冬休みに入った朝は、いつもより静かだった。
空は薄い雲に覆われ、光は柔らかく拡散していた。冷たい空気が窓ガラスの向こうに張りついている。そんな中で、ルナはキッチンで湯を沸かしながら、落ち着かない指先を何度も拭いていた。コップを出して、また戻して。砂糖を取って、やっぱり戻して。
「ルナ、落ち着きぃな」
チャコが呆れたように言う。けれど、その声も少しだけ硬い。いつもの軽口に紛れた緊張が、ルナには分かった。
「落ち着いてるよ」
「ほな、コップを三回も出し入れせんでええやろ」
「……それは、えっと」
言い訳を探しているところで、インターホンが鳴った。
ピンポーン。
音が一回鳴っただけなのに、ルナの胸はひとつ大きく跳ねた。チャコもピタッと動きを止め、互いの視線が一瞬交わる。
「……ウチが出よか?」
「ううん、私が出る」
ルナはそう言いながら、いつもより少し早足で玄関へ向かった。ドアの向こうにいるのは、分かっている。それでも手が震えるのは、会える嬉しさより、会ってしまうと“別れ”が現実になるからだ。
鍵を開け、ドアを開く。
そこに立っていたリュウジは、いつも通りの黒髪短髪で、いつも通り無駄のない姿勢をしていた。けれど、いつもと違うところがひとつだけある。
背中に、リュックがひとつ。
それだけだった。
「……おはよう」
ルナが声を出すより先に、リュウジが短く言った。その声は落ち着いているのに、どこか遠くを見ているような響きがあった。
「おはよう、リュウジ」
ルナが返すと、リュウジはほんの少しだけ口角を上げた。作った笑顔かもしれない。けれど、それでもルナには、その“頑張って作った”が分かるから、胸が締めつけられる。
そのままルナが一歩下がると、リュウジは家の中へ入った。靴を脱ぐ仕草すら、いつもと同じで、だからこそルナは余計に現実味を感じてしまう。
「……ほな、噂の本人登場やな」
リビングからチャコが現れ、腕……ではなく機体を堂々と前に出す。目は鋭い。電話の続きをまだ終えていない目だ。
リュウジはチャコを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。たぶん、どう言えばいいか迷ったのだろう。けれどその迷いを、いつもの短い言葉で断ち切る。
「……チャコ。悪かった」
とても短い謝罪だった。いつもならそれだけで終わらせそうなのに、今日はそこで終わらなかった。
リュウジは小さく息を吐き、視線を正面に戻したまま続ける。
「挨拶、遅くなった。……ルナに言わせたのも悪い」
ルナの胸がきゅっと縮んだ。
“ルナに言わせたのも悪い”
それは、リュウジなりの最大限の誠意だ。ルナは知っている。彼は“謝る”ことより、“謝った後にどうするか”の方が苦手なのだ。だから、こうして言葉を足してきたこと自体が、彼の決意なのだと分かる。
チャコはふん、と鼻を鳴らした。
「分かればええねん」
それだけ言って、くるりと背を向ける。怒りが消えたわけではなく、きっと“これ以上言ったら自分が泣きそうになる”のを止めたのだとルナには分かった。
「……チャコ」
ルナが呼ぶと、チャコは肩をすくめるような動きをして、言った。
「ほら、ルナ。コーヒー淹れるんやろ。早よせぇ。送る前に胃ぃに何か入れとかな」
「うん……!」
ルナは頷いて、キッチンへ向かった。
背中に視線が刺さる。リュウジの視線だ。見送る側のルナが落ち着かないのは当然だけれど、送られる側のリュウジも、きっと同じくらい落ち着かないのだろう。
コーヒーを淹れる音が、やけに大きく聞こえる。
カップを二つ並べ、湯気の立つコーヒーを注いだ。チャコ用にはミルクを少しだけ――と思ったが、チャコは「今日はええ」と言って、黙って窓の外を見ている。
ルナとリュウジはテーブルに向かい合って座った。
テーブルの上にあるのは、温かいコーヒーと、ルナが朝から切っていた小さなパン。何でもない朝食のはずなのに、今日はそれが妙に神聖に思える。
沈黙が落ちる。
ルナはその沈黙が怖くて、口を開いた。
「……リュウジ、荷物少なくない?」
