学園黙示録 ‐Crosser of the DEAD‐ 作:浜田猫@執筆中
「英雄ってさ、なんだと思う?」
受験勉強の最後の追い込みの時期のことだ。普段から勉強の習慣はつけていたので、周りのクラスメイトみたいに落ち武者と見紛うほどに追い詰められてはいなかったが、アホらしい質問をにやけながら吹っ掛けてくる男に構っていられるほど暇でもなかった。
「…………神の血を持った半神半人のことでしょ。そんな質問で得意げにならないでよね、その顔ムカつくから」
とはいえ、会話すら出来ないくらい追い込まれていると勘違いされるのも癪だった。嫌々、渋々、といった様子で、なるだけ簡潔に答えた。
「よく知ってたね。そう、元はそう言う言葉だった。けど時代や人と文化文明の流れによって、他の言葉と変わらず『英雄』という言葉の意味も多少変化したのさ。
英雄って言うのは、姿や存在はどうあれ人間を救済する人間のことなんだ」
形は問われない、如何に些細なことでもいい。人に何らかの影響を与え、結果その人をある状況から救うことが出来るのならばその人物は英雄となる。
彼の古の時代。龍が空を往き、魔法が飛び交う神代を生きた英雄は、神の血をその身に宿す存在としてその圧倒的な武力や加護を手に人々を救ってきた。
だが今や、進化論が成立し天皇が神性を否定して久しいこの島国では、唯一神はおろか八百万の神などという存在ですら人々に届きにくくなっている。正しい意味での英雄など、この国では望むべくもない。
そして時代は変わっている。現代で過去の英雄が成し遂げたことと同じことをしようと思えば、あえなく国家権力のお世話になることは目に見えている。何故ならば彼らは、殺すことでしか人を救うことが出来ないからである。
英雄とは争いの中に生まれるものだ。
窮地を覆す圧倒的な力の具現。人々が望んで、それが再現された存在が神代を生きた英雄たちなのだ。
今の常識で当てはめてみれば、彼らは単なる殺戮者に過ぎない。
その殺戮者を英雄と呼ぶのならば、現代では、およそ殆どの人間に英雄となる機会が与えられる。
何せ今の世の中は、声ひとつで国が消せてしまえるほど、人を殺す技術が発展してしまっているからである。
伝説の剣も、必中の弓も必要ない。
ミサイルひとつ飛ばせば、それを防ぐ術のない国はひとたまりもなく、地図上から姿を消すことになるだろう。
そこに大義名分があれば、その人物は英雄である。
だが逆に、その行為を止めることが出来るならば、消えるはずだった国にとってはその人物がまた英雄となる。
そんな些細なことで英雄になれるのならば、最早今の世に英雄と呼ぶべき存在はありはしないのだ。
英雄など、必要ない。
―――だがもし。
仮に。もう一度神代を再現したような事態に陥った場合、現代の英雄とは一体、どんな姿をして現れるのだろうか。
そんな話を、後部座席から聴こえてくる声にうんざりしながら思い出した。
ひねた笑みを浮かべて、説教するように新聞に悪態をつく悪友の言葉は、しかし彼女を納得させるに足りていたため、話の内容はわりと鮮明に憶えていた。
骨川スネ夫。
あれほどリアリストな夢想主義者に、今後の人生で出会うことなどないだろう。
高城沙耶は、ここにいない悪友の顔を思い浮かべ、眉を曇らせた。
……
高城沙耶は、悪友である骨川スネ夫にはあまり好い印象を抱いていない。
彼女が関わる人間の中で、その性格の悪さは間違いなく不動の最低ランクに位置づけされているし、なによりあの見透かしたような卑下た物言いは聞いていて不快になる。
だがどうにもその言葉を否定できないのは、高城自身の価値観と骨川の価値観が似通っているからだ。
あれはただ口が悪いだけで、実はきちんと物事を把握して考えた上で喋っている。
だから滅多に間違ったことは言わないし、間違うときは反論まで用意してから間違える。
