学園内の掲示板には「冬季休暇の過ごし方」「帰省・旅行の注意事項」といった張り紙が増え、廊下を行き交う生徒たちも、宿題の量に嘆きながらもどこか楽しそうに笑っている。売店の棚には季節限定の甘い菓子が並び、夕方の光が窓ガラスに反射して廊下を白く伸ばした。
ルナは、その“いつも通りの冬休み前”の雰囲気の中で、ひとりだけ違う季節に立っているような感覚を拭えずにいた。
リュウジは、冬休みから冥王星の学校に編入する。
その言葉が頭の中に居座ったまま、日常が淡々と進んでいくのが不思議で、少し腹立たしくもある。世界は変わらず回っていて、授業もテストも生徒会の仕事も、何事もなかったように積み重なっていく。
――けれど、リュウジの“区切り”は確かにそこにある。
ルナの胸は、痛いままだった。
それでも、ルナは口を挟まなかった。口を挟んだ瞬間、リュウジが作っている薄い笑みが崩れてしまう気がして、怖かったからだ。
そして、冬休みに入る少し前。
リュウジは、仲間たちにきちんと伝えることを選んだ。
最初に“呼ばれた”のは、放課後の教室だった。
いつもより少し早く授業が終わり、皆が帰り支度を始めている時間。窓の外は夕焼けが薄く、空の端が灰色に滲み始めている。
ルナは偶然、廊下でメノリとすれ違い、ひとことだけ告げられた。
「今日、来い。……リュウジから話がある」
それだけで、ルナの胸はぎゅっと縮む。
“話がある”という言い方が、怖かった。
しかしルナは、聞き返さなかった。メノリの目が真剣だったからだ。冗談の空気は一切ない。
ルナは頷き、教室へ戻った。
そこには、シャアラ、シンゴ、ベル、そしてリュウジがいた。カオルやハワードは今は別の場所にいる。だからこそ、ここにいるのは今の“このメンバー”だけ。
リュウジは、いつも通りの顔をしていた。
けれど、ルナには分かる。今日のリュウジは、いつもより姿勢が硬い。視線の置き方が不自然に整っている。心の中で何度も言葉を組み立てているときの、あの感じ。
メノリは腕を組み、教室の扉を閉めて言った。
「全員揃ったな。……話せ、リュウジ」
メノリの“だろ”調の口調はいつも厳格だが、今日はそこに、妙に優しい“逃がさない”が混ざっていた。変な慰めをするより、事実を受け止める場を作る。それがメノリの優しさだ。
リュウジは一度だけ喉を鳴らし、短く息を吐いた。
「……冬休みから、俺はソリア学園を辞める」
その瞬間、空気が止まった。
知っているはずなのに、実際に聞くと違う。ルナは胸の奥がひりつくのを感じる。痛いのに、顔は動かないように努力する。
シャアラが目を丸くして、口元を押さえた。
「え……」
ベルが、ゆっくりと息を吐いた。
「……冗談じゃ、ないよな」
シンゴは本を抱えたまま、言葉を失っている。彼は頭の回転が速いぶん、理解が追いついた瞬間に感情が遅れてくるタイプだ。
メノリは視線を逸らさず、淡々と問いを重ねる。
「……どこへだ」
リュウジは短く答えた。
「冥王星の学校に編入する」
“冥王星”という言葉が落ちた瞬間、シャアラの顔色が変わった。距離の重さを、彼女は直感で感じ取ってしまったのだろう。ベルも眉を寄せる。
シンゴは、ようやく声を出した。
「……なんで?」
その言葉は、責める声ではなく、純粋な疑問だった。シンゴにとって、リュウジは“できる大人”のような存在でもある。だから、彼が学園を去ることが、理解できない。
リュウジは、少しだけ間を置き、言った。
「やりたいことがある。そのために必要なんだ」
その一言で、メノリが小さく頷く。
彼女は知っている。リュウジがS級を返上した理由も“やりたいことを見つけたから”だということを。だから、ここで揺らすようなことはしない。
シャアラは震える声で尋ねた。
「……いつ、行くの?」
「冬休みに入ってすぐだ」
ベルが、ぽつりと言った。
