サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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やりたいこと

 学園内の掲示板には「冬季休暇の過ごし方」「帰省・旅行の注意事項」といった張り紙が増え、廊下を行き交う生徒たちも、宿題の量に嘆きながらもどこか楽しそうに笑っている。売店の棚には季節限定の甘い菓子が並び、夕方の光が窓ガラスに反射して廊下を白く伸ばした。

 

 ルナは、その“いつも通りの冬休み前”の雰囲気の中で、ひとりだけ違う季節に立っているような感覚を拭えずにいた。

 

 リュウジは、冬休みから冥王星の学校に編入する。

 

 その言葉が頭の中に居座ったまま、日常が淡々と進んでいくのが不思議で、少し腹立たしくもある。世界は変わらず回っていて、授業もテストも生徒会の仕事も、何事もなかったように積み重なっていく。

 

 ――けれど、リュウジの“区切り”は確かにそこにある。

 

 ルナの胸は、痛いままだった。

 

 それでも、ルナは口を挟まなかった。口を挟んだ瞬間、リュウジが作っている薄い笑みが崩れてしまう気がして、怖かったからだ。

 

 そして、冬休みに入る少し前。

 

 リュウジは、仲間たちにきちんと伝えることを選んだ。

 

 最初に“呼ばれた”のは、放課後の教室だった。

 

 いつもより少し早く授業が終わり、皆が帰り支度を始めている時間。窓の外は夕焼けが薄く、空の端が灰色に滲み始めている。

 

 ルナは偶然、廊下でメノリとすれ違い、ひとことだけ告げられた。

 

「今日、来い。……リュウジから話がある」

 

 それだけで、ルナの胸はぎゅっと縮む。

 

 “話がある”という言い方が、怖かった。

 

 しかしルナは、聞き返さなかった。メノリの目が真剣だったからだ。冗談の空気は一切ない。

 

 ルナは頷き、教室へ戻った。

 

 そこには、シャアラ、シンゴ、ベル、そしてリュウジがいた。カオルやハワードは今は別の場所にいる。だからこそ、ここにいるのは今の“このメンバー”だけ。

 

 リュウジは、いつも通りの顔をしていた。

 

 けれど、ルナには分かる。今日のリュウジは、いつもより姿勢が硬い。視線の置き方が不自然に整っている。心の中で何度も言葉を組み立てているときの、あの感じ。

 

 メノリは腕を組み、教室の扉を閉めて言った。

 

「全員揃ったな。……話せ、リュウジ」

 

 メノリの“だろ”調の口調はいつも厳格だが、今日はそこに、妙に優しい“逃がさない”が混ざっていた。変な慰めをするより、事実を受け止める場を作る。それがメノリの優しさだ。

 

 リュウジは一度だけ喉を鳴らし、短く息を吐いた。

 

「……冬休みから、俺はソリア学園を辞める」

 

 その瞬間、空気が止まった。

 

 知っているはずなのに、実際に聞くと違う。ルナは胸の奥がひりつくのを感じる。痛いのに、顔は動かないように努力する。

 

 シャアラが目を丸くして、口元を押さえた。

 

「え……」

 

 ベルが、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……冗談じゃ、ないよな」

 

 シンゴは本を抱えたまま、言葉を失っている。彼は頭の回転が速いぶん、理解が追いついた瞬間に感情が遅れてくるタイプだ。

 

 メノリは視線を逸らさず、淡々と問いを重ねる。

 

「……どこへだ」

 

 リュウジは短く答えた。

 

「冥王星の学校に編入する」

 

 “冥王星”という言葉が落ちた瞬間、シャアラの顔色が変わった。距離の重さを、彼女は直感で感じ取ってしまったのだろう。ベルも眉を寄せる。

 

 シンゴは、ようやく声を出した。

 

「……なんで?」

 

 その言葉は、責める声ではなく、純粋な疑問だった。シンゴにとって、リュウジは“できる大人”のような存在でもある。だから、彼が学園を去ることが、理解できない。

 

 リュウジは、少しだけ間を置き、言った。

 

「やりたいことがある。そのために必要なんだ」

 

 その一言で、メノリが小さく頷く。

 

 彼女は知っている。リュウジがS級を返上した理由も“やりたいことを見つけたから”だということを。だから、ここで揺らすようなことはしない。

 

 シャアラは震える声で尋ねた。

 

「……いつ、行くの?」

 

「冬休みに入ってすぐだ」

 

 ベルが、ぽつりと言った。

 

「……もう、すぐじゃないか」

 

「そうだな」

 

 リュウジは淡々としている。淡々としなければ、崩れるからだとルナには分かる。

 

