サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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冥王星へ

 宇宙管理局――管制棟のさらに奥、重い防音扉の向こうにあるオペレーションルームは、いつもより一段と空気が濃かった。

 モニターの光が壁を染め、無数の通信ログが流れ、アラート音が規則正しく鳴ったかと思えば、次の瞬間には不規則に跳ねた。

 

「だから遅いって言ってるのよ! あんた、状況分かってる!?」

 

 甲高い叫び声が室内を裂く。

 新しい統括官――ローズ。茶髪のマッシュルームヘアー。肩幅の狭い体躯に似合わない大袈裟な身振りで、端末を叩く担当官に詰め寄っていた。

 

「……統括官、現時点では原因切り分けが――」

 

「言い訳はいらない! 結果を出せって言ってるんだ!」

 

 叩きつけるように言い放ち、ローズは周囲を見渡した。誰かが視線を逸らす。誰かが唇を噛む。

 “分からない”と言えば怒鳴られ、“慎重に”と言えば叱責される。

 責任を負う者の目ではなく、責任を投げる者の目だった。

 

 その様子を、オペレーションルームの入口近くから静かに見ていたのがクリスタルだった。

 黒いスーツに整った髪。背筋は伸び、指先の動きは冷静で、だが――目は笑っていない。

 

(……怒鳴るだけで、空気を壊す。指示が雑で、現場の判断を止める。これじゃ、事故が起きる)

 

 クリスタルは胸の奥で短く息を吐いた。

 ローズが来てから、この部屋の“音”が変わった。

 必要な緊張ではなく、不要な萎縮が増えた。

 

 クリスタルは回れ右をして、オペレーションルームを出た。

 廊下は冷たく、照明は均一で、足音だけがやけに響く。

 局長室の前まで来ると、軽くノックをして扉を開けた。

 

「局長、お呼びですか?」

 

「ああ、忙しいのにすまないね」

 

 局長は椅子から立ち上がらず、机の上に広げた資料を指先で整えながら言った。

 クリスタルは一礼して、扉を閉め、数歩進む。

 

「いえ、大丈夫です」

 

「オペレーションルームの様子はどうだ?」

 

 局長の問いに、クリスタルは一拍置いた。言葉を選ぶというより、怒りを整える時間だった。

 

「……悪化してますね」

 

 声は丁寧だが、刃が混じる。

 

「怒鳴るだけで責任を負おうとしない統括官ですから。現場の判断が止まっています」

 

 局長は小さく頷いた。

 それが“想定内”であることが、余計に胸に刺さる。

 

「そうか」

 

「どうするんですか?」

 

 クリスタルは真っ直ぐに問うた。

 局長は、わずかに視線を伏せる。年齢に似合わない重さが肩に乗っていた。

 

「すぐにチームを編成する」

 

「そうですか」

 

 返事は淡い。だがクリスタルの胸の内は淡くない。

 

「……私は嫌ですよ」

 

 クリスタルは言った。いつもより少しだけ、“本音”が前に出た。

 

「ローズの指示で宙を飛ぶなんて」

 

 局長は、苦い顔で息を吐いた。

 

「分かっている」

 

 短い。だが、その一言には“止められない事情”が詰まっていた。

 クリスタルはそれを理解している。理解しているからこそ、苛立ちが消えない。

 

(ペルシアがいれば――)

 

 その名は口にしなかった。

 しかし、思考は勝手にそこへ向かう。

 以前の統括官――ペルシア。あの人がいた頃、現場は違った。厳しい時ほど、あの人は怒鳴らず、判断し、責任を引き受けた。

 その背中が消えた穴を、ローズの叫び声が汚く塞いでいる。

 

「……局長。編成するチームは、誰を軸に?」

 

 クリスタルが問い直すと、局長は机の端に置いた別の資料を指で叩いた。

 

「S級パイロット。ブライアンを中心に――」

 

 クリスタルの眉が、ほんのわずかに動く。

 

「ブライアン……」

 

「彼が動ける。今は、それが重要だ」

 

「……はい」

 

 納得ではない。了承だ。

 クリスタルは一礼し、局長室を出た。扉が閉まる音が、妙に重く響く。

 

 廊下に戻ると、遠くからまたローズの声が聞こえた。

 何かが崩れていく音に似ていた。

 

    ◆

 

 同じ頃。

 ルナの家。

 

 朝の光は柔らかく、窓の外の人工空が白っぽい。

 休日の朝。目覚ましを止めなくていい朝。

 ルナは布団から抜け出すと、欠伸を噛み殺しながらリビングへ向かった。

 