「……もう、すぐじゃないか」
「そうだな」
リュウジは淡々としている。淡々としなければ、崩れるからだとルナには分かる。
ルナは、言葉を探した。
“寂しい”と言いたい。
“行かないで”と言いたい。
でも、ここでそれを言ったら、皆の前でリュウジを縛ることになる気がした。だから、ルナは飲み込む。
代わりに、ルナは“仲間として”言うべき言葉を選んだ。
「……やりたいこと、なんだね」
ルナの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。穏やかにしていないと、涙が溢れてしまうからだ。
リュウジはルナを一度だけ見て、すぐ視線を外した。
その動きが、ルナの胸を刺す。
――見たら、何か言ってしまいそうだったのだろう。
メノリが静かに言った。
「……お前らしくて、腹立つな」
「は?」
リュウジが眉を動かすと、メノリはふっと笑った。
「決める時だけ一人で決める。そういうところだろ」
その言葉に、シャアラが涙目で頷きかけ、慌てて首を振る。
「メノリ、それ言っちゃ……」
「いい。言わないと伝わらない」
メノリは、強い声でそう言った。けれど、目は柔らかい。怒っているのではなく、リュウジを“仲間の輪”に引き戻そうとしている。
シンゴが、小さく言った。
「……でも、ちゃんと伝えてくれた」
ベルも頷く。
「ああ。黙って消えるより、ずっといい」
シャアラは唇を噛み、震える声で言った。
「……わたし、寂しい」
その一言で、教室の空気が少しだけ緩む。シャアラが言ってくれたから、皆が同じ気持ちだと認めやすくなった。
リュウジは、ほんの少しだけ困った顔をした。
「……悪い」
短い謝罪だった。
メノリは首を横に振る。
「謝るな。夢のためだろ。……ただ、ちゃんと送らせろ」
その言葉に、リュウジが一瞬だけ目を見開く。
「送る?」
「ささやかだがな」
メノリは言い切った。
「コロニーにある小さなレストランで、送別会をやる。決定だ」
言い切り方がメノリらしい。反論の余地を残さない。けれど、それは“やさしさ”だ。逃げ道を塞ぐことで、リュウジが遠慮して断れないようにする。
リュウジはため息をついた。
「……勝手だな、お前は」
「褒め言葉として受け取っておく」
メノリが淡々と言うと、ベルが小さく笑った。
「強いな」
「当然だろ」
メノリは胸を張る。だが、その目は少し潤んでいる気がした。メノリは感情を表に出すのが苦手だ。だから、強がる。
シンゴは目を輝かせた。
「送別会!いいね!……リュウジ、何が食べたい?」
その質問があまりにもシンゴらしくて、場が少しだけ明るくなる。
リュウジは首を傾げた。
「……別に」
「別に、って言うと思った!」
シンゴが笑い、シャアラも少し笑う。
ベルが、穏やかな声で言った。
「じゃあ、みんなが食べたいものにしよう。リュウジも一緒に食べればいい」
その言い方が、ベルらしい。押し付けないのに、輪に入れる。
リュウジは、抵抗するように口を開いた。
「……そんなの、わざわざ」
メノリが即座に遮る。
「わざわざだ」
きっぱり。
「お前は“区切り”をつけるために動いている。なら、私たちは“区切り”を渡すために動く。それだけだ」
ルナはその言葉を聞いて、胸が痛くなった。
区切り。
リュウジが言う区切りは、前に進むための区切り。
メノリが言う区切りは、仲間として送り出すための区切り。
同じ言葉なのに、意味が違う。
その違いが、ルナの心に刺さる。
――送別会の日。
コロニーの小さなレストラン。
そこは、派手ではない。けれど、木目のテーブルが温かく、照明が柔らかく、窓際には小さな観葉植物が並んでいる。外の夜景は控えめに光り、店内には静かな音楽が流れていた。
メノリが選んだ場所らしい。
騒がしすぎず、かといって重くなりすぎない。
“ささやか”という言葉の意味を、ちゃんと理解して選んだ店だ。
