皺のない紳士服。
片手に巻いた無数の腕時計。
チェーンから吊り下げられる何個もの懐中時計。
60代の老紳士に見える男は静かにノア都市部、時計塔の頂上に立ち街並みを見下ろしていた。装着している無数の時計は全てが停止しており、時を刻む事を止めている。静かに、時が満ちるのを待つようにチクタクマンは行動を停止していた。しかしその内心は見た目とは違い、常に絶えず考えていた。
―――果たして、この意味は何だろうか、と。
『疑問:何故柊剛三は私を使ったのでしょうか』
チクタクマンは実の所、そこまで鴉羽尊を高く評価していなかった。間違いなく厄介な相手であり、同時に殺さなければならない人物でもある。成長すれば恐ろしく、放置していれば猛毒となる。将来性が高く、強敵になるだろう。現時点でパペッターを過去改変による抹殺に成功しているのも重要なポイントだ。
だが、まだ少年だ。
チクタクマンはノア攻略チームを追い立てる中でしっかりと彼らの観察を行っていた。中でも厄介なのは出どころ不明の知識を持つ鴉羽尊と、己と同様な未来観測によって絶えず結果を変更し続けている歪沢椿の存在だった。
前者は知恵と知識により能力に対する完璧な対策を施し、状況を詰みに持って行く能力が強い。後者に関してはもはや時間という概念を外部から観測できるものの争いであり、常人には理解できない領域の話になる。
時間を観測する第3者は観測するのと同時にそれに縛られると言っても良い。観測された未来は存在する未来として定着する。だからこそ未来を観測する時、全ての可能性を廃するのではなく、多くの可能性を見て余裕を作るのが大事だ。
故に、観測者が複数存在する場合、観測する未来をどっちが確定させるかという争いに入る。
上位存在は見たい未来を選んで実現する。
椿にそれだけの実力はない。その為、彼女はチクタクマンが選択肢を限定出来ないように、常に複数の未来をなんてこともないように確保し、観測し続ける事で詰みに繋がる局面を回避していた。それは時間を観測する者にしか理解できない領域の戦いであり、久方ぶりの観測合戦に少々興を刺激されるものを感じていた。
とはいえ、それだけだ。
弱い。
殺せる。
つけ入る隙が多く、手段を選ばなければ殺せるだろうと判断していた。無論、過去改変の手段が手にある以上、奥の手がまだ何個かあるに違いないと判断していたチクタクマンは、直ぐに殺すような事をしない。しっかりと手札を割った上で完全なる殺害を目的としていた。
そうでなければ安心できない。
チクタクマンは自分の強さを過信していなかった。特殊性と不滅性には自信があるものの、純粋な力においては他の邪神に勝るものではないと思っていた。だからこそ臆病に、慎重に、確実に殺せると思ったタイミングまで己の手の内を温存する事を考え、対策している。
それでも不可解な疑問が残る。
『殺すだけならインスペクターを投入する方が確実です。何故私を?』
インスペクターであれば時間もかけず、対策もさせずに出現した時点で死を確定させる事が出来るだろう。だが投入されたのは己であり、インスペクターではない。ならその意図するものは理解出来る。
『推論:鴉羽尊に死んで貰っては困る』
だが何故、という疑問がチクタクマンには残る。何故自分をここに当てた? 別に自惚れている訳ではないが、チクタクマンも邪神の一柱だ。国を丸ごと屑鉄に変えた経験も存在する。到底未熟な人間の群れに負ける程度の雑魚ではない。
では何故自分を当てた? まだ可能性があるから? 勝てる? 己は舐められているのか?
