「やっぱり、まだ作業をしていたのね」
コーヒーを手に研究室に入ったアイゼは、文献に目を落とすジオリードの姿を見てそっと声をかけた。
「アイゼか。……すまない、もうこんな時間か」
煌々と明かりの灯る研究室の一角で、ジオリードは腕時計に視線を落とし小さく息をつく。
もうじきみな寝静まる時間だというのに、彼の机の周りには積み上げられた文献と情報を書き写し纏めたメモが散乱している。
彼らにとってはいつもの風景だった。
「努力家のあなたは素敵だけれど、でも無理はしないで」
心配そうに眉を潜めるアイゼからコーヒーを受け取ったジオリードは、少し困ったようにお道化ながら笑った。
「この時間まで起きていると美しい女性がコーヒーを淹れてくれる、努力家でなくても頑張るさ」
「はぁ……まったく。次からは睡眠薬も入れてあげるわ」
人前ではあまり見せない穏やかな笑みを浮かべたアイゼは、ジオリードがコーヒーカップを机に置いたのを確認して、そっと後ろから彼を抱きしめた。
「時間が足りないのよ。何もかも」
「私たちには永遠の時間があるというのにな」
「……それは、そうなのだけれど」
自嘲気味に笑ったアイゼは、ジオリードのすぐそばにあるメモに視線を落とす。
そこには昼間、弥生たちが仮封印してきた例の卵の詳細があった。
「この卵……やっぱりあの子の一部なのかしら」
「位置的に、ほぼ間違いなくそうだろうな。私たちをこのような身にした忌々しい鳥が、ついに目覚めようとしている訳か」
ジオリードがアイゼの手を握りながら顔を上げる。
その瞳は赤く、そして人ではない不思議な光を湛えうっすらと瞬いていた。
そのジオリードの瞳に呼応するかのように、アイゼの瞳もまた血のように赤く輝く。
「もうこれ以上先延ばしには出来んか。そろそろ本当に奴と蹴りをつけるときが来たようだ」
殺意を乗せてジオリードが囁いた。
アイゼはそんな彼を否定しなかった。
ジオリードが行くというのであれば、自分もまたそれに付き従うまで。
それが命を分かち合った二人が「人ならざる者」に姿を変えた日に交わした永遠の約束なのだから。
* * *
遥か昔。
――それこそ今からもう200年以上前まで時は遡る。
共にジオリードと錬金術の研究をしていたアイゼは、満ち足りた生活を送っていた。
愛情深く、そして才能に恵まれ自信家な彼は、アイゼにとってこの世で最も心許せる恋人であり、そして尊敬する研究者でもあった。
知見を得る事でまた一歩新しい世界の扉が開くかのように胸をときめかせ、共に成果を称え合い、喜びをかみしめる。
そんなふうに研究者として彼と共に研究に打ち込む日々はとても実り多く、楽しかった。
アイゼはこの過不足のない大いに満ち足りた日々を一日一日大切に生き、そしてこの先もそうでありたいと願った。
そしてまた《世界》も、そこに住む人々も同じように幸せな毎日を一分一秒でも長く過ごしてほしい。
そんな願いから錬金術で不老不死の身体を得る事ができないか、アイゼはジオリードと共に研究を始めたのだった。
そんな時に偶然見つけた、一つの大きな卵。
それは叩いても落としてもけして割れる事はなく、触れれば無機質ながらも中からは何か生命が蠢く気配がするという不思議な卵であった。
アイゼとジオリードは長らくその卵を観察していたが、卵が孵化する様子は一向になかった。
だが数年経っても卵の中身は息絶える事もなく、ただその中で身を潜め、時に生命を主張するかのように蠢く。
その卵は二人にとって、次第にとても興味深い存在となっていった。
栄養を補給する事もできず、ただ殻の中で蠢く謎の存在。
それは一体、どのようにして長い年月を生き延びているのだろう。
全く関連性がないと思われていたそれは、やがて不老不死の研究に役立つのではないかと思わせるほど、卵の中で生命力を蓄えているように感じられた。
アイゼとジオリードは、次第に卵の研究に熱を上げた。
中の様子を知る事ができれば、それが不老不死の薬や仕組みに役立つ可能性がある。
そんな思いから、いかにして卵を孵化させるかについて私たちは検討を重ねるようになった。
場合によっては何らかの圧力をかけて殻を割ってみてもいいかもしれない。
そんなふうに研究は毎晩遅くまで続いたが、どんなに寝不足であっても二人一緒の高みをを目指して理想を語り合うのは、とても楽しい時間であった。
しかし幸せな日々は唐突に終わりを迎えた。
卵に圧力をかけて割る実験の最中、想定外の爆発事故が起こったのだ。
気づいたときにはアイゼの身体は、ジオリードを庇うように彼の身体を外へと突き飛ばしていた。
目の前で彼が驚愕した表情を浮かべ、必死にこちらに手を伸ばす姿が見えた。
――これが、私が人として生きていた頃の最後の記憶。
ジオリードを庇った事に後悔なんて一つもなかった。
ただその代償に、アイゼは命を失った。
それだけだ。
しかし次の瞬間、無残に散った自らの亡骸の傍で涙を流す彼の姿をアイゼは虚空から眺めていた。
――なぜ? 私は死んだのではないの?