 ルナは、言葉を探した。

 

 “寂しい”と言いたい。

 

 “行かないで”と言いたい。

 

 でも、ここでそれを言ったら、皆の前でリュウジを縛ることになる気がした。だから、ルナは飲み込む。

 

 代わりに、ルナは“仲間として”言うべき言葉を選んだ。

 

「……やりたいこと、なんだね」

 

 ルナの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。穏やかにしていないと、涙が溢れてしまうからだ。

 

 リュウジはルナを一度だけ見て、すぐ視線を外した。

 

 その動きが、ルナの胸を刺す。

 

 ――見たら、何か言ってしまいそうだったのだろう。

 

 メノリが静かに言った。

 

「……お前らしくて、腹立つな」

 

「は?」

 

 リュウジが眉を動かすと、メノリはふっと笑った。

 

「決める時だけ一人で決める。そういうところだろ」

 

 その言葉に、シャアラが涙目で頷きかけ、慌てて首を振る。

 

「メノリ、それ言っちゃ……」

 

「いい。言わないと伝わらない」

 

 メノリは、強い声でそう言った。けれど、目は柔らかい。怒っているのではなく、リュウジを“仲間の輪”に引き戻そうとしている。

 

 シンゴが、小さく言った。

 

「……でも、ちゃんと伝えてくれた」

 

 ベルも頷く。

 

「ああ。黙って消えるより、ずっといい」

 

 シャアラは唇を噛み、震える声で言った。

 

「……わたし、寂しい」

 

 その一言で、教室の空気が少しだけ緩む。シャアラが言ってくれたから、皆が同じ気持ちだと認めやすくなった。

 

 リュウジは、ほんの少しだけ困った顔をした。

 

「……悪い」

 

 短い謝罪だった。

 

 メノリは首を横に振る。

 

「謝るな。夢のためだろ。……ただ、ちゃんと送らせろ」

 

 その言葉に、リュウジが一瞬だけ目を見開く。

 

「送る?」

 

「ささやかだがな」

 

 メノリは言い切った。

 

「コロニーにある小さなレストランで、送別会をやる。決定だ」

 

 言い切り方がメノリらしい。反論の余地を残さない。けれど、それは“やさしさ”だ。逃げ道を塞ぐことで、リュウジが遠慮して断れないようにする。

 

 リュウジはため息をついた。

 

「……勝手だな、お前は」

 

「褒め言葉として受け取っておく」

 

 メノリが淡々と言うと、ベルが小さく笑った。

 

「強いな」

 

「当然だろ」

 

 メノリは胸を張る。だが、その目は少し潤んでいる気がした。メノリは感情を表に出すのが苦手だ。だから、強がる。

 

 シンゴは目を輝かせた。

 

「送別会!いいね!……リュウジ、何が食べたい?」

 

 その質問があまりにもシンゴらしくて、場が少しだけ明るくなる。

 

 リュウジは首を傾げた。

 

「……別に」

 

「別に、って言うと思った!」

 

 シンゴが笑い、シャアラも少し笑う。

 

 ベルが、穏やかな声で言った。

 

「じゃあ、みんなが食べたいものにしよう。リュウジも一緒に食べればいい」

 

 その言い方が、ベルらしい。押し付けないのに、輪に入れる。

 

 リュウジは、抵抗するように口を開いた。

 

「……そんなの、わざわざ」

 

 メノリが即座に遮る。

 

「わざわざだ」

 

 きっぱり。

 

「お前は“区切り”をつけるために動いている。なら、私たちは“区切り”を渡すために動く。それだけだ」

 

 ルナはその言葉を聞いて、胸が痛くなった。

 

 区切り。

 

 リュウジが言う区切りは、前に進むための区切り。

 

 メノリが言う区切りは、仲間として送り出すための区切り。

 

 同じ言葉なのに、意味が違う。

 

 その違いが、ルナの心に刺さる。

 

 ――送別会の日。

 

 コロニーの小さなレストラン。

 

 そこは、派手ではない。けれど、木目のテーブルが温かく、照明が柔らかく、窓際には小さな観葉植物が並んでいる。外の夜景は控えめに光り、店内には静かな音楽が流れていた。

 

 メノリが選んだ場所らしい。

 

 騒がしすぎず、かといって重くなりすぎない。

 

 “ささやか”という言葉の意味を、ちゃんと理解して選んだ店だ。

 

 店の奥の席に、皆が集まった。

 

 ルナ、メノリ、シャアラ、ベル、シンゴ、そしてリュウジ。

 

 椅子に座った瞬間、ルナは気づいてしまう。

 

