サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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見送り

 冬休みに入った朝は、いつもより静かだった。

 

 空は薄い雲に覆われ、光は柔らかく拡散していた。冷たい空気が窓ガラスの向こうに張りついている。そんな中で、ルナはキッチンで湯を沸かしながら、落ち着かない指先を何度も拭いていた。コップを出して、また戻して。砂糖を取って、やっぱり戻して。

 

「ルナ、落ち着きぃな」

 

 チャコが呆れたように言う。けれど、その声も少しだけ硬い。いつもの軽口に紛れた緊張が、ルナには分かった。

 

「落ち着いてるよ」

 

「ほな、コップを三回も出し入れせんでええやろ」

 

「……それは、えっと」

 

 言い訳を探しているところで、インターホンが鳴った。

 

 ピンポーン。

 

 音が一回鳴っただけなのに、ルナの胸はひとつ大きく跳ねた。チャコもピタッと動きを止め、互いの視線が一瞬交わる。

 

「……ウチが出よか?」

 

「ううん、私が出る」

 

 ルナはそう言いながら、いつもより少し早足で玄関へ向かった。ドアの向こうにいるのは、分かっている。それでも手が震えるのは、会える嬉しさより、会ってしまうと“別れ”が現実になるからだ。

 

 鍵を開け、ドアを開く。

 

 そこに立っていたリュウジは、いつも通りの黒髪短髪で、いつも通り無駄のない姿勢をしていた。けれど、いつもと違うところがひとつだけある。

 

 背中に、リュックがひとつ。

 

 それだけだった。

 

「……おはよう」

 

 ルナが声を出すより先に、リュウジが短く言った。その声は落ち着いているのに、どこか遠くを見ているような響きがあった。

 

「おはよう、リュウジ」

 

 ルナが返すと、リュウジはほんの少しだけ口角を上げた。作った笑顔かもしれない。けれど、それでもルナには、その“頑張って作った”が分かるから、胸が締めつけられる。

 

 そのままルナが一歩下がると、リュウジは家の中へ入った。靴を脱ぐ仕草すら、いつもと同じで、だからこそルナは余計に現実味を感じてしまう。

 

「……ほな、噂の本人登場やな」

 

 リビングからチャコが現れ、腕……ではなく機体を堂々と前に出す。目は鋭い。電話の続きをまだ終えていない目だ。

 

 リュウジはチャコを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。たぶん、どう言えばいいか迷ったのだろう。けれどその迷いを、いつもの短い言葉で断ち切る。

 

「……チャコ。悪かった」

 

 とても短い謝罪だった。いつもならそれだけで終わらせそうなのに、今日はそこで終わらなかった。

 

 リュウジは小さく息を吐き、視線を正面に戻したまま続ける。

 

「挨拶、遅くなった。……ルナに言わせたのも悪い」

 

 ルナの胸がきゅっと縮んだ。

 

 “ルナに言わせたのも悪い”

 

 それは、リュウジなりの最大限の誠意だ。ルナは知っている。彼は“謝る”ことより、“謝った後にどうするか”の方が苦手なのだ。だから、こうして言葉を足してきたこと自体が、彼の決意なのだと分かる。

 

 チャコはふん、と鼻を鳴らした。

 

「分かればええねん」

 

 それだけ言って、くるりと背を向ける。怒りが消えたわけではなく、きっと“これ以上言ったら自分が泣きそうになる”のを止めたのだとルナには分かった。

 

「……チャコ」

 

 ルナが呼ぶと、チャコは肩をすくめるような動きをして、言った。

 

「ほら、ルナ。コーヒー淹れるんやろ。早よせぇ。送る前に胃ぃに何か入れとかな」

 

「うん……!」

 

 ルナは頷いて、キッチンへ向かった。

 

 背中に視線が刺さる。リュウジの視線だ。見送る側のルナが落ち着かないのは当然だけれど、送られる側のリュウジも、きっと同じくらい落ち着かないのだろう。

 

 コーヒーを淹れる音が、やけに大きく聞こえる。

 