高城が持つ骨川スネ夫の印象は、彼と初めて会ってから一度も変わっていなかった。
“狡猾で臆病なロマンチスト”
それか、ただのナルシストね―――高城は一人で、勝手にバスを出て行った悪友を馬鹿にするように笑う。
ただ、高城は彼の人間性まで否定しようとは思わない。
何故かは高城自身にもはっきりとはわからないが、多分それは、彼が常としている言動とは裏腹に、時折顔をのぞかせる小学生のような子供っぽさがあるからだろう。
高城はふと後ろを振り返る。
そこでは紫藤が、バスの後部座席周辺に集まる生徒連中に熱弁をふるっていた。
やれ『団結』だの、やれ『皆で力を合わせよう』だの、効果的に生徒たちを煽っているように見えた。
……英雄、ね。
高城は「なるほど」とぼやいた。
「醜悪ね」
「……高城さん?」
「なんでもないわ。ただ―――昔ちょっとだけした話の答えが、少しだけ見えかけただけよ」
意味深な言葉に、隣に座る平野が太い首を傾げた。
わかるはずはないのだ。
いいや、わからないでいい。
……現実なんて、きっとそんなものなのだから。
2
「醜悪だ」
大通りの光景を見て、隣に立ったスネ夫がつぶやくように言った。
彼の目線の先。そこにあるのはこの世の地獄か、でなければ四次元を超えた向こうにある過去の戦争の記録。
怒号。悲鳴。骨と肉を打つ鈍い音。
鉄と脂の臭い。赤い血と、血。
そこには、死したのちに起き上がって人を食べる<奴ら>がいて、そして人間たちがいた。
「コイツらもうとっくに死んでんだ! 気にせず殴りまくれぇ!」
「うらぁ! 死ねっ、死ねよ!」
「く、はっはは! 血だぁ、血だよクソッたれ!」
手には武器を。突如として現れた暴力という名の侵略者を、彼らはさらなる暴力で迎え撃っていた。
まるで戦場の雰囲気にも似たおぞましさ。幸か不幸か、あの凄さを体験した僕たちにはそれが肌で感じ取れる。
倫理や道徳が消え去った悪。それに立ち向かう時、善人でありたいと思う者もやはり同じように人間らしさを捨て去らなければならないという、その絶望感までも。
スネ夫はその光景を目を細めて眺めていた。
「そんなこと言っちゃだめだ。あの人達だって、ああはなりたくなかったはずだよ」
僕は隣の友人から目を離し、しっかりと目の前の戦場を見つめた。
これが今、僕たちのいる世界。間違いなく、平和だったはずの世界。
自然界のヒエラルキーとは簡単なもので、食べる側か食べられる側に終始する。獅子は常に生きた肉を喰らい、彼らより下にいる者たちは為す術無く食べられる。
<奴ら>が歩くのが当たり前の光景になりつつあるこの世界でも、そのヒエラルキーがすでに成り立とうとしている。すなわち食べる側の<奴ら>と、食べられる側である僕たち生きた人間。
だが。人間は過去、自然界からの独立に成功した唯一の生物だ。僕たちにはものを考える意識があったし、決定するための知恵を持っていた。
そうして人類だけのヒエラルキーを完成させている。
ここで起きているのは、所詮その小さな輪の中で発生した逆転現象に過ぎない。
下剋上は暴力に打ち勝つ暴力だ。だがそうして勝ち得た僅かな栄光も、当然のようにさらなる暴力で抑止されてしまうものなのだ。
全ては紛うことなく人の営みである。
本能を制する理性を獲得しながら、その抑止力を捨て去り、裡にある狂暴性に身を任せた姿。
それはとても醜く、哀れなものだった。
「だからって、あんな間抜けな面で殺されたくはないね。僕は人間のままで死にたい」
「…………うん?」
なんだか、話が微妙に合っていないような気が……。
スネ夫は僕の顔を見ると、一瞬不思議そうな顔をしたあと、すぐに納得したように薄く笑った。
「ああ、お前は人間の方に同情したんだな」
「君は違うのか?」
驚いて、つい語調が強くなる。
