秋は、気づけば足早に通り過ぎていた。
ロカA2のコロニーは季節の設定が明確で、空調も照明も香りさえも“冬”を演出する。通学路の街路樹は落葉し、朝の空気は少しだけ刺すように冷たい。吐く息が白くなるほどではないのに、頬の内側が乾く。制服の襟を指で整えたくなる、そんな季節だった。
ルナは教室の窓から校庭を見下ろして、ふと肩をすくめた。
「寒くなったね」
独り言みたいに呟いた声は、誰に届くでもなくガラスに吸い込まれる。隣の席には、もうカオルもハワードもいない。あの空席が当たり前になったはずなのに、冬の空気は時々、心まで冷やす。空いている椅子は、何かを思い出させるのが上手だった。
放課後。
ルナは廊下の掲示板に貼り出された連絡事項を確認してから、帰り支度を始めた。今日は特別な用事はない。メノリの手伝いも頼まれていないし、シャアラと寄り道の約束もしていない。ルナは父の形見のリュックを肩に掛け、チャコが入っていないことを改めて確認するみたいに、ファスナーの位置を指でなぞった。
そのまま昇降口へ向かう途中だった。
「……ルナさん」
背後から呼び止められる声。
ルナは足を止めた。
振り向くと、少し緊張した顔の男子生徒が立っていた。同学年か、少し上か。名前は――たしか、同じクラスではない。体育で何度か見たことがある気がする。真面目そうな雰囲気で、普段は目立たないタイプ。でも、今日は違う。
手が震えている。
制服の袖口を、ぎゅっと掴んでいる。
目が、まっすぐルナを見ている。
その視線に、ルナはすぐ察してしまった。
こういう空気は、サヴァイヴで何度も感じた。危険を察知する“勘”とは種類が違うけれど、胸の奥が先に理解する感じが、どこか似ている。
「……どうしたの?」
ルナはできるだけ柔らかい声を出した。相手を怯えさせないように。追い詰めないように。相手が勇気を出していることを、無駄にしたくない。
「少し……時間、もらえますか」
「うん。大丈夫だよ」
ルナが頷くと、男子生徒はほっとしたように息を吐いた。だけど、その安心が次の緊張を連れてくる。彼は視線を泳がせながら、廊下の端――人の少ない窓際へとルナを誘導する。
薄い日差しが差し込み、窓ガラスに冬の光が反射していた。廊下の向こうでは部活帰りの生徒たちがわいわい騒いでいる。けれど、ここだけ空気が一段静かだった。
「……急に呼び止めてすみません」
「ううん。大丈夫。どうしたの?」
ルナは笑みを作る。作る、というより“置く”。相手が話しやすいように、そこに優しい表情を置く。
男子生徒は一度、唾を飲み込んだ。
そして。
「……ルナさん、僕……」
声が少し裏返る。
ルナは胸の奥で、ほんの小さな痛みを感じた。相手の気持ちを想像してしまうからだ。好きだと言うのは、怖い。断られる可能性がある。それでも言う。だから、その勇気を軽く扱いたくない。
「僕……ルナさんのことが好きです」
言った。
言い切った。
男子生徒は、顔を真っ赤にしながらも視線を逸らさない。逃げない。逃げられないのだろう。彼は自分の胸の中の熱を、今、外に出してしまったから。
ルナは息を吸った。
胸の奥が、少しだけ締め付けられる。
どう答えるべきか、ルナはもう分かっていた。
分かっているのに、言葉にするのはいつも痛い。断る側にも痛みがある。相手を傷つけると分かっていて、でも言わなきゃいけない。
ルナは、相手の目を見たまま、丁寧に口を開いた。
「……ありがとう。すごく嬉しい」
まず、感謝を伝える。嘘じゃない。言ってもらえたこと自体は、ルナにとって大切なことだ。誰かが自分を見てくれて、好きになってくれた。その事実は、軽く扱ってはいけない。
男子生徒の表情が、ほんの少し明るくなる。
その一瞬の希望に、ルナの胸が痛む。
ルナは続けた。
「でも、ごめんなさい」
言葉は柔らかく、でも曖昧にしない。
