九校戦・予選
競技場の空気は熱気に包まれていた。
選手たちの魔法が光を放つたび、観客席から歓声が上がる。
第一高校の試合が始まれば、その声援はさらに大きなものとなった。
――その喧騒を切り裂くように、観客席の通路に黒い影が現れた。
数人のスーツ姿が整然と歩く。
濃紺や黒で統一された三つ揃い、革靴の足音が階段に乾いたリズムを刻む。
その中心に、ひときわ目を引く男がいた。
マイルズ
彼が視線を動かすだけで、周囲のざわめきは自然と小さくなっていく。
「……あれ、ブラザーズ社の……」
「社長本人?」
「一般席に? 本当に?」
驚きはやがて憧憬に変わる。
「カリスマってこういうのを言うんだな……」
「本物の実業家って、雰囲気から違うな」
マイルズは物言わず前列の空席に腰を下ろした。
部下たちは彼を囲むように座り、その一角だけが異質な領域と化す。
試合が始まると、マイルズはポケットから紙巻きタバコを取り出した。
火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。
青白い煙が観客席の光に揺らめき、彼の周囲だけが別世界のように切り取られていた。
近くにいた大会係員が禁煙違反に気づき、一瞬こちらへ歩みかける。
だがマイルズの存在と、背後に並ぶ部下たちを目にした瞬間、顔を強張らせて立ち止まった。
数秒の逡巡ののち、何事もなかったかのように視線を逸らし、別の通路へと引き返していく。
観客たちも同じく、誰一人として注意しようとはしなかった。
ほのかはマイルズを少し見て、小声で呟いた。
「ねえ、しずく……どうしてVIPの人が一般席に?」
「……わからないけど、ここ禁煙のはずなんだけど」
しずくが淡々と呟く。
席から、その姿を目にした深雪は息を呑んだ。
川崎の夜――あの冷たい気配が、目の前に蘇る。
無意識に周囲の温度を下げかける。
その瞬間、隣に座っていた達也の腕が静かに伸び、深雪の肩を抱き寄せた。
ほんのわずか、他人からは支え合うようにしか見えない自然な仕草。
だが深雪にとっては、兄の確かな力がその震えを抑え込む支えとなった。
「……ありがとうございます、お兄さま」
深雪は小さく囁き、冷気を押し戻す。
そんな空気を切り裂くように、背後から澄んだ声が響いた。
「やっぱり……来ていたのね」
振り返れば、七草真由美が微笑を浮かべて立っていた。
笑顔は柔らかいが、その瞳にはわずかな緊張の色が宿る。
隣には十文字克人。険しい面差しを崩さず、マイルズを真っ直ぐに見据えていた。
真由美はゆるやかに歩み寄り、声を整えて告げる。
「ここは禁煙です。ご存じですか?」
マイルズは一瞬だけ二人を見やり、そして小さく笑った。
「……そうか。知らなかったよ」
言うが早いか、タバコを灰皿に押し消す。
驚くほど素直な仕草に、周囲の観客がざわめいた。
「助かる」
マイルズは軽く肩をすくめ、視線を再び真由美と十文字へ。
「実は、あなた方と少し話がしたいと思っていた」
真由美の笑みがわずかに揺れる。
十文字は前に出て、低い声で応じた。
「……ここでですか?」
「いや」
マイルズは静かに首を振った。
「もっと落ち着いて話せる場所でだ。――どうだ?」
競技の歓声が鳴り響く中、観客席の一角にだけ、別種の緊張が漂っていた。
観戦席から伸びる廊下を、マイルズが先頭を歩いていた。
黒いスーツの部下が左右と背後に控え、十文字と真由美はその後に続く。
革靴が床を叩く乾いた響きだけが広がり、すれ違う係員たちは無言で身を引いた。
やがて、スポンサー専用ルームの扉が開かれる。
重厚な机と革張りのソファ、壁に並ぶ後援企業のロゴ。外の喧騒とは切り離された、密閉された静けさがそこにあった。
マイルズは迷いなく奥へ進み、ゆったりと腰を下ろす。
スーツの上着を脱ぎ、背後の部下に預ける。その所作ひとつで、この場が彼の支配下であることを示した。
卓上のボトルから琥珀色を注ぎ入れる。氷が澄んだ音を立て、ウイスキーの香りが満ちる。