自身の亡骸はすぐそこにあるというのに、自我だけが今も空間に取り残されているような、そんな不思議な状態にアイゼは一瞬眩暈がした。
だがその眩暈を感じる身体がそもそも無いのだと気づき、アイゼは途方に暮れた。
そんな時だった、あの鳥の存在に気付いたのは。
『可哀そう。恋人が死んでしまって泣いているの? 僕が助けてあげようか?』
真っ白な羽をふわふわと纏った、小さな鳥。
まるで生まれたての雛のような存在のそれが、ジオリードに声をかけた。
「お前は何者だ…? どうして鳥が言葉を話す…?」
涙を拭う事すら忘れてしまったのか、ジオリードは虚ろな目でその鳥を見た。
小鳥は純粋無垢な瞳を揺らし、不思議そうに頭を傾けた。
『それって今重要なことかな…? 僕はたった今、あなた達が生み出した存在だよ。いうならばあなたがパパ、死んでしまったそこの女の人がママってところだね」
砕け散り粉々になった卵の破片の中で、小鳥は無邪気に笑う。
先ほどの爆発の影響だろうか、卵が割れて中から出てきたものがこの鳥であるらしい。
長年夢見た卵の中身は、相変わらず無邪気にジオリードに話しかけている。
『パパ、ママが死んでしまって悲しい? 僕、ママを生き返らせることができるよ?』
「なんだと…!?」
『ずっとパパもママもこういう時のために研究を続けてきたんだよね? 死ぬのは怖いもの。だから不老不死を願ったんでしょう? 僕、ずっとその願いを叶えてあげたかったんだ。パパも、ママが生きていたら嬉しいんでしょう?』
「彼女を……アイゼを蘇らせることができるのか?」
『できるよ。パパがそれを望むなら。でも、それには《可能性》が必要になる』
「《可能性》とは……?」
『簡単に言うとパパの命の源みたいなもの。それがないとあらゆる物はこの《世界》に存在すらできないんだ。だからそれを僕にちょうだい。くれるのなら……叶えてあげる、パパの望みを』
「《可能性》だろうと何だっていい! アイゼが蘇るのなら、私の命だろうと身体だろうとくれてやろう! だから頼む……アイゼを、彼女を返してくれ……!」
『わかったよ、パパ。まだ間に合いそうだし、僕やってみるね!』
小鳥がアイゼの方をちらりと見て無邪気に微笑んだ。
死んだ自分の存在を認識している事にも驚いたが、生死の話を前にしても何一つ怯まず、ただ無邪気にジオリードの願いを叶えようとしている小鳥の姿に、アイゼは身体が存在していないながらも身震いのようなものを覚えた。
斯くして、奇跡は起こった。
ジオリードの《可能性》半分と引き換えに、アイゼは息を吹き返し、心もまたこの世に留まる事となる。
しかし――。
「なんなのだこれは……!」
《可能性》の半分を失ったジオリードと、《可能性》の半分を得て蘇ったアイゼ。
二人の身体は以前の人間の姿とは打って変わり、耳は尖り、瞳は赤く光り、爪は長く硬く伸び、そして口の端には大きな犬歯生えていた。
そして、どうしようもなく喉が渇く――。
『言ったでしょう? 僕は《可能性》を使ってママを蘇らせるって。でもパパの《可能性》すべてを使ってしまったら、パパは死んじゃうよね? だから二人で半分こにしたんだ。これで二人はいつまでも一緒だよ。そのかわり、人にはもう戻れない。しょうがないよね?』
小鳥が相変わらず無邪気に笑う。
『僕、どうしたら喜んでもらえるかいっぱい考えたんだよ! パパは僕の事、ほめてくれる?』
曇りのない瞳で、小鳥がジオリードを見つめた。
しかしジオリードはわなわなと体を震わせると、右手で小鳥を強く掴んだ。
『パパ、何するの……痛いよ』
「貴様……一体なんてことをしてくれたのだ……! 私はどうなってもいい、アイゼだけは助けてくれと頼んだのにこんなものに……人ではない存在にしてくれて何を言う!」
怒りに震え、ジオリードが小鳥を握りつぶしてしまうのではないかと思ったその時、彼は握りしめたその手を離すと、焦燥に駆られた瞳をアイゼへ向けた。
