アルペジオ:ロスト・アンカー 霧の艦は未知の海を征く 作:おかーちゃんサーナイト
嘱託提督の教育プログラムが始まって三ヶ月目。
ついにその日がやってきた。
今まで演習用弾しか撃ったことのない彼らが、初めて本物の深海棲艦との実地戦闘に臨む日だ。
各鎮守府の沖合。
それぞれの候補生たちが緊張した面持ちで、その時を待っていた。
呉、佐世保、舞鶴、大湊。
他鎮守府の候補生たちの初めての実戦には、万が一に備え、現役のベテラン提督が率いる強力な警護部隊が随伴していた。
陸の上の司令部テントから震える声で指示を出す新人提督たち。
その本職と比べればまだおぼつかない指揮を、ベテラン艦娘たちがフォローし、なんとか目の前の敵を撃退していく。
それはまだ、ひ弱な雛鳥を親鳥が必死に守っている、そんな光景だった。
だが。
横須賀の海だけは、その様相が全く違っていた。
「──敵、水雷戦隊発見! 全艦、戦闘用意!」
そこに警護部隊の姿はない。
いるのは、横須賀第一期生の、候補生たちとそのパートナー艦娘たちだけ。
彼らはこの初めての実戦で、いきなり鎮守府近海の警備任務を任されるという、破格の扱いを受けていたのだ。
そして彼らは、その期待に完璧に応えてみせた。
「第一小隊前へ! 爆雷で敵の陣形を崩せ!」
「第二小隊、側面から回り込んで魚雷を叩き込め!」
「霞! 敵の増援はどうなってる!」
海の上を自らの艤装で滑走しながら、彼らは叫ぶ。
その声にはもう、三ヶ月前のヘタレだったオタクの面影はない。
そこにあったのは、幾多の厳しい訓練を乗り越え、そして愛するパートナーとの絆を武器に変えた、本物の『指揮官』の顔つきだった。
その光景を、少し離れた後方で一隻のイージス艦が静かに見守っていた。
霧のイージス艦『おおよど』。
厚士は念のための『お守り』として、彼らの初陣に随伴していたのだ。
だが、彼が口を挟む必要は全くなかった。
『司令官! 敵、軽巡ヘ級、撃沈!』
『こちら、電! 敵、駆逐艦、全滅させました! なのです!』
次々と飛び込んでくる勝利の報告。
彼らは厚士の指示がなくとも、自分たちの頭で考え、連携し、あの、無茶苦茶な特殊戦術を駆使して、並大抵の深海棲艦の水雷戦隊など余裕で蹴散らせるだけの練度に仕上がっていたのだ。
「……上出来すぎるな」
おおよどのブリッジで、その光景を見ていた厚士は、満足げに呟いた。
彼の頭の中では、当初の計画が大きくその姿を変えようとしていた。
彼はモニターに映る、頼もしく成長した弟子たちの姿を見つめる。
(……これだけの練度があるなら話は別だ。ただの小さな『小隊』にする必要はない。いっそのこと、この横須賀第一期生の100名丸ごとを、一つの巨大な『教導団』として組織するべきじゃないか?)
