サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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決意

 秋は、気づけば足早に通り過ぎていた。

 

 ロカA2のコロニーは季節の設定が明確で、空調も照明も香りさえも“冬”を演出する。通学路の街路樹は落葉し、朝の空気は少しだけ刺すように冷たい。吐く息が白くなるほどではないのに、頬の内側が乾く。制服の襟を指で整えたくなる、そんな季節だった。

 

 ルナは教室の窓から校庭を見下ろして、ふと肩をすくめた。

 

「寒くなったね」

 

 独り言みたいに呟いた声は、誰に届くでもなくガラスに吸い込まれる。隣の席には、もうカオルもハワードもいない。あの空席が当たり前になったはずなのに、冬の空気は時々、心まで冷やす。空いている椅子は、何かを思い出させるのが上手だった。

 

 放課後。

 

 ルナは廊下の掲示板に貼り出された連絡事項を確認してから、帰り支度を始めた。今日は特別な用事はない。メノリの手伝いも頼まれていないし、シャアラと寄り道の約束もしていない。ルナは父の形見のリュックを肩に掛け、チャコが入っていないことを改めて確認するみたいに、ファスナーの位置を指でなぞった。

 

 そのまま昇降口へ向かう途中だった。

 

「……ルナさん」

 

 背後から呼び止められる声。

 

 ルナは足を止めた。

 

 振り向くと、少し緊張した顔の男子生徒が立っていた。同学年か、少し上か。名前は――たしか、同じクラスではない。体育で何度か見たことがある気がする。真面目そうな雰囲気で、普段は目立たないタイプ。でも、今日は違う。

 

 手が震えている。

 

 制服の袖口を、ぎゅっと掴んでいる。

 

 目が、まっすぐルナを見ている。

 

 その視線に、ルナはすぐ察してしまった。

 

 こういう空気は、サヴァイヴで何度も感じた。危険を察知する“勘”とは種類が違うけれど、胸の奥が先に理解する感じが、どこか似ている。

 

「……どうしたの?」

 

 ルナはできるだけ柔らかい声を出した。相手を怯えさせないように。追い詰めないように。相手が勇気を出していることを、無駄にしたくない。

 

「少し……時間、もらえますか」

 

「うん。大丈夫だよ」

 

 ルナが頷くと、男子生徒はほっとしたように息を吐いた。だけど、その安心が次の緊張を連れてくる。彼は視線を泳がせながら、廊下の端――人の少ない窓際へとルナを誘導する。

 

 薄い日差しが差し込み、窓ガラスに冬の光が反射していた。廊下の向こうでは部活帰りの生徒たちがわいわい騒いでいる。けれど、ここだけ空気が一段静かだった。

 

「……急に呼び止めてすみません」

 

「ううん。大丈夫。どうしたの?」

 

 ルナは笑みを作る。作る、というより“置く”。相手が話しやすいように、そこに優しい表情を置く。

 

 男子生徒は一度、唾を飲み込んだ。

 

 そして。

 

「……ルナさん、僕……」

 

 声が少し裏返る。

 

 ルナは胸の奥で、ほんの小さな痛みを感じた。相手の気持ちを想像してしまうからだ。好きだと言うのは、怖い。断られる可能性がある。それでも言う。だから、その勇気を軽く扱いたくない。

 

「僕……ルナさんのことが好きです」

 

 言った。

 

 言い切った。

 

 男子生徒は、顔を真っ赤にしながらも視線を逸らさない。逃げない。逃げられないのだろう。彼は自分の胸の中の熱を、今、外に出してしまったから。

 

 ルナは息を吸った。

 

 胸の奥が、少しだけ締め付けられる。

 

 どう答えるべきか、ルナはもう分かっていた。

 

 分かっているのに、言葉にするのはいつも痛い。断る側にも痛みがある。相手を傷つけると分かっていて、でも言わなきゃいけない。

 

 ルナは、相手の目を見たまま、丁寧に口を開いた。

 

「……ありがとう。すごく嬉しい」

 

 まず、感謝を伝える。嘘じゃない。言ってもらえたこと自体は、ルナにとって大切なことだ。誰かが自分を見てくれて、好きになってくれた。その事実は、軽く扱ってはいけない。

 

 男子生徒の表情が、ほんの少し明るくなる。

 

 その一瞬の希望に、ルナの胸が痛む。

 

 ルナは続けた。

 

「でも、ごめんなさい」

 

 言葉は柔らかく、でも曖昧にしない。

 

「今は……誰かと付き合うこと、できないの」

 

 男子生徒の瞳が揺れる。

 

「……それは、好きな人がいるから……ですか」

 

