「……体が勝手に動きました。非合理的な話です。」
…バラキエル=フォン=アルビレオ(帝国歴1163~帝国歴1251)
ゴーティエ辺境伯マティアスとの、フォドラの歴史を揺るがしかねない「黒い商談」を終えた直後のことだ。
ガルグ=マク大修道院の厩舎裏で、シルヴァンは信じられないものを見るような目で、それを見下ろしていた。
「……おい、マジかよ。『アルビレオ家との交易路を承認した』って。あの石頭の親父が、スレンとの交易を認めたのか?」
シルヴァンの手には、実家からの書簡が握られている。長年、北の民との血みどろの歴史を見てきた彼にとって、それは天変地異にも等しい報告だった。
ことの中心であるバラキエルは、その報告を受けて城の回廊を探し回っていたシルヴァンに捕まった。
「よお、バラキエル。親父からの手紙……見たぜ。何があったか知らないけど、こんな手紙を書いて送ってくる親父は初めてだよ。一体、どんな魔法を使ったんだい?」
シルヴァンはいつもの軽薄な笑みを浮かべていたが、その瞳は鋭くバラキエルを観察していた。
スレンを憎み抜いている父が、商会の提案を受け入れた。普段の父からすれば絶対にありえないその事実に、彼は戦慄すら覚えていたのだ。
しかし、バラキエルから返ってきたのは、いつもの自信満々な言葉ではなかった。
「……ああ、シルヴァンさん。……すみません、今は少し、一人にしておいていただけますか」
「は……?」
バラキエルは、目に見えて意気消沈していた。肩を落とし、ため息をつくその姿には、策士としての面影はない。
「ちょっとちょっと、どうしたんだよ。商談は成立したんだろ? なにをそんなにヘコんでるんだ?もっと喜べって」
「……喜べませんよ。そのために私が何をしたか、知れば貴方も軽蔑するでしょう」
「は? そこまで言う? なにしたの、お前?」
「初回の交渉……というか、接触の際の話です。私は、襲撃に来たスレンの先遣隊の目の前で、交易品である小麦粉と塩に、油をかけて燃やしました」
「は……?」
シルヴァンが絶句する。
「燃やしたって……商品をか? 相手は飢えてるんだろ?」
「ええ。だからこそです。彼らが襲い掛かろうとしたら、松明を投げ込むように命じておいたのです。『奪おうとすれば、お前たちが喉から手が出るほど欲しい食料は全て灰になる』と見せつけるために」
「お前……」
「父の報告では、作戦は成功。焼け残ったわずかな食料と、彼らの持つ鉱石を交換した、とのことです」
バラキエルは自身の拳を強く握りしめた。
「これからも、交渉のたびに何度かやるつもりです………『奪えばゼロ、話せば食える』と、骨の髄まで理解させるために。彼らが『襲撃』という選択肢を脳から消し去るまで、私は目の前の飢えた人間を見捨てて、食べ物をドブに捨て続ける。そういう指示を出し続ける。現場にいないなど……言い訳にもならない」
現代日本人の感覚を持つ彼にとって、食べ物を粗末にすること、ましてや飢餓状態の人間を目の前にしてそれを行うことは、生理的な嫌悪感を伴う行為だ。
だが、この世界で、フォドラの平和という「計算」を合わせるためには、心を殺して実行するしかなかった。
「……まったく。ひどい話でしょう? 自分でも、何やってんだかと思いますよ」
自嘲気味に笑うバラキエル。
そんな彼を見て、シルヴァンは呆れ――いや、戦慄していた。
「(こいつは、ただの金の亡者じゃねえ……)」
スレンを「可哀想な隣人」と憐れむわけでも、「憎き敵」と殺すわけでもない。ただ目的のために、最も効果的で、かつ自分の心が傷つく泥みどろの手段を平然と(目の前の様子からして、平然とはしていないようだが)選んでみせたのだ。
「……とんでもねぇな、アンタ。やっぱり悪魔だよ」
「何を言っているんですかシルヴァンさん。私は人間ですよ」
「おいおい。これでも一応、褒めてるんだぜ?」
シルヴァンの慰めに、「ではそのように受け取っておきます」と力なく手を振って去っていくバラキエルの背中を見送りながら、シルヴァンは認識を改めていた。
この男は、綺麗事だけじゃ救えないものを救おうとしているのかもしれない、と。
その深夜、ガルグ=マクの書庫。
ロウソクの火が爆ぜる音だけが響く静寂の中、バラキエルは昼間の自己嫌悪を振り払うように、北方交易の試算表を記す作業に没頭していた。