厚士の脳裏に浮かんだその新しい構想。
それは、日本の海軍の歴史に、新たなる伝説の一ページを刻むことになる部隊の産声の瞬間でもあった。
雛鳥たちは、もはや親鳥の助けなど必要としない。
彼らは自らの翼で、大空へと羽ばたこうとしていたのだ。
±±±±±
「──以上が、横須賀第一期生、初陣の戦闘詳報の全てです」
司令官執務室。
厚士は手にしたファイルを、瑞丸中将の前のテーブルにそっと置いた。
そこには昨日の実地戦闘における、第一期生たちの完璧な戦果が、克明に記録されていた。
瑞丸中将は、その報告書に、満足げに頷くと言った。
「……見事なものだな。君の指導の賜物だ。これで、当初の予定通り、『特殊戦技教導隊』の選抜に移れるな」
だが、その言葉に、厚士は静かに首を横に振った。
「いえ、閣下。その件について一つ、計画の補正案を提出させていただきたく参りました」
「ほう?」
厚士は一枚の新しい計画書を、テーブルの上に滑らせた。
その表題には、こう記されていた。
【特殊戦技教導部隊・編成計画、補正案:『大隊』規模への移行について】
「……当初の計画では、第一期生の中から特に優秀な数名を選抜し、『小隊』規模の教導隊を発足させる予定でした。ですが」
厚士は先ほどの戦闘詳報を指し示した。
「彼らは私の想像を遥かに超える速度で成長しました。もはや彼らの実力は、甲乙付け難い。この中から数名だけを選び出すのは、あまりにも惜しい。そして、何よりも非効率です」
「非効率、だと?」
「はい。これほどの能力を持った100名もの人材をただ、通常の警備任務だけで遊ばせておくのは、国家的な損失です。そこで、発想を転換します」
厚士の声が、熱を帯びる。
「第一期生100名丸ごとを、一つの『特殊戦技教導大隊』として正式に発足させるのです。そして、彼らには二つの任務を、ローテーションで担ってもらいます。一つは鎮守府近海の実戦警備。もう一つは、全国の鎮守府へ巡回し、第二期生以降の新人提督たちを指導する教官としての任務」
「……なるほど。ローテーションで実戦と教育を兼任させる、と」
「その通りです。常に実戦の空気に触れさせることで、彼らの練度は落ちることなく、むしろ向上し続けるでしょう。そして何よりも、人員の増加は全国の鎮守府へ同時に、この新しい特殊戦技を広めるための、圧倒的な即効性と即応性を生み出します」
厚士は最後に、その瞳に強い力を込めて言った。
「閣下。我々が育てなければならないのは、一握りの天才ではありません。国を護る大多数の『凡人』たちです。そのためには、一部のエリートだけを育てる旧来の教育システムでは間に合わない。標準化された、高いレベルの教育を、いかに早く、そして広く浸透させるか。それこそが、この新しい時代の『特殊戦技教導大隊』が担うべき真の役目であると、私は確信しております」
そのあまりにも合理的で、そしてどこまでも日本の国防の未来を見据えた壮大なビジョン。
瑞丸中将は反論の言葉など持っていなかった。
目の前の青年は常に、自分の想像の遥か先を歩いている。
彼はただ深く、そして、満足げに頷くと、その補正案に力強く『承認』のサインを書き込んだ。
日本の海軍の歴史に、新たなる伝説の部隊が誕生するその瞬間だった。
±±±±±
その日の、夕方。
横須賀鎮守府の大講堂に、横須賀鎮守府第一期嘱託提督候補生100名が全員集められていた。
初陣を見事な勝利で飾った彼らの顔には、自信と、そして、どこか誇らしげな表情が浮かんでいる。
壇上に立ったのは、彼らの『師』である新井木厚士一佐。
その隣には、パートナーの浜風と副官の大淀が凛とした姿で控えている。
「全員、集まったな」
厚士の静かな、しかし、よく通る声が響き渡る。
講堂が水を打ったように静まり返った。
「本日付で、この横須賀鎮守府、嘱託提督候補生第一期生、全員を対象とし、『特殊戦技教導隊』の設立が制式に認可されたことを、ここに報告する!」
「「「「「おおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」」」」」
その言葉に、候補生たちから割れんばかりの歓声が上がる。