「今は……誰かと付き合うこと、できないの」
男子生徒の瞳が揺れる。
「……それは、好きな人がいるから……ですか」
彼の声は震えていた。今にも崩れそうな声。けれど、最後まで聞こうとしている。
ルナは、少しだけ迷った。
“好きな人がいる”というのは、きっと真実だ。けれど、それを言葉にしてしまうのが怖い。言ってしまったら、自分が確定してしまう気がする。リュウジのことを、他人の前で“好きな人”と呼んでしまったら、今の曖昧な距離を壊してしまう気がする。
だけど――
この男子生徒の勇気に、曖昧な言い方で逃げるのは失礼だ。
ルナはゆっくり頷いた。
「……うん」
男子生徒は目を伏せた。拳が、ぎゅっと握られる。
ルナは続ける。
「好きな人がいるの。だから、ごめんなさい」
それ以上は言わない。相手のためにも、自分のためにも。
男子生徒は、しばらく黙っていた。
そして、かすれた声で言う。
「……分かりました」
強がりのようにも聞こえる。諦めのようにも聞こえる。彼は深く頭を下げた。
「……言えてよかったです。ありがとうございました」
ルナの胸が、また痛む。言えてよかった。そう言ってくれるのが、救いでもあり、余計に苦しくもある。
「こちらこそ、話してくれてありがとう」
ルナはそう返し、男子生徒が立ち去る背中を見送った。
彼は廊下の人混みに紛れていく。すぐに笑い声の中に消える。けれど、その背中が少しだけ小さく見えた。
ルナはその場で、静かに息を吐いた。
心臓の辺りが、妙に重い。
断るのは、慣れない。
慣れるべきでもない。
ルナはリュックの肩紐を握り直し、昇降口へ向かって歩き出した。
――その様子を、少し離れた場所から見ている二人がいた。
シャアラとメノリだ。
彼女たちは偶然そこを通りかかり、ルナが男子生徒に呼び止められたのを見て、咄嗟に距離を取った。盗み聞きするつもりはない。でも、雰囲気で分かってしまう。
ルナが丁寧に頭を下げた瞬間、二人は顔を見合わせた。
シャアラが先に口を開く。
「……また、告白だったのね」
声は小さい。どこか切なそうで、どこか呆れたようでもある。
メノリは腕を組み、顎に手を当てた。
「……ルナは、本当に面倒な立場だな」
「面倒って……メノリ、言い方が」
シャアラが軽く咎めるが、メノリは目を細めるだけだ。
「事実だろ。好意はありがたいが、断るのは精神を削る。相手の勇気を踏みにじるわけにもいかないしな」
メノリの言葉は冷静で、だからこそ優しい。彼女なりの配慮が滲む。
シャアラは窓の外を見た。冬の光が、校庭の端を白く照らしている。
「ルナ、優しいから……ちゃんと断るのよね」
「曖昧にして期待を持たせるより、ずっと誠実だ」
「そうだけど……」
シャアラは唇を噛む。ルナの背中が少し遠ざかっていくのを見ながら、声が少しだけ湿る。
「……ルナ、最近、余計に断りづらいと思う」
メノリの眉がわずかに動く。
「理由は分かっている」
シャアラはメノリを見る。メノリは視線を逸らさずに言った。
「リュウジだ」
シャアラは小さく頷く。
「……あの人、最近……」
「作り笑いをしている」
メノリが先に言い切った。
シャアラは目を瞬いた。メノリも気づいていたのだ。ルナだけが気づいているわけじゃない。皆が、薄い膜のような違和感を共有している。
「……うん」
シャアラの声は小さい。
メノリは腕を組んだまま、少しだけ視線を落とす。
「リュウジは、元から無駄に笑う男じゃない。だが今のあいつは、“笑っているふり”をしている」
言葉が鋭い。けれど、メノリは刺したいわけではない。真実を言うことで、守ろうとしている。
シャアラは胸の前で指を絡めた。
「ルナ、信じてるって言ってた。でも……信じるって、苦しいよね」
メノリは答えない。答えられないのかもしれない。
少し沈黙が落ちる。
遠くで部活の掛け声が響く。廊下の床が、靴音で微かに震える。
