アルペジオ:ロスト・アンカー 霧の艦は未知の海を征く   作:おかーちゃんサーナイト

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暁の宣誓

 

 厚士の艦隊に最初のクルーとして、自らの意志で加わった大淀。

 

 彼女は連絡員として培った能力を、今度は厚士のためだけに、最大限に発揮し始めた。

 

 厚士は彼女を通して、日本の、そして各鎮守府の、より深層的な情報へとアクセスすることが可能となった。

 

 その中で厚士が特に注目したのは、『資源の獲得方法』だった。

 

 資料を閲覧した厚士は、すぐにこの国の、根本的な脆弱性を見抜いた。

 

「……なるほどな」

 

 きりしまのCIC艦長席で、厚士は腕を組み、深く唸った。

 

 日本の資源獲得方法は大きく分けて二つ。

 

 一つは、艦娘たちの奮闘によってかろうじて維持している日本近海や、ソロモン諸島といった重要航路の制海権を担保に、周辺諸国からその『護衛代』として、資源を融通してもらうこと。

 

 そしてもう一つは、深海棲艦が築いていた資源採掘地を多大な犠牲を払って奪い返し、そこから、わずかな資源を補うこと。

 

「どっちも自転車操業だな……オリョクルとかバシクル、キスクル、長距離とか東急が回せないリアルな世界だとこうなるのか」

 

 厚士はため息を吐いた。

 

 それは目先の資源を確保するための、場当たり的な対処療法でしかない。そして、ゲームとは違う現実の延長となれば、最終海域手前で大和どころか長門と陸奥まで温存していた背景も見えた。

 

 深海棲艦の襲来前と何も変わっていない。

 

 この国は、その生命線であるエネルギー資源の供給を、常に海外からの輸入や不安定な外交関係の上に委ねている。

 

 艦娘たちがどれだけ血を流して海を守ってもその根幹が変わらない限り、この国は常に、何かに『生かされている』弱い立場のままだ。

 

「……大淀」

 

 厚士は傍らでデータを整理していた新たな副官に、声をかけた。

 

「瑞丸中将に緊急の会議を要請してくれ。議題は、『我が国のエネルギー安全保障に関する、抜本的改革案』──だ」

 

 その、あまりにも大仰な議題名に、大淀は少し驚きながらも、すぐさまその手配に取り掛かった。

 

 数日後。

 

 鎮守府の最も警備が厳重な大会議室。

 

 そこには瑞丸中将だけでなく、海軍司令部、そして政府から派遣されたエネルギー政策担当の要人たちの姿もあった。

 

 その、国の最高首脳部を前に、厚士は一枚の、巨大な日本地図をスクリーンに映し出した。

 

「皆様。本日は、我々が深海棲艦との戦争に本当の意味で勝利するための話をします」

 

 厚士は、地図上のある一点をレーザーポインターで指し示した。

 

「日本海、島根・山口県沖。ここに大規模な海底天然ガス田が眠っていることは、皆様もご存知のはずです」

 

 続けて彼は、新潟県沖、能登半島沖、そして富山湾を次々と指し示す。

 

「そして、これらの海域には、膨大な量の『メタンハイドレート』が手付かずのまま、存在している事もご存知と思います」

 

 会議室がざわめく。

 

 それらが、日本の未来を左右する『燃える氷』であることは誰もが知っていた。だが、その採掘には莫大なコストと、そして何よりも、深海棲艦が闊歩する海での安全の確保という、絶望的なまでの困難が伴うはずだった。

 

 だが、厚士はそのざわめきを力強い一言で断ち切った。

 

「我々『霧の技術』とナノマテリアルを用いれば、これらの海底資源を安全に、そして、極めて安定的に掘削し、精製するための巨大な海上プラットフォーム及び、海底パイプラインの建設が可能です」

 

 その言葉は、爆弾だった。

 

「これが成れば」

 

 厚士の声が、熱を帯びる。

 

「日本近海に眠る、最低でも120兆円の金銭的価値を持つ、メタンハイドレート。日本国民が使う天然ガスの、100年分以上にも相当する、この膨大なエネルギー資源を、我々は完全に、自らの手で、掌握することができます」

 

 厚士は会議室にいる、日本の今を担う者たち一人ひとりの顔を見渡した。

 

「もはや他国に、資源を恵んでもらう必要はなくなります。艦娘たちを危険な海外の航路護衛に派遣する必要も、なくなります。資源に乏しい島国日本が一挙に、世界有数の『資源大国』の仲間入りを果たすことができる。これはそのための、一手であります」

