これより退任に挑みます、霧雨いろはです。
産屋敷耀哉、いざ尋常に勝負。
晩夏の昼下がり。
ちりぃんと風鈴が鳴り響く頃に、私は産屋敷家を訪った。
「御館様におかれましてもご壮健で何よりです。ますますのご多幸を切にお祈り申し上げます」
結局、それなりに長きにわたる柱の任期期間で私がこの挨拶をすることはなかった。いつだってこの挨拶は争奪戦だったし、私は特別思い入れはなかったからずっと誰かに譲っていた。
私とお館様が向かい合って座っているのは、水柱の就任時以来だろうか。
「水柱の座を返上したく参りました。後継には我が継子の冨岡義勇を据えていただきたい」
そう告げて、深々と頭を下げる。
お館様は歳を重ね、私の知る姿に近くなった。呪いは体を蝕み、死の香りが強くなっている。
それでも私のことを見る瞳は、あの頃とまるで変わらない。
「そう思った理由をきかせてくれるかな、いろは」
退任願いについてはすでに文書を送っているが、言葉にせよとのお達しだ。言葉でしか伝わらないこともあるし、言葉の機微でようやく口に出せる感情もある。
「上弦の弐の本拠地、特定未だ叶わず。故に、単独にて潜入、討伐を試みるため、許可をいただきたく存じます」
「うん、その許可なら出せる。ただ、それだけならいろはが水柱を辞める必要はないはずだ」
「……潜入し、確実に本拠点を叩くため、鬼殺隊の身分を敢えて明かし興味を引きたいのです。その際に現役の柱ともなれば、あまりに不都合が多いでしょう」
「現役の水柱である方が興味を引くと思うけどね」
互いにのらりくらり、これでは埒が開かない。
仕方ない、私だって本音を話していないんだから。
手を硬く握った。鬼殺隊の最高幹部が絶対に口にしてはならない言葉を最高位に伝えることに震える。
緊張などいつぶりだろう。私は、この方に失望されることを恐れている。
なんだかんだと言い訳をつけながら、私はこの方を心から尊敬しているのだと、今になって理解した。
「万世極楽教は、教祖たる鬼が信者を喰らうことを救済と呼ぶのだと、噂話にて聞き及んでおります。私は鬼殺に疲れ果て、全て承知の上で救済を願うという体で万世極楽教の宣教者と接触します。無論、対峙した暁には全力で殺しに行く所存ですが」
これはあくまで前世知識。だから嘘ではないし、曖昧な表現にすることで報告書に上げなかった理由付にもなる。
確定していない情報は報告しないことを徹底していた。お館様にとっては想像はついていても、私から聞くのは初めてとなる情報。
「討伐のためとはいえ、鬼に自ら喰われに行く者が、どうして悪鬼滅殺を背負えましょうか」
……いや、違うな。
この言い方だと、自ら喰われることで童磨の討伐を成し遂げた原作知識における胡蝶しのぶを愚弄している。
胡蝶しのぶが童磨に喰われることと、私が童磨に喰われることは、提灯に釣鐘だ。
「喰われる覚悟で上弦を討ちに行くことが、どうして恥ずかしいことだろうか」
ほら、お館様もこう捉えた。
やはり率直に、全てを簡潔に、伝えないと。
「いいえ違います、お館様。何故ならば」
まっすぐに前を向いて、本心を口にする。
そういえば、この願いを誰かに伝えるのは初めてだ。
怒られるかな。怒られたら嫌だな。
悪い鬼とはいえ、私を愛して、私が愛した、家族からもらった夢だものなあ。
「私が鬼に喰われたいのは、本心です。私は鬼の食物として育てられた。上弦の弐と接敵して確信しました。私の身体は鬼に喰われるために存在している。喰われることを欲している」
珍しいことに、本当に珍しいことに。
お館様がきょとんと瞬いた。
その動作に、この人が私の一つ年下であることを思い出した。
「……そうか。いろは、君は、君の夢は」
お館様の目が、まっすぐに私を射抜いた。
「“悪鬼”が存在しなければ叶わぬ夢。君は無意識領域で、悪鬼滅殺を望んでいないんだね」
ああ、言葉にされてしまった。
そうだ、その通りだ。
何がおかしいのか自分でもわからぬというのに、笑みが浮かんだ。
