サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

101 / 181
黒焦げスープ事件

 ソリア学園の朝。

 

 まだ廊下の空気に夜の名残がある時間帯、教室へ向かう生徒たちの足音が、磨かれた床に乾いたリズムを刻んでいた。

 

 リュウジが自分の席に鞄を置き、椅子の背を軽く引いた――その瞬間だった。

 

「おはよう」

 

 凛とした声がすぐ近くで響く。振り向くまでもなく分かる。メノリだ。

 

「おはよう」

 

 リュウジが短く返すと、メノリは腕を組み、表情を崩さずに間合いを詰めてきた。生徒会長としての癖なのか、あるいは彼女の素なのか、要件の切り出しが早い。

 

「ハワードはどうだ?」

 

「……フッ」

 

 リュウジが鼻で笑うと、メノリの眉が一瞬だけ跳ねた。

 

「ハワードが気になるのか?」

 

「別にそういう訳ではない!」

 

 メノリはきっぱり言い返す。声は大きくないのに、言い切る圧がある。リュウジは肩をすくめた。

 

「そうか。……今朝、一緒にランニングした」

 

「ランニング? ハワードが、か?」

 

 メノリは半信半疑の顔をする。リュウジは頷いた。

 

「身体を動かすのもアクションをこなすハワードには必要だそうだ」

 

「……少しは頑張っているようだな」

 

 メノリは安心したように小さく頷いた。口調はいつもの“だろ”調に戻っているが、目の奥の緊張がほんの少し緩むのが分かった。

 

 リュウジはそのまま、何でもないように続ける。

 

「ああ。家に戻ってからの方が大変だった」

 

「大変?」

 

 メノリが首を傾げる。リュウジは、口元に薄い笑みを浮かべた。

 

「朝ごはん作るって聞かなくてな」

 

「……それは大変だったな」

 

 メノリは額に手を当て、同情の眼差しを向けた。まるで“嫌な未来”を一瞬で想像してしまったみたいに。

 

 その反応が可笑しくて、リュウジは喉の奥で短く笑う。

 

「黒焦げスープ事件を思い出した」

 

「……あれは大変だったな」

 

 メノリも苦笑した。笑ってしまったのが悔しいのか、すぐに咳払いをして視線を逸らす。

 

 ――黒焦げスープ事件。

 

***

 

 サヴァイヴに漂着して、あの大いなる木に家を作り、ようやく“生活”という形が整い始めた頃のことだ。

 

 飢えも、恐怖も、何も終わってはいなかった。けれど、皆が手を動かす手順を覚え、役割分担が自然と生まれ、朝が来れば「今日も生きてる」と確かめられるようになっていた。

 

 その日も、いつもどおりの朝だった。

 

 乾いた空気の中、簡素な朝食を囲んで、ルナが父の形見のリュックを背に掛けたまま皆を見渡す。彼女は疲れを見せないように笑って、けれど目の奥は常に周囲を測っている。仲間を守るための“リーダーの目”だった。

 

「じゃあ、ベルとシャアラはシャトルで塩作りをお願いね」

 

「分かったわ」

 

 シャアラが頷き、隣でベルが穏やかに笑う。

 

「分かった。」

 

 ベルは大柄な身体を少し縮めるようにして言った。気弱さは相変わらずだが、そこには逃げない芯があった。

 

「シンゴとチャコは通信機の修理をお願い」

 

「任せてよ!」

 

 シンゴが軽い調子で親指を立てる。シンゴの目は、こういう時ほど生き生きしていた。

 

「分かったわ」

 

 チャコは短く言って、身体を揺らした。

 

 そしてルナは最後に、視線をリュウジたちへ向けた。

 

「リュウジとカオルとメノリとハワードは食料集めをお願いね」

 

「ああ」

 

 カオルがぶっきらぼうに返す。

 

「分かった」

 

 メノリが頷く。

 