「アイゼ、すまない……! 私のせいでお前を、こんな姿に……」
その緋色の眼には焦燥を通り越し絶望と、そして自責の念が含まれている。
溢れだした涙が、ジオリードの目尻から大きく零れ落ちた。
「ジオリード……私は大丈夫よ」
尖った指先で彼の事を傷つけてしまわぬよう、アイゼはそっとジオリードの身体を抱き寄せた。
眼も、耳も、爪も、歯も、全てが以前とは変わってしまったけれど、変わらないものが確かにまだここにある。
自責の念に駆られ、事実を受け入れるまでにジオリードは暫くの時間を要したが、アイゼの中には怒りも、不安も、戸惑いもなかった。
――また貴方の傍に居られるのね、私。
愛する彼といつまでも共に。
それはアイゼが望んだ叶わぬ夢のはずだった。
人間はやがて命尽きる生き物だ。
永遠なんてあるはずがないし、だからこそ夢想した。
少しでも長く、彼の傍に居られる未来を。
それが叶ったのだ。
人ならざる者となってしまった今も、人の身で愛した彼が傍に居る。
アイゼにとって、それは何より大事なことであった。
――こうして私たちは永遠に近い命を手に入れた。
不完全な身体で、人ならざる者として。
足りない《可能性》の半分を埋めようとする為に体が欲するのか、時々衝動的に生きた人間の血が欲しくなる時があるのが困りものだが、そんな時はお互いを心の支えに心の隙間を埋めた。
そしてどうしても我慢が出来ない時は、動物の生肉や赤身の肉を食らう事でその衝動性を抑えられる事にも気づいた。
それからアイゼの好きな食べ物はもっぱら肉料理となった。
ジオリードも同じく肉料理を以前よりも多く食べるようになったが、それでも人の身であった頃にアイゼが作る手料理で一番好きだと言ってくれたアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノを週に一度は作ってくれと言う。
多分きっと、今はもうそこまで好きではないはずなのに。
そんなジオリードの変わらぬ優しさが、アイゼに再び幸せをもたらしてくれた。
彼の為に、今まで以上に手の込んだ調理をすることで血を欲する気を紛らわせることができるようにもなったし、無限に用意された時間を料理という新しい趣味に充てることも出来た。
このように二人の新生活は、けして悪いものではなかった。
その生活の傍らに、いつもその小鳥は居た。
パパ、ママと二人を呼ぶ無邪気な雛鳥。
最初こそはジオリードも激高し怒りをぶつけたその鳥も、時間と共に幸せな日々を取り戻した二人にとって、第二の人生を与えてくれた恩鳥ともいえる存在となった。
しかし、雛鳥はやがて成長していくのだ――純真無垢だった存在は、無邪気に、あらゆる感情を吸収して育っていく。
小鳥は人の喜ぶ姿がただ見たくて、ジオリードやアイゼ以外の人間に対してもなんでも望みを叶えたがったが、願いを叶えるためには必ず《可能性》を消費する。
その最中に人々の強欲な望み、欺瞞、敵意、侮蔑……けして美しいとは言えない感情すらも、その鳥は喜んでその身に吸収していった。
その結果、アイゼとジオリードが気づいた時には、鳥は《可能性》を無邪気に消費する、白い化け物へと変わり果てようとしていた。
悲しい事にこの白い鳥は、善悪というものを最後まで理解する事が出来なかったのだ。
――このままでは、いつまた大きな悲劇を引き起こしてしまうかわからない。
アイゼとジオリードは悩んだ。
白い鳥をこのままにしてはおけないと。
化け物へと変わり果ててしまう前に、この白い鳥をどうにかする方法がないか再び研究の日々が始まった。
その間にもパパ、ママと二人を慕うその鳥は、変わらず人々の願いをきき、無邪気に《可能性》を消費しようとする。
アイゼはそんな白い鳥を見て少しだけ心が痛んだが、再び自分たちのような悲劇を引き起こしてはならないとジオリードは首を横に振った。