自分でも分かる。もっと言いたいことがあるのに、そこから始めてしまった。怖いのだ。“本題”に触れた瞬間、もう戻れないから。
リュウジは背負っているリュックをちらりと見て、あっさり言った。
「必要なものは向こうで揃えるさ」
その言い方が、いつもと同じで、ルナは少しだけ笑ってしまいそうになった。サヴァイヴの時も、彼はそうだった。必要なら現場で作る。必要なら奪うのではなく工夫して手に入れる。そういう人だった。
「……でも」
ルナが言いかけたところで、ふと別の疑問が浮かんだ。ずっと引っかかっていたこと。
「アパートは解約するの?」
リュウジは少しだけ間を置いた。その間が、何を意味しているのか分からなくて、ルナの胸が不安でざわつく。
けれどリュウジは、淡々と答えた。
「いや。あの家はそのままにしてある」
「……え?」
ルナが驚くと、リュウジはカップに口をつけたまま言った。
「戻る場所は残しておく。……それだけだ」
その言葉は、ただの合理性の話に聞こえた。けれどルナには分かってしまう。
“そのままにしてある”のは、部屋だけじゃない。
彼がここで築いたもの、彼がここで得た仲間、彼がここで覚えた温度――全部を、完全には手放せないのだ。
リュウジは手放せないからこそ、無理に切り捨てようとしてしまうタイプだ。だから、戻る場所を残すという選択は、逃げでも未練でもなく、彼なりの“強さ”だった。
ルナは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「……そっか」
ルナが小さく言うと、リュウジは返事をしなかった。けれど、それでいい。返事をしないことが、彼の肯定だから。
チャコが窓際から背を向けた。
「ほな、そろそろ行くんか?」
その一言で、空気が変わった。
“行く”。
それは“ここにいない未来”の合図だった。
ルナはカップを両手で包み、熱を感じたまま頷いた。
「……うん」
リュウジも頷き、静かに立ち上がった。荷物は本当にリュックひとつ。肩にかけ直す動作が、やけに鮮明に目に焼きつく。
チャコが言う。
「リュウジ。冥王星、寒いんちゃうん?」
「寒いだろうな」
「風邪引くなや。……前、風邪で死にかけとったやろ」
「……覚えてる」
リュウジが短く言う。チャコは少しだけ、声を柔らかくした。
「ほな、行こか。ルナ、送るんやろ」
「うん」
ルナは上着を羽織り、いつも通りの重さが、今日はやけに安心感をくれる。
――私は、ここにいる。
――私は、まだ進む。
そう言われている気がした。
***
ソーラ・デッラ・ルーナのエアポートは、冬休みらしく人が多かった。家族連れ、帰省する学生、仕事へ向かう大人。みんなそれぞれの“出発”を抱えていて、ルナの胸は少しだけ救われた。
“別れ”は自分たちだけじゃない。
この世界はいつだって、誰かが出発している。
それでも、ルナにとっての出発は、今日だけは特別だった。
搭乗口へ向かう通路の手前で、リュウジが足を止めた。視線だけで“ここまででいい”と言っているのが分かる。彼は、送り出されるのが得意じゃない。
ルナは一歩前に出た。
「リュウジ」
呼ぶと、リュウジはルナを見る。いつもより少しだけ、目の奥が揺れているように見えた。けれどその揺れを隠すように、彼は淡々とした声を作った。
「……何だ」
ルナは息を吸った。胸の奥が痛い。言いたいことが多すぎる。だけど、全部言ったら泣いてしまう気がした。
だから、ルナは“今の自分にできる言葉”だけを選ぶ。
「……頑張ってね」
言った瞬間、あまりに普通の言葉で、ルナ自身が少しだけ情けなくなった。もっと特別な言葉を言いたかった。もっと胸を打つ言葉を渡したかった。
でも次に続く言葉は、ルナの本心だった。
「でも、無理しないで」
リュウジの眉がほんの少し動いた。
「……無理はするさ」
いつものリュウジなら、そう言って終わる。いつもの彼なら、強がりで締める。
けれど、今日は違った。
リュウジは一度、視線を落とした。そして、ルナにだけ聞こえるくらいの低い声で言う。
「……無茶はしない」
ルナの胸が、熱くなった。
