サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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ランニング

 サイン色紙騒動でひとしきり笑って、最後はメノリの「解散だ」でモールの夜が締まった。

 

 それぞれが家路につくために歩き出す。レストラン街の灯りはまだ明るいのに、どこか“終わった”という空気だけが先に漂っていた。

 

「じゃ、ルナ。帰ったら風呂入って早よ寝ろよ。明日もあるだろ」

 

 メノリが会長らしい口調で釘を刺すと、ルナは苦笑して頷いた。

 

「分かってるわ。メノリも、無理しないでね」

 

「私が無理をするわけないだろ。……と言いたいが、まあ、気をつける」

 

 シャアラはベルの横で小さく手を振った。

 

「またね。ベル、……帰り道、気をつけて」

 

「シャアラも、転ばないようにね」

 

 ベルの穏やかな声に、シャアラは頬を赤くして「う、うん」と短く返す。シンゴはそれを見てニヤニヤしていたが、メノリに肘で小突かれて、慌てて真面目な顔に戻した。

 

 最後にルナがリュウジの方を見る。

 

「リュウジ、今日は……ありがとう。来てくれて」

 

「ああ」

 

 リュウジは短く返すだけだった。いつもと同じはずの声、いつもと同じ距離。なのにルナは、どこか胸の奥がざわつく。笑っている場面もあった。けれど、笑いの後の“空白”が、妙に長い気がした。

 

 解散の流れの中で、ハワードだけがやけに名残惜しそうに足を止めていた。

 

「……じゃあ、みんな! 三日間だけど僕、まだいるからな。僕の演技が見たくなったら言ってくれよ」

 

「それは学校で頑張れ」

 

 メノリが即座に返す。

 

「うっ……手厳しい……!」

 

 それでもハワードは笑っていた。いつもの調子で、いつものように大げさに両手を振って。

 

 そして――みんながばらけ始めた、そのタイミングで。

 

 ハワードが、急に真顔になった。

 

「……僕さ」

 

 声が少し落ちる。その変化に、ルナは足を止めた。リュウジも、わずかに視線を向ける。

 

「家、帰らない」

 

「……え?」

 

 ルナが思わず声を漏らす。

 

 ハワードは、胸を張って言い切った。

 

「一人前になるまで、家に帰らないって決めたんだ」

 

 その言葉は、いつもの冗談のテンポではなかった。ふざける余地のない、変な真剣さが混じっている。

 

 ルナは眉を寄せる。

 

「ど、どうするの? 今日……寝る場所……」

 

「リュウジの家に泊まる」

 

「は?」

 

 リュウジの返事は短く、冷たい。

 

「断る」

 

「いやいやいやいや、そこをなんとか!」

 

 ハワードが両手を合わせる。まるで舞台の土下座みたいに大げさで、それがまた腹立たしいほど似合ってしまう。

 

「僕さ、今の宿、学校が用意してくれてるけど……今日はせっかくコロニーに来てるし、みんなと別れた後、なんか一人で帰るの嫌なんだよ!」

 

「知らん」

 

「ひどい!」

 

 ルナは困ったように笑って、二人の間に立つ。

 

「リュウジ……一晩だけ、だめ?」

 

「……」

 

 リュウジはルナの目を見た。そこで“頼まれたら弱い”なんて顔はしない。しないはずなのに、数秒だけ沈黙が落ちる。

 

 ハワードが畳みかけた。

 

「僕、泊めてくれたらさ、役に立つよ!? 掃除も洗い物もするし! あと、寝る場所は床でいいし! いや、床は冷えるからソファでもいいし! なんなら玄関でも!」

 

「玄関はやめろ」

 

 リュウジが即ツッコミを入れると、ハワードは「ほら!今ツッコんだ!会話してくれた!」と勝ち誇った顔をする。

 

 リュウジが眉間に皺を寄せ、ため息を吐いた。

 

「……一晩だけだ。明日には帰れ」

 

「やったぁ!!」

 