「慌てるなよ、気づかれるぞ」
「――――……君は、じゃあ<奴ら>に同情したのか?」
「当たり前だろう。あんな馬鹿みたいな顔を曝して、挙句の果てにはあんな馬鹿面した人間に殺されるなんて虫唾が走る。彼らを可哀想だと思うのが普通だろう」
そう言って、スネ夫はもう一度前を見たあとに続けた。
「それに、あんなのただ人間が本来の姿に戻っただけじゃないか、同情するには値しないよ」
「本来の?」
「人間だって元は猿だ。彼らは野生、理性も何もない本能だけで生きていたんだよ。倫理も道徳もそこにはない、そんなものは理性と意識が生み出した社会通念に他ならないんだから」
「だからって、あの狂暴性は……」
「生命は急激に変化するようにはできていない。進化論でも言っているように、徐々に少しずつ遺伝子から変えていくんだ。ここ数時間の劇的な変化はもちろん、外敵から身を守るための進化なんかじゃない、そんなのは不可能だ。ならあれは元から持っていたものだよ。理性で抑え込んでいた、多分もっとも古い破壊衝動。人はあれこそを生存本能と呼んでるんだ」
「生存、本能……?」
生き続けなければ、という深層心理。脅迫的なその衝動は、こんなにも人を醜くしてしまうのだろうか。
「そうさ。でなければあれをなんと言う。そうとでも言わなければ救われないだろうよ」
誰もね、とスネ夫は言って踵を返した。迂回する気なのだろう、ここを通ることは諦めたらしい。
僕はその惨状を目に焼き付けるように眺めた後、スネ夫の後を追って引き返した。僕たちの中にも、いずれあんな風に生きることだけしか考えられなくなる人が現れるのだろうか、なんて不安に耳を傾けながら。
3
僅か一日で、バス内の勢力は完璧に二分された。人心を掌握することに長けた紫藤が宗教的に作り上げた独裁グループと、小室や井豪、高木を中心として結束したグループである。
圧倒的な支配力を見せた紫藤は、グループ内の生徒達に延々と演説を繰り返すことで、自分といることがいかに効率的であるか、生存の確立が高いかということを彼らの意識に刷り込ませている。
まるで宗教だ、と誰かが言った。すでに何度か命を危険にさらしてきた小室たちには、紫藤の言葉がどれだけ薄っぺらいものなのかがわかっている。反紫藤という形で決定的な結束を強めた彼らは、すでに生き残ることに不安を抱いていなかった。
だが、そうは考えられない者もいる。
「源、さんだっけ?」
窓際の席で、一人沈んでこうとしている夕陽を眺めていた源は、ふいにかけられた声に振り返った。
「D組の三枝。苗字、源さんだったよね」
「ええ」
三枝と名乗った男子生徒は、源の隣の席を指さして隣良い? と尋ねた。源が小さく頷くと、三枝はありがとう、と言って静かに座る。
「野比たちと仲良いんだよね、源さん」
俯き気味に訊いてくる三枝は、どこかおどおどしている様に見える。源は昔の野比の姿を思い出して、それを懐かしく思いながら頷いて返した。
三枝はあまりこれといった特徴のない男子だ。野比と同じクラスだからか、源は何度か彼が野比と一緒にいるのを見かけたことがある。似たような雰囲気を持った二人だから、もしかしたら気が合うのかもしれない、とその時源は思ったが、まるで野比が二人並んで立っているような気がして、とてもおかしな光景だった気がする。
三枝もまた、源を知っていたのは仲の良かった野比と彼女が話しているのを何度か見かけたことがあったからだ。その度に源との関係を野比に尋ねて冷かしていたのだが、今となってはその時間すらも懐かしく感じる。それがほんの、つい数時間前の日常だったというのが信じられないくらいに。
「何回か君と野比が一緒にいたのを見たことあったよ。野比にはいつも君との関係を訊くんだけど……あ、気を悪くしたらごめんね、でもあいつ、いつも顔真っ赤にしてオロオロするもんだから、俺たちも面白くなっちゃって」