 

 それはもはや、一艦長としての軍事的な提案ではなかった。

 

 一人の、未来を知る男による、この国の国家百年の計を占う、あまりにも壮大な、国家戦略の提示。

 

 政府の要人たちは言葉を失い、ただ、目の前の、黒衣の青年が指し示す、日本の輝かしい未来の可能性に、打ち震えることしかできなかった。

 

 

±±±±±

 

 

 会議が終わった後、厚士は瑞丸中将直々の命令で、一人、司令官執務室へと呼び出された。

 

 部屋に入ると、そこにはいつもの人の良い笑みを完全に消し去った、一軍の将帥としての厳しい顔つきの瑞丸中将がただ一人、待っていた。

 

「座りたまえ、新井木一佐」

 

 その声は重く、そして、いかなる誤魔化しも許さないという絶対的な意志に満ちていた。

 

「単刀直入に聞こう。貴官は一体、何者だ? 未来から来た、ただの海上自衛官。そう名乗るには、貴官はあまりにも多くのことを知りすぎている。今日の、あの国家戦略の提案。あれは、一介の佐官が思いつきで提示できるレベルを遥かに超えている。正直に、話してもらいたい」

 

 その射抜くような視線を受け、厚士は静かに、息を吐いた。

 

(……来るべき時が来た、か)

 

 彼は、覚悟を決めた。

 

「……承知いたしました。ですがその前に、一つだけ、お願いがございます」

 

「なんだね」

 

「人払いを、お願いしたく存じます。秘書艦である長門殿、陸奥殿にも、ご退室いただきたい。これからお話しすることは、この部屋に、閣下と(わたくし)、二人きりでなければ、決して語れぬことでありますので」

 

 その異例の申し出に、瑞丸中将はわずかに眉をひそめたが、やがて静かに頷き、室内に控えていた長門と陸奥に、目線で退室を促した。

 

 二人の秘書艦が訝しげな、しかし、命令に従順な表情で部屋を出ていき、重い扉が完全に閉ざされる。

 

 執務室に完全な静寂が訪れた。

 

 厚士は椅子から立ち上がると、瑞丸中将の前に直立不動の姿勢を取った。

 

 そして、まず、深く、頭を下げた。

 

「まず、人払いという無礼な申し出をお聞き入れいただいたこと、そして、これまで、私の虚構の身分を信じ、多大なるご支援を賜りましたこと、心より感謝と、そして、謝意を、申し上げます」

 

 そう言うと、厚士はゆっくりと、自分が被っていた黒い軍帽を脱いだ。

 

 そしてそれを、恭しく、机の上に置いた。

 

「私は、2056年から来た海上自衛隊の一佐ではありません。私は、2025年という、閣下らの時代から見れば、わずか10年少々未来の時代からこの世界に迷い込んだ、ただの一般市民です。『一佐』という身分は、この世界の軍人である皆様と艦娘たちに話を聞いていただくための、そして、その信頼を得るための、全くの虚偽であります。これまで偽ってきたこと、心より、お詫び申し上げます」

 

 瑞丸中将は何も言わない。ただ静かに、厚士の次の言葉を待っている。

 

「では、私は何者なのか。……信じていただけないことを覚悟で、申し上げます」

 

 厚士は一度息を吸い込むと、真実を告げた。

 

「私は、『艦隊これくしょん』というゲームを、10年近く遊び続けている、ただのプレイヤーです。そして、私のいた世界では──艦娘も、深海棲艦も、そして今、この鎮守府にいる、キリシマやタカオも。全てが、『艦隊これくしょん』、そして『蒼き鋼のアルペジオ』という、ゲーム、アニメ、漫画の中に登場する、創作物のキャラクターでしかありません」

 

 そのあまりにも荒唐無稽な告白に、さすがの瑞丸中将の表情も、わずかに揺らいだ。

 

「……故に私は、彼女たちの性能や性格、そしてその心の機微まで、熟知しております。そして、私が『未来を知る』と申したのは、私がプレイしてきた、そのゲームの経験則から、この先10年間に限り、深海棲艦がどのような作戦で、日本に攻勢を仕掛けてくるのか。その一つの『可能性』を提示できる、ということであります。そして、『艦これ』は、その初期に、『アルペジオ』とのコラボレーション企画を行ったことがあります。故に、この世界に、キリシマとタカオが迷い込んでくることも、私にとっては、あり得ない話ではなかったのです。それどころか、これからも『増える』可能性が大いにある、という可能性もご提示いたします」

