炭治郎・善逸・伊之助はイナバに言われた通り、臭いを辿りながら鬼の元へと走っていた。所々にある血溜まりの痕跡に眉を顰めつつも逃げ遅れの人がいないか確認するが、見つからない。
(イナバさんが助けたんだ。俺よりも後に山の中に入ったはずなのに。やっぱりあの人は強い)
藤襲山の最終選別……という名の最終稽古の時から分かっていたことであったが、改めて実感する。月詠イナバは仮面を身につけた年齢不詳の女性だが、会話の感覚や立ち回り等から炭治郎たちよりもかなり歳上、二十を超えることは推測がついている。
戦いの年季が違う。炭治郎含めあの最終稽古の生き残りは全員、そう実感せざるを得なかった。
「ねえもうあの人に任せれば良くない!?」
「なんだ逃げるのか!?」
「それは駄目だ、イナバは人命救助をしているから、代わりに俺たちが鬼を倒さないと……」
炭治郎の言葉を待たずに、ふと、善逸が足を止めた。視線の先は遠く、目指す先から少しズレた場所を見ている。
「あっちにもいる。遠いから俺が行くよ……音が聞こえるけどイナバよりマシだから!」
「おう!イガイガより怖い奴はこの山にはいねえ!俺様が保証するぜ!」
どぉん!と雷を思わせる音と共に、善逸の姿がその場からかき消えた。炭治郎と伊之助はその背中を見送ってから、前を見据える。
血溜まりを辿るように前に進んでいくと、イナバが回収しきれなかった犠牲者がようやく現れた。
「なんだこれは、首がない……!?」
元はかなり大柄の男だったのだろうか、巨躯の男の“人形”が立っていた。この時の炭治郎と伊之助は知らぬことだが、イナバが鬼殺隊士たちの人形を全て回収してしまったことにより、鬼の手足となる人形はこの一体のみとなっている。
そして二人とも、今更この程度の人形で怯むような実力ではない。
「水の呼吸、壱ノ型【水面斬り】」
「獣の呼吸、弐ノ牙【切り裂き】」
首がなければ胴体を大きく輪切りにして複数の肉塊に分断し無力化すること。イナバの七日間に及ぶ稽古で仕込まれた判断の一つに忠実に従い、二人はわずかな時間で最後のとっておきである人形を突破した。
「いた!さっきのを操っていた鬼だ!」
「嘘、なんでこんなに早く!どうして私の人形があんなにすぐに盗られたの……」
“母”をやらされていた鬼にとって、それは文字通り晴天の霹靂だった。目の前に迫る炭治郎と伊之助はもちろん、武器となる人間たちを瞬く間に攫い切った“誘拐犯”の恐怖が二重になって襲いかかる。
誘拐犯を一切感知できず、反応すら叶わなかった。目の前の鬼殺隊から逃げ出しても、次の瞬間ソレが背後に現れるかもしれない、幽鬼のような恐怖がある。
(いっそ、それなら……)
どうせ逃げられないのなら、楽になってしまおう、と。山の中での過酷な生活がリフレインした母蜘蛛が、逃げるのをやめた。炭治郎に向かって降伏の意を示すように首を差し出す。
「【干天の慈雨】」
炭治郎がそれに応えるように刃を振るう。数多の呼吸の中で唯一の慈悲の剣により、母蜘蛛の首が斬られた。
それとほぼ同時刻、どぉん!という重厚な雷の音が山一帯に響き渡る。先ほどと同じ音であることに気がついた。善逸の無事を確信して、二人は顔を合わせる。
「次に行こう」
「おう!」
二人に怪我はない。複数の鬼がこの山にいるとなれば止まっている暇はない。即座に動き出すと、視線の先には、母蜘蛛との戦いを見守っていたらしき娘の蜘蛛鬼がいた。
「お父さん!」
「伊之助、上だ!」
「こいつは任せろ!先に行け!」
「ああ、頼む!」
娘の呼びかけに即座に反応した父蜘蛛を伊之助に任せて、炭治郎はさらに先へと駆ける。娘蜘蛛の逃げた先に辿り着くと、そこには。
「ねえ、何を見にきたの?見せ物じゃないんだけど」
「何をしてるんだ……?仲間じゃないのか……?」
娘蜘蛛は明らかに少年の鬼、累に恐怖していた。累がこの山の支配者であると、一目でわかるほどに。
そして、累の片目は髪の毛で隠れていた。炭治郎の思考に、講釈をしていたイナバの言葉が蘇る。
『十二鬼月は瞳に数字を持ちます。一つの指標となるでしょう』
「お前は、十二鬼月か?」
「……!そうだよ。そうだとしたらどうする?」
「お前の頸を斬る」
「威勢がいいなあ。やれるものなら……やってごらん。ああそれと、姉さん。邪魔だから殺されるのと、役に立つの、どっちがいい?」
「……役に、立つわ。父さんと一緒に、あいつを殺してくる……」
「禰豆子!」
炭治郎が背中の箱をやや乱暴に滑り落とす。箱の中からぬるりと、禰豆子が顔を覗かせた。視線は累に向けたまま、禰豆子に指示を出す。
「あの鬼を追ってくれ」
「む!」
「僕たち家族の邪魔をしないでよ。ああ、でも、鬼となっても絶えないその絆、とても欲しいな。君を殺して捕まえて、新しい僕の家族にしよう」
「そんなこと絶対にさせるか!それに、無理やり縛り付けることが本当の家族であってたまるか!禰豆子は渡さない!」
交渉にもならない、互いの主張の断絶。
一瞬の沈黙の後、即座に炭治郎は地面を蹴った。
「拾ノ型【生生流転】」
縦横無尽に張り巡らされた糸の隙間を縫うように、まさしく水のように動き、累へと接近する。糸を一本ずつ切り落としながら、舞型を思わせる形で。
この時、炭治郎の脳裏にはとある“型”が浮かんでいた。
『炭治郎、呼吸だ。息を整えて、ヒノカミ様になりきるんだ』
その記憶を思い出したのは、藤襲山での鍛錬の最終日だった。
月詠イナバの鍛錬は凄まじかった。まるで炭治郎の肉体の動きや血管の収縮全てが見えているかのように追い詰めてくる。それでいて最後の一線を越えるような無茶はさせず、引くべき場面でスッと引く。
そうして彼岸と此岸の間をほんの少しだけ覗き込むくらいに打ちのめされた時に、見えたのだ。
父の舞うヒノカミ神楽の姿。そしてその神楽に使われる呼吸が、全集中の呼吸と同一のものであること。
(まずは、近づく!)
