様々な事が一気に起こり、長い一日となったその明くる朝。
ほとんどの者が昨日の疲れを引きずるように、ゆっくりと感染対策課に集まっていた。
私の隣に佇むスズの様子も一件落ち着いているように見えるが、胸中は様々な思いが駆け巡っているようで珍しく会話という会話もなく席に座っている。
向かいには弥生と李白が座っているが、こちらの二人も昨日の事もあり何やら気まずげに目をそらし押し黙っている為、私たちの座るテーブル一帯は一層会話も弾まず、普段と随分違う静かな空気が流れていた。
昨日一人仮眠を貪っていたヴァレリアだけは比較的元気そうであったが、反面隣に居るリネットは珍しく甘えたモードに突入したようで、窓際で外を眺めるヴァレリアの腰にくっついて何やらダルそうにしている。
まだ卵の負のオーラにやられたまま、気だるさが抜けないのかもしれない。
そんな中、珍しくジオリードとアイゼが研究室を抜け出て姿を現し、真面目な顔をして皆に召集をかけた。
「皆に集まってもらったのは他でもない。【T=/M+】ニュートラル・ミスティックで発見された卵型の《感染源》について進展があったので情報を共有しよう」
そう言ってジオリードから配られた数枚の資料に目を通そうとしたその時。
「資料の前に、お前たちに紹介したい人物がいる」
パチンと指を鳴らしジオリードがドアの方を振り返ると、絹のように細く真っ直ぐなプラチナブロンドの髪を颯爽と靡かせた女性が、にこやかな笑顔を浮かべ威風堂々と入ってきた。
更にその後ろには、彼女に付き従うように燕尾服を着たエレガントな佇まいをした老紳士が控えている。
しかしそれにしては妙にちぐはぐな感覚を受けるのは、威風堂々と入ってきた女性の服装はまるで普段着とでもいいたげな黒のパーカーであった事と、彼女に付き従う上品な老紳士の体格が、ここにいる男性たちのだれよりも大きく、筋肉質であったせいであった。
――一体何者なのだ、この二人は。
面を食らった現地調査班の皆が一様にそう思った時、満を持してと言いたげにジオリードが口を開いた。
「紹介しよう。この度の件で力になってくれる、ダーザイン本部より派遣されたバースセイバー二名だ」
そこまで言うとバトンタッチとでも言いたげに、プラチナブロンドの女性が軽やかに手を上げジオリードの一歩前に出る。
「あたしの名前はネビュラ。元々ダーザインの別の課に所属していたんだけど、今回の件でしばらく一緒に行動することになったからよろしくね。そして、後ろに居るのは執事のノアール」
「ご紹介に預かりました、ノアールと申します。ネビュラお嬢様が生まれた時よりお世話をさせていただいております。以後お見知りおきを。」
この場に居る誰よりも大きな体が、なんとも優雅に一礼する。
しかしその顔は柔らかな動きに似合わぬ精悍な顔立ちをしており、どこか張り詰めた空気が彼の周りを包み込んでいた。
反対にネビュラと呼ばれた女性の方は、動きに覇気を感じるものの纏う空気は幾分柔らかい。
齢二十~二十五といったところだろうか、明るくサバサバとし口調とは裏腹に、やけに動作に切れと気品が溢れているのはノアールがお嬢様と呼んでいた通り、どこかの名家のご令嬢であるからだろうか。
それにしては簡素な服を着ているが、どうやらお忍びで家を抜け出してはバースセイバーとして自由自適な生活を送っている為、動きやすくスポーティーな服装を好んで着ているという事だった。
そんな風変わりな彼女のお目付け役として同行しているノアールは、ネビュラ曰く戦闘は勿論、家事から何まで一通りできるスーパーエリートであるらしかったが、本人は至って謙虚に、やんわりとそれを否定した。
「私めができる事はあくまでお嬢様のサポートでございます。家事なぞは些細な事。全てはお嬢様のお力あってのものですので、いざとなった時はお嬢様の類まれなる治癒の力が、皆さまを癒しお守りする事になりましょう」
そう言ってノアールは恭しく頭を下げた。