 

 厚士の声が熱を帯びる。

 

「そして私は、知っています。この先、深海棲艦の戦力はインフレと呼べるほどに加速していく一つの『未来』を。いずれ、大規模作戦の最終海域では、大和、武蔵、長門、陸奥、そして、赤城、加賀を中核とした、最強の連合艦隊を何度も、何度も、反復出撃させ、基地航空隊の支援も全力で投入し、それでもなお、運が悪ければ突破もままならない。一度の出撃で、1000単位の資源を湯水のように溶かしながら、それでも、敵を殴り倒さなければならない。そんな未来がやって来るかもしれないことを。──だからこそ私は、富国強兵の策を提示しました。故にこそ私は、霧のイージス艦を建造しました。艦娘だけにこの国の全てを背負わせるのではなく、人類が自らの手で、この国を護るためのもう一つの『盾』を持つべきだと、考えたからであります」

 

 厚士は再び、深く、頭を下げた。

 

「閣下。私はお察しの通り、ただの、ゲームと、アニメと、漫画が好きな、そこらにいる、ただの若造です。軍人でもなければ、英雄でもありません」

 

 そして彼は、ゆっくりと顔を上げると、机の上に置いた、あの黒い軍帽へと、そっと、視線を向けた。

 

 その瞳には、一点の曇りもなかった。

 

「ですが、それでも。私が、東洋方面第一巡航艦隊所属、大戦艦キリシマの、そして、重巡タカオの、『艦長』であるということ。──この一点においてのみ、嘘偽りは、一切、ございません」

 

 それは彼の、魂からの叫びだった。

 

 静まり返った執務室で、瑞丸中将はただじっと、目の前の、虚構と真実の狭間に立つ、若き『艦長』の姿を見つめ続けていた。

 

 

±±±±±

 

 

 静寂が、司令官執務室を支配していた。

 

 新井木厚士と名乗る青年が、全てを語り終えてからどれほどの時間が経っただろうか。

 

 瑞丸中将は、目の前で再び深く頭を下げたまま、微動だにしない若者の姿を、ただじっと見つめていた。

 

(……ゲーム……アニメ……漫画……か)

 

 常識で考えれば、狂人の戯言だ。

 

 疲労による幻覚か、妄想か。即座に衛生兵を呼び、精神鑑定にかけるべき案件。

 

 だが、瑞丸中将の、長年修羅場を潜り抜けてきた軍人としての『勘』が、それを猛烈に否定していた。

 

 目の前の青年が語った言葉は、その一言一句が、紛れもない『真実』であると、魂の奥底で理解してしまっていた。

 

(……なるほどな)

 

 瑞丸中将の中で、これまでどうしても埋まらなかった、最後のピースが、カチリ、と音を立ててはまった。

 

 彼の、あの神懸かり的な戦術眼。

 

 霧の艦艇の、あの気難しい少女たちの心を、いとも容易く掌握する人心掌握術。

 

 そして、この国の未来を、まるで見てきたかのように語る、あの異常なまでの先見の明。

 

 その全てが、彼が『未来の攻略本を持つプレイヤー』であると仮定すれば、あまりにも綺麗に、説明がついてしまう。

 

(……なんと、数奇なことか)

 

 瑞丸中将の口元に、乾いた自嘲のような笑みが浮かんだ。

 

 我々軍人が、国家の頭脳たちが、血反吐を吐くような思いで必死に捻り出してきた戦略。

 

 艦娘たちがその身を賭して、ようやく手にしてきた僅かな勝利。

 

 その全てが、この青年がいた世界ではただの『娯楽』でしかなかった、というのか。

 

 その事実は屈辱を通り越して、もはや滑稽ですらあった。

 

 だが。

 

 同時に、瑞丸中将の心にはもう一つの、全く別の感情が嵐のように湧き上がっていた。

 

(天佑……!)

