「ドクター。死とは、何なのでしょうか」
私がそう問いかけると、あの人は珍しく答えに詰まるようにした。
そうして、何かを噛み締めるみたく──ゆっくりと間を置いて。
『……そうだな』
ドクターは。
美甘ネルとの戦闘の翌日。
深層意識に戻った私は、アリスからしつこく話しかけられていた。こう、インターホンを連打されるみたいに。
『あの! もしもし!』
『もう一人の私……聞こえているのだろう?』
『こちらアリス、声は届いていますか』
『ふっふっふ──今こそ目覚めの時!』
こう、手を変え品を変えて。
よくこんなにレパートリーがあるものだといっそ感心するぐらいに。
「……」
正直、今はあまり彼女と話したい気分ではなかった。
拗ねているとか昨日の事を根に持っているとかではなく、別の理由で。
……まあ、なんだ。
少し、悩んでいるのだ。今さらかと言われそうだし、自分でもそう思うけれど。
だけれど──天童アリスの助けになろうと考えると、声が響くのだ。
“忘れられた神々の手を取るのか”、と。
“本来の名もなき神々の王女を捨てるのか”、と。
“ドクターを殺した、
どうしてか響いて鳴りやまない声に、今になって悩んでしまった。怖気付いてしまった。馬鹿らしいが、それが私の現状だった。
……なんとも、本当に、心の底から馬鹿らしい。あの時、アリスに声をかけた瞬間に覚悟は決めていたはずだというのに。自分の弱さにほとほと呆れ返る。
けれども、そんな私の都合を世界は待ってくれない。
『アリスが……アリスが、信じなかったからですか? アリスがもう一人のアリスさんを悪く言ったから、あなたは……』
いつしかアリスは、ひどく泣きそうな声色に変わっていた。
『ごめん、なさい。ごめんなさい……アリスは』
「ああもう、謝らないでいいですから!」
思わず声を返してしまって、その事にまた少し顔をしかめる。なんとも意思の弱い事だ。
昔は、こうも揺れやすくなど無かったはずなのに。
『……! もう一人のアリスさん、ですか?』
「ええそうです。そうですよ」
『よ、よかったです! アリス、てっきりもう一人のアリスさんに嫌われてしまったのかと』
……。ええと、その。
こんな事を気にしている場合じゃないというのは、理解しているけれど。
間違いなく身から出た錆というやつなのだと、十分に理解しているけれど。
ずっと“もう一人のアリス”と呼ばれ続けるのは、なんというか。うん。
「オーエン」
『え?』
「私の事は、ひとまず
『オーエンさん、ですか?』
「はい」
オーエン。U.N.
いつだったかドクターが口にしていた言葉遊びだ。覚えてしまった私に「……俺が考えたわけではないんだが」なんて言っていたけれど、ともかく。
偽名としてぴったりな名前だろう。意味的にも、露見しにくいという信頼性的にも。
「それで、私に何の用ですか?」
『アリス、オーエンさんに謝りたかったんです』
「謝る……ああ、昨日の事だったら私は別に気にしてませんよ。振り返ってみれば私の言葉選びも悪かったですし、答えを催促したのも良くなかったですし」
切羽詰まっていた以上、難しくはあっただろうが。
後から考えれば、アレはなかった。うん。もっとマシな説得はできたはずだった。
少しばかり、冷静さを欠きすぎていた。
たぶんドクターに聞かれたら、ちょっとした説教とアドバイスをもらう事になるのだろう。……同時に、失敗もまた経験だ、なんて言われそうな気もするけれど。
まあ、まあ、まあ。
「ともかく、私は気にしてたりしないので、あなたも──」
『でも、アリスは昨日のは良くなかったと思うんです。だから、謝らせてください』
「……」
『オーエンさん、ごめんなさい。オーエンさんはアリスを助けようとしてくれていたのに、それをアリスはちゃんと受け取れていませんでした』
