宇宙管理局――管制棟のさらに奥、重い防音扉の向こうにあるオペレーションルームは、いつもより一段と空気が濃かった。
モニターの光が壁を染め、無数の通信ログが流れ、アラート音が規則正しく鳴ったかと思えば、次の瞬間には不規則に跳ねた。
「だから遅いって言ってるのよ! あんた、状況分かってる!?」
甲高い叫び声が室内を裂く。
新しい統括官――ローズ。茶髪のマッシュルームヘアー。肩幅の狭い体躯に似合わない大袈裟な身振りで、端末を叩く担当官に詰め寄っていた。
「……統括官、現時点では原因切り分けが――」
「言い訳はいらない! 結果を出せって言ってるんだ!」
叩きつけるように言い放ち、ローズは周囲を見渡した。誰かが視線を逸らす。誰かが唇を噛む。
“分からない”と言えば怒鳴られ、“慎重に”と言えば叱責される。
責任を負う者の目ではなく、責任を投げる者の目だった。
その様子を、オペレーションルームの入口近くから静かに見ていたのがクリスタルだった。
黒いスーツに整った髪。背筋は伸び、指先の動きは冷静で、だが――目は笑っていない。
(……怒鳴るだけで、空気を壊す。指示が雑で、現場の判断を止める。これじゃ、事故が起きる)
クリスタルは胸の奥で短く息を吐いた。
ローズが来てから、この部屋の“音”が変わった。
必要な緊張ではなく、不要な萎縮が増えた。
クリスタルは回れ右をして、オペレーションルームを出た。
廊下は冷たく、照明は均一で、足音だけがやけに響く。
局長室の前まで来ると、軽くノックをして扉を開けた。
「局長、お呼びですか?」
「ああ、忙しいのにすまないね」
局長は椅子から立ち上がらず、机の上に広げた資料を指先で整えながら言った。
クリスタルは一礼して、扉を閉め、数歩進む。
「いえ、大丈夫です」
「オペレーションルームの様子はどうだ?」
局長の問いに、クリスタルは一拍置いた。言葉を選ぶというより、怒りを整える時間だった。
「……悪化してますね」
声は丁寧だが、刃が混じる。
「怒鳴るだけで責任を負おうとしない統括官ですから。現場の判断が止まっています」
局長は小さく頷いた。
それが“想定内”であることが、余計に胸に刺さる。
「そうか」
「どうするんですか?」
クリスタルは真っ直ぐに問うた。
局長は、わずかに視線を伏せる。年齢に似合わない重さが肩に乗っていた。
「すぐにチームを編成する」
「そうですか」
返事は淡い。だがクリスタルの胸の内は淡くない。
「……私は嫌ですよ」
クリスタルは言った。いつもより少しだけ、“本音”が前に出た。
「ローズの指示で宙を飛ぶなんて」
局長は、苦い顔で息を吐いた。
「分かっている」
短い。だが、その一言には“止められない事情”が詰まっていた。
クリスタルはそれを理解している。理解しているからこそ、苛立ちが消えない。
(ペルシアがいれば――)
その名は口にしなかった。
しかし、思考は勝手にそこへ向かう。
以前の統括官――ペルシア。あの人がいた頃、現場は違った。厳しい時ほど、あの人は怒鳴らず、判断し、責任を引き受けた。
その背中が消えた穴を、ローズの叫び声が汚く塞いでいる。
「……局長。編成するチームは、誰を軸に?」
クリスタルが問い直すと、局長は机の端に置いた別の資料を指で叩いた。
「S級パイロット。ブライアンを中心に――」
クリスタルの眉が、ほんのわずかに動く。
「ブライアン……」
「彼が動ける。今は、それが重要だ」
「……はい」
納得ではない。了承だ。
クリスタルは一礼し、局長室を出た。扉が閉まる音が、妙に重く響く。
廊下に戻ると、遠くからまたローズの声が聞こえた。
何かが崩れていく音に似ていた。
◆
同じ頃。
ルナの家。