記帳を終え、試算表を閉じたその時―――影から声が掛かる。
「熱心だな、バラキエル。商売の計算か? それとも、俺たちの知らない『未来』の計算か?」
振り返ると、そこにはクロードがいた。いつもの飄々とした笑みではない。獲物を狙う、野心家としての冷徹な瞳だ。
「……級長。驚かせないでください。ただの帳簿付けですよ」
「帳簿、ねえ。」
クロードがゆっくりと歩み寄る。その手は、腰の短剣に近い。
「マイクランが魔獣化することを予見していたような布陣。軍の士気を支える未知の栄養学。そして、頑固なゴーティエ辺境伯を言いくるめる交渉術にスレンを手玉に取るやり口。……お前、本当に『商家の息子』か?」
バラキエルの背中に冷や汗が流れる。
前世の知識というアドバンテージがあろうとも、目の前にいるのは幾多の死線を潜り抜け、血生臭い権力闘争の中で「卓上の鬼神」へと成長する本物の天才だ。現代日本人の精神力で、その殺気にも似た威圧感に耐え続けるのは容易ではない。
自然と、両拳に力が入る。手の中が嫌な手汗で湿る感覚を我慢しながら、バラキエルはあえて視線を逸らさずに言葉を紡いだ。
「……信じてもらえないかもしれませんが、必死なだけですよ、クロードさん。この先に待つ混沌から、自分の命と、守りたいものを守るために」
「……………必死、か。いい答えだ」
クロードは不敵に笑い、剣先を向ける代わりに、バラキエルの肩を叩いた。
「いいか。お前が何者で、何を隠していようが構わない。
―――ただ、俺にも俺なりに目的ってモンがあってだな?」
口調は、いつも通りのそれだった。
だが、それが何よりも恐ろしい。
「もし、アンタが俺の『目的』の邪魔になるってんなら、その時は『商談』じゃ済まさない」
そこには、凄味があった。正真正銘、生き残ってきたもののそれだった。
「……ま、今のところはお前のおかげで金鹿の財布も潤ってる。これからもよろしくな、バラキエル」
バラキエルは、去りゆく彼の背中を見送りながら、深く息を吐いた。
「(バレている……いや、『泳がされている』のか。やはり、あの男を騙しきることなど不可能だったか)」
シルヴァンに見せた苦悩も、クロードに見せた必死さも、全ては薄氷の上。
現代日本人の甘さを捨てなければ、明日には首が飛ぶ。その実感を、彼は改めて骨身に刻んだ。
その翌日。食堂では、ヒルダやカトリーヌたちが昨日の戦果について賑やかに盛り上がっていた。
「ねー、先生のあの剣すごかったよね! まるで生き物みたいでさ~!」
お祭り騒ぎのような金鹿の空気。その中で、リシテアだけが眉をひそめ、一人離れた席で難しい魔道書を広げていた。
「……騒々しい。そんな暇があるなら、次の戦術を練ればいいのに」
彼女にとって、金鹿の「家族のような甘さ」は、時として耐え難い苛立ちの原因となる。
自分には時間がない。人生を燃やし尽くしてでも成し遂げるべきことがある。こんな自分を育ててくれた、両親のために―――。
そう考える彼女にとって、級友たちの能天気さは「停滞」にしか見えないのだ。
「甘いお菓子でもいかがですか、リシテアさん」
隣に座ったのは、バラキエルだった。彼は周囲に聞こえない程度の声で、事務的に続けた。
「……ハンネマン先生との共同研究。第一段階の術式構築が終わりました。今夜、検証を始めましょう。これは貴女の『寿命』に関わる、最優先事項です」
リシテアの瞳に、初めて生気が宿る。
「……ええ。分かっています」
彼女は知っている。クロードは自分を「守るべき子供」として扱う。他の仲間たちも、自分を「頼もしい年下」としか見ていない。
だが、このバラキエルという男だけは、自分の「死」を正面から見据え、最短距離で解決策を提示してくる。
彼が提示する冷徹なまでの合理性と、秘密を共有する緊張感。それこそが、今の彼女にとって唯一、自分が「大人」として、そして「一人の人間」として存在できる居場所だった。
「……バラキエル。たまに思うのです。あんたが居なかったら、私は今頃、帝国のあの人に縋っていたかもしれない、って」
「あの人……エーデルガルト様ですか?」
「……彼女は、なんとなく私と同じ気がするんです。焦っている。焦燥感がある」
「でも」とリシテアは続けた。
「あんたの瞳にあるのは『傲慢』です。運命なんて、商売のついでに書き換えてやるっていう、呆れるほどの傲慢。……私は、そっちの方が信じられる」
