もちもちむねむね再訪記   作:ひろせとら

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もちもちむねむね再訪記(2/2)

ビール選挙

 

 ユイ先生のチケット紛失事件は旅が始まる前に起きたエポックメイキングな出来事であったが、さらにその前、この旅の準備段階から愉快なひと悶着があったことは、次の舞台に進むにあたって言及しておかなければならないだろう。

 

 用宗にあるWCBのタップルームは上階に宿泊施設がある珍しい造りで、各部屋には専用のタップ、つまりいつでも好きなタイミングで生ビールを飲むことができる施設が備え付けられている。泊りがけであれば寝ても覚めてもビール漬けになることのできる天国だ。宿泊中飲み放題パックという命を削りかねないプランさえある。

 

 実際、前回のはるか先生は皆が目覚める前から朝ビールと洒落込んでいた。観音さんが自他ともに認める大酒豪であることに疑念の余地はないが、はるか先生も超長時間の飲酒をこなすことが多々あり、底の知れないところがある。

 

 ユイ先生は飲み始めると途端にイケ女ではなくなるけれど、そこからのしぶとさは流石のもの。さらに雨露しずくさんは彼女らを凌駕するそうで、それを聞いた時にわたしは、少なくとも彼女たちと酒量で張り合うことは絶対にしてはならないと震えたものだ。

 

 話を戻すと、このタップルームはビアギークにとっての桃源郷であるものの、元が洋食店だったこともあり大人数で泊まるには適していない。そこで今回はタップルームから樽を借りて、近場の宿で一晩中WCBのビールを楽しもうという算段となった。18人の大人数のため、20ℓから30ℓほど、2種類の樽を選ぶ必要がある。

 

 たかがビールとはいえ、一晩同じものを飲み続けるのであれば、その味わい、アルコール度数、食事とのペアリング可否といった、換言すれば好みの問題が大きく関わってくる。窓口になってくれたマドカさんからは事前に5種類の選択肢があると告げられた。

 

 WCBは毎週新作ビールをリリースする都合上、新製品の情報は直前まで伏せる傾向があり、始めはビールのスタイルとアルコール度数しか聞き取ることができなかった。にも関わらず5種類中4種を当てたユイ先生が若干気味悪かったのは別の話。いつものことかもしれない。

 

 ともかく、実際の味がわからない状況からビールを選ばなければならないという問題が浮上した。そこでマドカさんは持ち前のエンタメ性を発揮して各人が与えられた3票を好きに投票するという方式を採用した。1種類に3票投じても、3種類に1票ずつ投じてもよい形だ。

 

 ユイ先生が偉大な確信をもって強く推薦したヘイジーIPAは、ビアギークたちの中でも特に注目されるアルケミストという名称のついた銘柄の最新作であり、観音さん好みのスタイルということもあって当選は確実視された。焦点は残りの1種をどうするか。

 

 残された4種はIPA系統が3つで、唯一苦くないものはストロベリーを使ったサワーが1つだけ。

 

 スタイルが公開された時点では孤独な甘いもの好きだったわたしは、「慶子さんと広瀬ちゃんしか飲まない」「食事に合わない」「ビールを選べビールを」と散々にいじめられて不貞腐れていたし、この選挙が秘密投票にならないと直感したので、当選させたいからではなく反抗の意思表示として、サワーに手持ちの3票を全て投票した。

 

 微塵も期待していなかったけれど、しばらくすると出口調査の結果が次々に伝えられ、雲行きが怪しくなり始める。ビールが得意ではない人、ビールの種類に頓着しない人が予想以上に多かったのだ。

 

 唯一の変わり種であるといった面白要素や、自分はどうせ飲まないからといった野次馬的精神が絡まり、結果としてサワーが当選してしまう。メッセンジャー上でのやり取りであったものの、観音さんが明らかに不承不承といった様子であったことは書くまでもないことだ。

 

 わたし自身もまさかの結果にたじろいだが、「君が全責任を取りなさい、アルケミストの方はユイ先生ね」という流れになると頭を抱えずにはいられなかった。なぜ?わからなくもないけれど、なぜそうなる?