「彼ら二人はこれから、感染対策課【Fizz】のメンバーに加わってもらう。手練れのバースセイバーゆえ即戦力としてもちろん期待できるが、我々の仲間として参加してもらった理由がもう一つある。例の卵と対峙する上で、ネビュラとノアールのペアはとても相性が良いのだ」
先ほど配った資料を片手に上げて、ジオリードが高らかに宣言する。
「アイゼと続けてきた研究がようやく実りを結びつつある。ついにあの卵に対する、おおよその対策がとれるというところまで調査が進んだ。それを皆に共有したい。資料を見てくれ」
ジオリードに促されるままに、私たちは資料をめくる。
そこには二百年以上前から卵が存在してたと言う驚くべく事実と共に、ジオリードとアイゼが人ならざる者となってしまった経緯や、卵から生まれた白い小鳥の存在が事細かに記載されていた。
また驚くべきことにあの卵の禍々しいオーラを中和する方法も判明しており、老若男女ペア投入されたネビュラとノアールは、確かに対卵に関してはバランスのとれた逸材であろうと納得がいった。
しかし何より驚いたのは【T=/M+】ニュートラル・ミスティックの森のほとりでみつけた卵以外にも、まだ三つの卵が存在しているという事実である。
そのうちの一つは李白が手にするあの竹笛に埋め込まれているという事。
そして最も私とスズが衝撃を受けたのは、故郷であるオラクルネストを蝕んだ《災厄》は、四分割にされた卵のうちの一つが原因であったという紛れもない事実であった。
「大丈夫か、スズ」
「エイト……そんな……オラクルネストの《災厄》も、あの卵が……」
隣でスズが青白い顔をして呟く。
よほどショックだったのだろう、指先はすでに血の気を無くすほど強くその資料を握りしめている。
――気持ちはわかる。
このやり場のない怒りと悲しみを、私ですら一体どこにぶつければいいのかわからないのだ。
神託を受け《世界》に平和を導く役目を担う、神の御使い。
その責務を負った者が、愛したその《世界》の原因と末路を知り、動揺を隠せずにいられるだろうか。
私は今にもスズが泣きだしてしまうのではないかと気が気ではなかったが、心配をよそにスズはなんとか気丈に前を向き、最後まで資料に目を通し続けていた。
出会った頃と同じように、瞳に真摯な青い炎を静かに宿らせて。
「私とアイゼは長い間、あの卵型の《感染源》についての調査と研究を行ってきた。持てる時間の限りを研究につぎ込んできたつもりだが、それでも力及ばず沢山の《世界》に協力と犠牲を強いてしまった。李白が今苦しめられている《不浄のもの》もあの卵の一部だ。辛い思いをさせてすまない。そして何よりスズとエイト。お前たちには正直合わせる顔がない」
ジオリードは静かに目を伏せる。
彼は何か言おうとして一瞬躊躇い、だがやがて口にした言葉はただの謝罪だけではなく今もなお未来を見据えた前向きな言葉だった。
「目の前で沢山の人々が亡くなる姿を見てきたお前たちに、私は許してくれとは言えない。私は確かに取り返しのつかない過ちを犯したのだ……だが、それでもあの卵をこのままにはしてはおけない。あれは私とアイゼが一生をかけてどうにかしなくてはならない物だ。たった一つでもそこに可能性があるのならば、私はあの卵をどうにかするためにこの身を、そして人生を捧げようと思う。……そのために、これからもお前たちには力を貸してほしい。頼む」
ジオリードが私とスズの目の前でゆっくりと頭を下げた。
その隣にそっと寄り添うようにしてアイゼも共に頭を下げる。
「私からもお願いするわ。スズ、そしてエイト。本当にごめんなさい。でも、ここで立ち止まっている訳にはいかないの。明日を救うために、より詳細な情報が必要となってくる。昨日あの湖であった出来事を、事細かに教えてもらえないかしら。それがあの卵と対峙する上で何よりも重要な要素になるかもしれない」
人ならざる深紅の瞳を煌々と光らせて、アイゼはこちらを見た。
真っ直ぐなその瞳に怯むことなく、スズが顔を上げジオリードとアイゼを見つめ返した。
そのスズの瞳は、先ほどと変わらず青く深く燃えている。