「おかしいですかね」と笑うリシテア。バラキエルは、そんなリシテアの信頼に応えるように頷いた。
だが、内心では激しい葛藤があった。
「(『傲慢』、かぁ)」
自分のことをそんな風に見られていたとは。目から鱗でも落ちたかのようだ。
彼自身、まだ自分を客観視できていないようだ。
無論、実際は違う。
「(これからエーデルガルトが起こすであろう戦争………そして『闇に蠢く者たち』がどう動くか………何もかもが分からない。だからどう来られても困らないようにしてきたつもりだったが)」
バラキエルは、自分が「正義の味方」などではないことを自覚している。
そもそも、この世界に生まれ落ちたと知った時点で、正義云々などは努めて真っ先に捨てるようにしていた。
最推しであるリシテアを救おうとしているのも、彼女という強力な魔道士を陣営に引き止め、自分の生存率を上げるためという側面が否定できない。
だが、その不純な動機すらも、今の彼女にとっては「救い」になっているようだ。
―――これでいいのだろうか。
「さあ、行きましょうか、ナビ。怪盗ごっこの続きは、研究室で」
「だから、その呼び方はやめなさいと言っているでしょう、バラキエル!」
そんな疑問に蓋をするかのように、微笑んだ。
バラキエルのジョークに、少しだけ頬を染めて反論するリシテア。
金鹿という陽気な学級の片隅で、二人の「異分子」は、フォドラの常識を根底から覆すための危険な綱渡りを続けていく。
その足元で、破滅の足音が確実に近づいていることも知らずに。
ハンネマンの研究室にて。ランタンの中の蝋燭の炎が放つ淡い燐光が、部屋の隅々に長い影を落としていた。
実験器具の硝子がチリチリと微かな音を立て、張り詰めた空気が肌を刺す。
「いいかい、リシテア君。そしてバラキエル君。これは紋章学の歴史における大きな一歩だ。だが同時に、未知の領域でもある」
ハンネマンの言葉には、学究的な興奮と、同時に年長者としての深い懸念が混じっていた。
「君の体内で相克を起こしている二つの紋章――『カロン』と『グロスタール』。この実験の目的は、その過剰なエネルギーを一時的に外部へと逃がし、魔力波形を観測することにある」
中央の魔法円にはリシテアが座り、その周囲をバラキエルが各地から取り寄せた特殊な「魔力減衰鉱石」が囲んでいる。
リシテアは緊張に震える膝を隠すように、スカートの裾をギュッと握りしめていた。
「……始めてください、先生。私は、大丈夫ですから」
「ああ。だが、少しでも異常を感じたらすぐに言うのだぞ」
リシテアが小さく頷くのを確認し、バラキエルはその隣、魔法円の境界線ギリギリに立った。手には、術式を強制遮断するためのレバーが握られている。
「では……開始する!」
ハンネマンが魔力を流し込むと、室内の温度が急激に低下した。
吐く息が白く染まる中、リシテアの背後に二つの紋章が不気味な光を放って浮き上がる。雷光を纏う大紋章と、妖しく揺らめく小紋章。相反する二つの力が、彼女の華奢な体を依り代に軋みをあげる。
「ぐっ……うぅ……!」
「順調だ。我慢してくれ、リシテア君。エネルギーが鉱石へと転移を始めて……なっ、なんだと!?」
ハンネマンの声が裏返った。
観測用の魔道機器がバチバチと火花を散らし、針が振り切れる。
「バラキエル君! 想定よりも出力が高すぎる! 鉱石が限界だ! エネルギーが逆流するぞ!!」
リシテアの体から放出された魔力が、鉱石の許容量を超え、予期せぬ暴走を引き起こしたのだ。赤黒い光が膨張し、空間そのものが悲鳴を上げる。
「リシテアさん、離れて――!」
バラキエルが叫ぶより早く、円陣の中央で黒紫色の雷光が爆ぜた。
行き場を失った紋章の暴走エネルギーが、逆流してリシテア自身へと牙を剥く。
「あ、あああああッ!!」
「リシテア!!」
衝撃で弾き飛ばされそうになるリシテア。その体が、肉体を崩壊させかねない凄まじい魔力奔流に呑み込まれようとした瞬間。
一つの影がその光の中に飛び込んだ。
バラキエルだった。
彼は安全装置のレバーを放り出し、剥き出しの魔力嵐の中に素手で割り込むと、リシテアの体を無理やり引き寄せ、自身の背中でその衝撃をすべて受け止めた。
「ぐ、う、あぁぁぁ!!」
ドォォォォン!!