 彼の声は震えていた。今にも崩れそうな声。けれど、最後まで聞こうとしている。

 

 ルナは、少しだけ迷った。

 

 “好きな人がいる”というのは、きっと真実だ。けれど、それを言葉にしてしまうのが怖い。言ってしまったら、自分が確定してしまう気がする。リュウジのことを、他人の前で“好きな人”と呼んでしまったら、今の曖昧な距離を壊してしまう気がする。

 

 だけど――

 

 この男子生徒の勇気に、曖昧な言い方で逃げるのは失礼だ。

 

 ルナはゆっくり頷いた。

 

「……うん」

 

 男子生徒は目を伏せた。拳が、ぎゅっと握られる。

 

 ルナは続ける。

 

「好きな人がいるの。だから、ごめんなさい」

 

 それ以上は言わない。相手のためにも、自分のためにも。

 

 男子生徒は、しばらく黙っていた。

 

 そして、かすれた声で言う。

 

「……分かりました」

 

 強がりのようにも聞こえる。諦めのようにも聞こえる。彼は深く頭を下げた。

 

「……言えてよかったです。ありがとうございました」

 

 ルナの胸が、また痛む。言えてよかった。そう言ってくれるのが、救いでもあり、余計に苦しくもある。

 

「こちらこそ、話してくれてありがとう」

 

 ルナはそう返し、男子生徒が立ち去る背中を見送った。

 

 彼は廊下の人混みに紛れていく。すぐに笑い声の中に消える。けれど、その背中が少しだけ小さく見えた。

 

 ルナはその場で、静かに息を吐いた。

 

 心臓の辺りが、妙に重い。

 

 断るのは、慣れない。

 

 慣れるべきでもない。

 

 ルナはリュックの肩紐を握り直し、昇降口へ向かって歩き出した。

 

 ――その様子を、少し離れた場所から見ている二人がいた。

 

 シャアラとメノリだ。

 

 彼女たちは偶然そこを通りかかり、ルナが男子生徒に呼び止められたのを見て、咄嗟に距離を取った。盗み聞きするつもりはない。でも、雰囲気で分かってしまう。

 

 ルナが丁寧に頭を下げた瞬間、二人は顔を見合わせた。

 

 シャアラが先に口を開く。

 

「……また、告白だったのね」

 

 声は小さい。どこか切なそうで、どこか呆れたようでもある。

 

 メノリは腕を組み、顎に手を当てた。

 

「……ルナは、本当に面倒な立場だな」

 

「面倒って……メノリ、言い方が」

 

 シャアラが軽く咎めるが、メノリは目を細めるだけだ。

 

「事実だろ。好意はありがたいが、断るのは精神を削る。相手の勇気を踏みにじるわけにもいかないしな」

 

 メノリの言葉は冷静で、だからこそ優しい。彼女なりの配慮が滲む。

 

 シャアラは窓の外を見た。冬の光が、校庭の端を白く照らしている。

 

「ルナ、優しいから……ちゃんと断るのよね」

 

「曖昧にして期待を持たせるより、ずっと誠実だ」

 

「そうだけど……」

 

 シャアラは唇を噛む。ルナの背中が少し遠ざかっていくのを見ながら、声が少しだけ湿る。

 

「……ルナ、最近、余計に断りづらいと思う」

 

 メノリの眉がわずかに動く。

 

「理由は分かっている」

 

 シャアラはメノリを見る。メノリは視線を逸らさずに言った。

 

「リュウジだ」

 

 シャアラは小さく頷く。

 

「……あの人、最近……」

 

「作り笑いをしている」

 

 メノリが先に言い切った。

 

 シャアラは目を瞬いた。メノリも気づいていたのだ。ルナだけが気づいているわけじゃない。皆が、薄い膜のような違和感を共有している。

 

「……うん」

 

 シャアラの声は小さい。

 

 メノリは腕を組んだまま、少しだけ視線を落とす。

 

「リュウジは、元から無駄に笑う男じゃない。だが今のあいつは、“笑っているふり”をしている」

 

 言葉が鋭い。けれど、メノリは刺したいわけではない。真実を言うことで、守ろうとしている。

 

 シャアラは胸の前で指を絡めた。

 

「ルナ、信じてるって言ってた。でも……信じるって、苦しいよね」

 

 メノリは答えない。答えられないのかもしれない。

 

 少し沈黙が落ちる。

 

 遠くで部活の掛け声が響く。廊下の床が、靴音で微かに震える。

 

 シャアラがぽつりと言った。

 

「……ルナが告白を断るの、いつも丁寧で、見てて胸が痛くなる」

 