朝の光は柔らかく、窓の外の人工空が白っぽい。
休日の朝。目覚ましを止めなくていい朝。
ルナは布団から抜け出すと、欠伸を噛み殺しながらリビングへ向かった。
「ふぁ……」
髪を軽くまとめ、パジャマのまま足音を立てずに歩く。
キッチンに立つと、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、カップに注いだ。
その背中に、聞き慣れた声が飛んだ。
「休みやからって、だらけとるなぁ」
ソファの背もたれから、ネコ型ロボットが半分だけ顔を出している。
チャコは、相変わらずの関西弁で、どこか偉そうに言った。
「いいでしょ、1日くらい」
ルナはカップを持ち上げ、軽く肩をすくめる。
休日にしかできない“何もしない”を、せめて少しだけ味わいたかった。
「その“1日くらい”が積み重なって、人は腐るんやで」
「チャコ、言い方」
「ウチは優しさで言うとる」
「それ、優しさじゃなくて厳しさよ」
ルナは苦笑しながら、テーブルにカップを置いた。
チャコはソファからぴょんと降り、テーブルに前足をかけるようにしてルナを見上げる。
「で、今日は何すんねん。調べもん、休憩か?」
その問いにルナは一瞬、言葉を止めた。
“調べもの”――この数ヶ月、二人の生活のどこかにずっと絡みついていた単語だ。
ペルシア。
いなくなったままの統括官。
あの記事。
そして、追いかけるのをやめたはずなのに、消えない棘。
「……今日は、休憩」
ルナはそう答えた。
自分に言い聞かせるように。
「お、偉いやん。休むのも仕事や」
「チャコ、たまに良いこと言うのよね」
「たまにちゃう。常にや」
チャコは得意げに胸を張った。
その瞬間、テレビが自動で朝のニュースを流し始めた。
いつもと同じ、平和な音。軽いBGM。ニュースキャスターの落ち着いた声。
『――続いて、北の未探索領域探索任務についてです』
ルナがカップを持ち上げた手を止める。
チャコの耳――いや、耳のようなパーツも、ぴくりと動いた。
『S級パイロット、ブルンクリン率いる探索船団は――本日未明、航行トラブルにより推進系統が停止。現在、航行不能の状態です』
ルナの喉が、ひゅっと鳴った。
牛乳が口に入る前に、冷たい緊張が先に流れ込んできた。
「……え?」
隣でチャコが呻く。
「なんやて……?」
画面には、宇宙船のイメージ映像。通信不能の文字。緊急対応の見出し。
そして、キャスターが続ける。
『宇宙管理局は本日中に救援メンバーを選定し、S級パイロットのブライアンを中心にチームを編成、出発する見込みです』
「ブライアン……?」
ルナが呟いた。
名前の響きだけで、背筋の奥がざわつく。
リュウジと同じS級。
腰を骨折したと言われていた男。
それでも“出発する”と言われる男。
「……本日中に、メンバー決めて出発?」
ルナの声が、思ったよりも高かった。
自分で自分の声に驚く。
休日の朝のはずだった。牛乳を飲んで、少しだらけて――それだけのはずだった。
チャコがテレビに顔を近づけ、画面を睨む。
「えらい急やな。ほな、相当ヤバいってことやろ」
「でも、ニュースって……大げさに言うこともあるし……」
ルナは口にした。
自分が自分を落ち着かせようとしているのが分かった。
けれどチャコは、いつもみたいに軽口を言わなかった。
「ルナ。こういう“推進停止”ってのはな、シャレにならん」
チャコの声は低い。
「漂流と同じや。方向も速度も、宇宙じゃ命綱やで」
ルナの胸が、ぎゅっと痛んだ。
“漂流”。
その単語が、いちばん触れてはいけない場所を叩いた。
サヴァイヴ。
戻れない宇宙。
助けが来ない時間。
あの時の空気。
あの時の――リュウジの背中。
(……また?)