「ふぁ……」

 

 髪を軽くまとめ、パジャマのまま足音を立てずに歩く。

 キッチンに立つと、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、カップに注いだ。

 

 その背中に、聞き慣れた声が飛んだ。

 

「休みやからって、だらけとるなぁ」

 

 ソファの背もたれから、ネコ型ロボットが半分だけ顔を出している。

 チャコは、相変わらずの関西弁で、どこか偉そうに言った。

 

「いいでしょ、1日くらい」

 

 ルナはカップを持ち上げ、軽く肩をすくめる。

 休日にしかできない“何もしない”を、せめて少しだけ味わいたかった。

 

「その“1日くらい”が積み重なって、人は腐るんやで」

 

「チャコ、言い方」

 

「ウチは優しさで言うとる」

 

「それ、優しさじゃなくて厳しさよ」

 

 ルナは苦笑しながら、テーブルにカップを置いた。

 チャコはソファからぴょんと降り、テーブルに前足をかけるようにしてルナを見上げる。

 

「で、今日は何すんねん。調べもん、休憩か?」

 

 その問いにルナは一瞬、言葉を止めた。

 “調べもの”――この数ヶ月、二人の生活のどこかにずっと絡みついていた単語だ。

 

 ペルシア。

 いなくなったままの統括官。

 あの記事。

 そして、追いかけるのをやめたはずなのに、消えない棘。

 

「……今日は、休憩」

 

 ルナはそう答えた。

 自分に言い聞かせるように。

 

「お、偉いやん。休むのも仕事や」

 

「チャコ、たまに良いこと言うのよね」

 

「たまにちゃう。常にや」

 

 チャコは得意げに胸を張った。

 その瞬間、テレビが自動で朝のニュースを流し始めた。

 いつもと同じ、平和な音。軽いBGM。ニュースキャスターの落ち着いた声。

 

『――続いて、北の未探索領域探索任務についてです』

 

 ルナがカップを持ち上げた手を止める。

 チャコの耳――いや、耳のようなパーツも、ぴくりと動いた。

 

『S級パイロット、ブルンクリン率いる探索船団は――本日未明、航行トラブルにより推進系統が停止。現在、航行不能の状態です』

 

 ルナの喉が、ひゅっと鳴った。

 牛乳が口に入る前に、冷たい緊張が先に流れ込んできた。

 

「……え?」

 

 隣でチャコが呻く。

 

「なんやて……?」

 

 画面には、宇宙船のイメージ映像。通信不能の文字。緊急対応の見出し。

 そして、キャスターが続ける。

 

『宇宙管理局は本日中に救援メンバーを選定し、S級パイロットのブライアンを中心にチームを編成、出発する見込みです』

 

「ブライアン……?」

 

 ルナが呟いた。

 名前の響きだけで、背筋の奥がざわつく。

 リュウジと同じS級。

 腰を骨折したと言われていた男。

 それでも“出発する”と言われる男。

 

「……本日中に、メンバー決めて出発?」

 

 ルナの声が、思ったよりも高かった。

 自分で自分の声に驚く。

 休日の朝のはずだった。牛乳を飲んで、少しだらけて――それだけのはずだった。

 

 チャコがテレビに顔を近づけ、画面を睨む。

 

「えらい急やな。ほな、相当ヤバいってことやろ」

 

「でも、ニュースって……大げさに言うこともあるし……」

 

 ルナは口にした。

 自分が自分を落ち着かせようとしているのが分かった。

 けれどチャコは、いつもみたいに軽口を言わなかった。

 

「ルナ。こういう“推進停止”ってのはな、シャレにならん」

 

 チャコの声は低い。

 

「漂流と同じや。方向も速度も、宇宙じゃ命綱やで」

 

 ルナの胸が、ぎゅっと痛んだ。

 “漂流”。

 その単語が、いちばん触れてはいけない場所を叩いた。

 

 サヴァイヴ。

 戻れない宇宙。

 助けが来ない時間。

 あの時の空気。

 あの時の――リュウジの背中。

 

(……また?)

