次の日の朝。
ルナは、目覚ましの音より少し早く目が覚めた。
まだカーテンの隙間から差し込む光は淡く、リビングの空気も夜の名残を引きずっている。けれど、胸の内だけは妙に冴えていた。眠気があるはずなのに、まぶたの裏で何度も同じ言葉が浮かぶ。
――冥王星。
寝返りを打つ代わりに、ルナは静かに起き上がった。
足音を立てないように、と意識するのに、床がやけに響く気がする。緊張のせいだ。
ルナはリュックを引き寄せた。
父の形見のリュック。いつも背負っているそれが、今日は特別重く感じた。実際の重さというより、背負う“理由”の重さ。
昨日、メノリと決めた。冥王星へ行くと。
その決断が、今朝になってさらに現実味を増して、手のひらにじわりと汗を滲ませる。
「……よし」
小さく呟いて、ルナは荷造りを始めた。
着替えは二日分。防寒下着。予備の靴下。ハンカチ。水筒。
そして、念のための常備薬――といっても、コロニーの移動なら大袈裟な薬は持ち込めない。けれど絆創膏や消毒パッドくらいは、心のお守りになる。
空のスペースを確認したところで、ルナの手が一瞬止まった。
指先が、携帯端末に触れようとして――やめた。
昨日の夜、打ちかけて、消して。
送らずに消して。
空白の画面が、“不在”を突きつけてくるのが怖かった。
今日は送らない。
送るなら――会ったあとだ。
そう自分に言い聞かせて、ルナは端末をリュックの内ポケットにしまった。
リビングの隅で、小さな電子音がした。
チャコが起動して、片目を細めるような仕草をした。
「……早いな、ルナ。今日は気合い入っとるな」
チャコの声が、寝起きの空気を少しだけゆるめる。
「目が覚めちゃった。チャコも、もう起きたの?」
「ウチはいつも早起きや」
チャコが胸を張る。
ルナは苦笑して、リュックのファスナーを閉めた。
「ご飯、食べる?」
「食べるっちゅーか、ジュース呑むで……あと、持ってくもんあるか?」
チャコはそう言いながら、棚の上に置いてあった小さなポーチを引っ掛け、肩にかけた。
ポーチはコンパクトなのに、チャコが背負うと妙に“旅支度”に見える。
「そのポーチ、何入れてるの?」
「秘密兵器や。パックジュースに簡易用のジャックインツールや――」
「チャコ、お願いだから、勝手にジャックインしないでね」
ルナが即座に釘を刺すと、チャコはわざとらしく肩をすくめた。
「やるとは言うてへん。言うてへんけど、準備は大事やろ? 備えあれば憂いなし、や」
「備えすぎると憂いが増えるのよ」
「はいはい。ルナの“良識”が今日も元気やな」
軽口の応酬。
でも、ルナは分かっていた。
チャコも緊張している。普段より口がよく回っているのが、その証拠だった。
朝食は簡単に済ませた。
トーストを半分ずつ。温かいミルク。
噛むほどに、胃の奥がきゅっと縮むような感覚があった。食欲がないわけではないのに、身体が“出発”に合わせて静かに戦闘態勢へ移行している。
時計を見る。
メノリから送られてきた集合時間には余裕がある。けれど、ルナは早めに動きたかった。遅れることが怖いのではない。
“待つ時間”が怖いのだ。
玄関で靴を履きながら、ルナはリュックを背負った。
肩紐が、いつもより少し硬く感じる。
「行こう、チャコ」
「せやな。……ルナ、落とし物はすんなよ。前、リュックの中で鍵行方不明になって大騒ぎしとったやろ」
「それ、一回だけ!」
「一回で十分や」
そんなやり取りをしながら家を出る。
外の空気はひんやりしていた。季節の変わり目を越え、春の朝にはまだ冷たさが残る。ソーラ・デッラ・ルーナの人工の青空は澄んでいるのに、どこか薄い膜が張っているようにも見えた。
エアポートへ向かう道は、いつもより静かだった。
GWの朝だからか、人の流れが普段とは違う。家族連れの姿がちらほら見える。
楽しげな会話が耳に入るたび、ルナの胸は少し痛んだ。
(私も……本当は、こういう普通の旅行のはずだったんだよね)
修学旅行。
皆で笑って、少し背伸びをして。
それがサヴァイヴで途切れたわけじゃない。戻ってきた後も、皆の“道”が散らばっていくことで、同じ形では戻らなくなった。
ルナは歩きながら、もう一度リュックの重さを確かめた。
そこには荷物だけじゃなく、“会いに行く”という意志が詰まっている。
チャコは横を歩く。
小さな体でポーチを肩にかけ、時々周囲を見回している。まるで護衛みたいだ。
エアポートが見えてきた。
巨大なドーム状の構造物。ガラスの壁面に、朝の光が反射して白く輝いている。出発ゲートへ向かう人の流れが、ゆっくりと吸い込まれていく。
入口の前に着いて、ルナは足を止めた。
集合場所はここ。
