アルペジオ:ロスト・アンカー 霧の艦は未知の海を征く   作:おかーちゃんサーナイト

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大淀、一世一代の大勝負

 

「──というわけで、タカオにも、しばらくは建造作業に専念してもらうことになった。よろしく頼む」

 

「了解しました。彼女の分の補給計画も、再計算しておきます」

 

 横須賀鎮守府の長い廊下を厚士は、大淀と共に会議室へと向かって歩いていた。

 

 その道すがら、厚士の脳裏には先ほどのタカオの姿が浮かんでいた。

 

(……それにしてもタカオの奴、あまりにもチョロすぎやしないか……?)

 

 彼女が、原作でもアニメでも、『ツンデレ』で『従順』で、好意を持った相手には滅法弱い、いわゆる『チョロイン』であることは知識として知っていた。

 

 だが、実際に目の当たりにすると、そのチョロさは予想を遥かに上回っていた。

 

 『君にしか頼れない』。

 

 たったその一言で、あれほど不満を露わにしていた彼女が顔を真っ赤にしながらも、素直に従ってしまうとは。

 

(まあ、あれはあれで、自分が本当に認めた相手にしか、心を開かないってことなんだろうな。その点では、彼女に『艦長』として、一応は認められたってことか……)

 

 そう思うと少しだけくすぐったいような、そして、彼女の純粋さに対する一種の責任感のようなものが、厚士の胸に芽生えていた。

 

 そんなことを考えているうちに、二人は目的の会議室の前に到着した。

 

 今日の議題は、霧のイージス艦「こんごう」の目覚ましい運用成功から派生した、新たな提案に対する厚士からの公式な返答のためだった。

 

 会議室に入ると、そこには瑞丸中将や長門だけでなく、鎮守府の経理や会計部署の責任者たちが厳しい表情で待ち構えていた。

 

「新井木一佐、待っていたぞ」

 

 議題は、単刀直入だった。

 

 「こんごう」の性能は素晴らしい。だが、その改修や運用コストはやはり安くはない。そこで、もう少し安価に、数を揃えられる廉価版の霧の艦は作れないか、という、いかにも経理部らしい提案だった。

 

 彼らが例として挙げたのは海上自衛隊が運用するイージス艦以外の艦艇。例えば巡視船や警備艇といった、より小型で建造コストの安い船だった。

 

 その提案に対し、厚士は彼らの意図を完全に理解した上で、しかし、きっぱりと『NO』を提示した。

 

「皆様のお考えはよく理解できます。コストを抑え、数を揃えたいという発想は軍事組織として当然のものです。しかし、そのご提案だけはお受けできません」

 

 会議室に緊張が走る。

 

「理由は二つあります」

 

 厚士は冷静に、そして断固として、その理由を説明し始めた。

 

「第一に、クラインフィールドの強度問題です。皆様は霧の艦の強さの根幹がその攻撃力にあるとお考えかもしれませんが、違います。その本質は、クラインフィールドという絶対的な防御力にあります。そして、あのイージス艦クラスの船体サイズこそが、深海棲艦の戦艦級が放つ主砲撃に耐えうる、最低限のフィールド強度を保証できる、ギリギリのラインなのです。これ以下のサイズの船体では戦艦クラスの敵と遭遇した場合、フィールドを貫かれ、轟沈する危険性が極めて高くなります」

 

 その言葉は実際の戦闘データに基づいた、重い事実だった。

 

「そして、第二の理由。それは、改修のコストパフォーマンスの問題です。我々が『こんごう』を改修したのは、彼女が元々、対空、対潜、対水上、あらゆる戦闘に対応可能な極めて優秀なプラットフォームだったからです。その完成された船体をベースにするからこそ、最小限の改修で、最大の戦闘能力を引き出すことができました。しかし、元々戦闘を主目的としていない巡視船や警備艇を戦闘艦にまで改修するとなれば、話は別です。内部の構造をほぼ全て作り替えるに等しい、大規模な工事が必要となるでしょう。そうなれば、結果的に一から霧のイージス艦を建造するよりも、高くつくことになります」

 

 厚士のいかなる反論も許さない完璧な論理。

 

 それは彼がただの戦闘狂ではなく、兵器開発のコストとその運用思想までを完全に理解していることを、改めて鎮守府の面々に知らしめた。

 