 このメンバーで、こうして座るのは、もう“最後”になる可能性が高い。

 

 だから、余計に息が苦しい。

 

 それでも、ルナは笑う。

 

 店員が水を置き、注文を取りに来る。メノリが手際よく人数分をまとめて頼み、シンゴが「僕はこれ!」と張り切って追加し、ベルが「俺はみんなに合わせるよ」と穏やかに笑う。シャアラはメニューを眺めながら「どれも美味しそう」と小さく呟き、ルナは「今日はいっぱい食べよう」と言った。

 

 リュウジは、いつも通り少しだけ距離を取るように座っている。

 

 けれど、今日の距離は“冷たさ”ではなく、“照れ”に見えた。

 

 料理が運ばれてくる。

 

 湯気が立つ。皿の上に温かい色が並ぶ。

 

 ルナは、その湯気がまるで“今日の時間”そのものみたいだと思った。温かくて、形がなくて、触れたら消えてしまう。

 

 乾杯はメノリが言った。

 

「……リュウジの、新しい道に」

 

 グラスが軽く触れ合う音がした。

 

 その音が、胸に響く。

 

 皆で食べ始める。

 

 最初は、普通の会話だった。

 

 シンゴが「最近の授業さ、あの先生厳しいよね」と話し、ベルが「俺はあの先生、嫌いじゃないけどな」と笑う。シャアラが「読書の時間が減っちゃった」と嘆き、メノリが「減って当然だろ」と突っ込む。ルナが「でも、冬休みは読めるよ」とフォローして、シャアラが嬉しそうに頷く。

 

 笑いが起きる。

 

 それが、救いだった。

 

 送別会だからといって、最初から泣く必要はない。泣いてしまったら、リュウジが困る。皆も困る。

 

 だから、笑う。

 

 笑って、食べる。

 

 そして、少しずつ、話題は“冥王星”へ流れていく。

 

 シンゴが口いっぱいに頬張りながら言った。

 

「冥王星の学校ってさ、何をやるの?」

 

 メノリが眉を寄せる。

 

「それは……聞いていいのか」

 

 シンゴは首を傾げた。

 

「え?だめ?」

 

 ベルが穏やかに言う。

 

「聞くだけならいいだろ。答えたくなければ答えないでいい」

 

 その言い方が、ベルの優しさだ。

 

 リュウジは箸を置き、少しだけ考える素振りを見せた。

 

「……詳しくは言えない」

 

 やはりそうだ。

 

 ルナの胸が小さく痛む。言えないことがある。秘密がある。リュウジはいつだって、全部を話さない。全部を話さないことで、自分を守っている。

 

 リュウジは続けた。

 

「でも、やりたいことに繋がる」

 

 それだけ。

 

 けれど、その一言は“本気”だった。

 

 シンゴは頷く。

 

「そっか。じゃあさ、僕も、いつか追いかける!」

 

 メノリが即座に突っ込む。

 

「追いかけるな。お前はまずソリア学園の課題を終わらせろ」

 

「うっ……正論!」

 

 シンゴが頭を抱え、皆が笑う。

 

 笑いながら、ルナは思う。

 

 こういう普通の時間を、どれだけ大事にしていたのか。

 

 サヴァイヴで漂流して、命の危険の中で生きてきたからこそ、こういう“普通の食事”が、何より尊いと知っている。

 

 だからこそ、失うのが怖い。

 

 食事が進むにつれ、メノリが静かに話を変えた。

 

「……リュウジ」

 

 その呼び方が、少しだけ柔らかい。

 

「お前は、いつから決めていた」

 

 リュウジは少しだけ眉を動かす。

 

「……前から」

 

「前から、っていつだ」

 

「……去年の今頃には」

 

 ルナは息を呑んだ。

 

 その頃には、もう冥王星の学校が視野にあったということだ。

 

 ルナは思い出す。

 

 唐揚げの食卓で、チャコと話していたリュウジ。

 

 あのとき、彼は確かに“区切り”をつけたと言っていた。

 

 それは、ただS級を返上するだけじゃなく、“次の場所”へ行く区切りだったのだ。

 

 シャアラが小さく言う。

 

「……私たち、気づかなかった」

 

 リュウジは首を横に振った。

 

「気づかなくていい」

 

 短い言葉。

 

 けれど、そこには“巻き込みたくなかった”が含まれているように思えた。

 

 メノリが言った。

 

「気づかなくていい、じゃないだろ」

 

 強い声だが、怒りではない。

 

「仲間だ。……共有しろとは言わん。だが、最低限、置いていくな」

 

 その言葉に、リュウジの指先が微かに止まった。

 

 ルナは気づく。

 

