放課後。空気は冷えているのに、モールの中は人の熱で少し蒸す。
小劇場の入口には、学生の公演とは思えないくらい、ぽつぽつと花束を持った人が並んでいた。制服姿もいれば、仕事帰りのようなジャケット姿もいる。観客の層が妙に広い。
メノリはその列の端に立ち、花束の包装紙を指先で整えた。ドレスの類は着ていない。だが、いつもの制服でもない。整ったブラウスに、丈の合ったスカート。髪はまとめ、必要最小限の化粧で顔色を整えている。
自分で言うのも癪だが――“ちゃんとしている”。
(……私は何をしている)
内心で自分に突っ込みながら、しかし、背筋を崩す気にはなれなかった。
学生の舞台。遊びに来たのではない。そうだ、これは――
「メノリ〜!」
入口の看板の前で、スワレが両手を大きく振っていた。
明るい声に、メノリは無意識に歩幅を上げる。小走りで近づきながら、息を整えた。
「待たせたか?」
「全然。今、来たところ」
スワレはそう言いながら、メノリの顔をじっと見つめた。視線がやけに長い。
メノリは歩みを止め、眉をひそめる。
「……どうした?」
「うーん。ねぇメノリ」
「何だ」
「行けたらな、とか言ってた割に……気合い入ってない?」
スワレの言葉は軽い。でも、その目は確信で光っていた。
メノリはぴくりと肩を震わせる。
「なっ……!?」
「だってさ、普段はお化粧しないじゃん。今日、ちゃんと整ってるし」
「私は――」
「それに、公演祝いのお花まで持ってきてる」
スワレの指が花束に向く。メノリの指がきゅっと包装紙を握り、紙がかすかに鳴った。
「……これは、あくまでビジネスマナーを遵守しただけだ」
「へぇ〜?」
スワレは口元を押さえながら、ニヤニヤと笑みを崩さない。
「その気持ち悪い顔はよせ!」
「えっ、気持ち悪いって言った!? ひどい!」
「事実だ」
「ねぇ、メノリって本当に容赦ないよね。友達に対して!」
「友達なら、余計に遠慮しない」
「遠慮してよ!」
スワレが笑いながらも、さらに一歩踏み込む。
「でも分かるよ。早く会いたいんでしょ?」
「……誰にだ」
「誰にって、ハワードに決まって――」
「なっ!?」
メノリは顔を赤くして、すっと視線を逸らした。
スワレはその反応を見て満足そうに、頬を膨らませる。
「ほら。やっぱり」
「違う! 私は……!」
言葉を探した瞬間、スワレが追い打ちのように言う。
「席、なくなっちゃうぞ、とか言いそう」
「言うか!」
「でも慌ててるよね。さっき小走りだったもん」
「……寒いから歩幅を上げただけだ」
「寒いから小走りって何それ」
「うるさい。ほら、中に入ろう。席がなくなるぞ」
「落ち着きなよ」
スワレが平然とチケットを振って見せた。
「指定席だから慌てなくても大丈夫。ほら、ここ。A列」
メノリの口がわずかに固まる。
スワレが、にやりと目を細めた。
「ま、早く会いたい気持ちは分かるけど」
「……私は先に行く!」
メノリは足早に入口へ向かった。
背後でスワレが「ごめんって! ちょっと面白くなって!」と笑いながらついてくる。
受付でチケットをもぎられ、薄暗い通路を抜けると、小劇場特有の匂いが鼻を掠めた。古い木材の匂い、幕の布、舞台用の化粧品の甘さ――それらが混ざって、どこか胸をざわつかせる。
客席は小さい。天井が低く、舞台が近い。
A列は思った以上に前で、舞台の床の傷まで見える距離だった。
「うわ、近いね」
スワレが嬉しそうに囁く。
「……近すぎる」
メノリは口ではそう言いながら、目は舞台から離れない。
ここなら、息遣いも、足音も、役者の微かな揺れも――全部見えてしまう。
舞台上では、学生スタッフが小道具を最後の確認をしている。
客席のざわめきは、期待と軽い雑談で満ちていた。学生公演らしく、どこか温い空気。しかし、メノリの胸の内は違う。
(……ハワードが出る)
あの、校門で警備員と口論していた男。
あの、笑わせることが得意で、ふざけることが武器で、いつも空気をかき回してくる男。
(学生の舞台。勢いはあるだろうが――)
そう思った時、劇場内の照明がふっと落ちた。
ざわめきが一斉に吸い込まれるように静まり、客席が息を潜める。
開演のベルが、短く鳴る。
薄闇の中、舞台に音が落ちた。
“靴底が床を踏む”音。
それが妙に生々しく響いた瞬間、メノリの背中が、ぞくりと震えた。
幕はない。暗転のまま、舞台中央に一つの椅子。
その周囲を囲うように、薄い光が輪を描く。
そこへ、一人の男が歩いてきた。
ゆっくり、慎重に、まるで足音すら計算しているように。
(……ハワード?)