「お前はルナに感情移入しすぎる」

 

「だって……ルナはいつも、皆のために笑ってるから」

 

 シャアラの声には、ルナへの強い信頼がある。あのサヴァイヴで、泣くだけだった自分を救ってくれた親友への、揺るがない思い。

 

 メノリはその言葉を否定しない。ただ、少しだけ目を細める。

 

「……ルナは強い」

 

「強いけど……強いからって、無敵じゃない」

 

 シャアラが言い返す。珍しく反論するシャアラに、メノリはわずかに目を見開いた。

 

 そして、メノリは小さく息を吐いた。

 

「……そうだな」

 

 認めた。

 

 メノリも、ルナが無敵じゃないと知っている。誰よりもリーダーとして踏ん張るからこそ、誰よりも折れやすい場所があることも。

 

 シャアラは続ける。

 

「ルナ、好きな人がいるって……多分、リュウジだよね」

 

 メノリは答えなかった。けれど、否定もしない。

 

 代わりに、低い声で言った。

 

「……分かっていても、口にするな。ルナの心の中の話だ」

 

「うん……」

 

 シャアラは頷く。メノリの言う“線引き”は正しい。

 

 シャアラはルナの背中を見つめた。小さな背中。けれど、あの背中が仲間を引っ張ってきた。サヴァイヴでも、ソリア学園でも。

 

「……ねえ、メノリ」

 

「なんだ」

 

「ルナ、告白断ったあと……ちょっとだけ、寂しそうだった」

 

 メノリは視線を追う。ルナは昇降口の方へ向かっている。確かに、歩幅が少しだけ小さい。肩が少しだけ落ちている。

 

 メノリは、ぎゅっと拳を握った。

 

「ルナが“誰とも付き合えない”と言ったのは、相手のためだけじゃない」

 

 シャアラが息を呑む。

 

「……自分のため?」

 

「違う」

 

 メノリは言葉を選んだ。

 

「……リュウジのためだ」

 

 シャアラの胸が、きゅっと締まる。

 

 メノリは続けた。

 

「ルナは、相手を傷つけないように断った。だが本当は、自分が踏み出したら、リュウジを置いていくことになると感じているんだろう」

 

「……そんなの、苦しい」

 

 シャアラが呟く。

 

 メノリは頷いた。珍しく、表情が柔らかい。

 

「だからこそ、私は腹が立つ」

 

「え?」

 

「リュウジにだ」

 

 シャアラの目が丸くなる。

 

 メノリは冷たく言うわけではない。むしろ悔しそうだった。

 

「ルナは優しい。優しいから、誰かのために自分を縛る。だが、リュウジがその鎖を作っているつもりがなくても……結果的に、ルナは縛られてしまう」

 

 シャアラは震える息を吐いた。

 

「……じゃあ、どうすればいいの」

 

「簡単だ」

 

 メノリは即答した。

 

「リュウジに“ちゃんと生きろ”と言ってやればいい」

 

「メノリらしい……」

 

 シャアラは苦笑する。けれど、その言葉は乱暴に聞こえて、実は優しい。

 

 メノリは付け加えた。

 

「ルナが言うのではない。ルナは今、言えない立場にいる。だから、別の誰かが言うべきだ」

 

「別の誰か……」

 

 シャアラは思い当たる顔をいくつか浮かべる。ベル、シンゴ、チャコ、カオル、ハワード……。

 

 メノリは目を細める。

 

「本当は、リュウジ自身が言うべきだ。自分に、だ」

 

 シャアラは黙り込んだ。

 

 リュウジは、ずっと一人で抱える男だ。誰より強くて、誰より危うい。S級を返上して、やりたいことを見つけたと言っていた。なのに、どこか寂しさを含んだ表情をしている。何かを決めたはずなのに、何かを失ったような顔をする。

 

 シャアラは小さく呟いた。

 

「……ルナが告白を断るのは、ルナの選択だけど……」

 

「うん」

 

「ルナが誰かを断るたびに、心が削れるのなら……私は嫌だな」

 

 シャアラらしい、正直な言葉。

 

 メノリは頷いた。

 

「だから、お前はルナのそばにいろ」

 

「……私?」

 

「そうだ。お前は親友だろ」

 

 メノリの言葉は、命令ではなく認める言葉だった。シャアラは胸が熱くなった。

 

「メノリは?」

 

「私は……」

 

 メノリは一瞬、言葉を止めた。そして、少しだけ苦笑する。

 

「私は、必要な時に必要なことを言う。嫌われても構わない役目は、私がやる」

 

「嫌われたくないって顔してるくせに」

 

「うるさい」

 

