サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

10 / 181
第10話

嫌な胸騒ぎを必死に抑え込みながら、リュウジは操縦席に腰を据えていた。

 背筋をまっすぐに伸ばし、視線はまるで計器板に釘付けのようだ。赤や緑のランプが規則正しく明滅し、数値は全て規定値内を示している。それでも心の奥底に渦巻く不安は消えない。点火直前のイオンエンジンのわずかな唸りすら、悪い兆候のように感じられる。

 

 ――落ち着け。俺が操縦するんだ。大丈夫だ。

 

 自分に言い聞かせるように深呼吸をひとつ。だが、出発準備はまだ整わない。副操縦士であるナッシュと、機体を整備した整備士による最終点検報告書を受け取らねばならなかった。それは整備士が機器の状態や計器の数値をすべて確認し、違和感や不審点があれば必ず記録する厳格なものだ。報告書が出なければ、出発は認められない。

 

 時刻はすでに出発時刻間近。苛立ちが胸の奥で膨らみ始めたその時、操縦室の扉が勢いよく開いた。

 

「やっと来たか!」

 

 振り返りざま、リュウジの口から苛烈な叱責が飛んだ。

「遅いぞナッシュ!」

 

 だが現れた青年は悪びれる様子もなく、むしろ勝ち誇ったように胸を張っていた。

 

「そう怒るなよ、リュウジ。今日はドルトムント財閥が長年付き合いのある政財界の人たちが大勢乗っているんだ。僕は次期ドルトムントの後継者だぞ?彼らに挨拶しなければならなかったんだ!」

 

 自信満々に言い切るナッシュの顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。

 

 挨拶?――いや、媚びを売っていたの間違いだろう。

 そう心の中で吐き捨てながらも、リュウジは言葉を飲み込んでため息をついた。こんな男に時間を割かれていては、余計に神経がすり減るだけだ。

 

 そこへ、可憐な声が操縦室に届いた。

 

「機長、失礼します」

 

 扉から姿を現したのはエリンだった。制服に身を包み、団子にまとめた長い緑髪が後頭部で揺れている。その端正な立ち姿に、リュウジの心は一瞬だけ安らいだ。

 

「エリンさん!今日もお美しいですね!」

 

 すぐさまナッシュが駆け寄る。彼がエリンに好意を寄せていることは、誰の目にも明らかだった。姿を見れば駆け寄り、言葉を交わせば口説き文句。彼にとっては呼吸のようなものだろう。

 

「え、ええ……ありがとう」

 

 困惑したように引き攣った笑みを浮かべ、エリンは渋々応じた。すぐにナッシュの距離を避け、リュウジの前に立つと、声を落とした。

 

「機長、社長のリョク様がお呼びです」

 

「分かりました」

 

 短く答え、リュウジは立ち上がる。

「少し席を外す。待っててくれ」

 

 副操縦士であるナッシュにそう言い残し、エリンと共に操縦室を後にした。

 

⬜︎

 

 ナッシュは不機嫌そうに舌打ちをした。

 ――まただ。またリュウジとエリン。

 誰がどう見てもお似合いの二人。旅行会社でも美男美女の組み合わせとして噂されている。だが、本当に彼女の隣に立つ資格があるのは自分だ。次期ドルトムント財閥の後継者、ナッシュ・ドルトムント。血統も権力も、この僕こそが相応しい。

 

 苛立ちが収まらぬまま座席に沈んでいると、操縦室の扉が再び開いた。

 

「失礼します……あれ?機長はいらっしゃいませんか?」

 

 帽子を外し、額に汗をにじませた整備士が立っていた。手には分厚い点検報告書。

 

「今は僕だけだ!何の用だ!」

 

 怒声に近い声を浴びせ、苛立ちを男にぶつけるナッシュ。

 

「え、ええと……作業報告書をお持ちしました」

 

 男が差し出すや否や、ナッシュは乱暴に報告書をひったくった。パラパラと数枚めくり、数値に目を通しただけで言い放つ。

 

「異常はないな!」

 

 だが整備士は顔を強張らせ、小さく頷きかけてから、意を決したように口を開いた。

 

「実は……作業員一人の工具が紛失してしまいました」

 

 その言葉にナッシュは眉をひそめた。

 

「それがどうしたっていうんだ」

 

「もし工具が機体内部やエンジンに残っていた場合、大事故に繋がる恐れがあります。ですので、本日の運航は一時待っていただきたいのですが……」

 

 言い終える前に、ナッシュの怒声が轟いた。

 

「ふざけるな!今日がどういう日だと思ってる!」

 

 整備士は顔を真っ青にし、何度も頭を下げる。だがナッシュは止まらない。

 

「ドルトムント財閥にとって重要な日なんだ!そんな下らない理由で遅らせてたまるか!」

 

「しかし……」

 

 整備士の声は弱々しく震えていた。

 

「工具が必ず機体に残っているとは限りませんが、確認を――」

 

「だったらお前に責任が取れるのか!」

 

 ナッシュの眼が鋭く光る。男は言葉を失い、かすかに「いえ」と呟いた。

 

 その瞬間、ナッシュは機長欄に迷いなくペンを走らせ、自分の名を記した。

 

「これで問題ないだろう!」

 

 報告書を整備士に突き返す。その声は苛立ちと自己満足に満ちていた。

 

 男は青ざめた顔のまま、報告書を抱えて立ち尽くした。

 ――これで本当にいいのか。

 胸に渦巻く疑念を押し殺しながらも、最早逆らう術はなかった。

 

「お前……覚えてろよ」

 

 背を向けて退出する男に、ナッシュの低い声が突き刺さった。整備士は何も言わず、その場を後にした。――このフライトが終われば、自分はクビだろう。それを悟った瞬間、すべてがどうでもよく思えてきた。

 

⬜︎

 

 一方その頃、リュウジはエリンの先導で社長室へと向かっていた。

 旅客機の通路を進むたびに耳に入るのは、金と権力の匂いに満ちた会話ばかり。

「これで次の契約は盤石だ」

「連邦もこちらに頭を下げざるを得まい」

 互いを持ち上げ合い、他者を見下すような言葉の連続。

 

 ――耳障りにも程がある。

 

 リュウジは心の中で毒づいた。だが、この空間で笑顔を保ちながら接客し続けるエリンたち客室乗務員の苦労を思うと、余計に胸が重くなる。

 

 社長室の扉を開けると、そこには豪奢な椅子に腰掛けたリョクがいた。大きなテーブルを囲み、政財界の大物たちと談笑している。

「リョク社長、機長をお連れしました」

 

 エリンが一礼すると、リョクの視線がリュウジへと移った。

「社長、お呼びでしょうか」

 

「すまないね、出発前に。伝え忘れたことがあってな」

 

 ワイングラスを口に含みながら、リョクは落ち着き払った声で言う。

 

 リュウジは黙って次の言葉を待つ――が、その瞬間、足元から微かな振動が伝わってきた。

 

 ――機体が動いている!?

 

 すぐに理解した。これは異常でも故障でもない。宇宙船のイオンエンジンが点火された音だ。出発許可を出した覚えはない。操縦席で勝手に始動できるのは――ナッシュしかいない。

 

「何やってるんだ、あのバカ! エリンさん!」

 

 リュウジの声にエリンも状況を悟り、目を見開いた。すぐさま制止に向かわねば――。

 

 だが、二人の焦燥を遮るように、リョクが手を上げた。

 

「問題ない。今日の操縦はナッシュに任せてある」

 

「――何ですって!?」

 

 耳を疑う言葉だった。そんな話は聞いていない。異議を唱えようとした瞬間、船内にシートベルト着用を示すサインが点灯する。

 

「君たちも席に着いた方がいい。話は以上だ」

 

 リョクは悠然とベルトを締め、再びグラスを傾けた。

 

 抗議の言葉を飲み込むしかない。今は言い争っている場合ではない。リュウジとエリンは顔を見合わせ、急いでスタッフルームへと向かう。

 

 背後から声が飛んだ。

 

「――リュウジ。ナッシュを頼んだよ」

 

 振り返らず、小さく呟く。

「……分かりました」

 

 胸の奥で、不吉な鼓動が一層強まっていた。

 

⬜︎

 

火星エアポートを発った宇宙船は、轟音と共に宙へと舞い上がった。イオンエンジンの低い唸りが次第に加速し、機体を押し上げる。重力制御が働き始め、客席の乗客たちが揺れに顔をしかめながらも、豪奢なシートに身を沈めている。政財界の大物や権力者たち――その誰もが、この機体がわずか数分前まで危険と隣り合わせの状態だったことなど、知る由もない。

 

 やがて、人工重力が安定し、機内アナウンスがシートベルト着脱の許可を告げると、カチャリと同時にリュウジとエリンは素早くバックルを外し、無言で立ち上がった。二人の歩調は早く、目指す先はただ一つ――操縦室。

 