 

 二つか三つあるはずの、選挙の基本原則はどこにいったのだろうか。聞いたところで「ここにないなら、ないですね」としか返されないだろうから黙するほかない。所詮わたしは観音さんたちの前では無力だと我が運命を受け入れた。

 

 いい加減な投票がいかに重篤な結果をもたらすのか、そして秘密投票がいかに権利の保障にとって重要であるのか、身と肝臓に沁みて理解したのだった。

 

―――

 

もてなしの秘訣、もてなされる秘訣

 

 ひと悶着あって選ばれたビールたちの樽をタップルームから回収し、わたしたちはすぐ近くの宿に移動した。

 

 用宗港の周辺は地元の不動産会社を中心に、WCBも含めた地元の各店舗が連携して再興を進めている。その甲斐もあって静岡からのアクセスもよいこの地域はかつての人気ぶりを取り戻しつつあるそうだ。実際、天気さえよければ朝から用宗は人で溢れている。

 

 今回泊まるのも再興の一環として古民家を改装した一棟貸しの宿。外観は漆喰の壁に屋根瓦と趣がある日本家屋だが、中は近代化されており広々として居心地がよい。

 

 土間があった部分などの元の構造が維持されているからか、各部屋の入口などに段差がやけに多いこと以外に文句のつけようもない。

 

 中でも一番ダイニングが広く、開放的なキッチンとベランダにグリルがある建物が宴会場に選ばれた。全員が集まっても余りある広さだった。

 

 雨脚は弱まったものの、天気は崩れたままで他にできることもない。何より、ビールの樽が待っている。各自は荷物を降ろすと、示し合わせなくてもすぐに宴会場まで集まった。先ほどまで飲んでいたものだから、カンパイも流れるように済まされる。

 

 会場は自然と、調理に勤しむグループと歓談するグループに分かれた。

 

 マドカさんをはじめとしたお姉さま方が手際よく料理を仕上げてゆくのをビール片手に眺める。左団扇のようでいて、アルコールでぼんやりしながらもわたしの内心には焦りがあった。ゲストである先生たちはともかくとして、本来はわたしも率先して動くべきなのは明らかだ。しかし、これがなかなかむつかしい。

 

 キッチンとグリルはどちらも、その場に立つ人にとっては戦場だ。それも、見かけ以上に。素人が無理に加わろうとすればかえって仕事を増やしかねない。いや、可能性の問題ではなく、わたしが邪魔になるのは確実だった。

 

 敢えて取り繕う必要もないだろう、わたしは料理ができません。わたしの手にかかると、いかに優れた食材を用いたとしても「食べることのできるもの」、程度にしかならない。つまり、オシャカにしてしまう。

 

 それでいて、この焦りと申し訳なさを彼女たちに直接伝えるわけにもいかなかった。みんな気持ちのいい性格だ、「大丈夫、気にしないで!」と明るく返してくれるに決まっている。そう決まっているとわかったうえで、申し訳ないと口にするのは偽善めいていて、どうにも憚られるのだった。

 

 結局キッチンやグリルの周りをうろうろ歩き回り、話しかけようとしてやめるのを何回か繰り返すと、何か価値のあることを為そうとする公共心を諦めたわたしは元いた場所に戻った。

 

「なにしに行ってたの?」

 聞かなくてもわかっているにやけ顔の観音さん。彼女は頻繁に「なにしに来たの?」と口にする。これは待ち合わせに遅れてきた人へのお決まりの挨拶なのだが、いつもなにもできていないわたしはこれを言われるのが何よりも辛かった。今もそうだ。何もできなかったのだから。

 

「いや、あの。すごいですね、皆さん得意技があって。役に立てそうもなくて、手ぶらで帰ってきちゃいました」

 とっさにうまい言い訳が思い浮かぶはずもなく。罪悪感のあったわたしは必要以上に正直に答えてしまった。

 

 マドカさんたちには言えなかったけれど、先生たちにであれば思いの丈を吐露しても許されるだろう。あるいは、わたしの意を汲んで何かの機会にマドカさんたちに口添えしてくれるかもしれないという打算があったことは否定できない。

 

