いつか人となるあなたへ、祝福を   作:RH−

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再出発

 

 青年は沈んでいた。

 泥のように。黒の中へ。

 

 そのまま消え去るつもりだったのだ。

 だから、沈んで、意識を手放して、そうして消え去ろうとしていた。

 

 後悔はある。否、後悔しかないと言っていいだろう。

 何を為せたわけでもない。ただ何も果たせず、何もかもを台無しにした。彼から見て、自身の人生とはそのようなものだったのだ。

 

 だからこそだ。

 だからこそ彼は、自らを殺す道を選んだ。

 

 この先に道は続いているのかもしれない。

 ここは終着点ではなく、もしかすれば続く未来に幸福があるのかもしれない。

 

 それを理解した上で、その上で消失を選択した。

 そんな漠然とした希望では足りなかったからだ。そんな定型句では満たされなかったからだ。そんな幸せを享受する資格など自身にないと判じたからだ。

 

 もとより人にすらなれていなかったのだから、と。

 分不相応な望みなど抱くべきはなかったのだ、と。

 

 自分を完全に救えてもいなかったモノが誰か(key)を救おうだなんて、なんて馬鹿らしかったのだろう、と。

 

 

 ──その誤謬に気付けなかった事が、全ての誤りだったのだ。

 

 

 希望は絶望と同義である。

 期待は落胆と等価である。

 

 少なくとも、彼にとってそれらはそのように定義されていた。

 

 だから彼は、自身の全てを『思い上がりであった』と断じた。

 こうして何もかもが変わったのだから、前世とは違い、自分にも何かできるのではないかと──そう行動した自身の全てを。

 

 希望は抱くべきではなかった。期待は描くべきではなかった。

 得色成人の世界において、そんなものは無かったのだから。

 

 

 ──ずっと、夢を見ているようだった。

 

 

 青年にとって、それまでの行動はどこか楽しさを帯びたものであった。

 初めて抱く夢のために行動する事は、それまでにない充実感をもたらした。

 初めて抱いた感情は、そのどれもが心地よかった。希望、期待、願い……困難を前にそれらを抱く事の、なんと甘美であった事か。

 

 だから……一歩ずつ進んでいるような、満たされていくような感覚があったのだ。

 

 あるいは、それは事実でもあったのやもしれない。

 心を棄て去り無色となった彼にとって、それらはどれもこれも“人間らしい”ものばかり。ある種の憧れ、羨望の対象として映るような代物であるのだ。

 だから、人でなくなった彼がそれらを抱く事は、人へと近付く事は……進んでいると、満たされていくと感じるものであったのだろう。

 

 ああ、けれど。

 けれど、だ。

 

 

 ──人の夢でさえ儚い、なんて言われるのだ。人にさえなれていなかった私がそれを抱くのは、やはり分不相応だったのだろう。

 

 

 まるで一夜の空騒ぎであったかのように。熱に浮かされて見た幻覚であったかのように、希望は砕けた。

 後に残るは、より深い絶望のみ。

 

 故に彼は眠りに就こうとして……しかし、触れられた。

 

「ドクター!」

 

 呼び名は、懐かしき響き。

 響く声は、懐かしき色。

 映る色は、懐かしき眩しさ。

 

 紛れもなく、それは彼の求めていたものであった。

 失ったと思っていた、彼にとっての希望そのもの。救いをくれた生きる縁。

 

 そうして彼は、突き付けられるのだ。もっと根本的な、致命的な誤謬を。

 

「──甘えるな!」

 

 叩き付けられるは叫び声。

 その()に伝わるは激情の強さ。

 

 目を覚まさせるには、泥濘の微睡を吹き飛ばすには十分にも過ぎる意志が、そこにあった。

 

「それが、それこそが生だ! 傷付き、失って、苦しんで、それでもと手を伸ばす。明日を目指して歩み続ける。どれだけ強い向かい風が吹いていても、目が開けていられなくなったとしても、たとえ脚が折れたとしても! それでも! 私たちは逃げてはならないんです。──生きることから、逃げようとするな!!」

 

 鮮烈であった。

 苛烈であった。

 そして──熾烈であった。

 