 リュウジの眉間には深い皺が刻まれていた。怒りを押し殺しているつもりでも、その険しい表情は隠し切れない。胸中ではナッシュへの苛立ちが渦巻き、手を握れば骨が軋むほどに力がこもっていた。その隣で歩くエリンは、まるで対照的に笑顔を浮かべていた。客室乗務員――いや、チーフパーサーとしての矜持が彼女をそうさせていたのだ。

 

 「リュウジ」

 

 耳元で囁かれる声は小さいが、確かに届く。リュウジは足を止め、振り返った。エリンの笑みは変わらないが、瞳だけが真剣さを帯びている。

 

 「どんな時でも笑顔を忘れないこと。お客様が見ているから」

 

 その言葉に、リュウジははっとした。眉間に皺を寄せ、今にも誰かを殴りかねないほどの険しい顔をしていた自分を思い出す。確かに、ナッシュの暴挙は乗客には無関係だ。彼らはただ安全に、快適に目的地へ向かうことを求めているだけ。その責務を果たすのは自分たちなのだ。

 

 「……すみません」

 

 声を絞り出すように謝罪すると、エリンは柔らかく笑った。

 

 「ええ。怒ってるのは、私も同じ。でも表情には出さないように気をつけましょう」

 

 その笑みを見た瞬間、リュウジの背筋に冷たいものが走った。彼女の笑顔は確かに優しいが、どこか底知れぬ迫力を帯びていた。まるで氷のように冷たく、しかし鋭い刃物のような笑み。リュウジは心の中で密かに誓った。

 

 (……エリンさんを怒らせるのはやめよう)

 

 彼女が本気で怒った時、自分でさえ敵わないのではないか――そう直感したのだ。

 

◇◇◇

 

 再び歩みを進め、二人は操縦室の前に到着した。扉に備え付けられたコンソールにリュウジが指を滑らせ、暗証コードを入力する。ピッという電子音と共にロックが解除され、重厚な扉が静かに開いていった。

 

 その瞬間、リュウジの声が鋭く響いた。

 

 「ナッシュ!お前、何勝手なことしてんだ!」

 

 操縦席にはナッシュが座っていた。彼は振り返り、挑発するような笑みを浮かべる。

 

 「勝手? パパから聞かなかったのか? 今日は僕が操縦するんだ! 副操縦士のお前が俺に指図するな!」

 

 言葉の端々に滲む傲慢さ。リュウジは拳を握りしめるが、殴りつけたい衝動を必死に抑えた。

 

 操縦は自動に切り替わっている。今のところ危険はない。しかし、それが逆に不安を掻き立てた。

 

 「だったらなんで先に言わないんだ」

 

 リュウジの声は低く、鋭く響く。

 

 「知るかよ! 僕だってパパから聞かされてると思ったんだ!」

 

 ナッシュは苛立ちを隠さず、リュウジの胸を掌で押した。押された衝撃に体がわずかに揺れるが、リュウジは動じなかった。

 

 (……この野郎)

 

 内心毒づきながらも、今は感情を爆発させるべき時ではないと抑え込む。深く息を吐き、冷静さを取り戻す。

 

 「ナッシュ。最終点検報告書はちゃんと見たのか?」

 

 沈黙が落ちた。ナッシュの視線がわずかに泳ぐ。

 

 「……ちゃんと見たよ!」

 

 苛立ちを隠すように声を荒げたが、説得力はない。

 

 「本当だな?」

 

 リュウジがさらに詰め寄ると、ナッシュの顔に一瞬の焦りが走った。すぐに虚勢を張るように声を荒げる。

 

 「ちゃんと見たって言っただろ!」

 

 操縦室には一触即発の空気が漂った。エリンが後ろで息を呑むのが聞こえる。

 

 やがてリュウジは、ふうっと大きく息を吐き、肩の力を抜いた。

 

 「……分かった」

 

 それ以上は追及しなかった。だがその眼光は冷たく、ナッシュの喉元に刃を突き付けているような鋭さを秘めていた。

 

 「お前はさっさと管制塔に無線連絡をしてろってんだ!」

 

 ナッシュが苛立ちを爆発させ、声を張り上げる。そっぽを向くその横顔は、子供じみた拗ね方そのものだった。

 

 リュウジは小さく溜息を零し、冷静に指示を飛ばした。

 

 「ピクシー、管制塔に繋げ」

 

 即座にAIが反応する。

 

 《承知しました。現在、管制塔へ接続中です》

 

 落ち着いた女性の声が操縦室に響いた。

 

 そのやり取りを横目に見ながら、エリンが一歩近づいた。

 

 「とりあえず落ち着きましょう。コーヒー淹れてきますから」

 

 彼女の声は穏やかで、張り詰めた空気を和らげようとしていた。リュウジはわずかに頷いた。

 

 「ありがとうございます」

 

 その横で、ナッシュが調子よく口を開いた。

 

 「エリンさん、僕はカフェオレでお願いします」

 

 にこりと笑みを浮かべてみせる。だが返ってきた声は冷たい。

 

 「分かりました」

 

 声の温度差は明らかだった。リュウジには優しさを、ナッシュには突き放すような冷たさを。

 

 その違いに気付いたナッシュは顔を引き攣らせ、横目でリュウジを睨む。舌打ちが小さく響いた。

 

 (……クソッ。なぜいつも、あいつばかり)

 

 ナッシュの胸に渦巻く嫉妬と苛立ち。彼が今にも暴走しかねない不穏な空気を孕みながら、火星発木星行きのフライトは、確実に破滅へと向かっていた

 

⬜︎

 

船内のアナウンスが心地よい音楽と共に流れ、乗客たちを安心させるように響いていた。レストランでは一流シェフが次々と料理を運び出し、テーブルには煌びやかな皿が並ぶ。グラスの触れ合う音と笑い声が弾け、カジノルームでは豪奢なランプの下でカードが切られ、コインが積み上げられていく。

──ここは夢の旅路、何もかもが非日常の祝祭空間。

 

だが操縦室前の空気だけは違っていた。

ナッシュが「機長命令」と言い放ったことで、政財界の男たちやその子供たちは興奮気味に操縦室を覗き込み、目の前の機器に歓声を上げている。

リュウジは無理やり笑顔を保ちながらも、胸の奥で煮え立つような苛立ちを抑え込んでいた。

操縦室は船の心臓部。もし不用意に触れられれば、たった一度の誤操作で数千人の命が失われる。それを「見学」などという軽い気持ちで扱える場所ではない。

 

「……頼むから、触るなよ」

小さく吐き出したその声を聞き取ったのは、すぐ隣に立つエリンだけだった。

彼女は視線だけで「大丈夫」と告げるように頷き、すぐさま柔らかな微笑みを浮かべて人々に向き直った。

「皆様、どうぞご覧いただくのはここまででお願いいたします。安全のため、計器にはお手を触れないように」

その落ち着いた声に、大人たちは不満げに眉をひそめながらも、表立っては言い返せなかった。

 

──その頃。

貨物庫。

 

普段はただの空虚な広間でしかないそこに、冷たい金属の床を淡く照らすホログラム光が揺らめいていた。

六人の大柄な男たちが円を描くように立ち、低い声を交わしている。

 

「時間は読めているか?」

「問題ない。上の連中は操縦室見学に浮かれている。俺たちが動くなら今だ」

 

その中心に立つ男、ブリンドーは腰に差したレーザー銃を撫でる。重々しい銃身が鈍い光を反射し、暗がりの中で不気味に輝いた。

 

「俺たちの標的は“積み荷”だ。ガキだろうが財閥の連中だろうが、邪魔をするなら撃つ。それだけのことだ」

 

張り詰めた空気が貨物庫を満たし、誰も笑わなかった。

やがて一人が無言で頷き、もう一人が銃を構え直す。

 

──上層では、煌びやかなレストランで笑い声が絶えず、バーでは酒を酌み交わす声が響いていた。操縦室前では、ナッシュが満足げに胸を張り、周囲からの称賛を浴びていた。

だがその下、誰も気づかぬ貨物庫では、別の鼓動が静かに高鳴り始めていた。

 

無言の緊張が、確実にこの豪華な宇宙船を包み込みつつあった。

 

⬜︎

 

船内は相変わらず華やかだった。

レストランでは高級ワインの栓が抜かれ、カジノルームではカードを切る音と人々の笑い声が混ざり合っていた。子供たちはガラス越しに広がる星空に歓声を上げ、大人たちは政治談議や財閥の噂話に興じている。外から見れば、この船旅はまさに「豪華絢爛」そのものだった。

 

だが、操縦室の前に立つリュウジにとって、この時間は悪夢に等しかった。

政財界の大人や子供たちが操縦室を見学し、計器やモニターに興味津々の視線を向けている。彼らの瞳は純粋な好奇心に満ちていたが、リュウジにとってはその一つ一つが刃のように神経を削っていく。

 

(早く……終われ)

内心でそう願い続けていた。

 