 いずれにせよ、わたしがナイーブであるのはいつものことだから適当に聞き流されるはずだった。が、意外にもはるか先生の関心を買ったようだ。

 

「いいんだよ広瀬ちゃん。こういう時はね、どっしりと腰を下ろしてね、さあ食わせてくれ!飲ませてくれ!と待ち構えるべきだよ」

 

 はるか先生はほろ酔いで、とても気分のよさそうな笑顔を浮かべている。彼女は日頃からとても世話好きな性格だけど、こうなると姉御肌というか、甘え甲斐があるのだ。

 

「そうそう。ま、気持ちはわからなくもないけどね」

 観音さんも首肯する。

 

「それは、お二人のおっしゃる通りなんでしょうけども。特にマドカさんは幹事で全体を取り纏めて今日はバスの運転までされてて、それなのにビールも飲むのをそこそこにキッチンにまで立ってもらうのは、なんだか申し訳なくって」

 

「それでも、私はいいんだよと言わなくちゃいけないかな。広瀬ちゃんが敢えて手伝おうとしない判断は正しかった。でもそれは彼女たちを邪魔してはいけないからじゃない。ほら、もっとよく見てみて」

 

 はるか先生に促されて、もう一度キッチンを見やる。マドカさんたちは真剣な面持ちで料理に向き合っているけれど、とても楽しそうで、充実しているようだった。そうか、そうなんだ。

 

「ね、楽しそうでしょう。料理が趣味の人たちはね、普段はなかなかできない大人数に腕を振るう機会を虎視眈々と狙っているものなんだよ。だから彼女たちは今、この場をとても楽しんでいるはず。そして、皆にも楽しんでもらいたいと思っている」

 

「そんなところに、申し訳なさそうに横に立たれて、手伝うなんて言われたらどう思うかな?」

 観音さんはいじわるだ。

 

「とてもがっかり、しますよね。おもてなしする側にとっては、いつだって相手が楽しんでくれているのかが一番大事で、そのために苦労を重ねているのですから。遠慮なんて、して欲しいわけがない」

 

 わたしも、多少はおもてなしを企画したこともある。そんな時、気掛かりなのは皆が本当に楽しんでくれているのか、それだけだった。

 

「その通り!つまり、もてなす側に苦労はあるが、もてなされる側にも然るべき礼儀が必要ということさ。その意味においては、この場で欲望に身を任せて、出される料理を貪欲に喰らうのも悪いことじゃない。むしろ推奨されるべきなんだ」

 

「もしそれでも、どうしても心配なら別の機会をじっくり待ってみればいいんじゃないかな。今ではなくて、次の時のためにね。本当にお礼がしたいと思うのであれば、きっと喜んでもらえる何かが思いつくはずだよ」

 

「幸い、もう僕たちは赤の他人じゃないんだ。機会なんていくらでもあるさ」

 

 この会話以降は、わたしも遠慮しなかった。どんどん出てくる料理が魅力的で、もとより遠慮なんてできなかったかもしれないけれど。

 

 今回の旅行について抱いていた気の後れ、わたしなんかが参加してもよかったのだろうか。それについての答えも得られたような気がした。先生たちはわかっていて、わたしを諭したのかもしれない。

 

―――

 

僕はやらないからね

 

 宿に備え付けの機材には全て触ってみたくなるのが人の性というもの。それがブランコやハンモックなら尚更だ。

 

 宴会場に指定された、広々としたダイニングの一角には白いハンモックが天井の梁から吊り下がっていた。アルコールが適度に回り、酔いを感じると横になる誘惑は抗いがたいものになる。そこにきてこのハンモックはうってつけだ。

 

 料理やお酒が一回りしたあたりで、皆が好き放題に動き始めると、はるか先生がハンモックにごろんと入り込んだ。

 

 そして、観音さんがこの絶好の遊び道具を見逃すはずがない。素早く近付くと、はるか先生を布にくるんで右に左に、大きく揺さぶり始めた。

 

「ちょっと!?観音さん!」

 はるか先生の焦りを無視して、観音さんはどうどうとあやすようにハンモックを揺らす。

 

