ユメ先輩(銃の魔人)   作:虎3

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二階級特進

 

銃の魔人は木目の床に手をついて、ゆっくりと身体を起こした。

 

目の前の壁には、自身が突き破った大穴が空いている。

そこから差し込んだ光が、室内を漂う砂埃をキラキラと照らした。

 

イオリに殴り飛ばされ、吹き飛んだ先は洋菓子屋のようだった。

ガラス窓の破片やレンガ片に紛れて、カラフルに包装されたチョコレートが散らばっている。

 

──そういえば、10番が食べたいって言ってたっけ。

 

ぐわんぐわんと揺れる頭で思い出し、気まぐれにいくつか拾い、スカートのポケットに放り込んだ。

 

銃の魔人は未だ定まらない視界に何度か瞬きをして、苦笑する。

 

「……うん、たしかに、舐めてたなぁ」

 

イオリのフルスイングは、的確に銃の魔人の脇腹を抉った。

ご丁寧に銃のグリップの、トゲが付いた側を使ったらしい。

 

ハスミに抑え込まれていたせいで、衝撃を逃すこともできなかった。

 

ジクジクとした痛みが波のように押し寄せて、全身が発火しているように熱い。

 

銃の魔人は懐を弄り、手のひらサイズの水筒を取り出した。

アルミ製のそれは軍用のもので、漏れや破損はないようだった。

 

──回復は、いや、まだ……

 

水筒の中身は、秤アツコの血液だ。

アリウス自治区にある銃の強化、そして今日の護衛任務の報酬として、先日ベアトリーチェから振る舞われたものを詰めてきた。

 

濃厚な『神秘』を宿すロイヤルブラッドは、銃の魔人を瞬時に回復させる特効薬になる。

 

しかし、この後の本命を考えると、無駄遣いは控えたい。

イオリとハスミで、この強さなのだ。

キヴォトス最強格の実力は、より高く見積もったほうがいい。

 

「ふふっ、そう、こんなに強いとは思わなかった」

 

銃の魔人はふらつく足で立ち上がりながら、感嘆した。

 

戦闘力とか『神秘』とか、そういうものではない。

もっと本質的な、人間の底力のようなもの。

 

アリウス自治区には、イオリやハスミのような生徒はいなかった。

 

自らやりたいことを選び、それを貫き通す。

そんな人間は、あの支配と洗脳に浸された場所には、一人たりとも。

 

銃の魔人は、また一つ人間を知った。

 

──やりたいことがある人間は、強い。

 

それは夢でも目標でも、正義でも何だっていい。

心に決めたやりたいこと、それに懸ける想いが、土壇場で力を引き出すトリガーになる。

 

銃の魔人はふと、この身体の元の主人を思い起こした。

 

──梔子ユメは、どうだったのかな?

 

彼女は小鳥遊ホシノと一緒に、アビドス復興を成し遂げたかった。

それは戦闘力ではなく、意思の強さとして現れていた。

 

だからこそ手折られた時に、その喪失感が強い恐怖を生み出したのだ。

それはアリウスの10人を凌駕し、悪魔を砂漠に喚び寄せた。

 

銃の魔人は合点がいったように何度か頷きながら、一歩ずつ足を進める。

 

やりたいことがある人間は、強い。

銃の魔人は、強い人間が好きだ。

 

そしてそれが潰えた時、大きな恐怖を生み出す。

銃の魔人は恐怖に震える人間もまた、大好きだ。

 

──そう、だからこそ。

 

「あぁ、イオリちゃん、ハスミちゃん。オレは、オマエたちが大好きだよ」

 

戦ってよし。殺してよし。

そんな人間がこのキヴォトスに、もっとたくさんいてくれると嬉しい。

 

砂埃を手で払いながら、銃の魔人は大穴から店の外に歩み出た。

 

「くそっ……!」

 

「……っ!」

 

未だ健在である銃の魔人を見て、二人は悔しそうに歯噛みした。

 