 ハワードが両手を上げてガッツポーズを作る。ルナはほっと息を吐き、メノリは呆れたように腕を組んだ。

 

「まったく……騒がしい」

 

 シャアラが小さく笑って言う。

 

「でも、ハワード……本気なんだね」

 

「僕はいつだって本気だよ!」

 

 その言葉に、どこか照れが混じった。ハワードはすぐにまた大げさな笑顔を作るが、ルナは“今の一瞬”を見逃さなかった。

 

 ――本気。覚悟。家に帰らない。

 

 あのハワードが。

 

 サヴァイヴのとき、真っ先に泣き言を言っていたハワードが。

 

 少しだけ、胸が熱くなる。

 

「じゃあ……私たちは帰るわね。リュウジ、ハワード、気をつけて」

 

 ルナが言うと、メノリたちもそれぞれ頷いて別れていく。

 

 通路の端で振り返ったルナは、最後にもう一度リュウジを見た。

 

 リュウジは、ハワードの騒がしさに押されながら歩き出していた。背中はいつも通りまっすぐで、歩幅も変わらない。けれど――ルナの胸のざわつきだけが、消えなかった。

 

    ◇

 

 リュウジの家は、学園の寮とは違う静けさがあった。廊下の足音も、エレベーターの機械音も、どこか遠い。

 

「わぁ……」

 

 ハワードが玄関に入った瞬間、目を丸くする。

 

「……何だ」

 

「いや、思ったより“リュウジの家”って感じがする」

 

「意味が分からん」

 

「ほら、もっとこう……殺風景で、冷蔵庫に水しかなくて、布団も敷いてないみたいな」

 

「失礼だな」

 

 リュウジが靴を揃えながら言うと、ハワードは「ごめんごめん!」と笑って上がり込んだ。

 

 部屋は確かに整っていた。必要最低限の家具。机の上には本と端末。壁際にはトレーニング用の器具が並び、キッチンは無駄がない。生活感は薄いのに、生活が破綻している感じはしない。

 

「……リュウジってさ、こういうとこ几帳面なんだよね」

 

「散らかってる方が嫌なだけだ」

 

「それを几帳面って言うんだよ」

 

 ハワードは勝手に納得して、ソファに腰を下ろす……寸前で、リュウジに言われて止まった。

 

「靴下のまま上がるな。スリッパ」

 

「うわ、生活指導!?」

 

「うるさい」

 

 スリッパを履いたハワードは、改めてソファに沈み込み、長く息を吐いた。

 

「……ふぅ。なんか、帰ってきたって感じがするなぁ」

 

「お前の家じゃない」

 

「分かってるよ!」

 

 軽口を叩きながらも、ハワードは妙に落ち着いた目をしていた。リュウジはそれを横目で見て、キッチンへ向かう。

 

「飲み物、いるか」

 

「いる! 甘いやつ!」

 

「水だ」

 

「ひどい!」

 

 それでもハワードは笑った。リュウジがコップに水を注ぎ、それをテーブルに置く。

 

 ハワードが受け取って一口飲んだ後、ふっと真顔になった。

 

「……なあ、リュウジ」

 

「何だ」

 

「なんかあったのか?」

 

「……何が」

 

「いや、元気ないっていうか」

 

 ハワードは笑いながら言った。笑っているのに、目だけは真剣だ。

 

「前のリュウジみたいに見えてさ」

 

 その言葉に、リュウジの手が一瞬止まった。ほんの一瞬。だが、ハワードは見逃さない。

 

「前って、サヴァイヴに不時着した時か」

 

「そうそう!」

 

 ハワードは少し肩をすくめ、照れ隠しみたいに笑う。

 

「あの時はさ、悲劇のフライトの真実なんて知らなかったからさ。ムカつくやつって思ってたんだけどな」

 

「……」

 

 リュウジは、しばらく黙った。水を飲む音だけが部屋に落ちる。

 

 ハワードは、わざと軽い声で続ける。

 

「まあ今でもムカつくとこあるけど!」

 