「この《世界》を、沢山の人々が暮すあらゆる《世界》を救えるのならなんだって、わたしは協力するよ。アイゼさん、ジオリードさん。話してくれてありがとう。わたしにできる事は限られているかもしれない。でも人々を救いたいというこの気持ちだけは嘘偽りなく本当だから。だからわたしの話を聞いてくれる? 昨日、あの湖で一体何があったのかを」
こうして新しいメンバーを含めた情報交換会は、ほぼ丸一日をかけて行われた。
スズが湖に落ちた話を皮切りに、謎の少女の存在、更には昨夜の李白の話や《不浄のもの》に《感染》した経緯、そしてジオリードとアイゼからは白い鳥についての詳細が語られ、あの卵から放たれる禍々しいオーラは、白い鳥が今まで喰らってきた人々の傲慢かつ横暴な醜い願いが寄せ集められ出来た負の感情の塊であるという事実を知った。
「今やあの卵は、人々の醜さを形どった負の象徴だ。純真無垢な魂が、人の傲慢さを服にして着込んでいるようなものとでも思えば良い。だからこそ厄介なのだ。中身まで汚れていれば誰の目からも危険なものだとわかろう。だが白い鳥自身はまるで穢れを知らない。何も疑わないし、何も拒絶しない、ただ人が喜ぶ姿を見たいと言うだけの、人からみれば都合の良い魔法使いのようなものだ。それが悲劇を一層大きくしている」
ジオリードがため息をつく。
「あの白鳥に知性というものが存在しなかったのが運の尽きだ」
「なるほどねぇ、きつめのお仕置きが必要ってことね。反省するそぶりがなかったら本部の研究室で実験のサンプルにしましょ」
そう言って、ネビュラはカラリと笑った。
「それは頼もしい限りだな」
思わずジオリードも苦笑気味に喉を鳴らしたところで、ノアールがティーセット一式を運んでくると、皆に紅茶をふるまってくれた。
どこから用意してきたのか美味しそうなチョコチップ入りのスコーンと一緒に、ミルクとレモンの輪切り、更にガムシロップも用意されており甘党のスズとリネットはそれを見て手を合わせて大層喜んだ。
はじめこそどこか気まずさが先立った感染対策課内の空気も、その頃になると随分とわだかまりが解け、明らかに朝とは違った朗らかな雰囲気が漂っていた。
全体的に深刻な話題がほとんどであったにも関わらず、時に挟まるネビュラの良い意味であっけらかんとしたユーモラスな反応が新鮮で小気味よかったという事もあるし、絶妙なタイミングでノアールから提供された紅茶とスコーンは、疲れた頭と体に随分と染み入った。
オラクルネストを襲った《災厄》の原因となった卵の存在も、私とスズにとってはかなり衝撃的な話題ではあったが、そういった緩衝材となってくれた二人のおかげで、思いのほか冷静さを保ったまま今に至る。
ありがたい限りだった。
「そんで、卵の事はだいたいわかったとして。スズの聞いた少女の声についてはどうするつもりだ?」
粗方情報交換が済んだ頃、ヴァレリアが話を切り出した。
「俺は調査に行ってないからスズが言う謎の声とやらもわからねえが、後手に回って対処するのはまずいんじゃないのか?」
「確かにそうだけど……でもだからと言って、スズを危険な場所に近づける訳にはいかないよ。昨日だって湖で溺れて本当に大変だったんだから!」
スズが溺れた現場を目撃していたリネットは、すぐさまヴァレリアに反論する。
しかしヴァレリアはそういった回答が返ってくることは既に予測済みだったらしく、鼻息荒くまくしたてるリネットを片手でいなしながら、なおも言葉を続けた。
「そのまま放置して次に何かあったほうがよっぽど大変になるだろ? まだ、そこに行って調査することがあるんじゃないのか」
「調査すること、って何?」
「今までスズしか見てないやつを俺らも見ておく必要があるってことだ。ついでに危害を加えるようなやつならその場でやっちまうほうが手っ取り早い」
そこまで言ってヴァレリアはスズを見る。
「スズはどう思う、皆でやれば怖くないぞ」
「どうかな……わからない。わたしもどうして彼女が私に声をかけてくるのかすらわからないし、どういった条件下で彼女の姿が見えるのかもわからない。でも彼女は言ってたの。わたしはあなた。あなたはわたし、って。だからこれはあくまでも現時点での仮説なんだけど……わたしが自分の姿を映し出す事ができる物を通して、彼女は私に接触しようとしてきてるのかな……って、思ったりはしたの」