 カップを二つ並べ、湯気の立つコーヒーを注いだ。チャコ用にはミルクを少しだけ――と思ったが、チャコは「今日はええ」と言って、黙って窓の外を見ている。

 

 ルナとリュウジはテーブルに向かい合って座った。

 

 テーブルの上にあるのは、温かいコーヒーと、ルナが朝から切っていた小さなパン。何でもない朝食のはずなのに、今日はそれが妙に神聖に思える。

 

 沈黙が落ちる。

 

 ルナはその沈黙が怖くて、口を開いた。

 

「……リュウジ、荷物少なくない?」

 

 自分でも分かる。もっと言いたいことがあるのに、そこから始めてしまった。怖いのだ。“本題”に触れた瞬間、もう戻れないから。

 

 リュウジは背負っているリュックをちらりと見て、あっさり言った。

 

「必要なものは向こうで揃えるさ」

 

 その言い方が、いつもと同じで、ルナは少しだけ笑ってしまいそうになった。サヴァイヴの時も、彼はそうだった。必要なら現場で作る。必要なら奪うのではなく工夫して手に入れる。そういう人だった。

 

「……でも」

 

 ルナが言いかけたところで、ふと別の疑問が浮かんだ。ずっと引っかかっていたこと。

 

「アパートは解約するの?」

 

 リュウジは少しだけ間を置いた。その間が、何を意味しているのか分からなくて、ルナの胸が不安でざわつく。

 

 けれどリュウジは、淡々と答えた。

 

「いや。あの家はそのままにしてある」

 

「……え?」

 

 ルナが驚くと、リュウジはカップに口をつけたまま言った。

 

「戻る場所は残しておく。……それだけだ」

 

 その言葉は、ただの合理性の話に聞こえた。けれどルナには分かってしまう。

 

 “そのままにしてある”のは、部屋だけじゃない。

 

 彼がここで築いたもの、彼がここで得た仲間、彼がここで覚えた温度――全部を、完全には手放せないのだ。

 

 リュウジは手放せないからこそ、無理に切り捨てようとしてしまうタイプだ。だから、戻る場所を残すという選択は、逃げでも未練でもなく、彼なりの“強さ”だった。

 

 ルナは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

 

「……そっか」

 

 ルナが小さく言うと、リュウジは返事をしなかった。けれど、それでいい。返事をしないことが、彼の肯定だから。

 

 チャコが窓際から背を向けた。

 

「ほな、そろそろ行くんか?」

 

 その一言で、空気が変わった。

 

 “行く”。

 

 それは“ここにいない未来”の合図だった。

 

 ルナはカップを両手で包み、熱を感じたまま頷いた。

 

「……うん」

 

 リュウジも頷き、静かに立ち上がった。荷物は本当にリュックひとつ。肩にかけ直す動作が、やけに鮮明に目に焼きつく。

 

 チャコが言う。

 

「リュウジ。冥王星、寒いんちゃうん?」

 

「寒いだろうな」

 

「風邪引くなや。……前、風邪で死にかけとったやろ」

 

「……覚えてる」

 

 リュウジが短く言う。チャコは少しだけ、声を柔らかくした。

 

「ほな、行こか。ルナ、送るんやろ」

 

「うん」

 

 ルナは上着を羽織り、いつも通りの重さが、今日はやけに安心感をくれる。

 

 ――私は、ここにいる。

 

 ――私は、まだ進む。

 

 そう言われている気がした。

 

 ***

 

 ソーラ・デッラ・ルーナのエアポートは、冬休みらしく人が多かった。家族連れ、帰省する学生、仕事へ向かう大人。みんなそれぞれの“出発”を抱えていて、ルナの胸は少しだけ救われた。

 

 “別れ”は自分たちだけじゃない。

 

 この世界はいつだって、誰かが出発している。

 

 それでも、ルナにとっての出発は、今日だけは特別だった。

 

 搭乗口へ向かう通路の手前で、リュウジが足を止めた。視線だけで“ここまででいい”と言っているのが分かる。彼は、送り出されるのが得意じゃない。

 

 ルナは一歩前に出た。

 

「リュウジ」

 