「帰れ」

 

「帰らない!」

 

 リュウジの短い拒絶に、ハワードは即座に言い返す。けれど、すぐに表情を落とした。

 

「……変わってないのか?」

 

 リュウジは、視線を逸らしたまま言う。

 

「何も変わってない」

 

 それは“答え”というより“蓋”だった。

 

 ハワードは「そっか」と言って、無理に追及しなかった。そこが、昔のハワードと違うところだとリュウジは思う。……思ったが、口にはしない。

 

 代わりにハワードは立ち上がり、鞄をゴソゴソと漁り始めた。

 

「でもさ、元気なさそうだから特別に!」

 

「またろくでもないことを」

 

「僕の劇のDVDを見せてやる!」

 

「いらん」

 

「いや、見る!」

 

 ハワードは勝手にテレビをつけ、端末を接続し、映像を流し始めた。画面いっぱいに映るのは、舞台の上で大げさに動くハワード――ではなく、意外にもちゃんと“役者”の顔をしたハワードだった。

 

 照明、音、観客のざわめき。ハワードは舞台の中央で、真剣な眼差しで台詞を吐く。

 

『――君がいない世界なんて、僕には耐えられない』

 

「……うわ」

 

 リュウジが小さく声を漏らす。

 

「うわって言うな!」

 

 ハワードがすぐ振り返る。

 

「真面目なシーンだぞ!」

 

「真面目すぎて無理だ」

 

「無理って何だよ!」

 

 ハワードが怒る一方で、リュウジは面倒くさそうにソファの端へ座った。視線は画面に向いている。ハワードはそれを見て、少しだけ安心したような顔をする。

 

 舞台の中で、ハワードが剣を振る。アクションはまだ荒い。だが、必死さだけは本物だ。

 

 次の瞬間――敵役に吹き飛ばされ、派手に転がる。

 

 その転がり方が、あまりにも大袈裟で。

 

 リュウジの口元が、わずかに緩んだ。

 

「……っ」

 

 笑いが漏れそうになるのを、リュウジは咳払いで誤魔化した。

 

 ハワードは見逃さない。

 

「今、笑っただろ!」

 

「笑ってない」

 

「笑った!!」

 

「……」

 

 リュウジは黙って画面を見るふりをした。ハワードは勝ち誇ったように胸を張る。

 

「ほら! 笑えるだろ! 僕の演技は!」

 

「笑う所じゃないだろ」

 

「そうなんだよ!!」

 

 ハワードがテレビに向かって叫ぶ。

 

「そこ、感動の場面なんだよ! 観客泣いてたんだぞ!?」

 

「泣く要素がどこにある」

 

「あるんだよ!! 僕が命を懸けて――」

 

 ハワードが熱弁しようとするが、画面の中でハワードがまた派手に転んで、リュウジの肩が僅かに揺れた。

 

「っ……」

 

「だから笑うなって!!」

 

 ハワードがテーブルを叩く。

 

 リュウジはついに諦めたように息を吐いた。

 

「……面白い」

 

「面白いじゃない! 格好いいだろ!? 感動だろ!?」

 

「面白い」

 

「くそぉ!!」

 

 ハワードは悔しそうにソファに座り直し、腕を組む。だが、その悔しさはどこか嬉しそうだった。

 

 画面の中で、ハワードが最後の台詞を言う。

 

『――君がいるなら、僕は何度でも立ち上がる』

 

 その瞬間、リュウジは不意に画面から目を逸らした。笑いは消えた。何かが胸の奥に刺さったような顔。

 

 ハワードは、それに気づいたが、わざと見ないふりをした。

 

「……な?」

 

 ハワードが、少しだけ小さな声で言う。

 

「僕、家に帰らないって決めたのはさ。こういうの、ちゃんと最後までやりたかったからなんだ」

 

「……」

 

「サヴァイヴの時、僕さ。逃げてばっかだっただろ」

 

 リュウジは答えない。けれど、否定もしない。

 

 ハワードは笑って、肩をすくめた。

 