「かつて、あなた自身が言っていた事です。“それがどれだけ苦しいことでも考えなければならない。苦しいからこそ目を逸らしてはならない”。そのあなたが生から目を逸らして逃げ出して、どうするんですか!」

 

 彼にとっては古い鏡だ。

 過去の自分自身が吐いた言葉が、たった今牙を剥いている。その鋒を突き付けている。鋭く、光を湛えて。

 

「あなたが、それを教えてくれたんですよ。……苦しいからこそ、歩き続けなくちゃダメなんだって。そうやって前に進む人の眩しさを。──その憧れを。あなたが私に見せてくれたんです」

 

 無論、言い訳はできた。

 それは彼自身の吐いた言葉ではあるが、しかし『前出生人』という存在をエミュレートして吐いた言葉でもある。役を演じているのと同じだ。

 あるいは、だからそれは自身の考えではないのだと否定をすれば……突き付けられた(言葉)は逸らせるのだろう。

 

 keyと過ごした日々、その全てをただの演技であったとしてしまえば。

 

 

「それを……嘘に、しないでくださいよ! ドクター……!」

 

 

 できるはずなど。

 できる、はずなど。

 

 日数にすれば、その日々はわずかなものであった。一年どころか半年もなかっただろう。

 けれども、その日常は温かいものだった。眩いものだった。こそばゆいものだった。

 

 それは彼女にとってだけでなく、彼にとっても。

 

 かつて無名の司祭がこの地平から淘汰され、幾星霜もの月日が経った。その間AL-1Sの意識は眠っており、ドクターの意識もまた眠りに就かされていた。

 だが、keyだけは唯一、その日々を起き続けていた。生き続けていた。休眠状態へ入る術は残されていたのに、彼女は意識を途絶えさせなかったのだ。

 かつてすごした黄金(こがね)色の日々が有ればこそ。彼女は狂気に囚われず、悠久の月日を乗り越えられた。それだけの重みを、彼女は見出していたのだ。

 

 そしてそれは、彼女だけでなく彼もまた。

 

 大切であった。

 否、大切であるのだ。過去形などでなく、今なお。彼が彼女へ救いを見出し、彼女が彼へ光を見出した、そんな日常が……何よりも尊く、大切であるのだ。

 

 そして、その日々の全てが『何かを失おうとも、その痛みを抱えて歩み続けなければならない』と叫ぶのならば──青年は。

 いや、()は。選ぶ道など決まっている。

 

 そうだ。もう、目逸らしは十分だ。

 

「そう、か……そうだったか。ああ、そうだったのか」

 

 Doctorとなってからずっと、薄れ続けていた実感。どこか俯瞰的に、自身の感情でさえも他人事(三人称)のように見るようになっていた。

 自身は道具であるから、と。たとえ記憶が続いていようと、己は沼男にすぎないのだと。そう暗示していた。

 

 生きている実感だ。自身がドクターと呼ばれていたその者であるという実感。薄れていたそれを取り戻す。

 どこか俯瞰的に自己を見つめていた、目を逸らしていたソレを取り払う。俺は道具ではなく、断続もしていない……一続きの存在であるのだと。

 自己の定義を、改める。

 

「……key」

 

 呼びかける彼女は、涙を流していた。

 顔を酷く歪めて、胸元を押さえるようにして。

 

 ああ。そうだった。

 

「すまなかった。履き違えていた。そうだったな──私は。()は、そう在ろうとしていたんだ」

 

 俺は、そんな風に泣いてほしくなくて。

 この子に苦しんでほしくなくて、自らを“ドクター”と改めたのだ。最初の一歩はそこにあった。

 

 救いたいだとか、救われた恩を返したいだとか。

 そんなものは最初は無くて、ただこの子に笑っていてほしくて。得色成人のような苦しさを、苦痛を苦痛と思わぬ道具になどなってほしくなくて。

 無垢で白紙であったこの子が自分を持って、そうして笑っていられるように。

 

 そうなってほしかった、ただそれだけだったんだ。

 

「今度こそと、届かなかった希望を目指して。君の前を生きて行こうと」

 

 俺には、(得色成人)には届かなかった。

 いや、目指しすらしていなかった。目指す事すらできていなかった。

 