「よく来てくれた」
グラスを傾けながら、マイルズは薄く笑った。
「同じ会場にいながら顔も合わせずに帰るのは、無粋だからな」
軽く顎をしゃくる。
「……一杯どうだ?」
十文字が黙したまま視線を送ると、マイルズは小さく鼻で笑った。
「ああ、そうだったな。まだ未成年か」
彼は自分のグラスを掲げ、琥珀を一息で喉に流し込む。
「悪いな。これはもう癖みたいなもんでね」
氷の音がカランと響く。
マイルズはグラスを置き、指を軽く弾いた。
「……お茶でも持ってこい」
部下が頷いて動き出す。その間に彼はポケットから煙草を取り出し、唇に咥える。
火を灯すと先端に赤が走り、青白い煙が立ち上った。
十文字が低く問う。
「……それで、話というのは」
マイルズは煙を吐き、目を細めた。
「――川崎の件だ」
その名を聞いた瞬間、十文字の背が硬直し、真由美の微笑がわずかに揺らいだ。
声は発しなかったが、二人の体から緊張が滲み出ていた。
マイルズはその反応を楽しむように口の端を上げた。
「忘れたなんて言わせない。あの夜のことは、ここで清算しておく」
真由美が静かに返す。
「……清算、ですか」
「そうだ」
マイルズはグラスを指先で転がしながら淡々と続ける。
「俺たちも、君たちも……あの夜で一線を越えた。
だが九校戦で騒ぎを起こすのは得策じゃない」
一口含み、喉を鳴らす。
「まあ、十文字家と俺たちの関わりは深くない。
――七草とは違ってな」
十文字の瞳が鋭さを帯びるが、マイルズは意に介さない。
「十文字克人。君はまだ“次期当主”だ。
俺たちとの関係を知らなかった。それならそれでいい。
だからこそ、見逃してやる」
視線を真由美に移す。
「……七草真由美。君も同じだ。まだ候補の立場だから、家が裏でどう動いてきたか知らなかったんだろう」
真由美の微笑が一瞬揺らぎ、すぐに整えられる。
マイルズはわずかに笑みを深め、グラスを置いた。
「今回の件で――俺たちのことは理解できただろう」
声を落として言い切る。
「次は……やったら、分かってるな」
その言葉と同時に、黒服たちが動いた。
冷たい銃口が十文字と真由美の後頭部に押し当てられる。
唐突に走った死の圧力に、部屋の空気が凍りつく。
十文字の拳が震えたが、やがて静かに言葉を絞り出した。
「……心得ました」
真由美もまた、微笑を崩さずに小さく息を整えた。
「……肝に銘じます」
マイルズは淡々と告げる。
「俺たちに二度目はない。」
短い間を置き、手を軽く上げる。
「……下ろせ」
黒服たちは即座に銃を引き、背後に退く。数秒前までの死の気配は霧散した。
マイルズは改めてグラスを取り上げ、琥珀を喉に流し込む。
「いい。なら、それで済む話だ」
十文字と真由美は無言で立ち上がった。
冷たい空気を背に、礼を交わすこともなく扉へと向かう。
この場を一刻も早く離れたい、そんな思いが態度に滲んでいた。
その背に、ふっとマイルズの声が落ちた。
「……そうだな。ついでに言っておこう。俺は第一高校を応援しているよ」
二人の足が止まる。
十文字の眉がかすかに動き、真由美の瞳が揺れる。
一瞬の沈黙ののち、真由美がわずかに微笑んで口を開いた。
「……ありがとうございます」
その声音には安堵も感謝もなく、ただ場を収めようとする色だけが滲んでいた。
十文字もまた、苦々しい息を押し殺しながら低く告げた。
「……感謝します」
マイルズは二人の言葉を意に介さず、新しい煙草を取り出した。
唇に咥え、ライターを弾く。
ぱち、と小さな火が灯り、再び先端に赤が走る。
深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
青白い煙がゆらゆらと天井に溶けていき、部屋全体を覆い尽くすように漂った。
「――健闘を祈るよ」
その声は祝福とも脅迫ともつかず、
ただ一方的に優位を示す者だけが口にできる調子だった。
外の歓声と喧騒とは裏腹に、部屋の中には冷たい沈黙が広がっていた。