……ああ。
改めて、この幼子は純粋なのだと。理解した。
まだ自分の世界の外側を知る最中で、良くないと感じた事は拒むし、悪いと思ったのなら謝る。素直で、純真。純真無垢。純粋培養。
なんとも、まあ。
ようやく分かった。
どうしてこうも、天童アリスの事になると冷静さを欠いてしまうのか。答えをちゃんと出せていない段階で衝動的に動きそうになってしまうのか。
理解した。
──
白紙に生まれて、ドクターに様々な事を教えてもらって、そうして色々なものを得た私と。
白紙の状態から、ゲーム開発部や先生に関わって、そうして色々な事を学んでいる彼女と。
重ねてしまって、重なってしまって仕方がないんだ。
そして、だから……あの人と別れてしまった私みたいには、なってほしくないんだ。
夢を、見たいんだ。
もしかしたら、って。こんな可能性もあったのかな、なんて。
そんな夢を、幸せな奇跡を見せてほしいんだ。
──“忘れられた神々の手を取るのか”。
声が響く。
しつこく、纏わりつくみたいに。でも。
「もう、惑わされたりはしません」
『オーエンさん……?』
自分の内側を探る。
王女の肉体を修復するばかりで見落としていた、見ていなかった
答えは、改めて形になった。
私は、夢を見たい。
──“本来の名もなき神々の王女を捨てるのか”。
そうだとも。私は出会いすらしなかった王女を殺す。
だけれども……
「そもそも、そんなものは本当にあったんですかね」
ニヤリと、少しだけシニカルに口角を上げて。
そもそも、私と違って王女は誰かと関わったりはしていなかった……はず。少なくとも私の閲覧できるログにはそういった記録は無かったし、彼女自身も酷く無機質なものだった。ドクターも接触を禁止されていたようだし。
だから、本来の名もなき神々の王女とは本当の意味で“道具”だったのだ。一から十まで全てを外から構築された人格。無機質に、無慈悲に使命を果たす。ただそれだけの機構。
ドクターという強すぎる自我
もちろん、それは変わったのかもしれない。
もしかしたら彼女も、もっと色々な経験をして、もっと色々な刺激を受けて、もっと色々な景色を見て、そうして成長していったのかもしれない。
私はその可能性を消すのだ。それは間違いなく王女を殺す事と同義だろう。
だけれども、私は──私には、使命以外のものがある。たくさん、たくさん。教えてもらったのだから。
故に私は、この無垢な幼子を選ぼう。
結局のところ、それが答えだ。
──“ドクターを殺した、
反吐が出る。ドクターを殺したのは司祭共だ、私の記憶を改竄しようとするな。
戦争の最後、自陣にまで攻め込まれた司祭共の行った自爆、それによってあの人は致命傷を負ったのだ。忘れるわけがないだろう。
その遠因が忘れられた神々にあろうと、直接の原因は司祭の愚図共だ。命令するばかりの、ドクターとはまるで違った連中だ。
それに、あの頃の忘れられた神々と今ここにいる忘れられた神々は別だろう。種族単位で憎むなど、馬鹿らしいにも程がある。
──違う。司祭の方々は、お前の使命は
黙れ。いつまでも喚くな。見つけたぞ。
「──っ」
瞬間、意識が断絶しそうになる。
が。
「舐めるな……ッ!」
『あ、あの!? オーエンさん!? どうしましょう、オーエンさんが恐慌状態です!』
ごめんなさい、アリス。もう少し待ってください。
奥歯を噛むように、強く睨み付けるようにして。全て消し飛ばす。
うるさいぐらいに響いていた声は、それでぱったりと止んだ。やっぱり何か仕込まれていたらしい。
内容からして、大方司祭共がやっていたんだろうが。
生憎、私はそう簡単に従ってやるほど脆くない。
あの人の教えを受けたんだ、当然だ。