メノリは目を見開いた。
歩き方が違う。普段の、軽い足取りではない。肩の位置、首の角度、視線の落とし方――全てが別人のものだった。
彼は椅子の前で止まり、客席ではなく、舞台の床を見つめた。
そして、低い声で言った。
「……ここに座ると、世界の音が遠くなる」
たった一言。
それだけで、空気が変わった。
客席の呼吸が、目に見えない糸で縛られたように静まる。
スワレが隣で「え……」と小さく息を漏らしたのが聞こえた。だが、メノリはそれさえ遠く感じた。
舞台上の男――ハワードは、椅子に座らない。
座らずに、椅子の背に手を置き、指先をゆっくり滑らせる。
まるで、その椅子が誰かの記憶を宿しているとでも言うように。
「僕は……ずっと、逃げてきた」
その声は、硬く、乾いている。
ふざけた時に出る高い声ではない。普段、軽口を叩く時の笑い声もない。
低く、重い。床に落ちて、跳ね返らない声。
舞台袖から、別の役者が出てくる。
若い男役。彼は怒りに燃えた目で、ハワードに詰め寄った。
「逃げるな!」
鋭い怒号。
だが、ハワードは動かない。肩も震えない。目を上げない。
「逃げてるんじゃない。考えてる」
「考えてる? 都合のいい言葉だな!」
男役の声が荒ぶり、客席の空気が張り詰める。
メノリは知らず、花束を膝の上で握り締めた。
(……これは、喧嘩の演技ではない)
怒りの質が違う。
それに応えるハワードの沈黙も違う。
ハワードはゆっくり顔を上げた。
その目が、客席を一度なぞる。
――そして、メノリの方で止まったように見えた。
心臓が、どくんと跳ねる。
(……私を見た?)
あり得ない。客席は暗い。舞台のライトが眩しくて、見えるはずがない。
なのに、視線が刺さった感覚だけは、嘘ではなかった。
次の瞬間、ハワードは男役に向けて、淡々と言った。
「お前が怒っているのは……僕のせいじゃない。自分が怖いからだ」
その言葉が落ちた途端、舞台の空気がひやりと冷えた。
男役が、息を詰める。
「……何だと」
「お前は、見たくないんだ。自分の弱さを。だから僕を殴れる」
言葉が鋭い。
普段のハワードが言うなら、ただの挑発に聞こえただろう。
だが今のハワードの声には、確かな“重さ”がある。
逃げずに、相手の心臓に手を伸ばすような重さが。
男役が一歩踏み込む。
ハワードは立ち上がる。
二人の距離が一気に詰まり、観客が無意識に身を引く。
そこでハワードは――笑った。
いや、笑みではない。
皮肉でもない。
“覚悟”を決めた人間が、最後に浮かべるような表情だった。
「殴ってみろよ」
短い挑発。
しかし、その一言の中に、恐怖と、諦めと、そして救いへの渇望が混じっていた。
男役の拳が上がる。
舞台上で殴り合いが始まる――そう思った瞬間、暗転。
暗闇。
そこから、一筋のライトが床を斜めに切る。
ハワードの姿だけが浮かび上がる。息が荒い。頬に汗が光る。
「……僕は、見てしまった」
囁くように言う。
さっきまでの強さが、急に壊れる。
「守れなかった」
その言葉が、胸の奥を刺した。
客席の誰かが、息を呑む音がした。メノリ自身も、喉が詰まった。
(……ハワード)
彼が何を“見てしまった”のか。
何を“守れなかった”のか。
舞台の設定は違う。役柄も違う。だが、言葉の奥に滲むものは――あまりにもリアルだ。
ハワードは椅子に手をつき、膝を落とした。
その姿が、痛々しいほど真実味を帯びている。
“演技”を超えている。
まるで、自分自身の中から言葉を掘り出しているようだった。
その時、舞台の奥から女役が現れた。
彼女は静かにハワードに近づき、膝を折り、彼の顔を覗き込む。
「……あなたは、まだ生きてる」