ルナは思ってしまう。
同じことが繰り返されるのか、と。
「……ブルンクリンは」
ルナが言いかけた。
けれど、その続きは出てこない。
好きでも嫌いでもない。むしろ、嫌い寄りだったと自分でも思う。
それなのに、胸のどこかが冷えていく。
人を見た目で判断しない。
さっき、自分で言ったばかりだ。
だからこそ、今、無事でいてほしいと思うのは矛盾ではない。
「ブルンクリンがどうとか、そういう話ちゃう」
チャコが先に言った。
まるでルナの胸の内を読んだように。
「誰が乗ってようが、航行不能はヤバい。――それに」
「……それに?」
ルナが目を向けると、チャコは一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻した。
「ブライアンが出るってことは、宇宙管理局が“本気”ってことや」
ルナは息を飲んだ。
“本気”。
その言葉の裏にあるのは、責任。リスク。決断。
そして、そこにペルシアの影はない。
「……宇宙管理局、まだあんな感じなのかな」
ルナの声は小さかった。
それを聞いたチャコが、鼻で笑う。
「“あんな感じ”って……ウチらが知っとる範囲でも、揉めとったやろ。統括官も変わったしな」
ルナは牛乳を一口飲んだ。
甘くて、冷たくて、喉を通るはずなのに、胃に落ちる前に引っかかる。
(ペルシアさん……)
思い出すのは、いつもの明るい声。
そして、あの夜の電話。
“私がいなくなってもスターフォックスをよろしくお願いします”
――いなくなった。
その言葉が、今ならもっと重い。
「……メンバー、って誰が行くんだろ」
ルナが呟く。
「S級がブライアンやろ。あと、乗務員もいるはずや。整備も医療も。最低限、揃えなあかん」
「……エリンさん、忙しいって言ってた」
ルナは思わず口にした。
最近痩せていた、という言葉が、急に現実味を持つ。
「副パーサーで穴埋めしとるんやろ。」
「……うん」
ルナは頷いた。
でも、頭の中の景色はニュースの映像と重なって、揺れ続ける。
その揺れの中で、ふと――別の名前が刺さる。
(リュウジ……)
このニュースを見たら、彼は何と言うだろう。
何も言わないかもしれない。
薄い笑みで「そうか」と言うかもしれない。
でも、きっと、目は笑っていない。
ルナはそれを思い、胸の奥がまた痛くなった。
「……ルナ」
チャコが呼ぶ。
ルナが顔を上げると、チャコは少しだけ真面目な顔をしていた。
「今は、情報が少なすぎる。焦ってもしゃあない」
「分かってる」
ルナは答えた。
“分かってる”と言いながら、心は焦っている。
あの時と同じだ。分かっているのに、落ち着けない。
テレビのキャスターはさらに続ける。
『宇宙管理局は救援チームの安全確保を最優先とし――』
安全確保。最優先。
それは“簡単にできない”から、わざわざ言葉にするのだ。
ルナはカップを置き、両手を膝の上で握った。
休日の朝の空気は、もうどこにもなかった。
「……チャコ」
「なんや」
「私、今日は……休憩って言ったけど」
「言ったけど?」
ルナは言葉を探し、結局、正直に吐き出した。
「落ち着かない」
チャコは一瞬、黙った。
それから、いつもの調子に戻すように、わざと大げさに肩をすくめた。
「そらそうや。ウチら、漂流経験者やからな」
その言い方が、逆に優しかった。
「……ニュース、続き見よう」
「せやな。見たほうがええ」
二人は並んでソファに座った。
“航行不能”
“救援”
“本日中に出発”
言葉が刺さり続ける。
そしてその裏で、もう一つの現実が、静かに痛みを増していく。
――リュウジがいない。
この状況で、連絡を取れない。
助けを求める相手ではないと分かっているのに、心が勝手に探してしまう。
あの人なら何かを言うのではないか。
あの人なら何かを知っているのではないか。
そんな期待を、もう持てないのに。
ルナは画面を見つめたまま、唇を噛んだ。
チャコは何も言わず、ただ同じ画面を見ている。
ニュースの音だけが、部屋に流れ続けた。
休日の朝は、いつの間にか――“待つしかない朝”に変わっていた。
ーーーー
ハワード財閥系列――旅行会社のオフィスは、朝から空気が硬かった。
照明はいつも通り白いのに、そこにいる人間の表情だけが夜の色を引きずっている。
端末の起動音、プリンタの作動音、紙が擦れる音。普段なら単なる“始業の音”なのに、今日はどれも焦げ臭い。
エリンは出社してすぐ、制服の襟元を整えながら深く息を吐いた。
鏡に映る自分の目の下には、小さなクマができている。消そうとしても消えない線だ。
ブルンクリンの探索任務に同行したチーフパーサー――その穴埋め。副パーサーである自分が穴を埋めるのは職務だが、職務で片付く重さではない。
事務所の奥で書類を束ねていると――。
ガシャン!
