──keyはたぶん、まだ死んでいないんです。だから──アリスに、あの人を取り戻すための時間をください。
そう口にした天童アリスが戦線を離れ、先生の隣で祈るように目を閉じた。
その、次の瞬間の事だった。
鳴り響くは、ガラスが割れる時にも似た音。
同時に、中空に罅が走る。空間が割れている、そう形容するしかない状態。
そうして……先生らが何かをするよりも先に、現れる。
真っ白に煌めく、少女が。
名も知れぬ声と別れ、舞い戻った世界。
まず見えたのは、随分と懐かしいデザインの廊下とDivi:sionの群れ。そして。
「key……さん?」
目を見開く、紺碧の瞳の少女。
「ええ。そうですよ、アリス。一応、はじめまして、になるんですかね」
オーエンではなくkey。それに、少しだけ成熟したような雰囲気。
あの声が言っていた話は、どうやら本当だったらしい。
「生きて、いるんですよね?」
「少なくとも、私自身は『私は生きている』と思っています」
「で、でもその身体は」
アリスの瞳に反射して映る、私の手。
指先や手の甲が不規則に揺らめいているのが見て取れる。あるいは炎のように。火の粉が舞い散るように。
いいや、指先とか、手の甲とかの次元じゃない。全身だ。脚も、胴も、髪も、全身の至る所から白が昇っている。
「まあ、色々あったのです。事細かに全てを、というのは難しいですが、順を追って説明させてもらいますね。……他の皆さんも、それでいいでしょうか?」
時間はそうない。とはいえ、話を省略し過ぎてもいけない。
必要な話はちゃんと網羅しなければ。
「まず、私の生存について──」
……あの声の主も、そうであったのでしょうかね、なんて。
話し終える。
「以上が、大まかな話となります」
伝えたのは、私がなぜ生きているのか。
隠匿された事象について。
私の身体について。
そして、どのように
向こうが知っていると聞かされていた情報については触れない。最低限、認識の擦り合わせを果たすことだけを優先する。
なにせ。
「声……?」
「依代の完成が近いのです。たった今あなた達に加わったばかりの私が言うのは変でしょうが──急ぎましょう」
オオオ、オオオオと。
重く、低く、おどろおどろしい声が響く。同時に、生温さを伴った強い風が吹き抜けた。
受ける印象は不吉さか、不穏さか、あるいは不気味さか。思わず目を逸らしたくなるような、肌を粟立てるような嫌な気配だ。
この先に進んでも何もないと、だから早く逃げ出してしまえと、無意識にはたらきかけるような感覚だ。
──都合、錯覚である。
依代の改造を行っている祭司。すなわち無名の司祭どもの紛い物が出している、嫌がらせの錯覚にすぎない。
故に……その全てを、睨みつける。
「この程度で、私の道を妨げられると? 対面すらせずに退けられると? ──舐めないでください」
途端に風が弱まる。気配が弱まる。
はん、意気地なしが。
今この瞬間、この領域において、私は
その意味を、思い知らせてやる。
「待っていてください、ドクター」
いつか、あなたは私が救いとなったと言いました。
けれど、その程度じゃ返し切れない恩があるんです。私はあなたから、それだけのものを受け取っているんです。
だから──必ず、取り戻してみせます。
プロトコル:ドクターが執り行われている儀式場は、すぐそこだった。
想起する。
『ドクターの魂は、色彩の内側を漂っています。ただし、広大な色彩から何の手がかりもなしにそれを見つけることは不可能でしょう』
それは砂漠から一粒を探し出すことであり、大海から一滴を汲み上げることでもある。
理論上は可能、技術的には可能……つまりは“やれるものならやってみろ”の類語。
『さらに言えば、あの人は本来この世界に存在し得ない魂。もと居た世界から送り出した者かこの世界に引き入れた者ならばともかく、そうではないあなたには荷が重くなるでしょう』
それはつまり、本来縁が結ばれるはずのなかった相手である、という事。
私であっても見落とす可能性が高くなる、という事。
『ですがそれは、手がかりさえあれば探し出せるということでもあります』
手がかり。
つまりは。
「依代、あるいはDoctor」
切り取って、断ち切ったのだとしても、そこには痕跡が残る。
私の役割は、それを辿ってあの人を探すこと。
