ユメ先輩(銃の魔人) 作:虎3
銃の魔人は木目の床に手をついて、ゆっくりと身体を起こした。
目の前の壁には、自身が突き破った大穴が空いている。
そこから差し込んだ光が、室内を漂う砂埃をキラキラと照らした。
イオリに殴り飛ばされ、吹き飛んだ先は洋菓子屋のようだった。
ガラス窓の破片やレンガ片に紛れて、カラフルに包装されたチョコレートが散らばっている。
──そういえば、10番が食べたいって言ってたっけ。
ぐわんぐわんと揺れる頭で思い出し、気まぐれにいくつか拾い、スカートのポケットに放り込んだ。
銃の魔人は未だ定まらない視界に何度か瞬きをして、苦笑する。
「……うん、たしかに、舐めてたなぁ」
イオリのフルスイングは、的確に銃の魔人の脇腹を抉った。
ご丁寧に銃のグリップの、トゲが付いた側を使ったらしい。
ハスミに抑え込まれていたせいで、衝撃を逃すこともできなかった。
ジクジクとした痛みが波のように押し寄せて、全身が発火しているように熱い。
銃の魔人は懐を弄り、手のひらサイズの水筒を取り出した。
アルミ製のそれは軍用のもので、漏れや破損はないようだった。
──回復は、いや、まだ……
水筒の中身は、秤アツコの血液だ。
アリウス自治区にある銃の強化、そして今日の護衛任務の報酬として、先日ベアトリーチェから振る舞われたものを詰めてきた。
濃厚な『神秘』を宿すロイヤルブラッドは、銃の魔人を瞬時に回復させる特効薬になる。
しかし、この後の本命を考えると、無駄遣いは控えたい。
イオリとハスミで、この強さなのだ。
キヴォトス最強格の実力は、より高く見積もったほうがいい。
「ふふっ、そう、こんなに強いとは思わなかった」
銃の魔人はふらつく足で立ち上がりながら、感嘆した。
戦闘力とか『神秘』とか、そういうものではない。
もっと本質的な、人間の底力のようなもの。
アリウス自治区には、イオリやハスミのような生徒はいなかった。
自らやりたいことを選び、それを貫き通す。
そんな人間は、あの支配と洗脳に浸された場所には、一人たりとも。
銃の魔人は、また一つ人間を知った。
──やりたいことがある人間は、強い。
それは夢でも目標でも、正義でも何だっていい。
心に決めたやりたいこと、それに懸ける想いが、土壇場で力を引き出すトリガーになる。
銃の魔人はふと、この身体の元の主人を思い起こした。
──梔子ユメは、どうだったのかな?
彼女は小鳥遊ホシノと一緒に、アビドス復興を成し遂げたかった。
それは戦闘力ではなく、意思の強さとして現れていた。
だからこそ手折られた時に、その喪失感が強い恐怖を生み出したのだ。
それはアリウスの10人を凌駕し、悪魔を砂漠に喚び寄せた。
銃の魔人は合点がいったように何度か頷きながら、一歩ずつ足を進める。
やりたいことがある人間は、強い。
銃の魔人は、強い人間が好きだ。
そしてそれが潰えた時、大きな恐怖を生み出す。
銃の魔人は恐怖に震える人間もまた、大好きだ。
──そう、だからこそ。
「あぁ、イオリちゃん、ハスミちゃん。オレは、オマエたちが大好きだよ」
戦ってよし。殺してよし。
そんな人間がこのキヴォトスに、もっとたくさんいてくれると嬉しい。
砂埃を手で払いながら、銃の魔人は大穴から店の外に歩み出た。
「くそっ……!」
「……っ!」
未だ健在である銃の魔人を見て、二人は悔しそうに歯噛みした。
「あははっ、そんな顔しなくても、ちゃんと効いてるよ」
友人との待ち合わせのような気分で、銃の魔人はにこやかに笑いかける。
それから白いブラウスの裾をめくり上げて、彼女たちの戦果を見せてやった。
殴りつけられた脇腹は赤紫に腫れあがり、トゲが食い込んだ裂傷からは血が滲んでいる。
「今のは本当にヒヤッとしたよ。銃を組み直したら、バネが一本見当たらないみたいな、そんな感じ」
銃の魔人が苦痛を感じたのは、地獄からキヴォトスに飛び出た時以来だ。
力が霧散し、肉片をばら撒きながら砂漠に墜落した時のことを思い出す。