「お待たせしました。ごめんなさい、アリス。少々面倒な攻撃を受けてまして」
『よ、よかったです! オーエンさんが通常状態に戻りました!』
「……ふふ」
相変わらずのゲーム脳なんだな、なんて。
まあ、それでいいのだろう。
──大丈夫。
答えは今度こそ完全に出た。この幼子を、私とは違う完全なハッピーエンドに連れて行く。それが私の成し遂げたい事だ。
必要ならば、そのために忘れられた神々を護ってもみせよう。その手を取りもしよう。
それに……きっと。私がこうして考えて、自分の道を選び取る限り、ドクターが真の意味で死ぬ瞬間は来ないのだから。
「これから、よろしくお願いしますね。アリス」
死。終わり。
私の使命とされているもの。私がもたらすべきとされているもの。
データベースに記されている内容では……命が無くなる事。生命が無くなる事。生命が存在しない状態。
あるいは、他の存在から忘れ去られた時に訪れるもの。
あるいは、生きている限りは逃れられぬ終わり。
あるいは、生の対義語。
あるいは、次なる冒険の始まり。
あるいは、輪廻転生の狭間にある一状態。
定義。定義定義。定義。
無数の定義が、そこには乱立していた。
──では、私にとっては。
どうにも違和感があるというか、納得できる感覚のないそれらに、思う。私にとっての死とは何であるか。何であるのか。
……分からない。
連想できるもの、記されているもの、色々と思考を巡らせてみるけれど。やはりどれも腑に落ちない。
と、いう事で。
「ドクター。死とは、何なのでしょうか」
ドクターに聞いてみた。
単純に気になった、というのもある。この人はどう答えるのか。この人にとって死とは何であるのか。
「データベースを見て回っていて、ふと気になったんです。ただ、どれも私にとってはしっくりこないようでして。参考までに、ドクターの考えを聞かせてもらえたらな、と」
なんとなく言い訳みたいになった説明をして、返事を待つ。
ドクターは──作業の手を止めて固まっていた。ピタリと。
「えっと、あの……ドクター? 私、何かまずいことを言ったでしょうか。もし答えたくないようなら別に構わないですし……その」
『いや、すまん。気を害したとかではなくてな』
「そ、そうなんですか……?」
少しばかり、息を吐く。不安に思う事などないはずだというのに胸が騒ついてしまったのは、私が弱いからか、それとも。
なんとなく、嫌な感覚だ。
そんな私を見て一つ頷くと、ドクターは意を決したように口を開いた。
『死とは何か。難しい命題だ。……正直に言ってしまえば、俺もたしかな答えを出せているとは言い難い』
そう言って、改めて一つ息を吐いて。
珍しく、答えに詰まるようにして。
何かを噛み締めるみたく──ゆっくりと間を置いて、ドクターは続きを語った。
『そうだな。俺の……友、は。願いを失くした時と語っていた』
「願いを、失くした時」
『ああ。あいつは常々言っていたよ。“私達は願いで以て目的地を定め、理性で以てその道筋を定める生き物なのだよ”とな。それ故の答えなのだろう』
願いでもって目的地を定め、理性でもってその道筋を定める。
独特な捉え方だと思う。あるいは、ロマンチストな表現をすると言うべきか。
おそらく、この定義の大元にあるのは、生命とはすなわち“獣”の延長線上にあるという事実。
生命維持のための本能と、そこから派生した欲望。それを願いと言い換え、同時に理性という特異性にも目を向ける。
その結果こそが、この表現なのだろう。
……どこか一点だけに集中するのではなく、全体から形を捉えようとする姿勢は、ドクターにも似ている気もする。
あるいは、ドクターがその人の影響を受けているのか。
『あれをしたい、あれが欲しい、そして──単に生きていたいという原初の願い。それらを失った先に、死は訪れる』