 メノリは、リュウジを責めているのではない。

 

 リュウジが“孤独に戻る”のが怖いのだ。

 

 サヴァイヴで皆が学んだことは、一人で背負わないこと。皆で背負うこと。

 

 メノリはそれを、口では厳しく言いながら、心では必死に守ろうとしている。

 

 リュウジは、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

「……悪い」

 

 また短い謝罪。

 

 けれど、さっきより少しだけ重い。

 

 ベルが、ふっと笑って言った。

 

「謝るな。俺たちが勝手に送るだけだ」

 

 ベルの言葉は、柔らかい。

 

 シャアラが、涙を堪えながら言った。

 

「……うん。勝手に送る」

 

 シンゴも頷く。

 

「勝手に応援する!」

 

 メノリが小さく鼻で笑った。

 

「そうだ。勝手に応援する。……だからお前も勝手に頑張れ」

 

 その言い方に、ルナは笑ってしまった。

 

 笑った瞬間、涙が出そうになる。

 

 ルナは慌てて水を飲むふりをして、喉を潤した。

 

 しばらく、また普通の会話が続く。

 

 冥王星の寒さの話。

 

 荷物の話。

 

 制服はどうなるのかという話。

 

 シンゴが「僕、冥王星の天体データ見たい!」と騒ぎ、メノリが「学者か」と呆れ、ベルが「シンゴはそのままでいい」と笑う。

 

 リュウジも、時折小さく笑う。

 

 作った笑みに見える瞬間もある。けれど、時々だけ、本当の笑いが混ざる。

 

 ルナはその一瞬を見逃さず、心の中で拾い集めた。

 

 最後に。

 

 メノリが、少しだけ姿勢を正した。

 

 テーブルに手を置き、皆の顔を見渡す。

 

「……リュウジ。これだけは言っておく」

 

 リュウジは黙ってメノリを見る。

 

「お前が冥王星へ行くのは、お前が決めたことだ。私たちはそれを止めない」

 

 メノリの声は落ち着いている。

 

「だが、忘れるな。お前は一人じゃない。……それだけだ」

 

 言い終えた瞬間、メノリは少しだけ目を逸らした。照れ隠しのようにグラスに手を伸ばし、水を飲む。彼女なりの“弱さ”の隠し方。

 

 シャアラが小さく頷き、ベルも同じように頷いた。

 

 シンゴは真剣な目で言った。

 

「絶対、連絡してよ。返事、してよ」

 

 リュウジが眉を寄せる。

 

「……善処する」

 

「またそれ!」

 

 シンゴが笑い、皆も笑った。

 

 ルナは、その笑いの中で、胸の奥に何かが落ちるのを感じた。

 

 ――言わなきゃ。

 

 ルナは思う。

 

 ここで言わないと、きっと後悔する。

 

 ルナは、手を膝の上で握りしめた。指先が冷たい。冬のせいだけじゃない。

 

 ルナは、リュウジを見た。

 

 リュウジはルナの視線に気づき、ほんの少しだけ顔を向ける。

 

 ルナは笑った。

 

 笑って、言う。

 

「リュウジ」

 

「……なんだ」

 

「頑張ってね」

 

 あまりにもシンプルな言葉。

 

 でも、ルナはそこに全部を込めた。

 

 寂しい。

 

 苦しい。

 

 それでも応援する。

 

 あなたが前に進むなら、私は背中を押す。

 

 リュウジは一瞬だけ黙った。

 

 そして、少しだけ目を細めた。

 

 作った笑みではない気がした。

 

 ほんの少しだけ、柔らかい。

 

「……ああ」

 

 それだけだった。

 

 それだけで、ルナの胸はいっぱいになる。

 

 泣きそうになるのを堪え、ルナは慌てて笑いを足す。

 

「冥王星って遠いけど、メッセージは届くもんね。送るからね」

 

「……好きにしろ」

 

 その返事が、リュウジらしい。

 

 メノリが咳払いをして言った。

 

「よし。締めるぞ」

 

 締める。

 

 その言葉が、送別会の終わりを現実にする。

 

 ルナは胸が痛くなるのに、頷いてしまう。

 

 メノリは立ち上がり、少しだけ声を張った。

 

「送別会だと言っても、別れのようにする必要はない。……ただの区切りだ」

 

 メノリは言う。

 

「リュウジ、お前は行け。やりたいことをやれ」

 

 そして、少しだけ声を落として付け足す。

 

「……戻って来たいと思う場所ぐらい、残してやる」

 

 その言い方に、シャアラが泣きそうな笑顔になった。

 

 ベルが「会長、かっこいいな」と呟き、メノリが「うるさい」と返す。

 