「ふふ、想像できちゃうわね。のび太さんは裏も表も素直で、子供みたいな人だから」
「うん、正直なやつだよ。それでいいやつだ。
……なのにまさかあんな人たちと関係があったなんて、知らなかった」
あんな人たち、とはおそらく骨川と剛田のことだろう。どうやら三枝は彼らに対してあまりいい印象を抱いていないらしい。
無理もない、と源は思った。
「ねえ。三枝さんは、大人になるってどういうことだと思う?」
「えっ」
「あたしね、それがずっとわからないの。……長い間、もうずっと答えが出ない」
三枝は不思議そうな顔をした。源の言っていることの意味よりも、何故今そんな言葉が出てくるのかがわからないようだ。
「そんなの誰にもわからないよって、誰かが言ってくれた。みんなもそれに頷いてたわ。でもそれって、大人になっちゃった人が言えることなんだと思う。だってあたしは、みんなみたいに割り切れないもの」
「わり、きれない?」
「もうなんとなくわかってるのよ。それがどういうことなのか、大人になるってことがどういうことなのか、きっとみんな知ってるんだわ。だから考える必要がなくなったの。
今はもうあたしだけ。一緒にいてくれたとしても、子供のまま独り」
もはやそれは、源は独り言だった。だから三枝には何を言っているのかは理解できない。
それでも三枝は彼女が悲しんでいるということがわかったし――なぜだか、この子のそばにいなければ、と思ってしまった。
「俺は」
答えを出したい。この子を助けてあげたい。
三枝は、人間としてこうありたいと誰もが願うあり方を、こんな形で取り戻せるとは思っていなかった。
答えにならないかもしれない。助けにならないかもしれない。けれど、何かを言ってあげたかった。
「自分が子供なんだって、理解することだと思う」
三枝は思考を纏めるので精いっぱいで、源の顔を見ていない。それでも、息を飲む気配だけは感じ取れた。
源は三枝を見ている。でもその瞳は、目の前にいる誰かじゃなくて、どこか遠くを見つめているようだった。
「……それ、あなたが考えたの?」
「え?」
「なんで? なんで今、そう思ったの?」
思いの外、その声は冷たかった。
源の急な態度に戸惑いながら、三枝は考えながら言葉を繋げる。
「正直、大人になる瞬間なんて、その、人それぞれなんだと思う。だけど大人になるっていうのは、なんというか、子供じゃないとできないことだろ。
だから大人になるには、子供の自分を否定するんじゃなくて、えっと、子供の自分を肯定してやらなきゃいけないんじゃない、かな?」
「―――――…………そう」
何かを思い出そうとしているのか、源は静かに瞼を閉じた。
その姿に、三枝は思わず見惚れてしまった。友人の恋人だからと、源をそういう目で見たことは今までなかったが、多くの男子たちが噂していたのも頷ける。
こんな顔、女子高生ができる表情じゃない。
そう思った途端、ドクン、と収縮した心臓が爆発した。
三枝は思わず首を振って周りを確認する。相変わらず、後ろの方で紫藤が演説を続けていて、前の席ではなにやら小声で密談しているようだった。
(よかった、誰にも気づかれてないか……)
人間の心臓の音なんかどんなに大きくても外に聴こえるはずはないのだが、荒くなっていく呼吸を抑えるのに必死な彼は最後までそれに気づかなかった。
「……そうね、あなたの言うとおりだった」
そんな今にも死にそうな男子をよそに、呟くように源が言った。
◇
「その、みんなってどんな人たちなの?」
何とか立ち直った三枝は、自分の中の興奮を誤魔化すように話題を変えた。
野比の他にも知り合いがいるのか。そんなことさっきまでは全然気にならなかったのに、今はどんな人と付き合いがあるのか、なんて小さすぎることでも聞いてみたくなった。