 

 ルナは思ってしまう。

 同じことが繰り返されるのか、と。

 

「……ブルンクリンは」

 

 ルナが言いかけた。

 けれど、その続きは出てこない。

 好きでも嫌いでもない。むしろ、嫌い寄りだったと自分でも思う。

 それなのに、胸のどこかが冷えていく。

 

 人を見た目で判断しない。

 さっき、自分で言ったばかりだ。

 だからこそ、今、無事でいてほしいと思うのは矛盾ではない。

 

「ブルンクリンがどうとか、そういう話ちゃう」

 

 チャコが先に言った。

 まるでルナの胸の内を読んだように。

 

「誰が乗ってようが、航行不能はヤバい。――それに」

 

「……それに?」

 

 ルナが目を向けると、チャコは一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻した。

 

「ブライアンが出るってことは、宇宙管理局が“本気”ってことや」

 

 ルナは息を飲んだ。

 “本気”。

 その言葉の裏にあるのは、責任。リスク。決断。

 そして、そこにペルシアの影はない。

 

「……宇宙管理局、まだあんな感じなのかな」

 

 ルナの声は小さかった。

 それを聞いたチャコが、鼻で笑う。

 

「“あんな感じ”って……ウチらが知っとる範囲でも、揉めとったやろ。統括官も変わったしな」

 

 ルナは牛乳を一口飲んだ。

 甘くて、冷たくて、喉を通るはずなのに、胃に落ちる前に引っかかる。

 

(ペルシアさん……)

 

 思い出すのは、いつもの明るい声。

 そして、あの夜の電話。

 “私がいなくなってもスターフォックスをよろしくお願いします”

 ――いなくなった。

 その言葉が、今ならもっと重い。

 

「……メンバー、って誰が行くんだろ」

 

 ルナが呟く。

 

「S級がブライアンやろ。あと、乗務員もいるはずや。整備も医療も。最低限、揃えなあかん」

 

「……エリンさん、忙しいって言ってた」

 

 ルナは思わず口にした。

 最近痩せていた、という言葉が、急に現実味を持つ。

 

「副パーサーで穴埋めしとるんやろ。」

 

「……うん」

 

 ルナは頷いた。

 でも、頭の中の景色はニュースの映像と重なって、揺れ続ける。

 

 その揺れの中で、ふと――別の名前が刺さる。

 

(リュウジ……)

 

 このニュースを見たら、彼は何と言うだろう。

 何も言わないかもしれない。

 薄い笑みで「そうか」と言うかもしれない。

 でも、きっと、目は笑っていない。

 

 ルナはそれを思い、胸の奥がまた痛くなった。

 

「……ルナ」

 

 チャコが呼ぶ。

 ルナが顔を上げると、チャコは少しだけ真面目な顔をしていた。

 

「今は、情報が少なすぎる。焦ってもしゃあない」

 

「分かってる」

 

 ルナは答えた。

 “分かってる”と言いながら、心は焦っている。

 あの時と同じだ。分かっているのに、落ち着けない。

 

 テレビのキャスターはさらに続ける。

 

『宇宙管理局は救援チームの安全確保を最優先とし――』

 

 安全確保。最優先。

 それは“簡単にできない”から、わざわざ言葉にするのだ。

 

 ルナはカップを置き、両手を膝の上で握った。

 休日の朝の空気は、もうどこにもなかった。

 

「……チャコ」

 

「なんや」

 

「私、今日は……休憩って言ったけど」

 

「言ったけど?」

 

 ルナは言葉を探し、結局、正直に吐き出した。

 

「落ち着かない」

 

 チャコは一瞬、黙った。

 それから、いつもの調子に戻すように、わざと大げさに肩をすくめた。

 

「そらそうや。ウチら、漂流経験者やからな」

 

 その言い方が、逆に優しかった。

 

「……ニュース、続き見よう」

 

「せやな。見たほうがええ」

 

 二人は並んでソファに座った。

 

 “航行不能”

 “救援”

 “本日中に出発”

 

 言葉が刺さり続ける。

 そしてその裏で、もう一つの現実が、静かに痛みを増していく。

 

 ――リュウジがいない。

 

 この状況で、連絡を取れない。

 助けを求める相手ではないと分かっているのに、心が勝手に探してしまう。

 あの人なら何かを言うのではないか。

 あの人なら何かを知っているのではないか。

 そんな期待を、もう持てないのに。

 

 ルナは画面を見つめたまま、唇を噛んだ。

 チャコは何も言わず、ただ同じ画面を見ている。

 

 ニュースの音だけが、部屋に流れ続けた。

 休日の朝は、いつの間にか――“待つしかない朝”に変わっていた。

 

ーーーー

 

 

 ハワード財閥系列――旅行会社のオフィスは、朝から空気が硬かった。

 照明はいつも通り白いのに、そこにいる人間の表情だけが夜の色を引きずっている。

 端末の起動音、プリンタの作動音、紙が擦れる音。普段なら単なる“始業の音”なのに、今日はどれも焦げ臭い。

 

 エリンは出社してすぐ、制服の襟元を整えながら深く息を吐いた。

 鏡に映る自分の目の下には、小さなクマができている。消そうとしても消えない線だ。

 ブルンクリンの探索任務に同行したチーフパーサー――その穴埋め。副パーサーである自分が穴を埋めるのは職務だが、職務で片付く重さではない。

 

 事務所の奥で書類を束ねていると――。

 

 ガシャン!

