ソリア学園の朝。
まだ廊下の空気に夜の名残がある時間帯、教室へ向かう生徒たちの足音が、磨かれた床に乾いたリズムを刻んでいた。
リュウジが自分の席に鞄を置き、椅子の背を軽く引いた――その瞬間だった。
「おはよう」
凛とした声がすぐ近くで響く。振り向くまでもなく分かる。メノリだ。
「おはよう」
リュウジが短く返すと、メノリは腕を組み、表情を崩さずに間合いを詰めてきた。生徒会長としての癖なのか、あるいは彼女の素なのか、要件の切り出しが早い。
「ハワードはどうだ?」
「……フッ」
リュウジが鼻で笑うと、メノリの眉が一瞬だけ跳ねた。
「ハワードが気になるのか?」
「別にそういう訳ではない!」
メノリはきっぱり言い返す。声は大きくないのに、言い切る圧がある。リュウジは肩をすくめた。
「そうか。……今朝、一緒にランニングした」
「ランニング? ハワードが、か?」
メノリは半信半疑の顔をする。リュウジは頷いた。
「身体を動かすのもアクションをこなすハワードには必要だそうだ」
「……少しは頑張っているようだな」
メノリは安心したように小さく頷いた。口調はいつもの“だろ”調に戻っているが、目の奥の緊張がほんの少し緩むのが分かった。
リュウジはそのまま、何でもないように続ける。
「ああ。家に戻ってからの方が大変だった」
「大変?」
メノリが首を傾げる。リュウジは、口元に薄い笑みを浮かべた。
「朝ごはん作るって聞かなくてな」
「……それは大変だったな」
メノリは額に手を当て、同情の眼差しを向けた。まるで“嫌な未来”を一瞬で想像してしまったみたいに。
その反応が可笑しくて、リュウジは喉の奥で短く笑う。
「黒焦げスープ事件を思い出した」
「……あれは大変だったな」
メノリも苦笑した。笑ってしまったのが悔しいのか、すぐに咳払いをして視線を逸らす。
――黒焦げスープ事件。
***
サヴァイヴに漂着して、あの大いなる木に家を作り、ようやく“生活”という形が整い始めた頃のことだ。
飢えも、恐怖も、何も終わってはいなかった。けれど、皆が手を動かす手順を覚え、役割分担が自然と生まれ、朝が来れば「今日も生きてる」と確かめられるようになっていた。
その日も、いつもどおりの朝だった。
乾いた空気の中、簡素な朝食を囲んで、ルナが父の形見のリュックを背に掛けたまま皆を見渡す。彼女は疲れを見せないように笑って、けれど目の奥は常に周囲を測っている。仲間を守るための“リーダーの目”だった。
「じゃあ、ベルとシャアラはシャトルで塩作りをお願いね」
「分かったわ」
シャアラが頷き、隣でベルが穏やかに笑う。
「分かった。」
ベルは大柄な身体を少し縮めるようにして言った。気弱さは相変わらずだが、そこには逃げない芯があった。
「シンゴとチャコは通信機の修理をお願い」
「任せてよ!」
シンゴが軽い調子で親指を立てる。シンゴの目は、こういう時ほど生き生きしていた。
「分かったわ」
チャコは短く言って、身体を揺らした。
そしてルナは最後に、視線をリュウジたちへ向けた。
「リュウジとカオルとメノリとハワードは食料集めをお願いね」
「ああ」
カオルがぶっきらぼうに返す。
「分かった」
メノリが頷く。
リュウジは言葉を出さず、ただ頷いた。彼の“うなずき”は、余計な感情を混ぜない代わりに、決まれば動くという意味でもあった。
