サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

109 / 183
モデル

 放課後。空気は冷えているのに、モールの中は人の熱で少し蒸す。

 小劇場の入口には、学生の公演とは思えないくらい、ぽつぽつと花束を持った人が並んでいた。制服姿もいれば、仕事帰りのようなジャケット姿もいる。観客の層が妙に広い。

 

 メノリはその列の端に立ち、花束の包装紙を指先で整えた。ドレスの類は着ていない。だが、いつもの制服でもない。整ったブラウスに、丈の合ったスカート。髪はまとめ、必要最小限の化粧で顔色を整えている。

 自分で言うのも癪だが――“ちゃんとしている”。

 

(……私は何をしている)

 

 内心で自分に突っ込みながら、しかし、背筋を崩す気にはなれなかった。

 学生の舞台。遊びに来たのではない。そうだ、これは――

 

「メノリ〜!」

 

 入口の看板の前で、スワレが両手を大きく振っていた。

 明るい声に、メノリは無意識に歩幅を上げる。小走りで近づきながら、息を整えた。

 

「待たせたか?」

 

「全然。今、来たところ」

 

 スワレはそう言いながら、メノリの顔をじっと見つめた。視線がやけに長い。

 メノリは歩みを止め、眉をひそめる。

 

「……どうした?」

 

「うーん。ねぇメノリ」

 

「何だ」

 

「行けたらな、とか言ってた割に……気合い入ってない?」

 

 スワレの言葉は軽い。でも、その目は確信で光っていた。

 メノリはぴくりと肩を震わせる。

 

「なっ……!?」

 

「だってさ、普段はお化粧しないじゃん。今日、ちゃんと整ってるし」

 

「私は――」

 

「それに、公演祝いのお花まで持ってきてる」

 

 スワレの指が花束に向く。メノリの指がきゅっと包装紙を握り、紙がかすかに鳴った。

 

「……これは、あくまでビジネスマナーを遵守しただけだ」

 

「へぇ〜?」

 

 スワレは口元を押さえながら、ニヤニヤと笑みを崩さない。

 

「その気持ち悪い顔はよせ!」

 

「えっ、気持ち悪いって言った!? ひどい!」

 

「事実だ」

 

「ねぇ、メノリって本当に容赦ないよね。友達に対して!」

 

「友達なら、余計に遠慮しない」

 

「遠慮してよ!」

 

 スワレが笑いながらも、さらに一歩踏み込む。

 

「でも分かるよ。早く会いたいんでしょ?」

 

「……誰にだ」

 

「誰にって、ハワードに決まって――」

 

「なっ!?」

 

 メノリは顔を赤くして、すっと視線を逸らした。

 スワレはその反応を見て満足そうに、頬を膨らませる。

 

「ほら。やっぱり」

 

「違う! 私は……!」

 

 言葉を探した瞬間、スワレが追い打ちのように言う。

 

「席、なくなっちゃうぞ、とか言いそう」

 

「言うか!」

 

「でも慌ててるよね。さっき小走りだったもん」

 

「……寒いから歩幅を上げただけだ」

 

「寒いから小走りって何それ」

 

「うるさい。ほら、中に入ろう。席がなくなるぞ」

 

「落ち着きなよ」

 

 スワレが平然とチケットを振って見せた。

 

「指定席だから慌てなくても大丈夫。ほら、ここ。A列」

 

 メノリの口がわずかに固まる。

 スワレが、にやりと目を細めた。

 

「ま、早く会いたい気持ちは分かるけど」

 

「……私は先に行く!」

 

 メノリは足早に入口へ向かった。

 背後でスワレが「ごめんって! ちょっと面白くなって!」と笑いながらついてくる。

 

 受付でチケットをもぎられ、薄暗い通路を抜けると、小劇場特有の匂いが鼻を掠めた。古い木材の匂い、幕の布、舞台用の化粧品の甘さ――それらが混ざって、どこか胸をざわつかせる。

 

 客席は小さい。天井が低く、舞台が近い。

 A列は思った以上に前で、舞台の床の傷まで見える距離だった。

 

「うわ、近いね」

 

 スワレが嬉しそうに囁く。

 

「……近すぎる」

 

 メノリは口ではそう言いながら、目は舞台から離れない。

 ここなら、息遣いも、足音も、役者の微かな揺れも――全部見えてしまう。

 

 舞台上では、学生スタッフが小道具を最後の確認をしている。

 客席のざわめきは、期待と軽い雑談で満ちていた。学生公演らしく、どこか温い空気。しかし、メノリの胸の内は違う。

 