シャアラがぽつりと言った。
「……ルナが告白を断るの、いつも丁寧で、見てて胸が痛くなる」
「お前はルナに感情移入しすぎる」
「だって……ルナはいつも、皆のために笑ってるから」
シャアラの声には、ルナへの強い信頼がある。あのサヴァイヴで、泣くだけだった自分を救ってくれた親友への、揺るがない思い。
メノリはその言葉を否定しない。ただ、少しだけ目を細める。
「……ルナは強い」
「強いけど……強いからって、無敵じゃない」
シャアラが言い返す。珍しく反論するシャアラに、メノリはわずかに目を見開いた。
そして、メノリは小さく息を吐いた。
「……そうだな」
認めた。
メノリも、ルナが無敵じゃないと知っている。誰よりもリーダーとして踏ん張るからこそ、誰よりも折れやすい場所があることも。
シャアラは続ける。
「ルナ、好きな人がいるって……多分、リュウジだよね」
メノリは答えなかった。けれど、否定もしない。
代わりに、低い声で言った。
「……分かっていても、口にするな。ルナの心の中の話だ」
「うん……」
シャアラは頷く。メノリの言う“線引き”は正しい。
シャアラはルナの背中を見つめた。小さな背中。けれど、あの背中が仲間を引っ張ってきた。サヴァイヴでも、ソリア学園でも。
「……ねえ、メノリ」
「なんだ」
「ルナ、告白断ったあと……ちょっとだけ、寂しそうだった」
メノリは視線を追う。ルナは昇降口の方へ向かっている。確かに、歩幅が少しだけ小さい。肩が少しだけ落ちている。
メノリは、ぎゅっと拳を握った。
「ルナが“誰とも付き合えない”と言ったのは、相手のためだけじゃない」
シャアラが息を呑む。
「……自分のため?」
「違う」
メノリは言葉を選んだ。
「……リュウジのためだ」
シャアラの胸が、きゅっと締まる。
メノリは続けた。
「ルナは、相手を傷つけないように断った。だが本当は、自分が踏み出したら、リュウジを置いていくことになると感じているんだろう」
「……そんなの、苦しい」
シャアラが呟く。
メノリは頷いた。珍しく、表情が柔らかい。
「だからこそ、私は腹が立つ」
「え?」
「リュウジにだ」
シャアラの目が丸くなる。
メノリは冷たく言うわけではない。むしろ悔しそうだった。
「ルナは優しい。優しいから、誰かのために自分を縛る。だが、リュウジがその鎖を作っているつもりがなくても……結果的に、ルナは縛られてしまう」
シャアラは震える息を吐いた。
「……じゃあ、どうすればいいの」
「簡単だ」
メノリは即答した。
「リュウジに“ちゃんと生きろ”と言ってやればいい」
「メノリらしい……」
シャアラは苦笑する。けれど、その言葉は乱暴に聞こえて、実は優しい。
メノリは付け加えた。
「ルナが言うのではない。ルナは今、言えない立場にいる。だから、別の誰かが言うべきだ」
「別の誰か……」
シャアラは思い当たる顔をいくつか浮かべる。ベル、シンゴ、チャコ、カオル、ハワード……。
メノリは目を細める。
「本当は、リュウジ自身が言うべきだ。自分に、だ」
シャアラは黙り込んだ。
リュウジは、ずっと一人で抱える男だ。誰より強くて、誰より危うい。S級を返上して、やりたいことを見つけたと言っていた。なのに、どこか寂しさを含んだ表情をしている。何かを決めたはずなのに、何かを失ったような顔をする。
シャアラは小さく呟いた。
「……ルナが告白を断るのは、ルナの選択だけど……」
「うん」
「ルナが誰かを断るたびに、心が削れるのなら……私は嫌だな」
シャアラらしい、正直な言葉。
メノリは頷いた。
「だから、お前はルナのそばにいろ」
「……私?」
「そうだ。お前は親友だろ」
メノリの言葉は、命令ではなく認める言葉だった。シャアラは胸が熱くなった。
「メノリは?」
「私は……」
メノリは一瞬、言葉を止めた。そして、少しだけ苦笑する。