「面倒くさいなぁ」
ハワードが椅子にもたれ、あからさまに頬を膨らませた。
その瞬間だった。
「そうだ!」
ハワードが勢いよく立ち上がる。妙に目が輝いている。嫌な予感がする時の目だ、とメノリが眉をひそめたのが分かった。
「今日は僕が昼食を作るよ!」
「ええ!?」
全員が同時に声を上げた。危機を察知した動物のように。
「どういう風の吹き回しだ?」
メノリが怪訝そうに言う。
「なに、皆んなにはいつもお世話になっているから、僕が労ってやろうと思ってな!」
ハワードは胸を張る。言葉だけ聞けば立派だが、裏が透けて見える。
チャコがジト目で言った。
「どうせ、食料集めが面倒なだけやろ」
「何を! 僕は皆んなのためにだな!」
ハワードが声を強くする。すぐ熱くなるところはサヴァイヴでも変わらない。
「はい! そこまで!」
ルナが手を叩くように言って、場を切った。彼女の声は明るいのに、仲裁の芯は強い。
「じゃあ、ハワードの代わりに私が食料集めに行くわ」
「えっ」
空気が変わる。シャアラが不安そうに目を細めた。
「まだ熱が下がったばかりじゃない。大丈夫なの?」
「うん、あんまり無理しない方がいい」
ベルも同意する。
ルナは笑ってみせた。心配を受け取って、でも背負い込まないように。
「大丈夫だよ。もうすっかり元気だもん」
「リュウジとカオルとメノリと一緒なら大丈夫だよ」
シンゴが無邪気に言う。信頼の言葉だった。
「ルナは補助をしてくれればいい」
カオルが、ぶっきらぼうだが優しい線で言う。
「そうだな。危険な事はしなくていい」
メノリも頷く。ルナが無理をしないように、言い方を選んでいるのが分かる。
「そんなに心配しなくても、本当に大丈夫よ」
ルナは笑っていたが、メノリは首を横に振った。
「ダメだ。リュウジもそれでいいな」
メノリが横目でリュウジを見る。確認というより“命令に近い確認”だった。
「ああ」
リュウジは頷いた。内心では、ルナが無理をするのを止めることに異論はない。ただ――“止めた理由”を言葉にして、彼女を傷つけるのが面倒なだけだった。
ルナは少しだけ頬を緩めた。
「ふふっ、ありがとう。みんな」
そしてすぐ、話を前へ進める。
「じゃあ、行きましょうか! ハワード、頼んだわよ」
「おう! 楽しみにしとけよ!」
ハワードは勢いよく親指を立てた。なぜかやたら自信満々だ。
皆がそれぞれの作業に散っていく中、ハワードは一人、鍋の前に立ち尽くしていた。
「……何を作ろうか」
彼は顎に手を当て、料理人のような顔をする。だが、その目は“思いつき”の目だ。
「よし。スープだな。スープは万能だ」
なぜそうなる。
シャトルの部品で作った鍋――正確には“鍋に見える金属容器”――に水を張り、火にかける。火の扱いもまだ慣れていない。強火で良いのか弱火で良いのか、それすら曖昧だ。
「スープの中身って何がいいんだ?」
ハワードは周囲を見回し、作業台の上に置かれた食材(という名の獲物や果物)に目を留めた。
「……まぁ、てきとうに詰め込めばいいか」
そして彼は、ためらいなく果物と魚を同じ水へ放り込んだ。
チャコがいたら絶対止めていた。シンゴがいたら科学的に止めていた。メノリがいたら権力で止めていた。ルナがいたら笑顔で止めていた。
だが、その場には誰もいない。