 メノリが少し赤くなって、シャアラは小さく笑った。

 

 その笑いは、冬の廊下にやさしく落ちた。

 

 ふと、シャアラは思い出したように言う。

 

「……でも、ルナ。さっき、好きな人がいるって言ったよね」

 

「聞こえたのか」

 

「うん……聞こえちゃった」

 

 シャアラは少し罪悪感を浮かべる。メノリは短く息を吐いた。

 

「盗み聞きしたわけではないならいい。だが――」

 

 メノリはルナの背中を見つめる。

 

「ルナが“好きな人がいる”と言えるようになったのは、進歩だ」

 

 シャアラは驚いた。

 

「進歩?」

 

「そうだ。サヴァイヴの頃、ルナは自分の気持ちより、皆の命を優先した。ソリア学園でも、皆のために動く癖が抜けない」

 

 メノリは続ける。

 

「だが今、ルナは自分の心を誤魔化さずに“好きな人がいる”と言った。誰にも言わなかったとしても、それを自分で認めている」

 

 シャアラは胸がじんわり温かくなった。

 

「……ルナ、頑張ってるんだね」

 

「当たり前だ」

 

 メノリの声は強い。強いのに、優しい。

 

 その時、遠くの昇降口の方で、ルナが一度だけ振り返った。

 

 誰かを探すみたいに。

 

 でも、そこにいるのは、シャアラとメノリだけだった。ルナは気づかない。気づく必要もない。

 

 ルナは小さく微笑み、また前を向いて歩き出した。

 

 シャアラがぽつりと言った。

 

「……ルナ、ほんとは、あの人に“好き”って言いたいのかな」

 

 メノリは答えない。

 

 答えない代わりに、静かに言った。

 

「言いたいだろうな」

 

 シャアラの胸が切なくなる。

 

「でも……言えないのかな」

 

「言えない時期もある」

 

 メノリの声は淡々としていた。けれど、その淡々は、現実を知っている人の声だ。

 

「相手が自分の足で立てていない時に、好きだと言うのは……優しさにも、残酷にもなる」

 

「……うん」

 

 シャアラは小さく頷いた。

 

 冬の廊下に、また冷たい風が流れた気がした。

 

 メノリは、腕を組み直し、言う。

 

「行くぞ、シャアラ」

 

「どこに?」

 

「ルナを追う」

 

 メノリの言葉に、シャアラは目を丸くする。

 

「声をかけるの?」

 

「断った直後だ。今すぐ慰めるのは逆効果だろ」

 

「じゃあ、どうするの?」

 

「いつも通りにする」

 

 メノリは歩き出しながら言った。

 

「“いつも通り”に話しかける。それが、ルナにとって一番楽だ」

 

 シャアラはその背中を追いかける。

 

「メノリ、意外と気遣いできるよね」

 

「当たり前だ。生徒会長をなめるな」

 

「はいはい」

 

 シャアラは笑った。

 

 冬は冷たい。

 

 でも、冷たいからこそ、誰かの言葉や体温が、少しだけ強く感じられる。

 

 ルナが告白を断ったことは、ただの出来事では終わらない。

 

 ルナの心に残る。

 

 相手の心にも残る。

 

 そして、それを見ていたシャアラとメノリの心にも残る。

 

 それでも、日常は進む。

 

 だからこそ――

 

 シャアラとメノリは、ルナの背中を追いながら、ただ“いつも通り”の明るい声で呼びかける準備をした。

 

 ルナが一人で抱え込まないように。

 

 冬の中で、誰かが凍えないように。

 

ーーーー

 

 廊下の空気が、冬の匂いをしていた。

 

 ソーラ・デッラ・ルーナの季節設定は完璧で、窓の外に見える街路樹の葉はすっかり落ち、照明の色温度まで少し白く冷たい。帰り支度を急ぐ生徒たちの足音が、床に乾いたリズムを刻んでいく。

 

 ルナは昇降口へ向かう途中、胸の奥に残った小さな痛みをそっと握りしめたまま歩いていた。

 

 さっきの告白。

 

 断ったときの相手の表情。

 

 「ありがとう」と言われたときの、胸の苦しさ。

 

 慣れることが正しい気がしない。慣れてしまったら、自分の中の何かが鈍ってしまう気がする。だから、ルナはその痛みを“悪いもの”として捨てずに、ただ抱えて歩いた。

 

 ――その背中に、二つの気配が近づく。

 

 シャアラとメノリだった。

 

 遠目に見てもわかる。シャアラは心配そうに眉を寄せていて、メノリはいつものように真っ直ぐな視線でルナを見ている。二人とも、今こそ声をかけるべきだと判断したのだろう。