 リュウジは言葉を出さず、ただ頷いた。彼の“うなずき”は、余計な感情を混ぜない代わりに、決まれば動くという意味でもあった。

 

「面倒くさいなぁ」

 

 ハワードが椅子にもたれ、あからさまに頬を膨らませた。

 

 その瞬間だった。

 

「そうだ!」

 

 ハワードが勢いよく立ち上がる。妙に目が輝いている。嫌な予感がする時の目だ、とメノリが眉をひそめたのが分かった。

 

「今日は僕が昼食を作るよ!」

 

「ええ!?」

 

 全員が同時に声を上げた。危機を察知した動物のように。

 

「どういう風の吹き回しだ?」

 

 メノリが怪訝そうに言う。

 

「なに、皆んなにはいつもお世話になっているから、僕が労ってやろうと思ってな!」

 

 ハワードは胸を張る。言葉だけ聞けば立派だが、裏が透けて見える。

 

 チャコがジト目で言った。

 

「どうせ、食料集めが面倒なだけやろ」

 

「何を! 僕は皆んなのためにだな!」

 

 ハワードが声を強くする。すぐ熱くなるところはサヴァイヴでも変わらない。

 

「はい! そこまで!」

 

 ルナが手を叩くように言って、場を切った。彼女の声は明るいのに、仲裁の芯は強い。

 

「じゃあ、ハワードの代わりに私が食料集めに行くわ」

 

「えっ」

 

 空気が変わる。シャアラが不安そうに目を細めた。

 

「まだ熱が下がったばかりじゃない。大丈夫なの?」

 

「うん、あんまり無理しない方がいい」

 

 ベルも同意する。

 

 ルナは笑ってみせた。心配を受け取って、でも背負い込まないように。

 

「大丈夫だよ。もうすっかり元気だもん」

 

「リュウジとカオルとメノリと一緒なら大丈夫だよ」

 

 シンゴが無邪気に言う。信頼の言葉だった。

 

「ルナは補助をしてくれればいい」

 

 カオルが、ぶっきらぼうだが優しい線で言う。

 

「そうだな。危険な事はしなくていい」

 

 メノリも頷く。ルナが無理をしないように、言い方を選んでいるのが分かる。

 

「そんなに心配しなくても、本当に大丈夫よ」

 

 ルナは笑っていたが、メノリは首を横に振った。

 

「ダメだ。リュウジもそれでいいな」

 

 メノリが横目でリュウジを見る。確認というより“命令に近い確認”だった。

 

「ああ」

 

 リュウジは頷いた。内心では、ルナが無理をするのを止めることに異論はない。ただ――“止めた理由”を言葉にして、彼女を傷つけるのが面倒なだけだった。

 

 ルナは少しだけ頬を緩めた。

 

「ふふっ、ありがとう。みんな」

 

 そしてすぐ、話を前へ進める。

 

「じゃあ、行きましょうか! ハワード、頼んだわよ」

 

「おう! 楽しみにしとけよ!」

 

 ハワードは勢いよく親指を立てた。なぜかやたら自信満々だ。

 

 皆がそれぞれの作業に散っていく中、ハワードは一人、鍋の前に立ち尽くしていた。

 

「……何を作ろうか」

 

 彼は顎に手を当て、料理人のような顔をする。だが、その目は“思いつき”の目だ。

 

「よし。スープだな。スープは万能だ」

 

 なぜそうなる。

 

 シャトルの部品で作った鍋――正確には“鍋に見える金属容器”――に水を張り、火にかける。火の扱いもまだ慣れていない。強火で良いのか弱火で良いのか、それすら曖昧だ。

 

「スープの中身って何がいいんだ?」

 

 ハワードは周囲を見回し、作業台の上に置かれた食材(という名の獲物や果物)に目を留めた。

 

「……まぁ、てきとうに詰め込めばいいか」

 

 そして彼は、ためらいなく果物と魚を同じ水へ放り込んだ。

 