店の奥の席に、皆が集まった。
ルナ、メノリ、シャアラ、ベル、シンゴ、そしてリュウジ。
椅子に座った瞬間、ルナは気づいてしまう。
このメンバーで、こうして座るのは、もう“最後”になる可能性が高い。
だから、余計に息が苦しい。
それでも、ルナは笑う。
店員が水を置き、注文を取りに来る。メノリが手際よく人数分をまとめて頼み、シンゴが「僕はこれ!」と張り切って追加し、ベルが「俺はみんなに合わせるよ」と穏やかに笑う。シャアラはメニューを眺めながら「どれも美味しそう」と小さく呟き、ルナは「今日はいっぱい食べよう」と言った。
リュウジは、いつも通り少しだけ距離を取るように座っている。
けれど、今日の距離は“冷たさ”ではなく、“照れ”に見えた。
料理が運ばれてくる。
湯気が立つ。皿の上に温かい色が並ぶ。
ルナは、その湯気がまるで“今日の時間”そのものみたいだと思った。温かくて、形がなくて、触れたら消えてしまう。
乾杯はメノリが言った。
「……リュウジの、新しい道に」
グラスが軽く触れ合う音がした。
その音が、胸に響く。
皆で食べ始める。
最初は、普通の会話だった。
シンゴが「最近の授業さ、あの先生厳しいよね」と話し、ベルが「俺はあの先生、嫌いじゃないけどな」と笑う。シャアラが「読書の時間が減っちゃった」と嘆き、メノリが「減って当然だろ」と突っ込む。ルナが「でも、冬休みは読めるよ」とフォローして、シャアラが嬉しそうに頷く。
笑いが起きる。
それが、救いだった。
送別会だからといって、最初から泣く必要はない。泣いてしまったら、リュウジが困る。皆も困る。
だから、笑う。
笑って、食べる。
そして、少しずつ、話題は“冥王星”へ流れていく。
シンゴが口いっぱいに頬張りながら言った。
「冥王星の学校ってさ、何をやるの?」
メノリが眉を寄せる。
「それは……聞いていいのか」
シンゴは首を傾げた。
「え?だめ?」
ベルが穏やかに言う。
「聞くだけならいいだろ。答えたくなければ答えないでいい」
その言い方が、ベルの優しさだ。
リュウジは箸を置き、少しだけ考える素振りを見せた。
「……詳しくは言えない」
やはりそうだ。
ルナの胸が小さく痛む。言えないことがある。秘密がある。リュウジはいつだって、全部を話さない。全部を話さないことで、自分を守っている。
リュウジは続けた。
「でも、やりたいことに繋がる」
それだけ。
けれど、その一言は“本気”だった。
シンゴは頷く。
「そっか。じゃあさ、僕も、いつか追いかける!」
メノリが即座に突っ込む。
「追いかけるな。お前はまずソリア学園の課題を終わらせろ」
「うっ……正論!」
シンゴが頭を抱え、皆が笑う。
笑いながら、ルナは思う。
こういう普通の時間を、どれだけ大事にしていたのか。
サヴァイヴで漂流して、命の危険の中で生きてきたからこそ、こういう“普通の食事”が、何より尊いと知っている。
だからこそ、失うのが怖い。
食事が進むにつれ、メノリが静かに話を変えた。
「……リュウジ」
その呼び方が、少しだけ柔らかい。
「お前は、いつから決めていた」
リュウジは少しだけ眉を動かす。
「……前から」
「前から、っていつだ」
「……去年の今頃には」
ルナは息を呑んだ。
その頃には、もう冥王星の学校が視野にあったということだ。
ルナは思い出す。
唐揚げの食卓で、チャコと話していたリュウジ。
あのとき、彼は確かに“区切り”をつけたと言っていた。
それは、ただS級を返上するだけじゃなく、“次の場所”へ行く区切りだったのだ。
シャアラが小さく言う。
「……私たち、気づかなかった」
リュウジは首を横に振った。
「気づかなくていい」
短い言葉。
けれど、そこには“巻き込みたくなかった”が含まれているように思えた。
メノリが言った。
「気づかなくていい、じゃないだろ」