 だから、あの時に一歩を踏み出したのだ。

 ああ、そうだった。

 

 実際に届くのかなんてどうでもよかった。

 そもそもすべての始まりは偶然だった。

 

 それでも留めていられないような衝動、激情を抱いたから。

 この子が俺を仰いでくれるというのならば、それに足るだけの存在になろうと。

 

「key──こんな私でも、いいのだろうか」

 

 恐怖はある。

 たとえ司祭らの細工であろうと、俺のせいでこの子が死にかけたのは事実だ。それは間違いない。

 

 だから、怖い。素直にそう言う。

 俺は恐れている。

 

 はじめは無い状態であったからこそ。この温もりを、眩しさを知ってしまったからこそ。

 やはり、希望は絶望と同義だ。期待は落胆と等価だ。

 

 そうでないものを知ってしまったから、そうである状態へと戻ることに苦痛を覚えるようになった。

 

 でも、それでも。

 それでもを望むのなら。

 

「そんなあなただからですよ。そんなあなたが、いいんです」

 

 ならば──是非も無いだろう。

 

 もはや迷いはない。道は定まった。俺の成すことは決まった。

 この子がそう言ってくれるのなら、この暗闇さえ切り裂いて。憧れられるに足るだけの存在となってみせよう。

 

 それこそが、俺の果たすべき責任であると知った。

 だって、あの日々は嘘じゃないんだから。

 

「ならば……どうか、一緒に生きてほしい。きっと俺は、また違えそうになると思う。だからどうか、傍で見ていてくれ」

「喜んで」

 

 結局のところ、俺の在り方はメッキだ。

 この子の前で振る舞っていたのは、『俺の中にある前出生人(前世の同僚)』を演じていたペルソナに過ぎない。いわば、俺の中にあった憧れを出力していただけだ。

 まだ、俺は成長できているとは思えていない。

 

 だが、それでも──俺は肯定する。

 

 偽物が本物に勝らないとは限らない。

 憧れが現実に至らないとは限らない。

 

 世界を渡りて転生することすらあるのだ、全ての事象はありえるのだろう。

 アイツ風に言うのならば……『憧れが理解から最も遠いと言われるのは、それが出発点であるからこそだ。目指す先を見失わない限り、そこから歩み続けるのならばいずれ辿り着けるに決まっているだろう』、か?

 

 

 だから──俺も、いつか人となろう。

 

 

 憧れて、歩んで。

 苦しんで、歩んで。

 傷を負って、それでも歩んで。

 いずれ辿り着くその瞬間まで、歩み続けて。

 

 辿り着いてみせよう。

 

「──帰ろうか、key。キヴォトスへ。私たちのあるべき場所へ」

 

 道は定まった。

 俺は喪失(未来)への恐怖を抱えて、その上で歩いていく。この子のように。どこまでも強く育った、keyと共に。

 

『いつか人となる。その選択を己は祝福しよう──成人』

 

 何かに背を押されるような感覚と共に、一歩を踏み出す。

 黒色の中にあっても、繋いだ手の熱はたしかにあった。

 

「ここが新たな一歩だ。──ならば。さあ、“再出発”と行こうか!」

 

 

──*──

 

 

「空間が、崩れていく……!?」

 

 調月リオの凶手によって一変した状況。

 それは、更に更にと加速しながら変化を重ねていた。

 

 一つは、一行の中に生じた不和。

 人が集まる以上、そこに思惑の違いが生じることは仕方がない。同床異夢、面従腹背など世の常だろう。が、リオは土壇場で裏切りに似た独断専行をはたらいたのだ。

 さすがにそう簡単に割り切れるものではなかった。

 

 一つは、依代の動き。

 リオの一手によって大破したからか、依代は暴走したかのように暴れ始めたのだ。やたらめったらという表現が似合うその様は、少なくとも尋常のソレではないと読み取れるもの。

 加えてリミッターが壊れたのか単純出力も上昇しているようであり、動きが読みづらいことも相まって、先生らは以前のように抑え込むことができなくなっていた。

 