扉が勢いよく開く音がした。
オフィスの全員が一瞬だけ振り向く。
それほど、朝の空気は張りつめていた。
「エリンさん!!」
息を切らしたククルが飛び込んできた。肩が上下に揺れている。
制服の上着のボタンが一つ、止め忘れていた。
「おはよう、ククル」
エリンは声を落とす。わざと、普段通りに。
焦りは連鎖する。焦りの連鎖を止めるのが、上に立つ者の役目だ。
「おはようございます……じゃなくて、エリンさん! 大変です!」
ククルの目が泳ぎ、唇が乾いている。
エリンはペンを置いた。椅子から立ち上がり、ククルの肩の高さに視線を合わせる。
「まずは落ち着いて。何があったの?」
その“落ち着いて”は、命令じゃない。
祈りに近い。
「いま、受付に……宇宙連邦連盟の人が来ています!」
ククルが早口で吐き出す。
その瞬間、エリンの表情が硬くなった。
目の奥の疲労が、別のものに塗り替えられる。
「……宇宙連邦連盟が?」
声が低くなる。
旅行会社に連盟の職員が来る理由は限られる。
そして今、限られる理由は一つに収束する。
(ブルンクリンの船……救援……それとも、もっと悪い知らせ?)
エリンは無意識に、喉を鳴らした。
ククルが続けようとするのを、手のひらで制す。
「分かった。私が行く。ククル、あなたは――」
「私も行きます!」
ククルは反射みたいに言った。
その瞳が真っ直ぐで、若さの勢いが眩しい。
エリンは一瞬だけ迷い、すぐに頷いた。
「……分かった。でも、言葉は選びなさい。相手は“連盟”よ」
「はい……!」
ククルは背筋を伸ばした。
エリンは制服の胸元を整え、受付へ向かう。
廊下を歩くたびに、靴音が乾いて響いた。
受付の手前に、見慣れないスーツ姿がいた。
肩のラインが固い。視線が忙しい。
目が合うと、相手は一歩前に出て名刺を差し出した。
「宇宙連邦連盟、航行安全管理局の……」
エリンは名刺を受け取る。
紙の薄さが、逆に恐ろしい。
「……ハワード財閥旅行会社、副パーサーのエリンです。ご用件は?」
相手の口が開いた、その瞬間――
エリンの胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。
◆
火星。
赤茶けたエアポートの朝は乾いていて、空気の温度が低い。
輸送船の点呼は整然としていた。
船体の脇に並ぶクルーたちの顔に、まだ眠気は残っているが、姿勢は揃っている。
「今日も頑張りましょう」
サツキが言う。声は明るい。
それが彼女の仕事でもあり、彼女の癖でもあった。
朝の空気に、人を動かす音を混ぜる。
「おーっ」
返事が返り、クルーはそれぞれの持ち場へ散っていく。
サツキも整備用の工具箱を開き、必要なレンチを指先で確かめた。
(今日も忙しいな)
そう思った瞬間、背後から声が飛ぶ。
「おーい、サツキ」
整備班の先輩だった。
サツキはすぐに振り向く。
「はい! どうしましたか?」
工具を取り出しながら答える。
先輩は顎で奥を示した。
「お客さんだ」
「……お客さん?」
朝から? 誰だろう。
サツキはレンチを戻し、工具箱を閉めた。
歩き出す足取りが、自然と早くなる。
“お客さん”――それがもし、連盟なら。
もし、宇宙管理局なら。
もし、未探索領域の件なら。
サツキの喉の奥が、乾いた。
◆
ソーラ・デッラ・ルーナ――管制棟。
機械の音が常に鳴っている場所なのに、今日のマリにはその音が不気味に耳についた。
ヘッドホン越しに、相手の声は冷たく整っている。
「なので、宇宙管理局からの定期便は止めてください」
マリはマイクに向かって言った。
言葉は丁寧。だが、語尾に苛立ちがにじむ。
『ですが、任務統括官からは通常通りで構わないと連絡が入っています』
返ってきた声は淡々としていた。
それが余計に腹立たしい。
「……分かりました。一度、こちらで確認します!」
マリは通話を切った。
ヘッドホンを外し、机に置く。
