五年前。
憎きスズの身体から零れ落ちるようにしてわたしは生まれた。
スズが最後の神託を受け、エイトと一緒にオラクルネストの中央に出現した《穴》を通ったあの日。
わたしは一人この崩壊寸前の《世界》に取り残されたのだった。
生まれたばかりのわたしの瞳に映るのは、あの子が残した絶望渦巻く朽ちゆくだけの悲しい世界。
草花はとうに枯れ果て、地はひび割れ、鳥のささやきすら聞こえない。
人々はただ虚ろな目をして死にゆく時をただ待つか、命を燃やして最後の醜い争いを続けていた。
森のほとりも死体の山。
神の御使いに一縷の望みを求めて集まった人々が、無残にもそこで朽ち果てていた。
――これが、あの子の守りたかった世界なの?
わたしには信じられなかった。
夢も希望もない、生気すら失われ果てたこの大地にスズは一体何を求めているのだろう。
わたしはこんな世界はいらない……すぐにでも手放し消えてしまいたい。
そう願うのに、わたしという負を寄せ集めて出来た存在は、禍々しい瘴気に満ちたこの大地に瞬く間に順応してしまった。
消え去りたいとすら願うのに、消える事すらできない存在。
最後の《観測者》としてオラクルネストに取り残されたわたしは、死の香りに満ちた大地をただひたすらに彷徨った。
「ねぇ、誰かいないの? 誰か、だれか……」
一人でいる事が怖くなり、そう声をあげて屍のまわりを歩き回った事もある。
ただの《現象体》でしかなかったわたしが声を発する事が出来るようになったのは、負の感情に蝕まれたこの《世界》と自身が共存できるまでに順応し、定着したせいかもしれない。
そんな自分自身が怖くなり、わたしはなおさら人のぬくもりを求めて湖の周りを歩き回った。
けれど誰一人、わたしの声に応える者はいなかった。
皆息絶え、助けを求めるように伸ばした手はそのままの形で朽ち果て、あたりにはきつい腐乱臭が充満している。
死してなお悲痛な叫びを放つその屍を前に、眩暈がした。
その香りにえずきそうになりながら、わたしは何度も森のほとりを歩いた。
ただ自分以外の存在を求めて。
しかしもう、何もかも遅かったのだ。
あの子が残したこの世界には、なにひとつ希望が残っていない。
――希望は全て、あの子が持って行ってしまった。
スズ。私の分身。私の片割れ。
どうしてあの子の傍にはエイトがいて、わたしの傍には誰一人存在さえしていてくれないのだろう。
あの子には輝かしい使命と未来があり、今のわたしにはそれすらもない。
あまりにも不公平だとわたしは思った。
――あの子が憎くて憎くてたまらない。
わたしの中の妬み、嫉み、羨望、侮蔑……スズに向かう悪意は日に日に大きくなってゆく。
なぜあの子だけが救われて、わたしはこんな所にとり残されなくてはならなかったのだろう。
それがあの子が生き延びるためのただ一つの道であったとわかっていても、悔しかった。
同じ身体に生まれた一個体であったはずなのに、これじゃあまるでわたしだけが貧乏くじを引いているみたいだ。
あの子は今もきっと『世界を救いたい』だの綺麗ごとを吐きながらエイトに守られ、やがてダーザインに辿り着いた暁には、そこで天使のような笑顔を振りまき、沢山の人間に救いの手を差し出されるのだろう。
許せない、許さない。
あの子だけが救われるなんて、絶対に嫌だ。
――わたしだって、あの子の一部であるはずなのに!