 

 扉が勢いよく開く音がした。

 オフィスの全員が一瞬だけ振り向く。

 それほど、朝の空気は張りつめていた。

 

「エリンさん!!」

 

 息を切らしたククルが飛び込んできた。肩が上下に揺れている。

 制服の上着のボタンが一つ、止め忘れていた。

 

「おはよう、ククル」

 

 エリンは声を落とす。わざと、普段通りに。

 焦りは連鎖する。焦りの連鎖を止めるのが、上に立つ者の役目だ。

 

「おはようございます……じゃなくて、エリンさん! 大変です!」

 

 ククルの目が泳ぎ、唇が乾いている。

 エリンはペンを置いた。椅子から立ち上がり、ククルの肩の高さに視線を合わせる。

 

「まずは落ち着いて。何があったの?」

 

 その“落ち着いて”は、命令じゃない。

 祈りに近い。

 

「いま、受付に……宇宙連邦連盟の人が来ています!」

 

 ククルが早口で吐き出す。

 その瞬間、エリンの表情が硬くなった。

 目の奥の疲労が、別のものに塗り替えられる。

 

「……宇宙連邦連盟が?」

 

 声が低くなる。

 旅行会社に連盟の職員が来る理由は限られる。

 そして今、限られる理由は一つに収束する。

 

(ブルンクリンの船……救援……それとも、もっと悪い知らせ?)

 

 エリンは無意識に、喉を鳴らした。

 ククルが続けようとするのを、手のひらで制す。

 

「分かった。私が行く。ククル、あなたは――」

 

「私も行きます!」

 

 ククルは反射みたいに言った。

 その瞳が真っ直ぐで、若さの勢いが眩しい。

 エリンは一瞬だけ迷い、すぐに頷いた。

 

「……分かった。でも、言葉は選びなさい。相手は“連盟”よ」

 

「はい……!」

 

 ククルは背筋を伸ばした。

 エリンは制服の胸元を整え、受付へ向かう。

 廊下を歩くたびに、靴音が乾いて響いた。

 

 受付の手前に、見慣れないスーツ姿がいた。

 肩のラインが固い。視線が忙しい。

 目が合うと、相手は一歩前に出て名刺を差し出した。

 

「宇宙連邦連盟、航行安全管理局の……」

 

 エリンは名刺を受け取る。

 紙の薄さが、逆に恐ろしい。

 

「……ハワード財閥旅行会社、副パーサーのエリンです。ご用件は?」

 

 相手の口が開いた、その瞬間――

 エリンの胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。

 

    ◆

 

 火星。

 赤茶けたエアポートの朝は乾いていて、空気の温度が低い。

 輸送船の点呼は整然としていた。

 船体の脇に並ぶクルーたちの顔に、まだ眠気は残っているが、姿勢は揃っている。

 

「今日も頑張りましょう」

 

 サツキが言う。声は明るい。

 それが彼女の仕事でもあり、彼女の癖でもあった。

 朝の空気に、人を動かす音を混ぜる。

 

「おーっ」

 

 返事が返り、クルーはそれぞれの持ち場へ散っていく。

 サツキも整備用の工具箱を開き、必要なレンチを指先で確かめた。

 

(今日も忙しいな)

 

 そう思った瞬間、背後から声が飛ぶ。

 

「おーい、サツキ」

 

 整備班の先輩だった。

 サツキはすぐに振り向く。

 

「はい! どうしましたか?」

 

 工具を取り出しながら答える。

 先輩は顎で奥を示した。

 

「お客さんだ」

 

「……お客さん?」

 

 朝から? 誰だろう。

 サツキはレンチを戻し、工具箱を閉めた。

 歩き出す足取りが、自然と早くなる。

 

 “お客さん”――それがもし、連盟なら。

 もし、宇宙管理局なら。

 もし、未探索領域の件なら。

 

 サツキの喉の奥が、乾いた。

 

    ◆

 

 ソーラ・デッラ・ルーナ――管制棟。

 機械の音が常に鳴っている場所なのに、今日のマリにはその音が不気味に耳についた。

 ヘッドホン越しに、相手の声は冷たく整っている。

 

「なので、宇宙管理局からの定期便は止めてください」

 