その動作だけが乱暴になった。
「何を考えているんだ……!」
小さく呟く。
紅茶を一口飲むが、香りは味を伴わない。
胸の奥が冷えているせいだ。
(ローズか。あるいは……別の意図か)
ペルシアがいなくなってから、“意図”の匂いが増えた。
正しい意図ではなく、保身の意図。権力の意図。
マリはそれが大嫌いだった。
「マリさん! 外線入ってます!」
部下の声が飛ぶ。
「繋いでください」
マリは即答する。
呼吸を整え、声を“いつもの自分”に戻す。
「こちら管制、マリです」
受話器の向こう――
その声を聞いた瞬間、マリの眉が僅かに寄った。
◆
ソーラ・デッラ・ルーナ――ルナの家。
テレビのニュースはまだ続いていた。
“航行不能”“救援チーム”“本日中に出発”――そういう単語が画面からこぼれ落ちて、部屋の床に溜まっていくようだった。
その時。
ブブッ――。
ルナの携帯端末が震えた。
机の上で、小さく跳ねる。
「……!」
ルナは反射で手を伸ばした。
画面を見て、一瞬息が止まる。
“カオル”
表示された名前に、胸の奥がちくりと痛んだ。
懐かしさと、何か嫌な予感が混ざる。
「……もしもし、カオル?」
ルナが出るより早く、横からチャコが身を乗り出した。
「何や、急に?」
ルナは片手でチャコを制しながら耳に端末を当てる。
カオルの声は、いつも通り低くて短い。だが、背後に“急いでいる音”が混じっている。
『ルナ。チャコはいるか』
「いるけど……どうしたの?」
『ブライアンが救援に出る。……その捜索に、チャコを参加させてほしい』
ルナの心臓が、どくんと鳴った。
隣でチャコの目が細くなる。
「……は?」
チャコが低い声を漏らす。
ルナは端末を少し離し、チャコを見た。
チャコは首を横に振るように、すでに答えを作っている顔だった。
『捜索にはエリンさん、サツキさん、マリさんも行く』
名前が次々に落ちてくる。
それは“人選”ではなく“動員”に近い響きだった。
「そんな……エリンさんも?」
ルナが呟くと、チャコが先に答えた。
「ウチは行かへんで」
携帯越しでも、カオルが一瞬黙ったのが分かった。
『……そうか』
短い。
だが、そこに“引き留め”はない。今は説得の時間がないのだ。
チャコが続ける。声は冷静で、そして少しだけ棘がある。
「前回はネフェリスを使うたから行っただけや」
「チャコ……」
「コロニーの宇宙船なら、ウチより詳しいエンジニアは山ほどおるやろ」
ルナは唇を噛んだ。
正論だ。
でも、正論だからこそ怖い。
“山ほどいる”はずなのに、わざわざチャコを指名した。
そこに、宇宙管理局の混乱が滲む。
あるいは――“別の意図”が。
『……分かった』
カオルの声が低くなる。
そこに僅かな苛立ちが混じった。
『だが、状況が変わったら、また連絡する』
「分かった。でも……無茶しないで」
ルナは思わず言った。
カオルは一拍置き、短く返す。
『……ああ』
通話が切れた。
ルナは携帯を握ったまま、しばらく動けなかった。
テレビでは、救援チームの映像が流れている。
ブライアンの顔。
慌ただしく動くオペレーションルーム。
“本日中に出発”――そのテロップが、やけに明るい色で表示されている。
「……なんで、チャコを?」
ルナが小さく言う。
チャコは腕――いや前足を組むような仕草で、鼻を鳴らした。
「焦っとるんやろ。宇宙管理局も、連盟も、誰も彼も」
チャコは画面から視線を外し、ルナを見る。
「ルナ。ウチらは“漂流”を知っとる。せやからこそ、行きたい気持ちも分かる」
「……うん」
「でもな。ウチはあの時、ネフェリスやった。あれは“特別”や」
チャコの声が少しだけ沈む。
「コロニーの船の仕組みは、ウチの専門やない。下手に混ざっても、邪魔になる。……それに」
「それに?」
ルナが問い返すと、チャコは少しだけ間を置いた。
「連盟が動いとる。管理局も動いとる。そこにウチが行ったら――」