“無理はする。でも無茶はしない。”
それは彼の中で、明確に線引きされた言葉だった。サヴァイヴで何度も見た。彼は無理をしてでも前に出る。でも、仲間を不必要に傷つける無茶はしない。ルナの言葉は、その線を思い出させたのだ。
ルナは頷き、笑ってみせた。泣かない。泣かないと決めた。
「うん。それならいい」
チャコが横から、ぶっきらぼうに言う。
「ルナが言うたこと守らへんかったら、ウチが冥王星まで行って怒鳴るからな」
「……飛べるのか」
「気持ちの問題や!」
またそれだ。ルナは小さく笑った。笑ったせいで、涙が出そうになって、慌てて瞬きした。
ルナは続ける。
「ねぇ、リュウジ。私も頑張る」
リュウジが顔を上げる。
「……何をだ」
「色々。勉強も、進路も、惑星開拓のことも。……あなたが頑張ってるなら、私も頑張る」
言いながら、ルナは自分のリュックの肩紐を握った。父の形見。自分が歩いてきた証。自分がこれから歩く理由。
「私ね、たぶん……寂しいって、いっぱい思う」
リュウジの目が揺れる。ルナはそれを見て、逃げずに言った。
「でも、寂しいからって止めない。あなたがやりたいことをやるって決めたなら、私はその背中を見送る」
ここで、ルナは一瞬だけ言葉を止めた。
胸の奥にある“本音”が顔を出す。
――本当は、行かないでって言いたい。
――本当は、ここにいてって言いたい。
でもルナは、その本音を“鎖”にしたくなかった。
リュウジがやりたいことを、誰かのために諦めるような人になってほしくなかった。
それは、彼が彼でなくなることだから。
「だから……頑張って。だけど、ちゃんと戻ってきてね」
リュウジの視線が、ルナの目から一瞬だけ逸れた。逸れた先には、搭乗口へ向かう案内表示。出発の矢印。
そして、リュウジは言った。
「……戻る場所は残してある」
同じ言葉なのに、さっきより少しだけ温度があった。
ルナは、胸の奥がほどけていくのを感じた。
「うん」
チャコが小さく言う。
「……ほな、行き」
その声が、背中を押す合図だった。
リュウジは一歩だけ前に出た。けれどすぐに止まった。
振り返り、ルナを見た。
「……ルナ」
「なに?」
ルナが答えると、リュウジは短く言った。
「……ありがとう」
ルナの喉が熱くなった。
たった一言。
でも、リュウジが誰かに素直に言う“ありがとう”は、とても重い。彼は言葉を軽く扱わない。だから、その一言は――ルナの心に深く落ちた。
ルナは頷き、笑った。
「……どういたしまして」
リュウジはそれ以上何も言わず、踵を返して歩き出した。
背中はまっすぐで、歩幅も変わらない。迷いのない足取りに見える。けれど、ルナは知っている。
彼は迷いがないわけじゃない。
迷いがあるからこそ、歩くのだ。
チャコが小さく呟く。
「……あいつ、ほんまに行ってまうんやな」
ルナは、目を逸らさずにリュウジの背中を見つめ続けた。
「うん。でも……行かせる」
チャコが黙る。ルナは胸の奥で、痛みと一緒に、温かい確信を抱いた。
――信頼。
それは、離れても消えない。
それは、言葉にしなくても繋がる。
リュウジは搭乗口の手前で、もう一度だけ振り返った。ほんの一瞬。視線がルナに重なる。何かを言いたそうで、でも言わない。
ルナはその視線に、力強く頷いて返した。
“行って”
“大丈夫”
“私はここで頑張る”
言葉ではなく、全部を頷きに込めた。
リュウジは小さく頷き返し、今度こそ搭乗口の向こうへ消えていった。
***
人の流れが途切れ、エアポートの騒がしさが戻ってくる。けれど、ルナの世界だけが少し静かになった。
胸が痛い。
寂しい。
涙が出そう。
それでもルナは、チャコの前で泣かなかった。泣いたらチャコが本気で冥王星まで飛んでいきそうだ。
ルナは深呼吸をして、空を見上げた。
薄い雲の向こうに、青がある。今は見えないけれど、確かにある。
「……私も頑張る」
ルナが呟くと、チャコが横でふん、と鼻を鳴らした。
「当たり前や。ルナはルナの道を歩く。あいつはあいつの道を歩く。それだけや」
「うん」
「せやけどな」
チャコは少しだけ声を落とす。