 マリはマイクに向かって言った。

 言葉は丁寧。だが、語尾に苛立ちがにじむ。

 

『ですが、任務統括官からは通常通りで構わないと連絡が入っています』

 

 返ってきた声は淡々としていた。

 それが余計に腹立たしい。

 

「……分かりました。一度、こちらで確認します!」

 

 マリは通話を切った。

 ヘッドホンを外し、机に置く。

 その動作だけが乱暴になった。

 

「何を考えているんだ……!」

 

 小さく呟く。

 紅茶を一口飲むが、香りは味を伴わない。

 胸の奥が冷えているせいだ。

 

(ローズか。あるいは……別の意図か)

 

 ペルシアがいなくなってから、“意図”の匂いが増えた。

 正しい意図ではなく、保身の意図。権力の意図。

 マリはそれが大嫌いだった。

 

「マリさん! 外線入ってます!」

 

 部下の声が飛ぶ。

 

「繋いでください」

 

 マリは即答する。

 呼吸を整え、声を“いつもの自分”に戻す。

 

「こちら管制、マリです」

 

 受話器の向こう――

 その声を聞いた瞬間、マリの眉が僅かに寄った。

 

    ◆

 

 ソーラ・デッラ・ルーナ――ルナの家。

 テレビのニュースはまだ続いていた。

 “航行不能”“救援チーム”“本日中に出発”――そういう単語が画面からこぼれ落ちて、部屋の床に溜まっていくようだった。

 

 その時。

 

 ブブッ――。

 

 ルナの携帯端末が震えた。

 机の上で、小さく跳ねる。

 

「……!」

 

 ルナは反射で手を伸ばした。

 画面を見て、一瞬息が止まる。

 

 “カオル”

 

 表示された名前に、胸の奥がちくりと痛んだ。

 懐かしさと、何か嫌な予感が混ざる。

 

「……もしもし、カオル?」

 

 ルナが出るより早く、横からチャコが身を乗り出した。

 

「何や、急に?」

 

 ルナは片手でチャコを制しながら耳に端末を当てる。

 カオルの声は、いつも通り低くて短い。だが、背後に“急いでいる音”が混じっている。

 

『ルナ。チャコはいるか』

 

「いるけど……どうしたの?」

 

『ブライアンが救援に出る。……その捜索に、チャコを参加させてほしい』

 

 ルナの心臓が、どくんと鳴った。

 隣でチャコの目が細くなる。

 

「……は?」

 

 チャコが低い声を漏らす。

 ルナは端末を少し離し、チャコを見た。

 チャコは首を横に振るように、すでに答えを作っている顔だった。

 

『捜索にはエリンさん、サツキさん、マリさんも行く』

 

 名前が次々に落ちてくる。

 それは“人選”ではなく“動員”に近い響きだった。

 

「そんな……エリンさんも?」

 

 ルナが呟くと、チャコが先に答えた。

 

「ウチは行かへんで」

 

 携帯越しでも、カオルが一瞬黙ったのが分かった。

 

『……そうか』

 

 短い。

 だが、そこに“引き留め”はない。今は説得の時間がないのだ。

 

 チャコが続ける。声は冷静で、そして少しだけ棘がある。

 

「前回はネフェリスを使うたから行っただけや」

 

「チャコ……」

 

「コロニーの宇宙船なら、ウチより詳しいエンジニアは山ほどおるやろ」

 

 ルナは唇を噛んだ。

 正論だ。

 でも、正論だからこそ怖い。

 “山ほどいる”はずなのに、わざわざチャコを指名した。

 そこに、宇宙管理局の混乱が滲む。

 あるいは――“別の意図”が。

 

『……分かった』

 

 カオルの声が低くなる。

 そこに僅かな苛立ちが混じった。

 

『だが、状況が変わったら、また連絡する』

 

「分かった。でも……無茶しないで」

 

 ルナは思わず言った。

 カオルは一拍置き、短く返す。

 

『……ああ』

 

 通話が切れた。

 

 ルナは携帯を握ったまま、しばらく動けなかった。

 テレビでは、救援チームの映像が流れている。

 ブライアンの顔。

 慌ただしく動くオペレーションルーム。

 “本日中に出発”――そのテロップが、やけに明るい色で表示されている。

 

「……なんで、チャコを?」

 

 ルナが小さく言う。

 チャコは腕――いや前足を組むような仕草で、鼻を鳴らした。

 

「焦っとるんやろ。宇宙管理局も、連盟も、誰も彼も」

 

 チャコは画面から視線を外し、ルナを見る。

 