 呼ぶと、リュウジはルナを見る。いつもより少しだけ、目の奥が揺れているように見えた。けれどその揺れを隠すように、彼は淡々とした声を作った。

 

「……何だ」

 

 ルナは息を吸った。胸の奥が痛い。言いたいことが多すぎる。だけど、全部言ったら泣いてしまう気がした。

 

 だから、ルナは“今の自分にできる言葉”だけを選ぶ。

 

「……頑張ってね」

 

 言った瞬間、あまりに普通の言葉で、ルナ自身が少しだけ情けなくなった。もっと特別な言葉を言いたかった。もっと胸を打つ言葉を渡したかった。

 

 でも次に続く言葉は、ルナの本心だった。

 

「でも、無理しないで」

 

 リュウジの眉がほんの少し動いた。

 

「……無理はするさ」

 

 いつものリュウジなら、そう言って終わる。いつもの彼なら、強がりで締める。

 

 けれど、今日は違った。

 

 リュウジは一度、視線を落とした。そして、ルナにだけ聞こえるくらいの低い声で言う。

 

「……無茶はしない」

 

 ルナの胸が、熱くなった。

 

 “無理はする。でも無茶はしない。”

 

 それは彼の中で、明確に線引きされた言葉だった。サヴァイヴで何度も見た。彼は無理をしてでも前に出る。でも、仲間を不必要に傷つける無茶はしない。ルナの言葉は、その線を思い出させたのだ。

 

 ルナは頷き、笑ってみせた。泣かない。泣かないと決めた。

 

「うん。それならいい」

 

 チャコが横から、ぶっきらぼうに言う。

 

「ルナが言うたこと守らへんかったら、ウチが冥王星まで行って怒鳴るからな」

 

「……飛べるのか」

 

「気持ちの問題や!」

 

 またそれだ。ルナは小さく笑った。笑ったせいで、涙が出そうになって、慌てて瞬きした。

 

 ルナは続ける。

 

「ねぇ、リュウジ。私も頑張る」

 

 リュウジが顔を上げる。

 

「……何をだ」

 

「色々。勉強も、進路も、惑星開拓のことも。……あなたが頑張ってるなら、私も頑張る」

 

 言いながら、ルナは自分のリュックの肩紐を握った。父の形見。自分が歩いてきた証。自分がこれから歩く理由。

 

「私ね、たぶん……寂しいって、いっぱい思う」

 

 リュウジの目が揺れる。ルナはそれを見て、逃げずに言った。

 

「でも、寂しいからって止めない。あなたがやりたいことをやるって決めたなら、私はその背中を見送る」

 

 ここで、ルナは一瞬だけ言葉を止めた。

 

 胸の奥にある“本音”が顔を出す。

 

 ――本当は、行かないでって言いたい。

 

 ――本当は、ここにいてって言いたい。

 

 でもルナは、その本音を“鎖”にしたくなかった。

 

 リュウジがやりたいことを、誰かのために諦めるような人になってほしくなかった。

 

 それは、彼が彼でなくなることだから。

 

「だから……頑張って。だけど、ちゃんと戻ってきてね」

 

 リュウジの視線が、ルナの目から一瞬だけ逸れた。逸れた先には、搭乗口へ向かう案内表示。出発の矢印。

 

 そして、リュウジは言った。

 

「……戻る場所は残してある」

 

 同じ言葉なのに、さっきより少しだけ温度があった。

 

 ルナは、胸の奥がほどけていくのを感じた。

 

「うん」

 

 チャコが小さく言う。

 

「……ほな、行き」

 

 その声が、背中を押す合図だった。

 

 リュウジは一歩だけ前に出た。けれどすぐに止まった。

 

 振り返り、ルナを見た。

 

「……ルナ」

 

「なに?」

 

 ルナが答えると、リュウジは短く言った。

 

「……ありがとう」

 

 ルナの喉が熱くなった。

 

 たった一言。

 

 でも、リュウジが誰かに素直に言う“ありがとう”は、とても重い。彼は言葉を軽く扱わない。だから、その一言は――ルナの心に深く落ちた。

 

 ルナは頷き、笑った。

 

「……どういたしまして」

 