「……寂しい時は、寂しいって言い。ウチ、聞くぐらいはできる」
ルナはチャコを見て、笑った。
「ありがとう、チャコ」
「礼はええ」
チャコはそっぽを向く。けれど機体が少しだけルナに寄った。
ルナはその寄り添いに、胸が温かくなるのを感じた。
信頼は、リュウジだけじゃない。
ルナには、ここにも信頼がある。
だから、歩ける。
ルナは、もう一度空を見上げた。
見えない青に向かって、心の中で言った。
――リュウジ。
頑張って。
無理しないで。
そして、いつか戻ってきて。
その日まで、私も前に進むから。
ーーーー
玄関の鍵を閉めた瞬間、家の中の静けさが「現実」みたいに押し寄せてきた。
さっきまでエアポートのざわめきに紛れていた寂しさが、急に輪郭を持って胸に刺さる。靴を脱いで、父の形見のリュックを床に置く。いつもなら「ただいま」と口にするのに、今日は言葉が喉の奥で引っかかった。
リビングに入ると、チャコが窓辺に止まっていた。外の空を見ているのか、飛び立った船の航路を目で追っているのか、ルナには分からない。
「……帰ってきたで」
チャコが、いつもの調子を装った声で言う。
「うん」
それだけ返して、ルナはコートを脱ぎ、手袋を外して、ソファの端に腰を下ろした。冷えた指先が、なかなか温まらない。
――泣くのは、あとでいい。
そう思った。泣いたら、止まらなくなる気がしたから。
その時、机の上に置いた端末が震えた。
ブーッ、ブーッ。
画面には「メノリ」の名前。
ルナの心臓が、またひとつ跳ねる。メノリは、こういう時に必ず連絡してくる。誰よりも厳しいくせに、誰よりも仲間を見ている人だ。
ルナは深呼吸してから、通話ボタンを押した。
「もしもし、メノリ?」
『……ルナか』
聞こえてきた声は、いつも通り落ち着いていた。けれど、その落ち着きの下に焦りが潜んでいるのが分かる。メノリは心配している時ほど、声を平らにする。
「うん」
『……リュウジは、ちゃんと行ったか?』
その質問は、確認というより、祈りに近かった。行ったのか、行かなかったのか。行けたのか、途中で何かあったのか。メノリは“起こり得る最悪”をいつも想定する。サヴァイヴを経験した今は、なおさらだ。
「……ええ。ちゃんと行ったわ」
ルナが答えると、電話の向こうで息を吐く音がした。
『……そうか』
それだけ言って、メノリは黙った。その沈黙が長く感じられて、ルナは端末を耳に当てたまま、指先で膝の上の布を撫でた。
メノリは、沈黙の中で整理しているのだ。言葉にする前に、自分の感情を整えている。――泣きたい時ほど怒った顔をする人。
『……ルナ』
「なに?」
『ルナは……今、家か?』
「うん。今、帰ってきたところ」
『チャコは一緒か?』
ルナは視線だけでチャコを見た。チャコは窓辺のまま、こちらを向かない。それでも耳はこっちに向いているのが、機体の角度で分かる。
「うん、いるよ」
『そうか。……なら、いい』
いい、って何が。ルナは思わず苦笑した。メノリはこういう時、説明しない。説明しないまま“必要なだけ”確認して、必要なだけ安心して、そして必要なだけ叱る。
案の定、次の言葉は少し厳しかった。
『……泣いていないだろうな』
ルナの胸がきゅっと縮む。図星だった。泣いていない。泣けていない。泣いたら崩れると思ったから。
「……泣いてないよ」
『……そうか』
メノリの声が一段低くなる。
『泣けるうちに泣け。溜めるな。お前はそうやって……いつも背負う癖がある』
胸の奥が、じわっと熱くなった。メノリの言葉は鋭いのに、刃先がいつも“守る”方向を向いている。
「……私、背負ってないよ」
『背負っている。自覚がないのが一番厄介だ』
即答だった。メノリは容赦がない。けれど、その容赦のなさは、ルナが壊れないようにするためのものだ。
ルナは返す言葉を探した。心の中にはいくつも言いたいことがあるのに、口から出るのは薄い言葉ばかりだった。
「……だって、リュウジが決めたことだから」
『分かっている』
メノリは言った。
『だからこそ聞いている。お前は、ちゃんと見送ったのか』