「だからさ、今度は逃げない。……いや、逃げてもいいけど、逃げた後に戻ってくる。僕、そういう人間になりたい」

 

 それは不思議と、リュウジに向けた言葉でもあった。

 

 リュウジはしばらく黙っていたが、やがて短く言う。

 

「……勝手にしろ」

 

「うん。勝手にする!」

 

 ハワードは明るく答えた。そして、急にいつもの調子に戻る。

 

「で! 明日は朝飯作ってくれよ!」

 

「帰れ」

 

「帰らない!」

 

「……」

 

 リュウジはため息を吐いた。けれど、その顔には――ほんの少しだけ、さっきまでなかった柔らかさがあった。

 

 ハワードはそれを見て、心の中でガッツポーズを決める。

 

(やっぱり、こういう顔もできるじゃん)

 

 画面の中のハワードが、また派手に転ぶ。

 

 リュウジの口元が、また少しだけ緩む。

 

「……っ」

 

「笑うなって言ってるだろ!!」

 

 ハワードの叫び声が、夜の静かな部屋に響いた。

 

 そしてその騒がしさは、どこか救いみたいに、リュウジの胸の奥の“重いもの”を少しだけ薄くしていった。

 

ーーーー

 

 夜更けまでハワードの舞台映像に付き合わされたせいで、部屋の空気にはまだどこか笑いの残り香があった。

 

 ……もっとも、当の本人は最後まで「そこは笑う所じゃない!」と騒いでいたが。

 

 リュウジは、いつものように薄い毛布を肩に掛けてソファで眠りこけたハワードを横目に、寝室に戻って短く目を閉じた。眠りは浅かった。浅いが、それでも“何も考えずに落ちる瞬間”があるだけで違った。

 

 そして――まだ空が白み切らない頃。

 

 静かな部屋に、衣擦れの音が小さく走った。

 

 リュウジは端末のアラームを止め、呼吸を整えたまま起き上がる。洗面所で顔を洗い、タオルで短く拭う。寝癖のついた黒髪を軽く整え、ジャージに袖を通し、シューズの紐を締める。

 

 “日課”だ。

 

 サヴァイヴから帰って来て、ソリア学園に編入して。色んなものが変わっても、これだけは崩さないと決めている。

 

 玄関でストレッチをしていると、背後で「……んん……」と間の抜けた声がした。

 

 ソファの上の毛布がもぞりと動き、ハワードが半分寝たまま顔を出す。

 

「……なに……? 今……何時……?」

 

「早朝だ」

 

「早朝って……具体的に……」

 

「うるさい」

 

 リュウジが靴紐を締め直す音で答えると、ハワードは目をしばたたかせ、むくりと上体を起こした。髪が爆発していて、顔には“完全に寝起きの人間”と書いてある。

 

「……待って、リュウジ、どこ行くの?」

 

「走る」

 

「走る!?」

 

 ハワードの声が一気に跳ね上がった。

 

「この時間に!? 外、まだ暗いよ!? ていうか、そんなの聞いてないんだけど!?」

 

「俺はお前に許可を取って生活してない」

 

「うわ、そういうところ!」

 

 ハワードはソファからずり落ちるように立ち上がり、よろよろと近づいてくる。寝癖のまま真剣な顔をして、リュウジのジャージ姿をまじまじ見た。

 

「……日課か?」

 

「ああ」

 

「毎日?」

 

「ほぼな」

 

「……」

 

 ハワードが急に黙って、顎に手を当てる。妙に芝居がかった考え方をする癖は、朝一番でも健在らしい。

 

「……僕も行く」

 

「は?」

 

 リュウジは玄関のドアノブに手を掛けたまま、少しだけ振り向いた。

 

「何言ってる」

 

「一緒に行く!」

 

「寝てろ」

 

「いや! 寝てられない!」

 

「寝てろ」

 

「いや!」

 

 ハワードは両手を広げた。

 

