罠だろあれは
柱にとって貴重な休日を得た。普段なら読書とお酒の時間を入れるが、今日は両方ともお休みだ。
現在時刻は深夜、藤襲山へと来ている。先日の答え合わせをするために。
あの子鬼が鬼になる前の自己を取り戻したキッカケだが、冷静に考えて私の血液を摂取したことしか心当たりがない。
私を喰らうことに意味があるのだろう。養父は血鬼術を使って私の身体を品種改良していた。その影響の一つが鬼殺に耐えられるほどの身体能力だ。ただ、これは副作用に近い。
養父にとって私の肉体はどのような意味を持っていたのか、長年放置していた問題にようやく向き合う時が来た。
「お邪魔しますよっと」
藤棚を超えて山の中、選別の舞台に足を踏み入れる。この中には鬼がいるが、私の特徴である黒地に鮮やかな青と紫の紫陽花柄の羽織、そして狐面を覚えている者も多い。結果、飢えていながら私の前に現れようとする鬼はいなかった。
「野良を捕まえた方がよかったかな。でも、野良鬼ってそう簡単に邂逅しないし、瑪瑙に見られてもなあ」
ひとりごちながら、ゆっくりと地面を踏み締めて歩く。私の足音だけが煩い。
ふと、思い立って足を止めた。過去の記憶を思い起こしながら手を持ち上げる。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
鬼殺隊にとっては洒落にならない歌とともに、柏手をひとつ。乾いた音が鳴り響いた。
養父と過ごしていた頃はようようこの歌を歌ったものだ。この歌を歌うと、鬼の養父がひょこりと顔を出してくれるのが可笑しくて仕方なかった。
そしてこの思いつきは、予想以上に効果があったらしい。養父と同じように、ひょこりと一体の鬼が姿を現した。
もしかしたら彼も、誰かを育てていたのかもね。
「なぁんだ、あの時の狐面じゃったか」
翁の鬼だ。腰がゆったりと曲がっていて、杖をついている。
血鬼術か。あの群れの中で血鬼術を持っていたのは頭領と老翁。
そこまで強くなかったとはいえ、上手く使われたら厄介だ。仕方ない。
一息で距離を詰め、そのまま足払いをかけて転ばせた。右半身で鬼を押さえ込むと、そのまま左肘を曲げて口の中に突っ込んだ。噛まれて、血液が滴り落ちる。
今日は隊服は着ていない。適度に血が流れたあたりで肘を取り出すと距離をとった。
「我儘な狐面様じゃ」
「喰ってほしいが、喰われすぎるのも困るので」
「カッ」
横暴極まりない私の言動に、老鬼は舌を出した。うん、私もそう思うよ。
やはりか。予想は当たっていたようだ。
先程までとは雰囲気が違う。姿形はそのままで、眼の光だけが理性を残している。
「それで、狐面の鬼狩様。何の用事じゃて」
「私の体質を知りたかった。そして、貴方で答えは得た」
養父は鬼舞辻無惨を心の底から嫌っていた。人を喰っていたのかもしれないが、その頻度は確実に少なかった。私の肉体を品種改良するときもあまりに手慣れていた。
それは、どういう積み重ねをしていたのか。
「ああ、そうじゃの。礼の代わりに話くらいなら付き合ってやってもええ」
「感謝します」
薬食い、という言葉がある。
私の肉体は、鬼が喰らうことで、人に戻ることができるのだろう。
「あの女の頭領はワシの息子の嫁じゃ。あの日、息子は二人の孫を連れて商品を売りに麓の町に出かけた。曇天で、おてんと様はひとかけらも姿をあらわしちゃくれねえ、そんな日だったよ」
「留守番をしていたあなたとお嫁さん、一番下のお孫さんの元に、鬼が来たと?」
「道を教えてほしいとな。ワシらの住んでるあたりは時折、街道から逸れて迷い込む者がおる」
だから、戸を開けた。そこに立っていたのは洋装の男。
気がつけば切り裂かれ、血を注ぎ込まれ。
そこに、町からの土産を携えた父と二人の息子が帰ってきて───
「喰った?」
「正気じゃおれんかった。ワシら三人ともな」
「……慰めることはできませんが、鬼と化した者は皆そうなります。血縁者の肉は栄養価が高い。真っ先に喰らおうとする。理性なんて保っていられない」
腹が、空くのだ。
きゅうきゅうとお腹がなって、少しでもいいから満たしたくて。