「安物買いの銭失いという言葉があります。中途半端な戦力を数だけ揃えても、それは海の藻屑を増やすだけに終わります。我々が目指すべきは、多少コストが掛かろうとも、確実に勝利をもたらし、そして乗員の命を護り抜くことができる、最高の『盾』を揃えることではないでしょうか?」

 

 その言葉に、もはや経理部の面々もぐうの音も出なかった。

 

 厚士は譲るべき点では最大限譲歩するが、兵器の性能と、兵士の命に関わる、その一点においては決して、妥協をしない男なのだった。

 

 重い議題の会議が終わり、厚士と大淀は再び鎮守府の廊下を歩いていた。

 

 先ほどの会議での厚士のいかなる反論も許さない完璧な論理と、兵器運用に対する深い洞察力。

 

 その姿は、大淀の目に改めて、彼の異質さを焼き付けていた。

 

「……新井木一佐」

 

 隣を歩く大淀が、意を決したように口を開いた。

 

「先ほどの会議、お見事でした。ですが一つ、よろしいでしょうか」

 

「なんだ?」

 

「一佐は、一艦長としては驚くほどに、兵站や兵器開発の分野にお明るい。まるで専門の技術士官のようです。失礼ながら、未来の艦長というのは、そこまで幅広い知識が要求されるものなのでしょうか?」

 

 それは彼女がずっと抱いていた、純粋な疑問だった。

 

 その問いに、厚士はふっと、人の良い笑みを浮かべた。

 

「ははは。こう見えて、俺は『主夫』なんでね。家計を預かる身として、少しでも安く、それでいて、より美味しくて栄養のある物を作るのは、得意分野なんだよ」

 

「しゅ、主夫……でありますか?」

 

 真面目な顔で冗談を言う厚士に、大淀はどう反応していいか分からず戸惑ってしまう。

 

 そんな彼女の様子を見て、厚士はからかうのをやめると、少しだけ真面目な顔つきになった。

 

「……まあ、半分は本当だけどな。実を言うと、キリシマの艦長をする前の本職は、後方の技術士官だったんだ。だから前線でドンパチやるより、兵站を考えたり、兵器開発のアレコレを考えたりする方が、本当は自分向きの職場なんだよ」

 

 それはもちろん、この世界の大淀に、自分の本当の経歴を語るわけにはいかない虚偽のプロフィールだった。

 

 だが、その言葉は不思議と、厚士自身の本質を的確に言い表していた。

 

(……まあ、全部嘘ってわけじゃないからなぁ)

 

 厚士は、内心で独りごちる。

 

 彼が熱中してきた、チーム対戦型のオンラインゲーム。

 

 そこでの彼のプレイスタイルは、常に最前線で敵と撃ち合うアタッカーではなかった。

 

 敵の側面を突く遊撃手(フランカー)や、味方を支援し、戦況全体をコントロールする、後方支援(サポート)役。

 

 それが、彼の本領だった。

 

 大局的な部隊指揮や資源管理といった役割が前線で戦うよりも面白く、戦術や戦略がハマった時ほどのカタルシスは何物にも代え難い。

 

 そのプレイスタイルは、彼が愛した数々のゲームや物語から学んだ、揺るぎない哲学に裏打ちされていた。

 

(『艦これ』も、結局は、資源管理兵站ゲームだし)

 

 そして、彼が読み漁った史実の戦史。

 

 特に、第二次世界大戦における日本の敗因。それは、精神論を優先し、兵站を軽視した結果、補給線が伸びきって自滅したことにあると彼は結論付けていた。

 

 戦争アニメでも、現実の戦争でも、答えは同じだ。

 

 兵站を疎かにした軍隊は、必ず負ける。

 

 兵器も、兵士も、燃料、弾薬、食料がなければただの鉄の塊と腹を空かせた人間の集まりでしかない。

 

 そして、それを維持するための後方の備蓄と生産力がなければ、軍隊はそもそも動くことすらできはしない。

 

 その当たり前で、しかし、最も重要な真理を、彼は数々のシミュレーションゲームで嫌というほど骨身に染みて学んでいた。

 

 リソースを確保し、軍備を整え、敵に対して最小限のコストで威力偵察を仕掛ける。

 