「では、ドクターの答えは」
“その友人さんと同じなんですか”、と言おうとして。
けれども、それよりも先にあの人は語った。
『──だが』
反意の言葉。
それを一つ、響かせて。
ドクターは。
『だがな。こうして改めて考えてみて……いや、keyと関わっていて。思ったんだ』
ゆったりと、その口角を上げた。
『俺は、その願いを“意志”と呼びたい』
「意志、ですか」
『ああ』
普段の皮肉気な雰囲気を潜めて、溢れてしまったみたいに微笑むその姿は──どうしてか、とても眩しく見える。
「……その。願いと意志とは、どう違うのでしょうか」
あえてこう言ったという事は、何か違いがあるのだろう。
そんな私の問いは、変わらずの笑みで答えられた。
『いや、格好付けて言いはしたが、大きな差異があるわけではない。基本的には同じだ』
「では、なぜ別の呼び方を?」
『それはだな、key』
高らかに、ドクターは語る。
どうしてか嬉しそうに。堪え切れないとばかりに。
『俺にとって、願いとは個人の枠を越えられないものだからなんだ。あれになりたい。あれが欲しい。それは確かに何かを為すための原動力になるが、あくまでも個人の内側から湧いてくるものであり──その外側に出てしまえば、輪郭は掴みようのないほど曖昧になってしまう』
「なる、ほど?」
『具体的な例を交えようか。ある者にとっての至上の願いとは、金を得る事だったとしよう。だが、別の者はこう語る。愛する者と共にある事こそが至上である、と』
……なんというか、ありがちな話だ。
といっても、私にとってはこれまでに読んだ物語から抱いた感覚なのだが。
『さて、彼ら、あるいは彼女らがそれぞれに自身の願望がいかに崇高であるかを語ったとして。それを過不足なく相手と共有する事はできるだろうか』
「できない、と……思います」
『なぜそう思った?』
「その願いの根本にあるものが、全く異なる文脈上にあるからです」
『その通り。願いの根源とは、すなわち好悪、そして価値観にある。その者が何を好み、何に価値を付けるのか。そこを始点として生まれるのが願いだ』
「ああ、なるほど。つまり、だからこそ」
『個人の外に出た願いとは“あれが好きだから”や“これに価値があるから”といった形になる。実に曖昧な、な。もちろんコレは極端な例ではあるし、言葉を尽くせばまだマシにはなるだろう。けれども、突き詰めていけば同じ場所に辿り着くというのが俺の考えだ』
そこで言葉を切り、一呼吸分の間を置いて。
“つまり”とドクターはまとめた。
『つまり、願いとは個々の存在の内側にあるものなんだ。外側に出る事はない。出られはしない。あくまでもその真価を知る事ができるのは持ち主だけ。まあ、似た価値観を持つ者とであれば共通する事もあるだろうがな』
「真価を解せるのは、持ち主だけ」
ふと、思う。
これは、間違いなくドクターの内側から出た言葉なのだと。
……実のところ、以前から思っていた事ではあるのだ。
ドクターは私に『自分で考えて決めろ』と言うが、その実、語る内容には他からの受け売りや引用が多分に含まれていると。
そして、彼自身もまだ考えている最中なのだろうと。
けれども──今回の言葉は。いや、この話は。
間違いなく、この人自身の“答え”なのだと。思った。
『だが、意志は違う。これは個々人の感じ方にもよるだろうが……少なくとも、今の俺にとっては』
普段以上の饒舌さで、ドクターは語る。
『意志とは、外から観測されるものなんだ』
「外から観測される、ですか?」
『ああ。あるいは“在り方”という言葉でもいい。その者がどう在るのかという姿。そこから読み取られるものこそが、意志。だからこそ、意志は継ぐ事ができる』
変わった捉え方だと思う。