否。
『否定:柊剛三は邪神を見下してはいません。ネガコスモスの契約者としてその脅威と強さを理解しています』
だがパペッターを油断させ、慢心させて街に解き放ったのは剛三だ。アレが原因で過去への繋がりが出来てしまった。それだけ見るなら完璧なアシストだっただろう。だがチクタクマンは剛三の尊に対する憎しみと怒りは本物のように感じた。
『結論:答えは出ません』
柊剛三と鴉羽尊の関係は、見えているものよりも恐らく複雑なものになる。それを把握した上で今判断しない事にする。考えた所で意味はない。剛三がネガコスモスと契約している以上、その指示にチクタクマンは逆らえない。
邪神に友情なんてものはないし、横の繋がりなんてものもほぼない。
だが明確な上下関係はある。
ネガコスモスが上で、それ以外全てが下だ。故にチクタクマンは本気で殺す事を決めていた。慈悲はない。手段を択ばずに確実に殺す。そうすればきっと、あの女神はまた世界を戻そうとする。この愛しい時間を維持しようとして。
既に女神とネガコスモス、二柱の手によってこの時空は二重のループ構造を受けて時間概念そのものが傷ついている。後何度、この時空はループという無茶苦茶に耐えられるのだろうか? 何度も繰り返したテープは何時かたわんで、歪んで、そしてダメになる。
その果てに時は砕け散り、漸く本来の形を取り戻す。
即ち時の凪へ。
『歓迎:来ましたか』
エレベーターが上がって来るのをチクタクマンは感知した。現代、海上で決戦が行われる中、時計台の上から見下ろし戦闘に備えてチクタクマンは鴉羽尊一団を迎える。
ちん、と音が鳴りエレベーターの扉が開く。
飛び出してくる臨戦態勢の姿。第一声を以て迎えようとした瞬間、白紙の物語が輝いた。次の瞬間には攻略チームの姿が現代から消え去る。それは彼らが過去へと跳躍した事を意味していた。
『自ら混迷の死地に踏み込みますか。良いでしょう。混沌の底でこそ見えるものもある故に……』
迷わず、チクタクマンも動いた。
「―――」
声はない。走れ、足を止めるな、振り返るな。そんな言葉は挟み込まない。それだけの余裕がなかった。尊はミレーナに抱えられたまま精神を全力で集中させ、先導するノトスに並走する様にスクナに抱えられた椿は常に観測合戦をチクタクマンと繰り広げていた。
毎秒10を超える未来が観測され、ルートが封鎖され、本命を残して互いが観測した一本に道が絞られる。その未来を選ぶという戦いを繰り広げる中、ノトスは堪えきれない郷愁に駆られていた。
「あぁ……帰って来た……本当に……あの頃に」
振り返っている余裕はない。足を止めている余裕はない。ノトスは己の役割に準じて全速力で走っている。それでも溢れ出す涙を堪える事が出来なかった。過ぎ去って行く景色は幾度となく繰り返して見て来た景色だった。
それが今、決戦の地となっている。終焉の地となっている。
「あぁ、解ってる。解ってるさ。救えるもんは少ないんだって。選ぶしかないんだって……チャンスが与えられただけ恵まれてるって……!」
都市部は死んでいなかった。電力は未だに流れている。都市部から聞こえて来る戦闘音はまだ諦めていない者達が抵抗し続けている事を証明している。嵐が吹き荒れている。暗雲の中では今も海王とワールドイーターの戦いが続いている。この戦場はまだ生きている地獄だ。
そして今、ここで走っている者達も、抵抗の最前線に立っていた。
『否定:それは不正な時間の利用です。直ちに修正されるべき行いであると思いませんか?』
現れた。
それは錆色の肌をした老紳士だった。モノクルをかけて片目はまるで時計盤の様な模様が浮かび上がっている。喉の奥から湧き上がって来る声はどことなく機械音声染みていて、不協和音が神経を引っ掻き回す。
それが正面、ビルの角から当然の様に進路を塞いで現れた。
『初めまして。こんにちわ。また会いましたね。さようなら』
「そっちがの! そおい!!」
博士が秘密道具を投擲する。小型の機械はチクタクマンの目前に迫ると稼働し、一瞬でゲートを生みだしてチクタクマンの姿をその中に飲み込んだ。世界最小、超小型のダンジョン発生装置は現代に存在する技術の中で人類の英知が詰め込まれた一品と呼べる。
それがまだ、ダンジョンの存在しない時代に持ち込まれ、発動した。
ただひたすらサイズを膨張させただけのダンジョンにチクタクマンが飲み込まれ、ダンジョンゲートの横を走り抜ける。
『無論、ここは既にお互い確認済みの未来です。まさか通るとは思っていないでしょう?』
「うわあ嘘じゃろぉ―――! ロシアぐらいでっかいサイズに調整した筈なのに一瞬で抜けられたんじゃが!?」
「文字通り人知を超える力だな」
「あははは……僕達あんまり役に立たなそうだねここ?」
当然の様に横の店舗の屋根の上にチクタクマンは座っていた。まるで1つ1つ手札を、手筋を、何が出来るのか、それを確認して追い込む様にチクタクマンは煽り、対応を引き出そうとしている。それに応える様に、尊が漸く口を開いた。
「そんなに俺に何が出来るのか知りたいか」
『えぇ、勿論』
何時の間にか前方、橋の上に立つチクタクマン目掛けて殺意が突き刺さる。邪神と人の視線が交差する。
一瞬の停滞。静寂。世界がその選択肢に黙り込んだ。
「―――殺到しろ」
直後、都市が爆発するようにさえ感じられる衝撃の中。嵐の中の神でさえその一瞥を向けざるをえなかった。
都市部、表層。
そこに広く展開していた小口が、群れを成して一斉にチクタクマンへと襲い掛かった。
黒い津波が邪神の姿を覆い隠した。