 そして、ここぞという勝負を決めるべき瞬間に、備蓄してきた全ての資源を惜しまず全力で叩き込み、敵を完全に粉砕する。

 

 それをやらなければ勝てる戦いも勝てずに、ズルズルと消耗戦になり、やがては負ける。

 

 ケチなのを悪とは言わない。

 

 だが、使うべき時に使うべき量を使う決断ができない指揮官は、兵士を、国を、必ず滅ぼす。

 

「……俺は、ただ、それを知っているだけだよ」

 

 厚士の、静かな呟き。

 

 それは、隣を歩く大淀には聞こえなかった。

 

 だが、その横顔に浮かぶ揺るぎない自信と、どこか遠くを見据えるような眼差しは、彼女の心に、この男の底知れない器量を改めて、深く刻み付けるのだった。

 

 そんな厚士の意外な「本職」の告白。

 

 その言葉に、大淀はしばしの間考えを巡らせていた。

 

 彼の、兵站や兵器開発に対する異常なまでの深い知見。その理由が、ようやく腑に落ちた。

 

 だが同時に、新たな、そして、より根源的な疑問が彼女の中に生まれていた。

 

「……後方技官が、ご本職なのでしたら」

 

 大淀は立ち止まると、厚士の横顔に真剣な眼差しを向けた。

 

「なぜ一佐は、安全な司令部の机ではなく、最も危険な最前線の艦の上に、いらっしゃるのですか?」

 

 その問いは純粋で、そして、鋭かった。

 

 後方支援が本領だという男がなぜ、自ら死と隣り合わせの場所にその身を置くのか。

 

 その、あまりにも真っ直ぐな疑問に厚士は少しだけ、虚を突かれたような顔をした。

 

 そして、彼は廊下の窓から見える、第1ドックに停泊する二隻の霧の艦──大戦艦キリシマと、重巡タカオの姿を、愛おしむような目で見つめた。

 

 その答えは、驚くほどシンプルだった。

 

「──俺が、キリシマの艦長だからだよ」

 

「……え……」

 

「そして、今は、タカオの艦長でもあるからだ」

 

 厚士は大淀へと向き直ると、穏やかに、しかし、その瞳の奥に決して揺らぐことのない、強い意志を宿して言った。

 

「キリシマも、タカオも、彼女たちが人類に、この鎮守府に、力を貸してくれるのは、俺が彼女たちの艦長としてその艦橋に立っているからだ。俺が彼女たちと、運命を共にする覚悟を示しているからだ」

 

「……」

 

「俺が安全な後方でのうのうと机に座って、口先だけで命令を下すような男だったら、果たしてあの誇り高い彼女たちが、俺を『艦長』と認め、その力を、命を、預けてくれると思う?」

 

 その言葉に、大淀は何も言い返せなかった。

 

 彼女が知る、霧の艦艇──キリシマやタカオの、気高く、そして気まぐれな性格を思えば、答えは火を見るより明らかだった。

 

 厚士は、ふっと、いつもの人の良い笑みに戻った。

 

「俺は後方支援が得意な、ただの技官上がりさ。だが、そんな俺でも、艦長として、彼女たちの前に立ち続けることだけは出来る。そして、それこそが、俺がここにいる、たった一つの、そして、最大の理由だよ」

 

 その言葉は、彼が語った、どんな複雑な戦術論よりも、どんな壮大な未来のビジョンよりも、強く、そして深く、大淀の心に響いた。

 

 この男は、ただの天才ではない。

 

 孤独な超兵器たちの心を、その一身に受け止め、共に戦場に立つ覚悟を決めた、本物の『指揮官』なのだと。

 

 大淀は、目の前の、黒衣の上官に深く、そして、心からの敬意を込めて、一礼した。

 

 もはや彼女の中に、彼に対する疑念など一片たりとも残ってはいなかった。

 

 厚士の、揺るぎない覚悟。

 

 その言葉に、大淀は最後の、そして、少しだけ意地悪な質問を投げかけてみた。

 

「……では、もし、一佐が艦長ではなくなった時は? その時は、どうされるのですか?」

 

 それは、あり得ない仮定の質問。

 

 だが、彼女は、この底の知れない男の本当の『素顔』を、もう少しだけ見てみたかったのかもしれない。

 