強い声だが、怒りではない。
「仲間だ。……共有しろとは言わん。だが、最低限、置いていくな」
その言葉に、リュウジの指先が微かに止まった。
ルナは気づく。
メノリは、リュウジを責めているのではない。
リュウジが“孤独に戻る”のが怖いのだ。
サヴァイヴで皆が学んだことは、一人で背負わないこと。皆で背負うこと。
メノリはそれを、口では厳しく言いながら、心では必死に守ろうとしている。
リュウジは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……悪い」
また短い謝罪。
けれど、さっきより少しだけ重い。
ベルが、ふっと笑って言った。
「謝るな。俺たちが勝手に送るだけだ」
ベルの言葉は、柔らかい。
シャアラが、涙を堪えながら言った。
「……うん。勝手に送る」
シンゴも頷く。
「勝手に応援する!」
メノリが小さく鼻で笑った。
「そうだ。勝手に応援する。……だからお前も勝手に頑張れ」
その言い方に、ルナは笑ってしまった。
笑った瞬間、涙が出そうになる。
ルナは慌てて水を飲むふりをして、喉を潤した。
しばらく、また普通の会話が続く。
冥王星の寒さの話。
荷物の話。
制服はどうなるのかという話。
シンゴが「僕、冥王星の天体データ見たい!」と騒ぎ、メノリが「学者か」と呆れ、ベルが「シンゴはそのままでいい」と笑う。
リュウジも、時折小さく笑う。
作った笑みに見える瞬間もある。けれど、時々だけ、本当の笑いが混ざる。
ルナはその一瞬を見逃さず、心の中で拾い集めた。
最後に。
メノリが、少しだけ姿勢を正した。
テーブルに手を置き、皆の顔を見渡す。
「……リュウジ。これだけは言っておく」
リュウジは黙ってメノリを見る。
「お前が冥王星へ行くのは、お前が決めたことだ。私たちはそれを止めない」
メノリの声は落ち着いている。
「だが、忘れるな。お前は一人じゃない。……それだけだ」
言い終えた瞬間、メノリは少しだけ目を逸らした。照れ隠しのようにグラスに手を伸ばし、水を飲む。彼女なりの“弱さ”の隠し方。
シャアラが小さく頷き、ベルも同じように頷いた。
シンゴは真剣な目で言った。
「絶対、連絡してよ。返事、してよ」
リュウジが眉を寄せる。
「……善処する」
「またそれ!」
シンゴが笑い、皆も笑った。
ルナは、その笑いの中で、胸の奥に何かが落ちるのを感じた。
――言わなきゃ。
ルナは思う。
ここで言わないと、きっと後悔する。
ルナは、手を膝の上で握りしめた。指先が冷たい。冬のせいだけじゃない。
ルナは、リュウジを見た。
リュウジはルナの視線に気づき、ほんの少しだけ顔を向ける。
ルナは笑った。
笑って、言う。
「リュウジ」
「……なんだ」
「頑張ってね」
あまりにもシンプルな言葉。
でも、ルナはそこに全部を込めた。
寂しい。
苦しい。
それでも応援する。
あなたが前に進むなら、私は背中を押す。
リュウジは一瞬だけ黙った。
そして、少しだけ目を細めた。
作った笑みではない気がした。
ほんの少しだけ、柔らかい。
「……ああ」
それだけだった。
それだけで、ルナの胸はいっぱいになる。
泣きそうになるのを堪え、ルナは慌てて笑いを足す。
「冥王星って遠いけど、メッセージは届くもんね。送るからね」
「……好きにしろ」
その返事が、リュウジらしい。
メノリが咳払いをして言った。
「よし。締めるぞ」
締める。
その言葉が、送別会の終わりを現実にする。
ルナは胸が痛くなるのに、頷いてしまう。
メノリは立ち上がり、少しだけ声を張った。
「送別会だと言っても、別れのようにする必要はない。……ただの区切りだ」
メノリは言う。
「リュウジ、お前は行け。やりたいことをやれ」
そして、少しだけ声を落として付け足す。
「……戻って来たいと思う場所ぐらい、残してやる」
