人は忘れる生き物だ。忘れる事で慣れて前進する事を覚える生き物だ。
この慣れというものは実に恐ろしいもので、馴染む事がないと思っていた事さえそのうち自然と受け入れるようになる。或いは人生が2周目という事実が凡その事に対して自分を寛容にしているのかもしれない。なんにしろ、広すぎた家というのも数日もすれば慣れてしまう。
ただこれだけは一生慣れない気がするというものはある。
「おい、ラブリーちゃん。俺の腹はクッションでもなければトランポリンでもない。いい加減起こしに来るならその事だけは覚えておいてくれ」
「くぅん?」
とぼけた表情で首を傾げるのは我が家の一員にしてジジイが数年前にパートナーとして投げ渡してきた一匹のモンスターだ。
そう、モンスター。
子狼の姿をしたモンスターだ。当時ライセンスもなく、育成経験もない我が家に放り込まれてきたのはモンスターだった。そこそこレアで育てやすく初心者向けのモンスター。どれだけ成長しても子狼のまま姿が変わらないという事から根強い人気を持つウルフパップという名の怪物だ。
育てる準備も何もないから必死に必要な道具を買いに出たし、所有許可の為に走って父がモンスター管理協会まで最低限のライセンス取得しに行ったことは未だに記憶に残る出来事だった。というよりジジイの関わった事は大抵忘れられないインパクトを残してる。
ともあれ、この茶色の小さな毛むくじゃらはそれ以来家族としてずっと一緒にいる。
そして起こしに来る時に人の腹の上に飛び掛かって来るという悪癖もずっと続けてる。
「何度も言ってるよな?」
「わぅ?」
「……」
「……」
毛むくじゃらを持ち上げて顔を見つめると首を傾げられる。
「朝のお散歩がしたい?」
「わふっ!」
気分よく吠えられる。
「もうお腹に飛び掛からない?」
「わぅ?」
「絶対解っててやってるだろお前」
ベッドの横にチビを放り捨てて欠伸を零しながら起き上がる。壁に懸けてあるカレンダーへと視線を向けて、もうそんな日だったか、と愚痴る。足元ではしゃぐチビは妹を起こすわけにはいかないからこっちに来てはしゃぎ回ってるのだろう。現金な奴め。可愛い顔すれば直ぐに許されると思っている。
許しちゃうんだがな、これが。
「はあ……」
「わうぅー?」
「ん? ああ」
溜息に反応して見上げて来る子狼に大丈夫、と言ってパジャマに手をかける。
「今日から学校だからちょっと憂鬱なだけだよ」
サボりてぇ。
「尊、チビちゃんのお散歩を済ませてきたの? ありがとうね」
「チビのテンションがヤバイ高すぎ」
「やっぱり自由に走り回れる土地があると違うのね」
チビを家の外に連れ出すと凄まじい勢いであっという間に見えない所まで走り抜けていって、ついてこない? なんて表情を浮かべながら戻って来るもんだから朝から疲れ果ててしまう。コイツに付き合ってるだけで体力は幾らでも鍛えられるな……なんて事を考えながら朝食のテーブルに着く。
チビと朝を過ごして多少気分は晴れるが、それでも今日から学生として復帰しなくてはならない事を考えるとやはり憂鬱になる。人の精神性は肉体に引っ張られるという話をするが、それはあくまでも引っ張られる程度の精神を持っている場合だ。
強固な意志を持つ者はたとえどんな状態であろうと揺るがず、染まらず、変わらない。
良くも悪くも学校という社会には馴染めない。
「今度はお友達が作れると良いわね」
「母さん、小6なんてどこもかしこもグループが固定されてて割り込むのは難しいよ。たぶん卒業までずっとぼっちだよ俺。最初の数日は凄い目立って後は興味をなくして終わりだよ終わり」
「なんて夢のない事を言うのこの子は」
そもそもこっち来る前からだいぶぼっちだったから今更という話でもある。
「尊ももうちょっと社交性みたいなものを持てたらねぇ」
「十分あると思うけどなぁ」
並べられたお味噌汁に目玉焼きという何時も通りの朝ごはんを食べると、どこにいても食べるものは変わらないんだという妙な気付きを与えられる。とはいえ、これからは食べる為に買い物するのも一苦労だろう。車があるとはいえ、毎日買い物に行くような距離でもない。
これからは纏めて買って溜め込む感じだろうか。
「学校も遠いし行くのもう止めない? 通信教育で卒業するとかさ。送迎で片道1時間かかるのとかだいぶ拷問だと思うよ。こんな時間に車を動かされるダディもだいぶ辛いんじゃない?」
「そう言って自分が楽したいだけでしょ?」
「うん」
はよ飯を食えという母からの視線に負けてもそもそと朝食を口に運べば、ダイニングに目をしょもしょもさせた妹がやってきた。着替え終わって此方も登校する準備を整えているようだが、まだまだ眠そうだ。
「おはよう
「おはようお兄ちゃん……」
まだ眠そうにしているが、朝食を食べている間に勝手に目を覚ますだろう。或いは車の中でもうひと眠りするのもアリなのかもしれない。登校まで1時間……距離と時間を考えれば軽くもうひと眠りぐらいしても問題はないだろう。
「ふぅ、ごちそうさま」
「お腹いっぱい?」
「いっぱい」
「なら良し。頑張って勉強して来なさい。心配はしてないけどね」
今更学校で学ぶような事もないけど、それが両親を安心させるなら……という気持ちで準備を終える。後は父が車を出すのを待つだけ。そう思ってスマホで海外のモンスターバトルの試合結果でも眺めてようかと思っていると、力強い羽ばたきの音が家の外に響いた。
