サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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不安

 ルナとシャアラが思い出し、二人して笑った。

 

「……さつまいもって、ほんと、記憶に残るよね」

 

 登校途中の並木道。まだ朝の冷えが残る空気の中で、シャアラがふっと笑った。白い息が小さく揺れる。

 

 ルナはその言葉に、つられるように口元が緩んでしまう。

 

「残る。ハワードの顔、今でも思い出せるもん。うま!あま!って、子どもみたいに叫んで」

 

「叫んでたね……。しかも自分が焼いたわけじゃないのに」

 

 シャアラがくすくすと肩を震わせる。ルナも堪えきれずに笑った。

 

「チャコも偉そうだったし、カオルは淡々としてて。……それで、リュウジは」

 

 言いかけて、ルナは口を閉じた。

 

 “髪が濡れてた”とか、“あの量は二人じゃ無理”とか――あの時の洞窟の匂いと焚き火の音まで一緒に蘇る。胸の奥が、じんわり温かくなって、同時に少しだけ痛む。

 

 シャアラは、ルナの表情の変化に気づいたのか、わざと明るい声で続けた。

 

「でもさ、サヴァイヴの頃って……ほんと、今思うと不思議だよね。あんなに大変だったのに、懐かしいって思えるんだもん」

 

 ルナは頷く。

 

「うん。懐かしいって思えるの、すごいよね。……あの頃の私たち、必死だったのに」

 

 校門が見えてきて、通学路の賑わいが増す。ソリア学園の敷地に入ると、制服の波が二人を飲み込んでいった。

 

「……じゃあ」

 

 シャアラが少し名残惜しそうに言う。

 

「今日から別のクラス、だね」

 

「うん。でもお昼は一緒にね」

 

「絶対だよ。忘れたら許さないから」

 

 シャアラは冗談めかして言い、ルナの肩を軽く叩いた。ルナも笑って頷く。

 

「忘れないよ」

 

 教室の前でシャアラと別れて、ルナは自分の席に向かった。授業が流れていき、昼休みに顔を合わせて、また笑って――気づけば放課後になっていた。

 

 *

 

 ルナは帰り道、買い物袋の中身を頭の中で組み立てながら、学園近くのスーパーに寄った。

 

 今日は卵と牛乳と野菜。あと、チャコが最近やたらと気に入っている炭酸水も切れていたはずだ。

 

 野菜売り場で手を伸ばした時、ふと視界の端に見覚えのある横顔が入った。

 

 淡いベージュのコート。まとめた髪。整った横顔――そして、どこか疲れの滲んだ目元。

 

「……エリンさん?」

 

 声をかけると、その女性が驚いたように振り向く。

 

「ルナ?」

 

 エリンだった。スーパーの照明の下でも分かる。以前より頬が少しすっきりしていて、肩の線も細い。綺麗に見えると言えばそうなのに、どこか“削れた”ようにも見えた。

 

「久しぶり。こんなところで会うなんて」

 

「ほんとに……! エリンさん、買い物ですか?」

 

「ええ。……と言いたいところだけど、時間がなくて、必要最低限だけ」

 

 エリンは苦笑して、手元の買い物かごを見せた。中には簡単に食べられそうなものばかりが入っている。

 

 ルナは自然と、言ってしまった。

 

「……エリンさん、少し痩せました?」

 

 エリンは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに肩をすくめる。

 

「分かる? 最近、ちょっと忙しくてね。食事の時間がちゃんと取れない日が増えた」

 

「旅行会社の仕事ですか?」

 

「そう。……それもあるけど、穴埋めが増えたの」

 

「穴埋め……?」

 

 エリンは、言葉を選ぶように小さく息を吐いた。

 

「五月にね。宇宙管理局が北の未探索領域へ向かう探索任務を組んだの。そこで新しくS級に選ばれたのが、ブルンクリン」

 

 ルナは頷いた。噂で耳にした名前だ。

 

「で、その任務に――ハワード財閥所属のチーフパーサーが同行することになった」

 

 エリンの声に、ほんの少しだけ硬さが混じった。

 

「……チーフパーサーが、探索に?」

 