せめて救いはあった。エリンが毅然とした態度で「機器には触れないように」と伝え、誰一人、無闇に手を伸ばす者はいなかった。それだけでも、リュウジにとっては僅かな救いだった。

 

やがて大人たちの興味も薄れ始め、「そろそろ戻ろうか」と言い始めた、その時だった。

 

──「ガァンッ!!」

 

突然、船体が激しく揺れ、大きな金属音が船内に轟いた。

「きゃっ!」と悲鳴を上げたのはエリンだった。普段から数えきれないほどのフライトを経験してきた彼女でさえ、支えを失えば転倒していただろう。咄嗟にリュウジが腕を伸ばし、彼女の身体を支える。

 

「ありがとう……」

か細い声が耳に届く。しかしリュウジはその言葉に返すこともなく、険しい表情のまま操縦席に飛び込んだ。

 

操縦室に、けたたましいアラーム音が鳴り響いた。赤い警告灯が点滅し、狭い空間を不安の色に染めていく。

「いててて……なんだよ、いきなり……」とナッシュが額を押さえながら立ち上がる。政財界の男たちや子供たちも床に転がったまま呻き、ようやくゆっくりと身体を起こし始めた。

 

「頼みます」

リュウジは短く、鋭い声で告げる。その意味を即座に理解したエリンは、すぐに乗客たちに向き直り、穏やかで落ち着いた声を放った。

「皆様、お怪我はございませんか? こちらは危険ですので、客席にお戻りくださいませ」

 

彼女の言葉は驚くほど冷静で、動揺する人々の心を少しずつ落ち着かせていく。

リュウジが必死にパネルを操作するその背中を横目に見ながら、エリンは人々を一人ひとり誘導し、操縦室から遠ざけていった。

 

──操縦室に残ったのは、リュウジとナッシュだけ。

 

「ピクシー、航行可能か診断を行え!」

リュウジの声は鋼のように硬かった。

 

「了解しました。診断開始」

AIの機械音声が響き渡る。

 

リュウジの指が信じられない速度でコンソールを走り、次々とデータを確認していく。眉間に深い皺が刻まれ、表情は険しさを増していった。

 

「お、おいリュウジ……これ、一体何が……」

弱々しい声を漏らすナッシュを、リュウジは完全に無視した。その問いに答える余裕も価値もない。指先が止まった瞬間、リュウジは静かに呟いた。

 

「……イオンエンジンNo3が故障している」

 

その言葉と同時に、ピクシーの診断が終了する。

「診断終了。航行に影響なし。アラームを削除します」

 

赤く点滅していた警告灯が消え、室内は再び青白い光に包まれた。だがリュウジの表情は変わらない。

 

エンジン一基が停止しても、他のエンジンで補える。それは彼も理解している。だが――。

 

(なぜだ。最終点検報告書に不備はなかったはずだ……)

 

嫌な違和感が、胸の奥で渦を巻いた。

 

「ナッシュ」

リュウジの声が低く響いた。

「最終点検報告書は……問題なかったんだよな?」

 

ナッシュは目を瞬かせ、状況を理解できずに呆けた顔をしている。

 

「聞いているんだ! 最終点検報告書に異常はなかったんだろうな‼」

怒声が狭い操縦室を震わせた。

 

「も、問題なかっ……」

答えかけたナッシュの脳裏に、ふとある言葉が蘇った。

 

──「作業員の一人が工具を紛失してしまって……」

 

点検時に耳にした報告。それを軽く流してしまったこと。思い出した瞬間、口から言葉が出なくなった。

 

「いや……その……」

 

タジタジになりながら視線を逸らすナッシュに、リュウジの眼光が鋭く突き刺さる。

 

「実は……」

 

口を開き、工具が紛失していた事を聞いた瞬間――。

 

「ガッ!!」

 

肺から苦しげな声が漏れる。

ナッシュの胸倉を掴み上げていたのは、誰でもない、リュウジだった。

 

「お前‼ 工具が一つでも機体に残っていたら、それだけで大事故に繋がるんだぞ‼ 分かってるのか‼」

激情がそのまま言葉となって叩きつけられた。

 

ナッシュは苦しそうに呻きながらも、「絶対に残ってるとは限らなかったんだ……」と弱々しく言い返した。

 

「ふざけるな‼」

リュウジの叫びが轟いた。

 

頭の中に、ルイの顔が浮かんだ。

彼の夢は事故と共に潰え、命まで奪われた。

カオルの顔が浮かんだ。

彼は責任を背負いきれず、自ら養成学校を去った。

 

(……どうして、こんな奴が宇宙飛行士でいられるんだ)

 

握り締める手に力がこもり、ナッシュの顔が歪む。

 

その時、操縦室の扉から慌ただしい声が響いた。

「すみません、リュウジさん!」

客室乗務員の女性だった。

「リョク社長がお呼びです。急いでください!」

 

(こんな時に……!)

舌打ちを心の中で呟きながら、リュウジはナッシュを掴んでいた手を乱暴に放した。

 

ゴホゴホと咽せながら床に崩れ落ちるナッシュを一瞥し、背を向ける。

「今はお前が機長なんだ。計器のチェックを済ませておけよ」

 

その言葉だけを残し、リュウジは扉を開けて操縦室を後にした。

 

⬜︎

 

操縦室を出た瞬間、船内の空気が一変していることに気づいた。

 客席では、先ほどの衝撃で倒れた椅子や散乱した食器を片づけるクルーたちが走り回っていた。乗客たちは不安げにざわめき、子供の泣き声も混じっている。煌びやかだった空間に、わずかな恐怖の色が混ざり込んでいた。

 

 だが、その恐怖をさらに覆い隠すように、上流階級の大人たちは苛立った声を上げていた。

「どういうことだ! 我々を不安にさせるつもりか!」

「異常があるのなら、すぐに説明しろ!」

 怒声と要求が飛び交う中、エリンは毅然と立ち、笑顔を絶やさずに一人一人へと対応していた。彼女の表情は穏やかだが、その瞳には鋭い緊張が宿っている。

 

 リュウジは彼女の横顔を一瞥し、足を止めずに進んだ。

(エリンさん……あの人がいなければ、とっくにこの船内はパニックになっていたな)

 

 足早に通路を抜け、リョク社長の待つVIPルームへと向かう。だが、彼の胸の奥では疑念が膨れ上がっていた。

 ――本当に、ただのエンジン故障なのか?

 偶然にしては出来すぎている。工具の紛失、そしてこのタイミングでのエンジン故障による揺れ。

 

 貨物庫に潜む影の存在を、まだ誰も知らない。

 けれど、船体の奥底で進行している暗い企みが、確実に「悲劇のフライト」の歯車を回し始めていた。

 

⬜︎

 

 

豪華な客室を抜けた先、さらに奥に設けられたVIPルーム。

 そこは一流ホテルのスイートルームを思わせる装飾が施されていた。大理石調のテーブル、金糸で縫われたカーテン、そして壁一面を覆う強化ガラスの窓。宇宙の漆黒と木星へと向かう航路が、無機質な美しさを湛えて広がっている。

 

 ドアが開くと、ルームの中央に鎮座する一人の人物が視界に入った。

 ――リョク社長。

 

「遅いぞ!リュウジ」

 低く響く声。叱責のようにも、試すようにも聞こえた。

 

 リュウジは軽く敬礼しながら、表情を崩さずに答える。

「申し訳ありません。操縦室の処置に時間を取られておりました」

 

「……さきほどの揺れについてだ」

 リョクは手元のグラスを静かに揺らした。中に入った琥珀色の液体が、ルームライトを受けて煌めく。

「詳細を説明してもらおう」

 

 リュウジは息を吸い込み、冷静に答える。

「イオンエンジンNo3が故障しました。点検時に工具の紛失があったと報告を受けています。もしかしたら、それが原因かと思います」

 

リョクの顔がどんどん厳しくなっていった

「貴様は一体何をしていたんだ!」

怒声のような声と持っていたグラスを投げ割った音がリュウジの耳に届いた。

全て貴方のご子息の所為だと言いたいが、グッと堪えた。

 

「申し訳ありません。ですが残りのエンジンで航行は可能です」

 

リュウジの眉がわずかに動いた。

「この船を確実に目的地まで届ける。……それが、お前に課せられた使命だ」

 

リュウジは短く答える。

「了解しました」

 

 リョクは顔を荒げた声で

「さっさと、操縦室に戻れ」

 

 その背中を向け、リュウジは操縦室に戻っていった。

 

⬜︎

 

一方、その頃。

 

「エンジンの故障、予定通りだな」

 ブリンドーと呼ばれた男が、低く笑みを漏らした。体格は熊のように大きく、鋭い目は暗闇の中でも光を宿している。

 

「……まさか本当に成功するとは」

 仲間のひとりが呟いた。

「だが、このまま行けば目標まで一直線だ」

 

 その場に緊張が走った。誰も言葉を返せず、ただ各々が武器の安全装置を外し、冷たい金属の床に立つ足音だけが響いた。

 