「僕、決めたんだよ! 一人前になるまで家に帰らないって! その一人前っていうのは、演技だけじゃなくてさ、身体も含めての“一人前”だと思うんだよ!」

 

「大げさだ」

 

「大げさじゃない!」

 

 ハワードは胸を張る。

 

「アクションをこなす僕には、身体を動かすのが必要なんだよ! 舞台でも撮影でも、息が上がったら終わりだし! あと、体力があると精神も強くなるって言うじゃん!」

 

「……誰が言った」

 

「僕が今言った」

 

「寝てろ」

 

「寝ない!」

 

 噛み合わないいつもの応酬に、リュウジはため息を吐いた。吐いてから、玄関脇の棚を開け、予備の運動用ウェアを放り投げる。

 

「……それ着ろ。外で倒れたら面倒だ」

 

「え、いいの!? やった!」

 

 ハワードは一瞬で笑顔になり、バタバタと脱衣所へ消えた。服を着替える音がやけにうるさい。

 

 リュウジはドアを開け、外の冷えた空気を肺に入れる。夜と朝の境目の匂い。コロニーの人工の風でも、この時間だけは少し“本物”の冷たさがある。

 

「うわ、寒っ……!」

 

 ハワードが着替え終えて飛び出してくる。が、ランニング用にしては緩い格好で、リュウジが無言で上から下まで見ると、ハワードは慌てて付け足した。

 

「だ、だって僕、そんなにちゃんと走るつもりじゃ……」

 

「帰れ」

 

「いや、走る!」

 

 言い直しが早い。

 

「あと、僕のランニングスタイルはこれで完成してるんだよ。役者は見た目も大事だからね」

 

「見た目を気にするなら、まず寝癖を直せ」

 

「えっ」

 

 ハワードが頭に手をやり、鏡がないのに想像だけで絶望する。

 

「うそ……僕、今、どんな髪なの……?」

 

「爆発してる」

 

「最悪だ!」

 

「早く来い」

 

「ちょ、待って!」

 

 リュウジは先に歩き出した。コロニーの通路は静かで、足音がやけに響く。ハワードは慌てて追いかけ、玄関を出てすぐの段差でつまずきそうになって「うわっ」と声を上げた。

 

「……開始前に怪我するなよ」

 

「しない! 僕は役者だから!」

 

「意味が分からん」

 

 外に出ると、空はまだ薄い群青で、照明が柔らかく路面を照らしている。遠くのドーム越しに、人工の朝焼けがゆっくりと色を変え始めていた。

 

 リュウジは軽く肩を回し、首をほぐし、呼吸を整える。その間、ハワードはストレッチの真似事をしながら、やたらと自分の身体を叩いていた。

 

「何してる」

 

「気合い入れてる」

 

「入れ方が雑だ」

 

「雑じゃない! 伝統的な儀式だよ!」

 

「何のだ」

 

「僕のだ!」

 

 リュウジはもう突っ込まない。呼吸が整った瞬間、足が自然に前へ出た。

 

 走り出しは静かだった。いきなり飛ばさない。最初は身体を温める程度に、一定のリズムで地面を刻む。

 

「おお……おお……」

 

 ハワードも横に並ぶ。最初の数十メートルは余裕そうに見えた。だが、リュウジのペースは“温め”であって、一般の温めとは違う。

 

 数分もしないうちに、ハワードの呼吸が乱れ始めた。

 

「……っ、ちょ……っ、早くない……?」

 

「遅い」

 

「遅い!?」

 

 ハワードは信じられない顔をするが、口を開けば開くほど息が漏れる。

 

「僕……いま……結構……頑張ってる……んだけど……!」

 

「なら黙って走れ」

 

「黙ると……死ぬ……!」

 

「死なない」

 

「いや……死ぬ……!」

 

 ハワードの肩が上下し始める。息を吸う音が大きくなり、喉が乾いているのが分かる。

 

 それでも、ハワードは食らいついた。

 

 リュウジの横を保とうと、必死に足を回す。目線は前。途中で視線を落としたら、そこで折れる気がした。

 