「いや、まさか」
窓を開けて外に首を出せば、見覚えのあるドラゴンが家の前に降り立つのが見える。当然、その背に乗っているのは許嫁を名乗る娘だ。ドラゴンの背の上から此方を見つけると笑顔を見せて手を上げて来る。
「む、もう起きていたかミコト。良い事だがこれではおこしにゆく楽しみが薄れるな……だが早起きが出来るのは私としては高得点だ。1久遠ポイントを進呈しよう」
「ポイントが溜まると?」
「私と結婚できる」
「溜めるかどうかちょっと悩むなぁ」
「面白い冗談だ。準備は良いな? それでは学校まで飛ぶぞ! ミスト!」
「え?」
此方へと向かって申し訳なさそうに頭を伸ばしてくるドラゴンの姿を見ていると彼女の言っている事が本気だと理解してしまった。
「尊、これ」
母が咄嗟に鞄を投げ渡してくる。それを俺が受け取ったのを見ると、良い笑顔で親指を立ててきた。
「行ってらっしゃい」
「嘘でしょ」
ぱくり、と窓の外から掴まれると家の外に引きずりだされ、そのまま放り投げられ―――ドラゴンの背に着地する。目の前にまで迫って来る久遠の表情が楽し気な笑みを浮かべる。
「強く私を掴んでいる事をお勧めするぞ。慣れてない間は落ちやすいからな」
「そもそも乗らな―――」
「良し、飛べ!」
「待って待った待ったぁ!!」
待たない。
此方の言葉をガン無視してドラゴンは飛び上がる。加速なんて言葉はない。一瞬で大地を蹴り上げて飛び上がると、次の瞬間には空を駆けだしていた。唐突に訪れる恐怖の空中通学タイムに迷わず久遠の華奢な腰に抱き着く。
「ふふ、情熱的だな、ミコトは」
「この状況だったら誰だって抱き着くと思うんだけど!?」
力強く羽ばたくドラゴンの翼に飛翔する事から発生する気流が―――来ない。驚くほどにドラゴンの背の上は静かで、物理法則から切り離されたような穏やかさに満ちていた。それが解ると周りを見る余裕も出てきて久遠に抱き着く腕も緩む。
「吹き飛……ばない?」
「吹き飛ぶならそもそも乗れないだろう。ミストの背は快適だぞ。慣れれば」
「初めてのフライトなんで加減してくれない?」
良かった、鞄は落としてない。ちゃんと握っている。開けて中身を確認すれば弁当に筆箱と学校で使いそうなものは全部揃っている。良かった、と安堵の息をつきたかったがまるで良かったと言える状況じゃない。
「何をしているのか聞いて良いか?」
「何をって……登校だろう?」
「知ってるか、これは登校じゃなくて拉致って言うんだ」
「態々1時間もかかる道のりを10分で済ませるんだ、感謝しても良いものだと思うが?」
「そうだね。許可さえあればね」
もう言うだけ無駄な感じがする。このまま文句を言い続けてやろうかとも思ったが、楽しそうに笑みを浮かべている姿を見ると、毒気が抜かれて何も言えなくなってしまう。それに楽しそうにしている女の子に態々空気を悪くする様な事を言うのも良くない。
言いたい事、ツッコミたい事を飲み込んで、違う言葉にする。
それに、こうやって辺りを見渡して見えて来る光景は圧巻の一言に尽きる。
瞬く間に大地が過ぎ去り、雲が後ろへと流れて行く。眼下の道路を駆け抜けて行く車が、人の姿が一瞬ですぎさっては遠ざかって行く。さっきまでは遠くに見えていた景色が一瞬で迫り、文明の力を使ったいかなる移動手段よりも早く、巨躯が空を駆ける。
「どうだ、凄いだろミストの上の光景は」
「ああ」
前世を含めて初めて見る景色だった。飛行機の中から見る景色とも違う、物凄いスピード感の中にいるのに、ここだけ切り抜かれているような、そんな不思議な景色だ。
「毎日こんな風、なのか?」
「ああ、私も街からは遠く離れて暮らしているからな。ミストを使わないと不便なんだ」
ミスト……確かミストドラゴンだ。
前世の、頭に残るゲームとしてのデータが正しければこれは第6世代、最終世代手前のモンスターで、モンスターマスターで言えばAランクのマスターが使役する様な高位のドラゴンだった筈だ。
「このドラゴンはジジイの……?」
「いや、父のだ。父もマスターだ。そしてゴーゾーもその縁で会ったらしい」
弟子か、或いは知り合いか。どっちにしろマスター繋がりだと考えると絶対に逆らえない関係だったんだろうなあ、というのは嫌なほど理解出来る。
「ミコト」
「うん?」
「ゴーゾーはな、貴様の事をにひりずむに気触れた無気力で怠惰な愚かものだと言っていた。持つべきものを持っているのにやる気を見せずになあなあで過ごそうとしている“勿体ない”の塊で出来ているようなものだと」
久遠の言葉に特に否定する様な言葉もなく、黙る。
「だからこそ私みたいにケツを蹴り上げる事の出来る強い女が必要だともな―――安心しろ、これから毎朝私がお前を迎えに来てちゃんと学校まで連れて行くからな」
私は、と言葉を区切る。
「お前の許嫁だからな」
やる気満々の表情を見せる久遠の言葉は、子供だからこそ言える無邪気なものだと思う。大人になれば成る程相手が好き、嫌い、気に入らない、面倒、他にやる事がある……そういう色んなものに引きずられて素直な言葉が出なくなる。
それが眩しく見える反面。
「おぅ」
余計なお世話だ、という言葉はなんとか飲み込んだ。