そんな三枝の心情を知ってか知らずか、源は小さく笑って答えた。
「たぶん、あなたの想像しているような人たちじゃないわ。あたし、今はそんなに友だちが多い方じゃないから」
「そうなんだ。でも、学校の人なんだよね?」
「ええ。ひとりは口の悪い捻くれ者、もうひとりはすぐに手が出る乱暴者。でもとっても面白い人たちよ」
三枝は、自分の顔が引きつったのがわかった。
あまりにも、彼女の友人という人物の正体が想像しやすかったからだ。
「あの人たち、普段はいい人たちなのよ。のび太さんと同じくらい、優しくて勇気のある人たちなの。だからきっと、今度のことも必要なことだったんだわ」
三枝は驚いて目を大きく開いた。自分と同じように源も何も知らないと思っていたのに、その源が彼らを知っていて、さらに庇う言葉が出てきたことに愕然としたのだ。
源は小さく舌を出して言った。
「黙っててごめんなさい、あたしたち小学校からの幼馴染なの」
源の台詞に三枝はそうなの、と言って、哀れなくらい狼狽えはじめた。
「いやごめん、もし知ってたらさっきみたいなことは言わなかったよ。あ、いやだからって悪いって言ったわけじゃ、その、なくてね……」
あまりにもみっともなく慌てだすものだから、可哀想だ、と思いながらも源はつい込み上げてきた笑いを堪えきれなかった。その姿が、やっぱりどうしても野比にそっくりだったからだ。
くすぐられたように笑う源に、三枝はきょとんとして思わず彼女に見入ってしまう。
―――なんて、子どもみたいに笑うんだろう。
三枝は、こんな世界になって初めて見た、本当の笑顔のような気がした。
「いいのよ、あなたの思ってることもきっと本当だもの。あたしたちは色んなことがたくさんあったから、それを何度もみんなで一緒に乗り越えてきた。おかげであたしたちは、数年ぶりに再会しても絆みたいな綺麗なもので繋がることができてたわ。けど……」
源の笑顔に、ふと陰りがさす。
それを見ていた三枝にはわかった。彼女の笑顔は本物だ、本当に楽しい時にしか出せない顔をしている。でもそれが、どこか疲れを帯びたように感じたのだ。
「その下にあるものはとっても醜くて、汚いものだと思う。お互いに知らなくても、面と向かっただけできっとあたしたちはわかってる。あたしたちが一緒にいたのは小学校までだから。別々になった中学校で、きっと何かあったのね」
それを見て、胸が痛んだ気がした。三枝は今まで感じたこともない感覚に戸惑いながら、源の不思議な笑みから目を離すことが出来ずにいる。
三枝は少しだけ前の出来事を思い出した。事故だったと思いたい、もしくはなかったことだと思いたくて蓋をした記憶。
彼が仲の良かった友人は野比だけではない。源たちのように、それこそ小学校からの付き合いがあった友人が三枝にも二人いる。男二人と女一人、彼らは藤見学園に入学してからも交流が続き、半ば腐れ縁を自覚しながらも良き友人として付き合っていた。
その友人たちが付き合いだしたのがいつだったか、正確なところを三枝は憶えていない。気づいた時には急激に距離が縮まっていて、問いただせば付き合い始めたと事後報告を受けたのだ。
だからその関係がいつからなのかは知らない。――いや、より正確には、聞きたくなかった。
それが判明してしまうと、自分の罪がもっと重くなってしまうと思ったから。
付き合っているという報告を受ける一週間前、三枝は彼女を抱いていた。
事実、事故といえば事故だったと言っていいのだが、そんなことは最早関係ない。目の前で楽しげに会話する二人を見ている間、三枝はいつだって考え続けるのだ。
―――もしもあの日のことがばれてしまったら、俺たちはどうなってしまうのだろうか、と。
今となってはもうどうしようもないことだ。三枝がこのまま誰にも口にしなければ、あとはいずれ彼の死体と一緒に葬られるだろう。