(サヴァイヴで……僕は……何回……音を上げたっけ……)

 

 思い出すのは、砂浜で、森で、崖で。泣き言を言って、怒鳴られて、置いていかれそうになって、それでも走った。

 

 今は――置いていかれても死なない。

 

 でも、置いていかれたら、悔しい。

 

「……っ、はぁ……っ、はぁ……っ……!」

 

 リュウジは横目でハワードを見る。フォームは崩れている。無駄な力が入っている。肩が上がり、手が振れず、足が重い。

 

 それでも、止まらない。

 

 リュウジは少しだけペースを落とした。露骨に落とすのではない。気づかれない程度に“合わせる”。それは、いつも誰かの動きに気づかれないように寄り添っていたエリンのやり方に少し似ていると、リュウジはふっと思った。

 

「……リュウジ……っ、いま……優しくした……?」

 

「してない」

 

「した!」

 

「してない」

 

「したって!」

 

 ハワードは苦しそうに笑った。笑ってしまったせいで息がさらに乱れ、むせそうになる。

 

「げほっ……げほっ……!」

 

「ほら、黙れ」

 

「むり……!」

 

 それでも数分、数分と走り続けると、ハワードの呼吸は少しだけ落ち着いた。身体が“走る”ことを思い出し始める。

 

 コロニーの通路を抜け、緩やかなカーブを曲がり、人工の緑地帯へ出る。ここは植物の管理区域で、朝は人が少ない。葉を濡らす微細な散水の匂いがする。

 

「……うわ……ここ、気持ちいい……」

 

 ハワードが息を切らしながら言う。

 

「黙って走れ」

 

「黙ったら……もったいない……!」

 

 ハワードは肩で息をしながらも、目を輝かせて周囲を見た。朝の光が、緑に薄く反射している。サヴァイヴの森ほどの圧はないが、それでも、人工の自然が作る柔らかさは心を緩める。

 

 しばらく走ったところで、リュウジが立ち止まった。水場の前だ。息を整えるための短い休憩。

 

 ハワードは、止まった瞬間、膝に手をついた。

 

「……っはぁ……っ、はぁ……っ、死ぬ……」

 

「死なない」

 

「死ぬ……!」

 

「水、飲め」

 

 リュウジが水のボトルを差し出すと、ハワードは奪うように受け取り、がぶがぶ飲んだ。飲み終えた後、口元を拭いながら、ふらふらと立ち上がる。

 

「……でも……っ、なんとか……ついてきた……」

 

「……よく着いてきたな」

 

 リュウジの言葉は短い。だが、そこには少しだけ“認める”響きがあった。

 

 ハワードは、にやっと笑う。息はまだ荒い。

 

「なんとかな」

 

 言い返す声は震えているが、目は負けていない。

 

「……身体を動かすのもアクションをこなす僕には必要だからな」

 

 ハワードは真面目な顔をして言う。珍しく、冗談の抑揚が薄い。

 

 リュウジはボトルを受け取り、キャップを閉めた。

 

「……その割に、フォームがひどい」

 

「えっ、ダメ出し!?」

 

「肩が上がってる。腕を振れ。視線を落とすな。呼吸は口だけじゃなく鼻も使え」

 

「ちょ、待って、急にコーチになった!?」

 

「嫌ならやめろ」

 

「やめない!」

 

 ハワードがすぐ食い下がる。ここだけは本当に早い。

 

「教えてよ! 僕、強くなりたいんだよ! アクションだけじゃなくてさ……僕、サヴァイヴの時みたいに、いざって時に役に立ちたいんだ」

 

 その言葉に、リュウジは少しだけ黙った。ハワードが軽口ではなく本気で言っているのが分かる。

 

「……役に立つとか、立たないとか、そういうのを考えるのは悪くない」

 

「……え、珍しく肯定してくれた」

 

「黙れ」

 

「黙れって言いながら肯定してくれた!」

 

 ハワードは嬉しそうに笑って、また息が乱れた。

 