唯一、この中で肉体を持たず、なおかつ名もなき神の力を振るえる私だけがそれをできる。
まあ、短時間であれば色彩に呑まれずに抗える、不壊に近しい次元の自我を持っているから……というのも追加であるらしいが。あの声の主いわく。
……私、そこまで言われる程ですかね。
「その間の時間稼ぎは、任せましたよ」
「任せてください!」
「うん。任せて」
アリスと先生の声を聞き届けて、意識を飛ばす。
構造体をすり抜けて、向かう先は黒の満ちる場所。宇宙のような、銀河のような、寒さと熱を持つ場所。
見つけてみせよう。
戦闘が始まった。
片方は、もはや人型であるという事が辛うじて読み取れる程度の
非対称な戦線は、しかし均衡状態を生み出している。
多勢に無勢でありながら互角に食い下がっている依代を褒めるべきか、世界の命運を背負っているという重圧下で僅かな綻びも見せない生徒たちを讃えるべきか……それは人によって分かれるだろうが、ともかく。
趨勢は、どちらにも傾いていなかった。
先生たちの目的は、時間稼ぎ。
keyが色彩のどこかを漂っているドクターを見つけ出し、連れ戻してくる。その瞬間まで時間を稼げば、先生たちの勝利となる。
戦闘中は依代の改造が遅くなる事、何よりkeyの存在があるからこその策であると言えた。
そして、この方針は生徒たちの動きにも影響を及ぼしていた。
端的に言えば、余裕ができているのだ。
これが依代を破壊しなければならない、という状況であれば、多少無理があろうと彼女らは攻勢に出なければならなかった。
だが、現状はそうではない。keyが戻ってくるまでを凌げばいいのだから。隙を見つければ攻撃する、という程度でも十分なのだ。
その余裕は呼吸を整え、視野を広くする。
必然的にミスは減り、連携はさらに滑らかになる。となれば、さらに余裕が生まれる。ある種理想的な循環が成立しつつあった。
無論、まったく攻撃しなければ依代の改造が進行してしまう、という制約はある。
とはいえ、それを踏まえても先生らには余裕があった。そも、先生らの勝利条件が時間稼ぎである時点で、互角の戦況は彼らの優勢とも言い換えられるのだ。
それも頷けよう。
さらにそこへ拍車をかけているのが、天童アリスの存在だ。
まず前提として触れておくべきは、彼女の強みが何であるのか、という話。
つまり、レールガンという超火力と、素の身体能力の高さについてだ。もっとも、レールガンを扱えている理由は身体能力の高さにあるため、統合してもいいのかもしれないが。
ともかく、それらが天童アリスという少女の強みである、というのが前提の話であるのだが……これまでの彼女には、それらを十全に扱うだけの能力がなかった。
スペックに任せてのごり押し、とでも言おうか。
どのように身体を動かすのが効率的なのか、最大のパフォーマンスを発揮するにはどうすればいいのか。そういった領域への理解が不十分であったのだ。
が、現在、彼女はそれらの能力を急激に伸ばしつつあった。
理由は単純、keyの記憶を追体験したという一点に尽きる。
ただし、その記憶には『ドクターとkeyの行っていた戦闘訓練も含んだ』という枕詞が付くが。
無論、追体験したとはいえ実際に身体を動かしていたわけではない。色々な事情が重なった結果のイレギュラーであったため、そもそも彼女が望んで記憶を読んだわけではない、というのもあった。
故に、
想起し、取り込み、自らのものとする。
どのように身体を動かすべきか。どう最大のパフォーマンスを引き出すか。感覚によらない徹底的な合理化の図られた戦闘訓練は、教材として一級品であったのだ。
さて、元より肉体の性能だけで戦っていた少女に、戦術性という要素が加えられた。
その結果がどうなるかは──先日の美甘ネルとkeyの戦闘を思い出せば分かりやすいか。
「そこです……光よ!」
今もまた、そうだ。
ネルの動きに合わせた、直撃を狙わない射撃。置いておく形の射撃。
至近距離で叩き込まれるネルの銃撃は確実なダメージとなるが、下手に回避すればレールガンの一撃に巻き込まれる。
多少の被弾を受け入れて依代が上へと逃れれば、待ち受けるはトキのアビ・エシュフによる集中砲火。
それによって動きが鈍れば──
「魔力充填100パーセント……行きます! 光よ!!」