鈍い衝撃音と共に、バラキエルのコートが焼け焦げ、背中の皮膚が焼ける嫌な臭いが立ち込める。それは炎による火傷ではない。魔力が細胞を直接蝕む、呪いにも似た激痛だ。
「バラキエル!? なにやって……馬鹿、離しなさい! あんたまで死ぬわよ!」
腕の中でリシテアが叫ぶ。だが、バラキエルは彼女の頭を抱え込み、決して離そうとしない。
「黙って……ください……っ! ぐっ……!!」
「離して! なんでよ!!」
「貴女を……失う計算など……私は立てていないッ!!」
バラキエルは血の滲むほど歯を食いしばり、もう片方の手で、暴走する陣の核となっている魔石を素手で掴み取った。
「おおおおおおッ!!」
咆哮と共に、術式を物理的に引き剥がす。魔力がショートし、激しい爆発と共に研究室を暗闇が包み込んだ。
しばらくして、予備の灯火をつけたハンネマンが駆け寄った。
「二人とも! 無事か!」
煙が立ち込める床の上で、バラキエルはリシテアを庇うように覆いかぶさったまま、荒い息をついていた。
「……はぁ、はぁ……研究データは……取れましたか……先生……」
「馬鹿者! データの前に自分の身を案じろ! ……だが、君のおかげでリシテア君は無傷だ」
ハンネマンの言葉に、リシテアは息を呑んだ。
至近距離で見た彼の背中は、無残に焼け爛れ、指先は魔力の逆流による火傷で小刻みに震えている。
彼女は知っている。この男は常に「損得」を口にし、「効率」を求める人間だ。魔力の奔流に飛び込んで自分を庇うなど、彼が最も嫌う非合理的で感情的な行動に他ならない。
「……なんで……」
リシテアの声が震える。涙が溢れ出し、バラキエルの胸元を濡らした。
「なんで、こんな無茶をしたんですか!あんたは、私を利用するために助けてるんじゃなかったの……? 私が死んだら、また別の手段を探せばいいじゃない……っ!」
「ふふふ………何を、おかしなことを」
バラキエルは、激痛に顔を歪めながらも、彼女にだけ見えるような、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
だがその瞳には、いつもの計算高さはなく、ただ純粋な安堵だけがあった。
「……言ったでしょう。貴女を……失うわけにはいかないと」
震える手が、リシテアの涙を拭う。
「……貴女を死なせるには……あまりに、惜しすぎる……」
そう言い残すと、バラキエルは糸が切れたように意識を失った。
その後―――日が昇りはじめたその時刻。医務室のベッドで目を覚ましたバラキエルは、強烈な甘い匂いで意識を引き戻された。
「……おはようございます、リシテアさん」
重い体を起こすと、ベッドの横には、泣き腫らした真っ赤な目で、山積みのケーキの箱を抱えたリシテアが座っていた。
「……おはようございます」
「そのケーキ、まさか私のお見舞いですか? さすがに今は胃が受け付けそうにないのですが」
「……うるさい。あんたの分じゃないわよ。私が、私の精神安定のために食べるの!」
ぷい、と顔を背けるリシテア。だが、その耳は赤い。
彼女は山積みの箱の中から、小さな包みを一つ取り出し、乱暴にバラキエルの膝の上に置いた。
「……でも、一人で食べるのも味気ないから。これ、あげるわよ」
それは、街の評判店で売っている、果実を使った甘さ控えめのタルトだった。バラキエルが以前、「甘すぎるのは苦手だ」と漏らしたことを覚えていたのだ。
「……ありがとうございます。いただきます」
「……二度と、あんな無茶しないでくださいね。私のために傷つくなんて、許しませんから」
二人の間に流れる空気は、これまでの「契約者」という冷淡な関係から、少しずつ、だが決定的に変化し始めていた。共犯者であり、互いを誰よりも案じるパートナーへと。
――そして。変化しているといえば、この男もそうである。
「…へぇ」
医務室の扉の隙間から、金鹿の学級の級長・クロードがその様子を覗き見ていた。
先日、バラキエルに「裏切るな」と釘を刺した彼だが、医務室で繰り広げられている甘く不器用なひとときを偶然――半分くらい仕組んだ「偶然」だが――見つけ、口元を緩めた。
クロードは、バラキエルという男を「得体の知れない策士」として警戒していた。自分と同じ匂いがする、油断のならない相手だと。
だが、今の彼の姿はどうだ。損得勘定抜きで少女を守り、その少女の不器用な優しさに、心底嬉しそうな顔をしている。
「(使えそうだが怪しいヤツと思ってたが……あんな顔もできるんだな)」
シルヴァンから聞いた「食料を燃やして凹む男」の話と、今、目の前で少女のために傷を負い、その少女の優しさに照れている男。
冷徹な計算機のようには振る舞えない、人間臭い一面。
バラキエルの非合理的な行動は、人知れず、疑り深い麒麟児の警戒心を少しずつ、しかし確実に解いていたのだった。
何やってるんでしょうかねぇ。非合理的。
まぁでも、人間ってそんなもんなのかもしれません><
バラキエル「私が誰をスカウトするか知りたいですか?…賭けてみるのはいかがでしょう?まぁ使える人間は、誰でも使いますがね」
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