 観音さんのアイコンタクトを受けた気がして、わたしもすかさず手伝いに入った。そう、はるか先生は観音さんだけで揺らすには、ほんの少しだけボリューミーなので。

「広瀬ちゃんもやめて!」

 

 ただあやすだけなんて、わたしたちらしくない。はるか先生を乗せたハンモックは瞬く間にはしゃいで遊ぶ角度から、少年がジャンプするくらい、90度くらいまでに揺さぶられる。

 

「ちょっと、そろそろ危ないって。あの!二人とも聞いてる?さっきからおしりが床にあたって痛いんだけど!おしりが、腰が!」

 

 悲鳴を上げ始めてようやく解放されたはるか先生は布から転がり落ちると、床に突っ伏して悶絶する。

 

「ほら、次はユイ先生」

「え、私ですか?」

 タップルームにいた時とは打って変わって、こっくりこっくりと静かになり始めていたユイ先生が驚いた声をあげる。

 

「ほら、ほら」

 観音さんは口答えを許さない威圧感を出して、ユイ先生に乗り込むように促した。こうなった観音さんは手が付けられない。普段の強引さがアルコールのせいでタチの悪い強引さに変わるのだ。いや、あまり変わらないのかも?

 

 しぶしぶハンモックにくるまれたユイ先生を、なんとか立ち上がったはるか先生と観音さんが揺さぶり始めた。心なしか、先ほどよりも力が強く感じる。きっと気のせいだ。

 

「うっ。うぅ。回る、回る」

 

 はるか先生と同じように飛び出すくらいの角度まで揺らされたユイ先生はグロッキーな様子で近くのソファに倒れ込んだ。ユイ先生は周りの評価以上に酔ってからの自分を信用していないので、その立ち居振る舞いには普段から気を付けているようだけれど、こんな目に遭うとは予想していなかったに違いない。目に見えてしんどそうだ。

 

「じゃあ次は君だね」

 

 他人を心配する気持ちになるより先に、順番が回ってきてしまった。アトラクション施設の係員くらいの気軽さで、観音さんはわたしに顎でハンモックを指し示す。

 

 加害側に回った時点で、こうなる気はしていた。一種のお約束のようなものだ。はるか先生とユイ先生で遊んだのだ。わたしが断るわけにもいかない。運命を拒まず、わたしも布にくるまれた。

 

「お、おお!揺れる、回る!」

 予想していたよりも恐怖感はなかったけれど、確かに揺れる。布で狭められた視界が短い間に大きく飛び回るので変化するので、思った以上に脳が揺さぶられるようだった。

 

「って長い!わたしだけ長くないですか?」

 

 ハンモックごと近くの壁に何度もぶつかってから、ようやくわたしも解放された。床に転がって息を整える。酩酊感よりも危険な感じ。ひどく飲んだ後に横になった時の世界が回転する感覚に似ていた。

 

 それより気になったのは、床におしりがぶつかったりはしなかったことだ。はるか先生だけ、なぜだろう。

 

 わたしの視界が安定してよろよろと立ち上がる前に、観音さんはそそくさと元の椅子まで戻ってしまっていた。

 

「観音さんの番じゃないんですか?」

「僕はやらないからね。僕はあやす側の人間だから」

 

 観音さんは背を向けたままで、取り付く島もない。

 

「え?自分だけ逃げるなんて」

「逃げるだなんて、とんでもない。失礼だな君は。考えてみたまえ、僕があやされる側になったって面白くもないだろう?」

 

 面白くないわけでもないと思うのですが。

 

「だから敢えてやらないだけの話なのさ。これも一種のショーマンシップというやつだよ」

「うん?うーん?そうなのかな、そうかも。いや、確かにここで観音さんだけが乗らないのはそれはそれで面白くて否定はできないですけど」

「そうそう」

「でも観音さん、そうやって誘導してるんじゃないですか?」

「違うね」

 

 腑に落ちなくて食い下がろうとしたものの、観音さんは梃子でも動かせそうになく、結局最後までハンモックに乗せられる隙を見せることはなかった。

 

―――

 

酸いも甘いも苦いも

 

 泊りがけの飲み会は文字通り、なんでもアリであるのが何よりも楽しい。情け無用のハンモック飲酒運転など、飲食店では到底許されない大騒ぎもこの無法地帯では看過される。

 