スズがギュッと拳を握りしめる。
謎の少女の事を思い出しているのだろう。
スズがその身に受けた悪意は、スズにしかわからない。
軽々しく大丈夫だなどと言いうことは出来ないが、一つ一つ不安の糸を解きほぐし、安心させてやることはできるだろう。
「なるほどな。だが洗面所にある鏡を見ただけではそういった現象は起こらなかったんだろう?」
「エイト……うん、そうだね。鏡を見ても、その女の子の声は聞こえなかったし、姿も見ることが出来なかった。この感染対策課の窓ガラスに映る姿も試してみたけど、こっちも何も起きなかったよ。いつものわたしの姿が映るだけ」
「ならば何か条件のようなものがあるのかもしれない。例えば水面のように姿が映るが確固たる形がなく、形状を変えたり消えたりするようなものからのみ接触する事ができるとか」
「それも考えたの。でもわたし、昨日帰ってきてすぐにお風呂に入らせてもらったでしょ? あのときエイトが湯を一面に貼ってくれたから恐る恐る中を覗き込んでみたの。でも、何も反応はなかったよ」
「確かにそうか……」
「冷たい水じゃなきゃダメとか、そういうのはねぇよな?」
ヴァレリアが笑いながら横やりを入れる。
「朝、顔を洗う時に水だって使ったんでしょ? それに朝食の時にお水だって飲んでるから、水じゃなきゃダメなんてことはないよねぇ?」
リネットがすかさず駄目出しをした所で、李白が口を挟んだ。
「やはりあの湖一帯に、何かあるのではありませんか?」
スズが少女の声を聴いたというのは、【T=/M+】ニュートラル・ミスティックの森のほとりからの帰り道と、その森の北側にある湖の前の二か所である。
正確には夢の中でもその少女の声を聴いたらしいのだが、それはあくまでも夢という事で今はとりあえず割愛する。
「確かに今のところ、【T=/M+】ニュートラル・ミスティックのあの湖周辺でしか事は起きていないのよね。あの湖を覗き込んだら、もう一度その少女とやらはスズの前に姿を現すのかしら」
「どうでしょう。しかし弥生、あそこには私の竹笛に着く勾玉より、はるかに大きな卵があります。私が言うのもなんですが、スズさんを再び卵の傍へ近づけるというのも、それはそれでどうかと……」
昨日の事もあり、李白はかなりあの卵の元へスズを送る事には否定的なようだ。
確かに《不浄のもの》はスズも李白も同じであると言っていた。
李白は《不浄のもの》という《感染源》に近づき《感染》した。
今のスズも李白と同様であるというのなら、スズもあの卵に近づけば何らかの形で《感染》しないとも限らない。
それは私としても絶対に避けねばならぬところである。
「ねぇねぇ、話を聞いてて思ったんだけど、その李白くんの持ってる竹笛についてる勾玉。それも小さくても卵の一つなんでしょ? けど、なんで傍に居ても気持ちが悪くなったりしないんだろう? 不思議なんだよね、あの湖の卵を見た時は私、もう本当に異臭でもしてるのかってぐらい気持ち悪さで胸やけみたいなのを起こしてたんだけど、こうして傍に居ても全然平気だし」
そう言いながらリネットが李白の周りの匂いを嗅ぐ。
「うん、やっぱり気持ち悪くない」
「やってる事が犬みてーだからやめろリネット」
呆れたようにリネットを引きずっていくヴァレリアだが、去り際に「確かに李白の周りは平気だな」と一応同意はする。
「それについては私にも仮説があるのだが聞いてほしい。先に話した通り、李白の持つ竹笛についたその勾玉は、白い鳥を三分割にした後に残った最後の小さな塊だ。どれだけ小さくても、それは白い鳥の持つ《可能性》を分割したものにすぎない」
ジオリードは紙に『白い鳥=卵=不浄のもの』という公式を書く。