 

 これは天が、この国を見捨ててはいなかった、何よりの証拠ではないのか。

 

 深海棲艦という、理不尽な厄災。

 

 霧の艦隊という、未知の来訪者。

 

 そして、その全てを知り、未来の『解法』を知る、この青年。

 

 神は我々に、あまりにも過酷な『試練』を与え、同時に、それを乗り越えるための、最高の『切り札』を遣わされたのだ。

 

 瑞丸中将はゆっくりと、椅子から立ち上がった。

 

 そして、頭を下げたままの厚士の前に歩み寄る。

 

「……顔を、上げたまえ」

 

 その声は静かだったが、不思議なほどの温かみと、そして、揺るぎない覚悟が籠もっていた。

 

 厚士が恐る恐る、顔を上げる。

 

 瑞丸中将は、机の上に置かれていたあの黒い軍帽を、そっと手に取った。

 

 そしてそれを、両手で恭しく、厚士の頭上へと、再び戴かせた。

 

「…え……?」

 

「新井木一佐」

 

「はっ、はい!」

 

 瑞丸中将は、厚士をはっきりと、その『虚構の階級』で呼んだ。

 

「貴官がどこの誰であろうと、もはや些末なことだ。貴官の経歴が真実であろうと、虚構であろうと、もはや、どうでも良い。貴官がこの鎮守府を、そして、この国を救ってくれたという事実。そして貴官が、あの霧の()たちの、唯一無二の『艦長』であるという真実。…私にとっては、それだけで十分すぎる」

 

 瑞丸中将は一歩下がり、そして目の前の、戸惑う青年に向かって。

 

 ビシッ!

 

 寸分の乱れもない、完璧な、海軍式の敬礼を捧げた。

 

「───我が横須賀鎮守府は、今後も貴官を、『東洋方面第一巡航艦隊所属、新井木厚士 一等海佐』として、最大限の礼節を以て、遇する。そして、貴官が示す未来への道標を、全面的に信頼する。……だから、頼む」

 

 瑞丸中将は敬礼を解くと、まるで子供に言い聞かせるように優しい、しかし、懇願するような目で言った。

 

「これからもどうか、我々のために、そして、この世界の未来のために。貴官のその力を、貸してはもらえまいか」

 

 それは一人の提督が、正体不明の青年に下した、人生最大の、そして、最も賢明な、『決断』の瞬間だった。

 

 この日、この瞬間から、新井木厚士は、ただの漂流者ではなく、この世界の運命を背負う、真の『プレイヤー』となったのである。

 

 瑞丸中将からの、あまりにも、そして、望外なまでの絶対的な信頼の言葉。

 

 そして、捧げられた完璧な敬礼。

 

 厚士はその全てを、ただ、呆然と、受け止めていた。

 

 断罪されることも、追放されることも、覚悟していた。

 

 だが、目の前の、この精強な提督は、自分の荒唐無稽な真実の全てを受け入れた上で、それでもなお、『信じる』、と、言ってくれた。

 

 じわり、と、目の奥が熱くなるのを感じた。

 

 この世界に来てからずっと張り詰めていた、緊張の糸が、 ほんの少しだけ、緩む。

 

 厚士はこみ上げてくる感情を、ぐっと、奥歯を噛み締めて、こらえた。

 

 そして、瑞丸中将が再び自分の頭に乗せてくれた、黒い軍帽に、そっと、触れた。

 

 もはやこれは、虚構の身分を偽るための小道具ではない。

 

 この男から、そして、この国から託された、信頼の証。

 

 厚士はゆっくりと、そして、力強く、言った。

 

 その声にはもう、一切の、迷いはなかった。

 

「日本は、どのような世界であろうとも、私の故郷である事に、変わりはありません。そして私は、艦娘の皆を愛し、共に戦ってきた、一人の『提督』である事も、変わりはありません」

 

 その言葉は、彼の偽らざる本心だった。

 

 そう告げると、厚士は自分の頭の上の軍帽を一度外し、そして、改めて深く、正しく、被り直した。

 

 そうして、目の前の偉大な提督へと、向き直る。

 

 ビシッ!

 

 厚士の右腕が、閃光のように、鋭く、振り上げられた。

 

 捧げられたのは、彼が今まで見せてきた海上自衛隊式の、あるいは、この世界の海軍式の敬礼ではなかった。

 

 それよりも、わずかに高く、そして角度はより狭く、鋭い。

 

 かつて、この国の海を護った、先人たちが捧げた、旧日本帝国海軍式の、敬礼だった。

 

 それは彼が愛してやまないゲーム、『艦隊これくしょん』の世界で、艦娘たちと共に戦ってきた、一人の『提督』として捧げられる、最大限の敬意の表れ。

 

 そして、彼は叫んだ。

 

 その声は若く、少しだけ、震えていたかもしれない。

 

 だが、そこには彼の、全身全霊が籠っていた。

 