 リュウジはそれ以上何も言わず、踵を返して歩き出した。

 

 背中はまっすぐで、歩幅も変わらない。迷いのない足取りに見える。けれど、ルナは知っている。

 

 彼は迷いがないわけじゃない。

 

 迷いがあるからこそ、歩くのだ。

 

 チャコが小さく呟く。

 

「……あいつ、ほんまに行ってまうんやな」

 

 ルナは、目を逸らさずにリュウジの背中を見つめ続けた。

 

「うん。でも……行かせる」

 

 チャコが黙る。ルナは胸の奥で、痛みと一緒に、温かい確信を抱いた。

 

 ――信頼。

 

 それは、離れても消えない。

 

 それは、言葉にしなくても繋がる。

 

 リュウジは搭乗口の手前で、もう一度だけ振り返った。ほんの一瞬。視線がルナに重なる。何かを言いたそうで、でも言わない。

 

 ルナはその視線に、力強く頷いて返した。

 

 “行って”

 

 “大丈夫”

 

 “私はここで頑張る”

 

 言葉ではなく、全部を頷きに込めた。

 

 リュウジは小さく頷き返し、今度こそ搭乗口の向こうへ消えていった。

 

 ***

 

 人の流れが途切れ、エアポートの騒がしさが戻ってくる。けれど、ルナの世界だけが少し静かになった。

 

 胸が痛い。

 

 寂しい。

 

 涙が出そう。

 

 それでもルナは、チャコの前で泣かなかった。泣いたらチャコが本気で冥王星まで飛んでいきそうだ。

 

 ルナは深呼吸をして、空を見上げた。

 

 薄い雲の向こうに、青がある。今は見えないけれど、確かにある。

 

「……私も頑張る」

 

 ルナが呟くと、チャコが横でふん、と鼻を鳴らした。

 

「当たり前や。ルナはルナの道を歩く。あいつはあいつの道を歩く。それだけや」

 

「うん」

 

「せやけどな」

 

 チャコは少しだけ声を落とす。

 

「……寂しい時は、寂しいって言い。ウチ、聞くぐらいはできる」

 

 ルナはチャコを見て、笑った。

 

「ありがとう、チャコ」

 

「礼はええ」

 

 チャコはそっぽを向く。けれど機体が少しだけルナに寄った。

 

 ルナはその寄り添いに、胸が温かくなるのを感じた。

 

 信頼は、リュウジだけじゃない。

 

 ルナには、ここにも信頼がある。

 

 だから、歩ける。

 

 ルナは、もう一度空を見上げた。

 

 見えない青に向かって、心の中で言った。

 

 ――リュウジ。

 

 頑張って。

 

 無理しないで。

 

 そして、いつか戻ってきて。

 

 その日まで、私も前に進むから。

 

ーーーー

 

 玄関の鍵を閉めた瞬間、家の中の静けさが「現実」みたいに押し寄せてきた。

 

 さっきまでエアポートのざわめきに紛れていた寂しさが、急に輪郭を持って胸に刺さる。靴を脱いで、父の形見のリュックを床に置く。いつもなら「ただいま」と口にするのに、今日は言葉が喉の奥で引っかかった。

 

 リビングに入ると、チャコが窓辺に止まっていた。外の空を見ているのか、飛び立った船の航路を目で追っているのか、ルナには分からない。

 

「……帰ってきたで」

 

 チャコが、いつもの調子を装った声で言う。

 

「うん」

 

 それだけ返して、ルナはコートを脱ぎ、手袋を外して、ソファの端に腰を下ろした。冷えた指先が、なかなか温まらない。

 

 ――泣くのは、あとでいい。

 

 そう思った。泣いたら、止まらなくなる気がしたから。

 

 その時、机の上に置いた端末が震えた。

 

 ブーッ、ブーッ。

 

 画面には「メノリ」の名前。

 

 ルナの心臓が、またひとつ跳ねる。メノリは、こういう時に必ず連絡してくる。誰よりも厳しいくせに、誰よりも仲間を見ている人だ。

 

 ルナは深呼吸してから、通話ボタンを押した。

 

「もしもし、メノリ?」

 