 チャコがいたら絶対止めていた。シンゴがいたら科学的に止めていた。メノリがいたら権力で止めていた。ルナがいたら笑顔で止めていた。

 

 だが、その場には誰もいない。

 

「よし、後はちゃんと煮込めば終わりだな」

 

 ハワードは勝利の笑みを浮かべ、鍋の前を離れた。

 

 ――離れた。

 

 “煮込み”は“見守り”が必要だという基本を、彼は知らなかった。

 

 一方その頃、森の中。

 

「リュウジ、そっちに回った!」

 

 カオルの声が飛ぶ。前方、トビハネがぴょんぴょんと跳ねて逃げている。羽足だけで驚くほど距離を稼ぐ厄介な獲物だ。

 

「下がってろ」

 

 リュウジは隣のルナを後ろへ下げた。ルナは素直に一歩退く。

 

「うん」

 

 リュウジは槍を構える。呼吸を一つ吸い、狙いを定める。

 

 投擲。

 

 槍はまっすぐに空気を裂き、跳ねるトビハネの胴へ刺さった。獲物の動きが止まり、地面に沈む。

 

「見事だな」

 

 メノリが小さく呟いた。彼女は褒め言葉を安売りしない。だから、こういう一言は重い。

 

「流石、リュウジだね」

 

 ルナが笑う。

 

 リュウジは気にした様子も見せず、トビハネに刺さった槍を抜いた。

 

「とりあえず捌こう」

 

「俺が行ってくる。川でやった方がいいだろ」

 

 カオルが言う。

 

「そうだな。血の匂いでオオトカゲが来るかもしれない」

 

 メノリが続ける。

 

「それじゃあ、私とカオルでトビハネを処理してくる。ルナとリュウジは果物を探しながらみんなの家に戻っていてくれ」

 

「分かった」

 

 リュウジは頷き、ルナに一瞬視線を向けてから、森の奥へ歩き出した。

 

 帰り道、ルナは時折、木の上を見上げていた。果物を探している――というより、森の気配を確認しているようにも見える。

 

 リュウジは果物を探しつつ、結局見つけられないまま、ルナの歩調に合わせていた。無意識に。彼女が転ばない速度に。危険があれば間に入れる距離に。

 

 それに気づいたルナが、困ったように笑う。

 

「えーと……私、邪魔かな?」

 

「そんな事はない」

 

 リュウジは足を止めずに呟いた。

 

「そ、そう?」

 

「ああ」

 

「……そっか」

 

 ルナはリュウジの背中を見つめた。

 

(これ、リュウジなりの優しさなんだ)

 

 そう思った。けれど、「ありがとう」と言えば、彼はきっと誤魔化す。だからルナは口を紡ぎ、ただ後ろをついていった。

 

 しばらく歩き、大いなる木が近づいたところで――リュウジの足が止まった。

 

「どうしたの?」

 

「……何か匂うな」

 

「え?」

 

 ルナも鼻をひくつかせる。焦げ臭い匂いが、風に乗って刺さってきた。

 

「まさか……火事!?」

 

「急ごう」

 

 二人は走った。

 

 大いなる木に辿り着くと、別の森からベルとシャアラが駆けてきた。家からはシンゴとチャコが慌てた様子で飛び出してくる。皆、同じ匂いを嗅いで反応したのだ。

 

 視線が集まる先――鍋。

 

 鍋から黒い煙が上がっていた。もはや“料理”ではない。金属が焼ける匂いだ。

 

「ハワード!」

 

 ルナが叫ぶ。

 

「おお、ルナじゃないか!」

 

 ハワードは屈託なく笑い、手を振った。笑ってる場合じゃない。

 

「ハワード! 鍋だ!」

 

 ベルが声を張る。普段の彼からは珍しい強さだった。

 

「鍋?」

 

 ハワードがのんびり鍋へ視線を向け――次の瞬間。

 

「なんだこれ!?」

 

 ようやく現実に気づいた。

 

「アカン火事や! シンゴ水や!」

 

 チャコが叫ぶ。声が荒くなる時は、大体ロクなことが起きていない。

 

「ちょっと待ってて!」

 

 シンゴがバタバタと走り去る。

 

「まったく……」

 

 リュウジは呆れたように言いながら、近くのバケツに水を汲み、鍋へぶちまけた。

 

 ジュウッ!