 ホログラムが次の航路を示す。

「……いいか。一気に動く。操縦室が混乱している今が最大の好機だ」

 ブリンドーの声は低く、しかし確実に仲間の心を縛りつけていった。

 

 そして貨物庫の奥――。

 封印されたコンテナの一つが、かすかに青白く光を放っていた。

 それが彼らの狙う“積み荷”であることを、まだ誰も知らない。

 

⬜︎

 

──その扉が、轟音と共に破られるまでは。

 

「全員、そのまま動くな!」

先頭に立つブリンドーが怒鳴り、黒光りするレーザー銃を天井に撃ち込む。眩しい火花が散り、シャンデリアの光が一瞬揺らいだ。

 

「ひっ……!」

誰かの悲鳴が漏れた。政財界の紳士淑女たちは椅子を倒しながら後ずさり、顔を真っ青にする。煌びやかな夜会服も、この場では無力な薄布でしかなかった。

 

「財布、宝石、腕時計──全部テーブルに出せ。逆らったら……わかってるな」

ブリンドーが低く唸ると、仲間たちが素早く散開し、一人一人に銃口を突きつけていく。

 

「ば、馬鹿な! 我々を誰だと思っている!」

老齢の政治家が声を張り上げた瞬間、銃床がその顔面を叩きつけた。

「ここではただの“獲物”だ」

冷たい声と共に老人は床に崩れ落ち、周囲の人々が一斉に息を呑む。

 

「おねがい、命だけは……!」

宝飾で飾った女性が震える手で指輪を外し、テーブルに並べる。次々と、金の懐中時計や宝石のネックレス、金貨入りのケースが積み重なっていく。

 

ブリンドーはそれを見て、薄く笑った。

「いい子だ。抵抗しなければ痛い目は見なくて済む」

 

銃を突きつけられながら財産を差し出す大人たち。

煌びやかな宴は一瞬にして地獄へと変わっていた。

 

◇◇◇

 

宇宙船の中枢、操縦室に足を踏み入れた瞬間、リュウジは重い空気に包まれた。

 そこには副操縦士のナッシュが腕を組み、露骨に睨みつけてきていた。

 

 ──やれやれ、まだ根に持っているのか。

 

 リュウジは内心で嘆息した。先ほど自分が胸倉を掴み、怒声を浴びせたことを忘れてはいない。だが、あの状況で叱責しなければ、この男は何も理解しないだろうとも思っていた。にもかかわらず、今のナッシュの顔には「自分は悪くない」と言わんばかりのふてぶてしさが浮かんでいた。まるで子供が駄々をこねるように。

 

 「……はぁ」

 

 呆れが勝ち、リュウジは言葉も出なかった。副操縦席に腰を下ろすと、先ほど会ったリョク社長の顔が思い出される。金の匂いしかしない冷徹な男。その態度と、この目の前の甘ったれた副操縦士。──あぁ、やっぱり親子なんだと、嫌でも納得させられた。

 

 「ピクシー」

 AIを呼び出し、考えるのをやめる。

 「イオンエンジンNo.3の故障を管制塔に伝えてくれ」

 「了解しました。管制塔に通信します」

 

 無機質な機械音声が響く。原因は恐らく作業員が残した工具。腹立たしいが、吹き飛んだのが一基だけで済んだのは不幸中の幸いだろう。船はまだ進める。そう思いながらナッシュに視線を向けた。

 

 「計器の確認は終わったのか?」

 不意に声をかけると、ナッシュは肩を震わせ、ビクッと反応した。

 

 「や、やったよ!」

 

 ぶっきらぼうで、どこか子供じみた言い方。リュウジは深く溜息をつく。

 ──命を預かる自覚がない。こいつは操縦桿に座る資格がない。

 そう思うと、これから先、この人間と関わりたくないと心底感じた。

 

 ドッと疲れが押し寄せてきたリュウジは、気分転換のように通信システムを起動する。

 「エリンさん、すみません。コーヒーを一つお願いします」

 

 だが、返答はなかった。

 ──席を外しているのか。それとも別の仕事か。

 特に気にも留めず、誰かが持ってくるだろうと軽く流した。

 

不吉なノック

 

 しばらくして──操縦室の扉が「コン、コン」と二度叩かれた。

 「ん?」とナッシュが声を上げる。

 再び「コン、コン、コン、コン、コン」と五回。

 ナッシュが苛立たしげに立ち上がろうとするが、リュウジは素早く手で制した。

 

 「待て」

 

 低く押し殺した声。次いで、また二度ノックが響いた。

 

 ──2、5、2。

 

 リュウジの表情が一変し、険しくなる。

 「危険信号だ」

 

 それは船内に危険が迫った際、乗員同士が密かに伝える合図。訓練で何度も叩き込まれた符号。

 ナッシュもようやく思い出したのか、青ざめた顔で頷いた。

 

 「はい、どうしましたか?」

 リュウジが声を張る。

 

 「コーヒーをお持ちしました。ミルクは一つでよかったですか?」

 外から聞こえたのは、確かにエリンの声だった。だが、妙に硬い。緊張を必死に抑えている響き。

 

 「はい、大丈夫です」

 

 ミルク一つは、敵の数を表わしている。一人ならどうにでもなる。

 リュウジはナッシュに鋭い視線を送る。ゆっくりと、静かに扉のロックを解除するよう指示した。

 ナッシュが渋々従い、コンソールで扉を開放する。

 

 リュウジは素早く身を潜めた。

 

 

 扉が滑るように開いた瞬間──

 両手を挙げたエリンと、その後ろに立つ覆面の男が姿を現した。

 

 「動くな!」

 

 覆面の男はレーザー銃をエリンの頭に突きつけていた。

 エリンの表情は引きつり、声も出せずにいる。

 

 「膝をつけ!」

 

 怒声が響き渡り、銃口がナッシュに向けられる。

 ナッシュは顔を真っ青にし、腰を抜かすようにして膝をついた。震える指先が床を掴む。

 

 その光景を確認した瞬間、リュウジは身を潜めた場所から飛び出した。

 覆面の男の死角を突き、音もなく背後に回り込む。

 

 「な、に──」

 

 気づいた時には遅かった。

 リュウジの肘が正確に首筋を打ち、男は呻き声を上げる間もなく意識を失った。銃が床に転がり、カランと甲高い音が響く。

 

 エリンはようやく息を吐き、手で口を押さえる。

 

 「大丈夫ですか?」

 リュウジの低い声に、エリンは震える声で「ありがとう……」と答えた。

 

 深呼吸を行いようやく落ち着いたエリンはいつもの様子に戻っていた。

 

 「リュウジ……宇宙船ジャックよ、この人のほかに仲間があと五人いる」

 エリンが小声で告げる。先ほど厨房に押し入ってきた男たちの会話を耳にしたのだろう。

 

 「五人か……」

 リュウジは倒れた男を確認し、眉を寄せる。

 

 「ここに留まっていたら、じきに奴らが押し寄せてくる」

 

 ナッシュは床に膝をついたまま、まだ状況を理解しきれていない顔をしていた。震えながら「な、何が……」と口を開くが、リュウジは無視する。

 

 「エリンさん、動けますか?」

 短く告げると、エリンは頷く。

 

 「ナッシュ、お前はここに残れ。操縦席から離れるな。万一のときは、この船を守るのはお前の義務だ」

 

 ナッシュは反射的に「ちょっと待て!俺を置いて──」と言いかけたが、リュウジは背を向けた。

 振り返ることはしない。

 

 「頼んだぞ、機長」

 

 皮肉のように、それでいて真実の重みを込めた一言を残し、リュウジはエリンと共に操縦室を飛び出した。

 

◇◇◇

 

宇宙船の華やかなレストランは、今や笑顔も拍手も消え、重苦しい沈黙に支配されていた。

 煌びやかなシャンデリアの光も、政財界の男たちやその子供たちの怯えた表情を照らすばかりだ。

 大理石の床に座り込む人質たち。その前に、レーザー銃を構えた覆面の男が一人、警戒心をむき出しに立っていた。

 

 「……あれは単独だな」

 物陰に身を潜め、リュウジが小声で呟く。隣でエリンが緊張の面持ちで頷く。

 

 リュウジは呼吸を整え、影のように床を滑るように近づいていく。覆面の男が背を向けた瞬間、リュウジは一気に間合いを詰めた。

 「ぐっ──!」

 男の首を押さえ込み、あっという間に意識を刈り取る。床に崩れ落ちた音に、座り込んでいた人質の一人が小さく悲鳴を漏らす。

 

 「静かに」

 リュウジは低く声をかけ、男を引きずって柱の影に隠した。

 あっという間に制圧していく。その姿にエリンは(これがS級パイロットなんだ)と改めてリュウジの凄さを認識したのであった。

 

◇◇◇

 

 次に向かったのは、豪華なバーカウンターが併設された客席フロアだった。

 ここには二人の賊がいた。

 一人はカウンターの後ろに陣取り、もう一人は通路を歩きながら乗客を威嚇している。

 

 「分かれた方がいい?」とエリンが囁く。

 「いや、俺がやります。エリンさんは援護に回ってください」

 そう告げ、リュウジは慎重に動き出す。

 

 まず通路を歩いている男に狙いを定め、背後から素早く飛びかかった。

 「なっ──!」

 驚く間もなく、男は床に沈んだ。

 

 もう一人が気づき、銃口をこちらに向ける。

 「おい!そこに──」

 

 放たれる光弾。その刹那、リュウジは倒れた賊の腕を掴み、盾代わりにして回避する。銃声が空気を裂く。

 隙を突き、リュウジは全身を捻るように飛び込み、拳で顎を打ち抜いた。二人目も崩れ落ちる。

 

 「……よし」

 短く息を吐き、状況を確認する。

 

 その瞬間だった。

 

◇◇◇

 

 ドンッ!

