スズは夢を見ていた。
夢だと分かったのは今はもう立ち入る事すら叶わない、故郷とまったく同じ風景が目の前に広がっていたからだ。
それを確かめるように、森を抜け湖の前の樹木の根元を確認する。
やはり昼間見た、あの禍々しい卵の姿は確認できなかった。
スズは思わずほっと胸を撫でおろす。
――ここは、今日行ったあの《世界》ではない。
それならばこれは、やはり夢なのだろう。
眠りにつく寸前、エイトと共に故郷の話をしていたせいだろうか。
ひどく懐かしいその風景を前に、スズはいつの間にか溢れていた涙を静かに拭った。
森も湖も《感染源》が押し寄せる前の、穏やかで美しい緑溢れる姿を保っている。
木々の合間で小鳥たちが可愛らしく囀り、水面は光を受けてきらきらと光る。
その少し周りでは小鳥型のナノオートマタが、本物の小鳥の群れに混じるように空を羽ばたいていた。
何もかも愛した故郷の姿そのままであり、夢ならば暫く覚めないでほしいと願ってしまうほど羨望した《世界》。
それがスズの目の前にあった。
この湖の畔は、スズのお気に入りの場所でもあった。
湖の奥にはスズをはじめ、代々の神の御使いでもある王族達の暮らす白い花畑に包まれた白亜の宮殿がある。
翼を持つ者だけがその湖の上を渡る事ができ、催事や有事の際にのみ、神の御使い達は宮殿から出ることを許された。
そして普段はナノオートマタを使役し、その機械の瞳でありとあらゆる故郷の出来事を見守ってきたのだ。
オラクルネストを護る事が神の御使いの使命であり、スズにとっても誇らしい役目であったのは言うまでもない。
催事の際に宮殿を抜け出し、実際に幸せそうに笑う人々の姿をこの目で確認する瞬間が、何よりも嬉しかった。
スズはそよぐ草の上をサクサクと音を立てながら進む。
そして湖の目の前で大きく翼を広げると、水面に滑るように降り立った。
少し進んだこの先に、白亜の宮殿がきっとある。
しかしそれを見る前に、スズはもう一つ確認しておきたいものがあった。
エイトと共にカノニカルへたどり着く際に利用した《穴》。
それは森の湖畔の東側、エイトと出会った収容所のすぐ傍にあるはずであった。
水面の上を浮遊し東を目指そうとした時、スズはまたあの声を聞いた。
――置いていかないで。
禍々しい卵と出会ったあの《世界》で聞いた、少女の声。
無翼人ならば渡る事すら不可能であろう湖の水面の下から、逼迫した声を響かせたそれにスズは驚き身をすくませた。
――お願い、一人にしないで。
あの《世界》で帰り際に聞いた、同じ台詞と同じ声。
それらが纏わりつくようにスズの足元の水面が大きく乱れ、水ぶくれのような気泡が湧いた。
あの卵を見た時のような例えようのない禍々しさを感じ、スズは慌てて足を水面から離すと逃げるように宙に浮く。
恐る恐る覗き込んだ泡立つ湖からは、なおも呼びかけるように幼い声が聞こえてきた。
――どうして私だけこんな目に。
――ゆるせない、ユルサナイ。
――ワタシハアナタヲユルサナイ……ッ!
明確に向けられた、自分への悪意。
それを理解した瞬間、スズは眠りの淵から己の意思で目を覚ました。
「……いやっ!」
思わず否定の声を上げて、布団から飛び起きる。
スズの声で目を覚ましたエイトが、何事かと少し身構えるように周囲を見渡した。
「どうしたスズ」
「あ…………エイト……わたし……っ」
震える体を抱きしめながら、スズは夢で良かったとほっと息をついた。
「少し、怖い夢を見ちゃったみたい……ごめんね、起こしちゃった」
「……何か温かい飲み物でも淹れよう。少し落ち着けば大丈夫なはずさ」
そう言って立ち上がろうとするエイトの服の裾を思わず掴む。
あれは夢だったのだ。
寝ていたエイトにそこまでの事をしてもらう程でもないだろうし、何より今は、一人にはなりたくなかった。
「ううん、大丈夫……ちょっとびっくりしただけだから。エイトが傍にいてくれたら、すぐに落ち着くよ」
「……わかった」
「うん、ありがとう」
傍に座り直してくれたエイトに感謝しながら、もぞもぞと布団に包まる。
心配そうにスズを見下ろすエイトに緩やかに前髪を撫でられながら、スズは再び眠りについた。
浅い眠りの淵を何度か行き来しながら朝を迎えたが、今度はもう、悪意に満ちたあの声を聞くことはなかったのだった。