「よし、後はちゃんと煮込めば終わりだな」
ハワードは勝利の笑みを浮かべ、鍋の前を離れた。
――離れた。
“煮込み”は“見守り”が必要だという基本を、彼は知らなかった。
一方その頃、森の中。
「リュウジ、そっちに回った!」
カオルの声が飛ぶ。前方、トビハネがぴょんぴょんと跳ねて逃げている。羽足だけで驚くほど距離を稼ぐ厄介な獲物だ。
「下がってろ」
リュウジは隣のルナを後ろへ下げた。ルナは素直に一歩退く。
「うん」
リュウジは槍を構える。呼吸を一つ吸い、狙いを定める。
投擲。
槍はまっすぐに空気を裂き、跳ねるトビハネの胴へ刺さった。獲物の動きが止まり、地面に沈む。
「見事だな」
メノリが小さく呟いた。彼女は褒め言葉を安売りしない。だから、こういう一言は重い。
「流石、リュウジだね」
ルナが笑う。
リュウジは気にした様子も見せず、トビハネに刺さった槍を抜いた。
「とりあえず捌こう」
「俺が行ってくる。川でやった方がいいだろ」
カオルが言う。
「そうだな。血の匂いでオオトカゲが来るかもしれない」
メノリが続ける。
「それじゃあ、私とカオルでトビハネを処理してくる。ルナとリュウジは果物を探しながらみんなの家に戻っていてくれ」
「分かった」
リュウジは頷き、ルナに一瞬視線を向けてから、森の奥へ歩き出した。
帰り道、ルナは時折、木の上を見上げていた。果物を探している――というより、森の気配を確認しているようにも見える。
リュウジは果物を探しつつ、結局見つけられないまま、ルナの歩調に合わせていた。無意識に。彼女が転ばない速度に。危険があれば間に入れる距離に。
それに気づいたルナが、困ったように笑う。
「えーと……私、邪魔かな?」
「そんな事はない」
リュウジは足を止めずに呟いた。
「そ、そう?」
「ああ」
「……そっか」
ルナはリュウジの背中を見つめた。
(これ、リュウジなりの優しさなんだ)
そう思った。けれど、「ありがとう」と言えば、彼はきっと誤魔化す。だからルナは口を紡ぎ、ただ後ろをついていった。
しばらく歩き、大いなる木が近づいたところで――リュウジの足が止まった。
「どうしたの?」
「……何か匂うな」
「え?」
ルナも鼻をひくつかせる。焦げ臭い匂いが、風に乗って刺さってきた。
「まさか……火事!?」
「急ごう」
二人は走った。
大いなる木に辿り着くと、別の森からベルとシャアラが駆けてきた。家からはシンゴとチャコが慌てた様子で飛び出してくる。皆、同じ匂いを嗅いで反応したのだ。
視線が集まる先――鍋。
鍋から黒い煙が上がっていた。もはや“料理”ではない。金属が焼ける匂いだ。
「ハワード!」
ルナが叫ぶ。
「おお、ルナじゃないか!」
ハワードは屈託なく笑い、手を振った。笑ってる場合じゃない。
「ハワード! 鍋だ!」
ベルが声を張る。普段の彼からは珍しい強さだった。
「鍋?」
ハワードがのんびり鍋へ視線を向け――次の瞬間。
「なんだこれ!?」
ようやく現実に気づいた。
「アカン火事や! シンゴ水や!」
チャコが叫ぶ。声が荒くなる時は、大体ロクなことが起きていない。
「ちょっと待ってて!」
シンゴがバタバタと走り去る。
「まったく……」
リュウジは呆れたように言いながら、近くのバケツに水を汲み、鍋へぶちまけた。
ジュウッ!