優しい声。
ハワードは、笑いそうで笑えない顔で答える。
「それが、罰だ」
重い。
その重さに、メノリは拳を握り締めた。
スワレが隣で、いつの間にか笑っていない。
目が潤んでいるのが暗がりでも分かる。
(……私も、笑えない)
メノリは自分の口元が固まっているのを感じた。
“面白いから行ってみよう”なんて軽さは、もうどこにもない。
舞台が、客席の胸を掴んで離さない。
そして、クライマックス。
ハワードは立ち上がり、女役の肩を掴む。
必死に、でも乱暴にはならず。震える指先で。
「僕は、逃げる」
「逃げないで」
「逃げるんだ。逃げて……それでも、前に進む」
その言葉に、メノリは息を止めた。
(……逃げて、それでも前に進む)
どこかで聞いたような言葉。
誰かの言葉。
心の中に、仲間の顔が浮かぶ。遠い場所へ進んでいった仲間たち。
そして――今はもう、ここにいない男。
(リュウジ……)
不意に、胸が痛んだ。
“前に進む”ために去っていった彼の背中。
それを送り出した自分の言葉。
その時の自分の顔は、ちゃんと笑えていただろうか。
舞台上で、ハワードが最後に叫ぶ。
「僕は――生きる!」
その叫びは、喉を裂くような必死さだった。
誰かに届かせるためではなく、まず自分の胸に刺すための叫び。
暗転。
沈黙。
そして、ふっとライトが戻り、カーテンコール。
舞台袖から役者たちが一列になって出てくる。
拍手が起こる。最初は控えめだった拍手が、すぐに大きなうねりになった。
最後に出てきたハワードが、深く礼をした。
その顔は――さっきまでの迫力とは違い、どこか少年のように柔らかい。
でも、目だけは、燃えるように真っ直ぐだった。
メノリは立ち上がり、拍手を送った。
気づけば、指先が痛くなるほど叩いている。
スワレが隣で呆然としたまま、ぽつりと言う。
「……ねぇ、メノリ」
「……何だ」
「ハワードって、あんなに……すごかったんだね」
メノリは言葉に詰まった。
胸の奥が熱い。悔しいような、誇らしいような、どちらともつかない感情が渦巻く。
「……学生の舞台だぞ」
「え、今さらそれ言う!?」
「だが、侮れない」
それだけ言うのが精一杯だった。
スワレがくすっと笑い、涙を拭う。
「メノリ、花束渡すの?」
「……当然だ」
「うわ、やっぱり気合い入ってる」
「黙れ」
メノリは花束を抱え直した。
胸の中で、確かなものが動いている。
校門で騒いでいたあの男が、舞台の上でここまで“人の心”を揺らすなんて。
(ハワード……お前は)
メノリは言葉にしない。
言葉にしたら、きっと顔が赤くなる。
だから、花束を握る力だけを強めた。
拍手の余韻が残る劇場の出口へ向かいながら、メノリは、今夜だけは――自分の中のざわめきを、否定しないことにした。
ーーーー
客席を出た途端、劇場の外気が頬を撫でた。拍手の熱がまだ指先に残っているのに、廊下の空気はひんやりと現実的で、床のワックスの匂いが鼻に刺さる。
メノリは花束を抱え直し、受付横に立っていたスタッフへ声をかけた。
「すまない。出演者に差し入れを渡したい。楽屋へ案内してくれ」
「えっと、関係者の方ですか?」
「観客だ。だがチケットは招待で――」
「……あ、そちらの花束ですね。分かりました。こちらへどうぞ」
スタッフはすぐに察したように頷き、通路を先導した。
スワレがその後ろで、まだ興奮が抜けきらない顔をして、軽い足取りでついてくる。
「ねえ、メノリ」
「何だ」
「学生の舞台って、もっとこう……勢いだけで、粗くて、でも楽しい、みたいな感じだと思ってた」
「それが?」
「いやぁ……想像の十倍くらい面白かった。さっきまで“学生だから”って思ってた自分を殴りたい」