言いかけて、チャコは口を閉じた。
代わりに、ルナの肩を軽く叩いた。
「……危ない匂いがする」
ルナの背筋が冷えた。
“危ない”は宇宙船のトラブルだけじゃない。
人間の、組織の、意図の話だ。
ルナはテレビ画面を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。
(リュウジがいたら……)
また、その名前が胸の中に浮かぶ。
でも、いない。
ここにいない。
連絡も取れない。
不在の現実が、痛みとなって刺さる。
ルナは携帯端末を握りしめた。
画面はまだ暗い。
そこに残るのは、通話履歴と、たった一つの名前。
“カオル”
そして、ニュースは続く。
救援は動く。
世界は進む。
ルナの休日は――
“待つしかない”休日から、“何かが始まってしまった”休日へ変わっていた。
ーーーー
その日のニュースは、朝から何度も同じ映像を流していた。
ソーラ・デッラ・ルーナの外壁を背景に、宇宙管理局のロゴが映り、淡々としたアナウンサーの声が続く。
「北の未探索領域にて航行不能となった探索船の救援のため、本日中に救援チームが編成され、出発します。救援チームには――」
ルナはリビングのソファに座ったまま、膝の上で指を組んだ。
画面に映るのは、忙しなく動く管制室の様子。怒鳴り声までは聞こえないはずなのに、映像の端に映り込む人の動きが、それだけで“切迫”を語っている。
「……ブライアン、エリンさん、サツキさん、マリさん……」
ルナが小さく復唱したところで、画面のテロップが切り替わった。
「なお、救援チームには宇宙管理局所属の医療従事者、副操縦士、システムエンジニアも同乗する予定です」
チャコがテレビの前、ローテーブルに肘――いや前足をつきながら、鼻を鳴らした。
「ほらな。結局、ウチ以外にも専門の連中はおるんや」
「……うん」
分かっている。分かっているのに、胸の奥が冷たい。
“医療従事者”と聞いた瞬間、ルナの脳裏に浮かんだのは、あのときの吹雪だった。
薬も設備もなく、皆の顔色を見て、息遣いを聞いて、ただ祈るようにして夜を越えた時間。
リュウジがいた。
カオルがいた。
皆がいた。
でも今は――それぞれが離れた場所で、それぞれの未来へ歩いている。
それは前に進んでいる証拠で、誇らしいはずなのに。
世界が危機に傾くたび、“離れた現実”が刺さる。
「見送り、行きたかったな」
ルナがぽつりと言うと、チャコがわざと軽い調子で返した。
「出発式は宇宙管理局でやるんやろ? 時間的にも無理や。行けんもんは行けん」
言い方は雑なのに、慰めようとしているのが分かる。
ルナは苦笑して頷いた。
出発式は宇宙管理局の施設内で行われる。セキュリティは厳しく、一般の立ち入りは制限される。
それに――ルナは今日、休みとはいえ、いきなり“管理局に行く”などできる立場じゃない。
メノリなら、名家の力でねじ込めるのかもしれない。けれど、ルナはそんなことを頼む気にはなれなかった。
誰かの権力で“通る”ことが、今は逆に怖い。ペルシアの件以来、なおさらだ。
テレビでは、救援に出るブライアンの過去映像が流れていた。
腰の骨折から復帰したばかりなのに、その視線は鋭い。
“強さ”に頼らざるを得ない現場なのだと、画面が教えてくる。
「……エリンさん、大丈夫かな」
ルナが言う。
チャコが少し目を細めた。
「エリンなら大丈夫やろ」
「うん……そうだね」
ルナは理解してしまう。
誰かがいなくなれば、誰かが埋める。
それは組織の仕組みだ。冷たくて、正しくて、残酷だ。
ニュースの音が、いきなり遠く感じた。
そのとき。
ブブッ――
ルナの携帯端末が震えた。
テーブルの上で、小さく跳ねる。
「……?」
ルナが手に取ると、画面に浮かぶ名前。
メノリ
心臓が、ちくりと鳴った。
こんな時間に? しかも連盟や管理局が動いている今日に?