イオリとハスミは傷だらけの足を地面に突き立て、銃を構える。
こちらを見据える瞳に、迷いはない。
──もう、オマエたちを侮らないよ。
人としての強さを持つ二人なら、きっとまだまだ戦えるはずだ。
それを撃ち砕いた時、彼女たちの中にどんな恐怖が芽生えるだろうか。
「さあ、お互い元気いっぱい!オレにもっと強さを見せてくれ!」
銃の魔人は喜び勇んで、一歩踏み出し、そして──
瞬間、頭からつま先へ電流が走るように、全身が粟立った。
ドクンッと心臓が、今までにないほど激しく鼓動する。
銃の魔人は足を止めて、棒立ちになった。
顔を明後日の方向に向けて、どこか遠くを見つめているようだった。
突然の奇行に、イオリとハスミは当惑する。
しかしすぐに、この機を逃すまいと発砲を繰り返した。
自身を叩く銃弾に気付いていないのか、銃の魔人は微動だにしない。
目は呆けたように見開かれ、その口元は恍惚に歪んでいた。
銃の魔人はこれまでの一切を放り投げ、このざわめきの震源地へと、遠く意識を飛ばしていた。
──今、どこかで誰かが、致命傷を負った。
紛れもない、銃によって死に瀕している人間がいる。
『神秘』に彩られたキヴォトスで、それは初めてのことだった。
スコープを覗くように、焦点を絞っていく。
辿り着いた先はアリウススクワッド、空崎ヒナの強い気配。
そして──
──あぁ、あれが噂の、先生かぁ!
キヴォトスに来る前の世界で、銃が無数に撃ち殺してきた、人間の成人男性。
『神秘』を持たない身体は気配が薄く、だからこそ際立っていた。
その脆弱な肉体は、きっと簡単に銃弾を通すだろう。
想像だけで、銃の魔人はゴクリと喉を鳴らした。
妄想に耽る銃の魔人の脇腹に、ピリリとした痛みが走る。
意識を目の前の戦場に戻すと、イオリが先程と同じ箇所に、再び銃をフルスイングしていた。
しかし、もう銃の魔人はびくとも動かない。
あの場にいた誰かが、先生を死に瀕させた銃に恐怖した。
このキヴォトスで初めて、銃が人を殺す武器として認識されたのだ。
恋焦がれていた恐怖に、銃の魔人は絶頂しそうだった。
「何をっ、よそ見してるんだっ!」
イオリが、何度も殴打を繰り出してくる。
それを片手で受け止めて、そのままハスミの方にぶん投げた。
「ぱんっ」
たたらを踏むイオリを受け止めたハスミごと、人差し指の一撃で撃ち抜く。
二人は重なり合ったまま、先ほどの銃の魔人と同じように、向かいの建物に吹き飛んで見えなくなった。
「ごめんねぇ、二人とも。オレ、また強くなっちゃった」
そのことに喜びと、ほんの僅かな寂しさを感じた。
あれだけ輝いて見えたごちそうに、今はもう食指が動かない。
先生が受けた殺傷が、銃の魔人の存在としての格を、数段押し上げてくれたのだ。
性能が研ぎ澄まされていき、銃の魔人は全能感に浸る。
するとその鋭敏な感覚が、アツコのサブマシンガンをはっきりと捉えた。
1回、2回と、宙に空砲が放たれていくのが分かる。
──作戦終了の、合図。
そして銃の魔人の自由時間、そのスターターピストルだ。
目的を果たした彼女たちは、撤退を開始する。
──もう、ここに用はないね。
銃の魔人は意識を切り替えて、再び遠くの気配を辿る。
アツコの周りには、アリウススクワッドが集っている。
撤退時の護衛は必要ないだろう。
そのさらに向こうに、どんどん薄くなる先生の気配と、眩いばかりの強い気配。
──ゲヘナ最強、空崎ヒナ。
二人が、ものすごい速度で戦場を移動していた。
おそらく、車か何かに乗っている。
銃の魔人は照準を定め、大きく屈み込む。
そのままクラウチングスタートのような姿勢を構え、足先にぐっと力を集中させた。
イオリとハスミがずっと警戒していた、長距離を『高速移動』で飛ぶための大きな溜めだ。
「待ち、なさいっ……!」
瓦礫の山を掻き分けて、ハスミがこちらに駆けてくる。
だけどもう、銃の魔人は何者にも止められない。