なにせその友人たちは、もうこの世にいないのだから。
「なん、で」
何故、今こんなことを思い出したのだろう。ずっと自分の中に秘めていたい醜い罪を、何故彼女を見て思い出さなければならない。
三枝はそこで、この胸の痛みの正体を理解した気がした。
これは罪悪感。源にあんな顔をさせてしまった、その罪に対する意識がこの痛みを生んだのだ。
だが三枝は、どうして源の笑顔によって罪を背負わされるのか、その理由まではわからなかった。それがどうしようもなく、源静香に魅入られてしまったということに、三枝は気づけなかったのだ。
「どうしたの、三枝さん」
心配されても、彼は何も返せなかった。
―――“源さんも、何かあったの?”
ただ一言。云えていればあるいは答えは出ていたのかもしれないのに、やはり彼にはその役目は回ってこなかった。かつて同じ状況にいながら、やはり同じように気づけなかった彼にも、二度とその役目は回ってこない。
世界はきっと、こうなる前から残酷だった。
三枝はしかしそれだけは理解していて、源たちもそれを知っていたのだろうと思った。
4
稀里ありすはわけもわからぬまま、ただ父親の大きな手に引かれていた。
昨日の夜から何も入れていないお腹は、しきりにその状況を知らせてくる。それを無視しながら、ありすは文句ひとつ言わず懸命に父の背中を追い続けた。
幼いながらに彼女は理解しているのだ。
今が、前とは違うということに。
「少し休もうか、ありす」
ありすの父親は手近な公園に入ってベンチを探した。園内には人の姿もなく、また誰かの死体も見当たらない。すでに渇いた血の跡はあるが、他の場所と比べれば安全と言える。誰か近づいて来れば見えるし、休むだけならば申し分ない。
「疲れたかい?」
「ううん。大丈夫だよ、パパ」
ありすは心配する父親に笑って見せた。
「っ……そうか」
無理をしているということはすぐにわかる。それが、あまりにも痛々しい笑顔だったからだ。
父はそっと娘を抱き寄せた。
「大丈夫だよ。もうすぐ、安全な場所へ行けるから。そこならママもきっといるから、頑張ろうな」
「うん!」
その時、父は視界の端に見た。
植木の影からのそりと起き上がる人。外から園内に入ってこようとする人。
……ここにきて、気を緩め過ぎた。
「ありす、逃げるよ」
「え、パパ、どうしたの?」
すでに囲まれている。
走らなければ逃げられない。いや、走ったところで逃げ切れるかどうかわからない。
(くそ、なんてことだ……っ)
油断。一瞬の油断だった。
娘に辛い思いをさせた、その自分を責める暇があるのなら、なぜもっと早く気づかなかったのだ。
その思いが男の足を重くする。
気づけば、死人の手はもう目の前にまで迫っていた。
「パパ、この人たち、なに?」
「あ、ありすっ」
咄嗟に娘を庇う父親。そこにはもう、逃げ切ろうという意思はなくなっていた。
迫ってくる手。濁った眼と、糸を引いた牙が迫る。
――突如、獣の咆哮が聞こえた。
あまりの大きな音に、ありすたちは震え上がって身を固くしてしまう。
その間にも肉を叩きつけるような凄まじい音が続き、早く恐怖が去ることを祈って二人はお互いの体を抱きしめた。
数秒か、体感では十分以上にも感じたその時間は過ぎて、今での騒音が嘘のように静まり返った。
恐る恐る、男は辺りを見回す。
「ひぃっ」
夥しい数の死体。すべて頭が潰されていて、死んだ上に殺されていた。家の外だとか、娘の前だとかは忘れて、男は目の前の光景に恐怖する。
ただそれでも、咄嗟に娘の顔を隠すことだけは忘れなかった。
その時、荒い呼吸の音に気付く。音の元をたどると、そこに度肝を抜かれるほどの大男がいた。
右手に鉄の棒を持って、左手にビニール袋をぶら下げていた。
(あれが、殺したのか……?)
