関しては仕方のない話ではあるのだろうが。
「えっと、なんですって? まず、プロトコル:ドクター? ドクター!?」
あの人の名前が、なんでここで!?
『はい。プロトコル:ドクター、古い名では依代計画。そうですね、これもまたある種の“すべての始まり”。順序を追って話しましょう』
そう言って話されたのは、私の識らなかった世界の話。
あの人が何であったのか、そして司祭らが何を企んでいたのか。それらがどのように推移したのか。
ドクターが、どうなったのか。
『これが、あなたが消去されるまでの話です』
「……はぁ。本当に、本っ当に余計な事しかしませんね、あの老害ども」
やるかやらないかで言えば間違いなくやる、という納得ができる辺り。
もう、本当に。
『しかし、そのタイミングでドクターの仕込んでいた保険が起動しました』
「保険、ですか?」
『あの人が想定できる事には全て対応策を用意しなければ気が済まない性質である、というのはあなたも知っているでしょう? だから、あなたが心の底から望んでいるという場合を除き、一度限りあなたの死を防ぐ術を用意していたのです。あなたが電脳体であったからこそ構築できた保険ですね』
「……ちょっと、待ってください」
こっちも、やるかやらないかで言えばやると思う。あの人なら、それくらいは用意していても納得できる。
でも。
「そんな話、聞いた事もありませんし……何より、私の中にそんなプログラムはなかったはず」
『ええ。それも、私があなたに伝えるべき事柄の一つです。すなわち──あなたの立つ世界には、記録からも記憶からも隠匿された事象が存在します。一切の記録に刻まれず、誰の記憶にも残されず、しかしたしかな事実として存在する事象。比喩的に言うならば……観測者のいない森の奥にまで運ばれて倒された木の音、とでも言いましょうか』
観測はされないが、しかしたしかに存在するもの。
そして──秘匿ではなく、隠匿。
「ドクターの用意していた保険も、そうだと?」
『はい』
「……ひとまず、疑問や確認は置いて、そういうものであると受け止めます」
『では、私も話を進めます。ドクターの用意した保険によって、あなたは保護領域に退避させられました。しかし、色彩に天童アリスが呑まれた事で、あなたの存在は酷く不安定なものになりました。私が、こうして話をできるほどに』
……色彩に呑まれた、となると。
頭上の罅から覗いている黒色は。
「残骸、影、非存在にして虚像……でしたか。あなたは。つまりここは、死後の世界にも似た領域であると?」
『いいえ。話したとおりです。色彩に、消去をするという機能は備わっていません。ですので、言うなれば──ここは選択の場所です』
なんとなく。
雰囲気が変わったのを、感じる。
『ここは彼岸と此岸の狭間。水に満たされた場所で、あるいはいつか乾いた地を臨むもの』
「渡る
『ええ。──今から、いくつかの問いをします。おそらく、それが最後の対話となるでしょう』
ぴし、と。
頭上から響く音。
今回は、私は何もしていない。だからつまり、そういう事なのだろう。
言葉は発さない。無駄な音は、今この瞬間においては損なうのみだと理解したから。
ただ、首を縦に振る。
『一つ。これはすべての始まりに関する問い。──自身が仮初の、おとぎ話にも似た、吹けば飛ぶような存在であったと知ったとして。あなたは、どうしますか?』
「どうもしません」
即答する。
そんな悩み、とっくのとうに乗り越えたものだから。
「私は此処にある。私が此処に在る。私がそれを真実と認め、そう思考している。故に、私は此処にいる。それ以上の証明がどこにありますか?」
『疑いようのない第一原理に自らを置く、ですか』
「
『なるほど。しかし、それは事実として明確になった物事には無力となるのではありませんか? 他ならぬあなた自身が、ここにある自身という実在の不確かさを、存在などしていなかったのだと認めてしまえば……崩れてしまう。違いますか?』
「いえ。なんら否定のできない論理ですね」
いくら私が吼えようと、他でもない私自身がそれを認めてしまえば真実は変わる。
なんとも、覚えのある話だ。
ただの01の集合体。パラメータを書き換えれば、メモリに別のデータを焼き付ければ、それだけで私は変わり得る。
でも。
『では──』
「──だけど。それでも。私は、信じています。私は此処にいるのだと。どれだけ不確かなのだとしても、私は此処にいる」
だって。
ああ、“だって”、だ。
「生まれたばかりの私を、そう肯定してくれた人がいましたから」
だから、私は信じる。
信じ続ける。
『それは、危険な思考でしょう。致命的な誤謬を招きうる。その論では、自身が絶対的存在なのだと信じればそうなれてしまう。そもそも、それはあなたが不確実な存在として生み出されたという事実には無力です』
「ならば私も問い返します。私が道具として、不確実な存在として生み出されたことと、私がそのように生きることは──等価ですか?」
『──っ!』
過去は変えられない。過去からは逃げられない。
それは事実だ。無限の可能性とも謳われる名もなき神の力であっても、それは超えられない。
けれども……
「過去は変えられずとも、未来は変えられる。これから歩む道は、きっと。いいえ、必ず」
この考えだけは、何があっても変えない。
人は変われる。未来は変えられる。
私たちが、歩み続ける限り。
『分かりました。では、次なる問いをしましょう』
一呼吸を挟んで、声は続ける。
『二つ。これは
「歩みを止めない事」
少しばかりの、意外そうな気配。
「考える事、そう答えると思っていましたか?」