本命の最大火力が、青白い光条を残して撃ち込まれる。
丁寧に組み立てられた、見事な戦術であると言えよう。
ここに加えて先生の指揮までもが加わるとなれば、まあ。
「行ける……?」
次第に動きを鈍らせる依代へ、誰かが呟く。
少しだけ拍子抜けしたような、しかしたしかな期待の籠められた言葉。
事実、先生たちは着実に依代を追い込んでいた。
だから、その言葉は間違いではなかった。そのまま行けば、依代を抑え込むどころか無力化までして、keyの帰還を確実に待つことまで可能だったろう。
ただ一つ、見落としさえなければ。
ああ、ただ一つだ。たった一つを見落としさえしていなければ、可能であったはずだったのだ。
「──ぇ?」
呆けた声は、突如として全身に痺れが襲った事にか、あるいは響いた銃声にか。
あるいは──
誰もが、呆然と目を見開いてその光景を眺める。
たしかに、依代を追い込みはしていた。だが、それは決して大破させるためでは……再起不能なまでに破壊するためではなく、keyがドクターを連れ帰るのを待つためだったのだ。
依代は、しかし同時に彼の肉体でもあるが故に。
そうして、皆が一様に振り返るのだ。
銃声の源を。ドクターを大破させた元凶を。いつの間に変形していたのか、長大な砲身を覗かせる一機のAMASを。
──調月リオが仕込んでいた、その伏せ札を。
「っ、てめえ!! リオ!!!」
橙髪の少女が叫ぶ。
AMASへ向けられる吊り上がった瞳は、もはや味方へと向けるものではない。敵、より正確に言うならば裏切り者を見る眼だ。
否、彼女だけではない。
程度に差はあれ、誰もが同種の視線を浮かべていた。
なぜ、どうして、どういうわけで。
『これが、私の答えよ』
先生たちの誤算、あるいは見落とし。
それは、彼女の性質についてであった。
以前に述べていた通りである。
彼女は、反論が多い程度で止まるような
そして何よりも、目的のためならば最短の道を選択する。
将を射んと欲するならば、将を射る。段階を刻んだりしない。外堀を埋めたりしない。
回り道は、ほんの少しもしない。
そこにどれだけの犠牲が生じようと、犯罪行為に手を染めることになろうと、合理を基準に目的のための手段を選ぶ。
あるいは、目的のために手段を選ばない。
誰に理解されずとも、万人に“咎人”と罵られようと、誹りを受けようと構わない。
それが自身の為すべきことであるならば、理由としては十分。
加えて、彼女はそのあり方を変えるような出来事にまだ出会っていない。
あえて原作という表現を用いるならば──調月リオという少女は原作のこの先において変化していくのであって、現時点ではその性質のままである、という話だ。
自身が正しいと思っていた選択が誤りであったと突き付けられ、自身が誤りであると思っていた方法が世界を救い、そして自身にとっての罪の象徴から許されて……そういった諸々を経て、彼女は合理的であるか否か以外の基準を獲得する。
それらがないのであれば、当然ながら彼女は人道など気にしない。外聞など気にしない。
唯一原作から変わっていたとすれば、アリウス分校の主という存在しなかったはずの協力者が現れた事、その影響だろうか。
つまり、精神的に余裕ができる機会、大人の狡猾さに触れる機会があったという事。
それこそ、自身の性格を知っている者たちに怪しまれないようあえて一度揉め事を起こし、その上で折れることで油断を誘う、とか。
名もなき神の力を相殺するための
そういった心理戦を用いた策は、これまでの彼女にはなかった物であった。
──まあ。そういった諸々の重なった結果が、目の前の現状であった。
波乱は大きく、さらに大きく。
誰にも先を見通せないほどに。
待ち受ける結末は。
黒。黒。黒。
その中をかき分けながら、感じ取る。
──何か、事情が変わったと。
具体的に何が起きたのかは分からない。
ただ、色彩が退き始めたのを漠然と理解する。
「ドクター! どこですか、ドクター!?」
叫ぶ。
呼びかけることに意味があるのかは分からない。けれど、届く可能性を信じて声を出す。
……声を出さなければ不安に押しつぶされそうになる、というのも。あるのかもしれないが。
「ドクター!」
色彩が退く、それ自体はいい。
だがそうなった時に、その内にあった存在はどうなる?