 

 嫌な音と白い蒸気。火は消えた。

 

「ああ、僕の鍋がぁ……」

 

 ハワードが泣きそうな声を出す。

 

「何が僕の鍋や!! 燃えとるやないか!」

 

 チャコが怒鳴る。

 

「底まで抜けてるよ」

 

 シャアラが鍋の底を見て呟いた。冷静な観察が逆に怖い。

 

「これじゃあ食べられないね」

 

 ベルが苦笑する。

 

「だいたい、側にいたのに何で気づかないんだよ」

 

 シンゴが戻ってきて呆れた顔で言う。

 

「え? あはは」

 

 ハワードが笑って誤魔化す。

 

「まぁまぁ」

 

 ルナが間に入る。責めすぎないように、空気を折るように。

 

「ハワードだってワザとやった訳じゃないんだから」

 

「せやけどなぁ……」

 

 チャコが頭を掻く。

 

「そうそう! 僕は皆んなのためにだな!」

 

 ハワードがなおも言い張る。

 

 ルナはにこっと笑って、最強の指示を出した。

 

「だからハワード、みんなの為にシャトルから鍋の代わりを取ってきてね」

 

「え?」

 

 ハワードの顔が固まる。

 

「いいわね、ハワード!」

 

 ルナの笑顔は明るい。だが、拒否権はない。

 

「は、はい……」

 

 ハワードはがっくり肩を落として返事をした。

 

 いつの間にかメノリとカオルが戻ってきていた。

 そしてその背中を見ながら、メノリはぼそっと言った。

 

「自業自得だろ」

 

 カオルは「……まあな」と短く同意し、ベルは「俺も手伝うよ」と言い、シャアラは「次は見張り役を決めようね」と真面目に提案し、シンゴは「温度管理って知ってる?」と容赦なく追撃し、チャコは「メノリ、あいつほんまアホやな」と呆れ、ルナは苦笑しながらも全員が無事だったことに胸を撫で下ろした。

 

 そしてリュウジは、誰にも聞こえないくらい小さく息を吐いた。

 

 ――火事にならなくて良かった。

 

 “サヴァイヴ”では、火事は笑い話では済まない。家も、食料も、命も、一瞬で失う。

 

 だからこそ、ルナが笑って場を丸くしたことも、皆が本気で焦げ臭さに反応したことも、全部が“生き延びた結果”だった。

 

 ***

 

 現在に戻る。

 

 ソリア学園の廊下には、平和な騒がしさがある。あの森の音とは違う、日常の音。

 

 メノリとリュウジは、互いにほんの少しだけ笑みを浮かべていた。

 

「あの時の二の舞にならなくて良かったな」

 

 メノリが言う。口調は強いが、目が柔らかい。

 

「ああ。こっちじゃ大事だ」

 

 リュウジが言う。

 

 “こっち”――つまりコロニーでは、黒焦げスープでも死にはしない。けれど、大事になればニュースになるし、下手をすれば学校も住居も巻き込む。何より、あの頃のように“笑って済ませるために必死になる”必要はないはずなのに。

 

 メノリは腕を組み直し、ふっと息を吐いた。

 

「止めたのか?」

 

「止めた」

 

「止まったのか?」

 

「……止まらない」

 

「だろうな」

 

 メノリは納得したように頷いた。ハワードという男の性格を、メノリはよく知っている。

 

「だが……お前が笑うとは珍しいな」

 

 メノリが不意に言う。リュウジは一瞬だけ目を伏せた。

 

「笑ったか?」

 

「笑っていた。今朝の話の時もな」

 