 

「ルナ――」

 

 シャアラが小さく呼びかけようとした、その瞬間だった。

 

「……ルナ」

 

 低い声が、先に割って入った。

 

 ルナの足が止まる。

 

 背中がほんの少し強張るのを、自分で感じた。

 

 振り向かなくてもわかった。――リュウジだ。

 

 ルナはゆっくり振り返った。

 

 そこにいたのは、いつものリュウジだった。黒髪短髪、整った顔立ち。周囲から少し距離を取るような立ち方。視線の置き方は冷静で、誰かに媚びる気配はない。けれど、ルナの目は、そこに“いつもと違う薄さ”を見つけてしまう。

 

 目の奥に、影がある。

 

 それは暗さではなく、削れたみたいな影。何かを言う前に、胸のどこかで先に諦めてしまった人間の影。

 

 ルナが言葉を探すより早く、リュウジが口を開いた。

 

「話したいことがある」

 

 短い言葉だった。

 

 それだけで、ルナの鼓動が一度跳ねる。

 

「……少し、いいか」

 

「うん」

 

 ルナは頷いた。頷きながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに驚いた。心の中は落ち着いていないのに、声だけが平然としている。

 

 背後で、シャアラとメノリが同時に息を呑む気配がした。

 

 ルナが彼女たちを見るより先に、二人は反射的に物陰へと身を引いた。廊下の角、掲示板の影、柱の陰。目立たない場所に隠れて、顔だけをそっと覗かせる。

 

「な、なにしてるの……」とシャアラが囁く気配。

 

「黙れ。聞くぞ」とメノリの小さな声。

 

 その二人の気配が、妙に鮮明に耳に入ってしまう。ルナは振り返らない。振り返ったら、逆に不自然になる。だから、気づかないふりをして、リュウジに向き直った。

 

 リュウジは少しだけ視線を外し、廊下の奥、誰もいない方向へ顎を向けた。

 

「……ここじゃ落ち着かないな」

 

 そう言って歩き出す。ルナは小さく頷いて、隣に並んだ。

 

 歩幅は自然と合う。合わせようとしなくても、合ってしまう。ルナはそのことが嬉しくて、同時に苦しくなる。

 

 冬の廊下は長い。窓から差し込む光が、二人の影を床に伸ばしていく。影が並ぶ。並ぶだけで、胸が痛いのはなぜだろう。

 

 やがて二人は、人気の少ない廊下の端に立ち止まった。外の音が遠のく。部活帰りの声も、教室の扉の開閉音も、ここには届きにくい。

 

 リュウジはルナを見た。

 

 ルナもリュウジを見返した。

 

 彼の瞳はまっすぐで、逃げ道を作らない種類のまっすぐさだった。だからこそ、ルナは身構えてしまう。

 

 ――もしかして。

 

 心のどこかで、期待が芽を出しそうになる。

 

 それを押し潰すのに、ルナは小さく息を吸った。

 

 後ろの柱の陰で、メノリとシャアラが“聞き耳”を立てているのが分かる。二人とも、きっと同じことを考えている。

 

 リュウジが告白するのではないか。

 

 そんな予感。

 

 そんな期待。

 

 そんな恐れ。

 

 シャアラの胸は今にも破裂しそうだろうし、メノリは「ありえんだろ」と言いながらも、顔色が変わっているに違いない。

 

 けれど――

 

 リュウジは、いつも通りの短い言葉で、それをあっさり裏切った。

 

「冬休みから、俺はソリア学園を辞める」

 

 ルナの世界が、一拍遅れて止まった。

 

「……え?」

 

 声が、間抜けに漏れた。

 

 頭の中で言葉の意味が追いつかない。“辞める”という単語は強すぎて、すぐに理解できない。だって、急すぎる。だって、何も聞いていない。

 

 ルナの表情が固まったのを見て、リュウジは続ける。

 

「冥王星にある学校に編入する」

 

 冥王星。

 

 その単語は、距離として胸に刺さった。

 

 火星でも、木星でもない。冥王星。空の果て。呼吸が薄くなるような遠さ。

 

 ルナは目を瞬いた。

 

 言葉を探したのに、喉が乾いて声が出ない。胸の奥に、冷たい水を流し込まれたみたいに、すうっと体温が奪われていく。

 

 “冥王星”という音だけが、頭の中を反響する。

 

 ルナはやっと口を開いた。

 

「……急、だね」

 

 それしか言えなかった。

 

 もっと言いたいことがある。聞きたいことがある。怒りたいことも、泣きたいことも、たくさんある。なのに、最初に出てきたのはあまりに平凡な一言だった。

 