「あははっ、そんな顔しなくても、ちゃんと効いてるよ」

 

友人との待ち合わせのような気分で、銃の魔人はにこやかに笑いかける。

 

それから白いブラウスの裾をめくり上げて、彼女たちの戦果を見せてやった。

殴りつけられた脇腹は赤紫に腫れあがり、トゲが食い込んだ裂傷からは血が滲んでいる。

 

「今のは本当にヒヤッとしたよ。銃を組み直したら、バネが一本見当たらないみたいな、そんな感じ」

 

銃の魔人が苦痛を感じたのは、地獄からキヴォトスに飛び出た時以来だ。

力が霧散し、肉片をばら撒きながら砂漠に墜落した時のことを思い出す。

 

イオリとハスミは傷だらけの足を地面に突き立て、銃を構える。

こちらを見据える瞳に、迷いはない。

 

──もう、オマエたちを侮らないよ。

 

人としての強さを持つ二人なら、きっとまだまだ戦えるはずだ。

それを撃ち砕いた時、彼女たちの中にどんな恐怖が芽生えるだろうか。

 

「さあ、お互い元気いっぱい!オレにもっと強さを見せてくれ!」

 

銃の魔人は喜び勇んで、一歩踏み出し、そして──

 

瞬間、頭からつま先へ電流が走るように、全身が粟立った。

ドクンッと心臓が、今までにないほど激しく鼓動する。

 

銃の魔人は足を止めて、棒立ちになった。

顔を明後日の方向に向けて、どこか遠くを見つめているようだった。

 

突然の奇行に、イオリとハスミは当惑する。

しかしすぐに、この機を逃すまいと発砲を繰り返した。

 

自身を叩く銃弾に気付いていないのか、銃の魔人は微動だにしない。

目は呆けたように見開かれ、その口元は恍惚に歪んでいた。

 

銃の魔人はこれまでの一切を放り投げ、このざわめきの震源地へと、遠く意識を飛ばしていた。

 

──今、どこかで誰かが、致命傷を負った。

 

紛れもない、銃によって死に瀕している人間がいる。

『神秘』に彩られたキヴォトスで、それは初めてのことだった。

 

スコープを覗くように、焦点を絞っていく。

辿り着いた先はアリウススクワッド、空崎ヒナの強い気配。

そして──

 

──あぁ、あれが噂の、先生かぁ!

 

キヴォトスに来る前の世界で、銃が無数に撃ち殺してきた、人間の成人男性。

『神秘』を持たない身体は気配が薄く、だからこそ際立っていた。

その脆弱な肉体は、きっと簡単に銃弾を通すだろう。

 

想像だけで、銃の魔人はゴクリと喉を鳴らした。

 

妄想に耽る銃の魔人の脇腹に、ピリリとした痛みが走る。

意識を目の前の戦場に戻すと、イオリが先程と同じ箇所に、再び銃をフルスイングしていた。

 

しかし、もう銃の魔人はびくとも動かない。

 

あの場にいた誰かが、先生を死に瀕させた銃に恐怖した。

このキヴォトスで初めて、銃が人を殺す武器として認識されたのだ。

 

恋焦がれていた恐怖に、銃の魔人は絶頂しそうだった。

 

「何をっ、よそ見してるんだっ!」

 

イオリが、何度も殴打を繰り出してくる。

それを片手で受け止めて、そのままハスミの方にぶん投げた。

 

「ぱんっ」

 

たたらを踏むイオリを受け止めたハスミごと、人差し指の一撃で撃ち抜く。

二人は重なり合ったまま、先ほどの銃の魔人と同じように、向かいの建物に吹き飛んで見えなくなった。

 

「ごめんねぇ、二人とも。オレ、また強くなっちゃった」

 

そのことに喜びと、ほんの僅かな寂しさを感じた。

あれだけ輝いて見えたごちそうに、今はもう食指が動かない。

 