(……ハワードが出る)

 

 あの、校門で警備員と口論していた男。

 あの、笑わせることが得意で、ふざけることが武器で、いつも空気をかき回してくる男。

 

(学生の舞台。勢いはあるだろうが――)

 

 そう思った時、劇場内の照明がふっと落ちた。

 ざわめきが一斉に吸い込まれるように静まり、客席が息を潜める。

 

 開演のベルが、短く鳴る。

 

 薄闇の中、舞台に音が落ちた。

 “靴底が床を踏む”音。

 それが妙に生々しく響いた瞬間、メノリの背中が、ぞくりと震えた。

 

 幕はない。暗転のまま、舞台中央に一つの椅子。

 その周囲を囲うように、薄い光が輪を描く。

 

 そこへ、一人の男が歩いてきた。

 ゆっくり、慎重に、まるで足音すら計算しているように。

 

(……ハワード?)

 

 メノリは目を見開いた。

 歩き方が違う。普段の、軽い足取りではない。肩の位置、首の角度、視線の落とし方――全てが別人のものだった。

 

 彼は椅子の前で止まり、客席ではなく、舞台の床を見つめた。

 そして、低い声で言った。

 

「……ここに座ると、世界の音が遠くなる」

 

 たった一言。

 それだけで、空気が変わった。

 

 客席の呼吸が、目に見えない糸で縛られたように静まる。

 スワレが隣で「え……」と小さく息を漏らしたのが聞こえた。だが、メノリはそれさえ遠く感じた。

 

 舞台上の男――ハワードは、椅子に座らない。

 座らずに、椅子の背に手を置き、指先をゆっくり滑らせる。

 まるで、その椅子が誰かの記憶を宿しているとでも言うように。

 

「僕は……ずっと、逃げてきた」

 

 その声は、硬く、乾いている。

 ふざけた時に出る高い声ではない。普段、軽口を叩く時の笑い声もない。

 低く、重い。床に落ちて、跳ね返らない声。

 

 舞台袖から、別の役者が出てくる。

 若い男役。彼は怒りに燃えた目で、ハワードに詰め寄った。

 

「逃げるな!」

 

 鋭い怒号。

 だが、ハワードは動かない。肩も震えない。目を上げない。

 

「逃げてるんじゃない。考えてる」

 

「考えてる? 都合のいい言葉だな!」

 

 男役の声が荒ぶり、客席の空気が張り詰める。

 メノリは知らず、花束を膝の上で握り締めた。

 

(……これは、喧嘩の演技ではない)

 

 怒りの質が違う。

 それに応えるハワードの沈黙も違う。

 

 ハワードはゆっくり顔を上げた。

 その目が、客席を一度なぞる。

 ――そして、メノリの方で止まったように見えた。

 

 心臓が、どくんと跳ねる。

 

(……私を見た?)

 

 あり得ない。客席は暗い。舞台のライトが眩しくて、見えるはずがない。

 なのに、視線が刺さった感覚だけは、嘘ではなかった。

 

 次の瞬間、ハワードは男役に向けて、淡々と言った。

 

「お前が怒っているのは……僕のせいじゃない。自分が怖いからだ」

 

 その言葉が落ちた途端、舞台の空気がひやりと冷えた。

 男役が、息を詰める。

 

「……何だと」

 

「お前は、見たくないんだ。自分の弱さを。だから僕を殴れる」

 

 言葉が鋭い。

 普段のハワードが言うなら、ただの挑発に聞こえただろう。

 だが今のハワードの声には、確かな“重さ”がある。

 逃げずに、相手の心臓に手を伸ばすような重さが。

 

 男役が一歩踏み込む。

 ハワードは立ち上がる。

 二人の距離が一気に詰まり、観客が無意識に身を引く。

 

 そこでハワードは――笑った。

 

 いや、笑みではない。

 皮肉でもない。

 “覚悟”を決めた人間が、最後に浮かべるような表情だった。

 

「殴ってみろよ」

 

 短い挑発。

 しかし、その一言の中に、恐怖と、諦めと、そして救いへの渇望が混じっていた。

 

 男役の拳が上がる。

 舞台上で殴り合いが始まる――そう思った瞬間、暗転。

 

 暗闇。

 そこから、一筋のライトが床を斜めに切る。

 ハワードの姿だけが浮かび上がる。息が荒い。頬に汗が光る。

 

「……僕は、見てしまった」

 