「楽しかったよ、ハスミちゃん。あぁ、安心して!興味があるのは、オマエの方じゃないから」
逸る気持ちのまま、銃の魔人は勢いよく地面を蹴り出した。
破裂音に、一拍遅れて暴風が吹き荒れる。
それでハスミは、反射的に目を閉じてしまう。
次に視界が開けた時にはもう、銃の魔人は消えていた。
※※※※※※
「逃げられ、ましたか……」
ハスミは少し目を伏せて、不甲斐なさを噛み締めるように呟いた。
足元に、抜け落ちた黒い羽がヒラリと落ちる。
銃の魔人は発砲音と共に飛び去り、その軌跡すら追えなかった。
彼女が立っていた場所は石畳がめくれ上がり、そこから狼煙のように土煙が上がっていた。
破壊痕から、相当な距離を『高速移動』で飛んだのだと推測できる。
「くそっ、やられた……!」
少し遅れて瓦礫から這い出たイオリも、目の前の光景で察したらしい。
悔しそうにガリガリと頭を掻いた後、どこかに連絡をしたようだった。
ハスミは胸に手を当てて、感情を押さえ込むように深呼吸をする。
──反省は、後にしましょう。
まだ、戦いの途中なのだ。
とりわけあの怪物の行方は、戦況を大きく左右する。
ハスミは、銃の魔人が去り際に投げかけた言葉を思い返した。
『興味があるのは、オマエの方じゃないから』
──私の方ではない、つまり興味があるのは、イオリさんの方ということ?
思案を巡らせていると、トントンと肩を叩かれる。
振り返ったハスミに、イオリが通信端末を差し出した。
「アコちゃん……うちの行政官が、話があるって。その、大丈夫か?」
イオリの声は、どこか気遣わしげだった。
こちらの怪我と、ゲヘナ嫌いを心配しているのだろう。
「問題ありません」
ハスミは少し背筋を伸ばし、努めて平静に見えるようイオリの端末を受け取った。
「代わりました、正義実現委員会の羽川ハスミです」
『ハスミさん、お久しぶりです。風紀委員会の天雨アコです。……うちのイオリがお世話になりました』
イオリから戦いの概要を報告されているのだろう。
空中からの速射を庇った事を言っているのなら、お門違いだ。
あの場面では、自分自身あれが最善策だった。
「こちらこそ……いえ、本題に入りましょう」
『そうですね、まずは落ち着いて聞いてください。……先生が、撃たれました』
「……っ!?」
一瞬、頭が真っ白になる。
心臓が早鐘を打ち、言葉は息が詰まったように出てこなくなった。
『予断を許さない状態です。現在、うちの救急医学部が搬送し、最も近いトリニティに向かっています』
「……分かりました。すぐに受け入れの準備を進めさせます」
ハスミは自身の端末を指で叩き、救護騎士団に連絡を入れた。
要点を伝えながらも、心配と不安で胸が締め付けられるようだった。
最初の爆撃を受けてすぐ、先生の撤退は向こうの風紀委員長に託した。
もちろん、ゲヘナに預けるのに迷いはあった。
しかしそれでも、噂に名高い彼女の実力を信じたのだ。
──それが、こんな……
ハスミの中に、黒い感情が渦巻いた。
しかしすぐに、それを振り払うように拳を握りしめる。
──きっとヒナさんだからこそ、この程度で収まったのでしょう。
銃弾一発が致命傷になる先生の即死を免れ、その命を繋ぎ止めた。
その後もこうして救急搬送できているのは、実力あってこそだろう。
それほどまでに、向こうの戦場は苛烈だったのだ。
自分では、きっと先生を死なせていた。
ハスミは救護騎士団への通信を切り、それをアコに連携する。
『ありがとうございます。……敵生徒は撤退を始めました。主として暴れているのは半透明のシスター服です』
アコは戦況を伝えながら、画面にマップを共有した。
有事に個人的な感情を挟まないのは、どちらも同じようだ。
先生が撃たれた戦場と、ツルギが戦っている戦場は、自分が今いる場所を挟んで対極にある。
「先生の護衛は?」
『引き続き、ヒナ委員長が同行しています。ですが、戦闘エリアからは脱出したようです』