 

 肩に焼けつくような衝撃が走った。

 「う……っ」

 右肩から熱と痛みが広がり、視界が一瞬白む。

 

 「リュウジ!」

 エリンが駆け寄ろうとするのを、リュウジは必死に片手で制した。

 

 振り返れば、痩身長躯の男が静かに立っていた。

 鋭い眼光、口元には整えられた口髭。その存在感だけで場を支配していた。

 

 「ブリンドー……き、さま……」

 リュウジの肩を貫き、仲間のはずの男は胸を貫かれた。そして喉の奥から絞り出されるように漏れた。

 

 ブリンドーは冷笑を浮かべながら、手にしたレーザー銃を下ろすことなく構えている。

 先ほどの一撃は彼の仕業だった。狙い澄まされた光弾が、リュウジの肩を正確に撃ち抜いたのだ。

 ブリンドーは踵を返して、機械室の方へと走っていく。

 

◇◇◇

 

 「リュウジ、止血を──!」

 エリンが必死に近づこうとするが、リュウジは首を振る。

 

 「今は……俺のことはいいです。それより……」

 倒れて気絶している賊の一人を顎で示す。

 「誰か……この男を拘束してください」

 

 沈黙する人質たちの中から、若い男が立ち上がった。

 「私がやりましょう」

 

 その男はステファン財閥の新参者、代表のレヴィンだった。まだ三十代半ば、だが落ち着いた物腰と誠実さで周囲から一目置かれている人物だ。

 「こういう時こそ力を貸すべきだ」

 彼は迷いなく前に出ると、手近なテーブルクロスを裂き、気絶した賊の両手を縛り上げた。

 

 「助かります。エリンさん、彼と一緒にこいつを拘束してください」

 「でもリュウジ──」

 「頼みます」

 リュウジは短くそう告げると、先ほどの賊が持っていたレーザー銃を拾い上げた。

 

◇◇◇

 

 「ブリンドー……逃がすものか」

 

 血で濡れた肩を押さえながらも、リュウジは駆け出した。

 ブリンドーの背中を追い、走る。

 

 甲高い警報音が鳴り響いたのは、ちょうどその時だった。

 「爆発……!」

 

 機械室から立ち上る警告。

 ブリンドーが仕掛けた小型爆弾が作動したのだ。

 船内全体にアラームが鳴り渡り、赤色灯が点滅する。

 

 「くそっ……!」

 だが足を止めることはできない。

 

 

 やがてリュウジは避難シャトル区画にたどり着いた。

 そこでは、ブリンドーが大量の金品をシャトルに積み込んでいた。

 財宝、貴金属、そして政財界の者たちの手荷物。

 

 「止まれッ!」

 リュウジは銃を構え、迷わず引き金を引いた。

 

 光弾が空気を裂く。

 しかし──外れた。

 ブリンドーは身を翻し、悠然とシャトルに乗り込む。

 

 「次はガキだからって容赦はしない」

 不敵な笑みと共に、シャトルは切り離され、真空の宇宙へと滑り出していった。

 

 「くそぉッ!」

 リュウジは拳を床に叩きつけ、悔しさに歯を食いしばる。

 

◇◇◇

 

 だが、嘆いている暇はない。

 船内にはまだ煙とアラームが鳴り響き、爆発の影響が広がっている。

 

 「……機械室だ」

 リュウジは肩の痛みを堪え、踵を返す。

 

 爆発の被害状況を確かめ、乗客と仲間たちを守るために。

 まだ終わりではない──。

 

◇◇◇

 

リュウジは機械室の入り口に備え付けられた通信システムのボタンを強く押し込んだ。

 すぐに耳に届いたのは、ナッシュの怯え切った声だった。

 

「な、なんだよ……一体何が起きてるんだ!? 船全体が……変な揺れをしてる……!」

 

 恐怖に引きつった声。リュウジは短く息を吐き、冷静な口調で応えた。

 

「ジャック犯が機械室に爆弾を仕掛け、爆発させたんだ。――システムの異常はどうなっている」

 

 数秒の間を置いて、ナッシュがおぼつかない声で答えを返す。

 

「せ、生命維持装置の数値は……異常なし。冷却循環系統も、酸素供給ラインも正常……でも……! ――ま、マズいぞ!?」

 

「落ち着け!」リュウジの声が鋭く響いた。「何があった!」

 

「し、姿勢制御ユニットに異常! それに重力制御ユニットもおかしい! おまけに、自動操縦ができない! どうすんだよ、こんな状況で……!」

 

 パニック寸前の声を叩き切るように、リュウジは怒鳴った。

 

「落ち着け、ナッシュ! 操縦は手動でやればいい! 俺が戻るまで耐えろ!」

 

 強い口調でそう言い切り、リュウジは通信を切った。

 重苦しい静寂が一瞬、機械室の前に降り立つ。

 

 そこへ足音が駆け寄ってきた。振り返ると、エリンが立っていた。額に汗を浮かべ、制服の胸元は乱れている。それでも瞳には恐れではなく、強い責任感の光が宿っていた。

 

「拘束は終わったわ。……こっちの状況はどう?」

 

 リュウジは振り返らず、淡々と告げた。

 

「残りの連中は逃げました。……奴らが仕掛けた爆弾が爆発して、機械室がやられています。それに……機体に穴が空いています」

 

「……!」エリンの顔色が一気に変わった。「機械室は封鎖しましょう!」

 

 リュウジは小さく首を振った。

 

「駄目です。重力制御、姿勢制御ユニットに異常が出ています。このまま放っておけば、航行は維持できません」

 

「でも……この旅客機にエンジニアはいないのよ。それに穴が空いてるんじゃ……」エリンの声に、焦りが混ざる。

 

 リュウジは無言で壁際に置かれた宇宙服のヘルメットを手に取った。工具ボックスを開き、必要な器具を腰に装着する。その一連の動作に迷いはなかった。

 

「俺が直します」

 

「無茶よ!」エリンの声が震えた。

 

 しかしリュウジは、静かに微笑んで答えた。

 

「問題ありません。安全装置もありますし」

 

 腰のフックを回し、ワイヤーを確認する。その先は機械室の奥へと続き、真空へと吸い込まれている黒い穴をかすかに照らしていた。

 

 そのとき、別の客室乗務員が駆け寄ってきた。息を切らしながら告げる。

 

「リョク社長が……至急、来いと……」

 

 リュウジは工具を手にしたまま、短く答えた。

 

「分かりました、と社長には伝えてください」

 

 しかし彼は動かない。動かしてはいけない。今、最優先すべきは修理だ。リュウジはエリンと乗務員を下がらせ、重い隔壁を開いて機械室へと足を踏み入れた。

 

 すぐに、猛烈な吸引力が全身を襲った。

 空いた穴から外宇宙へと引きずり出されそうになる。しかし命綱のワイヤーがそれを防ぎ、体を隔壁へと固定する。リュウジは歯を食いしばり、一歩、また一歩と奥へ進んだ。

 

 姿勢制御ユニットと重力制御ユニットの前に辿り着いたとき、視界が歪むほどの緊張感が襲った。工具を取り出し、修理を開始するが――無理な体勢、そして宇宙ヘルメットのサンバイザーが邪魔をして、思うように進まない。

 

「……ちっ!」唇を噛み、汗を滲ませる。

 

 工具の先が震えるたび、背後から宇宙の闇がこちらを引き寄せようと迫ってくる。あと少し気を抜けば、命綱をすり抜け、全てを失ってしまうだろう。

 

 それでもリュウジは手を止めなかった。

 だが、焦りが胸を蝕む。

 

(人手が……足りない……!)