 囁くように言う。

 さっきまでの強さが、急に壊れる。

 

「守れなかった」

 

 その言葉が、胸の奥を刺した。

 客席の誰かが、息を呑む音がした。メノリ自身も、喉が詰まった。

 

(……ハワード)

 

 彼が何を“見てしまった”のか。

 何を“守れなかった”のか。

 舞台の設定は違う。役柄も違う。だが、言葉の奥に滲むものは――あまりにもリアルだ。

 

 ハワードは椅子に手をつき、膝を落とした。

 その姿が、痛々しいほど真実味を帯びている。

 “演技”を超えている。

 まるで、自分自身の中から言葉を掘り出しているようだった。

 

 その時、舞台の奥から女役が現れた。

 彼女は静かにハワードに近づき、膝を折り、彼の顔を覗き込む。

 

「……あなたは、まだ生きてる」

 

 優しい声。

 ハワードは、笑いそうで笑えない顔で答える。

 

「それが、罰だ」

 

 重い。

 その重さに、メノリは拳を握り締めた。

 

 スワレが隣で、いつの間にか笑っていない。

 目が潤んでいるのが暗がりでも分かる。

 

(……私も、笑えない)

 

 メノリは自分の口元が固まっているのを感じた。

 “面白いから行ってみよう”なんて軽さは、もうどこにもない。

 舞台が、客席の胸を掴んで離さない。

 

 そして、クライマックス。

 ハワードは立ち上がり、女役の肩を掴む。

 必死に、でも乱暴にはならず。震える指先で。

 

「僕は、逃げる」

 

「逃げないで」

 

「逃げるんだ。逃げて……それでも、前に進む」

 

 その言葉に、メノリは息を止めた。

 

(……逃げて、それでも前に進む)

 

 どこかで聞いたような言葉。

 誰かの言葉。

 心の中に、仲間の顔が浮かぶ。遠い場所へ進んでいった仲間たち。

 そして――今はもう、ここにいない男。

 

(リュウジ……)

 

 不意に、胸が痛んだ。

 “前に進む”ために去っていった彼の背中。

 それを送り出した自分の言葉。

 その時の自分の顔は、ちゃんと笑えていただろうか。

 

 舞台上で、ハワードが最後に叫ぶ。

 

「僕は――生きる!」

 

 その叫びは、喉を裂くような必死さだった。

 誰かに届かせるためではなく、まず自分の胸に刺すための叫び。

 

 暗転。

 沈黙。

 そして、ふっとライトが戻り、カーテンコール。

 

 舞台袖から役者たちが一列になって出てくる。

 拍手が起こる。最初は控えめだった拍手が、すぐに大きなうねりになった。

 

 最後に出てきたハワードが、深く礼をした。

 その顔は――さっきまでの迫力とは違い、どこか少年のように柔らかい。

 でも、目だけは、燃えるように真っ直ぐだった。

 

 メノリは立ち上がり、拍手を送った。

 気づけば、指先が痛くなるほど叩いている。

 

 スワレが隣で呆然としたまま、ぽつりと言う。

 

「……ねぇ、メノリ」

 

「……何だ」

 

「ハワードって、あんなに……すごかったんだね」

 

 メノリは言葉に詰まった。

 胸の奥が熱い。悔しいような、誇らしいような、どちらともつかない感情が渦巻く。

 

「……学生の舞台だぞ」

 

「え、今さらそれ言う!?」

 

「だが、侮れない」

 

 それだけ言うのが精一杯だった。

 スワレがくすっと笑い、涙を拭う。

 

「メノリ、花束渡すの?」

 

「……当然だ」

 

「うわ、やっぱり気合い入ってる」

 

「黙れ」

 

 メノリは花束を抱え直した。

 胸の中で、確かなものが動いている。

 校門で騒いでいたあの男が、舞台の上でここまで“人の心”を揺らすなんて。

 

(ハワード……お前は)

 

 メノリは言葉にしない。

 言葉にしたら、きっと顔が赤くなる。

 だから、花束を握る力だけを強めた。

 

 拍手の余韻が残る劇場の出口へ向かいながら、メノリは、今夜だけは――自分の中のざわめきを、否定しないことにした。

 

 

ーーーー

 

 

 客席を出た途端、劇場の外気が頬を撫でた。拍手の熱がまだ指先に残っているのに、廊下の空気はひんやりと現実的で、床のワックスの匂いが鼻に刺さる。

 

 メノリは花束を抱え直し、受付横に立っていたスタッフへ声をかけた。

 