「私は、必要な時に必要なことを言う。嫌われても構わない役目は、私がやる」
「嫌われたくないって顔してるくせに」
「うるさい」
メノリが少し赤くなって、シャアラは小さく笑った。
その笑いは、冬の廊下にやさしく落ちた。
ふと、シャアラは思い出したように言う。
「……でも、ルナ。さっき、好きな人がいるって言ったよね」
「聞こえたのか」
「うん……聞こえちゃった」
シャアラは少し罪悪感を浮かべる。メノリは短く息を吐いた。
「盗み聞きしたわけではないならいい。だが――」
メノリはルナの背中を見つめる。
「ルナが“好きな人がいる”と言えるようになったのは、進歩だ」
シャアラは驚いた。
「進歩?」
「そうだ。サヴァイヴの頃、ルナは自分の気持ちより、皆の命を優先した。ソリア学園でも、皆のために動く癖が抜けない」
メノリは続ける。
「だが今、ルナは自分の心を誤魔化さずに“好きな人がいる”と言った。誰にも言わなかったとしても、それを自分で認めている」
シャアラは胸がじんわり温かくなった。
「……ルナ、頑張ってるんだね」
「当たり前だ」
メノリの声は強い。強いのに、優しい。
その時、遠くの昇降口の方で、ルナが一度だけ振り返った。
誰かを探すみたいに。
でも、そこにいるのは、シャアラとメノリだけだった。ルナは気づかない。気づく必要もない。
ルナは小さく微笑み、また前を向いて歩き出した。
シャアラがぽつりと言った。
「……ルナ、ほんとは、あの人に“好き”って言いたいのかな」
メノリは答えない。
答えない代わりに、静かに言った。
「言いたいだろうな」
シャアラの胸が切なくなる。
「でも……言えないのかな」
「言えない時期もある」
メノリの声は淡々としていた。けれど、その淡々は、現実を知っている人の声だ。
「相手が自分の足で立てていない時に、好きだと言うのは……優しさにも、残酷にもなる」
「……うん」
シャアラは小さく頷いた。
冬の廊下に、また冷たい風が流れた気がした。
メノリは、腕を組み直し、言う。
「行くぞ、シャアラ」
「どこに?」
「ルナを追う」
メノリの言葉に、シャアラは目を丸くする。
「声をかけるの?」
「断った直後だ。今すぐ慰めるのは逆効果だろ」
「じゃあ、どうするの?」
「いつも通りにする」
メノリは歩き出しながら言った。
「“いつも通り”に話しかける。それが、ルナにとって一番楽だ」
シャアラはその背中を追いかける。
「メノリ、意外と気遣いできるよね」
「当たり前だ。生徒会長をなめるな」
「はいはい」
シャアラは笑った。
冬は冷たい。
でも、冷たいからこそ、誰かの言葉や体温が、少しだけ強く感じられる。
ルナが告白を断ったことは、ただの出来事では終わらない。
ルナの心に残る。
相手の心にも残る。
そして、それを見ていたシャアラとメノリの心にも残る。
それでも、日常は進む。
だからこそ――
シャアラとメノリは、ルナの背中を追いながら、ただ“いつも通り”の明るい声で呼びかける準備をした。
ルナが一人で抱え込まないように。
冬の中で、誰かが凍えないように。
ーーーー
廊下の空気が、冬の匂いをしていた。
ソーラ・デッラ・ルーナの季節設定は完璧で、窓の外に見える街路樹の葉はすっかり落ち、照明の色温度まで少し白く冷たい。帰り支度を急ぐ生徒たちの足音が、床に乾いたリズムを刻んでいく。
ルナは昇降口へ向かう途中、胸の奥に残った小さな痛みをそっと握りしめたまま歩いていた。
さっきの告白。
断ったときの相手の表情。
「ありがとう」と言われたときの、胸の苦しさ。
慣れることが正しい気がしない。慣れてしまったら、自分の中の何かが鈍ってしまう気がする。だから、ルナはその痛みを“悪いもの”として捨てずに、ただ抱えて歩いた。
――その背中に、二つの気配が近づく。
シャアラとメノリだった。