先生が受けた殺傷が、銃の魔人の存在としての格を、数段押し上げてくれたのだ。

 

性能が研ぎ澄まされていき、銃の魔人は全能感に浸る。

するとその鋭敏な感覚が、アツコのサブマシンガンをはっきりと捉えた。

 

1回、2回と、宙に空砲が放たれていくのが分かる。

 

──作戦終了の、合図。

 

そして銃の魔人の自由時間、そのスターターピストルだ。

目的を果たした彼女たちは、撤退を開始する。

 

──もう、ここに用はないね。

 

銃の魔人は意識を切り替えて、再び遠くの気配を辿る。

 

アツコの周りには、アリウススクワッドが集っている。

撤退時の護衛は必要ないだろう。

 

そのさらに向こうに、どんどん薄くなる先生の気配と、眩いばかりの強い気配。

 

──ゲヘナ最強、空崎ヒナ。

 

二人が、ものすごい速度で戦場を移動していた。

おそらく、車か何かに乗っている。

 

銃の魔人は照準を定め、大きく屈み込む。

そのままクラウチングスタートのような姿勢を構え、足先にぐっと力を集中させた。

 

イオリとハスミがずっと警戒していた、長距離を『高速移動』で飛ぶための大きな溜めだ。

 

「待ち、なさいっ……!」

 

瓦礫の山を掻き分けて、ハスミがこちらに駆けてくる。

だけどもう、銃の魔人は何者にも止められない。

 

「楽しかったよ、ハスミちゃん。あぁ、安心して!興味があるのは、オマエの方じゃないから」

 

逸る気持ちのまま、銃の魔人は勢いよく地面を蹴り出した。

 

破裂音に、一拍遅れて暴風が吹き荒れる。

それでハスミは、反射的に目を閉じてしまう。

 

次に視界が開けた時にはもう、銃の魔人は消えていた。

 

 

 

※※※※※※

 

 

 

「逃げられ、ましたか……」

 

ハスミは少し目を伏せて、不甲斐なさを噛み締めるように呟いた。

足元に、抜け落ちた黒い羽がヒラリと落ちる。

 

銃の魔人は発砲音と共に飛び去り、その軌跡すら追えなかった。

 

彼女が立っていた場所は石畳がめくれ上がり、そこから狼煙のように土煙が上がっていた。

破壊痕から、相当な距離を『高速移動』で飛んだのだと推測できる。

 

「くそっ、やられた……!」

 

少し遅れて瓦礫から這い出たイオリも、目の前の光景で察したらしい。

悔しそうにガリガリと頭を掻いた後、どこかに連絡をしたようだった。

 

ハスミは胸に手を当てて、感情を押さえ込むように深呼吸をする。

 

──反省は、後にしましょう。

 

まだ、戦いの途中なのだ。

とりわけあの怪物の行方は、戦況を大きく左右する。

 

ハスミは、銃の魔人が去り際に投げかけた言葉を思い返した。

 

『興味があるのは、オマエの方じゃないから』

 

──私の方ではない、つまり興味があるのは、イオリさんの方ということ?

 

思案を巡らせていると、トントンと肩を叩かれる。

振り返ったハスミに、イオリが通信端末を差し出した。

 

「アコちゃん……うちの行政官が、話があるって。その、大丈夫か?」

 

イオリの声は、どこか気遣わしげだった。

こちらの怪我と、ゲヘナ嫌いを心配しているのだろう。

 

「問題ありません」

 

ハスミは少し背筋を伸ばし、努めて平静に見えるようイオリの端末を受け取った。

 

「代わりました、正義実現委員会の羽川ハスミです」

 

『ハスミさん、お久しぶりです。風紀委員会の天雨アコです。……うちのイオリがお世話になりました』

 

イオリから戦いの概要を報告されているのだろう。

空中からの速射を庇った事を言っているのなら、お門違いだ。

あの場面では、自分自身あれが最善策だった。

 