「そう。向こうは向こうで体制を整えなきゃいけないからね。チーフが抜けると、社内は一気に回らなくなる。だから」

 

 エリンは自分のカゴを軽く持ち上げた。

 

「副パーサーの私が、そのぶん穴埋め。業務がね、一気に増えた」

 

 ルナの胸がきゅっと締まる。エリンが探索に行かないと分かっても、安心しきれない。現場に出なくても、“背中側”で支え続けるのは同じだ。

 

「……エリンさん、無理してませんか」

 

「無理、っていうか……やるしかない、かな」

 

 エリンは笑った。笑ったのに、目元が少しだけ疲れている。

 

 ルナは立ったまま話すのがもどかしくなって、言葉が先に出た。

 

「エリンさん、少し……お茶しませんか? 私、今日は急ぎじゃなくて」

 

 一瞬、エリンは迷うように目を伏せた。でも次の瞬間、ふっと肩の力を抜く。

 

「……いいわね。私もちょうど、座りたいと思ってた」

 

 二人は会計を済ませ、スーパーの隣の小さな喫茶店に入った。窓際の席は柔らかな光が差し込んでいて、外の人通りが見える。

 

 エリンはホットティー、ルナはココアを頼んだ。

 

 湯気が立ち上がり、カップの温かさが指先に染みる。

 

「こういうの、久しぶり」

 

 エリンがぽつりと言う。

 

「忙しいと、ゆっくり座る時間もなくなるのよね」

 

 ルナは改めてエリンの顔を見る。やっぱり、少しだけ痩せた気がする。

 

「……本当に、忙しいんですね」

 

「うん。穴埋めって、地味に重いの。誰かが抜けた穴は“そこにあった分の仕事”が残るから」

 

 エリンは淡々と言う。淡々としているのに、その言葉は妙にリアルだった。

 

 沈黙が少し落ちた時だった。

 

 エリンがふと思い出したように顔を上げる。

 

「……そうだ。ルナ」

 

「はい?」

 

「リュウジは?」

 

 その名前が出た瞬間、ルナの心臓が小さく跳ねた。

 

 もう当たり前みたいに隣にいない。そう分かっていても、“名前”はまだ、ルナの中の何かを柔らかく、そして痛く揺らす。

 

 ルナはカップを握りしめてから、落ち着いた声で答えた。

 

「冥王星に……旅立ちました」

 

「冥王星?」

 

 エリンが目を見開く。

 

「……冥王星って、確か……医療関係の学校が多い場所よね」

 

 ルナは、胸の中に芽生えた“もしも”をそのまま言葉にした。

 

「……リュウジ、もしかして医者になりたいんですかね」

 

 自分で言った瞬間、何故だかルナの胸が少し軽くなった気がした。

 

 医者。命を救う仕事。

 

 リュウジが「やりたいこと」を見つけてS級を降りた――その“やりたいこと”がもしそうなら、彼らしい気がする。誰にも言わず、静かに、でも確実に前へ進む。

 

 エリンは小さく笑った。

 

「どうかしら」

 

 やわらかな声だった。

 

「リュウジは……優しいのに、優しいって言われるのが苦手でしょう?」

 

「……はい」

 

「だから、何を目指してるかは分からない。でも――“誰かの痛みを、分かる側”に行こうとしてるのは、確かかもしれない」

 

 その言葉が、ルナの胸の奥に落ちた。

 

 リュウジは痛みを知っている。だから、人の痛みに気づける。そして気づいてしまうから、放っておけない。

 

「……エリンさん」

 

 ルナはそっと言った。

 

「忙しいなら、ちゃんと休んでください。穴埋めって言っても、エリンさんが倒れたら、誰が支えるんですか」

 

 エリンは驚いたように目を瞬かせ、それから少しだけ視線を逸らした。ごまかすようにカップを持ち上げる。

 

「……ルナに言われると、ちゃんと聞かなきゃって気持ちになるわね」

 

「聞いてください」

 

「……うん。努力する」

 

 “努力する”という言い方に、ルナは一瞬引っかかった。やっぱり、エリンは“やめる”じゃなくて“頑張る”を選ぶ人だ。

 