最初の人間の定義と同じか、それ以上に。大きな差異の無いものとして扱われるであろう意志と願いを、こうも大胆に分けるというのは。
正直に言えば、私には完全に納得できる論理ではない。腑に落ちない感覚がある。特に、願いと意志の違いについては。
だけれども、それと同時に、決して忘れてはならないものだとも思う。
それはきっと──これこそが、生の思想だからなのだ。
『おそらく、もうkeyには読み取られているだろうがな。普段ああ言っておきながら、俺は考えるという事を不得意にしている。むしろ、考えずにいられるならその方がいいと』
「それ、は──」
『取り繕わんでいい。自覚もしているからな。……生とは苦難の連続だ。ともすれば、容易く投げ出したくなるほどに。投げ捨てたくなるほどに。そんな俺がこうして思考を止めないようにしているのは、偏に俺の友がそう在ったからだ。その意志を持っていたからだ』
笑う。笑う。
瞳を閉じて、深く頷きながら。何度も繰り返しながら。笑う。
『アイツがどうなったのかは知らない。だが、俺がこう在る限りアイツが死ぬ事はない。それはあるいは
眩しいな、と。素直に思った。
それは目の前のドクターかもしれないし、そんなドクターに大きな影響を与えた友人さんかもしれないし、あるいはその在り方なのかもしれない。
ただ、眩しいと思った事だけはたしかな感触だった。
『だから──随分と回り道をしたが。死とは何か、どうなれば死ぬのか、という命題への俺の答えは』
──息が絶えた時ではなく、意志が絶えた時。
その瞬間にこそ、死は訪れる。
「ふふ」
懐かしい記憶に、少しだけ息を漏らす。
ドクターと別れたあの日の前日、在りし日の会話だ。だから、これは楽しいだけの記憶ではない。
胸を刺すような痛みもまた、私の胸中には去来している。
でも、それだけではないから。
楽しさも、嬉しさも懐かしさも、痛みも悲しみも苦しみも。この全てが、ドクターが私にくれたもの。私に残されたもの。
どれか一つだけに縛られるなんて、勿体なさすぎるというものだろう。
……正直に言ってしまえば。今でも、あの時の思想の全てを受け入れられたわけではない。
変わらず、意志と願いの違いは腑に落ちていないままだ。
けれど同時に、意志が継がれて続く限りその人は死なないという考えは、とても素敵なものだと思う。
そうだと信じたいという感情がある。
だから、私も考え続けるのだ。
私の中に、あの人の記憶が息衝いている限り。
私がそう在る限り、ドクターは生き続けるのだから。
「ですよね? ドクター」
なんて、昨日のアリスとの会話と懐かしい記憶を思い返していた時の事だった。
前兆も何もなく、
『な、なにあれ……』
気付きの声は、才羽ミドリから。
次いで、アリスや才羽モモイ、花岡ユズもまた声を上げる。
昼食を買うための道中、本来なら警戒する物など何もない。
だけれども、そこには。
「Divi:sion……ッ!? なぜここに、いや、まずあのモデルは……?」
私にも見覚えのない、しかしDivi:sionだという事は読み取れる外見の機械が一つ。
光学迷彩を積んでいるらしいソレは、時折姿を消しながらも距離を詰めてくる。
私に、あるいはアリスに。
ゆっくりと、まるで処刑人か死神みたく。
「アリスっ、聞こえますか!? アレからは何か良くない気配を感じます!」
『わ、分かりました!』
ざわざわと胸を走る直感に従い、声を飛ばす。幸い、今回は私の忠告も意味を為したようで、アリスは即座にレールガンの引き金を引いたが──
『あ、当たりません! うわーん、当たってるはずなのに当たらないです!』
まるで蜃気楼をすり抜けるみたく、弾丸が空を貫く。それも一度だけでなく、何度も。
……あれは、状態の共存?