「すべての原因は私にあるのだ。すまない、アイゼ。私はどれだけ長い時間がかかったとしても、あの鳥をなんとかしなくてはならない」
ジオリードは度々アイゼに頭を下げ、そして諭した。
自分たちのように、あの鳥も確かに歪な存在であるのだと。
そんな折だった、あの鳥を研究していたその先で、二人がバースセイバーとダーザインの存在を知る事になったのは。
そしてあの鳥こそが恐るべき《感染源》である事を知った。
よくよく考えてみれば、鳥は硬い殻の中に居た。
あれは自力で孵化できなかったのではない。
何者かの手によって《感染源》を封印していただけにすぎない。
表に出れば最後こうなる事がわかっていたから、だからあの硬い殻の中に閉ざされていたのだ。
しかし二人はそれを手にし、あろうことか卵を割ってしまった。
自分たちが《災厄》を引き起こしかねない引き金を引いてしまったのだと悟った時に、ジオリードはこの問題を暫くの間解決する糸口を見つけたのだった。
「卵の中にあの《感染源》が封印されていたのだとしたら、あの白い鳥も同じように殻の中に封印してしまえばよいのだ。ただ、雛だったころと違い白い鳥も大きく育ってしまっている。同じように殻となる器を用意しても、また何らかの拍子に割れてしまうとも限らない。その際の危険をわずかでも減らすために、あの白い鳥も分割して封印するのだ」
ジオリードが懸命にノートに線を引きながら図解する。
「私たちの《可能性》を二つに分け与えられたのだとしたら、あの白い鳥の《可能性》も分割する事ができるはずだ。《可能性》が薄まれは薄まるほど、存在強度は低まりその存在も薄まるはず。私たちにその分割が無理だとしても、バースセイバーの力を借りることは可能であろう。あの白い鳥はこのまま放置すれば、いずれこの《世界》だけではなく、他のあらゆる世界の《可能性》すら食い尽くす危険がある。ダーザインならばそんな危険をみすみす放置はしまい。協力要請を出せば、なんらかの手段で手を貸してくれるはずだ」
「そうね。では私たちに今できる事は」
「あれを封印するための殻となる器を用意する事と、実際に封印する場所を決める事だな。器は当時砕け散った殻の破片をいくつか研究用に取ってある。あれの成分を調べて再現するとしよう」
「問題は場所ね……仮に白い鳥の《可能性》を分割出来たとして、それらを結局同じ場所に封印してしまっては元も子もないわね。どこか物理的に遠い場所……それこそちょっとの事では手の届かない場所に散りばめないと」
「そうだな……一つは責任を持ってこの《世界》で私たちが見守るとして、残りをどうするかが問題だ」
それから二人ははあらゆる封印場所を検討しながら、同時にダーザインとの話し合いの場を設けた。
話し合いの最中、《可能性》を分け合ったアイゼとジオリードが人ならざる者になった後も世界に定着し、その《世界》の法則を乱すことなく生活できている事からVS能力が備わっている事を知った。
VS能力を持っているのならば、自身がバースセイバーとなり異なる《法則》からなる《世界》へ赴くことも可能となる。
「ならば私たちもバースセイバーとなり、分割し卵に戻したあれを異なる《世界》に分散するしかあるまい」
「でもバースセイバーは、異なる《世界》の《法則》を歪めないように、物を置いてきてはいけないそうよ」
明確な《感染源》の類でなければ《感染源》にはならないだろうが、それでも認識外の場所へ行ってしまったそれが《感染》を引き起こす原因になる事もあるという。
ましてや今回の白い鳥は、間違いなく《感染源》なのである。
それを異世界に持ち込むなど、言語道断だろう。