ルナはすぐに通話を開いた。
「もしもし、メノリ?」
『ルナ、起きてるな』
メノリの声はいつもより少し速い。
焦っているのか、急いでいるのか。
あるいは――決意が固いときの声だ。
「起きてるよ。ニュース見てた。ブライアンさんたち、出るんだよね」
『ああ。……それで確認だ。今日はGWで休みか?』
「うん。今日は休み。明日も休みだけど……どうしたの?」
一拍、間があった。
その沈黙が、妙に重い。
『明日――一緒に冥王星に行かないか』
「……え?」
声が、出るのが遅れた。
ルナの頭の中で、言葉が跳ね返る。冥王星。リュウジ。あの“返事が来ない”不在。
胸の奥に押し込めていたものが、一気に浮上する。
「メノリ……いきなり、どうして……」
『いきなりじゃない。ずっと考えていた。お前も、分かっているだろ』
メノリの言葉は短いのに、逃げ道を塞ぐように真っ直ぐだ。
ルナは息を呑む。
『連絡が返ってこない。おかしい。……いや、“おかしい”と言い切るのは乱暴かもしれないが、放置していい状況ではない』
「でも、リュウジは……やりたいことがあるって言って、冥王星に行ったんだよ? 忙しいのかもしれないし」
『忙しいなら忙しいで、ひと言くらい返せるだろ』
メノリの声が少しだけ尖った。
その尖りに、メノリ自身の不安が混ざっているのが分かる。
『私も何度か送った。返信はない。……ルナ、お前にもだろ?』
「……うん」
ルナは、正直に頷いた。
胸が痛む。
“信じてる”と言いながら、胸の奥では“怖い”が育っている。
沈黙が落ちた。
テレビのアナウンサーの声だけが、遠くで続いている。
チャコが横から身を乗り出してきて、口の形だけで言った。
(誰や?)
ルナは端末のマイクを指で軽く覆い、小声で答える。
「メノリ」
チャコの耳――いや、センサーがぴくりと動いた。
(……冥王星の話か?)
ルナは小さく頷く。
そしてマイクを戻した。
「メノリ、でも……冥王星って遠いよ。行くにしても、今日決めて明日動けるの?」
『動ける。私のほうで手配する。交通網は押さえられる。宿もな。……そのくらい、やって当然だ』
“当然”と言い切るメノリらしさに、ルナは少しだけ救われた。
同時に、メノリの覚悟の固さが伝わってきて、背筋が伸びる。
「……でも、なんで今?」
『今だからだ』
メノリの声が低くなる。
『宇宙管理局が混乱している。ペルシアさんの件も片付いていない。未探索領域も動いている。――嫌な予感が重なっている』
「……」
『そして、私たちは、いつも“何かが起きてから”動く』
その言葉が、胸に刺さった。
サヴァイヴ。漂流。吹雪。怪我。病気。
いつも、手遅れになりかけてから走っていた。
『手遅れになってから後悔するのは、もう嫌だ』
メノリが言い切る。
ルナは唇を噛んだ。
ルナだって同じだ。
でも――怖いのも本当だった。
冥王星に行けば、“不在”を確かめることになるかもしれない。
リュウジがそこにいなかったら。
リュウジが、何かを抱えていたら。
リュウジが、笑ってくれなかったら。
想像するだけで、指先が冷える。
「メノリ……私、行きたい。行きたいけど……」
『怖いのか』
メノリは容赦なく言った。
責める声ではない。見抜く声だ。
「……怖い」
ルナは正直に言った。
胸の奥が熱くなる。情けなさではない。自分の弱さを認める熱さだ。
『なら、なおさら来い』
メノリは言った。
その声が、不思議なくらい柔らかい。
『ルナ。お前はいつも皆を支えてきた。……一人で背負うな。今度は私が支える』
ルナは目を見開いた。
メノリが、こんな言い方をするのは珍しい。
生徒会長としての“厳格”じゃない。仲間としての言葉だ。
ルナの喉が詰まった。