スズへの感情が溢れ出して止まらなくなったころ、わたしは卵に出会った。
強力な《感染源》として《世界》を蝕み、わたしをこんな世界にただ一人閉じ込める原因を作ったその卵が、今やわたしにとって会話ができるただ一つの存在になっていたのは、あまりにも皮肉な話だった。
そして卵にとっても、わたしはこの世界に存在するただ一人の人間だったのである。
わたしは一人ぼっちの寂しさを埋めるために、そして卵は人の願いを叶えたいという純粋な欲望を叶えるためだけに、二人は寄り添い、長い時間を共にするようになった。
わたしのオラクルネストでの本名は君影鈴と言う。
しかし卵はわたしの事を「ベル」と呼んだ。
みんなは私の半身をスズと呼んでいたので、わたしも自分の事をスズと名乗っても良かったのかもしれないが、今のスズとわたしは同じ身体から生まれたのに随分と別の物になってしまった気がして、同じ名前を名乗る事にさえわたしは躊躇いがあった。
だから「鈴」の読みを変えて「ベル」と名乗った。
だから卵は私の本名を知らない。
それゆえわたしが教えた通り「ベル」と呼び掛けてくるのだ。
「ベル、今日もお話をしようか」
卵とわたし。
ふたりきりの世界で卵は語る。
自分が四分割にされこの地に埋められるより、さらに気が遠くなるような遥かに遠い昔。
本当はこの《世界》で生まれたのだと。
「僕はね、最初は小さな石ころだったんだ。オラクルネストの道端に落ちていた、少し綺麗な小さな石。それを誰かが拾って持ち帰って、綺麗に磨いて、とても大切に、まるで宝物のように扱ってくれたんだ。嬉しかったよ。その持ち主は、いつも石であった僕を握りしめて、皆の幸せを祈っていた。家族が無事に一日を過ごせますように。作物が豊かに育ちますように。今日もいい夢を見られますように。そんなふうにね」
卵は笑う。
「やがて願い事が叶うと、その持ち主は僕の事をとても褒めてくれた。これはなんて素敵な石なんだ、ってね。僕はそれがとても誇らしかった。ただの道端の石ころを褒めてくれたのはあの人が初めてだったから。それから何か心配なことがあるとき、どうしても天に祈らずにはいられない時、持ち主はいろんな人に僕という石ころを握らせて言ったんだ。この石は願いを叶えてくれる不思議な石だよ、だから大丈夫、願いはきっと叶うってね!」
「……あなたには、本当にそんな力があったの?」
「もちろんそんな力なんて無かったさ。僕はただの道端に転がっていた石ころで、それ以上でもそれ以下でもない。でも他愛無い幸せを願い、そして僕のおかげでその幸せが続いていると思ってくれた持ち主のおかげで、気づけば僕はみんなから『願いの叶う石』だと思われるようになった。それからいろんな人が僕に願い事をするようになったよ。最初こそ、僕は人の願いを叶える力なんて持っていなかったけれど、沢山の人間達がそれぞれの持つ《可能性》を少しずつ僕に捧げ祈り続けた結果、僕は本当に願いを叶えることのできる石になることが出来たんだ」
卵は誇らしげに言う。
「沢山の人の願いを叶えることができるようになって、僕はとても嬉しくなった。人々は喜んでくれたし、僕もその笑顔を見るのが大好きだったから。でも、そんな僕にも人と同じく望みが生まれた」
「一体何を願ったの?」
「僕の望みは変わらない。もっと、もーっと多くの人の願いを叶えて上げたくなっただけさ。だから、僕は石ではなく、卵になる事にした。人の願いを叶える時に、より多くの《可能性》をもらって、少しずつ少しずつ僕は卵に生まれ変わった。卵が羽化すれば、中からは雛が生まれてくる。僕はその雛になって、いずれ大きな翼を広げ、あらゆる《世界》を行き来してより多くの人の願いを叶えるんだってね」
「だから、卵になったの?」