 リュウジは、ほんの少しだけ眉を動かした。

 

「急だ」

 

 認めた。

 

 その短い肯定が、余計にルナの胸を締め付ける。

 

 ルナは喉を鳴らし、必死に平静を保った。

 

「……どうして?」

 

 自分の声が震えないように。震えたら、その瞬間に崩れてしまう気がした。

 

 リュウジは少し間を置いた。言葉を選んでいるのか、選ぶ必要がないと思っているのか、その境界が分からない沈黙。

 

 そして、リュウジは言った。

 

「やりたいことがある」

 

 ルナの胸が、また痛む。

 

 それは知っている。

 

 リュウジがS級を返上した理由も、“やりたいことを見つけたから”だって、ルナは聞いている。あの夜、唐揚げの食卓で、チャコと笑っていたリュウジの横顔を、ルナは覚えている。

 

 だから、ルナはもう一歩踏み込んだ。

 

「……それをするために、編入するの?」

 

 リュウジは――そこで、笑った。

 

 ほんの僅かな笑み。

 

 口角だけが上がった、形だけの笑み。

 

 ルナは、ぞくりとした。

 

 その笑みは、作った笑みだった。

 

 リュウジは“笑ってみせる”ことができる。ソリア学園で、女子生徒に囲まれても、無碍にせず笑顔を作れる。必要なら“愛想”という仮面をかぶれる。

 

 でも、ルナは知っている。

 

 今の笑みは、あのときの“周りに向けた笑顔”とは違う。

 

 誰かを安心させるための笑み。誰かを遠ざけるための笑み。

 

 つまり――ルナを、傷つけないための笑み。

 

「……ああ」

 

 リュウジは頷きながら言った。

 

 ルナは、頷き返した。

 

 本当は言いたかった。

 

 “行かないで”って。

 

 “どうして私に、もっと早く言ってくれなかったの”って。

 

 “冥王星なんて遠すぎる”って。

 

 でも、言えなかった。

 

 言ったら、リュウジの“やりたいこと”を止めることになる気がしたから。

 

 それは、ルナが一番したくないことだった。

 

 リュウジが前に進もうとしている。――たとえそれが、作った笑みの裏側で、まだ何かに傷ついていたとしても。

 

 ルナは、胸の奥の痛みを抱えたまま、声を出した。

 

「……そっか」

 

 言葉が、軽く聞こえないように、ルナは意識して柔らかく言った。

 

「冥王星の学校って……すごいね」

 

 すごいね、なんて。自分でも変な言い方だと思う。けれど、“すごい”以外の言葉が見つからない。すごい。遠い。怖い。寂しい。全部が混ざってしまって、結局、無難な表現しか出てこない。

 

 リュウジは「別に」と言いそうな顔をした。でも口に出したのは違った。

 

「……必要なんだ」

 

 必要。

 

 その言葉が、ルナの胸の中で重く響く。

 

 必要なら、止められない。

 

 ルナはそう理解した。

 

 背後で、シャアラが「え……」と小さく声を漏らす気配がした。メノリは息を止めているようだった。二人とも、リュウジの“告白”を期待してしまっていたのだろう。だからこそ、この現実に固まっている。

 

 ルナは唇を噛み、もう一度リュウジを見た。

 

 彼の目は、どこか遠くを見ている。冥王星という場所を、もう心の中では歩き出している。

 

 ルナは、その視線の先に自分がいないことを理解して、胸がちくりと痛んだ。

 

 それでも。

 

 ルナは笑った。

 

 今度は作り笑いではない。痛いけれど、本物の笑み。

 

「……頑張って」

 

 その一言に、ルナの気持ちを全部詰め込んだ。

 

 寂しい。

 

 怖い。

 

 でも、応援したい。

 

 あなたが決めたなら、私は支えたい。

 

 ルナは続ける。

 

「やりたいことのために、前に進んでよ。リュウジ」

 

 声が、ほんの少し震えた。

 

 震えたのは、寒さのせいにしたかった。冬の廊下だから、空気が冷たいから。そうやって、涙の理由を季節のせいにしたかった。

 

 リュウジは、その言葉を聞いて、また笑った。

 

 ――やっぱり、作った笑みだった。

 

 だけど、その作り笑いの奥に、ほんの少しだけ、揺れる何かが見えた気がした。

 

 罪悪感かもしれない。

 

 感謝かもしれない。

 

 あるいは、決意を揺らがせないための自制かもしれない。

 

「……お前は、そう言うと思った」

 

 リュウジの声は低い。

 

「私は、いつもそうだよ」

 

 ルナは笑いながら返した。

 