嫌な音と白い蒸気。火は消えた。
「ああ、僕の鍋がぁ……」
ハワードが泣きそうな声を出す。
「何が僕の鍋や!! 燃えとるやないか!」
チャコが怒鳴る。
「底まで抜けてるよ」
シャアラが鍋の底を見て呟いた。冷静な観察が逆に怖い。
「これじゃあ食べられないね」
ベルが苦笑する。
「だいたい、側にいたのに何で気づかないんだよ」
シンゴが戻ってきて呆れた顔で言う。
「え? あはは」
ハワードが笑って誤魔化す。
「まぁまぁ」
ルナが間に入る。責めすぎないように、空気を折るように。
「ハワードだってワザとやった訳じゃないんだから」
「せやけどなぁ……」
チャコが頭を掻く。
「そうそう! 僕は皆んなのためにだな!」
ハワードがなおも言い張る。
ルナはにこっと笑って、最強の指示を出した。
「だからハワード、みんなの為にシャトルから鍋の代わりを取ってきてね」
「え?」
ハワードの顔が固まる。
「いいわね、ハワード!」
ルナの笑顔は明るい。だが、拒否権はない。
「は、はい……」
ハワードはがっくり肩を落として返事をした。
いつの間にかメノリとカオルが戻ってきていた。
そしてその背中を見ながら、メノリはぼそっと言った。
「自業自得だろ」
カオルは「……まあな」と短く同意し、ベルは「俺も手伝うよ」と言い、シャアラは「次は見張り役を決めようね」と真面目に提案し、シンゴは「温度管理って知ってる?」と容赦なく追撃し、チャコは「メノリ、あいつほんまアホやな」と呆れ、ルナは苦笑しながらも全員が無事だったことに胸を撫で下ろした。
そしてリュウジは、誰にも聞こえないくらい小さく息を吐いた。
――火事にならなくて良かった。
“サヴァイヴ”では、火事は笑い話では済まない。家も、食料も、命も、一瞬で失う。
だからこそ、ルナが笑って場を丸くしたことも、皆が本気で焦げ臭さに反応したことも、全部が“生き延びた結果”だった。
***
現在に戻る。
ソリア学園の廊下には、平和な騒がしさがある。あの森の音とは違う、日常の音。
メノリとリュウジは、互いにほんの少しだけ笑みを浮かべていた。
「あの時の二の舞にならなくて良かったな」
メノリが言う。口調は強いが、目が柔らかい。
「ああ。こっちじゃ大事だ」
リュウジが言う。
“こっち”――つまりコロニーでは、黒焦げスープでも死にはしない。けれど、大事になればニュースになるし、下手をすれば学校も住居も巻き込む。何より、あの頃のように“笑って済ませるために必死になる”必要はないはずなのに。
メノリは腕を組み直し、ふっと息を吐いた。
「止めたのか?」
「止めた」
「止まったのか?」
「……止まらない」
「だろうな」
メノリは納得したように頷いた。ハワードという男の性格を、メノリはよく知っている。
「だが……お前が笑うとは珍しいな」
メノリが不意に言う。リュウジは一瞬だけ目を伏せた。
「笑ったか?」
「笑っていた。今朝の話の時もな」
「……気のせいだ」
「気のせいではない」
メノリは言い切る。生徒会長の断定は強い。
リュウジは軽く肩をすくめ、視線を窓の方へやった。朝の光が、校舎の外側を白く塗っている。
笑っている――たぶん、笑っている。
けれどそれは、昔みたいに何も考えずに出る笑いじゃない。
ハワードが必死に走る姿が、少し眩しくて。
黒焦げスープ事件みたいな“笑える失敗”が、今はただ懐かしくて。
そしてどこかで――
“取り戻せないもの”を思い出してしまうから。
メノリはリュウジの横顔を見つめ、言葉を少し選ぶようにしてから言った。
「……まあいい。少なくともハワードは、前に進んでいるだろ」
「ああ」
リュウジは短く答えた。答えながら、自分にも言い聞かせるみたいに。
前に進め。
進むと決めたなら、足を止めるな。
その時、教室の向こうから聞き慣れた声が響いた。
「メノリ、ルナが呼んでたよー。なんか相談したい事があるって」
シンゴだ。いつも通りの軽い口調で、メノリにも普通に言う。
「分かった。すぐ行く」