「不肖、新井木厚士! この身の全身全霊を賭し、粉骨砕身の働きにて、必ずや暁の水平線に、勝利を!!」

 

 月並みな言葉。

 

 英雄譚に出てくるような、ありふれた宣誓。

 

 だが、それこそが、軍人でも、英雄でもない、ただのゲームを愛する一般人である、新井木厚士という男が捧げられる、精一杯の、そして、何よりも誠実な、誓いの言葉だった。

 

 その魂からの叫びを聞き、瑞丸中将は満足げに、そして、どこか嬉しそうに、深く、頷いた。

 

「……うむ。頼んだぞ、新井木一佐……いや」

 

 彼は初めて、その呼称を口にした。

 

「───我が鎮守府の、『提督』」

 

 静まり返った執務室。

 

 そこに立っていたのは、もはや未来からの来訪者でも、正体不明の男でもない。

 

 ただ、一つの艦隊を率い、一つの国の未来を背負う覚悟を決めた、二人の提督の姿だった。

 

 

±±±±±

 

 

 重厚な執務室の扉が、ゆっくりと開いた。 

 

 その向こうから、厚士が一人、姿を現す。

 

 扉の外で固唾を呑んで待っていた長門、陸奥、そして大淀の三人は、息を呑んだ。

 

 中へ入っていった時の彼と、今、出てきた彼は、まるで別人だった。

 

 服装も、背格好も、顔つきも、何も変わっていない。

 

 だが、彼が纏う『空気』が、その『色』が、まるで違っていた。

 

 中へ入る前は、どこか掴みどころがなく、常に余裕の笑みの下に底知れない深淵を隠しているような、そんな男だった。

 

 だが今、出てきた彼は違う。

 

 その瞳にはもはや、一切の迷いや、揺らぎがなかった。

 

 そこにあるのはただ、己が進むべき道を完全に見定め、そのために己の全てを捧げる覚悟を決めた、不退転の決意。

 

 まるで、幾多の修羅場を潜り抜け、磨き上げられた一本の、抜き身の日本刀のような、凄まじいまでの静かな気迫。

 

 長門と陸奥は、その姿に、かつて軍艦だった頃の自分たちが身を預け仕えた、伝説的な提督たちの面影を、幻視した。

 

 極限の状況下で、艦隊の、そして、国の運命を、その双肩に背負うことを受け入れた者だけが放つことができる、特別なオーラ。

 

 そして大淀は、その姿に歓喜と、そして、身が引き締まるような、畏敬の念を感じていた。

 

 自分が魂を預けると決めた男は、自分の想像を遥かに超える器の持ち主だったのだと。

 

 彼の背負った覚悟の重さを、彼女は誰よりも、敏感に感じ取っていた。

 

 三者三様の思いが交錯する、静寂の中。

 

 厚士はまっすぐに、自分を待っていた三人の艦娘たちを見据えた。

 

 そして彼は、他の誰でもない、己が副官として共に在ることを選んだ、小さな軽巡洋艦へと告げた。

 

 その声は静かだったが、鎮守府の廊下の隅々まで響き渡るようだった。

 

「行くぞ、大淀。やる事が山程ある」

 

 そのあまりにも、自然な呼びかけ。

 

 それはもはや、鎮守府の連絡員と、客員提督という建前の関係性ではなかった。

 

 そこにいる誰もが、その言葉の本当の意味を理解した。

 

 すでに隠す気など、微塵もない。

 

 この大淀は、横須賀鎮守府の所属である前に、自分の副官であると。

 

 そして、自分たちが鎮守府の客分ではなく、一つの、独立した『霧の艦隊』である、と。

 

 厚士の言葉は、その事実を暗に、しかし、何よりも雄弁に、語っていた。

 

「───はいっ!」

 

 大淀は背筋を伸ばし、今までで一番大きく、そして、晴れやかな声で、返事をした。

 

 その顔にはもう、一切の迷いはない。

 

 ただ、自分が仕えるべき最高の司令官と共に、これから始まる困難で、しかし、栄光に満ちた航海へと旅立つ喜びに満ち溢れていた。

 

 長門と陸奥は、その光景をただ、黙って、見つめていた。

 

 一人は、厳しい表情の中に、かすかな満足げな笑みを浮かべ。

 

 もう一人は、その美しい口元に、楽しげな弧を描きながら。

 

 鎮守府の長い廊下を歩き出す二つの影。

 

 それは、この世界の歴史を大きく、そして、確かに変えていくことになる、新しい伝説の始まりの一歩だった。

 

 

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