 でも、今はそれでもいい。

 

 言葉にして伝えたことが、きっとエリンのどこかに残る。

 

 ルナは湯気の向こうのエリンを見ながら、心の中で小さく誓った。

 

 リュウジが冥王星で前に進んでいるなら――私も、ここで前に進む。

 

 日々の生活の中で、できることを積み重ねる。

 

 誰かの背中を支えてくれている人に、ちゃんと「大丈夫?」って言える人でいる。

 

「……また、お茶しましょう」

 

 ルナが言うと、エリンは目を細めて笑った。

 

「ええ。約束ね」

 

 窓の外では、人々がいつも通り行き交っていた。冬の空気は冷たい。それでも喫茶店の中は温かい。

 

 エリンはその様子を一瞬見て、それから視線を手元に落とした。指先が、カップの取っ手を必要以上にきゅっと握っている。

 

「……ルナ」

 

 エリンの声が、さっきより少しだけ低い。声色は変わらないのに、どこか“奥”が重くなった気がした。

 

「チーフパーサーが同行するって話、さ」

 

 ルナは頷いた。

 

「はい。……大変なんですよね。現場が抜けると」

 

「うん。大変。大変なんだけど……」

 

 エリンは言いかけて、言葉を飲み込むように口を閉じた。いつもなら、そこで笑って流す人だ。大丈夫よ、って軽く言って、相手の心配を摘み取ってしまう。

 

 でも今日は、その“流し方”がうまくいかないように見えた。

 

「……本当はね」

 

 エリンは小さく息を吐き、湯気の向こう側に視線を置いたまま続けた。

 

「チーフが同行すること自体、間違いじゃないのよ。未探索領域で、もしものことがあった時、探索側の判断が遅れたら取り返しがつかない。経験と決断力がある人が前に出るのは……理屈としては正しい」

 

 理屈としては。

 

 その言い方に、ルナは胸の奥が少しざわついた。

 

「でも、理屈だけじゃ割り切れないこともあるでしょう?」

 

 ルナがそう言うと、エリンはほんの少しだけ眉を下げた。

 

「……そうね」

 

 そして、エリンは声をさらに落とす。

 

「ペルシアがいなくなってから、私……余計に“後ろ”を意識するようになったの」

 

 ルナの心臓がまた、小さく跳ねた。

 

 ペルシア。

 

 口に出すだけで、場の空気が一段冷える名前。

 

「ペルシアがいた時ってね……どれだけ現場が荒れてても、どれだけ上が理不尽でも、最後に“線”を引ける人がいたの」

 

 エリンは笑わない。笑えない。

 

「ここまでは譲る。ここからは譲らない。危険なものは危険って言う。守るべきものを守る。その“芯”が……ペルシアにはあった」

 

 ルナは、思わずカップを両手で包み込んだ。温かいはずなのに、指先が少し冷たい。

 

「なのに今は……」

 

 エリンは言葉を切って、少しだけ唇を噛んだ。

 

「今は、誰かが前に出るたびに、後ろが崩れるの」

 

 エリンの声が震えているわけじゃない。むしろ、淡々としている。淡々としているからこそ、そこにある“焦り”が際立った。

 

「チーフパーサーが同行すると決まった時、私はまず安心したのよ。経験者が前に行くなら、安全確保は強くなる。危険を“危険”って言える人が前線にいるのは、心強い」

 

 そこで一拍、エリンは間を置いた。

 

「……でも同時に、怖くなった」

 

 ルナは息を止める。

 

「チーフが前線に出るってことは、後ろの体制が薄くなる。穴埋めは私がする。副パーサーとして当然。でもね、穴埋めって“ただの作業”じゃないのよ」

 

 エリンは苦笑した。苦笑というより、堪えるような表情だった。

 

「人が足りないと、判断が遅れる。連絡が遅れる。確認が抜ける。誰かの疲れに気づくのが遅れる。……そういう小さな遅れが、いつか事故になる」

 

 ルナは、喉がきゅっと締まるのを感じた。

 

 事故。

 

 サヴァイヴで、何度も“遅れ”が命取りになりかけた。判断が一瞬遅れるだけで、誰かが怪我をする。誰かが消える。

 

