ただでさえ童磨に全てを委ねた後の酩酊状態で、普段なら常に研ぎ澄まされている平衡感覚すら覚束ない。それに加えて、上も下も右も左もわからぬ無限城。
床に下ろされると同時に膝をついた。不味い、立っていられない。呼吸が乱れそうになるのを必死になって堪える。
目の前に、鬼の始祖がいるというのに、平常を保つことすらままならないとは、元水柱としてなんたる無様!
「それが、貴様の元に飛び込んできた柱か」
「そうなんですよ!俺の目をつぶした子が、まさか俺に食われたがっているとは思わず……」
この声、この圧力、この気配!
先ほどまでの幸福な陶酔とはうってかわって、全身の細胞が警報を発している。
座り込んだまま前を向く。上にあるのはひどく整った顔。爛れる前のお館様の容姿と瓜二つの、しかし目だけは鬼のものであるとよく分かる金色。口から牙がのぞいている。
発する言葉が重たく響いている。
───まさか私に目を付けるとは、どういう風の吹き回しだ、鬼舞辻無惨。
無惨はしばし私を舐め回すように見た後、顎を掴んで持ち上げ、問いかけてきた。金色の瞳が潤んだ私の瞳を覗き込む。
「貴様は鬼に喰われたいと言っていたな。どうだ、私に喰われてみたいか?」
目を見ながら思考を回す。
最も危惧するべきことは、無惨がこのまま雲隠れして今代での討伐が不可能になること。
つまり、無惨が私を中途半端に喰らって、中途半端に弱体化しようものなら、こいつは確実に潜って出てこなくなる。
それが一番不味い。
しかし、ここで下手に誤魔化してただ頭を吹き飛ばされようものなら無駄死。そんなことになろうものなら恥も恥、水柱の座を辞した甲斐がないというもの。
大丈夫。喰われたいという気持ちは本物。そこに嘘を見出すことは何人にもできはしない。
「ええ、ええ!私は喰われたいがために万世極楽教を訪いました!食べていただけるのならこれ以上の幸福はありません、鬼舞辻無惨様!」
無惨が私を連れてきたのは、利用価値を見出したから。おそらくは、継国厳勝という成功体験があったから。
だが、私にどのような利用価値を見出しているのか、これがわからない。
鬼にして手足とするのなら断る理由になる。人間として喰われたいのが私の願いだ。
「私が貴様の願いを叶えてやろう。ただし、何もせず食ってもらえると思うな」
己が言葉を否定されることはないと分かりきった傲慢さで、ねっとりと無惨が私の耳元で囁いた。
「産屋敷家当主の首をもってこい」
「……そ、」
……そうきたか。
「それは、極めて厳しいのです。過去に柱から裏切り者が出たため、産屋敷家の場所は我ら柱にも秘匿されております。加えて私は水柱を辞した身、産屋敷家に招かれることはあり得ません」
過去の月柱、現在の黒死牟を理由とした言い訳を並べる。己が手足となる上弦の壱が理由ならば納得するだろう。鬼舞辻無惨は横暴で傲慢だが、反論が理路整然としていれば聞き入れるだけの理性はある。
思考をのぞかれる心配はないとはいえ、水柱を辞して良かった。吐く嘘は最低限である方がいい。
「ならば、もう一度入隊するがいい。柱となるほどの腕前ならば、再び同じ領域まで辿り着くことなど容易いだろう」
「然し乍ら、私は元水柱として多くの隊士に知られております。容姿と腕前で、目論見がばれる可能性が高いかと」
「なんだ、そんなことか」
ニイ、と無惨が口角を釣り上げた。使えそうな新しい駒が増えたことを喜ぶ、そんな笑顔だった。
「容姿と呼吸を変えれば良いのだろう?」
こいつ、自分が容姿を好きに変えられるからって無茶苦茶言いやがる!
加えて、原作における蜘蛛鬼のように、人間を別の姿に変えてしまえる血鬼術は決して少なくない。思い当たる節があるのか、無惨が鳴女に何かを囁いた。べん、と琵琶が鳴り響き、目の前に新たな鬼が現れた。
「
「はい、無惨様」
艶かしい女の鬼だった。素肌は白く、巫女のような衣服を着ている。巫女の鬼っているんだなあと思った。現実逃避だ。まあ教祖の鬼もいるくらいだしな。
「黒死牟に育てさせる。月の呼吸の肉体に作り直せ」
「かしこまりました」
そんなことできんの!?