「こちらこそ……いえ、本題に入りましょう」

 

『そうですね、まずは落ち着いて聞いてください。……先生が、撃たれました』

 

「……っ!?」

 

一瞬、頭が真っ白になる。

心臓が早鐘を打ち、言葉は息が詰まったように出てこなくなった。

 

『予断を許さない状態です。現在、うちの救急医学部が搬送し、最も近いトリニティに向かっています』

 

「……分かりました。すぐに受け入れの準備を進めさせます」

 

ハスミは自身の端末を指で叩き、救護騎士団に連絡を入れた。

要点を伝えながらも、心配と不安で胸が締め付けられるようだった。

 

最初の爆撃を受けてすぐ、先生の撤退は向こうの風紀委員長に託した。

 

もちろん、ゲヘナに預けるのに迷いはあった。

しかしそれでも、噂に名高い彼女の実力を信じたのだ。

 

──それが、こんな……

 

ハスミの中に、黒い感情が渦巻いた。

しかしすぐに、それを振り払うように拳を握りしめる。

 

──きっとヒナさんだからこそ、この程度で収まったのでしょう。

 

銃弾一発が致命傷になる先生の即死を免れ、その命を繋ぎ止めた。

その後もこうして救急搬送できているのは、実力あってこそだろう。

 

それほどまでに、向こうの戦場は苛烈だったのだ。

自分では、きっと先生を死なせていた。

 

ハスミは救護騎士団への通信を切り、それをアコに連携する。

 

『ありがとうございます。……敵生徒は撤退を始めました。主として暴れているのは半透明のシスター服です』

 

アコは戦況を伝えながら、画面にマップを共有した。

有事に個人的な感情を挟まないのは、どちらも同じようだ。

 

先生が撃たれた戦場と、ツルギが戦っている戦場は、自分が今いる場所を挟んで対極にある。

 

「先生の護衛は?」

 

『引き続き、ヒナ委員長が同行しています。ですが、戦闘エリアからは脱出したようです』

 

ハスミはホッと小さく息を吐き、それから自身の役目を整理する。

 

──まずは戻って、ツルギに加勢しなくては。

 

ツルギはあの大軍を、今も一人で相手にしている。

敵は撤退を始めたとはいえ、あのシスター服は異質な感じがした。

 

倒しても倒しても、戦場に際限なく湧いてくるようだった。

仮にそうであるならば、ツルギが相手にしている軍勢は未だ衰えていないはずだ。

 

──異質といえば、ヤツもそうでした。

 

銃の魔人もまた、今まで戦ったどの生徒とも違う、不気味な敵だった。

 

人を殺すことに躊躇いのない、倫理観のネジが外れた言動。

 

思想だとか、戦略だとか、そういうものではない。

もっと本質的に、強者と戦う事を悦んでいるようだった。

 

──あの時、倒せていれば……

 

戦いの最中、銃の魔人が明確に隙を見せたタイミングあった。

あらぬ方向によそ見をして、しばらく動きを止めていた。

 

──そういえば奴は、何を見ていたのでしょうか。

 

ハスミはふいに、銃の魔人が顔を向けていた方を視線で追った。

その方向が手元のマップと重なって、ハスミはハッと息を呑む。

 

──先生とヒナさんが、戦っていた方向……

 

『興味があるのは、オマエの方じゃないから』

銃の魔人の言葉が、ハスミの脳内で再生される。

 

ハスミではないなら、イオリの方。

トリニティではなく、ゲヘナの方。

 

強者に執着していた銃の魔人が向かうなら、それはより強い者のところだろう。

この戦場で、ハスミやイオリより明確に強い生徒は、二人いる。

 

つまり、そのうちの──

 

「……先生が、危ない」

 

『はい?』

 

ハスミは震える声で、ぽつりと呟いた。

 

「アコさん、銃の魔人の行き先はおそらく、そちらの風紀委員長です!」

 