 

 悔しさを噛みしめた瞬間――後方から声が響いた。

 

「リュウジ!」

 

 振り返ると、宇宙服をまとったエリンが姿を現した。ヘルメット越しに見える瞳には、恐れではなく決意の光が宿っていた。

 

「私も手伝う!」

 

 リュウジは一瞬、言葉を失った。やがて、わずかに唇を緩める。

 

「……ありがとうございます」

 

 ヘルメット越しに交わる視線。

 リュウジは心の奥で、彼女が単なる乗務員ではなく、この船を守る“チーフパーサー”なのだと改めて理解した。誇りと責任を胸に抱き、危険を前にしても怯まないその姿に、自然と笑みがこぼれた。

 

 ――二人でなら、必ず直せる。

 

 そう信じ、リュウジは再び工具を握り直した。

 

◇◇◇

 

機械室から出てきたリュウジとエリンは、ようやく重い隔壁を閉じて通路に戻った。

 金属製の床にヘルメットが落ち、ガコンと響いた音が通路に反射する。二人は同時に宇宙服のヘルメットを外し、顔にこびりついた汗を拭った。流れる汗が頬を伝い、顎から飛び散って床に濃い斑点を描く。

 

 リュウジは壁際に腰を降ろし、肩で荒い息をついた。胸の奥からこみ上げる疲労と安堵が入り交じり、視界が揺れる。

 隣に座り込んだエリンもまた、肩で大きく息を吐いた。

 

「……なんとかなったわね」

 

 エリンが額に手を当て、小さく呟く。

 

「ええ。完璧とは言えませんが……これで持つと思います」

 

 リュウジの口元にようやく安堵の色が広がった。だが、その笑みは長くは続かなかった。彼は体を起こし、工具を整えながら言った。

 

「おれは社長のところに行きます」

 

 まだ呼吸が乱れたまま立ち上がろうとする。だが、その腕をエリンが押さえた。

 

「待って。治療が先でしょ」

 

 彼女はすでに救急箱を開き、素早く包帯を取り出していた。リュウジの右肩に巻かれた布地は鮮血に滲んでいる。彼は無言で肩を差し出した。

 

 エリンの指先は慣れた手つきで傷口を押さえ、包帯を固定していく。時折リュウジの顔が苦痛に歪むが、それを言葉にはしない。

 

「……これでよし!」

 

 結び目を整え、エリンが安堵の声を漏らした。リュウジは小さく頷き、かすれた声で礼を告げた。

 

「ありがとうございます」

 

 そして再び立ち上がり、ふらつきながらもリョク社長の待つ部屋へと向かう。

 

◇◇◇

 

 ――ドアが開いた瞬間、怒号が浴びせられた。

 

「遅い! 馬鹿者が!」

 

 一瞬だけ眉を顰めるリュウジ。しかしすぐに、低く頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

「現状はどうなっている!」

 

 社長の怒声は鋭い刃のようだ。リュウジは感情を殺して、冷静に現状を報告する。爆発の影響、制御ユニットの異常、そして最低限の修復が完了していることを。

 

「飛行に問題ないのか!」

 

「……ギリギリ問題ありません」

 

「なら、さっさと戻れ!」

 

 吐き捨てるような命令に、リュウジは黙って一礼し、足早に操縦室へ戻った。

 

◇◇◇

 

 操縦席では、ナッシュが落ち着かない様子で操縦桿を握りしめていた。リュウジが入ってくると、彼の顔に安堵の色が浮かぶ。

 

「よ、よかった……戻ってきてくれた……」

 

 そこへエリンも駆け込んできた。

 

「乗客も落ち着いているわ」

 

 小さな報告に、わずかな希望の光が灯る。ようやく乗り越えられた――そう思った瞬間だった。

 

 突如、甲高いアラームが鳴り響いた。

 

「な、何だ!?」ナッシュが悲鳴を上げる。

 

 リュウジは通信コンソールを操作し、管制塔からの通信を受けた。

 

「航路からだいぶズレているけど、何かあったのか?」

 

 リュウジは即座に答える。

 

「ジャックがありました。その影響です」

 

 同時に飛行指示器を確認する――だが、そこに表示された数値を見た瞬間、リュウジは大きく目を見開いた。

 

「ナッシュ!」

 

 声が操縦室を揺るがす。

 

「さっきの爆発で方向がズレたんだ! 飛行指示器を確認してなかったのか!?」

 

「お、俺……そ、そんな余裕……」

 

 ナッシュは慌てふためき、しどろもどろに言葉を吐く。

 

「落ち着いて聞いてくれ」管制塔の声が低く重くなった。「そこは――魔のゾーンの入り口だ。三分後にダストチューブの軌道と交差する。すぐに回避せよ!」

 

 血の気が引く。魔のゾーン――隕石群が絶え間なく飛び交い、航行する船にとっては死地同然の領域。

 

「了解!」

 

 リュウジは返答し、ナッシュを睨みつけた。

 

「退け」

 

 その声には殺意すら込められていた。だがナッシュは操縦桿にしがみつき、動こうとしない。

 

「ど、どかない! 俺だって……!」

 

「どきなさい!」

 

 エリンの鋭い叫びが飛ぶ。

 

「はい!!」

 

 ナッシュは勢いよく立ち上がり、席を譲った。リュウジは即座に操縦桿を握りしめ、計器を確認した。

 

「ダストチューブは回避できそう?」

 

 エリンが問う。

 

「今なら……なんとかブーストすれば問題ないでしょう」

 

 リュウジがエンジン出力を上げようとした瞬間、再びアラームが鳴り響いた。

 

「今度は何!?」

 

 エリンの声が震える。

 

 リュウジの指先が計器を走り、そこで信じられない表示に突き当たった。

 

「……エンジンバイパスが開いている、だと!?」

 

 操縦室に戦慄が走る。

 

 エンジンバイパス――本来なら閉じられているべき供給ラインが開き、燃料が不均等に流れていた。

 

「……まさか……」エリンの表情が硬直する。

 

 リュウジは急いでバイパスを閉じたが、すぐに顔色が変わった。

 

「イオンエンジンNo3が故障していましたが……燃料が供給され続けていた。もう、燃料が底をつきそうです……」

 

 額を汗が伝い、顎から落ちた。

 

 エリンが震える声で呟く。

 

「……まさか、操縦室見学の時に……」

 

「それしか考えられません。あの爆発のとき、不意に触ったのかもしれない」

 

 リュウジの声は冷静だったが、その奥に怒りが潜んでいた。

 

「ど、どうすんだよ……このまま死んじゃうのか……」ナッシュの顔は青ざめ、足元が震えている。

 

 リュウジは短く答えた。

 

「酸素供給システムと姿勢制御を解除します。少しでもエネルギーを節約する」

 

「分かったわ。乗客にはシートベルトを着用させるわね。こっちは任せて」

 

 エリンは力強く応じた。

 

「重力制御ユニットで逃げればいいだろ!」

 

 ナッシュが必死に叫ぶ。

 

 リュウジは首を振り、冷徹な声で返す。

 

「重力制御ユニットは簡易修理しかしていない。多用は危険だ。もし空港着陸のときに使えなければ……それこそ終わりだ」

 

「じ、じゃあ……どうやってダストチューブを……!?」

 

 リュウジは操縦桿を強く握りしめ、淡々と答えた。

 

「手動ですべて躱す。そして……エンジン出力を最大の状態でエアポートに突っ込む」

 

「そんなこと……!」

 

「やるしかないんだ」

 

 その声は冷たくも、揺るぎない覚悟に満ちていた。

 

 リュウジの目には、すでに生還か死かの二択しか映っていなかった。

 

◇◇◇

 

警告灯が赤く点滅し、操縦席全体を血の色のように染め上げていた。耳をつんざくようなアラームが止むことなく鳴り響き、まるで死神の鼓動のように彼らの神経を削っていく。

 前方スクリーンには黒い宇宙空間の闇。その中に、幾千もの光の粒が連なり、蛇のようにうねる帯を形成していた。それが「ダストチューブ」――無数の隕石群が軌道上に絡み合い、常人なら絶対に突入を避ける領域だ。

 

「……来るぞ」

 リュウジの低い声が操縦室を満たす。瞳は一切の迷いを許さず、前方に散らばる死の群れを射抜くように凝視していた。

 

「まさか本当に……手動でやる気なの?」

 エリンが息を呑む。

「オートシステムは死んでます」

 リュウジの両手が操縦桿を握りしめ、筋張った指が白く浮かび上がる。

 

 隣でナッシュが青ざめ、頭を振った。

「む、無理だ……無理に決まってる! こんなの突っ込んだら、蜂の巣になって終わりだ!」

「黙れ!」

 リュウジの怒声が鋭く飛ぶ。その一喝にナッシュは口を閉ざした。

 

 

 船体が震え、最初の小隕石がかすめ、青白い閃光が走る。

「突入!」

 リュウジの宣言と同時に、船体は漆黒の嵐へ飛び込んだ。

 

 ――ガンッ!