遠目に見てもわかる。シャアラは心配そうに眉を寄せていて、メノリはいつものように真っ直ぐな視線でルナを見ている。二人とも、今こそ声をかけるべきだと判断したのだろう。
「ルナ――」
シャアラが小さく呼びかけようとした、その瞬間だった。
「……ルナ」
低い声が、先に割って入った。
ルナの足が止まる。
背中がほんの少し強張るのを、自分で感じた。
振り向かなくてもわかった。――リュウジだ。
ルナはゆっくり振り返った。
そこにいたのは、いつものリュウジだった。黒髪短髪、整った顔立ち。周囲から少し距離を取るような立ち方。視線の置き方は冷静で、誰かに媚びる気配はない。けれど、ルナの目は、そこに“いつもと違う薄さ”を見つけてしまう。
目の奥に、影がある。
それは暗さではなく、削れたみたいな影。何かを言う前に、胸のどこかで先に諦めてしまった人間の影。
ルナが言葉を探すより早く、リュウジが口を開いた。
「話したいことがある」
短い言葉だった。
それだけで、ルナの鼓動が一度跳ねる。
「……少し、いいか」
「うん」
ルナは頷いた。頷きながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに驚いた。心の中は落ち着いていないのに、声だけが平然としている。
背後で、シャアラとメノリが同時に息を呑む気配がした。
ルナが彼女たちを見るより先に、二人は反射的に物陰へと身を引いた。廊下の角、掲示板の影、柱の陰。目立たない場所に隠れて、顔だけをそっと覗かせる。
「な、なにしてるの……」とシャアラが囁く気配。
「黙れ。聞くぞ」とメノリの小さな声。
その二人の気配が、妙に鮮明に耳に入ってしまう。ルナは振り返らない。振り返ったら、逆に不自然になる。だから、気づかないふりをして、リュウジに向き直った。
リュウジは少しだけ視線を外し、廊下の奥、誰もいない方向へ顎を向けた。
「……ここじゃ落ち着かないな」
そう言って歩き出す。ルナは小さく頷いて、隣に並んだ。
歩幅は自然と合う。合わせようとしなくても、合ってしまう。ルナはそのことが嬉しくて、同時に苦しくなる。
冬の廊下は長い。窓から差し込む光が、二人の影を床に伸ばしていく。影が並ぶ。並ぶだけで、胸が痛いのはなぜだろう。
やがて二人は、人気の少ない廊下の端に立ち止まった。外の音が遠のく。部活帰りの声も、教室の扉の開閉音も、ここには届きにくい。
リュウジはルナを見た。
ルナもリュウジを見返した。
彼の瞳はまっすぐで、逃げ道を作らない種類のまっすぐさだった。だからこそ、ルナは身構えてしまう。
――もしかして。
心のどこかで、期待が芽を出しそうになる。
それを押し潰すのに、ルナは小さく息を吸った。
後ろの柱の陰で、メノリとシャアラが“聞き耳”を立てているのが分かる。二人とも、きっと同じことを考えている。
リュウジが告白するのではないか。
そんな予感。
そんな期待。
そんな恐れ。
シャアラの胸は今にも破裂しそうだろうし、メノリは「ありえんだろ」と言いながらも、顔色が変わっているに違いない。
けれど――
リュウジは、いつも通りの短い言葉で、それをあっさり裏切った。
「冬休みから、俺はソリア学園を辞める」
ルナの世界が、一拍遅れて止まった。
「……え?」
声が、間抜けに漏れた。
頭の中で言葉の意味が追いつかない。“辞める”という単語は強すぎて、すぐに理解できない。だって、急すぎる。だって、何も聞いていない。
ルナの表情が固まったのを見て、リュウジは続ける。
「冥王星にある学校に編入する」
冥王星。
その単語は、距離として胸に刺さった。
火星でも、木星でもない。冥王星。空の果て。呼吸が薄くなるような遠さ。
ルナは目を瞬いた。
言葉を探したのに、喉が乾いて声が出ない。胸の奥に、冷たい水を流し込まれたみたいに、すうっと体温が奪われていく。
“冥王星”という音だけが、頭の中を反響する。