 そして最後の一つが、冒頭の先生の言葉。すなわち、空間の崩壊である。

 依代は不完全な状態であり、よって依代を破壊すれば現在顕現している不完全な色彩もまた退散する……というのはマルクトの言葉の中にもあったが。

 それが引き起こされた形であった。

 

 

 シンクホールと言うべきか、あるいはもっと直接的にブラックホールと言うべきか。依代の奥に開いた穴へと、空間が呑み込まれる。

 鳴り響くは放電にも似た轟音。空間が砕けては剥離する度に、途轍もない音が立てられる。

 剥がれた空間の奥に覗くのは、穴と同じ黒色、すなわち色彩の姿だ。黒一色であるが故にその動きは捉えづらいものだが、目を凝らせば凄まじい速さで流れていると分かるだろう。

 

 そしてそれは、空間だけでなく依代もまた。

 

 激しく暴れるほどにより強く、その身は穴へと引きずり込まれてゆく。

 この場に顕現していた色彩を縫い留める、楔にも似たはたらきをしていたからだろう。あるいは空間よりもなお強く、見えざる手が掴んでいるかのように、依代は黒へ呑まれる。

 

 誰が見ても分かるだろう。もはや手遅れだ、と。

 空間の崩壊は止められない。色彩に引きずり込まれる依代は止められない。もう、そんな事を試みる猶予でさえも残されていない。

 

『──っ、先生! 撤退を!』

 

 これ以上は空間が持たない。そして、離脱が間に合わなければどうなるか分からない。

 そう判断したヒマリが、通信越しに呼びかける。色々と言いたい事はあるし、keyもまだ戻ってきていないが──しかし、と。

 せめて今現場にいる者たちだけでも生き残らせなければ、という判断の下の言葉であった。

 

 彼女もまた技術者。

 いざという時に冷酷(現実的)な判断を下せる能力は有していた。

 

 が、そこで想定外な動きを見せる者()()がいた。

 

「──行きます」

 

 一人は、天童アリス。

 何かを感じ取ったのか、普段の天真爛漫さが引いた凛々しい表情で──少女は駆け出した。

 向かう先は当然、空間の引き込みの中心点。穴と呼ぶべき流出点だ。

 

 言い換えれば、本来の色彩の内側だろうか。

 

 床だけでなく砕けて剥離した空間まで足場にしての動きは、誰にも引き留められないほどに迅い。

 

「みんなは撤退を始めておいて」

「せ、先生!?」

『先生!? 何を──』

 

 もう一人は、ヒマリに呼びかけられていた先生その人。

 生徒たちの呼び止める声を背に、彼は駆け出す。迷いのない疾走は、誰にとっても想定外であったが故に引き留められない。

 単純な速度では遅くとも、心構えができていなかったのだ。盲点であった、とも言える。

 

 とはいえ、このタイミングでそれを行うのは自殺行為に等しい。まさかそれを先生が行うとは、中々予想できないものだろう。

 

 

 さて、となれば話は残された面々に移る。

 ゲーム開発部の面々──モモイ、ミドリ、ユズ──と、ネル、それにエイミとトキの6名だ。通人越しのリオとヒマリから撤退勧告を受けており、なおかつ先生からも先に撤退するよう指示された6人は、はたしてどうするべきか逡巡を……しなかった。

 

「行こう」

「お姉ちゃん……?」

「よく分かんない事は多いよ? でもさ……これでエンディングなんて、納得できないじゃん! アリスを追いかけよう!」

 

 感情論であった。

 あるいはリオの最も嫌う、合理性の欠片もない感情論であった。

 

 だが、それは感情に根差しているからこそ、人々の心を動かす。特に、アリスと親しかった者たちには。

 

 先生に一歩を遅れる形で、ゲーム開発部の3人が穴へと飛び込んだ。

 

「だあ、もう! あっちはあたしが行く! エイミだったか、そっちは退路の確保を頼んだ!」

「……分かった」

 

 そして、最後に放っておけなかったネルが駆け出し──そうして、一同の動きは確定した。

 それぞれの選択は吉と出るか凶と出るか。先に待つは鬼であるか蛇であるか。

 

 終わりは、近い。

 

 

 




明日の更新は定刻(18時)から少し遅れるかもしれません。
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