『……ルナか』

 

 聞こえてきた声は、いつも通り落ち着いていた。けれど、その落ち着きの下に焦りが潜んでいるのが分かる。メノリは心配している時ほど、声を平らにする。

 

「うん」

 

『……リュウジは、ちゃんと行ったか?』

 

 その質問は、確認というより、祈りに近かった。行ったのか、行かなかったのか。行けたのか、途中で何かあったのか。メノリは“起こり得る最悪”をいつも想定する。サヴァイヴを経験した今は、なおさらだ。

 

「……ええ。ちゃんと行ったわ」

 

 ルナが答えると、電話の向こうで息を吐く音がした。

 

『……そうか』

 

 それだけ言って、メノリは黙った。その沈黙が長く感じられて、ルナは端末を耳に当てたまま、指先で膝の上の布を撫でた。

 

 メノリは、沈黙の中で整理しているのだ。言葉にする前に、自分の感情を整えている。――泣きたい時ほど怒った顔をする人。

 

『……ルナ』

 

「なに?」

 

『ルナは……今、家か?』

 

「うん。今、帰ってきたところ」

 

『チャコは一緒か?』

 

 ルナは視線だけでチャコを見た。チャコは窓辺のまま、こちらを向かない。それでも耳はこっちに向いているのが、機体の角度で分かる。

 

「うん、いるよ」

 

『そうか。……なら、いい』

 

 いい、って何が。ルナは思わず苦笑した。メノリはこういう時、説明しない。説明しないまま“必要なだけ”確認して、必要なだけ安心して、そして必要なだけ叱る。

 

 案の定、次の言葉は少し厳しかった。

 

『……泣いていないだろうな』

 

 ルナの胸がきゅっと縮む。図星だった。泣いていない。泣けていない。泣いたら崩れると思ったから。

 

「……泣いてないよ」

 

『……そうか』

 

 メノリの声が一段低くなる。

 

『泣けるうちに泣け。溜めるな。お前はそうやって……いつも背負う癖がある』

 

 胸の奥が、じわっと熱くなった。メノリの言葉は鋭いのに、刃先がいつも“守る”方向を向いている。

 

「……私、背負ってないよ」

 

『背負っている。自覚がないのが一番厄介だ』

 

 即答だった。メノリは容赦がない。けれど、その容赦のなさは、ルナが壊れないようにするためのものだ。

 

 ルナは返す言葉を探した。心の中にはいくつも言いたいことがあるのに、口から出るのは薄い言葉ばかりだった。

 

「……だって、リュウジが決めたことだから」

 

『分かっている』

 

 メノリは言った。

 

『だからこそ聞いている。お前は、ちゃんと見送ったのか』

 

 ルナは目を閉じた。搭乗口へ歩いていく背中。振り返って交わした視線。短い「ありがとう」。あの瞬間、ルナは泣かなかった。泣かないで頷いた。

 

「……見送ったよ」

 

『そうか』

 

 メノリは短く言う。けれど、次の言葉が続かない。沈黙が戻る。

 

 ルナは、その沈黙が苦しくて、先に口を開いた。

 

「メノリ……私ね、寂しい」

 

 言った瞬間、喉が震えた。寂しい。それは弱音だ。でも今のルナに必要な言葉だった。

 

 電話の向こうで、メノリが小さく息を吐いた。

 

『……当たり前だ』

 

 その返事が、妙に優しかった。

 

『寂しくない方がおかしい。仲間だろう。……それに、あいつは面倒な男だ。面倒だからこそ、放っておけなくなる』

 

 ルナは少し笑ってしまった。メノリがリュウジを“面倒な男”と言う時、そこには確かな信頼が含まれている。

 

「うん……面倒だよね」

 

『ああ。だが、お前が面倒を見る必要はない。……“支える”と“背負う”は違う』

 

 その言葉は、ルナの胸の中心にまっすぐ刺さった。

 

 支える。背負う。似ているのに、全然違う。

 

 ルナは、いつも“支える”つもりでいて、いつの間にか“背負う”側に回ってしまう。サヴァイヴの時だってそうだった。皆の不安を背中で受け止めて、夜に一人で泣いて、朝に笑った。