ルナは目を閉じた。搭乗口へ歩いていく背中。振り返って交わした視線。短い「ありがとう」。あの瞬間、ルナは泣かなかった。泣かないで頷いた。
「……見送ったよ」
『そうか』
メノリは短く言う。けれど、次の言葉が続かない。沈黙が戻る。
ルナは、その沈黙が苦しくて、先に口を開いた。
「メノリ……私ね、寂しい」
言った瞬間、喉が震えた。寂しい。それは弱音だ。でも今のルナに必要な言葉だった。
電話の向こうで、メノリが小さく息を吐いた。
『……当たり前だ』
その返事が、妙に優しかった。
『寂しくない方がおかしい。仲間だろう。……それに、あいつは面倒な男だ。面倒だからこそ、放っておけなくなる』
ルナは少し笑ってしまった。メノリがリュウジを“面倒な男”と言う時、そこには確かな信頼が含まれている。
「うん……面倒だよね」
『ああ。だが、お前が面倒を見る必要はない。……“支える”と“背負う”は違う』
その言葉は、ルナの胸の中心にまっすぐ刺さった。
支える。背負う。似ているのに、全然違う。
ルナは、いつも“支える”つもりでいて、いつの間にか“背負う”側に回ってしまう。サヴァイヴの時だってそうだった。皆の不安を背中で受け止めて、夜に一人で泣いて、朝に笑った。
『ルナ、お前は頑張るんだろう』
「……うん」
『なら、頑張れ。だが、頑張り方を間違えるな』
メノリは断言した。
『ルナには、夢がある。惑星開拓技師になるんだろう。リュウジのやりたいことと同じで、それはルナの人生だ』
「……うん」
ルナの声が少し小さくなる。
『そして、あいつはあいつで、自分の区切りをつけた。S級を返上して、やりたいことを見つけたと言った。なら、今度はそれをやりに行っただけだ』
メノリは、淡々と事実を並べていく。感情に流される前に、現実を定める。メノリのやり方だ。
でも、淡々としているのに、優しさがある。ルナが迷子にならないように、道標を置いてくれている。
「……メノリは、どう思う?」
ルナは訊いた。自分の気持ちを整理したくて。リュウジの決断を、ただ肯定するだけでなく、仲間の視点が欲しくて。
電話の向こうで、少し間が空く。
『……正直に言う』
「うん」
『腹が立つ』
ルナの目が丸くなる。
「え……?」
『言い方があるだろう。あいつは、いつもそうだ。大事なことほど、必要最低限しか言わない。仲間だからこそ、共有するべきこともある』
それはメノリらしい怒りだった。支配的な怒りではない。“仲間としての怒り”。置いていかれたことへの、正当な不満。
『だが』
メノリは続けた。
『……理解もしている』
その言葉に、ルナの胸が少し軽くなった。
『あいつは、説明すればするほど、誰かが止めると思ったのだろう。だから最短距離で出た。……そういう男だ』
「うん……」
ルナは、リュウジの顔を思い出した。作った笑み。寂しさを隠す目。短い言葉の裏にある温度。
『ルナ』
「なに?」
『あいつに何を言った』
質問が来た。メノリは聞き役のようで、実は核心にすぐ触れる。
ルナは素直に答えた。
「頑張ってって言った。あと、無理しないでって」
『……それで、あいつは何と言った』
「無理はするって。……でも無茶はしないって」
言った瞬間、また胸が熱くなる。あの言葉は、ルナのお願いを受け取った証だった。
メノリが小さく笑う気配がした。
『……ふん。珍しいな』
「え?」
『あいつがそこまで言うのは、珍しい。……お前の言葉が効いたんだろう』
ルナは返事ができなかった。嬉しいのに、切ない。自分の言葉が届いたと思えるほど、もう隣にいない現実が痛い。
その時、窓辺のチャコが小さく動いた。ルナの方をちらりと見て、また窓に目を戻す。――ルナの声が震えているのを、チャコも分かっている。
『ルナ』
メノリの声が少し柔らかくなる。
『今夜、眠れるか』
ルナは言葉に詰まった。眠れるか、なんて分からない。でも、強がって「眠れる」と言うのは違う気がした。
「……分からない」
『そうか』
メノリは即座に言う。
『眠れないなら、私に連絡しろ。……いや、連絡しろというより、愚痴れ。私は聞く』