ハスミはホッと小さく息を吐き、それから自身の役目を整理する。
──まずは戻って、ツルギに加勢しなくては。
ツルギはあの大軍を、今も一人で相手にしている。
敵は撤退を始めたとはいえ、あのシスター服は異質な感じがした。
倒しても倒しても、戦場に際限なく湧いてくるようだった。
仮にそうであるならば、ツルギが相手にしている軍勢は未だ衰えていないはずだ。
──異質といえば、ヤツもそうでした。
銃の魔人もまた、今まで戦ったどの生徒とも違う、不気味な敵だった。
人を殺すことに躊躇いのない、倫理観のネジが外れた言動。
思想だとか、戦略だとか、そういうものではない。
もっと本質的に、強者と戦う事を悦んでいるようだった。
──あの時、倒せていれば……
戦いの最中、銃の魔人が明確に隙を見せたタイミングあった。
あらぬ方向によそ見をして、しばらく動きを止めていた。
──そういえば奴は、何を見ていたのでしょうか。
ハスミはふいに、銃の魔人が顔を向けていた方を視線で追った。
その方向が手元のマップと重なって、ハスミはハッと息を呑む。
──先生とヒナさんが、戦っていた方向……
『興味があるのは、オマエの方じゃないから』
銃の魔人の言葉が、ハスミの脳内で再生される。
ハスミではないなら、イオリの方。
トリニティではなく、ゲヘナの方。
強者に執着していた銃の魔人が向かうなら、それはより強い者のところだろう。
この戦場で、ハスミやイオリより明確に強い生徒は、二人いる。
つまり、そのうちの──
「……先生が、危ない」
『はい?』
ハスミは震える声で、ぽつりと呟いた。
「アコさん、銃の魔人の行き先はおそらく、そちらの風紀委員長です!」
『なっ……!?いえ、しかし、ヒナ委員長は先生と既に、数十km先に……』
「銃の魔人が最後に見せた『高速移動』は、私の目では追えない程の速度でした。おそらく、あれなら──」
『──この距離でも、追いつく……』
端末のスピーカーから、歯を食いしばるような音が鳴る。
アコは、自身を鎮めるように細く長い息を吐いた。
『……ハスミさん。ゲヘナ風紀委員会から正義実現委員会へ、正式な依頼があります』
アコの声は冷静なようで、その奥に熱を宿していた。
懸想する相手への心配や、大切な人を脅かす敵への怒り。
それらを薪にして、激情が燃え盛っていた。
ハスミには、その炎に覚えがあった。
それは自身が、ツルギに向かって抱いているものと同じだ。
アコにとっては、風紀委員長がそうなのだろう。
どちらもきっと、誰の心配もいらない程に圧倒的な力を持っている。
それでもその姿に焦がれて、支えたいと背を追いかける姿は──
──晄輪大祭の時には、気付きませんでしたね。
ハスミの、ゲヘナに対する嫌悪感は変わらない。
それでも組織のナンバー2として、ハスミとアコはよく似ていた。
「先生を守るためです、聞きましょう」
ひと匙の大義名分を添えて、ハスミはアコに応答する。
あくまでシャーレの先生のためであり、ゲヘナに与した訳ではない。
後のために、そう互いの体裁を整えた。
『……お互い、苦労しますね』
アコはその意図を察知して、短くため息を吐いたようだった。
「えぇ、ですが、背負い込むと決めたのでしょう?」
手を離すとどこまでも遠くに行ってしまう、強く眩しい彼女たちを支えるために。
そしてそのための苦労は、ハスミにとって望むところだった。
──アコさん、あなたも同じでしょう。
まるで、秘密を打ち明けあった友人のように。
ハスミは初めて、ほんの少しだけアコのことを好きになれそうだった。
※※※※※※
ピッ、ピッ、ピッ──
規則的な電子音が、先生の命を刻んでいる。
高速で移動する救急車の揺れは激しく、ヒナは先生の手を繋ぎ止めるように強く握っていた。
「先生……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ヒナはストレッチャーの横に腰掛けて、先生の顔を覗き込む。