 シンゴが「じゃあ最後に写真撮ろう!」と言い出し、皆で小さく揉める。リュウジは「面倒だ」と言いながらも、結局は席に残ってくれる。

 

 店員に頼んで撮った写真は、少しブレていた。シンゴが動いたせいだ。メノリが「だから落ち着けと言っただろ」と呆れる。シャアラが「でも、これが私たちらしいよ」と笑う。ベルが「俺は好きだな」と頷く。

 

 リュウジは写真を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。

 

 それが本物か作り物かは、ルナには分からない。

 

 でも、ルナは願う。

 

 冥王星へ行っても、その笑みが消えませんように。

 

 そして、別れ際。

 

 店を出た夜のコロニーは冷えていた。吐く息が白い。街の灯りがきらきらと瞬く。

 

 皆で歩く道。

 

 当たり前だったはずの“帰り道”が、今日はやけに特別に感じる。

 

 ベルが言った。

 

「リュウジ、荷物持ち手伝うか?」

 

「いらん」

 

「そう言うと思った」

 

 ベルが笑う。

 

 シンゴが言った。

 

「冥王星行ったら、天体データ送って!」

 

「……お前はデータより課題をやれ」

 

「ひどい!」

 

 シンゴが騒ぎ、皆が笑う。

 

 シャアラはリュウジの少し後ろを歩きながら、小さな声で言った。

 

「……気をつけてね」

 

 リュウジは振り向かずに、短く返した。

 

「ああ」

 

 メノリは少し前を歩きながら言う。

 

「リュウジ。連絡が途切れたら、私が冥王星まで殴り込みに行く」

 

「来るな」

 

「行く」

 

 即答。

 

 リュウジがため息をつく。

 

 ルナはその背中を見て、胸がいっぱいになる。

 

 最後に、ルナは少しだけ歩幅を早め、リュウジの隣に並んだ。

 

 夜風が冷たい。

 

 でも、隣に並ぶと少しだけ温かい。

 

 ルナは言った。

 

「今日は、来てくれてありがとう」

 

 リュウジは横目でルナを見て、短く言う。

 

「……勝手に決めたのはお前らだろ」

 

「うん。でも、来てくれたから」

 

 リュウジは少しだけ黙った。

 

 それから、ぽつりと呟く。

 

「……悪くなかった」

 

 その言葉に、ルナは笑った。

 

「でしょ」

 

 胸が痛いのに、笑える。

 

 この痛みは、きっと大事な痛みだ。

 

 やがて、別れ道に差し掛かる。

 

 それぞれの家へ帰る道。

 

 ここで一旦解散だ。

 

 メノリが言う。

 

「……じゃあな。明日も学校だ。遅れるな」

 

「分かってる」

 

 リュウジが返す。

 

 ベルが手を振る。

 

「気をつけろよ」

 

 シンゴが大きく手を振る。

 

「絶対連絡してね!」

 

 シャアラが小さく微笑む。

 

「おやすみ、リュウジ」

 

 ルナも笑って言う。

 

「おやすみ」

 

 リュウジは一瞬だけ皆を見渡し、短く言った。

 

「……おやすみ」

 

 その声は小さかった。

 

 けれど、確かにそこにあった。

 

 皆がそれぞれの方向へ歩き出し、ルナも一歩踏み出す。

 

 その瞬間、背中が急に軽くなって、代わりに胸が重くなる。

 

 振り返りたい。

 

 でも、振り返ったら泣いてしまう気がした。

 

 ルナは前を向いて歩いた。

 

 冬の空気が冷たい。

 

 コロニーの灯りが遠い。

 

 けれど、ルナは心の中でそっと言った。

 

 ――行ってらっしゃい。

 

 ――頑張って。

 

 ――そして、またね。

 

 ささやかな送別会は終わった。

 

 けれど、終わったからこそ、始まる。

 

 それぞれが、それぞれの道へ向かう。

 

 胸の痛みを抱えたままでも、歩けると信じて。

 

 ルナは、夜のコロニーを歩きながら、そっと胸元のネックレスに触れた。

 

 冷たい金属の感触が、確かな現実として指先に残った。

 

ーーーー

 

 送別会の帰り道、ルナは笑っていたはずなのに。

 

 玄関の鍵を開け、靴を脱いだ瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れたみたいに、胸の奥がじんわり痛んだ。コロニーの夜の冷たさがまだ頬に残っているのに、家の中は暖かい。それが余計に、心の隙間を浮き彫りにする。

 

「ただいま……」

 

 小さく呟くと、廊下の奥から、ぱたぱたと軽い足音がして、チャコがひょいと顔を出した。

 