「……ありがとう」
『礼を言うのは早い。決めろ』
すぐにいつもの調子に戻る。
それがメノリの照れ隠しだと分かって、ルナは少し笑った。
「うん。……行く。私も、行くよ。明日、一緒に冥王星に行こう」
そう言った瞬間、胸の奥のモヤモヤが、少しだけ形を持った。
怖さは消えない。けれど、怖さの隣に“前に進む理由”が並んだ。
『よし。なら話は早い。集合場所と時間を送る。遅れるな』
「分かった。……メノリ、ありがとう」
『だから礼は早い。……それと』
メノリが少し言い淀む。
珍しい。
ルナは息を止めて待った。
『ルナ……無理はするな。お前は、無理を“普通”にする癖がある』
ルナは目を伏せた。
心の奥を見透かされた気がして、笑うしかなかった。
「……気をつける」
『よし。チャコにも言っておけ。』
「ふふっ、分かった。言っておく」
通話が切れた。
ルナは端末を握ったまま、しばらく動けなかった。
冥王星――。
“遠い場所”が、急に現実味を帯びる。
胸がざわつくのに、不思議と足元は少しだけ軽い。
「……メノリ、冥王星行く言うとったんか」
チャコが横から言った。
声はいつもの軽さなのに、目が真剣だ。
「うん。明日、一緒に行こうって」
「ほぉ……あのメノリが、よう動いたな」
「メノリ、ずっと考えてたんだと思う。私も……同じ」
ルナがそう言うと、チャコはふっと息を吐いた。
「行くんはええ。けどなルナ」
「うん?」
「“確かめる”んは、時にしんどいで」
チャコの言葉に、ルナは頷いた。
しんどい。
それでも、確かめなきゃいけないことがある。
「分かってる。でも……このまま何もできないのは、もっとしんどい」
「せやな」
チャコはそう言って、テレビを見た。
救援チームの編成のニュースは続いている。
ブライアン、エリン、サツキ、マリ。
医療従事者、副操縦士、システムエンジニア。
皆がそれぞれの場所で、動かされている。
ルナは端末を握りしめ、ふと――指が画面のメッセージアプリを開いた。
リュウジの名前。
トーク画面。
(……何て送ればいい?)
打ちかける。
『元気?』
短すぎる。
消す。
『冥王星、寒い?』
馬鹿みたいだ。
消す。
『会いたい』
指が止まる。
その三文字が、胸の奥に落ちていく。
送ればいいのに、送れない。
送っても、返事が来ないかもしれない。
“返事が来ない”という現実を、わざわざ増やすのが怖かった。
ルナは、打ちかけた文字を全部消した。
画面が空白になって、そこに“いない”がくっきり映った。
「……リュウジ」
呼んでも届かない距離を、名前だけが埋めようとして、埋まらない。
チャコが、ルナの手元をちらりと見て、何も言わずに背を向けた。
優しさの形は、時々こういう沈黙になる。
ルナは深呼吸をして、立ち上がった。
「……準備しなきゃ。明日、冥王星だもんね」
「せや。荷物、変に多うしたらあかんで。」
「もう、チャコ。私、そんなにドジじゃないよ」
「ドジや」
「違うってば」
軽口を叩くと、少しだけ空気が戻る。
それでも胸の奥の緊張は消えない。
ニュースは続く。救援が動く。世界が動く。
そして――ルナも、動く。
冥王星へ。
リュウジのいる場所へ。
“いないかもしれない”怖さごと、確かめに行くために。
ルナは窓の外を見た。
ソーラ・デッラ・ルーナの空は、今日も人工の青で澄んでいる。
その青の向こうに、冥王星がある。
遠いのに、明日には触れられる距離に近づく。
ルナは小さく呟いた。
「……待ってて、リュウジ。……ううん、違う」
言い直す。
「私も、前に進む。会って確かめる。……それが、今の私の“やりたいこと”だから」
チャコが背中越しに、ふっと笑った。
「それでこそ、ルナや」