 いつも、仲間を送り出すときは笑ってきた。

 

 サヴァイヴでもそうだった。

 

 危険な場所へ向かう仲間に、泣いて縋りつくより、“帰ってきて”と笑って言う方が、仲間は前を向ける。

 

 ルナはそれを知っている。

 

 知っているからこそ、今も笑える。

 

 でも――

 

 胸の奥は、ぐちゃぐちゃだった。

 

 “好き”という気持ちが、言葉にならないまま残っている。

 

 “行かないで”という叫びが、喉の奥に詰まっている。

 

 “もっと一緒にいたい”という願いが、指先の先まで満ちている。

 

 なのに、ルナはそれを全部飲み込む。

 

 飲み込んで、笑う。

 

 それが自分の役目だと思ってしまう。

 

 ルナは気づいてしまった。

 

 さっき男子生徒に告白を断ったときの痛みと、今の痛みは似ている。

 

 違うのは、相手を傷つけたくない痛みではなく、自分が傷つく痛みだということ。

 

 ルナは喉が熱くなるのを堪えながら、わざと軽い調子で言った。

 

「冥王星って寒いのかな」

 

「寒いだろ」

 

 リュウジが即答する。

 

「じゃあ、ちゃんと防寒してね」

 

「分かってる」

 

「……ちゃんと食べて」

 

「子ども扱いするな」

 

 いつものやり取り。

 

 それが嬉しい。

 

 でも、それが痛い。

 

 “いつものやり取り”が、もうすぐできなくなる。

 

 ルナは笑みを保ったまま、目を瞬いた。

 

 涙が落ちそうになるのを、目の奥で止める。

 

 ルナは、自分の気持ちを悟られないように、少しだけ話題を変えた。

 

「冬休みからってことは……卒業式はもう一緒じゃないんだね」

 

「ああ」

 

 ぶっきらぼうに言うリュウジ。

 

 その言い方は冷たいようで、実は“ルナのやるべきことをやれ”という背中押しでもある。

 

 ルナは頷いた。

 

「……そっかぁ」

 

 いつも通りに呟く。

 

 その“いつも通り”が、どれだけ難しいかを、ルナは胸の奥で噛み締めた。

 

 リュウジは一度だけ、ルナから視線を外した。

 

 まるで、ルナの表情を見続けたら、何かを言ってしまいそうだったみたいに。

 

「……言うの遅くなった」

 

 ぽつりとした声。

 

 謝罪なのか、言い訳なのか分からない。でも、ルナはそれ以上追及しなかった。

 

 追及したら、泣いてしまいそうだから。

 

 ルナはただ、首を横に振る。

 

「いいよ。言ってくれてありがとう」

 

 本当は“もっと早く言って”と言いたい。

 

 でも、言わない。

 

 今、言うべき言葉じゃない。

 

 ルナは自分に言い聞かせる。

 

 ――リュウジは、やりたいことのために前に進む。

 

 ――それを、私は応援する。

 

 応援するって決めた。

 

 決めたなら、最後まで笑って見送る。

 

 ルナは胸の奥をぎゅっと握りしめ、少しだけ声を明るくした。

 

「ねえ、冥王星に行っても、連絡は取れるよね?」

 

「……取れると思う」

 

 リュウジの返事は短い。短いけれど、否定ではない。

 

 ルナは、その短さに救われる。

 

 “もう関わるな”と言われたわけではない。

 

 だから、ルナは頷いた。

 

「じゃあ、たまには返事してよ。私、心配するから」

 

「……善処する」

 

 その言い方が、リュウジらしくて、ルナは思わず小さく笑ってしまった。

 

「なにそれ」

 

「俺はそういうのが得意じゃない」

 

「知ってる」

 

 知ってる。

 

 だから、余計に苦しい。

 

 ルナは、今の会話が“最後の普通”にならないようにと願ってしまう。

 

 でも現実は、冬休みから変わる。

 

 リュウジはいなくなる。

 

 冥王星へ行く。

 

 ルナはここに残る。

 

 残って、夢を追う。

 

 惑星開拓技師になるために。

 

 それがルナの夢。リュウジが背中を押した夢。

 

 だからこそ、矛盾している。

 

 リュウジが遠くへ行くことが、ルナの夢にも繋がっている気がしてしまう。

 

 胸がぐちゃぐちゃになる。

 

 ルナが黙っていると、リュウジが小さく息を吐いた。

 

「……ルナ」

 

「なに?」

 

 リュウジは少しだけ口を開きかけた。

 

 その一瞬、ルナの心臓が跳ねる。

 

 もしかして、何か別の言葉が来るのではないかと。

 