横たわる先生の顔は、ひどく青白い。
額には脂汗が滲み、その口元は苦痛に歪められていた。
ヒナはそれを見つめながら、ただ謝り続けることしかできない。
「先生、聞こえますか!先生!」
ゲヘナ救急医学部の部長──氷室セナは手際よく応急処置を施しながら、先生の意識を確認する。
しかし応答はなく、酸素マスクからヒューヒューと浅い呼吸音を繰り返すばかりだった。
セナが先生の腹部に押し当てたガーゼは、血で真っ赤に染まっている。
それが傷の凄惨さを物語っているようで、形となった後悔がヒナの喉をせり上がった。
「……セナ、先生は……」
口元を手で押さえながら、ヒナは吐息を漏らすように尋ねる。
「……ここで施せる処置には、限界があります。一刻も早く、設備の整った医療機関に搬送しましょう」
セナは運転手の救急医学部員に指示を飛ばし、進路を最も近いトリニティに設定した。
力無く俯くヒナに、セナが気遣わしげに声をかける。
「ヒナ委員長も、頭部の出血が見受けられます。先生への処置が済むまで、もう少々お待ちください」
言われてヒナは、指で額をなぞった。
ぬるりとした感触に手を下ろすと、乾きかけの血が付着していた。
それを見て、ヒナは自嘲するような笑みを浮かべる。
──先生はこんなに傷ついているのに、私は……
護るべき人よりも、こちらのほうがずっと軽傷だった。
そんなこと、あってはならないはずなのに。
自分の不出来さを、突き付けられたようだった。
情けなさで、ヒナの視界がじわりと滲む。
──戦うことが、私にできる全てだったのに……
ゲヘナ最強と呼ばれるだけの、自負はある。
そしてそれに伴う責任も、それなりに背負ってきたつもりだ。
視線を落としたヒナの膝に、ポタポタと水滴が落ちていく。
別に、できるからやっていた、それだけだった。
面倒で、投げ出したくなることもあった。
それでも力を持つものの責務として、為すべきことを積み重ねてきた。
そこに一つ、意味が加わったのは最近のことだ。
──先生……先生……
先生の手を握るヒナの指先が、その感触に縋るように、一層力が込もる。
ある日突然キヴォトスに現れた、生徒のために駆け回る不思議な大人。
その優しさに触れたヒナの心が解かされるまで、そう時間はかからなかった。
先生は、風紀委員長として恐れられる自分を、ただ一人の生徒として見てくれる。
後ろでも横でもなく、前に立って引っ張ってくれる存在なんて初めてで、何だかくすぐったかった。
ヒナがお礼を言うと、先生は決まって、大人として当然のことだからと笑う。
先生は大人の責務というものを、自ら進んで請け負い、果たしていた。
自分のように、できるからやるだけの、受け身な姿勢はなかった。
種類は違えど、同じような責務を負うものとして、その在り方がヒナには眩しかった。
そんな先生のためにこの力を使えるなら、またそう求めてくれるなら、こんなに嬉しいことはない。
ヒナは自分が頑張る意味や理由のようなものを、ようやく見つけた気がした。
しかし今日、そんな先生を──
──私は、護れなかった。
今まで培ってきた力を、最も発揮しなければいけなかった場面で。
先生は無惨にも撃たれ、こうして目の前で生死の境を彷徨っている。
──なにが、風紀委員長……
護りたいもの、護るべきものを護れないのならば、こんな称号に意味はない。
誇りと責任の象徴である風紀委員会の腕章が、今はひどく重く感じる。
今まで、できることをやってきた。
でももうここから、ヒナは何もできそうになかった。
本当にやるべきこと、やりたいことは、もうその手からこぼれ落ちてしまったのだから。
気がかりなのは、先生の命だけだ。
それさえ無事だったなら、もう──
──全て投げ捨てて、いなくなってしまいたい。
握っていた先生の手を自身の額に押し当てて、ヒナは祈るように目を瞑る。
心も身体も疲れ果て、萎びているようだった。
するとふいに、ヒナの翼がピクリと動く。
──なに……?