 その問いに、厚士は一瞬だけきょとんとした顔をした。

 

 そして、まるで当たり前のことを言うかのように、あっさりと答えた。

 

「その時は? 簡単さ。この黒い軍服を脱ぐだけだよ」

 

「……」

 

「提督として、艦娘の指揮を執れと言われれば、まあ、やるだろうけどね。でも、その時の俺は、多分、恐ろしく普通で、平凡な人間に戻ると思う」

 

 厚士は廊下の窓から見える、訓練に励む艦娘たちの姿を、どこか懐かしむような目で見つめた。

 

「必要な遠征を回して、資源を備蓄する。必要な艦娘を編成して、その練度を上げる。そして、来るべき大規模作戦に、手塩にかけた彼女たちと共に、突っ込んでいく。…それは、この鎮守府にいるどの提督でも、誰もができることだ。卓上の、2次元の世界なら、俺なんてその程度の、平凡な指揮官でしかないのさ」

 

 彼はそこで、悪戯っぽく笑った。

 

「だけど」

 

 その瞳に、再び強い光が宿る。

 

「キリシマと、タカオ。あの、じゃじゃ馬で、最高にクールな霧のやつらとこの大海原を征くからこそ、俺は艦長として、突拍子もない命令を出して、勝利を手繰り寄せる、3次元的なリアルな戦いができるんだ」

 

 厚士は少しだけ、照れくさそうに頭を掻いた。

 

「ターン制の、じっくり考えるシミュレーションゲームが一番好きなはずだったんだけどね。どうやら、俺も、キリシマのあのバトルジャンキーなところが、少し伝播(うつ)っちまったらしい」

 

 そして彼は、心の底から、楽しそうに言った。

 

「命懸けで、大博打を打ちながらこの未知の海を征く。こんなにスリリングで愉しい立場は、死ぬまで辞められそうにないよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、大淀の中で全てのピースが、カチリとはまった。

 

 彼女はついに、この新井木厚士という男の本質の、さらにその奥にある『魂』の形を、垣間見た気がした。

 

 この人は戦後の平和な時代の、海を守っていた『自衛官』とは、違う。

 

 その魂はもっと古く、もっと、荒々しいものだ。

 

 それは、今の時代の船乗りたちが、効率と安全と、管理の中で、とうに忘れてしまった、地図のまだない海へと、敢えて乗り出していく、未知への冒険心。

 

 そしてその魂は、大淀が、自分たち艦娘のその身の内に宿る記憶の中で慣れ親しんだ、あの魂と、確かに通じ合っていた。

 

 第二次世界大戦という、混沌の時代。

 

 その荒れ狂う海を、自らの勘と、度胸と、そして愛する艦への信頼だけを頼りに駆け馳せていった、あの往年の艦長たちや、海の男たちの魂と。

 

 大淀は、目の前の黒衣の上官に、今度こそ心の底からの、深い、深い敬礼を送った。

 

 もう、彼女の中に彼を測ろうとする気持ちはなかった。

 

 ただ、この古くて、新しい、本物の『海の男』と、共に働けることを、一人の艦として誇りに思うだけだった。

 

 厚士の心の底からの、楽しげな告白。

 

 それは彼が自分自身の在り方を、何のてらいもなく、さらけ出した瞬間だった。

 

 その言葉を聞き終えた大淀は、しばしの間俯き、何かを考えるように黙り込んでいた。

 

 そして、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 

 その表情には、いつもの理知的で、冷静な連絡将校としての顔は、もうなかった。

 

 そこにあったのはただ一つの、揺るぎない決意を秘めた、一人の『艦娘』としての顔だった。

 

「──ならば」

 

 大淀は深く、そして、澄み切った声で言った。

 

「私も、その航海にお供させてください」

 

「……え?」

 

 厚士が思わず聞き返す。

 

 大淀は一歩、厚士へと踏み込むと、その黒い軍服の袖をぎゅっと、小さな手で掴んだ。

 

 それは、彼女の立場では決して許されない、あまりにも人間的で、感情的な行動だった。

 

「一佐が……貴方が、これから征くその航海に。一人の艦として、私もお連れください」

 

 その瞳にはもう、迷いはなかった。

 

 厚士の中に見た、あの古き良き時代の、海の男たちの魂。

 