「ルナ。ウチらは“漂流”を知っとる。せやからこそ、行きたい気持ちも分かる」

 

「……うん」

 

「でもな。ウチはあの時、ネフェリスやった。あれは“特別”や」

 

 チャコの声が少しだけ沈む。

 

「コロニーの船の仕組みは、ウチの専門やない。下手に混ざっても、邪魔になる。……それに」

 

「それに?」

 

 ルナが問い返すと、チャコは少しだけ間を置いた。

 

「連盟が動いとる。管理局も動いとる。そこにウチが行ったら――」

 

 言いかけて、チャコは口を閉じた。

 代わりに、ルナの肩を軽く叩いた。

 

「……危ない匂いがする」

 

 ルナの背筋が冷えた。

 “危ない”は宇宙船のトラブルだけじゃない。

 人間の、組織の、意図の話だ。

 

 ルナはテレビ画面を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。

 

(リュウジがいたら……)

 

 また、その名前が胸の中に浮かぶ。

 でも、いない。

 ここにいない。

 連絡も取れない。

 

 不在の現実が、痛みとなって刺さる。

 

 ルナは携帯端末を握りしめた。

 画面はまだ暗い。

 そこに残るのは、通話履歴と、たった一つの名前。

 

 “カオル”

 

 そして、ニュースは続く。

 救援は動く。

 世界は進む。

 

 ルナの休日は――

 “待つしかない”休日から、“何かが始まってしまった”休日へ変わっていた。

 

ーーーー

 

 その日のニュースは、朝から何度も同じ映像を流していた。

 ソーラ・デッラ・ルーナの外壁を背景に、宇宙管理局のロゴが映り、淡々としたアナウンサーの声が続く。

 

「北の未探索領域にて航行不能となった探索船の救援のため、本日中に救援チームが編成され、出発します。救援チームには――」

 

 ルナはリビングのソファに座ったまま、膝の上で指を組んだ。

 画面に映るのは、忙しなく動く管制室の様子。怒鳴り声までは聞こえないはずなのに、映像の端に映り込む人の動きが、それだけで“切迫”を語っている。

 

「……ブライアン、エリンさん、サツキさん、マリさん……」

 

 ルナが小さく復唱したところで、画面のテロップが切り替わった。

 

「なお、救援チームには宇宙管理局所属の医療従事者、副操縦士、システムエンジニアも同乗する予定です」

 

 チャコがテレビの前、ローテーブルに肘――いや前足をつきながら、鼻を鳴らした。

 

「ほらな。結局、ウチ以外にも専門の連中はおるんや」

 

「……うん」

 

 分かっている。分かっているのに、胸の奥が冷たい。

 “医療従事者”と聞いた瞬間、ルナの脳裏に浮かんだのは、あのときの吹雪だった。

 薬も設備もなく、皆の顔色を見て、息遣いを聞いて、ただ祈るようにして夜を越えた時間。

 

 リュウジがいた。

 カオルがいた。

 皆がいた。

 

 でも今は――それぞれが離れた場所で、それぞれの未来へ歩いている。

 それは前に進んでいる証拠で、誇らしいはずなのに。

 世界が危機に傾くたび、“離れた現実”が刺さる。

 

「見送り、行きたかったな」

 

 ルナがぽつりと言うと、チャコがわざと軽い調子で返した。

 

「出発式は宇宙管理局でやるんやろ? 時間的にも無理や。行けんもんは行けん」

 

 言い方は雑なのに、慰めようとしているのが分かる。

 ルナは苦笑して頷いた。

 

 出発式は宇宙管理局の施設内で行われる。セキュリティは厳しく、一般の立ち入りは制限される。

 それに――ルナは今日、休みとはいえ、いきなり“管理局に行く”などできる立場じゃない。

 メノリなら、名家の力でねじ込めるのかもしれない。けれど、ルナはそんなことを頼む気にはなれなかった。

 誰かの権力で“通る”ことが、今は逆に怖い。ペルシアの件以来、なおさらだ。

 

 テレビでは、救援に出るブライアンの過去映像が流れていた。

 腰の骨折から復帰したばかりなのに、その視線は鋭い。

 “強さ”に頼らざるを得ない現場なのだと、画面が教えてくる。

 

「……エリンさん、大丈夫かな」

 

 ルナが言う。

 チャコが少し目を細めた。

 

「エリンなら大丈夫やろ」

 

「うん……そうだね」

 

 ルナは理解してしまう。

 誰かがいなくなれば、誰かが埋める。

 それは組織の仕組みだ。冷たくて、正しくて、残酷だ。

 

 ニュースの音が、いきなり遠く感じた。

 

 そのとき。

 

 ブブッ――

 

 ルナの携帯端末が震えた。

 テーブルの上で、小さく跳ねる。

 

「……?」

 

 ルナが手に取ると、画面に浮かぶ名前。

 

 メノリ

 

 心臓が、ちくりと鳴った。

 こんな時間に? しかも連盟や管理局が動いている今日に?