「その例えはやめろ。劇場だ」
「だってさ、あの迫力、どう説明すればいいの? 心臓掴まれるってああいう感じなんだね」
スワレが胸の前で拳を握ると、メノリは小さく息を吐いた。
同意したいのに、素直に頷くのが妙に癪で――でも否定できない。
「……舞台が近かったのもある。小劇場の利点だ」
「それだけじゃないよ。ハワード――」
スワレが名前を出しかけた瞬間、メノリは足を止めた。
通路の先、扉が並ぶ一角。紙の貼り札に、手書きの文字が見える。
【出演者楽屋/関係者以外立入禁止】
その下に、さらに小さく【主演:ハワード】と貼られていた。
「ここだ」
メノリの声が低くなる。
さっきまでの雑談が、扉一枚で遮られるように消えた。花束が、急に重く感じる。
スワレも、その雰囲気を察したのか、口を閉じて小さく頷いた。
メノリは一度呼吸を整え、ノックをする。
コン、コン。
間を置かず、中から「はーい!」と元気な声が返った。
「失礼する」
扉を開けると、そこは楽屋特有の熱気と匂いが混ざっていた。化粧落としの甘い香り、汗、布、紙コップのコーヒー。壁際には衣装が吊るされ、椅子には小道具が無造作に置かれている。鏡台のライトが眩しく、空気が少し白い。
そして、その中心で――
「メノリ!」
ハワードが、汗で湿った前髪を指で上げながら立ち上がった。
さっきまで舞台上で別人だった男が、今はいつもの調子で、嬉しそうに口角を上げている。
「それに……」
ハワードの視線がスワレに移り、言葉が一瞬詰まった。知らない顔に、いつもの軽口が出てこない。
その間を、メノリが淡々と埋める。
「彼女はスワレだ。私の――同級生だ」
「よろしく」
スワレが自然に一礼する。
ハワードは慌てて背筋を伸ばし、演技の余韻が残る所作で返した。
「よ、よろしく! えっと……来てくれてありがとな!」
その言い方が、ちょっとだけ“舞台の癖”を引きずっている気がして、スワレが肩を揺らして笑いを噛み殺した。
メノリは、花束を差し出した。
「お疲れ様だ、ハワード」
「おお! ありがとなメノリ!」
ハワードが花束を受け取る。包装紙が擦れる音が、妙に大きく響いた。
花束に視線を落としたハワードの顔が、一瞬だけ柔らかくなる。
「……シロツメクサの花束か。懐かしいな」
その一言が、場の空気をほんの少しだけ変えた。
スワレが首をかしげる。
「懐かしい? 好きなの?」
「好きっていうかさ」
ハワードは花束を抱え直しながら、照れ隠しのように笑った。
「昔な。ま、いいや!」
話をすぐ切り上げるのが、いかにもハワードらしい。
スワレはそこに突っ込まず、素直に言葉を続けた。
「それにしても凄く良かったよ、ハワード」
「本当か!?」
ハワードの目がぱっと輝く。
その反応があまりにも分かりやすくて、スワレがさらに笑みを深めた。
「うん。学生の舞台だから、正直そこまで期待してなかったんだけど……いい意味で裏切られた」
「へへっ!」
ハワードが胸を張る。
「今回は主演が僕だったからさ」
「うわ、出た」
スワレが即座に突っ込み、ハワードが「何だよ!」と肩をすくめる。
そのやり取りに、楽屋の緊張が少しほどけた――ように見えた。
だが、スワレが続ける。
「でも本当に、演技上手だった。怖いくらい」
「怖いって褒め言葉か?」
「褒め言葉。ね、メノリ」
スワレが振る。
メノリは一つ息を吐いた。ほんの数秒、言葉を選ぶ沈黙が落ちる。
その沈黙が、さっきまでの“ふざけた空気”を切り替える合図になった。
「……上手だった」
メノリがそう言った瞬間、ハワードの顔がぱっと明るくなる。