その言い方に、シャアラが泣きそうな笑顔になった。
ベルが「会長、かっこいいな」と呟き、メノリが「うるさい」と返す。
シンゴが「じゃあ最後に写真撮ろう!」と言い出し、皆で小さく揉める。リュウジは「面倒だ」と言いながらも、結局は席に残ってくれる。
店員に頼んで撮った写真は、少しブレていた。シンゴが動いたせいだ。メノリが「だから落ち着けと言っただろ」と呆れる。シャアラが「でも、これが私たちらしいよ」と笑う。ベルが「俺は好きだな」と頷く。
リュウジは写真を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。
それが本物か作り物かは、ルナには分からない。
でも、ルナは願う。
冥王星へ行っても、その笑みが消えませんように。
そして、別れ際。
店を出た夜のコロニーは冷えていた。吐く息が白い。街の灯りがきらきらと瞬く。
皆で歩く道。
当たり前だったはずの“帰り道”が、今日はやけに特別に感じる。
ベルが言った。
「リュウジ、荷物持ち手伝うか?」
「いらん」
「そう言うと思った」
ベルが笑う。
シンゴが言った。
「冥王星行ったら、天体データ送って!」
「……お前はデータより課題をやれ」
「ひどい!」
シンゴが騒ぎ、皆が笑う。
シャアラはリュウジの少し後ろを歩きながら、小さな声で言った。
「……気をつけてね」
リュウジは振り向かずに、短く返した。
「ああ」
メノリは少し前を歩きながら言う。
「リュウジ。連絡が途切れたら、私が冥王星まで殴り込みに行く」
「来るな」
「行く」
即答。
リュウジがため息をつく。
ルナはその背中を見て、胸がいっぱいになる。
最後に、ルナは少しだけ歩幅を早め、リュウジの隣に並んだ。
夜風が冷たい。
でも、隣に並ぶと少しだけ温かい。
ルナは言った。
「今日は、来てくれてありがとう」
リュウジは横目でルナを見て、短く言う。
「……勝手に決めたのはお前らだろ」
「うん。でも、来てくれたから」
リュウジは少しだけ黙った。
それから、ぽつりと呟く。
「……悪くなかった」
その言葉に、ルナは笑った。
「でしょ」
胸が痛いのに、笑える。
この痛みは、きっと大事な痛みだ。
やがて、別れ道に差し掛かる。
それぞれの家へ帰る道。
ここで一旦解散だ。
メノリが言う。
「……じゃあな。明日も学校だ。遅れるな」
「分かってる」
リュウジが返す。
ベルが手を振る。
「気をつけろよ」
シンゴが大きく手を振る。
「絶対連絡してね!」
シャアラが小さく微笑む。
「おやすみ、リュウジ」
ルナも笑って言う。
「おやすみ」
リュウジは一瞬だけ皆を見渡し、短く言った。
「……おやすみ」
その声は小さかった。
けれど、確かにそこにあった。
皆がそれぞれの方向へ歩き出し、ルナも一歩踏み出す。
その瞬間、背中が急に軽くなって、代わりに胸が重くなる。
振り返りたい。
でも、振り返ったら泣いてしまう気がした。
ルナは前を向いて歩いた。
冬の空気が冷たい。
コロニーの灯りが遠い。
けれど、ルナは心の中でそっと言った。
――行ってらっしゃい。
――頑張って。
――そして、またね。
ささやかな送別会は終わった。
けれど、終わったからこそ、始まる。
それぞれが、それぞれの道へ向かう。
胸の痛みを抱えたままでも、歩けると信じて。
ルナは、夜のコロニーを歩きながら、そっと胸元のネックレスに触れた。
冷たい金属の感触が、確かな現実として指先に残った。
ーーーー
送別会の帰り道、ルナは笑っていたはずなのに。
玄関の鍵を開け、靴を脱いだ瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れたみたいに、胸の奥がじんわり痛んだ。コロニーの夜の冷たさがまだ頬に残っているのに、家の中は暖かい。それが余計に、心の隙間を浮き彫りにする。