『なっ……!?いえ、しかし、ヒナ委員長は先生と既に、数十km先に……』

 

「銃の魔人が最後に見せた『高速移動』は、私の目では追えない程の速度でした。おそらく、あれなら──」

 

『──この距離でも、追いつく……』

 

端末のスピーカーから、歯を食いしばるような音が鳴る。

 

アコは、自身を鎮めるように細く長い息を吐いた。

 

『……ハスミさん。ゲヘナ風紀委員会から正義実現委員会へ、正式な依頼があります』

 

アコの声は冷静なようで、その奥に熱を宿していた。

懸想する相手への心配や、大切な人を脅かす敵への怒り。

それらを薪にして、激情が燃え盛っていた。

 

ハスミには、その炎に覚えがあった。

それは自身が、ツルギに向かって抱いているものと同じだ。

 

アコにとっては、風紀委員長がそうなのだろう。

 

どちらもきっと、誰の心配もいらない程に圧倒的な力を持っている。

それでもその姿に焦がれて、支えたいと背を追いかける姿は──

 

──晄輪大祭の時には、気付きませんでしたね。

 

ハスミの、ゲヘナに対する嫌悪感は変わらない。

それでも組織のナンバー2として、ハスミとアコはよく似ていた。

 

「先生を守るためです、聞きましょう」

 

ひと匙の大義名分を添えて、ハスミはアコに応答する。

 

あくまでシャーレの先生のためであり、ゲヘナに与した訳ではない。

後のために、そう互いの体裁を整えた。

 

『……お互い、苦労しますね』

 

アコはその意図を察知して、短くため息を吐いたようだった。

 

「えぇ、ですが、背負い込むと決めたのでしょう?」

 

手を離すとどこまでも遠くに行ってしまう、強く眩しい彼女たちを支えるために。

そしてそのための苦労は、ハスミにとって望むところだった。

 

──アコさん、あなたも同じでしょう。

 

まるで、秘密を打ち明けあった友人のように。

ハスミは初めて、ほんの少しだけアコのことを好きになれそうだった。

 

 

 

※※※※※※

 

 

 

ピッ、ピッ、ピッ──

 

規則的な電子音が、先生の命を刻んでいる。

高速で移動する救急車の揺れは激しく、ヒナは先生の手を繋ぎ止めるように強く握っていた。

 

「先生……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

ヒナはストレッチャーの横に腰掛けて、先生の顔を覗き込む。

横たわる先生の顔は、ひどく青白い。

額には脂汗が滲み、その口元は苦痛に歪められていた。

 

ヒナはそれを見つめながら、ただ謝り続けることしかできない。

 

「先生、聞こえますか!先生!」

 

ゲヘナ救急医学部の部長──氷室セナは手際よく応急処置を施しながら、先生の意識を確認する。

しかし応答はなく、酸素マスクからヒューヒューと浅い呼吸音を繰り返すばかりだった。

 

セナが先生の腹部に押し当てたガーゼは、血で真っ赤に染まっている。

それが傷の凄惨さを物語っているようで、形となった後悔がヒナの喉をせり上がった。

 

「……セナ、先生は……」

 

口元を手で押さえながら、ヒナは吐息を漏らすように尋ねる。

 

「……ここで施せる処置には、限界があります。一刻も早く、設備の整った医療機関に搬送しましょう」

 

セナは運転手の救急医学部員に指示を飛ばし、進路を最も近いトリニティに設定した。

 

力無く俯くヒナに、セナが気遣わしげに声をかける。

 

「ヒナ委員長も、頭部の出血が見受けられます。先生への処置が済むまで、もう少々お待ちください」

 

言われてヒナは、指で額をなぞった。

ぬるりとした感触に手を下ろすと、乾きかけの血が付着していた。

 

それを見て、ヒナは自嘲するような笑みを浮かべる。

 