 船体に激しい衝撃。乗客デッキから悲鳴が響く。

 

「右四十五度! 加速!」

 リュウジの体が操縦桿を右に切る。即座に機体が傾き、視界を巨大な隕石がかすめて通過する。ほんの数メートルの差。僅かでも遅れれば、今ごろ船体は真っ二つになっていただろう。

 

「くっ……!」

 エリンが思わずシートにしがみついた。

 

「まだ始まったばかりだ」

 リュウジの声は静かだった。だがその額からは滝のような汗が流れ、顎を伝って制服を濡らしていた。

 

 次の群れが迫る。数十個の隕石が複雑な軌道を描き、まるで意志を持った獣のように行く手を塞ぐ。

「下げる!」

 リュウジは操縦桿を一気に下げた。船体が急降下し、視界いっぱいの隕石群を腹の下に潜り抜ける。重力制御を抑えているため、機体に働く慣性がそのまま乗員を襲い、全員がシートに叩きつけられた。

 

「ぐっ……!」

 ナッシュが呻き声を上げる。エリンも胸にかかる圧力に息を詰まらせるが、目だけはしっかりと前を見据えていた。

 

「燃料残量、二十パーセント!」

 エリンが叫ぶ。

「持たせる!」

 リュウジは歯を食いしばり、操縦桿を捻った。

 

 船体が急旋回し、横合いから飛来した岩塊を紙一重でかわす。ギリギリの回避行動にエリンの心臓は破裂しそうだったが、リュウジの動きには一片の迷いもない。

 

「どうやってそんな判断を……!」

「目で追うんじゃない。流れを読むんだ」

 リュウジは息を切らしながらも言い切った。

 

 前方に、巨大な隕石が見えた。直径数百メートルはある岩塊が、ゆっくりと進路を塞いでいる。

「無理だ! 避けきれねぇ!」

 ナッシュが叫ぶ。

「正面突破する!」

「はぁ!?」

「その裏に抜け道がある。信じろ!」

 

 リュウジは操縦桿を前に倒し、仕方なくスロットルを最大に押し込む。

 エンジンが悲鳴を上げ、船体が唸りを上げて加速する。

 

「衝突まで、五秒!」

 エリンの声が震える。

「三、二、一――!」

 リュウジが操縦桿を斜めに切る。

 

 船体が岩塊すれすれを滑るように横切り、表面の岩が船体を掠めていく。閃光と轟音。だが、次の瞬間、岩塊の裏側に細い空間が開けていた。

 

「抜けた……!」

 エリンが叫ぶ。

 

 だが安心する間もなく、無数の小さな隕石が雨のように降り注いだ。

 リュウジは両手両足を総動員し、舵を微細に刻み続ける。左へ、右へ、時に船体をロールさせながら、寸分の狂いなく回避し続ける。

 

 その姿は、もはや人間の反射速度を超えていた。

「な、なんだよ……こんなの人間業じゃねえ……!」

 ナッシュが絶望と畏怖の混じった声を漏らす。

 

「……S級って、こういうことなのね」

 エリンはリュウジの横顔を見つめ、唇を噛みしめた。

 

 操縦桿を握る彼の瞳には恐怖が一切なく、ただ冷徹な光だけが宿っていた。仲間を、乗客を、生かすために。――それだけの意志が、彼を突き動かしている。

 

「残り二分……!」

 管制塔の声が再び割り込む。

「ダストチューブ通過まで、残り二分だ!」

 

「持たせる!」

 リュウジは叫び、全神経を指先に集中させる。

 

 船体が激しく振動する。視界いっぱいに飛来する隕石群。避けては迫り、避けては迫る。その繰り返しが永遠に続くように思える。

 だがリュウジの操縦は一度も狂わなかった。

 

 ついに――。

 最後の群れを突破した瞬間、視界が開けた。暗黒の空間の先に、光の筋が見える。

 

「抜けた……! ダストチューブを突破した!」

 エリンが歓喜の声を上げる。

 

 ナッシュが大きく息を吐き、シートに崩れ落ちた。

 

 リュウジは無言で操縦桿を握り続けていた。血の気が失せた指先は痺れ、呼吸は荒く、体中の汗が流れ落ちている。

 だが、その瞳はまだ険しいものが宿っていた。

 

◇◇◇

 

操縦室に緊迫した空気が張り詰めていた。

計器は赤く点滅し、燃料残量を示す数値が「10%」を切り、警告音が機械的なリズムで鳴り響いている。息を吸うたびに、焦げた電子回路の匂いが鼻を突き、喉の奥が痛んだ。

 

「……エアポートが視界に入った」

リュウジは前方モニターに映し出された巨大な構造物を睨みつけた。暗い宇宙の闇の中、緊急表示を示すかのように、赤く光を放つエアポートのゲート。その光は、まるで死神の口が開いているかのように見えた。

 

「緊急灯が点いてる……管制塔に連絡がいったのね」

エリンの声も張り詰めていた。彼女の額からは玉のような汗が流れ落ち、顎の先で滴となって床へ落ちていった。

 

「だが……燃料はもたない」

リュウジは低く呟き、計算を繰り返した。どう組み合わせても、まともに減速しながら進入するエネルギーは残っていない。

 

「残りのエンジン出力を最大限に上げて……推進力で突入するしかない」

短く、しかし決意を込めた声。

 

「そんなことしたら、エアポートで止まれない!衝突するぞ!」

ナッシュが裏返った声で叫ぶ。恐怖に歪んだ顔。青白くなった頬。まるで子供が泣き出す直前のような顔だった。

 

リュウジは一瞥した。冷たく、突き放すような視線で。

「それしかないんだ」

 

横でエリンも唇を噛みしめていた。だが、やがてその目に覚悟を宿し、低く呟いた。

「……それしかないわね」

 

リュウジは短く頷き、マイクに手を伸ばした。

「こちらは機長代理、リュウジ。乗客の皆様にお伝えします……機体はエアポートに緊急着陸します。全員、頭を膝と膝の間に入れて体を低く、シートベルトをしっかりと締めてください。絶対にベルトを外すないでください!」

 

客室に緊張が走るのが通信を通じて伝わってきた。泣き声、祈る声、押し殺した嗚咽。だがアナウンスを終えたリュウジは振り返らず、正面だけを見据えた。

 

「エリンさん、早く戻ってシートベルトを」

その声は優しくも厳しかった。

 

「……任せたわね」

エリンは振り返らずに答え、操縦室を後にした。背筋を伸ばしたまま、最後までチーフパーサーとしての誇りを保ちながら。

 

◇◇◇

 

「ブースト準備、カウント開始!」

 

 カウントダウンが始まる。

 ――3。

 リュウジの全身の毛穴から汗が噴き出す。

 ――2。

 心臓が暴れ、視界がわずかに揺らぐ。

 ――1。

 

「点火ッ!!」

 

 爆轟音。

 機体全体が獣の咆哮を上げた。

 背骨が押し潰され、全身の血が後方に吸い寄せられる。

 

 リュウジは歯を食いしばり、両手で操縦桿を握りしめる。

 わずか一度の誤差が、数百人の命を奪う。

 

 エアポートが近づいてくる。船体がエアポートに差し掛かったところで。

 「ナッシュ!!」

リュウジの声が、操縦席の狭い空間に鋭く響き渡った。

その声は、怒号というよりも切迫した懇願の叫びに近かった。眼前には、猛スピードで迫り来るエアポートの赤いゲート。エネルギー残量は既に一桁。イオンエンジンは悲鳴を上げ、パネルの表示は赤一色に点滅している。

 

リュウジの額からは汗が滴り落ち、操縦桿を握る右手は撃たれた傷口から鈍い痛みを訴え続けていた。だがその痛みに構っている暇はない。全ては、この数秒の判断にかかっているのだ。

 

「重力制御ユニットを今すぐ入れろ!!!」

彼は副操縦席のナッシュに怒鳴った。だが、ナッシュの顔は蒼白に染まり、目は大きく見開かれ、震える両手は宙をさまよったまま何も押せずにいた。

 

「おい、押せ!!!」

リュウジの声は悲鳴に近づく。だがナッシュの口からは、わずかに押し殺した嗚咽が漏れるだけだった。

恐怖が全身を麻痺させ、まるで自分の身体が他人のものになったかのように動かない。

 

リュウジは舌打ちし、叫んだ。

「くそ野郎があああああ!!!」

 

その瞬間、彼は操縦桿から右手を放すことができないため、左手だけで副操縦席に身を乗り出し、重力制御ユニットの緊急作動ボタンを叩き込んだ。

直後、船体全体を振るわせるような轟音とともに、ユニットが逆噴射を開始。衝撃波が機体を包み込み、強烈な減速Gが乗客と乗員を座席へと押しつけた。

 

「ぐっ……!」

リュウジの歯が噛み合わされ、顎がきしむ。肺の奥まで押し潰されるような感覚に呼吸が奪われる。それでも必死に操縦桿を握り直し、針の穴を通すような角度調整を続けた。

 

だが――。

その希望は長くは続かなかった。

 

「警告! 警告! 重力制御ユニット過負荷!!」

無機質なアナウンスが艦内に木霊する。

 