男も、世界が変わったことにはすでに気づいている。死体に噛まれ、そうして死んだ者は彼らと同じような存在になって、生きてる者に襲いかかってくる。
そんな映画みたいなことが現実に起こってる、そんな馬鹿らしい事実をすでに理解していた。なにせ彼は、この世で一番殺したくない人を一人、すでにその手で殺めているのだから。
あの男が死人を何人殺そうと、いまさらどうこう言う気はない。
「ありがとう、助けてくれて」
声は震えて、満足な大きさは出せなかったが、ちゃんと届いたようだ。大男は目線だけ男によこすと、頷きもせずにその場から立ち去ろうとした。
――ぐぅ。
が、その間抜けな音に足を止めた。
「パパ、ごめんなさい」
「ありす……」
いいんだよ、と父は娘の頭をなでる。
……今は助かったもののこれからどうするか。食料はないし、いつ襲われるのかもわからない。こうなってはまともに睡眠を取ることもままならないだろう。
どうやって生きていくのか、男は途方に暮れた。
「腹が減ってるのか」
鬼のような声だった。
男が見上げると、目の前に大男がいる。二メートル近くあるのではないか、というくらいの巨大な体躯。たしかにこれなら、人間くらいなら簡単に捻り潰せるのだろう。
「うわぁ、お兄ちゃんおっきいね」
知らない声に反応したありすは、父親の手をどけて大男を見上げた。
素直な感想を漏らすありすを、大男はしばらくジッと見下ろしてから左手に持っていたビニール袋を渡した。
「わ、わ。これなに?」
「食べ物?」
ビニール袋の中に入っているのは、カロリーばかりを重要視した手軽な食糧ばかり。正直栄養価だけで空腹はあまり満たされないが、それでもこの際贅沢は言えない。
「人のものだからって躊躇するな。そんなこと言っていては、もう生きられない」
「……ありがとう、ございます。ほら、ありす」
「うん、ありがとうお兄ちゃん!」
元気な声でお礼を言うありすを見て、大男は一瞬目を細めた。
そして大男はゆっくりと、ありすの頭に手を乗せる。その手は、少女の頭に乗せるには大きすぎる。
「大きくなれ」
呟くように、大男は言った。
「どうやったらお兄ちゃんみたいに大きくなれるの?」
「……まずは、たくさん食べろ」
ありすは大男からもらったビニール袋を見下ろした。それから父親を見て、最後にもう一度大男を見て、笑った。
「うん!」
それで大男は満足したのか、現れた時と同じようにあっという間に去って行ってしまった。
「おかえりジャイアン、通れそうな道は見つかったかい?」
「いや、こっちはまだ多い。別の道を探した方がいい」
そうか、とスネ夫は腕を組んで唸る。
はて。探索に言った時より、荷物が少ない気がする。
「ねえジャイアン、食料どうしたの?」
「…………落とした」
僕たちは驚いて、目を合わせた。
「あっちは予想以上に険しいみたいだね。あのジャイアンが荷物を手放すなんて」
「くわばらくわばら。ちょっと遠回りになるけど、やっぱりこっちから行こうか」
スネ夫はさっさとルートを変えて歩き出した。
そのあとを、ジャイアンがついて行こうとするのだけど。不思議なことに、いつも厳ついままで無表情なジャイアンが、心なしか少し安心しているように見えた気がした。