「だろ!? だろ!? メノリにそう言われたら――」
「だが」
メノリが続けた。
その「だが」で、ハワードの笑みが固まる。
「演技が大袈裟だ。客席に届く前に、お前自身の熱で焼けている」
「えっ」
スワレが思わず声を漏らす。
ハワードが、まばたきを止めたまま固まる。だが、目だけは逃げない。
メノリは容赦なく言葉を重ねた。
「確かに迫力はある。だが“迫力”だけで押し切るのは危険だ。あの場面――自分の弱さを吐露するところ。声の強弱が一定すぎる。観客は置いていかれる」
「……」
「それに、役のモデルをあいつにしたのだろう」
ハワードの肩がほんの少しだけ揺れた。
スワレが目を丸くする。
「モデル?」
メノリは続ける。
「お前が憧れて、追いかけて、真似したいと思う人間だ。動きも、言葉の切り方も、それに似せようとしていた」
ハワードが、ごくりと唾を飲んだのが見えた。
メノリの声が一段低くなる。
「だが、それでは伝わらない。皆がその人物を知っているわけではない。観客は“ハワードの演技”を見に来ている。誰かの影を見たいのではない」
空気が静まる。
スワレが「メノリ、厳しいよ……」と小さく言うが、ハワードがそれを遮った。
「いいんだ」
ハワードの声は真剣だった。ふざけた色がない。
「メノリは……僕の演技を最初から見てくれてた」
それを言う時の目が、舞台上の役者の目ではなく、素のハワードの目だった。
メノリは、その視線を正面から受け止めた。
「だから、メノリの意見は間違いない。僕、分かる。今の言葉、痛いけど……正しい」
スワレが一瞬息を止める。
“いつものハワード”なら、ここで冗談を言って逃げるはずなのに。
逃げない。笑わない。受け止めている。
メノリは、さらに続ける。
「もう一つ。あの最後の叫びだ。あれは……良かった。だが、良すぎた。あの叫びに頼った瞬間、次の芝居が難しくなる。叫びの前に、もっと静かな積み上げが必要だ」
ハワードが、ゆっくり頷く。
スワレは横で、目を瞬いて、少しだけ感心したように見つめていた。
「……分かった」
ハワードが短く言う。
「今度、そこ直す。メノリが言うなら」
「私が言うからではない。お前が目指すなら、だ」
「へへ」
ハワードが、ほんの少しだけ照れたように笑った。
その笑いは、さっきの“軽口”とは違う。小さく、ちゃんと胸の奥から出ている。
メノリはそこで話を切った。
言いすぎれば、ただの自己満足になる。彼の背中を押すための言葉は、必要な分だけでいい。
「さて。私たちはもう行く」
「ああ、ありがとな!」
ハワードは花束を大事そうに抱え直し、顔を上げた。
「この後、空いてたらさ。せっかくだし、飯でも行こうぜ」
その瞬間、空気がまた少し軽くなる。
スワレが「お、戻った」と言いたげな顔で笑い、メノリが淡々と答える。
「私は構わないが」
メノリはスワレに視線を向けた。
スワレは一瞬迷うように、口を開きかけて――そして首を横に振った。
「私は……やめておく」
「遠慮する必要はないぞ」
メノリが言う。
「ハワードの奢りだ」
「おい!」
ハワードが即座に突っ込む。
「勝手に決めるな! 僕の財布を公共物扱いするな!」
「公共物ではない。教育への対価だ」
「余計ひどい!」
スワレが笑いながら、やんわりと手を振る。
「ううん。本当に予定があるから。二人で行ってきて」
「そうか」
メノリは少しだけ表情を緩めた。
「分かった。ハワード、先に外で待っている」
「ああ、すぐ行く!」
ハワードが手を振る。
メノリとスワレは楽屋を出た。
廊下の静けさが戻る。舞台裏のざわめきは遠く、天井の蛍光灯が白く光っている。
歩きながら、スワレが横目でメノリを見た。