「げほっ……!」

 

「だから黙れ」

 

「むり……!」

 

 リュウジは小さく息を吐き、空を見上げた。人工の朝焼けが、少しずつ明るさを増している。光の色が変わるだけで、同じ通路が違って見える。

 

 リュウジは、無意識に拳を握った。

 

 最近ずっと、胸の奥に引っかかっているものがある。ペルシアのこと。宇宙管理局のこと。自分が“もうS級じゃない”こと。何もできないもどかしさ。

 

 それでも、走っている間だけは、頭の雑音が少し減る。

 

「……まだ行くぞ」

 

「え」

 

「まだ」

 

「いや、ちょっと待って……僕……今……生命の危機を……」

 

「死なない」

 

「死ぬって!」

 

 ハワードは大げさに天を仰いだ。だが、足はちゃんと前へ出る。さっきよりも少しだけフォームを意識して、肩を落として、腕を振ろうとする。

 

 リュウジは、そんなハワードを横目で見て、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

「……いい」

 

「え? なにが?」

 

「今の腕の振り、少しマシだ」

 

「ほんと!?」

 

 ハワードは嬉しそうに声を上げ、そしてすぐ後悔した。嬉しくて力が入り、ペースが乱れる。

 

「うわっ……っ、待って……!」

 

「落ち着け」

 

「落ち着けって言われて落ち着けたら苦労しない!」

 

 リュウジは何も言わず、少しだけペースを整えた。ハワードがギリギリついて来られる“ギリギリ”の速度。逃げ道は作らないが、切り捨てもしない。

 

 その絶妙な距離が、ハワードには嬉しかった。

 

(……ああ、こういうのだ)

 

 サヴァイヴの時、リュウジは誰にも優しくなかった……ように見えて、実は誰よりも“置いていかない”男だった。

 

 文句を言う。冷たいことを言う。だが、ギリギリのところで、必ず“生きる方”に連れていく。

 

「……リゅ、リュウジ……!」

 

「何だ」

 

「僕、今日……倒れないから……!」

 

「倒れる前提で走るな」

 

「……っ、はぁ……っ、僕は……宣言してるんだよ……!」

 

「なら黙って証明しろ」

 

 その言葉は、妙に胸に刺さった。

 

 ハワードは、苦しくても笑った。苦しくても、走った。

 

 サヴァイヴの仲間たちに会えるのは三日間だけだった。けれど、その三日間の中でハワードは確かに“変わった”と思う。

 

 そして今――その変化は、こうして足音になって、リュウジの隣を叩いている。

 

 走る。息が切れる。喉が痛い。脚が重い。

 

 それでも、止まらない。

 

 リュウジがふと、短く言った。

 

「……いいぞ、ハワード」

 

「え……?」

 

「さっきより、ついて来てる」

 

 ハワードの目が見開かれる。褒められたのが信じられないという顔。

 

「……い、いま……褒めた?」

 

「褒めてない」

 

「褒めた!」

 

「褒めてない」

 

「褒めたって!」

 

 ハワードは笑って、また息が乱れた。

 

「うわっ……っ、笑ったら死ぬ……!」

 

「だから黙れ」

 

「むり……!」

 

 朝の光が、二人の背中を薄く照らしていく。

 

 リュウジの足音は変わらない。ハワードの足音は乱れている。それでも、その差は少しずつ縮まっていく気がした。

 

 そしてリュウジは、気づかれないように思う。

 

 ――こういう朝なら、悪くない。

 

 胸の奥の重いものは消えない。だが、走っている間だけは、確かに“前に進める”。

 

 ハワードの息は切れ切れだったが、声だけは妙に明るかった。

 

「……僕……っ、今日から……っ、ランニング……っ、やる……!」

 

「三日坊主だろ」

 

「ちがう! 僕は……っ、役者……っ、だぞ……!」

 

「意味が分からん」

 

「分かれよ……!」

 

 そのやり取りが、朝の静けさの中で妙に温かく響いていた。

 

 

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