 そして、こと飲食店では挑戦できない行為といえば、食べ物/飲み物を使った遊びだ。ビアカクテルは一般の飲食店では珍しくもないが、クラフトビール専門店ではご法度なきらいがある。醸造家の思いやインポーターの苦労を考えると、忌避されて当然だろう。

 

 しかし、それはそれとして、何かを混ぜたらより美味しくなるのではないかという誘惑は、特にわたしのような苦いものがきらいな人間にとっては抗いがたいものがある、はずだ。

 

 はるか先生たちは先日、半田銀山にある醸造所を訪ねて桃を使ったビールを味わったそうで、その味を忘れられないメンバーのために観音さんは特別なお酒を持ち込んだ。

 

 桜の餡を使った、たいやきリキュールというやや倒錯したケッタイな代物であるが、これを一般的なラガービールで割ると、桃ビールの味になるらしい。

 

 何を言っているのかわからないし、桃の要素がどこから生えてくるのか見当がつかないが、人間の味覚は案外適当なので、みかんに醤油でいくら味のような、そういった類のものなのだろう。

 

 しばらく放置されていたリキュールだったが、酔っぱらった怖いもの知らずが一番槍をあげようとしたのか、観音さんが誰かに無理矢理飲ませようとしたのか、よく覚えていないけれど、いざ開栓されると瓶はみるみるうちに減っていった。

 

 皆口々に、たしかに桃の味がするという。そして桃といえば、ユイ先生だ。

 

 ハンモックの一件以降、うなだれて沈黙したユイ先生は桃とビールという好物のキーワードに反応したのか、急にグラスを手に取るとリキュールを半分、ビールを半分という冒険的な割合で混ぜ合わせ、周囲の制止も気にせずにぐいと一息で飲んでしまった。

 

「うん、おいしい。桃だ」

 

 完全に目が据わってしまっている。もはやビアギークらしい解説は期待できそうもなく、「桃だ桃だ」とブツブツ呟いたあとに、こと切れた。その後、彼女の姿はソファの裏や玄関などの興味深い場所で発見されたという。この場で最もビールに詳しい人にしては早過ぎる最期であった。

 

 半ば強制的に押し付けられた酸っぱいストロベリーの樽を開けることに専念していたわたしも、もっと甘いものが欲しいという誘惑に負けて、たいやきとビールの混合物を試してみることにした。

 

 ちょうどここに、一杯くらいは飲もうと思って確保していたアルケミストの入ったグラスがある。思ったよりも苦くて放置していたものだ。

 

「わたしはこれに入れちゃおう」

「待った、それはもったいない!ああ、あーあ」

 

 観音さんの悲鳴を無視してWCBのビールにリキュールを注ぐ。ユイ先生やヨーコさんたちがいたら、白い目で見られていただろうし躊躇しただろうけれど、今は構わないだろう。白状すれば、ビアギークの注目するヘイジーIPAを冒涜する快感が、なかったとも言えない。

 

「うん、甘くなった!これなら美味しく飲めます」

 確かに奇妙でも、桃と言われれば桃の味がするかもしれない。香りは死んでしまったけれど、ホップの苦みがかなり中和されて、ちょうどいい塩梅だ。

 

 が、ご満悦なわたしに観音さんは不服だったようで

「これが苦いだって?全然苦い方じゃない」

 そこに直れといわんばかりの剣幕だった。

 

「いやいや、苦かったですよ!ちょっと飲むのに苦労していたので助かりました」

 実際、このアルケミストは濁りがまろやかさを生むヘイジーIPAというジャンルの中でも濁りが少ない方で、口に含んだ瞬間に香りと苦味が前面にアタックするような味わいだった。

 

「いつもタップルームに限らず、いつも言っているけれど。僕にとってのビールはね、ホップが生きていて、苦ければ苦いほどいいんだ」

「そうなんですか?ホップがお好きなのは何度も伺っていましたが、観音さんも苦いのが好きな民だったんですね」

 観音さんは目を覆って大きなため息をついた。

 