自分たちが選ばれたのだ。
日本の未来を担う、エリート部隊の一員として。
厚士はその歓声を手で制すると、続けた。
「表向きの実務部隊は2個中隊規模だが、後方支援要員も含めれば、我々は一個『大隊』として、日本の海を守りながら、同時に全国の後輩たちを教え導く存在となる。…分かったか?」
「「「「「はっ!」」」」」
候補生たちの声が、一つになる。
そのあまりにも真面目で、そして堅苦しい空気に、厚士はふっとその表情を崩した。
そして彼は、いつもの何かをやらかす際の悪戯っぽい、ニヤリとした笑みを浮かべると言った。
「──まあ、堅苦しいことを抜きにすれば、だ。つまり、こういうことだ。お前らの隣にいる、可愛い嫁を合法的に抱きしめて、イチャイチャ愛しながら、後から入ってくる生意気な後輩どもを上から目線で罵倒できる、最高に愉しい職場へようこそ! …って、ことだな!」
「「「「「ブッッッッッッ!!!!」」」」」
そのあまりにも不真面目で、そして、あまりにも本音すぎる歓迎の言葉に、講堂は大爆笑の渦に包まれた。
艦娘たちも顔を真っ赤にしながらも、くすくすと、笑っている。
厚士はその笑い声の中で、さらに追い打ちをかけるように、注意点を付け加えた。
「ああ、それと一つ注意だ! ラブホ代は経費で落ちないからな! どうしても事に及びたい奴らは、ちゃんとした宿泊施設を利用するように!」
「「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」」」」」
もはや軍隊の発足式とは思えないカオスな空気。
厚士はその熱狂を楽しげに見渡すと、最後にビシッ!と声を引き締めた。
「いいか貴様ら! カリキュラム修了まで、残りはあと二ヶ月だ! それまでに、軍務法典の一つや二つ、隣の可愛い嫁にでも教えてもらいながら、その真っピンクな頭の中にしっかりと叩き込んでおけ! 分かったな!!」
「「「「「アイ、アイ、サー!」」」」」
その力強い、しかし、どこまでも楽しげな返事。
それは、これから日本の海軍史に燦然と輝く伝説を築き上げていくことになる、史上最も不真面目で、そして史上最も強い部隊の産声に他ならなかった。
そして、その中心にはいつも、このどうしようもなく、型破りな一人の男が立っているのだ。
「──以上だ! 解散!」
厚士の最後の号令と共に、大講堂は歓喜と興奮の坩堝と化した。
候補生たちは互いの肩を叩き合い、ハイタッチを交わし、そして、何よりも自分の愛するパートナーを誇らしげに抱きしめたり、そのままくるくると回ってみたり、肩車したりしていた。
そのあまりにも熱狂的な、そして、少しだけ品のない光景。
それを壇上の上で、厚士のすぐ隣で見ていた浜風は、その白い頬を、ぽっ、と、朱に染めていた。
「……い、一佐……」
彼女は小さな声で、隣の上官に抗議した。
「い、いくらなんでも、先ほどのお言葉は少し、不謹慎が過ぎるのでは……。『ラブホ代』だなんて……。その、はしたないです……!」
生真面目な彼女にとって、厚士のあまりにも明け透けな物言いは、少し刺激が強すぎたらしい。
その初々しい反応に厚士が苦笑いを浮かべたその時だった。
「──いいえ。あれで良いのです」
静かな、しかし、凛とした声が、横から割って入った。
声の主は厚士の副官である大淀だった。
大淀は講堂の熱狂を、冷静な目で見つめながら、浜風に静かに語りかけた。
「浜風さん。彼らは軍人である前に、一般人です。そして、その中でも少しだけ、特殊な人種なのです」
「……特殊な、人種……?」
「はい」
大淀は頷いた。
「彼らの心に最も響くのは、国家への忠誠や崇高な義務といった、堅苦しい言葉ではありません。もっと直接的で、そして、彼らが最も共感できる、欲望に正直な言葉なのです」
彼女は壇上の下で、自分のパートナーを誇らしげに肩車している候補生の姿を指し示した。
「『愛する嫁を抱きしめながら仕事ができる』、『しかも、その嫁との夜の営みすら、暗に肯定される』。一佐の先ほどの謳い文句は、彼らにとって最高のモチベーションとなったはずです。彼らは今、心の底から、『この部隊の一員で良かった』と、そして、『この司令官についていけば間違いない』と、確信していることでしょう」