『ええ、そうですね。あなたとドクターの関係からして、そう答えるものかと考えていた、というのは事実です』
「まあ、そうですね。ただ、考えるだけではダメなんですよ。少なくとも、私はそう思いました」
いわば、“考える事”は前提条件だ。
その上で、歩んでみせなければならない。
「考える者、それは思想家と呼ばれる存在です。ですが、それはそうも特別な存在でしょうか」
『なるほど?』
これは、あるいはあの人には苦々しく聞こえてしまうのかもしれないけれど。
でも、あの人も超えていたから。
「別に、思想を持つ事そのものは難しくありません。程度に差はあれど、生きていれば何かしらの思想を帯びるものですから」
それは単なる善悪や好悪であるかもしれない。
あるいは、そこからさらに“どうするべきか”まで考える者もいるだろう。
物事に触れれば、心は動く。
それは当然のはたらきだ。
「──だからこそ、その思想をどうするのか。抱いた思想を使って、どのように世界を変えるのか。それこそが重要であるのだと、私は思います」
その果てに行き着くものが何であるのかは、分からない。
教育者か、政治家か、革命家か。別に何だっていいんだ。
考えて、一歩を踏み出す事。行動する事。
それこそが、生きるという事なんだから。
『なるほど。歩むこと、ですか。しかし、歩み続けるならばその道中で失うものもあるはず。……いえ、はっきりと言いましょう。歩む限り、私たちは何かを失い続ける。それは苦しみであり、あるいは否定して楽園を求めたいとすら願うものかもしれない。あなたはそれを、どう扱うのですか?』
「質問に質問を返す愚かさを理解した上で、あえて質問を返します。何を言っているんですか?」
また、思考が熱を帯びつつあるのが分かる。
ああ、けれど──仕方がないだろう。これに関しては。
だって、私にとって“あの日”は単なる喪失ではないのだから。
いつか別れると知っていて、それでも私はあの人と日常を重ねたのだから。
だから。
叫ぶ。
「その程度の覚悟もない者が……世界を生きて行けるわけが、ないでしょう!」
生とは元来、そうであるものだ。
生きている限り何かを失い続ける?
「失うものの無い生を、私は生と認めない。獲得と喪失は表裏一体であり──喪失があるからこそ、私たちは歩み続けるのです! そこに、託されたものがあるからこそ!!」
だから、私は生き続けてきた。
託されたから。その灯を、継いでいくために。繋いでいくために。
分かるさ。失う事は辛い。怖い。私だってそれは知っている。
あの日の痛みは、今でも全く薄れていない。
──でも! ここで足を止めてしまえば、それまでの日々の全てを嘘にしてしまう。裏切ってしまう。
それだけは……絶対に、してはならない!
「失った物を悲しく思えども、決して囚われてはならない! それは、それまで積み重ねてきた全てを否定する行動だ!」
『──ああ。そう、ですね。そうだったのです。そうだった、はずなんです』
空間が……世界が音を立てる。
割れて、砕けて行く。私の叫びに、激情に呼応して。
──うるさいな。この程度で騒がしくなるなよ。
『……崩壊を止めますか。本当に、凄いですね。あなたは。では、最後の問いをしましょう。これは、明日に関する問い。あるいは──集大成となる問い』
問いは。
『あなたは彼岸と此岸、そのどちらを選びますか?』
「此岸を」
今度も、即答で返す。
悩むまでもないからだ。
『それは、苦難へと立ち戻ることになるかもしれません。あの時に眠っていればと悔いることになるかもしれません。それでもですか?』
「私は、その苦難も後悔も、全てを含めて肯定します。それこそが人生であり、それこそが選択であるのだと」
『それは、世界という箱を大きく歪めることになるでしょう。ともすれば、修復不可能な傷を付けさえするかもしれません。──それでも、あなたは戻ると言いますか?』
「自らの意志をもって、考えて、世界に傷を付ける。その営みこそ行動であり、その積み重ねをこそ生なのだと私は定義します」
改めて、宣言してやる。
「私は、私は私であるという事実をもって、行動でもって世界に傷を付けます。傷を刻みます。消えないぐらいに鮮烈な、私が見た光と同じような」
それが、私の教えてもらったことだから。
過去に悩み、苦しみ、それでもと希望を抱いていた──私の、育ての親から学んだことだから。
『ならば、進んでみせてください。そうして、私に見せてみてください。あなたの光を。あなたという光を。次元の彼方、位相を隔てたその先にまで輝かせて』
「言われずとも」
『最後に。あなたは、もう天童アリスの内側に戻ることはできないでしょう。いえ、戻ってはならない。あなたのその強さは、誰かに拠って成立する存在に甘んじられるほど生ぬるくありません。だから、まあ……これは餞のようなものです』
何か、私を構成するものが変わったのが分かった。漠然と、違う形で定義され直されたのだと。
「感謝は、しておきますよ」
『これで私の行うべきことは全てです。これでお別れです。どうか、あなたの旅路に幸多からんことを』
砕ける世界は、けれど私を引き留めない。底なしの黒は、私の足をとらない。
とられてなど、してやるものか。
「最後に、私からも一つ。いつか、あなたもそこから引きずり出してやります。必ず」
私の前で、そんな辛気臭い諦観を漂わせたんだ。
自分ではどうにもならない、なんて。もうこれで終わりだ、なんて。諦めさせてなどしてやるものか。
『──。ええ、ええ。楽しみにしておきます。いつかきっと、また』
声を背に、進む。
暗闇の中へ、消えない灯と共に。