次の瞬間、耳をつんざく金属音が轟いた。

「ガガガガガッ!!!」

船体の奥で何かがはじけ飛ぶ音。続いて、ユニットから青白い閃光が迸った。

 

「持たない!? そんな馬鹿なッ!!」

リュウジの目の前で計器が次々とブラックアウトしていく。

制御不能。赤い文字が絶え間なく踊り、針は狂ったように振り切れた。

 

次の瞬間、爆発。

重力制御ユニットが内部から破裂し、閃光とともに船体の半分が大きく揺れた。

揺さぶられた瞬間、リュウジの右手に激痛が走る。撃たれた傷口が再び開き、血が操縦桿に滴った。握力が抜け、操縦桿がわずかに右へ傾く。

 

「――まずい!!!」

彼が叫んだと同時に、船体の尾部がエアポートのゲートに接触した。

「ギィィィィィィィン!!!」

金属が削り取られる甲高い悲鳴。

機体はバランスを崩し、巨大な回転が始まった。遠心力が乗員を座席に叩きつけ、血管が裂けそうな圧迫感が全身を襲う。

 

「ナッシュ!!! 右足のペダルを踏めぇぇぇ!!!」

リュウジは声を枯らし、叫び続けた。

だが、ナッシュは顔を両手で覆い、震えるだけだった。目の前に迫るのは、巨大なコンクリートの壁。

 

リュウジの視界が真っ白に染まった。

「ナッシュッ!!!!」

 

 

 

衝突。

 

それは音というより、世界そのものが断ち切られる瞬間だった。

閃光。轟音。空気を焼く衝撃波。

機体は壁に叩きつけられ、バラバラに裂け散った。折れた翼が火花を散らし、燃料が破裂し、炎が滑走路を覆い尽くす。

 

「うわああああああああ!!!」

誰かの絶叫が、次の瞬間、爆炎に呑み込まれてかき消えた。

 

エアポートの夜空を裂くように立ち昇る赤い柱。

燃え盛る機体の残骸からは、焦げた金属と肉の匂いが混ざり合い、鼻を突き刺した。

耳を裂くような爆発音の連続。鋼鉄の破片が弾丸のように飛び交い、まだ生きている者たちを容赦なく切り裂いていく。

 

リュウジの意識は、激しい衝撃で霞んでいた。だが、半壊した操縦席に固定された身体は、まだ生を繋ぎ止めていた。

彼の足元には、誰かの焼け焦げた手が落ち、靴の上に重なっていた。その手が痙攣するように指を動かし、まるで「助けて」と訴えているように見えた。

 

「……くっ……!」

リュウジは操縦桿を離し、必死にその手を掴もうとした。だが、炎が割り込むように立ち上り、その存在を一瞬で呑み込んだ。

残ったのは、黒い炭と化した形だけ。

 

「なんで……俺が……」

呟きはすすけた息と共に掻き消えた。

 

耳の奥では、まだ誰かが泣いている声がする。

「お父さん! お母さん!!」

「助けて!! お願い、誰か――!」

断末魔の叫び。肉を焼く音。血が滴り、床に広がる。

 

リュウジは瞼を閉じた。

しかし――。

まぶたの裏にこそ、地獄はより鮮明に広がっていた。

燃え盛る業火、倒れ伏す人々。自分に縋りつきながら、次々と命を失っていく姿。

 

「……俺は……助けられなかった……」

 

世界が暗転していく中、彼の心にはただ一つの言葉だけが、焼き付いて離れなかった。

 

夜空を焦がす炎。

 赤い柱が滑走路に立ち昇り、轟音が世界を引き裂いた。

 

 機体が裂ける。翼が折れる。残骸が散り、燃料が黒い川となって地を這う。

 鉄と焦げた肉の匂いが鼻を突き刺す。肺の奥まで灼けつくように痛い。

 

 叫び声。泣き声。断末魔。

 名前を呼ぶ声。助けを求める声。

 

 ――これが、リュウジが見た直後の光景だった。

 

――これが「悲劇のフライト」。

コロニー史に永遠に刻まれる惨劇であった。

 

◇◇◇

 

翌日。

この事故は、コロニー史上最悪の「悲劇のフライト」として世界中に報じられた。

 

〈速報:大型旅客船がエアポートに墜落、死者・行方不明多数〉

〈生存者は極少数、乗員・乗客の八割が死亡〉

〈コロニー全域に衝撃、政財界の要人も搭乗〉

 

テレビの画面には、赤黒い炎を上げて燃える滑走路が映し出される。

その光景は、戦場の記録映像のようであり、都市のど真ん中で地獄が現出したかのようだった。

 

「映像をご覧ください……現場から送られてきた最新の状況です」

画面の中では、消防隊が必死に放水している。しかし炎は収まらず、黒煙がコロニーの天蓋を覆っている。

担架に乗せられる遺体。泣き崩れる遺族。血で赤く染まった滑走路。

 

解説者の声は震えていた。

「……これほどの事故は、前例がありません。なぜここまで被害が拡大したのか、原因は依然として不明です……」

 

だが人々はすぐに答えを求めた。

「誰のせいだ?」

「何が起きた?」

「なぜ、止められなかった?」

 

そして報道は一人の名前を繰り返し流し始めた。

――操縦士、リュウジ。

 

◇◇◇

 

事故から数日後。

生存者たちは病院に搬送されていた。

 

リュウジが目を覚ましたのは、白い天井の下だった。

医療施設の隔離室。酸素マスクをつけられ、全身に点滴とセンサーが繋がれている。

 

一瞬、すべてが夢だったのではないかと思った。

だが次の瞬間、耳の奥で再生される。

あの爆音。炎。叫び。

そして焼け焦げた滑走路の匂いが、鼻腔の奥から甦ってきた。

 

「……生きて……るのか」

掠れた声が漏れる。

だがその声には喜びも安堵もなかった。むしろ、重く沈んだ絶望が混じっていた。

 

彼は死ぬべきだった。

あの場に残った全員と同じように、炎に飲まれて消えるべきだった。

――それなのに。

 

耳に届く声があった。

看護師たちが交わす小声。

「……あの人が……」「そう、操縦してたって……」「どうして自分だけ……」

 

ガラス越しの視線。

冷たい。刺すような視線。

英雄を見る目ではなかった。

むしろ、罪人を見る目だった。

 

やがて、病室のテレビにニュースが流れた。

「悲劇のフライトから一夜。生存者の数は不明。その中には操縦士リュウジも含まれています」

画面には炎の残骸と、号泣する遺族の姿。

「なぜ救えなかったのか」「なぜ死ななかったのか」

街頭インタビューで人々は口々に叫んでいた。

 

「操縦士の判断ミスだろう」

「結局あの子がやったんじゃないのか」

「どうしてこんな若造に操縦を任せたんだ」

 

言葉は鋭い刃となってリュウジの心を突き刺した。

そして、それを否定できる材料は彼の中にはひとつもなかった。

 

――俺のせいだ。

――誰が何と言おうと、俺が握っていた。

――止められなかったのは、俺だ。

 

枕元に置かれた新聞。

そこには大きな見出しが踊っていた。

 

〈悲劇のフライト――操縦士リュウジ、唯一の責任者か〉

 

記事には専門家の推測、関係者の証言、そして遺族の怒りが載っていた。

「子どもを返せ」「なぜ助けなかった」「償え」

 

写真には、涙を流す母親が映っていた。

彼女の腕には、もう二度と目を開けることのない幼い遺体が抱かれていた。

 

リュウジは新聞を握り潰した。

だが潰したところで、その声は消えない。

 

病室の外には報道陣が集まっていた。

ガラスにレンズが押し当てられ、シャッター音が絶え間なく響いた。

「リュウジさん、今の気持ちは?」

「あなたの判断で死者が出たと言われていますが?」

「責任をどう考えていますか?」

 

質問は罵声に近かった。

彼らの眼差しには、ただ「罪を認めろ」と言う圧力しかなかった。

 

その夜、彼は一人ベッドに横たわりながら、薄暗い天井を見つめていた。

何度も、何度も自分に問いかける。

 

――俺が間違えたのか?

――あれ以外に、やりようはあったのか?

――もし違う操作をしていたら……皆、生きていたのか?

 

答えは出ない。

しかし世間はすでに答えを出していた。

 

「リュウジ、お前が殺したんだ」

 

その烙印は、炎よりも熱く、深く、彼の心を焼き続けた。

 

―――――――――

 

狭い岩の窪み。冷たい風が肌を撫で、耳に届くのは遠くの波の音だけだった。

ルナは膝を抱え、岩の影に身を寄せて座っていた。眼前には、焚火の灯りが揺らめき、リュウジの顔に陰影を作る。そして静かにルナを見つめる。

 

「……これが、悲劇のフライトの真実だ……」

リュウジの声は震えていた。長い沈黙のあと、ルナはゆっくりと涙を流した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。