おなかすいた。
真夜中、この蔵の持ち主の鬼が消えた絶好の機会は逃せない。隙間からこちらを伺う鎹鴉に呼びかけた。
「音羽、入ってきて。大丈夫、コイツらは我らの思考は読めないし見聞きもできない。情報は伝わらないから!」
触手に纏わりつかれてる身で説得力など無いが、そう呼びかける。少しして、意を決した鴉が一羽、中に入ってきた。万世極楽教の直前まで案内して、様子を監視していた音羽が、ここにいるとはね。
私を見失ってからは別任務に就いていたのだろう。それで煉獄槇寿郎の行方不明もしくは交戦によりその関係に動員されたか。
「無事ニ見エナイナ」
「まあね。何か紙は……」
「アル。コレ使エ」
「どうも。血文字で勘弁」
地面に倒れた状態から自力で起き上がることはできないが、手首から下を動かすことくらいはできる。触手がものを見聞きできない、情報を集めることができないと調べておいて良かった。
足元に結びつけていた何かしらの紙を解き、音羽の嘴で指先を傷つけてもらい、指先から流れ出る血で文字をしたためる。
童磨の討伐に失敗したこと。
現在、鬼側の間諜として産屋敷当主の首を持ってくるように求められていること。
自害は選択肢に入ってはいるが、現段階でそれを選ぶつもりはないこと。
それらを利用して鬼殺隊に貢献する心算であること。
鬼側について得た情報。
黙々と書き記していく中で、ふと指が止まった。懸念事項が頭をもたげる。
「……万世極楽教」
下手に万世極楽教に柱を突っ込ませようものなら、柱の欠落を招く可能性がある。上弦、その中でもさらに上位三名は厄介極まりない。全ての準備が……少なくとも柱の痣の発現と赫刀の発現条件の共有が終わるまで、下手に交わるべきではない。
くそ、ここにきて私が万世極楽教について調べていたのが仇となった。やろうと思えば戦力の投入ができてしまう。それは避けたい。
思考を巡らせる。仕方ない、いくつか残してきた遺書のうち、アレを使わせてもらおう。
「……音羽。今後、私のことは捨て置くように」
「何故ダ、手紙ヲ届ケタラ、必ズ助ケニ戻ル。二ノ舞ハ御免ダ!」
「私は鬼に喰われるという救済を求めていた。お館様はそれを知り私を水柱の座から罷免。そして私は柱として調べていた情報をもとに万世極楽教に入信、望み通り喰われた。そういう筋書きを打診する」
万世極楽教を調べていた柱が、万世極楽教の教義に取り込まれた。コレならば、お館様が柱に対して一律で万世極楽教の調査を禁じるだけの理由になるはずだ。
鬼側もまた情報を共有している。水柱が自ら鬼の元へ堕ちたことを、無惨は嬉々として受け入れた。継国巌勝の事例が作用しているのは想像に難く無い。十二鬼月から煽られたことで情報が広がるくらいなら、お館様から伝わった方が混乱も少なくて済むだろう。
「それに、全てでは無いというだけで、いくつかは事実だ」
鬼に喰われたいのも、水柱を辞めたのも、自ら万世極楽教を訪ったのも。
なんとか血文字による手紙を書き終えて、音羽の足首に結びつけた。
手紙にひと言「たすけてほしい」という旨のことを書けば、お館様は助けてくれるだろう。これでも鬼殺隊最強、その戦力の重要性はよく分かっている。ましてや、鬼舞辻無惨と邂逅すらしている身ともなれば。
でも、私はそれを拒否した。目の前に転がり落ちた、最初で最後の契機に手を伸ばさなかったのは私の意思だ。
「行って。あいつは元鬼殺隊士。鎹鴉の意味を正しく理解している。見つかる前に」
「助ケテ欲シイト、何故言ワヌ」
「……さあ。何故だろう。ただ分かっているのは、私の判断が間違っていたら誰かが迎えにくるということだけだよ」