 エリンはその恐怖を知っている。現場で、何度も見てきたのだろう。

 

「私が怖いのはね、チーフが同行することじゃない。……“誰も止められない状態”になること」

 

 その言葉が落ちた瞬間、ルナの頭の中に、ふっと別の人物が浮かんだ。

 

 リュウジ。

 

 止める人ではない。止められない人でもない。

 

 ただ、危険を危険と見抜き、必要なら自分が前に出る。誰かが怯える前に、自分が矢面に立つ。それが“当然”だと言わんばかりに。

 

 だからこそ、彼がいない今の現実が――ルナの胸をじわじわと締めつける。

 

「……エリンさん」

 

 ルナはやっと声を出した。

 

「ブルンクリンって……どんな人なんですか」

 

 エリンは一瞬だけ目を伏せた。

 

「私は直接知らない。まだ会ってない。……でも、話は入ってくるわ」

 

 カップの縁を指でなぞる。

 

「財閥の息子。技術は確か。自尊心が高い。……そして、“見られること”に慣れてるタイプ」

 

 それは、嫌な意味にも良い意味にも取れる言葉だった。

 

「そういう人が前に立つ時ってね、周りは……判断を間違えやすいの。持ち上げる人もいれば、足を引っ張る人もいる。本人がどれだけ真っ直ぐでも、周りの空気が歪む」

 

 エリンの瞳が、ほんの少しだけ細くなった。

 

「ペルシアがいたら、たぶん……一言で空気を切ったんだろうなって思うのよ。“余計なことするな”って。良くも悪くも、あの人はそういうところがあるから」

 

 ルナは、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 

 ペルシアがいなくなったことは、ただ一人が消えたという話じゃない。

 “空気を切る刃”がなくなったということだ。

 

 だからエリンは焦る。責任の輪郭が曖昧になっていくのが、怖い。

 

「……ルナ」

 

 エリンがルナを呼ぶ。

 

「あなたたちがペルシアを探してたこと、聞いた。止めたくなる気持ちも分かる。でも、私は……」

 

 言葉が途切れる。エリンは一度だけ目を閉じて、それから開いた。

 

「私は、何も知らない」

 

 その言い方が、逆に重かった。

 

 “知らない”という事実が、エリンの肩に重くのしかかっている。

 

「知らないのに、穴だけが残ってる。……それが、悔しい」

 

 エリンの声音は静かだった。それでも、悔しさは確かにそこにあった。

 

 ルナは何も言えず、ただ頷いた。

 

 そして、その沈黙の中で――自分の胸の奥にある別の空洞にも気づいてしまう。

 

 リュウジがいない。

 

 これまでなら、こんな話を聞いたら、きっと彼は眉一つ動かさずに言っただろう。

 

『必要なら、俺が確認する』

 

 それが正しいかは分からない。でも、少なくとも“誰かが動く”という確信があった。

 

 今はそれがない。

 

 ルナはカップの中のココアを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……リュウジがいないんだなって、最近よく思います」

 

 声にした瞬間、胸が少し痛んだ。言葉にしてしまうと、現実が固定される気がしたから。

 

 エリンはルナを見た。その目は、責めるでもなく、慰めるでもなく――ただ、同じ場所を見ている目だった。

 

「……ええ」

 

 短い肯定。

 

「でもね、ルナ。リュウジがいないからって、全部が止まるわけじゃない。止めちゃいけないの。あなたも分かってるでしょう?」

 

 ルナは頷く。分かっている。分かっているのに、痛い。

 

「……はい」

 

「あなたは、あなたの場所で前に進んで」

 

 エリンの言葉は、優しい命令だった。

 

「私は、私の場所で支える。……ペルシアがいなくても、崩れないように」

 

 ルナは、胸の奥の苦さを飲み込むように小さく笑った。

 

「……エリンさん、ちゃんとご飯食べてくださいね」

 

「努力する、じゃなくて?」

 

「努力じゃなくて、してください」

 

 ルナが言うと、エリンはほんの少しだけ笑った。ほんの少しだけ、いつものエリンに戻ったように見えた。

 