「白い鳥と卵、そして《不浄のもの》がイコールであるというのなら、それぞれが持つ性質も、同じものであろうと思う。恐らくは『他人の望みを叶えたいという』純真無垢な願望だ。李白の場合《感染》した際に《感染拡大》を防ぐ為、六花家の封印術で李白の体内に《不浄のもの》を閉じ込めるという形を取った。その方がこの先、浄化するにしても封印したままにするとしても対処がしやすいという判断だろう。この判断は今でも正しかったと思う」
そこまで言って、ジオリードは顔をしかめた。
「しかしだ。卵のその性質を己の身に取り込んでしまい、一つの身に二つの存在を閉じ込めるような形となってしまった李白の中では、随分と葛藤があったのではないだろうか? 李白の精神も卵と同調し受け入れようとする部分と、卵を否定し相反する部分が対立し二極化した。片一方は《不浄のもの》との共存を、もう一方は《不浄のもの》の消滅を願う、そんな形だ。結果として普段の李白と、裏李白と呼ばれる《不浄のもの》が姿を乗っ取ったような状態とスイッチを繰り返すようになった。……違うか?」
ジオリードに視線を向けられ、李白は小さく頷いた。
「おおむねその認識で、お間違いないかと。本来の私の性格は、ここまで丁寧でも几帳面でもありません。《不浄のもの》が私の中へ入った後から、少しずつ時間をかけて精神が正と負の方向に分離して今の私を象っています。私が今でも《不浄のもの》が他人だと思えない理由は、多分そこにあります。私の中の一部は、私の願いを叶えようとする《不浄のもの》を歓迎し、共に生きようとしている節がある。先ほどジオリードさんが共存という言葉をお使いになりましたが、まさしくそれが近いのだと思います」
「ならば話は早い。先にも言ったが白い鳥と卵、そして《不浄のもの》はイコールの存在だ。奴らは執拗に人の望みを叶えたがる。李白の体内から出ることができない《不浄のもの》は、唯一願いを叶えてやる事が可能な李白の願いを叶えるか、他の卵と融合し、元の白い鳥へ戻り、より多くの人々の願望を叶えたいという欲求に埋め尽くされているだろう。従って今は、卵と融合するチャンスがない限り《不浄のもの》は李白以外を《感染》させようという存在とはならない。なぜなら願いを叶えてやりたいと思っている存在はもう、決まっているからだ」
「なるほどぉ……結構一途なんだねぇ、この勾玉は」
「そういう奴なのだ、あれは」
勾玉に近づいても具合が悪くならない事に喜びを隠しきれないリネットを前に、ジオリードはこめかみを抑えて大きなため息をついた。
「呑気なものだ。今は李白が《不浄のもの》を受け止めてくれているからまだ良い。しかしいよいよ李白が耐えきれなくなったその時は、卵は李白の望みを叶えるためにあらゆる手段を使うだろうし、その後は新たな人間を求めてより一層外へ出ようと暴れだすぞ」
「えーーーっ!?」
「一番《感染》しやすいのは、お前のように単純明快でわかりやすく、そして負の感情にすこぶる弱い人間だ、リネット」
「うっ……」
「なので有事の際は、一応卵や李白からは距離を取る様に」
「……はぁーい」
「おっさんもそう言ってんだ、ちゃんと言う事守れよ」
ヴァレリアに釘を刺され、リネットはしおしおとした様子で着席する。
その様子を見計らったかのように、アイゼが口を開いた。
「話を戻すけれど、スズが見た謎の少女の出現法則について。湖周辺という場所も確かにあるかもしれないけれど、条件は複数あってもおかしくないのではなくて?」
「確かに、その可能性もあるだろう」
「その場合、世界相は関係ないかしら」
「世界相か」
今度はジオリードが顎に手を当てながら考えこむ。
「確かに、スズがあの声を聴いたのは【T=/M+】ニュートラル・ミスティックだけだったな。今、我々が暮らすダーザインの感染対策課があるのは【T=/M-】ニュートラル・フィジックか。ここで発現はしないだけで、他の世界相ならば発現するという可能性は大いにある」
「でもだからといって闇雲に全部の世界相へ出向いて試すのも、時間的にも危険度的にもどうかと思うの」