「……これまでは数多の空席があった為に、そして私が水の呼吸の使い手の中で誰よりも強いが故に、水柱の地位に就いていました。しかし役者が揃いつつあり継子も存在している今、悪鬼滅殺を望めない私が柱の地位を埋める理由も無くなった。ここが最後の正念場、鬼殺隊千年の歴史における鬼舞辻無惨滅殺の最後の契機。私のような存在で揺らぐことがあってはなりません」
今の役者には鬼に喰われるために生かされ悪鬼滅殺を願う伊黒小芭内、鬼にとって極上の食料である稀血を活かして戦う不死川実弥が揃っている。
鬼に喰われたい私がこのまま柱になっていれば、最悪、内部分裂だってあり得る。ただでさえ、私はお館様にある疑念を抱いている。
お館様への疑念と、内に秘める喰われたいという悪徳が他の者に悪影響を及ぼすこと。
それだけは避けなくてはならない。
鬼舞辻無惨を討ち取る最後の十年となり得るこの時期に、これだけの柱が揃うことそのものが奇跡だ。
この奇跡を逃してはならない。
私もお館様もきっと、同じ未来を危惧している。
「いろは」
「はい」
「そのような気持ちを持ちながら
「……鬼殺隊最強など、恐れ多い評価にございます」
言葉ではそう返したものの、自覚はあった。
透き通る世界については、いずれ柱の中で共有されるだろう。入れるかどうかは未知数だが、悲鳴嶼行冥ならばいつか必ず入る。
ただ、現時点では入れるのは私のみ。
すなわち私が、鬼殺隊の最強となる。
その鬼殺隊最強が、悪鬼滅殺を望めない。それがどれほど士気に影響を及ぼすのか分からないほど子供でもないし自尊心は低くない。
「私が去れば、悲鳴嶼行冥が柱の中核となりましょう。柱の最古参、最年長、最強が一人に揃い、次点の古参、年長者もまた宇髄天元に統一されます。内部分裂の憂慮はなくなるかと」
だから、憂いは可能な限り断つ。
みんな可愛い後輩たちだ、何も思わずにまとめ上げてきた訳ではない。
たかが一つの戦力によって不和が生じるくらいなら、削ってしまった方がいい。
「勝算は」
「余程の異常事態が発生しない限りは」
「単独で上弦に挑み、勝算を見込める者は鬼殺隊の歴史の中でもそうはいない。勝利の暁には鬼殺隊の士気向上のため、君の名前を使わせて欲しい」
「我が存在は如何様にもお使いください。ただし、私の行動によって鬼殺隊に亀裂が入るようであれば、即座に私を切り捨てていただきたい。釈迦に説法かとは存じますが、努努、お忘れなきを」
過去に、鬼殺隊の柱が組織を大きく狂わせた例は確かに存在している。それを知っているお館様もまた、頷いた。
やはり、行さんに押し切られず、まとめ役は辞退しておくべきだったと今更ながらに後悔が湧くが、どうしようもない。
「遺書は複数お預け致します。状況に応じて最も相応しいと判断したものを公表くださいませ」
「君が最も遺してほしい文書はあるかな」
「では、一番最後に書いたものを」
そうして幾らか、私がどうやって上弦に接触するかなどの仔細を詰めた。私付きの鎹鴉の瑪瑙と、主人が死んでからは私がほぼ世話をしていた音羽は、私が死亡した場合はその役目を解かれ別の任務に就くこととなる。
お館様へ通すべき筋は通した。宣教役のとある信者との接触の目処はおおよそ二週間後。
思えば、槇さんには及ばないものの、柱として長く勤めたものだ。
あとは、後輩たちが頑張ってくれるだろう。
私は一足先に、上弦を道連れに夢を叶えさせてもらおうか。
「現時点をもって霧雨いろは、君の水柱の座を解任する。そして、上弦の弐の単独討伐を命ずる。頼まれてくれるかな」
「御意」
悲鳴嶼行冥から見た霧雨いろは
・自分の鬼殺隊入隊前から既に柱
・長い歴史を持つ水柱
・お館様への挨拶を譲ってばかりいる
・柱同士の稽古の機会を提供
・継子育成済
・前炎柱の尻拭いに奔走
・前炎柱に代わる現炎柱の事実上の後見人
・後輩への面倒見がいい
・上弦の鬼と接敵して生還している唯一の現役柱
・鬼殺隊最高戦力、当然自分よりも強い
・でもたまに突拍子もないことをやる
・目が見えないので、狐面の先入観がない