メノリは頷き、リュウジを見た。
「では私は行く。……ハワードの朝食は、次は止めろ」
「努力はする」
「努力で済むなら苦労しないだろ」
「……だな」
メノリはふっと笑って、歩き出した。
リュウジはその背中を見送り、教室の自分の席へ戻る。
ふと、あの焦げ臭い匂いが鼻先に蘇った気がして、リュウジは小さく息を吐いた。
――二の舞にならなくて良かった。
今度は、黒焦げじゃ済まないものがある。
そう思いながら、リュウジは窓の外の朝を、少しだけ長く見つめていた。
ーーーー
学校が終わり、夕方の光が窓から斜めに差し込む頃。
ルナはリビングの机に向かっていた。端末に映る文字列を追いながら、時々、ペン先で机を軽く叩く。集中している時の癖だ。
机の端には、父の形見のリュックがいつものように置かれている。何度も肩に掛けて、何度も手で整えて、今もそこにあるだけで、ルナの背中を支えてくれている気がした。
「……よし、ここは大丈夫」
ルナが小さく呟いた、その時だった。
ピンポーン、とインターホンが鳴る。
勉強の糸がふっと切れて、ルナは顔を上げた。こんな時間に誰だろう。近所の配達ならチャコが先に反応するはずなのに、今日は妙に静かだ。
いや、背後でチャコの声がした。
「ウチがでようか?」
チャコが、声を掛けてくる。ソファの背もたれにちょこんと乗っていた。
「ううん、私が出るわ」
ルナは椅子を引き、立ち上がる。勉強を中断するのは少し惜しいけれど、誰かが来たなら応対しないといけない。
廊下を歩き、玄関へ向かう。スリッパの音が小さく響く。ドアスコープ越しに覗くまでもなく、扉の向こうから“気配”が分かった。
軽い足取り。妙に元気な呼吸。間違いない。
ルナが扉を開けると、そこには――
「やあ!」
ハワードが立っていた。
いつもどおりの笑顔。いつもどおりの派手さ。けれど、その目の奥だけが、いつもより少し真面目だった。
「あれ? どうしたの、ハワード?」
ルナは驚きながらも笑みを返す。会うのは昨日の集合以来だ。彼は三日間コロニーにいると言っていたはずなのに、どうしてわざわざ家に?
「帰る前に話をしようと思ってな」
「帰る? 三日間はこっちにいるんじゃないの?」
ルナの言葉に、ハワードは肩をすくめた。まるで「予定は予定」とでも言うみたいに。
「最初はそのつもりだったんだけどな」
「……何かあったの?」
ルナの声が自然と柔らかくなる。ハワードはお調子者だ。でも、こういう“言いにくい話”をする時の彼は、妙に真っ直ぐになる。
ハワードは少し笑って、頭の後ろを掻いた。
「昨日の夜、リュウジと一緒に演劇のDVDを観てたらな」
ルナの胸が、ほんの少しだけ緩む。
ああ、きっとハワードらしい理由だ。
「早く演劇がやりたくなってな」
そう言って、ハワードは声を弾ませた。目が子どものように輝く。舞台やカメラの前で生きる自分を想像して、心が先へ走ってしまうのだろう。
「……そう」
ルナは優しく微笑んだ。うまく言葉にできないけれど、夢がある人が、夢の方へ走っていくのは、きっと正しい。
「ルナにも今度、僕の演技を見せてやるからな」
ハワードは胸を張る。得意げな顔。やっぱりこの人はこうでないと、とルナは少しおかしくなる。
「ええ。楽しみにしてるわ」
ルナがそう返すと、ハワードは満足そうに頷いた。
そして――空気が変わった。
「それじゃあ、もう行くけど……」
ハワードの声が少し落ち着く。表情も、ほんの少しだけ真面目になる。ルナもそれに気づいて、笑みを弱めた。
「どうしたの?」
ルナが尋ねると、ハワードは一瞬、言葉を探すように視線を逸らした。夜の廊下みたいに、わずかな間が伸びる。
それからハワードは、ルナをまっすぐ見た。
「リュウジは、何かあったのか?」
その問いは、思ったより鋭かった。
ルナの胸が軽く痛んだ。針でちくりと刺されたような、薄い痛み。痛いのに、どこか冷たい。自分でも気づかないふりをしてきた“違和感”を、言葉にされてしまった痛みだ。