「【T=/M+】ニュートラル・ミスティックであの謎の少女の存在が発現していると言うのなら、とりあえず少女の調査をするだけならば【T=/M+】ニュートラル・ミスティックでいろいろ試すのが良かろう。反対に他の世界相で発現した場合、何が起こるかまだ予測がつかん。何もないならば越したことはないが、万が一、実体を得て接触してくるような事があればスズも無事では済まないだろう」
「それは困るぞ、ジオリード」
「わかっておる、エイト。だからスズの件に関しても調査をするなら慎重に進めねばならん。これからは私とアイゼも共に現地に出向くつもりだ。研究室で出来る事は長い時間をかけて大方片付いた。あとは実物を見て判断していく他あるまい」
「了解した。スズを同行させて調査に出向く際は私も呼んでくれ。彼女の安全は、必ず私が守ろう」
スズの背を支えるように手を差し出すと、スズは神妙な面持ちでこくりと頷いた。
「ありがとうエイト。わたしもできる事を頑張る…!」
そこまで話して、そろそろ今日はもう解散ムードとなった夕暮れ時に事件は起こった。
感染対策課を後にしようと皆で部屋の後片付けをしていたちょうどその時、突然地響きのようなものが聞こえ空気が大きく揺らいだ。
その瞬間、体内へしまっていたはずのスズのプリスターが突然くるくると動き出し、同時に白い翼が大きく開き姿を現した。
「スズのプリスターが稼働している! 何か来るぞ……!」
私が大きな声を張り上げると、スズのプリスターは更に速度を増しくるくるとスズの周辺を護る様に踊る。
プリスターと背中の翼は、彼女の身が危険を察知した際に働く防衛装置のようなものだ。
何事も起きなければ、普段は見えないよう体内にしまい込んでおけるそれらが、スズの意思を無視して勝手に動き出し、私たちに警戒を促している。
その間にももう一度、今度はもっと近くの空から、唸り声のような空気を震わせる音が響く。
リネットがひゃっと声にならない叫び声をあげ、ヴァレリアがそれを横目にあたりを伺うように身構えた。
まるで稲妻のようにメリメリと空が張り裂けそうな音を発し、その直後、頭上の蛍光灯の明かりが一斉に消える。
ドン、ドンと立て続けに近くから、そして遠くからも得体のしれない衝撃音が走る。
「地震か!?」
「いえ、違うわ。これは……」
ジオリードがアイゼを庇うように立つその横で、ネビュラは咄嗟に窓から空を仰ぎ見た。
日も暮れはじめ茜色の空がもうすぐ消えかかろうとしているちょうどそこに、空を切り裂きぽっかりと浮かびあがった真っ黒な空間。
「《穴》よ! 《穴》が開いてる……!」
ネビュラは叫んだ。
その声に一同は窓辺へと走り、同じように空を仰ぎ見る。
つい先ほどまでなんの変哲もなかったそこに、突如現れた真っ黒な闇を湛えたような穴。
それがあろうことか頭上だけではなく、少し離れた空の先にもいくつか空いている。
「一体何が起きている…!?」
このような事態は、二百年以上という長い時を生きてきたジオリードですら早々体験してはいないらしい。
戸惑いを隠せない彼のすぐ傍で、同じようにアイゼがなすすべもないまま宙を見上げていた。
しかし事態はそれだけにとどまらない。
「あ……あああ、ああああああああああああああっ!」
突然、スズが奇妙な悲鳴を上げた。
何事かと彼女を見ると、顔を引きつらせながら頭を抱え込んでいる。
スズは更に何かを拒絶するかのように、息も絶え絶えに声を震わせた。
「あああ駄目……嫌だよ、やめて……もうこれ以上、わたしの《世界》をかき乱さないで……!」
その場に蹲り、スズは何度もかぶりを振る。
「どうしたスズ、どこか痛いのか…!? 何があった…!」
咄嗟にスズに駆け寄り、その体を支える。
するとスズは恐る恐る顔を上げ、まるで自らを言い聞かせるように小さく口走る。
「エイト……わたしは今度こそこの《世界》を救いたいの……オラクルネストのようになるのはもう嫌……人が死ぬをのもうこれ以上見たくないの……だから守らなきゃ、救わなきゃ……たとえもう神託が下りなくなったとしても、わたしの力が何の役にも立たないとしても。それでももう、たくさんの人が死ぬのは嫌……! だから弱いわたしはいらないの……強くならなきゃ……弱気になっちゃダメ、不安になっちゃダメ。救わなきゃ。守らなきゃ。こんな脆いわたしはいらない……!」