ルナの鼻の奥がツンとした。メノリはこういうところで、急に優しくなる。普段は厳しいのに、本当に必要な時だけ、逃げ道をくれる。
「……ありがとう、メノリ」
『礼を言うな。仲間だろ』
ぶっきらぼうな言い方。でも、その一言でルナは救われる。
ルナはふと、訊きたくなった。
「メノリは……寂しくないの?」
『寂しいに決まっている』
即答だった。
『だが私にも夢がある。今はやることが山ほどある。寂しさに浸っている暇はない……と言いたいところだが』
メノリは少し言葉を切って、続けた。
『……寂しいものは寂しい』
その正直さが、ルナの涙腺を刺激した。
ルナは、ここで初めて涙が出そうになるのを感じた。強く瞬きをして、声を整える。
「……ねぇメノリ。私、頑張るよ」
『それは聞いた。何度も言うな』
メノリの声に、いつもの厳しさが戻る。
『頑張るなら、具体的に何をする』
「え……?」
『言ってみろ。今すぐだ』
メノリは容赦ない。けれど、これはルナの背中を押すための問いだ。
ルナは考えた。考えて、言葉にした。
「……まず、勉強する。惑星開拓のこと、ちゃんと進める。あと、進路のこともちゃんと考える」
『よし』
メノリが短く肯定する。
「それから……皆のことも大事にする。……私、一人で背負わない」
言いながら、ルナは自分自身に言い聞かせていた。
『よし』
もう一度、メノリが言った。
『それでいい。……あいつのために頑張るな。自分のために頑張れ。その結果として、あいつの支えになるなら、それでいい』
ルナはゆっくり頷いた。電話の向こうだから頷いても意味がないのに、それでも頷いてしまう。
「うん……分かった」
『それと』
メノリの声が少しだけ鋭くなる。
『もし、あいつが無茶をしたと分かったら――私が叱る』
ルナは思わず笑ってしまった。涙が出そうなのに、笑ってしまう。
「ふふっ……メノリらしい」
『当然だ』
メノリが言い切る。
『あいつは、放っておくとどこまでも行く。だから、止める役が必要だ。……ルナがそれを全部担う必要はない。私もやる。チャコもやる。皆でやる』
ルナの胸が、温かくなる。
支えるのは一人じゃない。
仲間がいる。
だから、ルナは息を吸って、言った。
「……うん。ありがとう」
『礼を言うなと言っただろ』
メノリの声が少し呆れたようになる。
『……ルナ、最後に確認する』
「なに?」
『ルナは、リュウジを見送った。それで終わりじゃない。ルナはここで生きる。――それを忘れるな』
ルナは、今度こそ涙をこぼさずに答えた。
「……忘れない」
『よし』
短い肯定。
『では、切る。今日は早く風呂に入って温まれ。冷えたままだと余計に眠れなくなる』
「うん。分かった」
『チャコにも言っておけ。くれぐれも無茶はするなとな』
ルナは思わずチャコを見た。チャコは、聞こえていたのか、わざとらしく肩をすくめた。
「言っとく」
『頼んだ』
メノリはそう言って、通話を切った。
ツーツー、という音が耳に残る。
ルナは端末を膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
――泣けるうちに泣け。
メノリの言葉が、胸の奥で繰り返される。
ルナはゆっくり息を吐き、目を閉じた。
泣きたい。
寂しい。
でも、泣いたあとにまた立てる自分でいたい。
「……ルナ」
チャコが、背中越しに声をかける。優しい声だった。
「……なに?」
「泣くなら、今や。ウチ、見てへんふりしたる」
ルナは、ふっと笑った。笑った拍子に、ついに涙が一粒こぼれた。
「……見てへんふりって、言ってる時点で見てるよ」
「そういうツッコミはええねん」
チャコは窓の外を見たまま言う。
ルナは、涙を手の甲で拭って、ゆっくり立ち上がった。
「……お風呂、入る」
「いっといで」
ルナは頷いた。
寂しさは消えない。
でも――仲間がいる。
メノリの声が背中に残っている。
そして、リュウジの言葉も残っている。
“無茶はしない”
ルナは胸の奥で、もう一度だけ呟いた。
――私も、頑張る。
彼のためじゃない。
私のために。
そして、その先でまた、同じ空を見られるように。