生生流転は、繰り返すほどに斬撃が強くなっていく。累の張り巡らせた糸はその全てが断ち切られ、炭治郎の刀の射程範囲となった。
その瞬間、呼吸を切り替える。炭治郎は未だヒノカミ神楽の全てを体得しておらず、その切り替えには莫大な負担がかかるのは、藤襲山での鍛錬を終えた後でも変わらない。
ヒノカミ神楽の経験値が低すぎるのだ。
それでも、ここで仕留めきる。倒せなければ、累は禰豆子を追いかけるだろう。それだけはさせないと、炭治郎は刀を握る手に力を込めた。
「───!!!」
「ヒノカミ神楽【円舞】」
すぱん、と。累の頸が斬れた。
しかしその手応えに、炭治郎は己の失敗を悟る。
強ければ強いほど、頸は硬くなり、斬る手応えは大きくなり、技にかかる負担は大きくなる。しかし今の手ごたえは、十二鬼月にも劣る鬼を斬った時と遜色ない。
『よほど才能に恵まれていない限り、否、どれだけ才能があったとしても、経験の少なさは時に、致命的な隙を生みます』
(しまった───!)
ヒノカミ神楽の反動により身体が動かなくなる。ニタリ、と累の頭が笑った。身体は消えることはなく、空中を揺蕩う糸が炭治郎に狙いを定める。
「ああ、気づいた?でも残念、僕の勝ち」
だ、と言うよりも早く。
無数の斬撃が糸の全てを切り裂いた。
「よく頑張った、あとは任せろ」
増援として駆けつけた、冨岡義勇がそこにいた。
+++++
炭治郎が累と戦っている間、禰豆子はもう一人の少女の鬼を追っていた。鬼同士の追いかけっこは、イナバが見ていれば「これが本当の鬼ごっこか」などとくだらぬ感想を抱いただろう。
(このままじゃ追いつかれる……でもアレを殺したらまた累から叱責される……!なんなのよあの鬼、どうして人間の言うことを聞いてるの!?)
走りながらも思考は止めない。無意識のうちに、彼女は自分のテリトリーである山の西側へと来ていた。そこには人間を取り込んだ十を超える繭が幾つも並んでおり、死臭と不気味さを漂わせている。
禰豆子はそこで足を止めた。暗示によって、禰豆子は人を守ると意識に根付いている。しばし迷った末に、禰豆子は足を止めることを選んだ。
母の声が禰豆子に囁きかける。
手から血が流れ、真っ白な繭に真っ赤な血が流れ落ちた。ぐ、と手を握った。
爆血。
燃え盛る火により、繭が焼け落ちて中の人間が解放される。誰もが死に絶えていたが、それ以上の損壊はなんとか避けられた。
「むう……」
悲しそうに禰豆子が眉を寄せた。その隙に、娘蜘蛛は必死になって駆け抜ける。少しでも距離を取り、少しでも有利になる場所へと。
それが、とんだ間違いであるとも知らずに。
駆け抜けた先には、女がいた。
顔の上半分を覆う白い仮面を身につけているため視線に宿る感情はまるで読み取れない。黒い羽織の背中にはススキと月、白兎。
不気味さと胡散臭さを持ち合わせたその女は、鬼に狙いを定めると、刀に手をかけた。
「邪魔よ、血鬼」
「壱ノ型【闇月・宵の宮】」
並の鬼では捉えることすら許されぬ抜刀速度による、単純明快な居合斬り。
それによって、呆気なく、鬼の命は幕を閉じた。
Q.今の炭治郎たちの強さってどれくらい?
A.柱昇格前の煉獄杏寿郎や不死川実弥くらい。下弦の鬼とは戦えるがまだまだ対鬼の戦闘経験が浅く、詰めが甘い。ここの経験は実際に戦わないと積めないので、どうしてもイナバの稽古だと限界がある