「……分かった。約束する」

 

 窓の外で風が吹き、落ち葉がころころと転がっていった。

 

 季節は、確かに進む。

 誰かがいなくなっても、世界は止まらない。

 止まらないからこそ――胸に残るものは、簡単には消えてくれない。

 

 ルナはその痛みを、温かいカップごと両手で抱えた。

 

ーーーー

 

 喫茶店を出たあと、ルナは買い物袋を提げたまま、いつもよりゆっくり歩いた。

 夕方の風はまだ冷たくはないのに、肌に触れるとどこか心細い。空の色が薄くなり始める時間帯は、サヴァイヴの夜を思い出すから嫌いじゃない――そう思いたいのに、今日は妙に胸が詰まった。

 

 家のドアを開けると、いつもの声が飛んできた。

 

「おかえり、ルナ。買い物、早かったやん」

 

 チャコがソファの背もたれに前脚を乗せ、首だけこちらへ向けていた。ネコ型ロボットなのに、あまりにも“寝起きのネコ”みたいな態度だ。

 

「ただいま。……うん、途中でちょっと寄り道したから、早くはないけど」

 

「寄り道? どこ行ってたん?」

 

 ルナは靴を脱ぎ、買い物袋を台所の台に置いた。指先が少し冷えていて、袋の持ち手が赤くなっている。

 

「スーパーの近くでね、エリンさんに会ったの。偶然」

 

 その名前に、チャコの耳――いやアンテナがぴくりと反応する。

 

「エリンに? ほぉ……あいつ元気やったんか?」

 

「元気……って言っていいのかな」

 

 ルナは自分でも曖昧な言い方になったことに気づいた。

 元気。元気じゃない。そんな単純な言葉で片づけられる人じゃない。エリンは、いつも“元気に見せる”のが上手すぎる。

 

 ルナは買い物袋から牛乳を出し、冷蔵庫に入れながら続けた。

 

「少し痩せた気がした。顔の線が、前より細くて……」

 

 チャコが「ん?」と短く鳴く。

 

「痩せた……? あのエリンが?」

 

「うん。本人は忙しいって言ってたけどね。探査の準備で、旅行会社のチーフパーサーが同行するんだって。だから、エリンさんは副パーサーとして穴埋め作業が増えてるって」

 

「穴埋め、なぁ……」

 

 チャコの声が少しだけ低くなる。いつもみたいに茶化さない。

 

「エリンは“埋める側”をずっとやってきたもんな。上が抜けても現場が回るように、誰かの尻拭いをする側や」

 

 ルナは、冷蔵庫の扉を閉める手が止まった。

 

「うん……それ、私も思った」

 

 エリンの手の動き。カップの取っ手を必要以上に握っていた指先。

 言葉を飲み込む癖。

 “理屈としては正しい”って言い方。

 それら全部が、胸の中でじわじわと繋がっていく。

 

 ルナは袋から野菜を取り出していく。レタス、トマト、玉ねぎ。いつもと同じ。いつもと同じ作業なのに、今日は手元が少し遅い。

 

「それでね、ペルシアさんの話になったの」

 

 言った瞬間、台所の空気が変わる。

 

 チャコは無意識みたいに口元を引き結んだ。機械なのに“口元”なんてあるのかと思うけど、ルナにはそう見える。

 

「……ペルシアの話、したんか」

 

「うん。エリンさん、何も知らないって。ほんとに知らないって言ってた。だけど……」

 

 ルナは言葉を探す。探しても、ぴったりの言葉が見つからない。

 

「知らないのに、穴だけ残ってるみたいで……悔しいって。そういう感じだった」

 

 チャコが短く息――いや駆動音を漏らした。

 

「悔しいか。そら悔しいわな。エリンは……あいつは“知らんで済ませる”タイプやない。せやのに、知らん言うしかない状況なんやろ」

 

 ルナは、うん、と頷いた。頷きながら、心の奥が痛い。

 

 ペルシアの穴。

 エリンが埋める穴。

 そして――リュウジがいない穴。

 