「ただいま……」
小さく呟くと、廊下の奥から、ぱたぱたと軽い足音がして、チャコがひょいと顔を出した。
「おかえり、ルナ。どうやった?」
チャコの声はいつも通りで、ルナはそれが少しだけ救いだった。
「うん……楽しかったよ。みんなでちゃんと食べて、笑って……写真も撮った」
「ほぉ〜、写真。ええやんええやん」
チャコは満足げに頷いたが、ルナの顔を見て、すぐに首を傾げた。
「……なんや、その顔。楽しかった言う割に、目ぇ湿ってへん?」
「湿ってないよ」
ルナは即答しようとして、喉の奥が詰まる。誤魔化すように鞄を下ろし、上着をハンガーにかけた。指先が少し震えているのが、自分でも分かった。
「……チャコ。聞いて」
ルナがそう言うと、チャコは小さく「ん?」と鳴き、ソファの前に停まった。まるで“よし、座って話せ”と言わんばかりに。
ルナはソファに腰を下ろし、深呼吸をひとつ。
「リュウジ、冬休みから冥王星の学校に編入するんだって」
言った瞬間、部屋の空気が一瞬止まったように感じた。
チャコの目が、ぱちん、と大きく開いた。
「はぁ!? 冥王星!?」
次の瞬間、チャコはソファの背にホイールをぶつける勢いで身を乗り出した。
「なんやそれ! そんな重大案件、なんでウチに一言もなしやねん!!」
「……うん、それは私も思った」
ルナが小さく言うと、チャコはますます声を荒げる。
「いやいやいや、思った、やなくて! ウチはな、ルナの相棒やで!? サヴァイヴでも、毎日毎日、命張ってたんやで!? せやのに、冥王星行くって……」
チャコは言葉を切り、ふん、と鼻を鳴らした。
「リュウジのやつ、ウチには何の挨拶もないんか!?」
その言い方が、怒っているのにどこか寂しそうで、ルナは胸がきゅっとなった。
「……たぶん、言いづらかったんじゃないかな」
「言いづらいもなにも、言わなあかんことは言わなあかんねん!」
チャコはテーブルをぽん、と叩いた。
「そもそもな、あいつ、そういうとこあるやろ。大事なことほど一人で抱え込む。で、勝手に区切りつけて、勝手に行ってまう」
「……うん」
ルナは頷く。
送別会で、メノリが言っていた言葉が蘇る。
“決める時だけ一人で決める。そういうところだろ”
ほんとに、その通りだった。
ルナは両手を膝の上で組み、少し俯いた。
「でもね、今日、みんなにはちゃんと話したの。シャアラも、ベルも、シンゴも、メノリも……リュウジもちゃんと来た」
「そら来るやろ。メノリに言われたら逃げられへん」
チャコはぶつぶつ言いながらも、ルナの言葉を真剣に聞いていた。
「で? ルナはどうしたんや。止めたんか?」
ルナは首を横に振る。
「止めなかった。止められないよ。リュウジがやりたいことを見つけたって言うなら……それをやるために必要なんだって言うなら」
そこまで言って、ルナは息を詰めた。
喉の奥が熱くなって、声が少し震える。
「……でも、寂しい。すごく。……ほんとは、行かないでって言いたかった」
言ってしまった瞬間、涙がこぼれそうになって、ルナは慌てて目を瞬いた。
チャコは、いつもみたいに茶化さない。
少しだけ黙って、そして低い声で言った。
「……そら、寂しいに決まっとるわ。ウチも寂しい」
ルナは笑おうとしたが、うまく笑えない。
「それにね、チャコ……」
「ん?」
「リュウジ、今日も笑ってた。いつもみたいに。みんなと話して、ちょっとだけ本当に笑ってる瞬間もあった。でも……やっぱりどこか、作ってるように見える時もあった」
ルナは指先を握りしめる。
「だから、余計に心配で……」
その瞬間だった。
「はーーーーっ!? 心配?? そらそうや!!」
チャコは急にテンションを跳ね上げた。
「よっしゃ、決めた!」
「え?」
「電話や! 電話でいびったる!!」
チャコは宣言するや否や、ルナの隣にずいっと寄り、テーブルの上に置いてあったルナの携帯端末へ、機械の腕を伸ばした。