メノリの指定した“ソーラ・デッラ・ルーナ エアポート正面入口”の柱の横。
ルナはリュックの肩紐を握り直した。
チャコも隣で立ち止まり、ポーチの紐をちょいと直す。
「……待つ時間やな」
「うん」
周囲の人々が、行き交う。
子どもがはしゃぐ声。旅行鞄を引く音。案内放送の機械的な声。
その全部が“日常”なのに、ルナだけが少し浮いている気がした。
理由は簡単だ。ルナの目的は、旅行じゃない。
“会いに行く”。
そして、“確かめる”。
ルナは無意識に、端末のある内ポケットに指先を滑らせた。
画面を見るのが怖くて、触れるだけで止める。
そのとき、遠くから足音がした。
規則正しい、迷いのない足取り。
人混みの中でも、なぜかそこだけ空気が引き締まる。
ルナが顔を上げると――
メノリがいた。
遠くからでも分かる。
背筋の伸びた姿勢。歩く速度の一定さ。
周囲の喧騒に飲まれない、凛とした佇まい。
ルナはほっと息を吐いた。
胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけ解ける。
「……来た」
チャコが小さく言う。
「来たな。……相変わらず、歩き方が“独特”や」
「何それ」
「ほら、あの“遅刻は許さん”みたいな足取り」
「メノリが聞いたら怒るよ」
「聞こえへん距離やから言うてんねん」
チャコの言葉に、ルナは小さく笑った。
その笑いが出たこと自体が、救いだった。
メノリが近づいてくるにつれ、ルナはメノリの格好を確認した。
派手ではないが、整った服装。歩きやすさを重視しているのが分かる。
そして手には、薄い資料ケースのようなもの。
きっとチケットや手配関連の情報が入っているのだろう。
メノリはルナの目の前まで来ると、足を止めた。
呼吸一つ乱れていない。
「……おはよう、ルナ」
短く、しかし確かに。
メノリの声は、今日も“指揮を取る声”だった。
「おはよう、メノリ」
ルナが答えると、メノリの視線がチャコに移る。
「チャコも来たか」
「当然や。ルナ一人で行かせるほど、ウチは薄情ちゃうで」
「薄情というより過保護だな」
「どっちでもええわ」
チャコがむっとして言い返すと、メノリが僅かに口角を上げた。
笑った、というより“許した”ような表情だった。
ルナはその小さな変化に気づいて、胸が少し温かくなった。
メノリだって緊張している。
でも、こうしていつも通りの会話ができるのは、きっとメノリなりの落ち着き方なのだ。
メノリは資料ケースを軽く持ち上げた。
「手配は済ませた。冥王星行きの便はこの時間帯が一番無駄がない」
「さすが……」
「当然だ。無駄は嫌いだろ」
メノリの言葉は相変わらず厳格で、少し得意げで。
でもその裏に、“本当に行くんだ”という覚悟が見えた。
ルナは思わず、喉の奥で何かが引っかかった。
こんなふうに、誰かが自分のために動いてくれること。
サヴァイヴの頃は当たり前だったのに、日常に戻ってからは、どこか遠くなっていた感覚。
「メノリ……ありがとう」
ルナが言うと、メノリは即座に眉をひそめた。
「礼は着いてからにしろ。……いや、礼などいらない。私が行きたいから行くだけだ」
照れ隠し。
ルナは分かっていて、黙って頷いた。
チャコがニヤついた。
「ほらな、メノリ。素直になれへん」
「うるさい。黙れ」
メノリの短い叱責。
いつもの空気。
その“いつも”が、今日のルナにはやけにありがたかった。
しかし、ルナの胸の奥では、別の感情が静かにうねっている。
冥王星へ行けば、リュウジに会えるかもしれない。
会えないかもしれない。
会えたとして、どんな顔をしているのか分からない。
ルナは、リュックの肩紐をぎゅっと握った。
父の形見が、背中から支えてくれるような気がした。
「……行こう」
ルナが言うと、メノリは頷いた。
「ああ。迷うな。――動くぞ」
その言葉が合図のように、三人はエアポートの入口へ歩き出した。
ガラス扉が開くと、室内の空調の匂いが流れ込む。
案内板の光。人の流れ。チェックインカウンターの列。
“出発”の空気が、肌にまとわりつく。
ルナは歩きながら、ふと自分の内側を確認した。
怖い。
でも、それだけじゃない。
行きたい。
確かめたい。
そして――もしも何かがあったなら、今度こそ、後悔しないように動きたい。
それが、ルナの決めたことだ。
リュウジのいない日常に、慣れたふりをしていた自分を、今日は連れて行かない。
置いていく。
ルナは心の中で、静かに呟いた。
(会いに行くよ、リュウジ)
送れなかったメッセージの代わりに。
言葉じゃなく、足で。
メノリの背中が、少し先を歩いている。
チャコが隣で、ポーチを揺らしながら付いてくる。