 ルナは最後にパンを袋から出して戸棚にしまい、買い物袋を畳んで椅子の背にかけた。終わった。片づけは終わったのに、胸の中の“片づけ”は何も終わっていない。

 

「ルナ」

 

 チャコが呼ぶ。ルナは振り向いた。

 

「リュウジのこと、考えとる顔や」

 

 言い当てられて、ルナは喉が詰まった。

 否定しようとするより早く、勝手に息が漏れた。

 

「……うん」

 

 小さく、たった一音。

 それだけで、自分の中の何かが崩れるのが分かった。

 

「冥王星に行ってから、連絡も……」

 

 ルナは言いかけて、そこで止めた。

 “返事がない”と言ってしまうと、それが決定的になる気がしたから。

 

 チャコは、珍しく茶化さずに、ただ言った。

 

「ルナが心配するのは当たり前や。でもな、リュウジは……あいつはあいつで、今も走っとるんやろ」

 

「分かってる」

 

 分かっている。

 分かっているのに、寂しい。

 

 ルナは自分の端末を取り出した。画面を点けると、メッセージ欄が開く。

 リュウジの名前をタップするだけで、胸が少し痛んだ。

 

 ――何してる?

 ――元気?

 ――ちゃんとご飯食べてる?

 

 打ちかけて、指が止まる。

 

 そんな言葉は、今のリュウジに届くだろうか。

 届いたとして、返ってくるだろうか。

 返ってきたとして、それが“本当の言葉”だと信じられるだろうか。

 

 ルナは画面に視線を落としたまま、ゆっくり文字を打つ。

 

『エリンさんに会ったよ。少し痩せてた。忙しいって言ってた。』

 

 ここまで打って、ルナは止まった。

 

 その文章の続きを、指が拒んだ。

 

『……リュウジも、元気?』

 

 打てない。

 

 打ってしまったら、返事が来ない現実がもっと痛くなる気がした。

 打ってしまったら、“あなたがいない”って自分が認めることになる気がした。

 

 ルナは、ほんの数秒だけ画面を見つめ続けた。

 

 そして、指先で“×”を押して、文章を全部消した。

 

 送信しない。

 

 消えた文字の跡が、画面の白さとして残るだけだった。

 

「……」

 

 ルナは端末の画面を消し、両手でぎゅっと握った。手の中で、薄い機械の温度がじわりと移ってくる。

 

「送らんのか」

 

 チャコの問いは責めるものじゃない。確認でもない。

 ただの、隣の声。

 

「……送れなかった」

 

 ルナが呟くと、チャコは少しだけ間を置いてから言った。

 

「それも、信じとるってことやろ」

 

 ルナは顔を上げた。

 

「信じてる、って……?」

 

「せや。返事が欲しいから送るんやなくて、返事がなくても信じるって決めてるから送らん。ルナは、そういうとこある」

 

 ルナは笑いそうになって、笑えなかった。

 胸の奥が熱くなって、喉が痛い。

 

「……私、ずるいかな」

 

「ずるくない」

 

 チャコは即答した。

 

「ずるくないし、弱くもない。ルナはずっと、そうやって“持ちこたえて”きたやろ。サヴァイヴでも、今でも」

 

 ルナは、唇を噛んだ。

 それでも、少しだけ救われた気がした。

 

「……ありがとう、チャコ」

 

「礼はいらん。せやけど、今晩はちゃんと食うんやで。エリンが痩せたいう話のあとに、ルナまで痩せたら笑えへん」

 

「痩せないよ」

 

「怪しいわ」

 

 チャコがようやくいつもの調子で言う。

 ルナは小さく笑って、台所の照明を少し明るくした。

 

 部屋はいつもと同じ。

 だけど、世界は同じじゃない。

 

 ペルシアがいなくなって、エリンが痩せて、リュウジが遠くにいる。

 

 それでも、夕飯は作らなきゃいけない。

 明日は学校だし、進むしかない。

 

 ルナは深く息を吸って、冷蔵庫から材料を出し始めた。

 包丁の音が、静かな家に規則正しく響く。

 

 ――送らなかったメッセージは、胸の中に残ったまま。

 

 でも、消したからこそ、ルナはまだ、歩ける気がした。

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