「おかえり、ルナ。どうやった?」

 

 チャコの声はいつも通りで、ルナはそれが少しだけ救いだった。

 

「うん……楽しかったよ。みんなでちゃんと食べて、笑って……写真も撮った」

 

「ほぉ〜、写真。ええやんええやん」

 

 チャコは満足げに頷いたが、ルナの顔を見て、すぐに首を傾げた。

 

「……なんや、その顔。楽しかった言う割に、目ぇ湿ってへん?」

 

「湿ってないよ」

 

 ルナは即答しようとして、喉の奥が詰まる。誤魔化すように鞄を下ろし、上着をハンガーにかけた。指先が少し震えているのが、自分でも分かった。

 

「……チャコ。聞いて」

 

 ルナがそう言うと、チャコは小さく「ん?」と鳴き、ソファの前に停まった。まるで“よし、座って話せ”と言わんばかりに。

 

 ルナはソファに腰を下ろし、深呼吸をひとつ。

 

「リュウジ、冬休みから冥王星の学校に編入するんだって」

 

 言った瞬間、部屋の空気が一瞬止まったように感じた。

 

 チャコの目が、ぱちん、と大きく開いた。

 

「はぁ!? 冥王星!?」

 

 次の瞬間、チャコはソファの背にホイールをぶつける勢いで身を乗り出した。

 

「なんやそれ! そんな重大案件、なんでウチに一言もなしやねん!!」

 

「……うん、それは私も思った」

 

 ルナが小さく言うと、チャコはますます声を荒げる。

 

「いやいやいや、思った、やなくて! ウチはな、ルナの相棒やで!? サヴァイヴでも、毎日毎日、命張ってたんやで!? せやのに、冥王星行くって……」

 

 チャコは言葉を切り、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「リュウジのやつ、ウチには何の挨拶もないんか!?」

 

 その言い方が、怒っているのにどこか寂しそうで、ルナは胸がきゅっとなった。

 

「……たぶん、言いづらかったんじゃないかな」

 

「言いづらいもなにも、言わなあかんことは言わなあかんねん!」

 

 チャコはテーブルをぽん、と叩いた。

 

「そもそもな、あいつ、そういうとこあるやろ。大事なことほど一人で抱え込む。で、勝手に区切りつけて、勝手に行ってまう」

 

「……うん」

 

 ルナは頷く。

 

 送別会で、メノリが言っていた言葉が蘇る。

 

“決める時だけ一人で決める。そういうところだろ”

 

 ほんとに、その通りだった。

 

 ルナは両手を膝の上で組み、少し俯いた。

 

「でもね、今日、みんなにはちゃんと話したの。シャアラも、ベルも、シンゴも、メノリも……リュウジもちゃんと来た」

 

「そら来るやろ。メノリに言われたら逃げられへん」

 

 チャコはぶつぶつ言いながらも、ルナの言葉を真剣に聞いていた。

 

「で? ルナはどうしたんや。止めたんか?」

 

 ルナは首を横に振る。

 

「止めなかった。止められないよ。リュウジがやりたいことを見つけたって言うなら……それをやるために必要なんだって言うなら」

 

 そこまで言って、ルナは息を詰めた。

 

 喉の奥が熱くなって、声が少し震える。

 

「……でも、寂しい。すごく。……ほんとは、行かないでって言いたかった」

 

 言ってしまった瞬間、涙がこぼれそうになって、ルナは慌てて目を瞬いた。

 

 チャコは、いつもみたいに茶化さない。

 

 少しだけ黙って、そして低い声で言った。

 

「……そら、寂しいに決まっとるわ。ウチも寂しい」

 

 ルナは笑おうとしたが、うまく笑えない。

 

「それにね、チャコ……」

 

「ん?」

 

「リュウジ、今日も笑ってた。いつもみたいに。みんなと話して、ちょっとだけ本当に笑ってる瞬間もあった。でも……やっぱりどこか、作ってるように見える時もあった」

 

 ルナは指先を握りしめる。

 

「だから、余計に心配で……」

 

 その瞬間だった。

 

「はーーーーっ!? 心配?? そらそうや!!」

 

 チャコは急にテンションを跳ね上げた。

 

「よっしゃ、決めた!」

 

「え?」

 

「電話や! 電話でいびったる!!」

 

 チャコは宣言するや否や、ルナの隣にずいっと寄り、テーブルの上に置いてあったルナの携帯端末へ、機械の腕を伸ばした。

 

「ちょ、チャコ!」

 

「貸し!」

 

 チャコが端末をひょいと掴む。

 