「すまない。出演者に差し入れを渡したい。楽屋へ案内してくれ」

 

「えっと、関係者の方ですか?」

 

「観客だ。だがチケットは招待で――」

 

「……あ、そちらの花束ですね。分かりました。こちらへどうぞ」

 

 スタッフはすぐに察したように頷き、通路を先導した。

 スワレがその後ろで、まだ興奮が抜けきらない顔をして、軽い足取りでついてくる。

 

「ねえ、メノリ」

 

「何だ」

 

「学生の舞台って、もっとこう……勢いだけで、粗くて、でも楽しい、みたいな感じだと思ってた」

 

「それが?」

 

「いやぁ……想像の十倍くらい面白かった。さっきまで“学生だから”って思ってた自分を殴りたい」

 

「その例えはやめろ。劇場だ」

 

「だってさ、あの迫力、どう説明すればいいの? 心臓掴まれるってああいう感じなんだね」

 

 スワレが胸の前で拳を握ると、メノリは小さく息を吐いた。

 同意したいのに、素直に頷くのが妙に癪で――でも否定できない。

 

「……舞台が近かったのもある。小劇場の利点だ」

 

「それだけじゃないよ。ハワード――」

 

 スワレが名前を出しかけた瞬間、メノリは足を止めた。

 通路の先、扉が並ぶ一角。紙の貼り札に、手書きの文字が見える。

 

【出演者楽屋/関係者以外立入禁止】

 

 その下に、さらに小さく【主演:ハワード】と貼られていた。

 

「ここだ」

 

 メノリの声が低くなる。

 さっきまでの雑談が、扉一枚で遮られるように消えた。花束が、急に重く感じる。

 

 スワレも、その雰囲気を察したのか、口を閉じて小さく頷いた。

 

 メノリは一度呼吸を整え、ノックをする。

 コン、コン。

 間を置かず、中から「はーい!」と元気な声が返った。

 

「失礼する」

 

 扉を開けると、そこは楽屋特有の熱気と匂いが混ざっていた。化粧落としの甘い香り、汗、布、紙コップのコーヒー。壁際には衣装が吊るされ、椅子には小道具が無造作に置かれている。鏡台のライトが眩しく、空気が少し白い。

 

 そして、その中心で――

 

「メノリ!」

 

 ハワードが、汗で湿った前髪を指で上げながら立ち上がった。

 さっきまで舞台上で別人だった男が、今はいつもの調子で、嬉しそうに口角を上げている。

 

「それに……」

 

 ハワードの視線がスワレに移り、言葉が一瞬詰まった。知らない顔に、いつもの軽口が出てこない。

 その間を、メノリが淡々と埋める。

 

「彼女はスワレだ。私の――同級生だ」

 

「よろしく」

 

 スワレが自然に一礼する。

 ハワードは慌てて背筋を伸ばし、演技の余韻が残る所作で返した。

 

「よ、よろしく! えっと……来てくれてありがとな!」

 

 その言い方が、ちょっとだけ“舞台の癖”を引きずっている気がして、スワレが肩を揺らして笑いを噛み殺した。

 

 メノリは、花束を差し出した。

 

「お疲れ様だ、ハワード」

 

「おお! ありがとなメノリ!」

 

 ハワードが花束を受け取る。包装紙が擦れる音が、妙に大きく響いた。

 花束に視線を落としたハワードの顔が、一瞬だけ柔らかくなる。

 

「……シロツメクサの花束か。懐かしいな」

 

 その一言が、場の空気をほんの少しだけ変えた。

 スワレが首をかしげる。

 

「懐かしい? 好きなの?」

 

「好きっていうかさ」

 

 ハワードは花束を抱え直しながら、照れ隠しのように笑った。

 

「昔な。ま、いいや!」

 

 話をすぐ切り上げるのが、いかにもハワードらしい。

 スワレはそこに突っ込まず、素直に言葉を続けた。

 

「それにしても凄く良かったよ、ハワード」

 

「本当か!?」

 

 ハワードの目がぱっと輝く。

 その反応があまりにも分かりやすくて、スワレがさらに笑みを深めた。

 

「うん。学生の舞台だから、正直そこまで期待してなかったんだけど……いい意味で裏切られた」

 

「へへっ!」

 

 ハワードが胸を張る。

 

「今回は主演が僕だったからさ」

 

「うわ、出た」

 

 スワレが即座に突っ込み、ハワードが「何だよ!」と肩をすくめる。

 そのやり取りに、楽屋の緊張が少しほどけた――ように見えた。

 