 ルナはすぐに通話を開いた。

 

「もしもし、メノリ?」

 

『ルナ、起きてるな』

 

 メノリの声はいつもより少し速い。

 焦っているのか、急いでいるのか。

 あるいは――決意が固いときの声だ。

 

「起きてるよ。ニュース見てた。ブライアンさんたち、出るんだよね」

 

『ああ。……それで確認だ。今日はGWで休みか?』

 

「うん。今日は休み。明日も休みだけど……どうしたの?」

 

 一拍、間があった。

 その沈黙が、妙に重い。

 

『明日――一緒に冥王星に行かないか』

 

「……え?」

 

 声が、出るのが遅れた。

 ルナの頭の中で、言葉が跳ね返る。冥王星。リュウジ。あの“返事が来ない”不在。

 胸の奥に押し込めていたものが、一気に浮上する。

 

「メノリ……いきなり、どうして……」

 

『いきなりじゃない。ずっと考えていた。お前も、分かっているだろ』

 

 メノリの言葉は短いのに、逃げ道を塞ぐように真っ直ぐだ。

 ルナは息を呑む。

 

『連絡が返ってこない。おかしい。……いや、“おかしい”と言い切るのは乱暴かもしれないが、放置していい状況ではない』

 

「でも、リュウジは……やりたいことがあるって言って、冥王星に行ったんだよ? 忙しいのかもしれないし」

 

『忙しいなら忙しいで、ひと言くらい返せるだろ』

 

 メノリの声が少しだけ尖った。

 その尖りに、メノリ自身の不安が混ざっているのが分かる。

 

『私も何度か送った。返信はない。……ルナ、お前にもだろ?』

 

「……うん」

 

 ルナは、正直に頷いた。

 胸が痛む。

 “信じてる”と言いながら、胸の奥では“怖い”が育っている。

 

 沈黙が落ちた。

 テレビのアナウンサーの声だけが、遠くで続いている。

 

 チャコが横から身を乗り出してきて、口の形だけで言った。

 

(誰や?)

 

 ルナは端末のマイクを指で軽く覆い、小声で答える。

 

「メノリ」

 

 チャコの耳――いや、センサーがぴくりと動いた。

 

(……冥王星の話か?)

 

 ルナは小さく頷く。

 そしてマイクを戻した。

 

「メノリ、でも……冥王星って遠いよ。行くにしても、今日決めて明日動けるの?」

 

『動ける。私のほうで手配する。交通網は押さえられる。宿もな。……そのくらい、やって当然だ』

 

 “当然”と言い切るメノリらしさに、ルナは少しだけ救われた。

 同時に、メノリの覚悟の固さが伝わってきて、背筋が伸びる。

 

「……でも、なんで今?」

 

『今だからだ』

 

 メノリの声が低くなる。

 

『宇宙管理局が混乱している。ペルシアさんの件も片付いていない。未探索領域も動いている。――嫌な予感が重なっている』

 

「……」

 

『そして、私たちは、いつも“何かが起きてから”動く』

 

 その言葉が、胸に刺さった。

 サヴァイヴ。漂流。吹雪。怪我。病気。

 いつも、手遅れになりかけてから走っていた。

 

『手遅れになってから後悔するのは、もう嫌だ』

 

 メノリが言い切る。

 ルナは唇を噛んだ。

 

 ルナだって同じだ。

 でも――怖いのも本当だった。

 

 冥王星に行けば、“不在”を確かめることになるかもしれない。

 リュウジがそこにいなかったら。

 リュウジが、何かを抱えていたら。

 リュウジが、笑ってくれなかったら。

 

 想像するだけで、指先が冷える。

 

「メノリ……私、行きたい。行きたいけど……」

 

『怖いのか』

 

 メノリは容赦なく言った。

 責める声ではない。見抜く声だ。

 

「……怖い」

 

 ルナは正直に言った。

 胸の奥が熱くなる。情けなさではない。自分の弱さを認める熱さだ。

 

『なら、なおさら来い』

 

 メノリは言った。

 その声が、不思議なくらい柔らかい。

 

『ルナ。お前はいつも皆を支えてきた。……一人で背負うな。今度は私が支える』

 