 ルナは慌てて手を伸ばした。

 

「自分のでかければいいでしょう!」

 

 言いながら、ルナはチャコの機体に手を添えて止めようとする。

 

 しかしチャコは、ぴしっとルナの手を避けた。

 

「あかん。ルナの電話なら間違いなく出るさかい」

 

「それ、悪用じゃないの!?」

 

「悪用ちゃうわ! 正当な抗議や!」

 

 チャコは胸を張った。

 

「ええか、ルナ。あいつ、ウチの電話なんか絶対取らへんで。『忙しい』とか『寝てた』とか言い訳して終わりや。でもルナの電話やったら、絶対出る。しかも“出えへんかったらルナが心配する”って分かっとるからな。あいつ、そういうとこだけ優しいねん。腹立つやろ」

 

「……腹立つっていうか……」

 

 ルナは口を閉じた。

 

 確かに、チャコの言う通りかもしれない。リュウジは、ルナを“心配させること”だけは避けようとする。避けようとするくせに、肝心のことは言わない。

 

 チャコはすでに画面を操作して、リュウジの連絡先を開いていた。

 

「ほら、押すで。心の準備できとるか?」

 

「できてない!」

 

「はい、発信〜!」

 

「ちょっと待ってってば!」

 

 ルナが止める間もなく、チャコは通話ボタンを押した。

 

 コール音が鳴る。

 

 ルナの心臓が、その音に合わせて跳ねる。変な緊張が体中に回って、手のひらに汗が滲む。

 

 チャコは端末を耳……というよりスピーカーにし、堂々と構えて待った。

 

 ワンコール。

 

 ツーコール。

 

「出ぇへんかったら、殴り込みやな」

 

「殴り込みって……冥王星まで行くつもり?」

 

「行けるなら行きたいわ!」

 

 チャコが真顔で言う。

 

 スリーコール目に入る直前。

 

 ぷつ、と音がして、繋がった。

 

『……ルナ?』

 

 少し低い声。

 

 やっぱり、出た。

 

 ルナは息を呑む。

 

 チャコはニヤッとした。悪い顔だ。絶対、今から何かやる顔だ。

 

「……リュウジ」

 

 ルナが名前を呼ぶより早く、チャコが口を開いた。

 

「おいコラァ!! リュウジィ!!」

 

『……は?』

 

 明らかにリュウジの声が固まった。

 

 チャコは勢いのまま続ける。

 

「なんやねん冥王星って! ウチ、聞いてへん!! 挨拶もなしに消えるつもりか!? 旧式ロボやからって舐めとんのか!!」

 

『……チャコか。……なんでルナの端末から』

 

「細かいことはええねん!!」

 

 チャコは一切止まらない。

 

「ウチはなぁ、ルナの相棒や! サヴァイヴで皆の命を繋いだこともあるんやぞ!? そんで今も、ルナの生活支えとるんやぞ!? せやのに、なんでウチに一言もないねん!!」

 

『……』

 

 リュウジが黙った。

 

 その沈黙に、ルナの胸がひやりとする。

 

 チャコの言葉は刺さる。リュウジはこういう正面衝突が苦手だ。

 

 ルナは慌てて口を挟んだ。

 

「チャコ、言い方……!」

 

 だがチャコは止まらない。

 

「言い方もクソもあるかい! ほら! ちゃんと言え! “ごめんな”って! それだけでええねん!!」

 

『……』

 

 数秒の沈黙の後、リュウジが小さく息を吐く音が聞こえた。

 

『……悪かった』

 

 短い。

 

 でも確かに、リュウジの声は少しだけ柔らかかった。

 

『……言うつもりだった。タイミングが……』

 

「タイミングが、やない!」

 

 チャコが即座に切る。

 

「“言うつもり”は言わんのと同じや! 言うつもりで終わらせるな!」

 

『……』

 

 また沈黙。

 

 ルナは端末を持っているチャコの腕にそっと手を添えた。強引に奪い取るのではなく、落ち着いてと伝えるように。

 

「チャコ……」

 

 チャコはほんの一瞬だけルナを見て、少し息を整えた。けれど、目はまだ怒っている。

 

 ルナは端末に向かって言った。

 

「リュウジ。……今日はありがとう。来てくれて」

 

『……ああ』

 

「それで……チャコのこと、ちゃんと話してくれてよかったのに。チャコ、すごく気にしてるから」

 

『……分かってる』

 

 分かってる、と言うわりに、ちゃんと伝えない。

 

 それがリュウジだと分かっていても、ルナは胸が痛む。

 

 チャコが横からぼそっと言った。

 

「分かっとるなら最初から言えや」

 