思い浮かぶイメージは潮の満ち引き、その中でも特に強い離岸流。
通常の潮の満ち引きならば、むしろ海岸には貝殻や石など流されてきた物が残される。けれど強い離岸流は、むしろ海岸にあった物を沖へと流していく。人でさえ抗えない速度で。
この持っていかれるような感覚は、それだけの強さがあると思えるもの。
ならば、この中を漂っているあの人は。
「返事をしてください! ドクター!」
この辺りのはずなのだ。
依代から続いていた痕跡は、この辺りにまで伸びていた。だから、この辺りにあの人は──
『──はぁ、世話が焼けますね。貸し二つ、いつか我かあの方へ返すように、と。伝言しておいてください』
声と共に、白色が現れる。
細い糸のような、蜘蛛の糸か藁にも似た何かが現れて。そうして、引き寄せられる。
煤のような黒に覆われ、全体を半透明にした、けれどもたしかな色を持つ光。
私が一番最初に見た、温かな眩しさを。
「っ、ありがとうございます!」
何者かは分からない。それでも飛びつく。
意図を問う暇も、何もかもがもどかしいから。
「ドクター!!」
手を触れる。弱々しい魂の欠片に。
今の私は魂だけが浮いている状態。肉体はない。だから、触れられる。
「key……?」
声。まだ──意識は、残っている!
「そうです! 私ですよ!」
「なぜ、いや……生きて、いたのか。……そうか」
「あなたのおかげです。あなたのおかげなんです、ドクター」
「よかった……ああ、生きていたのか」
声は、酷く掠れている。
初めて聞くほどに弱々しく、ともすれば本当にあの人なのか疑ってしまいそうなほどに。
それでも、紛れもなくあの人の声だ。
ドクターの、もう二度と聞けないと思っていた声だ。
本当に、よか──
「よかった……これで、後腐れなく消えられる」
──え?
「ドク、ター? 何を」
「そのままだよ。私はもういい。だから、君だけで帰るんだ」
頭が、真っ白になる。
黒に満たされたこの場所で。ただただ、呆然と。
「本来、私はこの世界にいないはずの存在だった。信じられないかもしれないが、君は私がいなくとも」
「そんな事は聞いてないんですよ! そんな事は知ってます。あなたがキヴォトスの……いえ、“この世界”の外からきた存在だというのは既に知っています。前世というものを持つことも」
「なら、分かるだろう。私がいなくとも、この世界は問題なく回る。……いや、私がいない方がきっといいんだ。大丈夫だ、もうキヴォトスには先生がいる。子ども達を守り、教え、ともに歩んでくれる大人が」
肉体を介さずに触れ合っているから、分かる。
この人は、本心からそう言っている。自分はいない方がいいのだと。
「私がいなくとも、君は生まれていた。私がいなくとも、君は“自分”を見つけられていた。私がいなくとも、君は一歩を踏み出せていた。私はノイズなんだよ。分不相応な願望を抱いて、それに巻き込んで君を苦しめるだけの」
「そんなの、分かんないじゃないですか。だって」
「いいや。この世界で、唯一私だけは分かる。私だけは断言できる。私がいなくとも、世界に支障はない」
何が、ドクターにこうも言わせるんだ?
私の知らない何かがあるのか? いや、そうじゃない。そんなことは今どうでもいい。
「百歩譲って……千歩譲って、そうだったとして。それが、私に何の関係があるんですか? “この世界”にどんな関係があるんですか?」
「だから、私は本来いなかったんだから、私が消えたところで──」
「あなたは、生きているでしょう!」
叩き付ける。
声を、全身全霊で。
「既にこの世界にあなたの痕跡は残されています! 誰が何と言おうと、これまで生きてきたあなたが刻んだ足跡は! 今さらそこから逃げようとしないでください! 何より──私にとって、私の誕生において、あなたの存在は無視できないぐらいに大きいんですよ。それを『本来いなかったから』? ふざけないでください」
「だとすれば、それは錯覚なんだよ。key。偶然私がその位置にいてしまったというだけで、本来は私なんかがいなくとも君は生きられたんだ」
「……だから。それが私に何の関係があるのかと問うているんですよ。たとえそうだとして、それが私に何の意味を持ちますか? 今この瞬間、この場所にいる私は、あなたから教わったんです。自己とは何か、世界とは何か──そして、生きるとは何か。たとえあなたであっても、この事実は否定できません」
否定など。させてやるものか。
もはや、私にとってあなたはそれだけ大きな存在になっているんだ。私じゃない私の話なんてどうでもいい。そんな可能性、だから何だと言い返してやる。
「断言しましょう。あなたと出会わなかった私は、あなたに育ててもらえなかった私は私じゃありません。よく似ているだけの他人です。そしてそれは、この世界もそうです」
「それでも、私の存在が君の妨げになったのは事実だ」
「だから自ら死を選ぶ、ですか? ──馬鹿なんですか?」
沸々と、湧き上がる。
そこまで想ってくれているのは嬉しい。ああ、素直に嬉しいさ。
でも。
「誰にも迷惑をかけず、誰の妨げにもならずに生きられるわけがないでしょう。それでも明日を望むからこそ、私たちの生に意味は生まれるんです。第一、私の消去は司祭の差し金だったんでしょう? それであなたが死を選ぶなんて、馬鹿みたいじゃないですか」
「私はもう嫌だと言っているんだ。馬鹿でいい。愚かでいい。報いなどなくていいさ。もう十分だ。これ以上何かを失うぐらいなら、失う可能性があるのなら、私は──」
ああ、もういい。
そっちがそのつもりなら。
大きく、息を吸い込む。
「──甘えるな!」
失うぐらいなら歩みを止める?