ルナはやっと口を開いた。
「……急、だね」
それしか言えなかった。
もっと言いたいことがある。聞きたいことがある。怒りたいことも、泣きたいことも、たくさんある。なのに、最初に出てきたのはあまりに平凡な一言だった。
リュウジは、ほんの少しだけ眉を動かした。
「急だ」
認めた。
その短い肯定が、余計にルナの胸を締め付ける。
ルナは喉を鳴らし、必死に平静を保った。
「……どうして?」
自分の声が震えないように。震えたら、その瞬間に崩れてしまう気がした。
リュウジは少し間を置いた。言葉を選んでいるのか、選ぶ必要がないと思っているのか、その境界が分からない沈黙。
そして、リュウジは言った。
「やりたいことがある」
ルナの胸が、また痛む。
それは知っている。
リュウジがS級を返上した理由も、“やりたいことを見つけたから”だって、ルナは聞いている。あの夜、唐揚げの食卓で、チャコと笑っていたリュウジの横顔を、ルナは覚えている。
だから、ルナはもう一歩踏み込んだ。
「……それをするために、編入するの?」
リュウジは――そこで、笑った。
ほんの僅かな笑み。
口角だけが上がった、形だけの笑み。
ルナは、ぞくりとした。
その笑みは、作った笑みだった。
リュウジは“笑ってみせる”ことができる。ソリア学園で、女子生徒に囲まれても、無碍にせず笑顔を作れる。必要なら“愛想”という仮面をかぶれる。
でも、ルナは知っている。
今の笑みは、あのときの“周りに向けた笑顔”とは違う。
誰かを安心させるための笑み。誰かを遠ざけるための笑み。
つまり――ルナを、傷つけないための笑み。
「……ああ」
リュウジは頷きながら言った。
ルナは、頷き返した。
本当は言いたかった。
“行かないで”って。
“どうして私に、もっと早く言ってくれなかったの”って。
“冥王星なんて遠すぎる”って。
でも、言えなかった。
言ったら、リュウジの“やりたいこと”を止めることになる気がしたから。
それは、ルナが一番したくないことだった。
リュウジが前に進もうとしている。――たとえそれが、作った笑みの裏側で、まだ何かに傷ついていたとしても。
ルナは、胸の奥の痛みを抱えたまま、声を出した。
「……そっか」
言葉が、軽く聞こえないように、ルナは意識して柔らかく言った。
「冥王星の学校って……すごいね」
すごいね、なんて。自分でも変な言い方だと思う。けれど、“すごい”以外の言葉が見つからない。すごい。遠い。怖い。寂しい。全部が混ざってしまって、結局、無難な表現しか出てこない。
リュウジは「別に」と言いそうな顔をした。でも口に出したのは違った。
「……必要なんだ」
必要。
その言葉が、ルナの胸の中で重く響く。
必要なら、止められない。
ルナはそう理解した。
背後で、シャアラが「え……」と小さく声を漏らす気配がした。メノリは息を止めているようだった。二人とも、リュウジの“告白”を期待してしまっていたのだろう。だからこそ、この現実に固まっている。
ルナは唇を噛み、もう一度リュウジを見た。
彼の目は、どこか遠くを見ている。冥王星という場所を、もう心の中では歩き出している。
ルナは、その視線の先に自分がいないことを理解して、胸がちくりと痛んだ。
それでも。
ルナは笑った。
今度は作り笑いではない。痛いけれど、本物の笑み。
「……頑張って」
その一言に、ルナの気持ちを全部詰め込んだ。
寂しい。
怖い。
でも、応援したい。
あなたが決めたなら、私は支えたい。
ルナは続ける。
「やりたいことのために、前に進んでよ。リュウジ」
声が、ほんの少し震えた。
震えたのは、寒さのせいにしたかった。冬の廊下だから、空気が冷たいから。そうやって、涙の理由を季節のせいにしたかった。
リュウジは、その言葉を聞いて、また笑った。
――やっぱり、作った笑みだった。