 だが、スワレが続ける。

 

「でも本当に、演技上手だった。怖いくらい」

 

「怖いって褒め言葉か?」

 

「褒め言葉。ね、メノリ」

 

 スワレが振る。

 メノリは一つ息を吐いた。ほんの数秒、言葉を選ぶ沈黙が落ちる。

 その沈黙が、さっきまでの“ふざけた空気”を切り替える合図になった。

 

「……上手だった」

 

 メノリがそう言った瞬間、ハワードの顔がぱっと明るくなる。

 

「だろ!? だろ!? メノリにそう言われたら――」

 

「だが」

 

 メノリが続けた。

 その「だが」で、ハワードの笑みが固まる。

 

「演技が大袈裟だ。客席に届く前に、お前自身の熱で焼けている」

 

「えっ」

 

 スワレが思わず声を漏らす。

 ハワードが、まばたきを止めたまま固まる。だが、目だけは逃げない。

 

 メノリは容赦なく言葉を重ねた。

 

「確かに迫力はある。だが“迫力”だけで押し切るのは危険だ。あの場面――自分の弱さを吐露するところ。声の強弱が一定すぎる。観客は置いていかれる」

 

「……」

 

「それに、役のモデルをあいつにしたのだろう」

 

 ハワードの肩がほんの少しだけ揺れた。

 スワレが目を丸くする。

 

「モデル?」

 

 メノリは続ける。

 

「お前が憧れて、追いかけて、真似したいと思う人間だ。動きも、言葉の切り方も、それに似せようとしていた」

 

 ハワードが、ごくりと唾を飲んだのが見えた。

 メノリの声が一段低くなる。

 

「だが、それでは伝わらない。皆がその人物を知っているわけではない。観客は“ハワードの演技”を見に来ている。誰かの影を見たいのではない」

 

 空気が静まる。

 スワレが「メノリ、厳しいよ……」と小さく言うが、ハワードがそれを遮った。

 

「いいんだ」

 

 ハワードの声は真剣だった。ふざけた色がない。

 

「メノリは……僕の演技を最初から見てくれてた」

 

 それを言う時の目が、舞台上の役者の目ではなく、素のハワードの目だった。

 メノリは、その視線を正面から受け止めた。

 

「だから、メノリの意見は間違いない。僕、分かる。今の言葉、痛いけど……正しい」

 

 スワレが一瞬息を止める。

 “いつものハワード”なら、ここで冗談を言って逃げるはずなのに。

 逃げない。笑わない。受け止めている。

 

 メノリは、さらに続ける。

 

「もう一つ。あの最後の叫びだ。あれは……良かった。だが、良すぎた。あの叫びに頼った瞬間、次の芝居が難しくなる。叫びの前に、もっと静かな積み上げが必要だ」

 

 ハワードが、ゆっくり頷く。

 スワレは横で、目を瞬いて、少しだけ感心したように見つめていた。

 

「……分かった」

 

 ハワードが短く言う。

 

「今度、そこ直す。メノリが言うなら」

 

「私が言うからではない。お前が目指すなら、だ」

 

「へへ」

 

 ハワードが、ほんの少しだけ照れたように笑った。

 その笑いは、さっきの“軽口”とは違う。小さく、ちゃんと胸の奥から出ている。

 

 メノリはそこで話を切った。

 言いすぎれば、ただの自己満足になる。彼の背中を押すための言葉は、必要な分だけでいい。

 

「さて。私たちはもう行く」

 

「ああ、ありがとな!」

 

 ハワードは花束を大事そうに抱え直し、顔を上げた。

 

「この後、空いてたらさ。せっかくだし、飯でも行こうぜ」

 

 その瞬間、空気がまた少し軽くなる。

 スワレが「お、戻った」と言いたげな顔で笑い、メノリが淡々と答える。

 

「私は構わないが」

 

 メノリはスワレに視線を向けた。

 

 スワレは一瞬迷うように、口を開きかけて――そして首を横に振った。

 

「私は……やめておく」

 

「遠慮する必要はないぞ」

 

 メノリが言う。

 

「ハワードの奢りだ」

 

「おい!」

 

 ハワードが即座に突っ込む。

 

「勝手に決めるな! 僕の財布を公共物扱いするな!」

 

「公共物ではない。教育への対価だ」

 

「余計ひどい!」

 

 スワレが笑いながら、やんわりと手を振る。

 

「ううん。本当に予定があるから。二人で行ってきて」

 

「そうか」

 