「しかしかといって、この白い鳥を一まとめにして置く方がよほどリスクが高いのではないか? ダーザインは《世界間》のトラブルを相互解決するための組織であろう。ならば私たちもバースセイバーとして、他のバースセイバーに問題解決の協力を仰げばよい。そのまま放置してきてしまえばいずれ異なる《世界》の《法則》を歪めてしまう危険性も高まるが、それを監視するダーザインの者が常にその世界に居るのなら、また話は違ってはこないか?」
ジオリードは続ける。
「このまま放置すれば、あの白い鳥はいずれ様々な人間の負の感情すらも呑み込んで、永遠に無作為にあらゆる《可能性》を喰らう化け物に成長してしまう。あの鳥は魂があまりにも無垢なのだ。はじめて触れ合った時からずっと感じてきた違和感が今ならばわかる。あれはずっと心が子供のまま、ただ純粋に人の望みを叶え、その願望を喰らい続けている。善と悪もわからず、理解も出来ない。だから良かれと思ってあらゆる《可能性》を喰らい、犠牲を強いるのだ。そんなものがこれ以上大きくなり、この《世界》を飛び越えてしまったら……さらに多くの《法則》の影響を受けて、さらに手の打ちようのない存在になりかねないだろう。そしてそもそもこのような《感染源》がはじめから我々の世界にあったのだろうか? こんな《世界》を歪めてしまいかねないものが?」
「……無いわね」
アイゼは頷きながら考える。
卵はこの《世界》にはない異質な存在だ。
《可能性》を消費することで、命をも蘇らせてしまう、そんな《法則》はこの《世界》には存在していない。
ならば答えは一つなのだろう。
「ならあの卵は、何らかの存在がこの《世界》へ持ち込んだ物だったという事……?」
「そうなるだろうな」
だとすると話は変わってくる。
自分たちの《世界》の問題は自分達で蹴りをつけなければならないが、他の《世界》から持ち込まれた問題であるならばダーザインが大々的に関与しても問題はないだろう。
卵を割ってしまったのは自分達だが、卵を持ち込んだのは見知らぬ誰かだ。
直接的な原因や、卵がこの《世界》にやってきた理由を、私たちは知らない。
「誰が、なぜ卵をこの《世界》に……?」
「理由は解らんな……もしかすると界賊が関与している可能性は大いにあると思うが。しかし私たちがその理由を知る事はほぼ無理に等しいだろう」
だが、例え理由がわからずともこの卵の問題はどうにかしなくてはならない。
この《世界》の法則を守る為にこのままにしてはおけないのだ。
アイゼとジオリードはバースセイバーとなったことで、はじめて異なる《世界》がある事を知り、白い鳥はその《世界》すらも脅かす危険性がある事を悟ってしまった。
ならばもう、自分たちがしなくてはならない事は決まっているのだろう。
一足先にそれを察したのであろうジオリードが、まっすぐにアイゼの瞳を見て言った。
「アイゼ、私はあの卵を見つけ、殻を割り、君を犠牲にしてまで生き延びた挙句、私共々君を人ならざる者へと変えてしまった。あの卵がどこから来たのかは知らない。だが私が起こした過ちで《世界》が脅かされている。……こんな私が頼むのも心苦しいが、どうか力を貸してくれないか。今、卵を一時的に処理するだけではきっと足りない。封印はいずれまたどこかで解ける日が来る。その時までに、私は少しでも情報を集め、あの白い鳥が不用意に人の《可能性》を搾取しないよう対策を練らなければならんのだ。またきっと研究に明け暮れる日々が続くだろう。終わりは来ないかもしれない。だが、研究者としての君の力が必要だ、アイゼ。どうか力を貸してくれないか」
ジオリードはアイゼにとって、才能に恵まれた尊敬する研究者だった。
そして何より今も昔も変わらず、最も心許せる恋人でもある。
そんな存在にここまで言われて、誰が首を横に振れるだろうか。
少なくともアイゼには無理だ。
