一時期は随分と通った煉獄家に、久々に来た。誰もいないということはないだろうと先触れなしに来てしまった。怒られないだろうし。
「お邪魔します。お久しぶりー、千寿郎くん」
「いろさはん、お久しぶりです!」
「おっ、大きくなったね。杏寿郎くんはいる?」
「救援要請が入ったので急遽任務に出てまして、もうすぐ帰ると思います。そういえば、いろはさんの元には救援要請が来なかったのですか」
「私のところには来なかったね。一人で大丈夫だったのかな?」
惚けて見せるが、ほぼ確実に私が柱の座を辞したせいだろう。私の退任がどう扱われるかは、今後の万世極楽教における戦果によって変化するため、現時点では誰もそのことを知らない。
お館様とてあのような物言いをしたが、私が上弦を撃破できると確信している訳ではない。私が上弦に傷一つつけられず喰い殺された場合も考慮しているに違いなかった。
「兄上に何か御用ですか」
「うん。来週にちょっと大きめのお役目があるから、その前に軽く顔だけ見ておこうと思って。待たせてもらってもいい?」
「勿論です!今お茶を準備しますので」
「千寿郎」
仲良くお喋りをしていたら、騒ぎに気がついた槇さんが来て名前を呼んだ。最後の記憶の槇さんの姿とはうってかわって服は着崩していないし、酒も持っていない。
「急だが客だ。茶菓子を何か買ってきなさい」
「私は気にしませんよ。先触れなしに訪ったのはこちらですし、手土産も」
「おもたせでは失礼だろう」
「あ……はい、分かりました。すみません、いろはさん」
「いえいえ」
千寿郎くんはお茶を出し終わると、パタパタとお金を持って外に出ていってしまった。あとには私と、槇さんだけが残される。
とりあえず狐面を顔の横にずらしてお茶を啜る。
「……それで、千寿郎くんを外に出してまで聞きたかったこととは?」
「炎柱が杏寿郎で終わりだと言ったな。どういう意味だ」
「そのままの意味ですよ。肩書としては続くかもしれませんが、鬼殺隊、ひいては煉獄家の本懐は煉獄杏寿郎の代で最後となるでしょうね」
「何?」
「時間がないのですよ、鬼殺隊が悪鬼滅殺を成し遂げる可能性があるのは、残り十年程度です」
現在の煉獄杏寿郎には妻も子供もいない。これから見合い等で妻を娶り子を成したとして、その子が鬼殺隊に入るまでに期限が来る。
目を閉じる。転生者としてこれからの世界を知っている。
「十年、それを過ぎれば、人間は───地下に活動空間を作り始めます」
槇さんが息を呑んだ。
それが鬼殺隊にとってどれほど不利なことか、分からぬ筈がない。
鬼がそこに潜伏してしまえば、鬼殺隊が追撃しきることなど不可能だ。ただでさえ、刀を持って動き回ることに不都合が出始めているというのに。
時代が、鬼殺隊に逆風となっていく。
そしてその後は、日本全土が焦土となる。鬼殺隊もまたどれほどの損害を受けるのか、私には想像も及ばない。
「それまでに、仕留めきらねばならない。煉獄杏寿郎の代が最後です。逃せば、
「ならば貴様が最後の水柱だと?」
「いいえ?私はすでに辞しました。水柱は冨岡義勇です」
「死ぬまで鬼殺を続けるとは嘘か」
「嘘なものか。柱は退いたが、鬼殺隊には未だ籍がある。言ったでしょう、死ぬまで鬼殺を続けるつもりだと」
茶を飲み干して、湯呑みを机の上に置いた。
槇さんは私の言い回しに何を言いたいのか悟ったらしい。伊達に長い付き合いをしていない。
「……何をする気だ」
「少々危険な任務を。でも、鬼殺隊なんてそういうものでしょう?大体、本気で鬼舞辻無惨を仕留めるならば誰も彼も寿命は二十五だ」
「知っていたのか、痣のこと」
「ええ、噂程度に。槇さんの反応を見る限り、本当のようですね」
「……鎌をかけたな。お前は出せるのか」
「それがさっぱり」
それでも、やらなければならない。
やぶれかぶれの再現性のない手段で上弦を一人撃破した程度で鬼舞辻無惨が逃げ隠れることはない。だからこそ私の手で上弦を撃破して、少しでも後に繋ぐ。
「……末端を殺したとして、鬼舞辻無惨を殺せるのか」
「少なくとも、手足は減らせます」
「あの剣士が届かなかったものが今の代で届くものか!」
「太陽の子とて人間です!槇さんも分かっているでしょう!?