「そうだよ。そして僕という卵は、やがてオラクルネストの皇族に大変珍しい物として献上された。僕は当時の王様と沢山の話をしたよ。王様はこの《世界》のすべての人を救いたいと、そう言った。そのお願いは、僕にとって本当に魅力的なものだったよ。だから僕は願いを叶えてあげることにした。これから生まれる王の娘たちにも僕がいずれ手に入れるであろう、白い翼を与えて、彼らの持つ信仰心という《可能性》を分けてもらう事で、彼らが《世界》を繁栄させるために必要な事を神託として授ける。そうすることで僅かな《可能性》だけを使い、世界を守り続ける事のできるシステムを作ってあげたんだ。王様は勿論大喜びさ。そして僕も、彼らが生きている間はずっと、《可能性》を受け取る事ができた」
卵は満足そうに微笑んだ。
「素敵でしょう?」
「素敵だけど……どうして貴方はそんなに《可能性》が欲しいの?」
「《可能性》が欲しいわけじゃない、人の願いを叶えてあげたいだけさ」
「でもその願いを叶えるために《可能性》は必要不可欠じゃない」
「そうだよベル、だから僕は《可能性》を集める事をやめないんだ。だってこれがなくなってしまったら、僕はただの石ころに戻ってしまうもの。もう誰も見向きもしてくれなくなるよ」
「……それは辛いよね。その気持ちは、わたしにも少しわかる気がする」
まるで自分の事を言われているみたいで、私の気持ちは少し沈んだ。
道端に捨てられた石ころのように、この《世界》に捨てられたわたし。
そんなわたしも、一度ぐらい卵のようにみんなにチヤホヤされてみたかった。
褒めてもらいたかった。必要とされたかった。
――こんな場所に、一人捨て置かれたりはしたくなかった。
そんな私の落ち込む空気を察したのか、卵は声を大きくして言った。
「ねぇベル、君にはなにか望みはないの? 僕がどんな願いでも叶えてあげる!」
「願い……」
「そうだよ、なんだっていい。君が少しばかり《可能性》を分けてくれるのなら、僕はなんだって君の願いを叶えてあげるよ。だって君は、僕のお気に入りだからね」
そう言って、卵は笑った。
しかしわたしはいつまでたっても、望みを見いだせないでいた。
絶望しかないこの世界で、一体何を望み、何を夢描けばよいのだろう。
今でこそこうして他愛無い話をしてはいるが、そもそも卵がここにある限り、この世の絶望はいつまで経っても消えないのだ。
豊かな頃のオラクルネストに戻りたいと願っても、そんな願いは露に消える。
「あなたに消えてもらいたいなんて……そんな望みは駄目だよね」
「君が本当に僕が居なくなることが望むなら、考えなくもないけど」
「それは駄目だよ、だってわたしとあなたはもう、友達だもん……わたしを一人にしないで」
「そう言うと思ったから、その願いは受け入れてあげられないなあ」
「じゃあ、オラクルネストを救ってほしい。もうこんな《世界》に居るのは嫌なの。わたしもあの子みたいに、幸せになりたい」
「あの子って?」
「スズ。わたしの分身」
「ふーん……」
卵は納得したように返事をしたが、次の瞬間、私にドキリとする問いを投げかける。
「君の願いって、本当にそんなこと?」
「え……」
「僕、違うと思うんだよなあ……本当のところはどうなの? 救われたいとか、それ以外にもっと強い望みを君から感じる」
「…………」
「僕はその望みを叶えたいんだ」
「わたしの……望み……」
「そうだよ。本当はそのスズっていう子が、憎らしいんじゃないの?」
「そうだね……そうだよ。わたしはあの子がとても憎い。憎くて憎くてたまらない。そして羨ましかった。わたしもあんな、綺麗な存在になりたかった。でも無理だよね、悪意の塊であるわたしになんて」
「……なれるよ、君もなれる」
卵が力強く言い切った。
「ただの石ころだった僕が卵になれたんだ。君もなれるよ、スズに」
「ほんとうに……?」
わたしは卵のその言葉に目を瞬かせる。
なれるものならばなってみたい。
あの子の場所を、わたしが奪う。
あの子にこの《世界》を押し付けられたように、今度はわたしがあの子の《世界》を奪うのだ。
「わたしはベル。……スズになりそこねた悪意を持った鈴という存在。わたしの願いは、マリスベルになることかもしれない」
「なら、その君の望みを叶えよう。君はスズの《可能性》ごと、全てを奪うんだ。友人も、世界も、その場所も。僕がその為に力になる」