「……」
ルナは一瞬、息を止めた。
“何もない”と言えばいいのかもしれない。
“気のせい”と言えば楽になれるのかもしれない。
でも、ハワードは続けた。
「僕が気づかないと思ったか?」
ルナは小さく目を見開く。
ハワードは、普段は鈍い。空気が読めない。騒がしい。目立つ。だからこそ、彼がこういうことを言う時は、本当に見ている時だ。
「……ハワード」
「なあ、ルナ」
ハワードは、普段の軽い口調を捨てていた。いつものふざけた調子じゃない。仲間を笑わせるための声じゃなくて、仲間を守るための声だ。
「リュウジ、おかしいだろ」
ルナは、胸の奥の痛みを押さえるみたいに唇を噛んだ。
“おかしい”という言葉が、乱暴に感じた。リュウジは壊れてなんかいない。弱くなんかない。彼はいつだって――
でも。
思い出す。
夏休みの終わりに見た、彼の作り笑い。
柔道場で殴り合っていた時の、焦点の合わない目。
教室で腫れた顔をして入ってきたのに、平然と「転んだだけだ」と言った声。
あの笑顔は、薄かった。薄くて、悲しさを含んでいた。
そして――ペルシアの件。
あの電話の切れた後のリュウジの顔。
S級じゃないが故に、何もできないと噛みしめていた背中。
ルナはゆっくり息を吐いた。
「……何か隠している事があるんだと思う」
言葉にしてしまった瞬間、胸が少しだけ軽くなった気もした。だけど同時に、怖さも増した。口にしたことで、現実が輪郭を持ってしまう。
ルナは続けた。声が震えないように、できるだけ穏やかに。
「でもね、ハワード……」
ルナは玄関の外の夕暮れを見た。遠くの空が薄紫に染まり始めている。いつかのサヴァイヴの夕暮れと似ている。あの頃も、先が見えなくて、それでも前へ進んだ。
「私は……リュウジを信じてる」
ハワードが黙って聞いている。
ルナは、言葉を選びながら、だけど嘘はつかないように話す。
「リュウジは、全部を一人で抱える癖があるの。誰にも頼らないで、自分で片付けようとする」
ルナは苦笑する。
「それが強さでもあるけど、時々……苦しくなる」
ハワードが小さく頷く。思い当たることがあるのだろう。
「だから、何か隠しているなら、きっと“誰かを傷つけたくない”とか、“巻き込みたくない”とか……そういう理由だと思うの」
ルナは、言いながら自分に言い聞かせていた。
リュウジは冷たい口調で距離を置く。けれど、根っこは優しい。優しいからこそ、言えないことがある。言ってしまえば、誰かが傷つく気がして、黙ってしまう。
ハワードは玄関の上の灯りを見上げて、鼻で息を吐いた。
「……お前、ほんと、まっすぐだな」
「え?」
ルナがきょとんとすると、ハワードは笑った。
でもその笑いは、いつもの“ふざけた笑い”じゃない。
どこか、安心した笑いだった。
「ルナがそう言うなら、僕も少しは信じる」
ハワードはそう言って、すぐに眉を寄せた。
「でもな、信じるのと、放っておくのは違うだろ」
ルナは言葉を失う。
その通りだった。ルナは信じたい。でも信じたいからといって、何もしないのは違う。リュウジが苦しんでいるなら――
ハワードは、ルナの視線を受け止めて、真面目なまま言った。
「リュウジには……ルナが必要だ」
ルナの胸が、またちくりと痛んだ。
“必要”。
その言葉は嬉しいのに、怖い。
自分が“必要”だなんて言われたら、リュウジがいないと自分が崩れるみたいで。逆に、自分がいないとリュウジが崩れるみたいで。
そんな重たい意味を、ハワードが簡単に言うはずがない。だからこそ、ルナは戸惑った。
「……どうして、そう思うの?」
ルナが尋ねると、ハワードは肩を落として、少しだけ苦笑した。
「僕はさ、最初、リュウジのことムカつくやつって思ってた」
ルナは息を呑む。ハワードは続ける。
「悲劇のフライトの真実なんて知らなかったし、冷たくて、距離を置いて、正しいことしか言わないやつで……」
ハワードは、玄関の床に視線を落とした。