「……気のせいだ」

 

「気のせいではない」

 

 メノリは言い切る。生徒会長の断定は強い。

 

 リュウジは軽く肩をすくめ、視線を窓の方へやった。朝の光が、校舎の外側を白く塗っている。

 

 笑っている――たぶん、笑っている。

 

 けれどそれは、昔みたいに何も考えずに出る笑いじゃない。

 

 ハワードが必死に走る姿が、少し眩しくて。

 黒焦げスープ事件みたいな“笑える失敗”が、今はただ懐かしくて。

 

 そしてどこかで――

 

 “取り戻せないもの”を思い出してしまうから。

 

 メノリはリュウジの横顔を見つめ、言葉を少し選ぶようにしてから言った。

 

「……まあいい。少なくともハワードは、前に進んでいるだろ」

 

「ああ」

 

 リュウジは短く答えた。答えながら、自分にも言い聞かせるみたいに。

 

 前に進め。

 

 進むと決めたなら、足を止めるな。

 

 その時、教室の向こうから聞き慣れた声が響いた。

 

「メノリ、ルナが呼んでたよー。なんか相談したい事があるって」

 

 シンゴだ。いつも通りの軽い口調で、メノリにも普通に言う。

 

「分かった。すぐ行く」

 

 メノリは頷き、リュウジを見た。

 

「では私は行く。……ハワードの朝食は、次は止めろ」

 

「努力はする」

 

「努力で済むなら苦労しないだろ」

 

「……だな」

 

 メノリはふっと笑って、歩き出した。

 

 リュウジはその背中を見送り、教室の自分の席へ戻る。

 

 ふと、あの焦げ臭い匂いが鼻先に蘇った気がして、リュウジは小さく息を吐いた。

 

 ――二の舞にならなくて良かった。

 

 今度は、黒焦げじゃ済まないものがある。

 

 そう思いながら、リュウジは窓の外の朝を、少しだけ長く見つめていた。

 

ーーーー

 

 学校が終わり、夕方の光が窓から斜めに差し込む頃。

 

 ルナはリビングの机に向かっていた。端末に映る文字列を追いながら、時々、ペン先で机を軽く叩く。集中している時の癖だ。

 

 机の端には、父の形見のリュックがいつものように置かれている。何度も肩に掛けて、何度も手で整えて、今もそこにあるだけで、ルナの背中を支えてくれている気がした。

 

「……よし、ここは大丈夫」

 

 ルナが小さく呟いた、その時だった。

 

 ピンポーン、とインターホンが鳴る。

 

 勉強の糸がふっと切れて、ルナは顔を上げた。こんな時間に誰だろう。近所の配達ならチャコが先に反応するはずなのに、今日は妙に静かだ。

 

 いや、背後でチャコの声がした。

 

「ウチがでようか?」

 

 チャコが、声を掛けてくる。ソファの背もたれにちょこんと乗っていた。

 

「ううん、私が出るわ」

 

 ルナは椅子を引き、立ち上がる。勉強を中断するのは少し惜しいけれど、誰かが来たなら応対しないといけない。

 

 廊下を歩き、玄関へ向かう。スリッパの音が小さく響く。ドアスコープ越しに覗くまでもなく、扉の向こうから“気配”が分かった。

 

 軽い足取り。妙に元気な呼吸。間違いない。

 

 ルナが扉を開けると、そこには――

 

「やあ!」

 

 ハワードが立っていた。

 

 いつもどおりの笑顔。いつもどおりの派手さ。けれど、その目の奥だけが、いつもより少し真面目だった。

 

「あれ? どうしたの、ハワード?」

 

 ルナは驚きながらも笑みを返す。会うのは昨日の集合以来だ。彼は三日間コロニーにいると言っていたはずなのに、どうしてわざわざ家に?