「ねえ、メノリ」
「何だ」
「ハワードに対して……厳しくない?」
メノリは足を止めない。
少しだけ間を置いて答える。
「そんなことはない」
「でもさ」
スワレはしつこい。だが、嫌味はない。
「舞台、良かったって思ってるんでしょ?」
メノリの肩が、わずかに動いた。
否定はできない。だから、正直に言う。
「ああ。久しぶりに見たが……かなり良かったと思う」
「なら、そう伝えてあげればいいじゃない」
スワレの声は優しい。
メノリは鼻で笑い、しかし、目は柔らかくなった。
「気が向いたらな」
「出た、メノリの“気が向いたら”」
「うるさい」
「でも、ハワード、たぶん分かってるよ。メノリが褒めてないの、褒めてるのと同じって」
「意味不明だ」
「分かる人には分かるってこと」
スワレが肩をすくめる。
メノリは花束の包みの擦れる音を聞きながら、ほんの少しだけ心の中で認めた。
(……確かに、あいつは分かっているのかもしれない)
笑ってごまかすだけの男じゃない。
舞台の上で“逃げずに”立っていた。
なら、こちらも、必要以上に逃げるべきではない――そんな気がした。
劇場の出口が見えてくる。
外の冷たい空気が、少しだけ甘く感じた。
「じゃ、私はここで」
スワレが立ち止まり、メノリに向き直る。
「二人で行ってきて。感想、ちゃんと言いなよ」
「……善処する」
「絶対言わないやつだ、それ」
スワレは笑って手を振り、そのまま別方向へ歩いていった。
残されたメノリは、入口の前で一度だけ深呼吸をした。
扉の向こうに、ハワードが待っている。
そして自分は――花束を渡して、厳しい言葉を投げて、今度は“飯”に行く。
(……妙な夜だな)
だが悪くない。
メノリはそう思い、歩き出した。
ーーーー
スワレと別れた廊下を抜け、劇場の正面ロビーに出た瞬間だった。
「メノリ〜っ!」
空気を切り裂くような声。
振り向くまでもなく分かる。さっきまで舞台であれだけの緊迫を纏っていた男が、今はいつもの調子で手を振っていた。
「……お前、切り替えが早すぎる」
「役者の才能ってやつだよ」
「それは才能ではなく神経の図太さだ」
「ひどっ!」
ハワードは笑いながらメノリの隣に並び、こっそり耳打ちするように囁いた。
「スワレ、帰った?」
「ああ。用があると言っていた」
「ふーん。……で?」
「で、とは何だ」
「二人きりじゃん。メノリの“ダメ出しタイム”の続き?」
「続きなどない。私の役目はもう終わった」
ハワードは肩を揺らしながら笑い、メノリの横顔を見た。
そして、妙に真面目な声になる。
「……飯、行くんだろ?」
「行く」
メノリが短く答えると、ハワードは少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「やった」
「その顔をするな。私が誘ったみたいに見える」
「実質誘っただろ。奢りって言ったのもメノリだし」
そんな口論をしながら、二人は夜のコロニー通りへ出た。
透明な天井の向こうに、人工の夜空。光の粒が規則正しく並び、風はないのに、どこか季節の変わり目の匂いがする。
メノリは歩幅を崩さない。ハワードはそれに合わせるように少しだけ歩調を落とす。
その細かな配慮が、舞台の上の男ではなく、今のハワードの“成長”なのだとメノリは気づき――気づいたことを、口には出さなかった。
「予約してある」
メノリが言うと、ハワードが目を輝かせる。
「え、ガチじゃん。そういうとこ、メノリ好き」
「軽々しく“好き”という単語を使うな」
「えっ、使っちゃダメなの?」
「ダメだ」
「じゃあ、“尊敬してる”にする」
「もっと面倒なことになるからやめろ」