──先生はこんなに傷ついているのに、私は……

 

護るべき人よりも、こちらのほうがずっと軽傷だった。

そんなこと、あってはならないはずなのに。

 

自分の不出来さを、突き付けられたようだった。

情けなさで、ヒナの視界がじわりと滲む。

 

──戦うことが、私にできる全てだったのに……

 

ゲヘナ最強と呼ばれるだけの、自負はある。

そしてそれに伴う責任も、それなりに背負ってきたつもりだ。

 

視線を落としたヒナの膝に、ポタポタと水滴が落ちていく。

 

別に、できるからやっていた、それだけだった。

面倒で、投げ出したくなることもあった。

それでも力を持つものの責務として、為すべきことを積み重ねてきた。

 

そこに一つ、意味が加わったのは最近のことだ。

 

──先生……先生……

 

先生の手を握るヒナの指先が、その感触に縋るように、一層力が込もる。

 

ある日突然キヴォトスに現れた、生徒のために駆け回る不思議な大人。

その優しさに触れたヒナの心が解かされるまで、そう時間はかからなかった。

 

先生は、風紀委員長として恐れられる自分を、ただ一人の生徒として見てくれる。

後ろでも横でもなく、前に立って引っ張ってくれる存在なんて初めてで、何だかくすぐったかった。

 

ヒナがお礼を言うと、先生は決まって、大人として当然のことだからと笑う。

 

先生は大人の責務というものを、自ら進んで請け負い、果たしていた。

自分のように、できるからやるだけの、受け身な姿勢はなかった。

 

種類は違えど、同じような責務を負うものとして、その在り方がヒナには眩しかった。

 

そんな先生のためにこの力を使えるなら、またそう求めてくれるなら、こんなに嬉しいことはない。

 

ヒナは自分が頑張る意味や理由のようなものを、ようやく見つけた気がした。

 

しかし今日、そんな先生を──

 

──私は、護れなかった。

 

今まで培ってきた力を、最も発揮しなければいけなかった場面で。

先生は無惨にも撃たれ、こうして目の前で生死の境を彷徨っている。

 

──なにが、風紀委員長……

 

護りたいもの、護るべきものを護れないのならば、こんな称号に意味はない。

誇りと責任の象徴である風紀委員会の腕章が、今はひどく重く感じる。

 

今まで、できることをやってきた。

でももうここから、ヒナは何もできそうになかった。

 

本当にやるべきこと、やりたいことは、もうその手からこぼれ落ちてしまったのだから。

 

気がかりなのは、先生の命だけだ。

それさえ無事だったなら、もう──

 

──全て投げ捨てて、いなくなってしまいたい。

 

握っていた先生の手を自身の額に押し当てて、ヒナは祈るように目を瞑る。

心も身体も疲れ果て、萎びているようだった。

 

するとふいに、ヒナの翼がピクリと動く。

 

──なに……?

 

ゆっくりと顔を上げて、ヒナは車両後部の窓に視線を向けた。

 

言葉にはできない、戦場に立ち続けたゲヘナ最強が持つ勘のようなもの。

それはボロボロになった今でも健在で、その攻撃を鋭敏に察知した。

 

ヒナの肌が総毛立つ。

弾かれたように、涙で嗄れた声を張り上げる。

 

「後方から攻撃!緊急回避っ!!」

 

セナは戸惑う運転手からハンドルを奪い取り、思いっきり右に切った。

他の誰でもない、ゲヘナが誇る風紀委員長の警鐘だ。

 

セナの動きに、迷いはなかった。

 

車体前方が大きく右へ向きを変え、引き摺られるようにふわりと後ろタイヤが浮き上がった。

先生が載るストレッチャーが軋み、点滴の管が大きく揺れる。

 

一拍置いて、轟音。

先程までの進路に何かが飛来し、地面に直撃して大きく弾けた。

 

爆風に押されて、さらに大きくつんのめるように、車体が傾いていく。

 