不気味に空いた穴の下で、ぼろりと涙を零しスズは泣きじゃくった。
まるで迷子になった小さな子供のように。
「……ずっと、そんな事を考えていたのか」
痛ましささえ覚えるその悲痛な叫びと表情に、私の胸は大きく締め付けられた。
五年前、はじめて出会ったあの頃からずっと前を向き気丈にふるまってきた少女が、実は心の奥底にこんなにも切実な思いと脆さをを内包していたとは気づけなかった。
死んでいった民たちの事を思い、悲しみ、涙を流すことはあっても、自身をこれほどまで否定するような思いが降り積もっていた事に、私はついこの時まで気づくことができなかった。
私からしてみれば、スズはただ一人生き残った最後の神の御使いだ。
誰の命にも代えられない唯一無比の存在であり、その価値を否定する事は何があっても許されない。
――ただ彼女が存在さえしてくれていれば。
そうすれば、私の中のオラクルネストはいつまでも守られる続ける。
そんな気さえしていた。
オラクルネストが消えてしまっても、彼女が存在し続けてくれる事は私の中で大きな意味があった。
スズを守るというその使命が、私に生きる意味を与えてくれた。
彼女が生きてさえいれば、もしかしたらいずれまた、神託を得る事があるかもしれない。
そんな彼女が興した《世界》が新たに作られれば、それは私にとって第二の故郷となる。
それに例え神託が下りずとも《世界》を守ろうとする崇高な彼女の力になれることが、私にとっては生きがいとなり、つまるところ大きな心の拠り所になっていたのだった。
だが、スズは違った。
スズは出会ったその頃からずっと、私よりも大きな瞳で《世界》を見下ろしていたのだ。
その肩にかかる使命と共に、少女はずっと生きてきたのだろう。
《世界》を守る事が彼女にとって何よりも優先される、そんな常識の中で、己の役目を果たせぬままその地を離れる事となった故郷オラクルネスト。
それに対する思いは、私なんかよりも遥かに深く大きい。
そして彼女の持つ慈悲の心は私のような小規模なものではなく《世界》を飛び越え広がるものであったのだ。
ゆえにスズは、人が、《世界》が傷つくことを良しとはしない。
その想いが、より一層彼女が自分を追い詰める結果となったとしても。
「こんなわたしは存在していちゃダメ……消さなきゃ、切り離さなきゃ……あの時みたいに……!」
スズのプリスターから眩い光が放たれ、視界が一瞬真っ白に消し飛んだ。
それと同時に、周りの空気がまるでガラスでも割るようにバリンと音を立てて崩れる――そんな気配がした。
その時だ。
スズの隣に、ぼんやりとした薄暗い光を放ちスズそっくりな姿をした少女が姿を現したのは。
「これは……スズの言っていた謎の少女か!?」
銀の髪にスズとは違う赤い差し色の一房をまとったその少女は、ゆっくりとその瞼を開くと、生気のない赤い瞳でこちらを見た。
次の瞬間。
「…………」
その少女は物言わず、スズに向かって攻撃を仕掛ける。
「危ない! スズ!」
とっさにコンバットナイフを握り、少女の身体をはじき返す。
スズを庇うようにしながら、わたしは少女をねめつけた。
「たとえ誰であろうと、スズを傷つけさせばしない……!」
執拗な攻撃をかわしながら、泣きじゃくるスズを背に少女を見る。
スズそっくりな少女の姿は、彼女の姿を模しているというのに随分と生気が感じられなかった。
それだけには留まらず、背に広げた羽は漆黒の闇よりも深く禍々しい瘴気を纏っている。
その羽が、あろうことか変幻自在に姿を変え、わたし達の横を、前を、足元を何度も抉った。
動きは遅く、精度はあまりよくないようだが当たれば無傷では済まされない。
早めに蹴りをつけたほうがよさそうなのは確かだったが、その見た目が、どうしても私に一瞬の躊躇いを与える。
――やりづらいな。
なんと悪趣味な見た目をしているのだろう。
スズに危害を加える者は全て排除しなくければならない。
