二人の身体が触れ合う、その瞬間。
「……え?」
ノエルは座席のビロードの上へ崩れ落ちていた。
「……イヴェール?」
ついさっきまで居たはずのイヴェールは何処にも居ない。ノエルは弾かれたように立ち上がり、辺りを見回す。
電車は相変わらず、蛍光灯の光に照らされて、夜空を走る。
「イヴェール?!イヴェール!おい、何処行っちまったんだよ!イヴェール!」
虚ろな車内にノエルの声は虚しく響いた。
目の前が真っ暗になった様な気がした。同時に、目頭が燃えるような熱を持つ。
そのとき、
「ノエル。泣かないで、こっちをご覧」
聞こえたのは懐かしい声。ノエルの真後ろ、ちょうどさっき彼が座っていた所だ。
ノエルは涙をはらい、そっちをふり向いた。さっきまで自分が座っていた席に黒い大きなサングラスの男が微笑みながら座っていた。
「イヴェールがどこかへ行ったから、泣いているんだろう?」
男が言う。イヴェールと、自分と同じ声で。
自分とは違う穏やかな声で。
「ああ、そうだグラサン。テメェか?イヴェールをどっかへやったのは!」
「グラサン?僕の名前は……レボローニ博士だよ。そうだな、そうだとも言えるし、そうでないとも言えるね。けれど、最初にイヴェールが言っていたように、彼はいつもここに居るんだよ。君はずっとイヴェールと共に生きてきたし、これからも一緒だ」
「意味分かんねぇよ。あいつが居なきゃ意味が無いんだ。あいつは…」
「君自身だから?」
「……」
ノエルは言葉に詰まった。そうだ。イヴェールはノエル自身だった。親戚でも双子の兄弟でもなく。
それよりもずっと大切な。自分自身だ。
「やっと分かったようだね。そう。君もイヴェールも、僕が作り上げた物語の登場人物に過ぎない。だから君たちはよく似ているんだ。僕の声を聞いてご覧。僕の顔をみてごらん。君達とよく似ているから。創造主は自分に似せて人を作るものさ。そして芸術家が自分の作品を愛するように、君達を愛しているんだよ」
「お前が俺の造り主?ふざけんな。じゃあ、俺の母親は?父親や婆ちゃんは誰なんだよ?」
いまだ激しい口調のノエルに、博士は大きな笑みを見せた。
「良かった。僕の実験は成功したみたいだね。ノエル。君を造るにあたり、僕はちょっとした工夫をしたんだ」
「工夫?」
訳がわからず、訊き返す。
「ノエル、僕がイヴェールに与えず、君に与えたものは何だと思う?」
「えっと……」
そんなものが果たしてあるのだろうか。あんなに幸せなイヴェールに与えられず、不幸な自分に与えられたもの。
「教えてあげよう。僕が君に与えたもの。それは、未来だ」
「……未来?」
繰返しながら、ノエルはふと、イヴェールの言葉を思い出した。
僕は生まれることすらできなかった……
彼はそう言っていたのだ。
文字通りの意味だったのか。
だから、あんなにもイヴェールは無垢だったのだ。
「未来。そして過去も。君はかつて少年だった。何も知らないまま遣って来て、世界の悪意に晒される少年だった。いまは新星ロックバンドのギタリストにしてボーカリスト。この生き方を僕は心から祝福しよう。けれど、これからは?」
博士はとん、とノエルの肩に手を置いた。重く、温かく、優しさが滲み出るような感覚だった。
「これからは、僕の物語じゃないんだ。君の物語なんだよ、ノエル。この物語の中では、君は、何にでもなる事が出来るんだ。いつか君は誰かと出逢って、…もう出会っているかもしれないけれど、恋に落ちるだろう。娘か息子を授かり、父親になるだろう。或いは、その様な生き方はしないだろう。どう生きようが、君は自由だ。
だから、君は生きなければならない。どんな事があっても、歩みを止めてはならない。最期の、最期まで、行かなければいけない。炎の道も茨の地も進んで欲しい。そして……皆までは言うまい……生きているなら」
「燃えてやれ!……か?」
置かれた手の上に自分の手を重ねてノエルはその言葉を引継ぐ。
「あんた本当、変わんねぇな」
サングラスの奥に向かって、ノエルは笑った。
「君もまったく、変わっていないよ。君と僕はよく似ている。僕に出来たのだから、きっと君にもできる。やってくれ」
その笑顔は本当にイヴェールと似ていた。
ああ、本当にイヴェールがいるようだ。
「よし。それじゃあ、ここでお別れだ。君に逢えて良かった。イヴェールもそう思っている。……そうだ。最後に、君に、1つ贈り物をしよう。大切に持っていなさい」
博士はノエルの耳元に口を近づけ、一節のメロディを口ずさんだ。
それは、あの天の河でノエルが生んだ音楽だった。
イヴェールが愛した音だった。
ノエルは唇を噛み締めて、それを聞いていた。生涯忘れないように、イヴェールの事を忘れないために。彼の幸福な物語のために!
「さあ。行きなさい。君は君の地平線を目指して……幸せにおなりなさい」
その瞬間、電車の中がさっと白く光った。
「さぁ、行くぞ、リオンっ!ポニーっ!バニーっ!
そんな声が聴こえ、目の前を大きな影がさっと横切るのが見えた。
原作のこの部分が難しくて、けれど大好きでしょうが無いのです。