 ルナは目を見開いた。

 メノリが、こんな言い方をするのは珍しい。

 生徒会長としての“厳格”じゃない。仲間としての言葉だ。

 

 ルナの喉が詰まった。

 

「……ありがとう」

 

『礼を言うのは早い。決めろ』

 

 すぐにいつもの調子に戻る。

 それがメノリの照れ隠しだと分かって、ルナは少し笑った。

 

「うん。……行く。私も、行くよ。明日、一緒に冥王星に行こう」

 

 そう言った瞬間、胸の奥のモヤモヤが、少しだけ形を持った。

 怖さは消えない。けれど、怖さの隣に“前に進む理由”が並んだ。

 

『よし。なら話は早い。集合場所と時間を送る。遅れるな』

 

「分かった。……メノリ、ありがとう」

 

『だから礼は早い。……それと』

 

 メノリが少し言い淀む。

 珍しい。

 ルナは息を止めて待った。

 

『ルナ……無理はするな。お前は、無理を“普通”にする癖がある』

 

 ルナは目を伏せた。

 心の奥を見透かされた気がして、笑うしかなかった。

 

「……気をつける」

 

『よし。チャコにも言っておけ。』

 

「ふふっ、分かった。言っておく」

 

 通話が切れた。

 

 ルナは端末を握ったまま、しばらく動けなかった。

 冥王星――。

 “遠い場所”が、急に現実味を帯びる。

 胸がざわつくのに、不思議と足元は少しだけ軽い。

 

「……メノリ、冥王星行く言うとったんか」

 

 チャコが横から言った。

 声はいつもの軽さなのに、目が真剣だ。

 

「うん。明日、一緒に行こうって」

 

「ほぉ……あのメノリが、よう動いたな」

 

「メノリ、ずっと考えてたんだと思う。私も……同じ」

 

 ルナがそう言うと、チャコはふっと息を吐いた。

 

「行くんはええ。けどなルナ」

 

「うん?」

 

「“確かめる”んは、時にしんどいで」

 

 チャコの言葉に、ルナは頷いた。

 しんどい。

 それでも、確かめなきゃいけないことがある。

 

「分かってる。でも……このまま何もできないのは、もっとしんどい」

 

「せやな」

 

 チャコはそう言って、テレビを見た。

 救援チームの編成のニュースは続いている。

 ブライアン、エリン、サツキ、マリ。

 医療従事者、副操縦士、システムエンジニア。

 皆がそれぞれの場所で、動かされている。

 

 ルナは端末を握りしめ、ふと――指が画面のメッセージアプリを開いた。

 リュウジの名前。

 トーク画面。

 

(……何て送ればいい?)

 

 打ちかける。

 

『元気?』

 

 短すぎる。

 消す。

 

『冥王星、寒い?』

 

 馬鹿みたいだ。

 消す。

 

『会いたい』

 

 指が止まる。

 その三文字が、胸の奥に落ちていく。

 送ればいいのに、送れない。

 送っても、返事が来ないかもしれない。

 “返事が来ない”という現実を、わざわざ増やすのが怖かった。

 

 ルナは、打ちかけた文字を全部消した。

 画面が空白になって、そこに“いない”がくっきり映った。

 

「……リュウジ」

 

 呼んでも届かない距離を、名前だけが埋めようとして、埋まらない。

 

 チャコが、ルナの手元をちらりと見て、何も言わずに背を向けた。

 優しさの形は、時々こういう沈黙になる。

 

 ルナは深呼吸をして、立ち上がった。

 

「……準備しなきゃ。明日、冥王星だもんね」

 

「せや。荷物、変に多うしたらあかんで。」

 

「もう、チャコ。私、そんなにドジじゃないよ」

 

「ドジや」

 

「違うってば」

 

 軽口を叩くと、少しだけ空気が戻る。

 それでも胸の奥の緊張は消えない。

 

 ニュースは続く。救援が動く。世界が動く。

 そして――ルナも、動く。

 

 冥王星へ。

 リュウジのいる場所へ。

 “いないかもしれない”怖さごと、確かめに行くために。

 

 ルナは窓の外を見た。

 ソーラ・デッラ・ルーナの空は、今日も人工の青で澄んでいる。

 その青の向こうに、冥王星がある。

 遠いのに、明日には触れられる距離に近づく。

 

 ルナは小さく呟いた。

 

「……待ってて、リュウジ。……ううん、違う」

 

 言い直す。

 

「私も、前に進む。会って確かめる。……それが、今の私の“やりたいこと”だから」

 

 チャコが背中越しに、ふっと笑った。

 

「それでこそ、ルナや」

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