 

「帰る前に話をしようと思ってな」

 

「帰る? 三日間はこっちにいるんじゃないの?」

 

 ルナの言葉に、ハワードは肩をすくめた。まるで「予定は予定」とでも言うみたいに。

 

「最初はそのつもりだったんだけどな」

 

「……何かあったの?」

 

 ルナの声が自然と柔らかくなる。ハワードはお調子者だ。でも、こういう“言いにくい話”をする時の彼は、妙に真っ直ぐになる。

 

 ハワードは少し笑って、頭の後ろを掻いた。

 

「昨日の夜、リュウジと一緒に演劇のDVDを観てたらな」

 

 ルナの胸が、ほんの少しだけ緩む。

 

 ああ、きっとハワードらしい理由だ。

 

「早く演劇がやりたくなってな」

 

 そう言って、ハワードは声を弾ませた。目が子どものように輝く。舞台やカメラの前で生きる自分を想像して、心が先へ走ってしまうのだろう。

 

「……そう」

 

 ルナは優しく微笑んだ。うまく言葉にできないけれど、夢がある人が、夢の方へ走っていくのは、きっと正しい。

 

「ルナにも今度、僕の演技を見せてやるからな」

 

 ハワードは胸を張る。得意げな顔。やっぱりこの人はこうでないと、とルナは少しおかしくなる。

 

「ええ。楽しみにしてるわ」

 

 ルナがそう返すと、ハワードは満足そうに頷いた。

 

 そして――空気が変わった。

 

「それじゃあ、もう行くけど……」

 

 ハワードの声が少し落ち着く。表情も、ほんの少しだけ真面目になる。ルナもそれに気づいて、笑みを弱めた。

 

「どうしたの?」

 

 ルナが尋ねると、ハワードは一瞬、言葉を探すように視線を逸らした。夜の廊下みたいに、わずかな間が伸びる。

 

 それからハワードは、ルナをまっすぐ見た。

 

「リュウジは、何かあったのか?」

 

 その問いは、思ったより鋭かった。

 

 ルナの胸が軽く痛んだ。針でちくりと刺されたような、薄い痛み。痛いのに、どこか冷たい。自分でも気づかないふりをしてきた“違和感”を、言葉にされてしまった痛みだ。

 

「……」

 

 ルナは一瞬、息を止めた。

 

 “何もない”と言えばいいのかもしれない。

 

 “気のせい”と言えば楽になれるのかもしれない。

 

 でも、ハワードは続けた。

 

「僕が気づかないと思ったか?」

 

 ルナは小さく目を見開く。

 

 ハワードは、普段は鈍い。空気が読めない。騒がしい。目立つ。だからこそ、彼がこういうことを言う時は、本当に見ている時だ。

 

「……ハワード」

 

「なあ、ルナ」

 

 ハワードは、普段の軽い口調を捨てていた。いつものふざけた調子じゃない。仲間を笑わせるための声じゃなくて、仲間を守るための声だ。

 

「リュウジ、おかしいだろ」

 

 ルナは、胸の奥の痛みを押さえるみたいに唇を噛んだ。

 

 “おかしい”という言葉が、乱暴に感じた。リュウジは壊れてなんかいない。弱くなんかない。彼はいつだって――

 

 でも。

 

 思い出す。

 

 夏休みの終わりに見た、彼の作り笑い。

 

 柔道場で殴り合っていた時の、焦点の合わない目。

 

 教室で腫れた顔をして入ってきたのに、平然と「転んだだけだ」と言った声。

 

 あの笑顔は、薄かった。薄くて、悲しさを含んでいた。

 

 そして――ペルシアの件。

 

 あの電話の切れた後のリュウジの顔。

 

 S級じゃないが故に、何もできないと噛みしめていた背中。

 

 ルナはゆっくり息を吐いた。

 

「……何か隠している事があるんだと思う」

 

 言葉にしてしまった瞬間、胸が少しだけ軽くなった気もした。だけど同時に、怖さも増した。口にしたことで、現実が輪郭を持ってしまう。

 

 ルナは続けた。声が震えないように、できるだけ穏やかに。

 

