電車の揺れに目を覚ますと、彼はいつの間にか電車の座席に座っていた。随分と早く走ったので、疲れて眠ってしまったのだろうか。
振り向けば、窓の外は一面の夜空だった。ビルも建物もない。どうやら、随分と長く眠っていたようで、かなり遠くまで来てしまったらしい。
電車の中には誰もいない。がらんどうの長細い空間が揺れながら、何処までも続いていた。
……終点が近いのか?
どうしよう。ここから帰れるだろうか……。
ノエルがそう考えた瞬間、
「やっと目が覚めたんだね」
後ろから、つまり、ノエルの真向かいの席から、声が聞こえた。
さっき迄、誰もいなかったはずなのに…。
振り返るノエル。その目に映ったのは。
「お前……」
ついさっき喫茶店で見た男だった。
ノエルのそれとと同じ身体に奇妙な服を重ねた。
ノエルのそれと対照的な、穏やかな笑みを浮かべた若者。
彼が座っている。
「君の表情があまりに穏やかだから、もしかしたら、死んでしまったのかと思った…でも生きていて良かった」
目を眩しそうに細めながら、若者は言う。
「君とは初めて、会うことになるね。僕の名前は、イヴェール」
柔らかな、すこし、掠れがちな声。自分の声と、その色合いが全く同じ事に、ノエルはすぐに気づいた。
しかし、先ほどまでの恐怖はなかった。代わりに感じたのは、とてつもない懐かしさだった。
「君の名前は?」
「…ノエル」
静けさの中に、声が響く。同じ声が重なると、こんなにも不思議な響きが生まれたとは。
「そう、ノエル。……《冬》と《降誕祭》。名前まで、僕たちはよく似ている」
イヴェールはやはり、眩しそうに微笑んで、ノエルを見る。
「なぁ、イヴェール、お前何処から出てきたんだ?」
「僕はずっとここに居たよ」
ノエルの言葉に、イヴェールは即座に答えた。
電車のガタゴト揺れる音が暫く二人を包んだ。それ以外はまったく静かだった。
そういえば、ノエルが目覚めてから一度も電車は駅に入っていない。窓の外は一様に、美しい星空だ。
「ここは何処だ?」
ノエルはイヴェールに問う。
「宇宙だよ」
「うちゅう?」
「空の中、といっても良いかもしれない」
「……悪りぃ。何を言ってんのか良くわかんねぇ」
「それなら、窓の外を見てみれば良い」
そう言ってイヴェールは真っ直ぐに、ノエルの頭上の方を指さした。
窓から外を覗くノエル。
目の前には夜空。
上も下も、何処までも、星空。
「……本当に……空中を走ってる……?これ、どうして落ちないんだ……?」
目を溢れんばかりに見開いて、小さな子どものように、ノエルは言った。
「さぁ、摂理がそう定めたからじゃないかな」
全く訳がわからない事を呟きながら、イヴェールはノエルに微笑みかける。
「そんなのどうでもいいよ。ノエル、僕は君に会いたかった」
「は?」
またおかしな事を言い出した。
しかし思い直す。ここが何処なのか、どうやったら帰ることができるのかわからない今、目の前のイヴェールと対立する事が得策だとは思えなかった。
それに。ノエルは思う。
こいつ…なんと言うか…。
酷く、無邪気で無垢だ。まるで足あとの無い雪原のような。
嘘を吐いたり、妄言を言ったりするような人物とはとても思えない。
そう思うと、本当に仲の良い従兄と久しぶりに会ったような気がするのが、とても不思議だった。
「……それでイヴェール。お前何してるんだ?」
ノエルが尋ねるとイヴェールは、その笑みをますます深くする。
「僕は本当の物語を探しに行くんだよ」
「本当の物語?」
「そう。君と僕の本当の物語」
「物語というと、小説か?」
「少し違うな。幻想……、人生、或いは信仰と言えるかもしれない」
つらつらと語るイヴェール。そういえば、彼のような人間を見た事がある。
そうだ……こいつ、グラサンに似ているんだ。
去年の今頃だった。闇の中に立つ、黒いサングラスの男。ノエルがロックバンドをやって1年、生きていられているのは彼のおかげだった。
イヴェールとRevoには近しいところがある。
「陛下の事なら、僕、君よりもよく知っていると思う。こう見えて、僕は君より幾分年上なんだ」
ノエルの心を読んだように、イヴェールはどこかで聞いたような台詞を呟く。
それが不思議で、けれど当たり前のことのようで。
「……けれど、陛下は僕を許してくださるだろうか」
ふと、苦しそうな顔をして、イヴェールは声を詰まらせた。
「なんだ。お前、グラサンに何かしたのか?」
その顔つきがあまりに悲しげで、ノエルは少し心配になる。
「そう。あの人にとって一番の幸せは生きることなんだ。……けれど僕は生まれることすら出来なかったから……その罪を、許してくださるだろうか……」
生まれることすら、出来なかった?