何よりもそれをわかっていたはずだが、彼女にそっくりな少女を見ると、切り伏せる事に多少の抵抗を感じる。
だが、わたしの気持ちを知ってか知らずか、その少女は攻撃の手を緩めることなく私たちに襲い掛かってくる。
スズはまだ立ち上がる事ができない。
私は観念するとコンバットナイフを握り直し、その腕に力を込めた。
「……消えろ!」
少女の身体を、殴る様にナイフの先端で大きく一突きする。
その瞬間、少女の身体は泡のように弾けて消え、足元には何枚かの黒い羽だけが残った。
その羽も地面に落ちて暫くすると、まるで蒸発するように溶け、地に吸い込まれて消えた。
しかしそれを何かの合図としたのか、再度大きく空気が揺らぐ。
そして虚空に浮かぶ《穴》から、先ほどの機械のように無表情な少女が、黒い翼を大きく広げ再び姿を現した。
まるで蟲のように、何体も、そろぞろと。
「なんだあれは……」
私は思わず絶句した。
スズと共に見上げた空に浮かぶその少女達は、スズとは違う赤い瞳を伏せ、二つに結わいた銀色の髪を風に靡かせながら私たちを静かに見下ろしている。
その銀の髪の周りには、真っ赤な差し色の一房がゆらゆらと揺れていた。
「あまりにもスズにそっくりな姿だわ……それが、あんなに……!」
隣で弥生が震えそうになりながらなんとか声を上げた。
「銀の髪に差し色の赤い髪……これが噂のあの謎の少女という事ですか」
「しかし、こんな複数体存在しているとは聞いていないぞ!?」
美しい顔を歪める李白の傍で、ジオリードが舌打ちをした。
皆がスズを守らなければと間に立つその姿を、少女達はただ静かに眺めていた。
そしてスズを蔑むように一瞥したかと思うと、まるで機械のようにぎこちなく口を開いた。
「――ミツケタ」
その一言を号令に、黒く大きな翼を一陣の風に纏わせて少女達が一斉にスズに向かい駆け下りてくる。
弥生は懐から式紙を取り出すと、誰よりも早く少女たちの目の前にその式紙を投げつけ叫んだ。
「敵影を確認! 急急如律令、聖域展開!」
眩い光が高速で弥生の周囲へと広がり、大きな球状のバリアが感染対策課を含む建物一帯を包む。
「貴女たちを、スズの元へは行かせない…!」
弥生の緊迫した声と共に、スズめがけて降りてきた少女達の殆どはその聖域に触れた瞬間、身を弾かれ雲散霧消した。
しかし、聖域が展開されるよりも僅かに早くスズの元へ降りてきた数人の少女が私たちの前に立ちはだかる。
「あまり気が進まねぇが……戦わないわけには行かなさそうだな」
ヴァレリアが構えを取ると、リネットがそれに合わせて声を上げる。
「これ以上スズを苦しめる奴は、たとえ誰であろうと許さないんだから…!」
足止めをするように少女たちの足元にヴァレリアが咄嗟に魔力で出来た氷の雨を叩きつける。
それに合わせてリネットが、指の先から巨大なつむじ風を放ち少女たちを蹴散らした。
弥生の放った聖域と同じように、いずれも少女たちは私たちの攻撃に触れた瞬間、まるで泡にでもなったかのように目の前から姿を消した。
しかし――。
「数が多すぎるな……」
空を仰ぎ見たジオリードが《穴》から新たに表れた少女たちの姿を確認するや否や踵を返す。
「本部に連絡を取る。少しの間、持ちこたえてくれ。エイト、現場を頼む」
「了解した。スズ、こちらへ」
敵の狙いは、スズである事は明白だ。
ひとまず彼女を安全な場所へ避難させることが第一優先となる。
その間、あのまるで人形のように生気を失った多数群がる少女達の相手を誰かがしなければならない。
今までの様子を見た所、一人一人の戦闘力はさほど高い様子はなく、叩けばすぐにでも蹴散らせる程度のものであるのが幸いだった。
「それじゃ、ジオリードが帰ってくるまであたしとノアールが穴の周辺に待機するよ」
「ネビュラ、頼めるか?」
「あたしを誰だと思ってるの? エイト。足止めすればいいんでしょ? まぁ任せてよ。ノアール! 準備はいい?」
「お任せください」
恭しく頭を下げたノアールが、急に「ほっほ」と上機嫌に笑った。
「久々に腕が鳴りますな。参りますよ、お嬢様。先陣は爺におまかせあれ」