「でもね、ハワード……」

 

 ルナは玄関の外の夕暮れを見た。遠くの空が薄紫に染まり始めている。いつかのサヴァイヴの夕暮れと似ている。あの頃も、先が見えなくて、それでも前へ進んだ。

 

「私は……リュウジを信じてる」

 

 ハワードが黙って聞いている。

 

 ルナは、言葉を選びながら、だけど嘘はつかないように話す。

 

「リュウジは、全部を一人で抱える癖があるの。誰にも頼らないで、自分で片付けようとする」

 

 ルナは苦笑する。

 

「それが強さでもあるけど、時々……苦しくなる」

 

 ハワードが小さく頷く。思い当たることがあるのだろう。

 

「だから、何か隠しているなら、きっと“誰かを傷つけたくない”とか、“巻き込みたくない”とか……そういう理由だと思うの」

 

 ルナは、言いながら自分に言い聞かせていた。

 

 リュウジは冷たい口調で距離を置く。けれど、根っこは優しい。優しいからこそ、言えないことがある。言ってしまえば、誰かが傷つく気がして、黙ってしまう。

 

 ハワードは玄関の上の灯りを見上げて、鼻で息を吐いた。

 

「……お前、ほんと、まっすぐだな」

 

「え?」

 

 ルナがきょとんとすると、ハワードは笑った。

 

 でもその笑いは、いつもの“ふざけた笑い”じゃない。

 

 どこか、安心した笑いだった。

 

「ルナがそう言うなら、僕も少しは信じる」

 

 ハワードはそう言って、すぐに眉を寄せた。

 

「でもな、信じるのと、放っておくのは違うだろ」

 

 ルナは言葉を失う。

 

 その通りだった。ルナは信じたい。でも信じたいからといって、何もしないのは違う。リュウジが苦しんでいるなら――

 

 ハワードは、ルナの視線を受け止めて、真面目なまま言った。

 

「リュウジには……ルナが必要だ」

 

 ルナの胸が、またちくりと痛んだ。

 

 “必要”。

 

 その言葉は嬉しいのに、怖い。

 

 自分が“必要”だなんて言われたら、リュウジがいないと自分が崩れるみたいで。逆に、自分がいないとリュウジが崩れるみたいで。

 

 そんな重たい意味を、ハワードが簡単に言うはずがない。だからこそ、ルナは戸惑った。

 

「……どうして、そう思うの?」

 

 ルナが尋ねると、ハワードは肩を落として、少しだけ苦笑した。

 

「僕はさ、最初、リュウジのことムカつくやつって思ってた」

 

 ルナは息を呑む。ハワードは続ける。

 

「悲劇のフライトの真実なんて知らなかったし、冷たくて、距離を置いて、正しいことしか言わないやつで……」

 

 ハワードは、玄関の床に視線を落とした。

 

「でも、サヴァイヴで見ただろ。あいつ、口では冷たいこと言うのに、結局、仲間を守る」

 

 ルナの胸がじんわり熱くなる。

 

 ハワードの言葉は、時々、核心を突く。

 

「ルナが倒れそうな時、誰より先に気づくのも、だいたいあいつだった」

 

 ルナの頬がほんのり熱くなる。思い返すと、確かにそういう瞬間がいくつもあった。自分では平気なふりをして、皆のために笑っていた時――リュウジだけが、目の奥の揺れを見抜いた気がした。

 

「なのに今は……」

 

 ハワードは唇を噛んだ。

 

「今は、あいつが倒れそうなんだよ」

 

 ルナは言葉を失う。

 

 ハワードがここまで真剣に言うのは珍しい。彼は仲間を笑わせることで守るタイプだ。だけど今、笑いじゃ足りないと感じている。

 

「僕が昨日、あいつとDVD見てた時もさ」

 

 ハワードは小さく笑う。思い出したように。

 

「僕の演技で、あいつ、笑いを堪えてた」

 