ノエルは首を傾げた。
目の前で悲しそうに俯いて、睫毛を伏せて。
それこそ、今にも死んでしまいそうな。
けれど、ノエルは思う。イヴェールがどんな罪を犯したとしても、彼の本意ではなかったのだろう。ノエルはイヴェールを信じる事にした。
「大丈夫だ。あいつ、あんなに怪しいけど優しいからさ。何しちまったって、許してくれるさ」
言葉を、かけながら、しかしノエルの視線はイヴェールを素通りし、窓の外を流れる星を眺める。青い澄んだ光を放つ星だ。一様の宇宙空間では遠近感も上も下もぐちゃぐちゃに混ざり合う。それでも確かに、ノエルにはその星で自分達をじっと見つめる黒い姿が見えるような気がした。
「きっと、あいつは、お前を愛する」
そうだろう?青い星の黒い影はわづかに頷いたように見えた。
ノエルの言葉に、イヴェールは顔を上げる。
「そう…そうだね。きっと、陛下は僕の事を愛してくれるだろう」
急に、あたりがぱっと白く明るくなった。
「見て、ノエル。天の河だ」
イヴェールの声と共にノエルは電車の窓に張り付き、見られるだけ、外の光景を見た。眼下には、眩いばかりの光を放つ河が広がっていた。海のように幅の広い河だ。眩しいのに、河の底の水晶の小石や、細かな水飛沫をあげるさざ波のひとつまで見えた。
「……すげぇ!これすげぇよ!なぁ、イヴェール!」
「本当に、本当に綺麗だ」
二人で感嘆の声を上げる姿は、まるで小さな兄弟の様。
広大な河からは、涼やかな音が流れてくる。電車の中にあっても、かすかに、しかし、はっきりと聞こえる。
ノエルは、薄く水銀色に光るようなその音色を拾い上げ、そっと口ずさんだ。日常の物音から音楽を拾い上げるのは昔から彼の癖だった。
「そのメロディ。大好きだよ」
耳聡く、それを聞いてイヴェールが笑い声を立てる。
楽しそうな、本当に楽しそうな、少年の笑い。
「君は、本当に、根っからの音楽家なんだね。君は陛下とおんなじだ」
「そうか?お前の声も、目も、笑った顔も、俺よりずっとグラサンに似ているぜ」
未だ世界の悪意を知らぬ少年はとてもまぶしく、限りなく愛おしい。まるで双子の弟の様に、イヴェールを守ってやりたい。そう思う。
ノエルは言った。
「……なぁイヴェールお前、物語を探しているんだろう?」
「そうだよ。僕は永遠に、物語を探しているんだ」
「その旅にさ、俺もついて行って良いか?」
「え?」
イヴェールは目を見開いて、ノエルを見た。
「君、が?……でも、僕が探す時間は殆ど永遠だよ。苦しいと思うよ。それでも一緒に行ってくれる?」
「あぁ。お前となら地獄に落ちたって構わない。物語を探しに行こう。ずっと探し続けよう」
ノエルの言葉を聞いたイヴェールは、見開いた目を細めた。
「あぁ、そうだ。そうしよう。僕達は、永遠に……」
その先を聞くまでもなく、ノエルはイヴェールを抱きしめた。