「……当然じゃない。私にだってあの白い鳥の殻を割ろうとしてしまった責任があるわ。生憎私たちには無限の時間がある……人ならざる者となった今なら、いつまでだって研究を続けることが出来るはず。だから二人で探しましょう。この《世界》を白い鳥から守る方法を。《感染》してしまった後も、私たちのように姿を変えて存在できる可能性がある者もいるでしょうし、その者たちがいつか人に戻る事が出来ないかも同時に研究するのもいいわね。それがきっと、私たち二人の未来にも繋がるはずよ」
アイゼは両手でジオリードの手を取り握りしめる。
「貴方ならできるでしょう? 貴方は偉大な研究者だもの」
「君は私を買いかぶりすぎだ。だが君が傍に居てくれるのならば、きっとやり遂げてみせよう。《感染源》から人々を守る方法をいつか見つけてみせる」
ジオリードは真剣な眼差しのまま、力強く微笑んだ。
その姿を見て、アイゼもふっと息をつき笑う。
――彼の自信家な姿がとても好きだった。
今も昔も、そこは変わらない。
人であっても、人ならざる者となっても、彼は彼で、私は私だ。
どこまでもこの関係性は変わらないのだろう。
* * *
そんな昔の出来事を思い出しながら、アイゼはジオリードを深く抱きしめる。
同時に頭の片隅で、ほんの少しだけ白い鳥の事を思い出し胸がぎゅっと締め付けられた。
パパ、ママと呼び、私たちによく懐いた純真無垢な雛鳥はもう居ない。
人の《可能性》をたらふく喰らい、同時に人々の負の感情までも呑み込み成長したそれは、いつしか恐ろしいまでに禍々しい力ため込んだ《感染源》と姿を変えた。
その頃には封印するための殻も完成し、他の《世界》のバースセイバーたちの協力のもと、白い鳥の《可能性》は四分割にされたのちに卵の中に封印され、さらにそれぞれ異なる《世界》の人里離れた地に静かに覆土された。
一つ目の卵は【T-/M+】オールドミスティック――アイゼとジオリードが暮らしていた、最初の《世界》に。
二つ目は【T=/M=】トゥルー・ニュートラルで暮らす、六花家の一族の元に。
三つ目は【T+/M+】フューチャー・ミスティック、スズとエイトの故郷でもある“白翼神託世界"オラクルネストで暮す王の末裔の元に。
そして四つ目は【T=/M+】ニュートラル・ミスティック……今任務で調査を続けている、あの美しい森のほとりに。
しかしあれから更に長い年月が経ち、【T=/M+】ニュートラル・ミスティックで管理を続けていたバースセイバーの一族は、五年ほど前に皆息絶えてしまったらしい。
もう何故そんなところに封印していたのかもわからなくなってしまっていたであろうそれは、きちんとした引継ぎをされぬまま放置され人の手から離れてしまった。
やがて人里離れた森の奥で管理者の手を逃れ、卵はひっそりと目覚めの時を待っていたようだった。
それが今、再び《感染源》として発見され、自分たちの前に姿を現したのだ。
一つの卵の封印が弱まった事で、他の卵にも影響は出始めていた。
二つ目の卵、【T=/M=】トゥルー・ニュートラルに存在する六花家が先祖代々封印してきた卵は四つの中で最も小さく、まるで小さな勾玉のようでもあった。
三等分にした白い鳥の《可能性》からわずかに炙れ出たものがその小さな卵であったが、少しならば浄化できるかと思い六花家で浄化を試みたものの、小さくてもそれが持つ禍々しいオーラを払う事は叶わず、結果として《不浄のもの》として六花家が先祖代々けして触らず保管する事とした。
万が一持ち運ぶ必要性が出た時も直接触れぬよう竹笛にはめ込み保存していたその卵は、偶然にも李白が手に取り、笛口についていたその卵に触れてしまい《不浄のもの》に半分《感染》してしまい今に至る。
三つ目の卵、【T+/M+】フューチャー・ミスティックに存在するオラクルネストでは、王の末裔が代々卵を護り続けてきたが、五年前に二つの卵の封印が緩んだ事で《災厄》をも引き起こす《感染源》としてその姿を目覚めさせてしまった。
オラクルネストは少数の有翼人と、大多数の無翼人からなる《世界》であり、そこでは神の御使いとも言われている白い鳥から翼を授かった王の末裔が、この世に存在するあらゆる光のエネルギーを行使する事で平和を維持する、緑豊かなまるで楽園のような《世界》であった。