「大丈夫だよ、いろはちゃん。彼女は過去に何度か、捕まえた隊士を月の呼吸が使えるように改造してきたからね。もっとも、黒死牟殿が納得できるほどの剣士は今までいなかったようだけど……君なら、きっと乗り越えられるよ!」
なにやってるんだコイツは!
というか無責任な励ましやめてくれない!?
「あぁ、今まで幾人もの剣士を黒死牟様に献上しようと手を加えましたが、その全てが脆弱極まりなく潰えていった。まさか素材に柱をいただけるとは光栄の極みにございます。これでまた月の呼吸にお近づきになれる……」
あ、なるほど惚れてるから月の呼吸を使えるようにした隊士を貢物にしようとね……安心できるかァ!言い分的に全員失敗か狂死してるんじゃないかァ!
つか鬼同士で惚れた腫れたってあるんだ!?初めて知ったよ知りたくなかったけど!
「愛ってすごいねえ、いろはちゃん。俺が食べてあげられないのは残念だけど、もしも耐えきれなかったら螳琊奼殿に食べてもらうんだよ」
見ててわかるけど、コイツ絶対強さ自体は下弦未満!そんなやつに食べられても私の無駄遣い!!!
というか愛が無惨の呪いである鬼の同族嫌悪を打ち破ったと考えたら確かにすごいけど、それを我々鬼殺隊士に向けないでくださいませんか!?
あと愛って言ってるけどこれ付き纏いとかそっちじゃないの!?童磨は愛とか感情の解像度低いの知ってるんだからね!?原作知識だけれどもさ!!!
「それとも。断って今この場で無駄死にするか?首を並べて鬼狩共の反応でも愉しむか」
「……!」
駄目だ。それだけは駄目だ。
何のためにここにいる。喰われるという生涯の願いをここで潰えさせるつもりか。
水柱となれるほどの剣の腕を、無駄に消費するつもりか、霧雨いろは。
それに、万が一、本当に万が一。私を殺した後に無惨が私の遺体を喰うようなことがあったとしたら……洒落にならない事態になりかねない。
ここは話に乗るしかない。喰われたいと願うことで生き延びる。無惨の食糧となる可能性から少しでも離れろ!
「いえ、いいえ!私は喰べていただきたい!どんな手段を使ってでも!」
「我らに喰われたければ励むことだな、元柱」
「は、はい!」
「鳴女」
べん!と琵琶の音が鳴り、私と女の鬼は何処かへと飛ばされた。目の前には大きな蔵がある。
螳琊奼の美しい手が、私の喉元にかけられた。傷やタコだらけになった私の手とは似ても似つかない、鋭く爪が尖った、美しい手だ。
「さあ、百日と少しほどで、貴女は私の作る完全な月の呼吸の使い手となるわ。その間に狂ってしまわないようにね。さもなくば、喉笛を掻き切って殺してしまうわよ」
あーあ、しくじった。
無惨は螳琊奼という鬼を通して私を見ている。鬼舞辻無惨の意向に従うかを監視している。ここで下手な行為を取れば、鳴女を通じて無惨か、童磨が出張ってきて無駄死だ。
生殺与奪の権を鬼に握らせたからこうなった、自業自得だ。おかしいな、誰の犠牲も出すことなく上弦に食べられたかっただけなのに、後輩は死なせて私は死なない。
どうしてだろう。どうして上手くいかないのだろう。
後ちょっとで食べられたはずなのに。
私以外のたくさんの隊士たちが、私の助けが届かず食べられていったのに。
ただ、これは好機かもしれない。
鬼から情報を得る、千載一遇の機会になるかもしれない。
大丈夫、生きながらの肉体改造はこれで二回目。経験済みだから、きっと耐えられる。
「……食べていただけるよう、最善を尽くします」
万が一にも陽の光が差さないように窓が閉め切られた蔵の中から血の匂いがする。死体の気配がする。行方不明となった隊士の持ち物が見え隠れする。
うねうねと、ちょっと想像したくも口にしたくもない何かが蠢いている気配がする。
……入りたくないが、入るしかないか。
やはり、生殺与奪の権は握らせるものではない。
しかし鬼に喰われたいならこうするしかないしなあ。
厄介な性分を人生で初めて呪いながら、重たい足取りで蔵の中に閉じ込められた。
全く、ほんと、嫌になる。