 “好き”とか、そういう言葉ではなくても。

 

 “寂しい”とか、“ありがとう”とか。

 

 何か。

 

 でも――リュウジは結局、視線を逸らし、短く言った。

 

「……無理するなよ」

 

 たったそれだけ。

 

 それだけなのに、ルナの胸が熱くなってしまう。

 

 無理するなよ。

 

 それは、今一番言われたくて、言われたら崩れてしまう言葉だ。

 

「……うん」

 

 ルナは頷く。

 

 頷きながら、笑みを作る。

 

 今度は、少しだけ作り笑いだった。

 

 自分でも分かる。

 

 リュウジに“作った笑み”を見抜かれたくないから、ルナは目を逸らした。

 

「私は平気だよ」

 

 平気じゃない。

 

 でも平気と言う。

 

 ルナはそういう人間だ。

 

 リュウジは何も言わなかった。

 

 その沈黙が、優しさなのか、諦めなのか分からない。

 

 ルナは胸の奥で、ただ願う。

 

 リュウジが冥王星へ行っても、笑える日々を手に入れますように。

 

 作った笑みじゃなくて、本当の笑みを浮かべられますように。

 

 やりたいことのために、前に進めますように。

 

 そして――その道の途中で、いつかまた、私と交差しますように。

 

 ルナはその願いを言葉にしない。

 

 言葉にしたら、涙になってしまうから。

 

 リュウジが一歩引いて、言った。

 

「じゃあ、俺は行く」

 

「うん」

 

「……またな」

 

「……またね」

 

 ルナは頷いた。

 

 “またね”という言葉に、未来を詰め込む。

 

 未来があると信じる。

 

 信じることしか、今はできない。

 

 リュウジが背を向けて歩き出す。

 

 その背中を見送りながら、ルナは背筋を伸ばした。

 

 泣かない。

 

 今は泣かない。

 

 背中を押すって決めたから。

 

 その背中が角を曲がり、見えなくなる直前――リュウジは一度だけ振り返った。

 

 ルナと目が合う。

 

 その瞬間、ルナの胸が震える。

 

 リュウジは何か言いかけて、言わなかった。

 

 代わりに、ほんの僅かに口角を上げた。

 

 作った笑み。

 

 でも、さっきより少しだけ――ほんの少しだけ、柔らかい笑み。

 

 ルナは、それだけで救われてしまう自分が悔しい。

 

 悔しいのに、嬉しい。

 

 ルナはその笑みに、精一杯の笑みで返した。

 

 角を曲がって、リュウジが消える。

 

 その瞬間、ルナの肩から力が抜けた。

 

 息を吐いたら、心が少しだけ揺れた。

 

 ――その背後から、ぱっと二つの影が飛び出してくる。

 

「ルナ……!」

 

 シャアラが最初に駆け寄った。

 

「……おい」

 

 メノリが少し遅れて、眉をひそめながらも近づく。

 

 二人とも、顔が青い。

 

 さっきまで隠れて聞いていた罪悪感と、聞いてしまった現実の重さが、表情に出ている。

 

 シャアラは今にも泣きそうな顔で言った。

 

「……ごめん、聞いちゃった……」

 

 メノリは咳払いして、言い訳みたいに言う。

 

「……偶然だ」

 

 ルナは二人を見て、ふっと笑った。

 

 笑ったら、胸の痛みが少しだけ和らいだ。

 

「ううん。いいよ」

 

 ルナは言う。

 

「……びっくりしたね」

 

 シャアラは頷き、唇を噛む。

 

「うん……すごく……」

 

 メノリは腕を組み、いつものように強い口調で言った。

 

「急すぎるだろ」

 

 ルナは頷いた。

 

「うん、ほんと急だよ」

 

 でも。

 

 ルナはもう一度、深く息を吸った。

 

 そして、言った。

 

「でも、リュウジが決めたなら……私は応援するよ」

 

 言いながら、胸が痛む。

 

 痛むのに、嘘じゃない。

 

 シャアラが涙目で言う。

 

「ルナ、強いね……」

 

 ルナは首を横に振った。

 

「強くないよ」

 

 強くない。

 

 ただ、好きだから。

 

 好きな人が前に進むなら、背中を押したい。

 

 それだけだ。

 

 ルナは冬の廊下の冷たい光の中で、もう一度、心の中で呟いた。

 

 ――行ってらっしゃい。

 

 ――頑張って。

 

 ――いつか、また。

 

 複雑な感情が胸の中で絡まって、ほどけないまま残る。

 

 それでもルナは、笑って歩き出した。

 

 送り出すって、決めたから。

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