こうしてわたしは、卵に《可能性》を預けた。
スズの行先はわかっている。
たとえあの飛び込んだ《穴》がどこに繋がっていたとしても、最終的にあの子が向かう先は“中央世界"【T=/M=】トゥルー・ニュートラルに存在するダーザイン本部に決まっている。
あの子はまだ、この朽ち果てたオラクルネストを救う事を諦めていない。
それならば目指す場所はきっと一つしかないのだから。
しかしわたしが居るオラクルネストは【T+/M+】フューチャー・ミスティックに存在する完全閉鎖された《世界》であり、ダーザイン本部のある“中央世界"【T=/M=】トゥルー・ニュートラルとは少し離れた《世界》の為、オラクルネストの内側から、わたしがスズに干渉する事はなかなか難しかった。
だが、わたしという悪意の塊であるこの存在も、確かにあの子の一部だったのだ。
スズの一部であるというただ一つの接点から、わたしは卵の力を借り、ある条件下でのみスズの精神に干渉する事が出来る事に気づいた。
オラクルネストと同じように、卵の半身が存在している、かつわたしの代わりにスズが存在している《世界》。
それこそが唯一、わたしとスズを繋ぐ接点になりえるのだと。
だから感染対策課が調査のために【T=/M+】ニュートラル・ミスティックの森のほとりへやってきたとき、わたしは手を打って喜んだ。
わたしという実体をスズの元へ送り込むことはまだ出来ないが、だがこれであの子の精神に干渉する事ができる。
そこからはとんとん拍子に話は進んだ。
卵の近くであの子の不安を煽る事で、五年前と同じように精神が不安定な状態を作り出してやれば、スズの防衛本能はきっとまた、わたしのような《現象体》を生み出し己の身を守ろうとする。
そうやってもう一人のわたしがスズの近くに産まれさえすれば、あとはいくらでもその《現象体》を通して彼女の暮らす《世界》に接触を図る事が可能となるだろう。
詳しい居場所も、ダーザインを中心に《現象体》を無数に送り込んで探せばいい。
わたしの力を分散する分、一人一人の力はなくなるけれど人を探す程度ならば問題はない。
それに《世界》の異変に、スズの身体が反応しないわけもないのだから。
「もうすぐ願いが叶うね」
わたしと暫くの時を共に過ごした卵が笑った。
わたしはその声に、満面の笑みを返した。
「うん……ありがとう!」
わたしはあなた。あなたはわたし。
わたしはあなたを許さない。
だからあの子の幸せを、わたしは何もかも奪おう。
無慈悲に捨てられたわたしには、スズを断罪する権利がきっとある。
「一人だけ幸せになるなんて、許さないんだから……!」
絶望した世界で、唯一みつけた本当の願い。
それを叶える為に、わたしはスズの前に降り立った。
スズの隣にはいつも弱い自分を支えてくれた、なつかしいエイトの姿もある。
――こんなわたしを知ったら、エイトは一体どうするだろう。
スズと同じように、今のわたしにも寄り添い守ろうとしてくれる?
それともスズを守る為に、わたしの事はそのままもう捨て置くのだろうか。
正直、どちらでもよかった。
わたしを理解してくれないのなら、そんなエイトは要らない。
わたしはわたしを理解しようとしてくれる、そんなエイトが欲しいだけなのだから。
でもほんの少しだけ、悪意に呑まれた胸が痛むのはなぜだろう。
エイトならわたしの苦悩を理解してくれるのではないか――そんな期待をしてしまうのはなぜだろう。
彼女と一緒に過ごした日々は実はそれほど長くはなかった。
それでもエイトの手を取る様にと天啓を受けたその時から、わたしはナノオートマタの瞳を通して度々彼女の姿を見つめ続けてきた。
そして知ってしまったのだ、彼女の真っ直ぐな優しさを。
スズは憎いが、どうしてもエイトだけは憎み切れない自分が居る。
「それでもわたしは、マリスベルになるって決めたから」
エイトはもしかしたら悲しむかもしれない。
でももう後戻りはできない。
幾星霜の時を経て人々の負の感情すらを溜めこんだ卵の力によって、スズという名前を捨て去った悪意の塊。
それがわたし――マリスベルなのだから。