 メノリは少しだけ表情を緩めた。

 

「分かった。ハワード、先に外で待っている」

 

「ああ、すぐ行く!」

 

 ハワードが手を振る。

 メノリとスワレは楽屋を出た。

 

 廊下の静けさが戻る。舞台裏のざわめきは遠く、天井の蛍光灯が白く光っている。

 歩きながら、スワレが横目でメノリを見た。

 

「ねえ、メノリ」

 

「何だ」

 

「ハワードに対して……厳しくない?」

 

 メノリは足を止めない。

 少しだけ間を置いて答える。

 

「そんなことはない」

 

「でもさ」

 

 スワレはしつこい。だが、嫌味はない。

 

「舞台、良かったって思ってるんでしょ?」

 

 メノリの肩が、わずかに動いた。

 否定はできない。だから、正直に言う。

 

「ああ。久しぶりに見たが……かなり良かったと思う」

 

「なら、そう伝えてあげればいいじゃない」

 

 スワレの声は優しい。

 メノリは鼻で笑い、しかし、目は柔らかくなった。

 

「気が向いたらな」

 

「出た、メノリの“気が向いたら”」

 

「うるさい」

 

「でも、ハワード、たぶん分かってるよ。メノリが褒めてないの、褒めてるのと同じって」

 

「意味不明だ」

 

「分かる人には分かるってこと」

 

 スワレが肩をすくめる。

 メノリは花束の包みの擦れる音を聞きながら、ほんの少しだけ心の中で認めた。

 

(……確かに、あいつは分かっているのかもしれない)

 

 笑ってごまかすだけの男じゃない。

 舞台の上で“逃げずに”立っていた。

 なら、こちらも、必要以上に逃げるべきではない――そんな気がした。

 

 劇場の出口が見えてくる。

 外の冷たい空気が、少しだけ甘く感じた。

 

「じゃ、私はここで」

 

 スワレが立ち止まり、メノリに向き直る。

 

「二人で行ってきて。感想、ちゃんと言いなよ」

 

「……善処する」

 

「絶対言わないやつだ、それ」

 

 スワレは笑って手を振り、そのまま別方向へ歩いていった。

 

 残されたメノリは、入口の前で一度だけ深呼吸をした。

 扉の向こうに、ハワードが待っている。

 そして自分は――花束を渡して、厳しい言葉を投げて、今度は“飯”に行く。

 

(……妙な夜だな)

 

 だが悪くない。

 メノリはそう思い、歩き出した。

 

 

ーーーー

 

 スワレと別れた廊下を抜け、劇場の正面ロビーに出た瞬間だった。

 

「メノリ〜っ!」

 

 空気を切り裂くような声。

 振り向くまでもなく分かる。さっきまで舞台であれだけの緊迫を纏っていた男が、今はいつもの調子で手を振っていた。

 

「……お前、切り替えが早すぎる」

 

「役者の才能ってやつだよ」

 

「それは才能ではなく神経の図太さだ」

 

「ひどっ!」

 

 ハワードは笑いながらメノリの隣に並び、こっそり耳打ちするように囁いた。

 

「スワレ、帰った?」

 

「ああ。用があると言っていた」

 

「ふーん。……で?」

 

「で、とは何だ」

 

「二人きりじゃん。メノリの“ダメ出しタイム”の続き?」

 

「続きなどない。私の役目はもう終わった」

 

 ハワードは肩を揺らしながら笑い、メノリの横顔を見た。

 そして、妙に真面目な声になる。

 

「……飯、行くんだろ?」

 

「行く」

 

 メノリが短く答えると、ハワードは少しだけ嬉しそうに目を細めた。

 

「やった」

 

「その顔をするな。私が誘ったみたいに見える」

 

「実質誘っただろ。奢りって言ったのもメノリだし」

 

 そんな口論をしながら、二人は夜のコロニー通りへ出た。

 透明な天井の向こうに、人工の夜空。光の粒が規則正しく並び、風はないのに、どこか季節の変わり目の匂いがする。

 

 メノリは歩幅を崩さない。ハワードはそれに合わせるように少しだけ歩調を落とす。

 その細かな配慮が、舞台の上の男ではなく、今のハワードの“成長”なのだとメノリは気づき――気づいたことを、口には出さなかった。

 

「予約してある」

 

 メノリが言うと、ハワードが目を輝かせる。

 

「え、ガチじゃん。そういうとこ、メノリ好き」

 

「軽々しく“好き”という単語を使うな」

 

「えっ、使っちゃダメなの?」

 