だけど、その作り笑いの奥に、ほんの少しだけ、揺れる何かが見えた気がした。
罪悪感かもしれない。
感謝かもしれない。
あるいは、決意を揺らがせないための自制かもしれない。
「……お前は、そう言うと思った」
リュウジの声は低い。
「私は、いつもそうだよ」
ルナは笑いながら返した。
いつも、仲間を送り出すときは笑ってきた。
サヴァイヴでもそうだった。
危険な場所へ向かう仲間に、泣いて縋りつくより、“帰ってきて”と笑って言う方が、仲間は前を向ける。
ルナはそれを知っている。
知っているからこそ、今も笑える。
でも――
胸の奥は、ぐちゃぐちゃだった。
“好き”という気持ちが、言葉にならないまま残っている。
“行かないで”という叫びが、喉の奥に詰まっている。
“もっと一緒にいたい”という願いが、指先の先まで満ちている。
なのに、ルナはそれを全部飲み込む。
飲み込んで、笑う。
それが自分の役目だと思ってしまう。
ルナは気づいてしまった。
さっき男子生徒に告白を断ったときの痛みと、今の痛みは似ている。
違うのは、相手を傷つけたくない痛みではなく、自分が傷つく痛みだということ。
ルナは喉が熱くなるのを堪えながら、わざと軽い調子で言った。
「冥王星って寒いのかな」
「寒いだろ」
リュウジが即答する。
「じゃあ、ちゃんと防寒してね」
「分かってる」
「……ちゃんと食べて」
「子ども扱いするな」
いつものやり取り。
それが嬉しい。
でも、それが痛い。
“いつものやり取り”が、もうすぐできなくなる。
ルナは笑みを保ったまま、目を瞬いた。
涙が落ちそうになるのを、目の奥で止める。
ルナは、自分の気持ちを悟られないように、少しだけ話題を変えた。
「冬休みからってことは……卒業式はもう一緒じゃないんだね」
「ああ」
ぶっきらぼうに言うリュウジ。
その言い方は冷たいようで、実は“ルナのやるべきことをやれ”という背中押しでもある。
ルナは頷いた。
「……そっかぁ」
いつも通りに呟く。
その“いつも通り”が、どれだけ難しいかを、ルナは胸の奥で噛み締めた。
リュウジは一度だけ、ルナから視線を外した。
まるで、ルナの表情を見続けたら、何かを言ってしまいそうだったみたいに。
「……言うの遅くなった」
ぽつりとした声。
謝罪なのか、言い訳なのか分からない。でも、ルナはそれ以上追及しなかった。
追及したら、泣いてしまいそうだから。
ルナはただ、首を横に振る。
「いいよ。言ってくれてありがとう」
本当は“もっと早く言って”と言いたい。
でも、言わない。
今、言うべき言葉じゃない。
ルナは自分に言い聞かせる。
――リュウジは、やりたいことのために前に進む。
――それを、私は応援する。
応援するって決めた。
決めたなら、最後まで笑って見送る。
ルナは胸の奥をぎゅっと握りしめ、少しだけ声を明るくした。
「ねえ、冥王星に行っても、連絡は取れるよね?」
「……取れると思う」
リュウジの返事は短い。短いけれど、否定ではない。
ルナは、その短さに救われる。
“もう関わるな”と言われたわけではない。
だから、ルナは頷いた。
「じゃあ、たまには返事してよ。私、心配するから」
「……善処する」
その言い方が、リュウジらしくて、ルナは思わず小さく笑ってしまった。
「なにそれ」
「俺はそういうのが得意じゃない」
「知ってる」
知ってる。
だから、余計に苦しい。
ルナは、今の会話が“最後の普通”にならないようにと願ってしまう。
でも現実は、冬休みから変わる。
リュウジはいなくなる。
冥王星へ行く。
ルナはここに残る。
残って、夢を追う。
惑星開拓技師になるために。
それがルナの夢。リュウジが背中を押した夢。
だからこそ、矛盾している。
リュウジが遠くへ行くことが、ルナの夢にも繋がっている気がしてしまう。
胸がぐちゃぐちゃになる。