目の前の何もかもがわからなくなって。
気づけば、口を開けていて───
養父から何度も教えてもらった。
鬼が、どれほどの飢餓に苛まれるのかを。
私を喰えば、この飢餓から解放されるのだと。
「ワシはええさ。幕末の頃は汚いこともやって生き延びた。今更バチがあたろうとおてんと様の思し召しじゃて。……じゃがなあ、なーんであやつらまで鬼にされんといかんかったのか。のう、知っとるか、狐面の鬼狩様よ」
「お天道様の思し召しなどではありませんよ、翁。
「知っとるわ。ワシとて鬼狩様の血を喰らうまで、あの者の支配を受け取ったからの。なあ、なんでワシだけが鬼にされんかった。扉を開けたのはワシじゃ。一番前におったのはワシじゃ」
声が震えている。
これは懺悔だ。二度とお天道様を仰げないから、太陽の下からやってきた私に罪を告白して赦しを求めている。
やはり、鬼は一つの生き物と言うにはあまりに歪すぎる。なぜ、空腹を満たすという生物普遍の衝動を満たすだけで、こうして苦しまなくてはならない。
存在してはいけない生き物だ。
「のう、狐面の鬼狩様や」
「はい、なんでしょう」
「鬼狩様の血を喰らうは、残酷なことよの。ワシは全てをわかってしもうた」
「死にたいですか」
「死んでどうなる。ワシは地獄に落ちるやもしれん、それでええ。ただワシのせいで鬼になったあやつらはどうなる。ワシが喰らった者たちはどうなる。最後に残ったワシが皆皆、供養せにゃならんのじゃ。なあ、どうすればええ、鬼狩様」
鬼が、地に伏して乞うている。
私に救いを求めている。
自己を責めながら、愛する者の泉下の安寧を求めている。
「…………いつか。本当に近くのいつかの明日、もしも鬼殺隊となる誰かが貴方に助けを求めたら、その時に助けとなってほしい。もしも貴方の助けが私や私の仲間の力となり、その力が人を救ったのなら、僅かなりとも祈りは泉下に届くでしょうか」
あとほんの少しの年月で、竈門炭治郎を中心とした物語が動きだす。ここは藤暈山、竈門炭治郎が出会うこともあるだろう。
私はもう、それなりに強い。言い方は乱暴だが、老鬼程度の血鬼術など突破してしまえる。
ならば、これから強くなるしかない新たな隊士の方が、老鬼の力が役立つだろう。
「のう、狐面の鬼狩様や。ありがとうな、ワシにあの子達を弔う時間をくれて、ありがとうな」
「過酷な場所ですよ、ここは。餌はない、鬼はたくさんいる。貴方が先に喰い殺されるやもしれません」
「ええさ。なにも希望がないよりマシじゃて」
嗄れた声で何度もお礼を言う老鬼が、何かを握らせてきた。硬質でツルツルしていて小さい。手を開くとそこには、血鬼術ではない小さなガラス玉。
「……
「知っとるんか。鬼狩様はびいどろ呼ぶんじゃな。ワシと婆さんはそれを蜻蛉玉と呼んどった。婆さんが江戸の頃にそのまた婆さんからもらったものじゃ」
紫と橙色。美しい朝焼けを思わせる色合いの蜻蛉玉だった。綺麗だ。
「こんなものしか鬼狩様に払えんが……鬼狩様や。ワシら家族の仇をとってくれ。鬼の罪はワシ自身が償うから、人間であったワシの仇を取ってくれ」
つまりは、代金か。
これで、鬼舞辻無惨を殺してくれという、依頼料。
こんなものが代金になるはずもなく、頼まれるまでもなく鬼舞辻無惨討伐を目標としていて、鬼殺隊が鬼の頼みを聞く理由もない。
ないのだけれど。
「───たしかに、請け負いました」
「……ええのか」
他ならぬ老鬼が信じられない顔をしていた。いいよ、鬼に育てられた身だ、今更こんな約束の一つや二つ増えたとて変わらない。
「まさか鬼狩様が、鬼の話を聞いてくれるとは……」
「我が刀に刻まれた文字は悪鬼滅殺。少なくとも今後は悪鬼でないのならば、話を聞くどうかは私の判断に由来しますのでね。そうだなあ、もしも最初から人を喰らわないでいられた悪くない鬼がいたなら、その時は───」
びいどろを握っていない左手で手刀を作り、トントンと首筋に当てた。
「その話に頸をかけても、いいかもね」
主人公は鬼に育てられているので、命で責任を取ることを表現する際に「腹を切る」ではなく「頸を落とす」を使います