「ダメだ」

 

「じゃあ、“尊敬してる”にする」

 

「もっと面倒なことになるからやめろ」

 

 レストランはモールの少し奥、落ち着いた照明の店だった。

 入口に近づくと、スタッフがすぐに気づいて一礼する。

 

「ご予約の――」

 

「メノリ・ヴィスコンティだ」

 

 名を告げるだけで、空気が変わる。

 ハワードはその様子を見て、口元を歪めて小声で言った。

 

「メノリ、便利だな」

 

「お前が言うな」

 

「僕の方が便利だろ。財閥だぞ?」

 

「それを誇るな。恥ずかしい」

 

 案内された席は、壁際の二人席。外の光が柔らかく反射し、ガラス越しにコロニーの夜景が見える。

 

「いい席じゃん」

 

「騒がしいのが嫌だった」

 

「僕のことか?」

 

「自覚はあるのか」

 

「あるよ。だからここは静かに……」

 

 ハワードが“落ち着いた男”を演じるように背筋を伸ばした。

 メノリはすぐに見抜いて、淡々と告げる。

 

「その“作った静けさ”はやめろ。さっきも言っただろ」

 

「うっ」

 

 ハワードが呻く。

 

「今のは“ダメ出し”じゃない。忠告だ」

 

「同じじゃん!」

 

 注文を済ませ、前菜が運ばれてくる。

 ハワードはナプキンを膝に置き、フォークを手に取った。その所作は――少し大袈裟だが、きれいだった。

 

「テーブルマナーは褒められたんだぜ、僕」

 

「聞いている。だが今のは少し芝居がかっている」

 

「え? これもダメ?」

 

「“自然にできる”ところまで落とせ」

 

「役者に“自然”って言う?」

 

「言う。舞台と食卓を混同するな」

 

 ハワードは頬を膨らませたが、すぐにふっと笑う。

 

「……でもさ」

 

「何だ」

 

「さっきの“上手だった”って言葉。もう一回言ってくれてもいいんだぞ」

 

「言っただろう」

 

「一回じゃ足りない」

 

「欲深い」

 

「役者は拍手で育つんだよ」

 

「では客席に戻って拍手をもらってこい」

 

「それやったら不審者だろ!」

 

 笑いが小さく弾み、店内の静けさに溶けた。

 メノリはそれを“心地いい”と感じたことが悔しくて、わざと冷たい顔を作る。

 

「……演技の話をするのなら、さっきの続きだ」

 

「うえ」

 

 ハワードが露骨に嫌な顔をした。

 

「“うえ”ではない。聞きたいのだろ」

 

「聞きたいけど、心の準備が」

 

「準備などいらん。今この場で改善点を――」

 

「ストップ! ストップ!」

 

 ハワードが両手を上げた。

 

「今日はさ、褒めてくれた分だけで十分。ダメ出しは次の舞台の後!」

 

「……逃げるのか」

 

「逃げじゃない。戦略だ」

 

「戦略の使い方が間違っている」

 

 だが、メノリはそれ以上追わなかった。

 さっきの楽屋で、必要な言葉は渡した。今は食事の時間だ。

 その判断ができる自分に、少しだけ驚く。

 

「じゃあ、別の話をしようぜ」

 

 ハワードが言う。

 メノリはフォークを置き、視線だけで続きを促した。

 

「ブルンクリンの探索任務」

 

 その単語が落ちた瞬間、テーブルの空気が変わった。

 笑いの余韻がすっと引く。店内のBGMが、急に遠くなる。

 

「昨日出発したな」

 

 メノリが言う。

 ハワードはグラスの水に指先を当て、くるりと回した。透明な水面が小さく揺れる。

 

「……あのニュースを見るたびにさ」

 

「……」

 

「リュウジを思い出すんだ」

 

 ハワードの声は、軽くない。

 冗談で逃げる調子ではない。

 メノリは、息を一つ吐いた。

 

「私もだ」

 

 短い返事。それ以上の飾りはない。

 言葉が少ない分だけ、本音が透ける。

 

「アイツ、何してるかな」

 

 ハワードが呟く。

 

「分からない。連絡をしても返ってこない」

 

「……メノリもか」

 

「ああ」

 

 メノリは皿の端を指でなぞり、視線を落とした。

 頭の中に、あの男の顔が浮かぶ。薄い笑み。作った表情。

 そして、何も言わずに消えていった背中。

 

「恐らくルナにも連絡はないだろう」

 