「君は本っ当に僕の話を聞いていないんだね」

「いやいや、初耳ですよ!観音さんのお言葉は全部、多分、いや9割以上は覚えているはずです!わたしは甘ければ甘い方がいい民なので、観音さんが逆なら覚えてるはずです」

 

「この!……はあ。これが若さか」

「ええ、実際に若いので」「あん?」

 

 この時、大概に酔っぱらっていたわたしは、観音さんの眼光が鋭さを増したことに気が付かなかった。

 

「ほら、よく言うじゃないですか。年を取ると舌の上にある感覚器官の味蕾が衰えて、苦味を感じにくくなるって」

「は?」

「だから大人になるとビールやら山菜やら魚のワタやらの、子どもは手を付けない食べ物から苦味より旨味を感じることができるようになるとか」

 

 珍しく観音さんが口を挟まないものだから、わたしは気分よくぺらぺらと続ける。

 続けてしまった。

 

「ですから苦いのが好きっていうのは本当に好きというのもあるのかもしれないですけれど、大抵は年のせいであって。ああ、年って取りたくないですよねえ。……あ。」

 

 いけない。失敗した。

 

 いつの間にか観音さんは菩薩のように清らかな笑みを浮かべていた、こめかみに青筋を立てながら。これが示すのは注意報ではなく避難警報だ。危。死。

 

「ええっと、今わたしが言ったこと、なかったことにはならないですか…ね…?」

「ならないね」

 

 菩薩と閻魔が裏表の関係にあると、なぜこんなところで思い知らされるのだろうか。

 

 いつも仲裁してくれるユイ先生は、ダメだ死んでる。

 

「はるか先生、たすけ…」

 

 観音さん対抗の頼みの綱であるはるか先生も、あられもない格好で床に大の字になって転がっていた。あに図らんや、ハンモックのせいでここにきて足をすくわれるなんて。

 

 周囲を探る。冷ややかな視線。

 ああ、なんてこと。わたしが一番の若輩者であることをすっかり忘れていた。

 

 四面楚歌、孤軍奮闘、是非もなし。

 

 観音さんの腕がぐっと伸びてわたしの肩を万力のような力で掴んだ。

「まあ、今夜もまだ長い。じっくりと話し合おうじゃないか」

「いいえ、遠慮させて頂きたく、いや、お助け!ぐわあああああ」

 

 泊りがけということは逃げ場がないということだと、わたしは思い知った。

 

―――

 

ユイ・アラーム・モード

 

 大宴会がセットになった旅行は、翌朝がとてもこわい。寝坊、寝過ごし、朝食を逃し、集合時間に遅れてヒンシュクを買う。わたしも学生の頃は随分やらかしたものだ。翌午前に倒れ伏したままだったことも一度や二度でない。

 

 幸い今回は、騒ぎに騒いだわりには日付が変わった頃に寝床に潜り込むことができたので、ともすれば普段よりも健康的な就寝を迎えることができた。ベッドが3台ある洋室に観音さん、ユイ先生とご一緒する。

 

 ユイ先生があの状態阿からどうやって戻ってきたのか不思議だったが、それはともかく。寝転がってさえしまえば、ビールを飲まされたり折檻されたりといったことは起きようもないはず。小さな安堵を噛み締めて目覚まし時計をセットすると、間もなくわたしの意識は夢に飲まれていった。

 

 しかし、甘い眠りは想像を超えた形で、手ひどい妨害に遭うことになる。

 

 

 ずっ、どん!

 

 

 鈍い音に続いて、屋内で銃をぶっ放したような、すぐ近くに雷が落ちたような、衝撃。

 

 およそ日曜日の朝に似つかわしくない、とんでもない破裂音が寝室に響き渡り、わたしの意識は無理やりに覚醒させられた。音はわたしの足元、ベッドのすぐ近くから発せられたようだ。

 

 いかに寝起きが弱くとも無視できるはずがない。反射的に飛び起きる。観音さんも同じだったようで、眼をこすりながら、やはり怪訝そうにわたしの足元、寝室の入り口を見つめていた。

 

 彼女の視線を辿ると、うん。すぐに音の正体がわかった。

 