 

『ルナ、お前は頑張るんだろう』

 

「……うん」

 

『なら、頑張れ。だが、頑張り方を間違えるな』

 

 メノリは断言した。

 

『ルナには、夢がある。惑星開拓技師になるんだろう。リュウジのやりたいことと同じで、それはルナの人生だ』

 

「……うん」

 

 ルナの声が少し小さくなる。

 

『そして、あいつはあいつで、自分の区切りをつけた。S級を返上して、やりたいことを見つけたと言った。なら、今度はそれをやりに行っただけだ』

 

 メノリは、淡々と事実を並べていく。感情に流される前に、現実を定める。メノリのやり方だ。

 

 でも、淡々としているのに、優しさがある。ルナが迷子にならないように、道標を置いてくれている。

 

「……メノリは、どう思う?」

 

 ルナは訊いた。自分の気持ちを整理したくて。リュウジの決断を、ただ肯定するだけでなく、仲間の視点が欲しくて。

 

 電話の向こうで、少し間が空く。

 

『……正直に言う』

 

「うん」

 

『腹が立つ』

 

 ルナの目が丸くなる。

 

「え……?」

 

『言い方があるだろう。あいつは、いつもそうだ。大事なことほど、必要最低限しか言わない。仲間だからこそ、共有するべきこともある』

 

 それはメノリらしい怒りだった。支配的な怒りではない。“仲間としての怒り”。置いていかれたことへの、正当な不満。

 

『だが』

 

 メノリは続けた。

 

『……理解もしている』

 

 その言葉に、ルナの胸が少し軽くなった。

 

『あいつは、説明すればするほど、誰かが止めると思ったのだろう。だから最短距離で出た。……そういう男だ』

 

「うん……」

 

 ルナは、リュウジの顔を思い出した。作った笑み。寂しさを隠す目。短い言葉の裏にある温度。

 

『ルナ』

 

「なに?」

 

『あいつに何を言った』

 

 質問が来た。メノリは聞き役のようで、実は核心にすぐ触れる。

 

 ルナは素直に答えた。

 

「頑張ってって言った。あと、無理しないでって」

 

『……それで、あいつは何と言った』

 

「無理はするって。……でも無茶はしないって」

 

 言った瞬間、また胸が熱くなる。あの言葉は、ルナのお願いを受け取った証だった。

 

 メノリが小さく笑う気配がした。

 

『……ふん。珍しいな』

 

「え?」

 

『あいつがそこまで言うのは、珍しい。……お前の言葉が効いたんだろう』

 

 ルナは返事ができなかった。嬉しいのに、切ない。自分の言葉が届いたと思えるほど、もう隣にいない現実が痛い。

 

 その時、窓辺のチャコが小さく動いた。ルナの方をちらりと見て、また窓に目を戻す。――ルナの声が震えているのを、チャコも分かっている。

 

『ルナ』

 

 メノリの声が少し柔らかくなる。

 

『今夜、眠れるか』

 

 ルナは言葉に詰まった。眠れるか、なんて分からない。でも、強がって「眠れる」と言うのは違う気がした。

 

「……分からない」

 

『そうか』

 

 メノリは即座に言う。

 

『眠れないなら、私に連絡しろ。……いや、連絡しろというより、愚痴れ。私は聞く』

 

 ルナの鼻の奥がツンとした。メノリはこういうところで、急に優しくなる。普段は厳しいのに、本当に必要な時だけ、逃げ道をくれる。

 

「……ありがとう、メノリ」

 

『礼を言うな。仲間だろ』

 

 ぶっきらぼうな言い方。でも、その一言でルナは救われる。

 

 ルナはふと、訊きたくなった。

 

「メノリは……寂しくないの?」

 

『寂しいに決まっている』

 

 即答だった。

 

『だが私にも夢がある。今はやることが山ほどある。寂しさに浸っている暇はない……と言いたいところだが』

 

 メノリは少し言葉を切って、続けた。

 

『……寂しいものは寂しい』

 

 その正直さが、ルナの涙腺を刺激した。

 