声が荒くなり、そのまま立ち上がった。互いに睨み合い、手を出す寸前までに激昂する。
「知っていますよ私だって、貴方と同じだ!産屋敷耀哉の人間の顔を見た!あの一族も太陽の子も、誰も彼もがどうしようもなく人間でしかない!
最後の契機となる瞬間に、折れるかもしれない、全てを投げ出すかもしれない!最後の最後で致命的な間違いを犯すかもしれない!その可能性が常に頭の片隅にある!」
先代お館様の自死を、今のお館様の弟君の狂乱を目にしてきたならば分かるはずだ。手記にだって継国縁壱の人間性が書いてあったかもしれない。
家で一人亡骸を抱えていたことや、思わず鬼舞辻無惨を問い詰めてしまったことが。
当時の炎柱は全ての人間性を理解できなかったかもしれないが、見たままを書き記しただけでも、彼の人間性のごく一部くらいなら読み取れる。
「それでも時間がない!分かっているはずです、当代こそが稀代の傑物であると!」
「当主はそうかもしれんが、杏寿郎は長きにわたる炎柱の歴史の中で飛び抜けてなどいない!その杏寿郎に全てを賭けさせろと言うのか!?」
「その通りですよ!これより先、水柱は一門を持って大博打に打って出る!数百年に一度、否、文字通り千載一遇の大博打に!」
竈門炭治郎と竈門禰豆子について、未だ確定してはいない。思わず勢いで口に出してしまった。
確定していない情報をまるで確定しているかのように話してしまったことで、頭が冷えた。
肩で息をする。体力は全く消耗していないが、精神的な疲労がどこかにあった。
「……お前は賭けられるというのか」
「賭けます。けれども、頭の片隅にある疑念は消えないし、我が内心にある悪徳は鬼殺隊に悪影響を及ぼしかねない。
だから退くのです。それで私は終わりにします。幸いにも後任がいる、水柱の座は彼に引き継ぎます」
あとはもう、信じるしかない。
竈門炭治郎と竈門禰豆子が、先に進むための最後の歯車となってくれることを。
しかしそれは、彼と彼女の家族の死を望み、一度は絶望の淵に叩き込まれるのを見過ごすのと同義でもある。
自らが鬼に喰われることを望み、遠くの善良な家族が鬼に全てを壊されることを望む。柱として持ってはならない悪徳が胸の内にある。
「私や貴方のようなうつけ者は、柱の地位に存在してはならない。我々はこの先に相応しくなかった。それでもできることをやる、それだけの話です」
「……鬼殺隊の千年、お前の言うような役者が揃わなかったとは思い難い。それでも殺しきれなかったのは、俺やお前のような疑念が鬼殺隊に存在していたからと、そういうことか」
「歴史の中で鬼殺隊から鬼になった者は幾人もおります。長く歴史を持つ産屋敷や、炎柱、水柱にだって愚人は存在したでしょう。ですが少なくとも産屋敷耀哉、冨岡義勇と煉獄杏寿郎は違う。我々のようにはならない。屋台骨が確かならば、きっと大丈夫です」
それきり、私は黙った。槇さんも黙った。
少し後に千寿郎くんが杏寿郎くんを伴って帰ってくるまで黙りっぱなしだった。
杏寿郎くんが遅い朝食をたいらげ、千寿郎くんが買ってきた茶菓子でお茶を一服する。部屋に閉じこもった槇さんにも千寿郎くんはお茶を持って行ったが、私は行かなかった。
取り止めのない話だったが、会話は弾んだ。美味しい鰻屋だとか、千寿郎くんの勉強だとか、そういう話。やがて昼前となった。杏寿郎くんの睡眠時間を考えると、これ以上時間を取らせるわけにもいかない。
「そろそろ私は失礼します」
「またいらしてくださいね」
「機会があったらね、杏寿郎くんもあまり抱え込みすぎないように」
「はい!いろは殿もまた、ご自愛なされますよう!」
玄関先までお見送りしてくれるので、ギリギリまで会話をしていると、気配がひとつ。
槇さんが玄関先まで来ていた。珍しい光景に、兄弟が瞬いている。
「行くのか」
「ええ」
「……鴉を一羽、借りられるか。後で返す」
「どのような風の吹き回しで……まあ、構いません。瑪瑙に言っておきます」
顔を出してくれて良かった。これが最期の顔合わせとなるだろうという、奇妙な確信があった。からり、と戸を開く。背中越しにカチンと硬質で軽い音が鳴った。藤の家紋の家で幾度も聞いてきた、切り火の音。兄弟がそっくりな顔で驚いているのに無性に笑いが止まらない。
「それでは、お邪魔しました」
あえて振り返らず、軽やかに手を振って家を後にした。
槇寿郎と主人公はお互いに、相手はくたばらないだろうと思っています。根拠は特にありません