ヒナは咄嗟に先生を押さえ、その羽を盾のようにして覆い被さった。

 

それから加減した片足で、床を叩くように踏みしめる。

衝撃で、浮き上がった車体が無理矢理に地面に押し戻された。

 

着地した車体は甲高く路面を削りながら、2、3度スピンした後に、ようやく停止した。

 

運転席から戻ったセナが、急くように先生の状態を確認する。

 

「……容体に変わりありません。ヒナ委員長が押さえてくれたおかげです」

 

セナの言葉に、ヒナは小さく息を吐いた。

 

窓の外に目を向けると、着弾地点からは白い煙が上がっている。

上空に巻き上げられた土石が車体の屋根に降り注ぎ、ゴツゴツと硬い音を鳴らしていた。

 

──今のは、砲撃?

 

ここは戦闘エリアから程遠く、近くに敵影はなかったはずだ。

だとすれば、遠方から大砲や戦車で狙撃されたのだろうか。

 

その威力は凄まじい。

もし当たっていたならば、この車は木っ端微塵だっただろう。

少なくとも、先生は確実に──

 

想像だけで、ヒナは身震いするようだった。

 

「セナ、追撃が来るかもしれない。すぐに発進させて──」

 

指示を飛ばすヒナは、未だ立ち昇る煙を見て言葉を詰まらせた。

 

──人影……?

 

白煙に覆われているが、着弾地点で何かがゆっくりと立ち上がる。

 

訝しむヒナは、目を凝らそうと窓ガラスに近づいた。

すると、変な焦げ臭さが鼻を刺し、顔を顰めてしまう。

 

嗅ぎ慣れた、火薬の香りではない。

もっと生々しい、肉が焼けるような臭い。

 

その事実に、ヒナは背筋をゾクリとさせた。

 

飛来したのは、砲弾でも爆弾でもない。

何か、少なくとも生き物が飛んできたのだ。

 

「ヒ〜ナ〜ちゃんっ!あ〜そ〜ぼ〜!!」

 

人影は大手を振りながら、こちらに呼びかけてくる。

響く声はこの場に不釣り合いな程に朗らかで、その不気味さを際立てていた。

 

「……セナ、ここは私が引き受ける。あなたは、先生をお願い」

 

ヒナは、その誘いに乗ることにした。

 

相手の正体は、分からない。

ただ少なくとも、こんな不審な存在を、先生に近づける訳にはいかない。

 

先程まで握っていた先生の手は、指先から体温が抜け落ちていくようだった。

容体は、もはや一刻を争う。

 

セナは僅かに目を見開いて、言葉を飲み込むように唇を噛んだ。

 

先生と程度は違えど、ヒナも負傷者だ。

セナの前で、これほどまでに血を流したことはない。

 

医療従事者として、止めるべきかと逡巡したのだろう。

しかし、この場で戦えるのがヒナだけだということも、理解しているはずだ。

 

「……ご武運を。先生は、必ず救けます」

 

セナの言葉に、ヒナは安心したように頷いた。

 

それから先生の手を、もう一度だけ強く握り直す。

 

──今度は、ちゃんと護るから。

 

決意と、贖罪と、祈りを込めて。

ヒナはその輪郭を確かめるようにしてから、そっと先生の手を離した。

 

救急車のバックドアが開き、嫌な臭いが一層強くなる。

白煙の中の人影は、未だそこから動いていないようだった。

 

ヒナはコートを羽織り直し、愛銃のマシンガンを肩にかける。

それから左袖に通された風紀委員会の腕章を、その在処を確かめるよう指でなぞった。

 

その感触が、再び重たくのしかかる。

 

──風紀委員長として、最後にこれだけは全うしよう。

 

護るべき人を傷つけた、弱く情けない自分でも。

せめて、その命を繋げるために戦おう。

 

翼を翻して、ヒナは責務を果たすべく飛び出した。

 

 

 

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