 ルナは、ここで初めて涙が出そうになるのを感じた。強く瞬きをして、声を整える。

 

「……ねぇメノリ。私、頑張るよ」

 

『それは聞いた。何度も言うな』

 

 メノリの声に、いつもの厳しさが戻る。

 

『頑張るなら、具体的に何をする』

 

「え……?」

 

『言ってみろ。今すぐだ』

 

 メノリは容赦ない。けれど、これはルナの背中を押すための問いだ。

 

 ルナは考えた。考えて、言葉にした。

 

「……まず、勉強する。惑星開拓のこと、ちゃんと進める。あと、進路のこともちゃんと考える」

 

『よし』

 

 メノリが短く肯定する。

 

「それから……皆のことも大事にする。……私、一人で背負わない」

 

 言いながら、ルナは自分自身に言い聞かせていた。

 

『よし』

 

 もう一度、メノリが言った。

 

『それでいい。……あいつのために頑張るな。自分のために頑張れ。その結果として、あいつの支えになるなら、それでいい』

 

 ルナはゆっくり頷いた。電話の向こうだから頷いても意味がないのに、それでも頷いてしまう。

 

「うん……分かった」

 

『それと』

 

 メノリの声が少しだけ鋭くなる。

 

『もし、あいつが無茶をしたと分かったら――私が叱る』

 

 ルナは思わず笑ってしまった。涙が出そうなのに、笑ってしまう。

 

「ふふっ……メノリらしい」

 

『当然だ』

 

 メノリが言い切る。

 

『あいつは、放っておくとどこまでも行く。だから、止める役が必要だ。……ルナがそれを全部担う必要はない。私もやる。チャコもやる。皆でやる』

 

 ルナの胸が、温かくなる。

 

 支えるのは一人じゃない。

 

 仲間がいる。

 

 だから、ルナは息を吸って、言った。

 

「……うん。ありがとう」

 

『礼を言うなと言っただろ』

 

 メノリの声が少し呆れたようになる。

 

『……ルナ、最後に確認する』

 

「なに?」

 

『ルナは、リュウジを見送った。それで終わりじゃない。ルナはここで生きる。――それを忘れるな』

 

 ルナは、今度こそ涙をこぼさずに答えた。

 

「……忘れない」

 

『よし』

 

 短い肯定。

 

『では、切る。今日は早く風呂に入って温まれ。冷えたままだと余計に眠れなくなる』

 

「うん。分かった」

 

『チャコにも言っておけ。くれぐれも無茶はするなとな』

 

 ルナは思わずチャコを見た。チャコは、聞こえていたのか、わざとらしく肩をすくめた。

 

「言っとく」

 

『頼んだ』

 

 メノリはそう言って、通話を切った。

 

 ツーツー、という音が耳に残る。

 

 ルナは端末を膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。

 

 ――泣けるうちに泣け。

 

 メノリの言葉が、胸の奥で繰り返される。

 

 ルナはゆっくり息を吐き、目を閉じた。

 

 泣きたい。

 

 寂しい。

 

 でも、泣いたあとにまた立てる自分でいたい。

 

「……ルナ」

 

 チャコが、背中越しに声をかける。優しい声だった。

 

「……なに?」

 

「泣くなら、今や。ウチ、見てへんふりしたる」

 

 ルナは、ふっと笑った。笑った拍子に、ついに涙が一粒こぼれた。

 

「……見てへんふりって、言ってる時点で見てるよ」

 

「そういうツッコミはええねん」

 

 チャコは窓の外を見たまま言う。

 

 ルナは、涙を手の甲で拭って、ゆっくり立ち上がった。

 

「……お風呂、入る」

 

「いっといで」

 

 ルナは頷いた。

 

 寂しさは消えない。

 

 でも――仲間がいる。

 

 メノリの声が背中に残っている。

 

 そして、リュウジの言葉も残っている。

 

 “無茶はしない”

 

 ルナは胸の奥で、もう一度だけ呟いた。

 

 ――私も、頑張る。

 

 彼のためじゃない。

 

 私のために。

 

 そして、その先でまた、同じ空を見られるように。

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