『……悪い』

 

 リュウジがまた短く言った。

 

 その謝り方が、リュウジらしくて、ルナは少しだけ笑ってしまいそうになった。笑ったら泣いてしまいそうで、笑えない。

 

 チャコは腕を組むような姿勢になり、まだ納得していない声で言う。

 

「で? 冥王星行くまで、いつ挨拶来るんや?」

 

『……挨拶?』

 

「せや。ウチは“ちゃんとした挨拶”を要求しとる。口先の謝罪だけで済まそうと思うなよ」

 

『……分かった。……行く前に寄る』

 

 その言葉に、ルナの胸が少しだけ軽くなる。

 

 チャコは「よし」と言う代わりに、わざとらしく咳払いした。

 

「言質取ったで。逃げたら、ウチが追跡して冥王星まで飛ぶからな」

 

『……飛べるのか』

 

「気持ちの問題や!」

 

 チャコが胸を張り、ルナは思わず小さく吹き出した。

 

 その笑いが、部屋の空気を少しだけ温めた。

 

 リュウジの声が少しだけ柔らかくなる。

 

『……ルナ。……遅いから、もう寝ろ』

 

「え?」

 

『……明日も学校だろ』

 

 その言葉は、まるでいつも通りの会話みたいで、ルナの胸がきゅっとなった。

 

「……うん。でも、少しだけ、話したかった」

 

『……話しただろ』

 

 ぶっきらぼうなのに、優しさが混ざっている。

 

 ルナはその矛盾が、たまらなく切なくて、愛おしくて、苦しい。

 

「……うん。ありがとう」

 

『……ああ』

 

 そして、通話が切れた。

 

 チャコは端末を持ったまま、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「まったく……相変わらず不器用やな、あいつ」

 

 ルナは端末を受け取り、画面の黒い光を見つめた。

 

 チャコの怒鳴り声に隠れていたけれど、リュウジは確かに謝った。挨拶も来ると言った。それだけでも、少しだけ救われた。

 

 けれど――

 

 ルナは胸の奥に残る“別の痛み”に気づく。

 

 冥王星へ行くという現実は、変わらない。

 

 笑って送り出すと言った自分の言葉も、変わらない。

 

 それでも、寂しさは消えない。

 

 ルナは小さく息を吐き、チャコを見た。

 

「チャコ……ありがとう。言ってくれて」

 

「当たり前や」

 

 チャコはそっぽを向く。

 

「ウチはルナの相棒や。ルナが言えへんこと、ウチが言う。それが役目やろ」

 

 その言葉が、ルナの胸にじんわり染みた。

 

 ルナは笑い、そして少しだけ目を潤ませた。

 

「……うん」

 

 チャコは慌てたように声を上げる。

 

「おい! 泣くな! 泣いたらウチまで泣きたなるやろ!」

 

「泣いてないよ」

 

「泣きそうな顔しとる!」

 

「……うん、ちょっとだけ」

 

 ルナが正直に言うと、チャコは短く黙った。

 

 それから、照れ隠しみたいに言った。

 

「……ま、冥王星行っても、メッセージは届く。写真も届く。連絡もできる。せやから、完全に消えるわけちゃう。……せやろ?」

 

「……うん」

 

「なら、今は寝て。明日、学校あるんやろ」

 

 チャコはわざと強い口調で言って、ルナの背中をぽん、と押した。

 

 ルナは立ち上がり、廊下へ向かう。

 

 部屋の灯りが背中に残る。

 

 振り返ると、チャコはテーブルの上に端末を置き、いつも通りの顔で言った。

 

「ほら、行き。ウチは戸締まり確認しとく」

 

「ありがとう、チャコ」

 

「礼はええ。代わりに、明日ちゃんと朝飯食べるんやで」

 

「うん」

 

 ルナは寝室へ向かいながら、胸の中でそっと呟いた。

 

 ――リュウジ。

 

 ちゃんと挨拶してね。

 

 そして、笑ってね。

 

 作った笑顔じゃなくて、ほんの少しでいいから。

 

 ルナは布団に潜り込んだ。

 

 目を閉じても、送別会の店の灯りと、グラスが触れた音と、リュウジの短い返事が耳に残る。

 

 寂しさは、消えない。

 

 でも――

 

 チャコが怒鳴ってくれたこと。

 

 リュウジが謝ったこと。

 

 挨拶に来ると言ったこと。

 

 その小さな“繋がり”が、ルナの心を少しだけ支えてくれた。

 

 ルナは息を整え、静かに呟いた。

 

「……おやすみ」

 

 返事はない。

 

 それでも、ルナは眠りに落ちていった。

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