「ちょ、チャコ!」
「貸し!」
チャコが端末をひょいと掴む。
ルナは慌てて手を伸ばした。
「自分のでかければいいでしょう!」
言いながら、ルナはチャコの機体に手を添えて止めようとする。
しかしチャコは、ぴしっとルナの手を避けた。
「あかん。ルナの電話なら間違いなく出るさかい」
「それ、悪用じゃないの!?」
「悪用ちゃうわ! 正当な抗議や!」
チャコは胸を張った。
「ええか、ルナ。あいつ、ウチの電話なんか絶対取らへんで。『忙しい』とか『寝てた』とか言い訳して終わりや。でもルナの電話やったら、絶対出る。しかも“出えへんかったらルナが心配する”って分かっとるからな。あいつ、そういうとこだけ優しいねん。腹立つやろ」
「……腹立つっていうか……」
ルナは口を閉じた。
確かに、チャコの言う通りかもしれない。リュウジは、ルナを“心配させること”だけは避けようとする。避けようとするくせに、肝心のことは言わない。
チャコはすでに画面を操作して、リュウジの連絡先を開いていた。
「ほら、押すで。心の準備できとるか?」
「できてない!」
「はい、発信〜!」
「ちょっと待ってってば!」
ルナが止める間もなく、チャコは通話ボタンを押した。
コール音が鳴る。
ルナの心臓が、その音に合わせて跳ねる。変な緊張が体中に回って、手のひらに汗が滲む。
チャコは端末を耳……というよりスピーカーにし、堂々と構えて待った。
ワンコール。
ツーコール。
「出ぇへんかったら、殴り込みやな」
「殴り込みって……冥王星まで行くつもり?」
「行けるなら行きたいわ!」
チャコが真顔で言う。
スリーコール目に入る直前。
ぷつ、と音がして、繋がった。
『……ルナ?』
少し低い声。
やっぱり、出た。
ルナは息を呑む。
チャコはニヤッとした。悪い顔だ。絶対、今から何かやる顔だ。
「……リュウジ」
ルナが名前を呼ぶより早く、チャコが口を開いた。
「おいコラァ!! リュウジィ!!」
『……は?』
明らかにリュウジの声が固まった。
チャコは勢いのまま続ける。
「なんやねん冥王星って! ウチ、聞いてへん!! 挨拶もなしに消えるつもりか!? 旧式ロボやからって舐めとんのか!!」
『……チャコか。……なんでルナの端末から』
「細かいことはええねん!!」
チャコは一切止まらない。
「ウチはなぁ、ルナの相棒や! サヴァイヴで皆の命を繋いだこともあるんやぞ!? そんで今も、ルナの生活支えとるんやぞ!? せやのに、なんでウチに一言もないねん!!」
『……』
リュウジが黙った。
その沈黙に、ルナの胸がひやりとする。
チャコの言葉は刺さる。リュウジはこういう正面衝突が苦手だ。
ルナは慌てて口を挟んだ。
「チャコ、言い方……!」
だがチャコは止まらない。
「言い方もクソもあるかい! ほら! ちゃんと言え! “ごめんな”って! それだけでええねん!!」
『……』
数秒の沈黙の後、リュウジが小さく息を吐く音が聞こえた。
『……悪かった』
短い。
でも確かに、リュウジの声は少しだけ柔らかかった。
『……言うつもりだった。タイミングが……』
「タイミングが、やない!」
チャコが即座に切る。
「“言うつもり”は言わんのと同じや! 言うつもりで終わらせるな!」
『……』
また沈黙。
ルナは端末を持っているチャコの腕にそっと手を添えた。強引に奪い取るのではなく、落ち着いてと伝えるように。
「チャコ……」
チャコはほんの一瞬だけルナを見て、少し息を整えた。けれど、目はまだ怒っている。
ルナは端末に向かって言った。
「リュウジ。……今日はありがとう。来てくれて」
『……ああ』
「それで……チャコのこと、ちゃんと話してくれてよかったのに。チャコ、すごく気にしてるから」
『……分かってる』
分かってる、と言うわりに、ちゃんと伝えない。