「……笑ってたの?」

 

 ルナが思わず聞くと、ハワードは頷いた。

 

「笑ってた。でもな……笑い方が、なんか変だった」

 

 ルナの胸が締め付けられる。

 

 ハワードは続けた。

 

「無理して笑ってるっていうか、笑う場所じゃないっていうか……いや、僕の演技は最高なんだけど」

 

「そこは譲らないのね」

 

 ルナが苦笑すると、ハワードも少しだけ調子を戻す。だがすぐに真面目に戻った。

 

「……ルナ」

 

 ハワードはまっすぐ言った。

 

「お前がそばにいると、リュウジは戻ってくるんだよ」

 

 戻ってくる。

 

 その言葉が、ルナの胸に落ちる。

 

 リュウジは“戻る”必要があるほど、どこかへ行ってしまいそうなのか。

 

 ルナは怖くなった。だけど、同時に、決意も湧いた。

 

「私……」

 

 ルナは、自分の手を握った。小さく、力を込める。

 

「私は、リュウジを信じてる。だから、待つ」

 

 ハワードが眉を上げる。

 

「でも、待つだけじゃなくて――」

 

 ルナは顔を上げた。涙は出ない。泣くのは簡単だ。でも、泣いて終わるなら、リーダーじゃない。

 

「リュウジが話してくれるように、ちゃんと“ここにいる”」

 

 ハワードは、しばらく黙っていた。

 

 そして、ふっと笑った。

 

「……やっぱりルナだな」

 

「え?」

 

「お前、ほんとに、変わらない」

 

 ハワードはそう言って、少し照れたように視線を逸らした。

 

「僕はさ、帰る。早く演劇やりたいから」

 

「うん」

 

「でも、最後に言いたかったんだ」

 

 ハワードは玄関の外へ一歩出て、振り返った。

 

「リュウジがもし、どこかへ行こうとしても」

 

 その言葉に、ルナの心臓がきゅっと鳴る。

 

「ルナが引き止めろ」

 

 ハワードは真っ直ぐ言った。

 

「引き止めるって、無理やりじゃない。……リュウジが帰ってこられる場所を、ちゃんと作ってやれ」

 

 ルナは、胸の奥が熱くなった。ハワードの言葉は、不器用だけど、優しい。

 

「……うん」

 

 ルナは頷いた。

 

「ありがとう、ハワード」

 

 ハワードは照れ隠しみたいに鼻を鳴らした。

 

「礼はいい。僕は僕で忙しいからな。未来の大スターだぞ」

 

「はいはい」

 

 ルナが笑うと、ハワードも笑った。

 

 そして、少しだけ真面目な声で言う。

 

「ルナ。リュウジのこと、頼んだ」

 

「……うん。任せて」

 

 ルナがそう答えると、ハワードは満足そうに頷き、廊下の先へ歩き出した。

 

 玄関の扉を閉めた後、ルナはしばらくその場に立ち尽くしていた。

 

 背後から、チャコの声がする。

 

「……ルナ」

 

「うん」

 

 ルナは短く返す。

 

 チャコは少しだけ言葉を探すように、間を置いた。

 

「リュウジのこと、ほんまに心配なんやな」

 

「……心配だよ」

 

 ルナは小さく笑った。笑ったつもりなのに、喉が少しだけ震えた。

 

「でも、信じてる」

 

 その言葉は、呪文みたいだった。

 

 信じる。

 

 それは、相手を縛ることじゃない。

 

 相手が弱くなっても、離れないって決めること。

 

 ルナは窓の外の夕暮れを見つめた。

 

 薄紫の空に、コロニーの灯りが一つずつ点いていく。

 

(大丈夫)

 

 ルナは自分に言い聞かせる。

 

(私は、信じてる。)

 

もう一度ペンを握った。

 

 勉強に戻る。

 

 未来のために。

 

 自分の夢のために。

 

 そして、リュウジが戻ってくるための“今”を、守るために。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。