 メノリが続けると、ハワードは唇を噛んだ。

 

「……まったく」

 

 珍しく、言葉が荒い。

 

「何をしてるんだ、あいつは」

 

 その声に、メノリは思わずハワードの顔を見た。

 怒っているようで、怒りだけではない。

 心配と、寂しさと、置いていかれた悔しさが混ざっている。

 

「こうなったらさ」

 

 ハワードが顔を上げる。

 目が妙に真っ直ぐだ。

 

「直接、見に行くしかないだろ」

 

「直接と言ってもだな」

 

 メノリはすぐに現実を突きつける。

 

「冥王星のコロニーでどこを探すつもりだ? 連絡がつかない人間をコロニー内で探すのは至難の業だ」

 

 ハワードが、指を立てて左右に振った。

 

「チチチ」

 

 その音が、妙にハワードらしくて、メノリの口元がわずかに緩む。

 

「あいつはまだ学生なんだろ?」

 

「……たぶんそうだ」

 

「だったら冥王星の学校にいるだろ。学校ってのはさ、だいたい逃げ場がない」

 

「……」

 

 メノリは一瞬、言葉を失った。

 まともだ。筋が通っている。

 しかも、妙に痛い。

 “逃げ場がない”――その言葉が、リュウジの姿と重なる。

 

「……確かにな」

 

 メノリが認めると、ハワードは得意げに胸を張った。

 

「だろ?」

 

「偶にはまともなことを言うようになったな」

 

「“偶には”って何だよ!」

 

 ハワードが突っ込み、メノリが淡々と返す。

 

「偶にはだろ」

 

「ひどっ! 僕、今めちゃくちゃ真面目に言ったのに!」

 

「真面目に言うからこそ刺さることもある」

 

「難しい女だなぁ……」

 

「女扱いするな」

 

「じゃあ……難しいメノリだな」

 

「余計にやめろ」

 

 それでも、メノリの胸の奥で“決める”音がした。

 悔しいが、ハワードの言葉は道を作った。

 怖いのは“探す”ことではない。

 “何も知らないまま時間が過ぎる”ことだ。

 

 メノリはグラスを置き、静かに言った。

 

「明後日からはGWだ」

 

 ハワードが目を見開く。

 

「……行くのか」

 

「ああ。行ってみる」

 

 ハワードは一瞬、子どもみたいに笑いそうになり――すぐに真面目な顔に戻った。

 

「いいんじゃないか?」

 

 軽く言っているようで、声が柔らかい。

 

「せっかくだし、ルナも誘ってやれよ」

 

「当たり前だ」

 

 メノリの即答に、ハワードが満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

 そしてハワードは、少しだけ声の調子を落として言う。

 

「何かあったらさ。ハワード財閥の名前は出していいからな」

 

 冗談のようで、冗談ではない。

 “困ったら守る”と言っている。

 

 メノリは鼻で笑った。

 

「フッ。お前じゃあるまいし」

 

「おい! 僕の名前を出すのが僕らしいってことか!?」

 

「そうだ」

 

「ひどい!」

 

 ハワードが叫びそうになり、周囲の視線を感じて口を押さえた。

 その慌て方が、少し面白くて――メノリは、ほんの一瞬だけ笑った。

 

「……だが」

 

 メノリは続ける。

 声は小さく、しかしはっきりしていた。

 

「ありがとう」

 

 ハワードが固まった。

 数秒、ぽかんと口を開け――そして、急に照れたように視線を逸らす。

 

「……な、なに急に」

 

「礼を言っただけだ」

 

「そういうの、ずるい」

 

「何がだ」

 

「僕が真面目になるとメノリが冷たい。僕が真面目に助け舟出すとメノリが急に優しい。心臓が忙しい」

 

「忙しいのはお前の頭だ」

 

「それ、褒めてる?」

 

「褒めていない」

 

 料理が運ばれてくる。湯気が立ち、香りが空気を満たした。

 メノリはフォークを取り、自然な動きで口に運ぶ。

 

 ハワードも同じように食べ始める。

 そして、ふと呟いた。

 

「……リュウジ、見つかるといいな」

 

 その言葉は、祈りに近かった。

 メノリは、短く答える。

 

「ああ」

 

 言葉は少ない。

 だが、そこに今夜の約束が詰まっていた。

 “探す”のではない。

 “確かめに行く”。

 

 メノリは、静かな夜景を一瞬だけ見やり――すぐに目の前の皿へ視線を戻した。

 今は食べる。

 明後日、動く。

 そう決めた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。