ルナが黙っていると、リュウジが小さく息を吐いた。
「……ルナ」
「なに?」
リュウジは少しだけ口を開きかけた。
その一瞬、ルナの心臓が跳ねる。
もしかして、何か別の言葉が来るのではないかと。
“好き”とか、そういう言葉ではなくても。
“寂しい”とか、“ありがとう”とか。
何か。
でも――リュウジは結局、視線を逸らし、短く言った。
「……無理するなよ」
たったそれだけ。
それだけなのに、ルナの胸が熱くなってしまう。
無理するなよ。
それは、今一番言われたくて、言われたら崩れてしまう言葉だ。
「……うん」
ルナは頷く。
頷きながら、笑みを作る。
今度は、少しだけ作り笑いだった。
自分でも分かる。
リュウジに“作った笑み”を見抜かれたくないから、ルナは目を逸らした。
「私は平気だよ」
平気じゃない。
でも平気と言う。
ルナはそういう人間だ。
リュウジは何も言わなかった。
その沈黙が、優しさなのか、諦めなのか分からない。
ルナは胸の奥で、ただ願う。
リュウジが冥王星へ行っても、笑える日々を手に入れますように。
作った笑みじゃなくて、本当の笑みを浮かべられますように。
やりたいことのために、前に進めますように。
そして――その道の途中で、いつかまた、私と交差しますように。
ルナはその願いを言葉にしない。
言葉にしたら、涙になってしまうから。
リュウジが一歩引いて、言った。
「じゃあ、俺は行く」
「うん」
「……またな」
「……またね」
ルナは頷いた。
“またね”という言葉に、未来を詰め込む。
未来があると信じる。
信じることしか、今はできない。
リュウジが背を向けて歩き出す。
その背中を見送りながら、ルナは背筋を伸ばした。
泣かない。
今は泣かない。
背中を押すって決めたから。
その背中が角を曲がり、見えなくなる直前――リュウジは一度だけ振り返った。
ルナと目が合う。
その瞬間、ルナの胸が震える。
リュウジは何か言いかけて、言わなかった。
代わりに、ほんの僅かに口角を上げた。
作った笑み。
でも、さっきより少しだけ――ほんの少しだけ、柔らかい笑み。
ルナは、それだけで救われてしまう自分が悔しい。
悔しいのに、嬉しい。
ルナはその笑みに、精一杯の笑みで返した。
角を曲がって、リュウジが消える。
その瞬間、ルナの肩から力が抜けた。
息を吐いたら、心が少しだけ揺れた。
――その背後から、ぱっと二つの影が飛び出してくる。
「ルナ……!」
シャアラが最初に駆け寄った。
「……おい」
メノリが少し遅れて、眉をひそめながらも近づく。
二人とも、顔が青い。
さっきまで隠れて聞いていた罪悪感と、聞いてしまった現実の重さが、表情に出ている。
シャアラは今にも泣きそうな顔で言った。
「……ごめん、聞いちゃった……」
メノリは咳払いして、言い訳みたいに言う。
「……偶然だ」
ルナは二人を見て、ふっと笑った。
笑ったら、胸の痛みが少しだけ和らいだ。
「ううん。いいよ」
ルナは言う。
「……びっくりしたね」
シャアラは頷き、唇を噛む。
「うん……すごく……」
メノリは腕を組み、いつものように強い口調で言った。
「急すぎるだろ」
ルナは頷いた。
「うん、ほんと急だよ」
でも。
ルナはもう一度、深く息を吸った。
そして、言った。
「でも、リュウジが決めたなら……私は応援するよ」
言いながら、胸が痛む。
痛むのに、嘘じゃない。
シャアラが涙目で言う。
「ルナ、強いね……」
ルナは首を横に振った。
「強くないよ」
強くない。
ただ、好きだから。
好きな人が前に進むなら、背中を押したい。
それだけだ。
ルナは冬の廊下の冷たい光の中で、もう一度、心の中で呟いた。
――行ってらっしゃい。
――頑張って。
――いつか、また。
複雑な感情が胸の中で絡まって、ほどけないまま残る。
それでもルナは、笑って歩き出した。
送り出すって、決めたから。