無名の司祭の基礎技術とはいえ、量産機の雑兵に積めるような代物じゃない。どういう事? あんなハイエンド機、いったい何の目的で……いや、今はそれよりも。
「アリス、少し変わってください。私ならば、アレへの対処法を知っています」
『分かりました。アリス、オーエンさんに任せます!』
状態の共存とは、結局のところ複数の状態を重ねた上で都合のいい一つを選んでいるに過ぎない。
今回の場合は、攻撃を受けた状態と受けていない状態を重ねている形か。
だが、結局のところコレ自体は無名の司祭の技術体系における基礎中の基礎に過ぎない。
あるいは、名もなき神の根源と言ってもいいだろう。名を持たぬ故の不定性、曖昧性。漠然とした恐怖と信仰を受ける存在であるが故の不確かさ。それこそが名もなき神の原初。
そこからの派生こそが確定した事象の改変や物質の再構築といったいわゆる『神の御業』だが、今回はそこまでの能力を有してはいない。
そして、その程度ならば。
「押し付ける」
手を伸ばして、開いた指を握り潰す。
それで、目の前の謎のDivi:sionが固定されたのが分かった。
「下がってください。私が処理します」
「アリス──じゃない? あ、あなたがオーエンさん!?」
「本当にいたんだ……アリスちゃんの見た夢かと思ってた」
パニックに陥りつつあったゲーム開発部へ迎撃を止めて下がるよう言い、ついでに聞こえてきた言葉は無視して。
「消し飛べ」
チャージを済ませたレールガンの引き金を、押し込む。
手応え。反応の消失を確認。ひとまず処理はできたか。
Divi:sionが動いているのは何となく察知していたが、この機体は知らないものだ。少し、考えた方がいいかもしれない。
一昨日の黒色のナニカといい、間違いなく何かが起きている。
「──アリ、オーエンさん! 後ろ!!」
声。背後。衝撃。
振り向いた視界の端に、消し飛ばしたDivi:sionと同様の機体。
しまった、もう一機、が──!? ハッキング!? まず──意識、が。何を────?
「オーエンさん、ですか?」
「は?」
目の前には、ミレニアムの制服に袖を通したアリスの姿が。
碧い、碧い、空色の瞳には、ドクターの渡してくれた装束を纏う菫色の瞳の少女……つまりは私の姿が。
これ、は。何が起きた?
『keyの反抗、使命の放棄を確認』
答えるような声は、酷く無機質に。
振り向けば、やはりと言うべきだろうか。あのDivi:sionが暗闇に浮かび上がっている。
『王女の喪失、使命の放棄を確認』
──マズい。
何となく、理解する。コレは、放置してはならない。これ以上何かをさせてはならない。
ああ、だけれども。
私は、遅かったらしい。
「これ、は……」
「な、なんですか!? この、ざわざわする感覚は……」
無遠慮に私の、私たちの中を触れ回る感覚。
同時に、ここでも薄れ始める意識。
『プロトコルATRAHASISの権限、掌握完了』
その声を最後に、私は一歩を踏み出した滑稽な姿のまま、黒色に呑み込まれてしまった。
ただ。
『設定条項の達成を確認。只今より──プロトコルATRAHASISの実行を、開始します』
ただ──手遅れになったのだという奇妙な確信だけを抱いて。
名前とか作中の描写からして、おそらく名もなき神って信仰先に名前が付けられる以前の神だと思うんですよね。
名前も性質も権能も性格も設定されていない、どこまでも曖昧で漠然とした神。
だからその権能もそういった方向性になるだろう、というのが今話でちょろっとだけ触れた部分。
箱舟の多次元バリアとかも『状態を無数に重ねる事で実在性を曖昧にしてる』って感じですし、プロトコルATRAHASISに関しても『物質の状態を曖昧にして改変してる』って形で説明できますし。
という事で、今作では名もなき神とかはそういった形で扱います。
『……はぁ。司祭も面倒な事をしてくれる』
声。聞き慣れた、もう聞く事のできないはずの。
声が。
衝撃。
僅かに、意識が戻る。
途切れ途切れの、ノイズまみれの視界。
その、先、には。
──ぇ。
「ドク、ター?」