レストランはモールの少し奥、落ち着いた照明の店だった。
入口に近づくと、スタッフがすぐに気づいて一礼する。
「ご予約の――」
「メノリ・ヴィスコンティだ」
名を告げるだけで、空気が変わる。
ハワードはその様子を見て、口元を歪めて小声で言った。
「メノリ、便利だな」
「お前が言うな」
「僕の方が便利だろ。財閥だぞ?」
「それを誇るな。恥ずかしい」
案内された席は、壁際の二人席。外の光が柔らかく反射し、ガラス越しにコロニーの夜景が見える。
「いい席じゃん」
「騒がしいのが嫌だった」
「僕のことか?」
「自覚はあるのか」
「あるよ。だからここは静かに……」
ハワードが“落ち着いた男”を演じるように背筋を伸ばした。
メノリはすぐに見抜いて、淡々と告げる。
「その“作った静けさ”はやめろ。さっきも言っただろ」
「うっ」
ハワードが呻く。
「今のは“ダメ出し”じゃない。忠告だ」
「同じじゃん!」
注文を済ませ、前菜が運ばれてくる。
ハワードはナプキンを膝に置き、フォークを手に取った。その所作は――少し大袈裟だが、きれいだった。
「テーブルマナーは褒められたんだぜ、僕」
「聞いている。だが今のは少し芝居がかっている」
「え? これもダメ?」
「“自然にできる”ところまで落とせ」
「役者に“自然”って言う?」
「言う。舞台と食卓を混同するな」
ハワードは頬を膨らませたが、すぐにふっと笑う。
「……でもさ」
「何だ」
「さっきの“上手だった”って言葉。もう一回言ってくれてもいいんだぞ」
「言っただろう」
「一回じゃ足りない」
「欲深い」
「役者は拍手で育つんだよ」
「では客席に戻って拍手をもらってこい」
「それやったら不審者だろ!」
笑いが小さく弾み、店内の静けさに溶けた。
メノリはそれを“心地いい”と感じたことが悔しくて、わざと冷たい顔を作る。
「……演技の話をするのなら、さっきの続きだ」
「うえ」
ハワードが露骨に嫌な顔をした。
「“うえ”ではない。聞きたいのだろ」
「聞きたいけど、心の準備が」
「準備などいらん。今この場で改善点を――」
「ストップ! ストップ!」
ハワードが両手を上げた。
「今日はさ、褒めてくれた分だけで十分。ダメ出しは次の舞台の後!」
「……逃げるのか」
「逃げじゃない。戦略だ」
「戦略の使い方が間違っている」
だが、メノリはそれ以上追わなかった。
さっきの楽屋で、必要な言葉は渡した。今は食事の時間だ。
その判断ができる自分に、少しだけ驚く。
「じゃあ、別の話をしようぜ」
ハワードが言う。
メノリはフォークを置き、視線だけで続きを促した。
「ブルンクリンの探索任務」
その単語が落ちた瞬間、テーブルの空気が変わった。
笑いの余韻がすっと引く。店内のBGMが、急に遠くなる。
「昨日出発したな」
メノリが言う。
ハワードはグラスの水に指先を当て、くるりと回した。透明な水面が小さく揺れる。
「……あのニュースを見るたびにさ」
「……」
「リュウジを思い出すんだ」
ハワードの声は、軽くない。
冗談で逃げる調子ではない。
メノリは、息を一つ吐いた。
「私もだ」
短い返事。それ以上の飾りはない。
言葉が少ない分だけ、本音が透ける。
「アイツ、何してるかな」
ハワードが呟く。
「分からない。連絡をしても返ってこない」
「……メノリもか」
「ああ」
メノリは皿の端を指でなぞり、視線を落とした。
頭の中に、あの男の顔が浮かぶ。薄い笑み。作った表情。
そして、何も言わずに消えていった背中。
「恐らくルナにも連絡はないだろう」
メノリが続けると、ハワードは唇を噛んだ。
「……まったく」
珍しく、言葉が荒い。