「柱トイウ者ハ是ダカラ」
「私はもう柱じゃない」
血文字では不恰好だが、情報は過不足なく伝えた。鬼殺隊士である以上、最終的な判断はお館様に委ねる。どう利用するかはお館様次第だ。
「伝エルコトハ」
「お館様に、ご自愛専一にて精励くださいますようにと」
「承知シタ」
鴉が飛び立っていく後ろ姿を見ながら、大きく息を吐いて脱力した。呼吸をひとつ整えて透き通る世界に入り、己の肉体を余すことなく把握する。
筋肉のつき方、骨格のバランス、関節部の柔軟性、呼吸の癖、重心……それら全てが、私の慣れ親しんだものから外れつつある。鴉が飛び去っていった方向を見ながらぽつりと呟いた。
「悪いね。私はもう水柱にはなれないよ」
技を出すこと自体は叶うだろうけれど、水柱としてそれなりの間極め続けた領域にはもう辿り着けない。その肩書きを背負うことができるのは、もう冨岡義勇しかいなくなった。
彼岸が過ぎた。あともうしばらくすれば雪が深く降り積もり、鬼舞辻無惨は竈門炭治郎の家を急襲する。
その筈だ。会ったこともない誰かの悲劇を祈らねばならぬほどこの物語は危うい釣合で進行する。
どうか、どうか、物語が始まりますように。歯車が噛み合いますように。
……いや、本当に物語は始まるのだろうか。
ただでさえ、煉獄槇寿郎が予想もしていない場面で死んでしまったというのに?
ぐるぐると、厭な考えばかりが頭をよぎる。槇さんの生首は、思った以上に私の心を抉ったらしい。辛い、苦しい。何人もの死を見てきた筈なのに、今がいっとう悲しい。
どうにもならない時間が過ぎて、やがて夜明けの光が見えた。長い時間意味もない思考に費やしていたことに気がついた。
久方ぶりに見る陽の光が眩しくて、それを背負った黒い影に目を見開いた。
鴉だ。それもおそらくは、産屋敷家の直轄、最精鋭。光の当たる場所からギリギリ出ない位置で私のことを見つめている。
そうか。
もう朝か。
神様の時間が来た。
「元水柱、霧雨いろは殿」
「は、このような体勢で失礼致します」
「産屋敷耀哉より言伝を預かっております。『間諜として貢献してもらいたい』」
「なるほどね……」
鬼舞辻無惨は私を手駒として鬼殺隊に送ろうとしている。
産屋敷耀哉はそれを踏まえた上で、鬼舞辻無惨の情報を流し鬼殺隊に貢献しろと言っている。
つまり、二重間諜をしろということか。
これができるのは、本気で鬼に喰われたいと願い、その感情を正しく受け取ってもらえた、私が初めてだろう。おそらくは、千年の中で唯一無二。
───いいだろう。
無様を晒した。私の失態は私の手で挽回する。
鬼に干渉できるこの立場を利用して、なんとしてでも今代における最終決戦を展開してみせる。
竈門炭治郎が鬼殺隊に現れても現れなくても、確実に、この時代に鬼舞辻無惨を討ち取るために。
「全霊を尽くす。冨岡義勇と煉獄杏寿郎をお頼み申し上げる」
心残りは、ひどい汚点を残した水柱の後継となる継子の義勇のことだ。杏寿郎くんだって、槇さんの訃報を受けた直後に、師範役であった私の醜聞を聞くことになる。心労は計り知れない。
針の筵の上に立つことになるだろう。二人に申し訳が立たない。
まあ、存分に嫌ってくれ。
「承知した」
さあ、私のやることは決まった。何歳になっても、新たに学ぶことはたくさんある。
習得してやろうじゃないか、月の呼吸を!
Q.鱗滝さんは腹を切る?
A.あくまで「万世極楽教の教義に取り込まれた」だけで鬼になった訳ではないので切らないでね、とお館様が頑張って説得した