ああ、つい最近も聞いた気がする言葉だ。そして、どうして誰も彼も本質を見誤っているんだ。
「それが、それこそが生だ! 傷付き、失って、苦しんで、それでもと手を伸ばす。明日を目指して歩み続ける。どれだけ強い向かい風が吹いていても、目が開けていられなくなったとしても、たとえ脚が折れたとしても! それでも! 私たちは逃げてはならないんです。──生きることから、逃げようとするな!!」
「……っ」
「かつて、あなた自身が言っていた事です。“それがどれだけ苦しいことでも考えなければならない。苦しいからこそ目を逸らしてはならない”。そのあなたが生から目を逸らして逃げ出して、どうするんですか!」
ここで眠りたい? 消え去ってしまいたい?
そうすれば、これ以上傷付く事はないから?
ふざけるな。
少なくとも、あなたには……あなたにだけはそんな事は言わせない。
「あなたが、それを教えてくれたんですよ。……苦しいからこそ、歩き続けなくちゃダメなんだって。そうやって前に進む人の眩しさを。──その憧れを。あなたが私に見せてくれたんです」
ずっと、ずっと。
それは、私の真ん中にあるんだ。どれだけ暗い闇の中でも、苦しい喪失の中でも、終わりの見えない微睡の中でも。それでもと進むための光だったんだ。
生きる
「それを……嘘に、しないでくださいよ! ドクター……!」
どうか。あなただけは、それを否定しないで。
酷な願いだろう。醜く、浅ましくすらあるかもしれない。
でも──あの日々を、温かく眩しい日常を、過去に苦しみながらも明日に希望を抱いていたあなたを。否定だけは、しないでほしい。
ああ、なんてことだ。身体はないはずなのに視界が滲む。嗚咽が抑えられない。
みっともない。子どもみたいだ。そうじゃなくて、私はこの人を連れ戻しに来たはずなのに。感情まかせに叫んで、挙句の果てに泣きじゃくって。
なんてざまだ。
「そう、か……そうだったか。ああ、そうだったのか」
数秒ほど、沈黙が満ちて。
小さな呟きが、あの人からこぼれて。
「……key」
呼ぶ声は、静かだった。
けれども……それは、懐かしい響きで。
「すまなかった。履き違えていた。そうだったな──私は。
どくんと、鼓動を刻むように。
消えかけていた色が、鮮やかになる。
息を吞む。
「今度こそと、届かなかった希望を目指して。君の前を生きて行こうと」
ああ。この色だ。この光だ。
私のはじまり。ずっと傍にいた、柔らかな眩しさ。
「key──こんな私でも、いいのだろうか」
「そんなあなただからですよ。そんなあなたが、いいんです」
「ならば……どうか、一緒に生きてほしい。きっと俺は、また違えそうになると思う。だからどうか、傍で見ていてくれ」
「喜んで」
即答する。
迷いなどするわけがない。あなたも望んでくれるのなら、私はいつまでも隣にいるとも。傍で生き続けようとも。
魂が人型をなす。
私の見知ったあの人の姿を。私の、親の姿を。
「──帰ろうか、key。キヴォトスへ。私たちのあるべき場所へ」
差し出された手を取る。
光は、すぐそこにあった。