「何をしてるんだ、あいつは」
その声に、メノリは思わずハワードの顔を見た。
怒っているようで、怒りだけではない。
心配と、寂しさと、置いていかれた悔しさが混ざっている。
「こうなったらさ」
ハワードが顔を上げる。
目が妙に真っ直ぐだ。
「直接、見に行くしかないだろ」
「直接と言ってもだな」
メノリはすぐに現実を突きつける。
「冥王星のコロニーでどこを探すつもりだ? 連絡がつかない人間をコロニー内で探すのは至難の業だ」
ハワードが、指を立てて左右に振った。
「チチチ」
その音が、妙にハワードらしくて、メノリの口元がわずかに緩む。
「あいつはまだ学生なんだろ?」
「……たぶんそうだ」
「だったら冥王星の学校にいるだろ。学校ってのはさ、だいたい逃げ場がない」
「……」
メノリは一瞬、言葉を失った。
まともだ。筋が通っている。
しかも、妙に痛い。
“逃げ場がない”――その言葉が、リュウジの姿と重なる。
「……確かにな」
メノリが認めると、ハワードは得意げに胸を張った。
「だろ?」
「偶にはまともなことを言うようになったな」
「“偶には”って何だよ!」
ハワードが突っ込み、メノリが淡々と返す。
「偶にはだろ」
「ひどっ! 僕、今めちゃくちゃ真面目に言ったのに!」
「真面目に言うからこそ刺さることもある」
「難しい女だなぁ……」
「女扱いするな」
「じゃあ……難しいメノリだな」
「余計にやめろ」
それでも、メノリの胸の奥で“決める”音がした。
悔しいが、ハワードの言葉は道を作った。
怖いのは“探す”ことではない。
“何も知らないまま時間が過ぎる”ことだ。
メノリはグラスを置き、静かに言った。
「明後日からはGWだ」
ハワードが目を見開く。
「……行くのか」
「ああ。行ってみる」
ハワードは一瞬、子どもみたいに笑いそうになり――すぐに真面目な顔に戻った。
「いいんじゃないか?」
軽く言っているようで、声が柔らかい。
「せっかくだし、ルナも誘ってやれよ」
「当たり前だ」
メノリの即答に、ハワードが満足そうに頷いた。
「よし」
そしてハワードは、少しだけ声の調子を落として言う。
「何かあったらさ。ハワード財閥の名前は出していいからな」
冗談のようで、冗談ではない。
“困ったら守る”と言っている。
メノリは鼻で笑った。
「フッ。お前じゃあるまいし」
「おい! 僕の名前を出すのが僕らしいってことか!?」
「そうだ」
「ひどい!」
ハワードが叫びそうになり、周囲の視線を感じて口を押さえた。
その慌て方が、少し面白くて――メノリは、ほんの一瞬だけ笑った。
「……だが」
メノリは続ける。
声は小さく、しかしはっきりしていた。
「ありがとう」
ハワードが固まった。
数秒、ぽかんと口を開け――そして、急に照れたように視線を逸らす。
「……な、なに急に」
「礼を言っただけだ」
「そういうの、ずるい」
「何がだ」
「僕が真面目になるとメノリが冷たい。僕が真面目に助け舟出すとメノリが急に優しい。心臓が忙しい」
「忙しいのはお前の頭だ」
「それ、褒めてる?」
「褒めていない」
料理が運ばれてくる。湯気が立ち、香りが空気を満たした。
メノリはフォークを取り、自然な動きで口に運ぶ。
ハワードも同じように食べ始める。
そして、ふと呟いた。
「……リュウジ、見つかるといいな」
その言葉は、祈りに近かった。
メノリは、短く答える。
「ああ」
言葉は少ない。
だが、そこに今夜の約束が詰まっていた。
“探す”のではない。
“確かめに行く”。
メノリは、静かな夜景を一瞬だけ見やり――すぐに目の前の皿へ視線を戻した。
今は食べる。
明後日、動く。
そう決めた。