卵を封印する上で最も世界が発展しており、安全だと判断されたオラクルネストには、一番大きな卵を封印していた。
それが仇になったのか、卵は無差別に人の望みを受け入れた結果、その膨大な《可能性》をもって、神の御使いの力を狂わせたのだろう。
一人、また一人と神の御使いの数が減り、神託は降りる先を失い、そうしてオラクルネストの防衛機関は崩壊した。
スズとエイトの故郷は、アイゼとジオリードのせいで衰亡したと言っても過言ではなかった。
彼らはだからこそ、あらゆる物事に常に負い目があった。
負い目が二人を追い詰め、それがさらなる《感染源》への研究へと没頭させた。
そうして生まれたのがこの感染対策課の一つ【Fizz】である。
《感染源》は一つ生まれると、そこを起点にしてあらゆる方向へと物事を狂わせ、共鳴していく。
その姿がさながら水面に生まれる泡のようであるという事から付けられた名前だった。
泡のように発生した一つの小さな《感染源》は、水面に大きな輪を広げるように、どこまでも広がってゆくのである。
それを阻止する為に、アイゼとジオリードはこの研究室で長い時を過ごしてきた。
沢山の時間と《世界》を犠牲にして、それでも少しばかり得た知識が彼らにはある。
「……私たちの贖罪の時は近いわ」
「ああ。そのためには、なんとしてもこの研究を終わらせねばならない」
ジオリードは振り向き、アイゼの頬をそっと撫でた。
「その時までどうか変わらず私に力を貸してくれ、アイゼ」
「ええ。もちろんよジオリード。私は貴方が優しい人だってことをちゃんと知ってるもの」
遠い日にした約束を再び交わすように、そっと軽く唇を重ねた後二人は立ち上がる。
「……さて、名残惜しいがもう一仕事するとしよう」
「そうね、私も手伝うわ。もう少しだけ今日も頑張りましょ」
恋人同士の時間は少なくて良い。
今はまだ、研究者としての時を過ごすのが先だ。
「あの卵がもつ禍々しさを中和するための方法は、本当にこれだけかしらね」
「過去から現在に至るまでの状況を全てリストアップしてみた。まだ確定とは言えないが、十中八九そうだろう」
ジオリードが先ほど資料をまとめていたメモをアイゼに手渡しながら言う。
「あの卵への唯一の対処法は、なるべく対になる状態で接する事だ。奴はバランスが取れた環境を嫌う」
「バランス?」
「例えば、男女でいたり、大人と子供でいたりするのは良い。対になっているな。なんなら生者と死者でもいいだろう。偶数もいいが、奇数は駄目だ。生きているのに気持ちは後ろ向きな場合も意外と平気であろう。ある意味、肉体と魂とが反対を向いていてバランスがとれている状態になる。逆に健全な人間にはあの卵のオーラは辛かろう。要は正と負のバランスがどちらか一方に偏っている状態で卵に近づくと、あの禍々しいオーラにやられる可能性が高まるのではないかと思う。だから清らかな気持ちで生きていたり、幸せを感じていた人間ほどあの卵に《感染》されやすく、そしてそのオーラに打ちのめされるのだ。今はその裏付けが欲しい」
「なら、明日みんなにも湖での様子をもう一度詳しく聞いてみないといけないわね。今最も近くにいる貴重なサンプルだもの」
「そうする事にしよう。スズが湖に落ちた件も、もしかしたら何か卵と関係あるのかもしれんしな」
ジオリードは再び文献に目を落としながら足を組みなおした。
「あれから二人、長い時を生きてきた。そんな中で一つ思う事がある。卵の存在からダーザインに辿り着いたように、この世はどこで何が繋がっているかわからん。これも因果か宿命か……だが始まりには必ず何か理由があるものだ。私はその理由を知りたいのだと思う。その謎を解き明かすことができれば、私はきっと《感染対策》のスペシャリストになれるだろう」