 ユイ先生がタワー型の巨大な空気清浄機と一緒に床に転がっている。寝室は廊下から一段下がる構造になっているため、どうやら足を踏み外した勢いで空気清浄機に衝突、転倒したらしい。

 

 10㎏はありそうな機械と成人女性が床に叩きつけられたのだから、爆発のような音がしたのも頷ける。惜しむらくは、倒れ込む瞬間を見届けることができなかったことだ。一年間はそれを思い出すだけで笑顔になれたに違いないから。

 

 床に突っ伏したまましばらく唸っていたユイ先生はのそのそと起き上がると

 

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 

 何が大丈夫なのだろうか。少なくともわたしたちは叩き起こされたのですけれど。

 

 ぼそぼそと呟きながらタワーを立てなおし、外れてしまったフィルターのカバーを荒々しく取り付けると、見つめるわたしたちに気付かぬまま自分のベッドに頭から突っ込んだ。怪我でもしてないのかという心配は、平和そうな寝息がすぐに聞こえてきたことで描き消えた。

 

 一部始終を黙って見守っていた観音さんと目が合う。互いに眼鏡をかけていないので表情の仔細はわからなかったけれども、肩をすくめて、通じ合った気がした。時計を見ると、まだ6時を過ぎたあたり。さすがに早すぎる。もう少し寝ていたかった。

 

 ユイ先生の仕業とはいえ、これも事故のようなものだと諦めて布団を被る。ようやく意識を手放せたかと思ったその瞬間

 

 

 ずっ、どん!

 

 

 一時間も経たないうちに、先ほどと全く同じ音によって再び叩き起こされた。

 

 今度は迷わず入口を見ると、わたしが起きるのが遅かったのだろう、既に立ち上がっていたユイ先生がまた外れたフィルターを取り付けようとしていた。

 

 あれだけの音がしたのにフィルターが外れただけなのはどうにもおかしかった。空気清浄機は半壊し、ユイ先生も血まみれになっていても不思議ではない音量だったのに。

 

 何も言うまい。一度ならず二度とは。観音さんを見やる。今度は首だけを枕からあげて、露骨に不服そうな雰囲気を放っていた。見えないけれど、昨夜と同様、うっすら青筋が立っているに違いない。

 

 ユイ先生は相変わらず無言のまま、またベッドに突っ込んだ。ただ転んだだけといえばそうなのだけど、穏やかではないモーニングコールをわたしたちに喰らわせておいて終始無言であるのは、不満や呆れを通り越して不気味な、底の知れないところがあった。

 

 ユイ・アラモード。ビアギークな作家だけにあらず、時代の傑物か問題児に違いない。

 

 おかげでアラームは不要だった。もう眠れる気がしなかったから。

 

―――

 

もちむねこぼれ話

 

 この散文を残すにあたって最もわたしの頭を悩ませたのは二日目の扱いだった。これをどう扱うか苦慮して、いたずらに時間が過ぎていった。

 

 二日目は前日の荒天が嘘だったかのように天候に恵まれて、前回の訪問で辿り着けなかった日本平の絶景や徳川家康ゆかりの地である久能山東照宮への訪問、最後の打ち上げで楽しんだWCBと餃子のペアリング等々、盛りだくさんの内容だった。それらをつらつらと連ねれば、書くことには困らないはずであるのに。

 

 しかしどうにも、早朝のあの突飛な一件の後にこれらのエピソードを置いてしまっては、わたしの現在の描写スキルでは印象が薄くなってしまう。加えて、他ならぬわたし自身でさえ、自分を騙せそうにないと感じているのだから厄介極まりない。

 

 ユイ先生が倒れた衝撃でブラックホールが生まれ、あの後のすべての出来事も、筆を持つ今のわたしも、全てがスパゲッティ状に光速に引き延ばされた走馬灯の一部なのではないかとさえ思えている。それくらい酷い爆音だったのだ。当の本人は渦の中心、事象の地平面でもちもちむねむねダンスを踊っているに違いない。悪夢、まったくもって悪夢なのである。

 

 この熱病に侵された悪夢からいつか目覚めることを期待しつつ、今回は筆を置くことにしたい。

 

 

(もちもちむねむね再訪記 終わり)

 

 

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