「でも、サヴァイヴで見ただろ。あいつ、口では冷たいこと言うのに、結局、仲間を守る」
ルナの胸がじんわり熱くなる。
ハワードの言葉は、時々、核心を突く。
「ルナが倒れそうな時、誰より先に気づくのも、だいたいあいつだった」
ルナの頬がほんのり熱くなる。思い返すと、確かにそういう瞬間がいくつもあった。自分では平気なふりをして、皆のために笑っていた時――リュウジだけが、目の奥の揺れを見抜いた気がした。
「なのに今は……」
ハワードは唇を噛んだ。
「今は、あいつが倒れそうなんだよ」
ルナは言葉を失う。
ハワードがここまで真剣に言うのは珍しい。彼は仲間を笑わせることで守るタイプだ。だけど今、笑いじゃ足りないと感じている。
「僕が昨日、あいつとDVD見てた時もさ」
ハワードは小さく笑う。思い出したように。
「僕の演技で、あいつ、笑いを堪えてた」
「……笑ってたの?」
ルナが思わず聞くと、ハワードは頷いた。
「笑ってた。でもな……笑い方が、なんか変だった」
ルナの胸が締め付けられる。
ハワードは続けた。
「無理して笑ってるっていうか、笑う場所じゃないっていうか……いや、僕の演技は最高なんだけど」
「そこは譲らないのね」
ルナが苦笑すると、ハワードも少しだけ調子を戻す。だがすぐに真面目に戻った。
「……ルナ」
ハワードはまっすぐ言った。
「お前がそばにいると、リュウジは戻ってくるんだよ」
戻ってくる。
その言葉が、ルナの胸に落ちる。
リュウジは“戻る”必要があるほど、どこかへ行ってしまいそうなのか。
ルナは怖くなった。だけど、同時に、決意も湧いた。
「私……」
ルナは、自分の手を握った。小さく、力を込める。
「私は、リュウジを信じてる。だから、待つ」
ハワードが眉を上げる。
「でも、待つだけじゃなくて――」
ルナは顔を上げた。涙は出ない。泣くのは簡単だ。でも、泣いて終わるなら、リーダーじゃない。
「リュウジが話してくれるように、ちゃんと“ここにいる”」
ハワードは、しばらく黙っていた。
そして、ふっと笑った。
「……やっぱりルナだな」
「え?」
「お前、ほんとに、変わらない」
ハワードはそう言って、少し照れたように視線を逸らした。
「僕はさ、帰る。早く演劇やりたいから」
「うん」
「でも、最後に言いたかったんだ」
ハワードは玄関の外へ一歩出て、振り返った。
「リュウジがもし、どこかへ行こうとしても」
その言葉に、ルナの心臓がきゅっと鳴る。
「ルナが引き止めろ」
ハワードは真っ直ぐ言った。
「引き止めるって、無理やりじゃない。……リュウジが帰ってこられる場所を、ちゃんと作ってやれ」
ルナは、胸の奥が熱くなった。ハワードの言葉は、不器用だけど、優しい。
「……うん」
ルナは頷いた。
「ありがとう、ハワード」
ハワードは照れ隠しみたいに鼻を鳴らした。
「礼はいい。僕は僕で忙しいからな。未来の大スターだぞ」
「はいはい」
ルナが笑うと、ハワードも笑った。
そして、少しだけ真面目な声で言う。
「ルナ。リュウジのこと、頼んだ」
「……うん。任せて」
ルナがそう答えると、ハワードは満足そうに頷き、廊下の先へ歩き出した。
玄関の扉を閉めた後、ルナはしばらくその場に立ち尽くしていた。
背後から、チャコの声がする。
「……ルナ」
「うん」
ルナは短く返す。
チャコは少しだけ言葉を探すように、間を置いた。
「リュウジのこと、ほんまに心配なんやな」
「……心配だよ」
ルナは小さく笑った。笑ったつもりなのに、喉が少しだけ震えた。
「でも、信じてる」
その言葉は、呪文みたいだった。
信じる。
それは、相手を縛ることじゃない。
相手が弱くなっても、離れないって決めること。
ルナは窓の外の夕暮れを見つめた。
薄紫の空に、コロニーの灯りが一つずつ点いていく。
(大丈夫)
ルナは自分に言い聞かせる。
(私は、信じてる。)
もう一度ペンを握った。
勉強に戻る。
未来のために。
自分の夢のために。
そして、リュウジが戻ってくるための“今”を、守るために。