それがリュウジだと分かっていても、ルナは胸が痛む。
チャコが横からぼそっと言った。
「分かっとるなら最初から言えや」
『……悪い』
リュウジがまた短く言った。
その謝り方が、リュウジらしくて、ルナは少しだけ笑ってしまいそうになった。笑ったら泣いてしまいそうで、笑えない。
チャコは腕を組むような姿勢になり、まだ納得していない声で言う。
「で? 冥王星行くまで、いつ挨拶来るんや?」
『……挨拶?』
「せや。ウチは“ちゃんとした挨拶”を要求しとる。口先の謝罪だけで済まそうと思うなよ」
『……分かった。……行く前に寄る』
その言葉に、ルナの胸が少しだけ軽くなる。
チャコは「よし」と言う代わりに、わざとらしく咳払いした。
「言質取ったで。逃げたら、ウチが追跡して冥王星まで飛ぶからな」
『……飛べるのか』
「気持ちの問題や!」
チャコが胸を張り、ルナは思わず小さく吹き出した。
その笑いが、部屋の空気を少しだけ温めた。
リュウジの声が少しだけ柔らかくなる。
『……ルナ。……遅いから、もう寝ろ』
「え?」
『……明日も学校だろ』
その言葉は、まるでいつも通りの会話みたいで、ルナの胸がきゅっとなった。
「……うん。でも、少しだけ、話したかった」
『……話しただろ』
ぶっきらぼうなのに、優しさが混ざっている。
ルナはその矛盾が、たまらなく切なくて、愛おしくて、苦しい。
「……うん。ありがとう」
『……ああ』
そして、通話が切れた。
チャコは端末を持ったまま、ふん、と鼻を鳴らした。
「まったく……相変わらず不器用やな、あいつ」
ルナは端末を受け取り、画面の黒い光を見つめた。
チャコの怒鳴り声に隠れていたけれど、リュウジは確かに謝った。挨拶も来ると言った。それだけでも、少しだけ救われた。
けれど――
ルナは胸の奥に残る“別の痛み”に気づく。
冥王星へ行くという現実は、変わらない。
笑って送り出すと言った自分の言葉も、変わらない。
それでも、寂しさは消えない。
ルナは小さく息を吐き、チャコを見た。
「チャコ……ありがとう。言ってくれて」
「当たり前や」
チャコはそっぽを向く。
「ウチはルナの相棒や。ルナが言えへんこと、ウチが言う。それが役目やろ」
その言葉が、ルナの胸にじんわり染みた。
ルナは笑い、そして少しだけ目を潤ませた。
「……うん」
チャコは慌てたように声を上げる。
「おい! 泣くな! 泣いたらウチまで泣きたなるやろ!」
「泣いてないよ」
「泣きそうな顔しとる!」
「……うん、ちょっとだけ」
ルナが正直に言うと、チャコは短く黙った。
それから、照れ隠しみたいに言った。
「……ま、冥王星行っても、メッセージは届く。写真も届く。連絡もできる。せやから、完全に消えるわけちゃう。……せやろ?」
「……うん」
「なら、今は寝て。明日、学校あるんやろ」
チャコはわざと強い口調で言って、ルナの背中をぽん、と押した。
ルナは立ち上がり、廊下へ向かう。
部屋の灯りが背中に残る。
振り返ると、チャコはテーブルの上に端末を置き、いつも通りの顔で言った。
「ほら、行き。ウチは戸締まり確認しとく」
「ありがとう、チャコ」
「礼はええ。代わりに、明日ちゃんと朝飯食べるんやで」
「うん」
ルナは寝室へ向かいながら、胸の中でそっと呟いた。
――リュウジ。
ちゃんと挨拶してね。
そして、笑ってね。
作った笑顔じゃなくて、ほんの少しでいいから。
ルナは布団に潜り込んだ。
目を閉じても、送別会の店の灯りと、グラスが触れた音と、リュウジの短い返事が耳に残る。
寂しさは、消えない。
でも――
チャコが怒鳴ってくれたこと。
リュウジが謝ったこと。
挨拶に来ると言ったこと。
その小さな“繋がり”が、ルナの心を少しだけ支えてくれた。
ルナは息を整え、静かに呟いた。
「……おやすみ」
返事はない。
それでも、ルナは眠りに落ちていった。