 それこそが、艦娘である彼女が、その身の内に宿る記憶の中で最も焦がれ、最も信頼し、そして、仕えるべきだと感じていた『艦長』の姿そのものだった。

 

 彼女はついに、見つけてしまったのだ。

 

 自分が本当に、魂を預けるべき主君を。

 

「……大淀?」

 

 厚士は、彼女の予期せぬ行動に戸惑いを隠せない。

 

「横須賀鎮守府からの命令も、連絡員としての立場も、私にとってはもう、どうでも良いことです。知ったことではありません」

 

 大淀は、きっぱりと言い切った。

 

 その言葉は、彼女が与えられた『任務』としてではなく、自らの『意志』として、ここにいることを、何よりも雄弁に物語っていた。

 

「私は、貴方にお仕えしたい。新井木厚士という司令官に」

 

 それは新井木厚士という得体の知れない、しかし、あまりにも魅力的な男に、完全に『惚れて』しまった彼女のどうしようもない弱みであり、そして、何よりも強い、覚悟の表れだった。

 

 論理的で、常に冷静だったはずの軽巡洋艦「大淀」が、初めて自らの感情と魂の導きに従って下した、人生最大の決断。

 

 大淀の魂からの告白。

 

 そのあまりにも真っ直ぐで、熱のこもった瞳に見つめられ、厚士は完全に不意を突かれていた。

 

 彼は思わず、困ったように帽子を取ってガシガシと頭を掻いた。

 

(いや、まてまてまて……なんだ、この展開は!?)

 

 自分の内心を少しばかり正直に語りすぎただけのはずが、なぜ、こんな一世一代の告白めいた状況になっているのか。

 

 彼女は鎮守府から派遣された優秀な連絡員だ。それを、自分の都合で引き抜くなど、瑞丸中将への裏切り行為にもなりかねない。

 

 理性が警鐘を鳴らす。

 

 だが、目の前の小さな軽巡洋艦が、その華奢な身体のどこにそんな力を秘めていたのかと思うほど強い力で、自分の袖を掴んで離さない。

 

 その瞳は潤みながらも、決して逸らされることはなかった。

 

 そこにあるのは紛れもない、彼女自身の『意志』。

 

 厚士は一瞬だけ、瞼を閉じた。

 

 短い、しかし、深い一拍。

 

 その間に、彼の頭の中では無数の思考が高速で駆け巡っていた。

 

 リスク、リターン、鎮守府との関係。そして何より、目の前の一人の少女の覚悟。

 

 次に彼が瞼を開けた時。

 

 その瞳にはもう、戸惑いの色はなかった。

 

 そこにあったのは、一つの艦隊を率いる『指揮官』としての、静かで、そして、揺るぎない覚悟だった。

 

 厚士はゆっくりと、大淀のその華奢な両肩へと、自らの手を置いた。

 

 その手のひらから伝わる、彼女の、わずかな震え。

 

 そして彼は告げた。

 

 その言葉は穏やかで、しかし、何よりも、力強かった。

 

「──わかった」

 

 その一言に、大淀の瞳が大きく見開かれる。

 

「ようこそ、大淀。──我が『霧の艦隊』へ」

 

 それは、大淀の一世一代の告白を、そして、その覚悟を、無碍にするほど甲斐性なしな男ではなかった厚士なりの、最大限の応えだった。

 

 鎮守府との関係がどうなるか。

 

 そんな後々の面倒事よりも、今、目の前で、自分を信じ、ついて来ると言ってくれた最初の『仲間』の、その心を受け止めることの方が、彼にとっては遥かに重要だった。

 

 その言葉を聞いた瞬間、大淀の瞳から、一筋の涙がほろりと、零れ落ちた。

 

 それは、悲しみの涙ではない。

 

 自分の魂が、ようやく、還るべき場所を見つけられた、歓喜の涙だった。

 

 彼女は背筋を伸ばし、改めて厚士の瞳を見つめ返した。

 

 その声は、わずかに震えていたが、しかし、どこまでも晴れやかだった。

 

「──はい、はいっ! 司令。この大淀、この身と魂の全てを以て、貴方にお仕えします」

 

 こうして新井木厚士が率いる、まだ名前すらない未来の艦隊に、最初の、そして、最も忠実なクルーが誕生した。

 

 

 

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