そのあまりにも的確で、そして、少しだけブラックな分析。
それは、厚士という男の人心掌握術の本質を完璧に理解している者だけができる解説だった。
浜風は、まだ少し納得がいかない、という顔をしながらも、確かに講堂に渦巻く、異常なまでの熱気と、士気の高さを肌で感じていた。
「……つまり、一佐は全て、計算の上で……」
「ええ。もちろんですよ」
大淀は、にこり、と、微笑んだ。
その笑みは、どこまでも優雅で、そしてどこまでも、絶対的な信頼に満ちていた。
「それが、『私たち』が選んだ『司令官』というお方ですから」
その言葉。
それは、浜風の心に小さな、しかし確かな楔を打ち込んだ。
自分はまだ、この人のほんの一部しか理解できていない。
この隣に立つ、黒髪メガネの副官のように、彼の全てを理解し、そして支えられる存在になるには、まだまだ道のりは遠いのだ、と。
浜風は、ぎゅっと、拳を握りしめた。
少しだけの、嫉妬。
そして、それ以上に、もっとこの人の役に立ちたいという、強い、強い、想い。
その新しい決意を胸に、彼女は改めて自分の規格外の上官の、その大きな背中を見つめるのだった。
±±±±±
その夜。
横須賀鎮守府の喧騒が嘘のように静まり返った深夜。
イージス艦『おおよど』のCICは、淡いモニターの光だけが灯る静寂に包まれていた。
その中央、艦隊総旗艦としての機能を持つ巨大なホログラム・ディスプレイの前。
厚士の副官である大淀が一人静かに座っていた。
彼女の指がキーボードの上を滑るように踊る。
彼女が今アクセスしているのは、鎮守府の公式な通信網ではない。
日本全国に散らばる、自分と同じ顔、同じ名前を持つ姉妹たちだけがアクセスできる、秘密の情報ハイウェイ。
『大淀ネットワーク』。
そして、彼女は今、呉の夜にその全権を委譲されて以降、ネットワークのホストとして幾度目かの、『司令部総旗艦』としての権限を行使しようとしていた。
彼女が打ち込んだメッセージはただ一つ。
それは本日決定された日本の国防の未来を左右する、最重要事項だった。
【件名:【最重要・レベルΩ】特殊戦技教導大隊の正式発足について】
【発:大淀ネットワーク総旗艦(東洋方面第一巡航艦隊所属)】
【宛:全国、全拠点所属、全『大淀』】
本日付をもって、横須賀鎮守府嘱託提督候補第一期生100名を基幹とし、『特殊戦技教導大隊』が制式に発足された。
大隊長は、新井木厚士、一等海佐。
同大隊は今後、全国の鎮守府、警備府、泊地を巡回し、第二期生以降の嘱託提督の教育指導を担当する。
各拠点所属の『大淀』は、同大隊が派遣された際、その指導方針を最大限に尊重し、全面的に協力せよ。
これは我々の司令官、新井木提督直接のご意向であり、そして、我が国の未来を左右する、最重要の決定事項である。
繰り返す。特殊戦技教導隊へ全面的に、協力せよ。
その簡潔で、しかし、一切の反論を許さない、力強いメッセージ。
それがネットワークに流れた瞬間。
北は大湊から、南は沖縄の泊地まで。
日本全国の海を守る、全ての拠点で任務に当たっていた『大淀』たちが、一斉にその端末を見た。
そして彼女たちは皆、同じように、静かに、そして深く、頷いた。
ネットワークの向こう側にいる、自分たちの新しい『総旗艦』の、その揺るぎない覚悟と、そして、彼女がそこまで心酔する『新井木提督』という男の、底知れない器の大きさを感じ取りながら。
その日、その瞬間から。
日本全国の、全ての『大淀』は、一つの意志の下に統一された。
新井木厚士が描く未来予想図を実現させるための、最も優秀で、そして最も忠実なサポートネットワークが、ここに完成したのだ。
その水面下での巨大な地殻変動を、もちろん厚士自身はまだ知らない。
彼はただ、自分の優秀な副官が、いつも通り夜遅くまで仕事に励んでくれているのだろうと思っているだけだった。
そしてその副官の、献身的な働きこそが、彼の無茶苦茶な計画を現実のものとして支える、最大の力となっていることに、彼が気づくのは、まだ少し先の話である。