ゆっくりと顔を上げて、ヒナは車両後部の窓に視線を向けた。
言葉にはできない、戦場に立ち続けたゲヘナ最強が持つ勘のようなもの。
それはボロボロになった今でも健在で、その攻撃を鋭敏に察知した。
ヒナの肌が総毛立つ。
弾かれたように、涙で嗄れた声を張り上げる。
「後方から攻撃!緊急回避っ!!」
セナは戸惑う運転手からハンドルを奪い取り、思いっきり右に切った。
他の誰でもない、ゲヘナが誇る風紀委員長の警鐘だ。
セナの動きに、迷いはなかった。
車体前方が大きく右へ向きを変え、引き摺られるようにふわりと後ろタイヤが浮き上がった。
先生が載るストレッチャーが軋み、点滴の管が大きく揺れる。
一拍置いて、轟音。
先程までの進路に何かが飛来し、地面に直撃して大きく弾けた。
爆風に押されて、さらに大きくつんのめるように、車体が傾いていく。
ヒナは咄嗟に先生を押さえ、その羽を盾のようにして覆い被さった。
それから加減した片足で、床を叩くように踏みしめる。
衝撃で、浮き上がった車体が無理矢理に地面に押し戻された。
着地した車体は甲高く路面を削りながら、2、3度スピンした後に、ようやく停止した。
運転席から戻ったセナが、急くように先生の状態を確認する。
「……容体に変わりありません。ヒナ委員長が押さえてくれたおかげです」
セナの言葉に、ヒナは小さく息を吐いた。
窓の外に目を向けると、着弾地点からは白い煙が上がっている。
上空に巻き上げられた土石が車体の屋根に降り注ぎ、ゴツゴツと硬い音を鳴らしていた。
──今のは、砲撃?
ここは戦闘エリアから程遠く、近くに敵影はなかったはずだ。
だとすれば、遠方から大砲や戦車で狙撃されたのだろうか。
その威力は凄まじい。
もし当たっていたならば、この車は木っ端微塵だっただろう。
少なくとも、先生は確実に──
想像だけで、ヒナは身震いするようだった。
「セナ、追撃が来るかもしれない。すぐに発進させて──」
指示を飛ばすヒナは、未だ立ち昇る煙を見て言葉を詰まらせた。
──人影……?
白煙に覆われているが、着弾地点で何かがゆっくりと立ち上がる。
訝しむヒナは、目を凝らそうと窓ガラスに近づいた。
すると、変な焦げ臭さが鼻を刺し、顔を顰めてしまう。
嗅ぎ慣れた、火薬の香りではない。
もっと生々しい、肉が焼けるような臭い。
その事実に、ヒナは背筋をゾクリとさせた。
飛来したのは、砲弾でも爆弾でもない。
何か、少なくとも生き物が飛んできたのだ。
「ヒ〜ナ〜ちゃんっ!あ〜そ〜ぼ〜!!」
人影は大手を振りながら、こちらに呼びかけてくる。
響く声はこの場に不釣り合いな程に朗らかで、その不気味さを際立てていた。
「……セナ、ここは私が引き受ける。あなたは、先生をお願い」
ヒナは、その誘いに乗ることにした。
相手の正体は、分からない。
ただ少なくとも、こんな不審な存在を、先生に近づける訳にはいかない。
先程まで握っていた先生の手は、指先から体温が抜け落ちていくようだった。
容体は、もはや一刻を争う。
セナは僅かに目を見開いて、言葉を飲み込むように唇を噛んだ。
先生と程度は違えど、ヒナも負傷者だ。
セナの前で、これほどまでに血を流したことはない。
医療従事者として、止めるべきかと逡巡したのだろう。
しかし、この場で戦えるのがヒナだけだということも、理解しているはずだ。
「……ご武運を。先生は、必ず救けます」
セナの言葉に、ヒナは安心したように頷いた。
それから先生の手を、もう一度だけ強く握り直す。
──今度は、ちゃんと護るから。
決意と、贖罪と、祈りを込めて。
ヒナはその輪郭を確かめるようにしてから、そっと先生の手を離した。
救急車のバックドアが開き、嫌な臭いが一層強くなる。
白煙の中の人影は、未だそこから動いていないようだった。
ヒナはコートを羽織り直し、愛銃のマシンガンを肩にかける。
それから左袖に通された風紀委員会の腕章を、その在処を確かめるよう指でなぞった。
その感触が、再び重たくのしかかる。
──風紀委員長として、最後にこれだけは全うしよう。
護るべき人を傷つけた、弱く情けない自分でも。
せめて、その命を繋げるために戦おう。
翼を翻して、ヒナは責務を果たすべく飛び出した。