その二人がいることが、今のルナには支えだった。
冥王星は遠い。
でも、歩き出した瞬間に、“遠い”はもう言い訳にならなくなる。
三人はチェックインカウンターへ向かって、迷いなく進んでいった。
ーーーー
冥王星のエアポートに足を踏み入れた瞬間、ルナは思わず息を吸った。
空気が――違う。
もちろんコロニーの空調に差なんてないはずなのに、肌に触れる温度、光の色、床を踏む靴の響き、その全部が「ここはソーラ・デッラ・ルーナではない」と告げてくる。
天井は高く、照明は柔らかい白。通路の端には淡い青灰色のパネルが連なり、壁面には雪結晶をモチーフにした装飾がさりげなくあしらわれていた。
“冥王星らしさ”を、演出としてではなく、ここで暮らす人たちの自負として滲ませているような、落ち着いた設計だった。
「……着いた!」
ルナが、思わず声を上げる。
そのままくるりと周囲を見渡し、目を輝かせた。まるで初めての遠足みたいに、視線が忙しく動く。
「ええ雰囲気のエアポートやな」
隣でチャコも同じように首を左右に振り、通路の表示や、人の流れ、遠くの案内ボードを観察している。
ルナとチャコの動きが、驚くほどそっくりだった。
それが可笑しくて、メノリは――耐えきれず、ふっと笑ってしまった。
「……お前たち、本当に似てきたな」
「え? 何が?」
ルナが振り返る。
チャコも「なんや」と眉を上げる。
「辺りの見渡し方だ。まるで鏡みたいだぞ」
「そんなことないよ」
「あるある。ルナは自覚ないタイプや」
チャコが得意げに言うと、ルナはむっと頬を膨らませた。
「チャコだって同じじゃない」
「ウチは生まれつきや。旧式の観察力やで」
「自慢になってないわよ」
小さな言い合いが始まりそうになって、メノリは咳払いを一つした。
「冥王星は私も初めてだ。迷子になるなよ」
「うん、気をつける」
ルナは素直に頷く。
その返事の仕方があまりにも真っ直ぐで、メノリは一瞬、言葉を続けるのをためらった。
“迷子になるな”というのは、地理の話だけではない。
今日の目的は、場所を探すことよりも――心が迷子にならないことのほうが難しいかもしれない。
チャコが、鼻歌まじりに言った。
「ちょっと見て回らんか?」
「その前に腹ごしらえだ」
メノリは即答した。
自分でも驚くほど、迷いのない口調だった。
「もうお昼だ。何か口にした方がいい」
その言い方が――どこか懐かしい。
サヴァイヴにいた頃。
吹雪の洞窟でも、木の上の家でも。
不安や疲れが積もるたび、メノリはいつも同じように言っていた。
「腹が減っていると判断が鈍る。まず食え」
それは命令のようで、でも本当は、仲間の体調を誰より気にかけている人の言葉だった。
ルナとチャコは顔を見合わせて、同時に笑った。
「な、なんだ。急に笑うな」
「ごめん、メノリの言い方が……」
「サヴァイヴの時と同じやった」
「……そうか」
メノリは視線を逸らし、少しだけ耳の先が赤くなった気がした。
冥王星の白い照明のせいかもしれない。
けれどルナは、その“照れ”が嬉しかった。
――ここにいる三人は、ちゃんと“あの頃”を持っている。
それは今、心を支える確かな土台になっている。
エアポート内の案内表示を辿り、三人はフードコートの一角へ向かった。
ファーストフード店は小さく、混雑はしていない。
カウンターのメニューは簡潔で、温かいスープとパンのセットが目立つ。冥王星の気候設定に合わせたラインナップなのだろう。
「これにする」
メノリが先に決め、ルナとチャコもそれに倣った。
スープの湯気が立ち上り、手のひらをじんわり温める。
席に着くと、ルナはまず一口飲んだ。
塩気が優しく、身体の芯に静かに染み込んでいく。
「……落ち着く」
「落ち着くな。こういう味は、外れがない」
メノリが淡々と答える。
チャコはパンをちぎってスープに浸し、満足そうに頷いた。
「冥王星、ええやん。空気が静かや」
「空気は同じでしょ」
「気分の話や、ルナ」
チャコが言い返し、ルナは「はいはい」と笑ってパンにかじりついた。
食事が進み、胃が温まると、ルナはふと、メノリに向き直った。
言わなければいけない気がした。
聞かなければいけない気がした。
「ねぇ、メノリ」
「どうした?」
メノリは顔を上げる。
その目は冷静で、いつもの“生徒会長”の目だった。
でもその奥に、ルナと同じ緊張があるのをルナは見逃さない。
「この後は……どこを探すの?」
ルナがそう尋ねると、メノリは少しだけ顎を上げた。
答えを準備していた人の仕草だ。
「事前に調べてある」
メノリは淡々と言う。
「冥王星コロニーにある高等部の学校は三つしかない。どれかに在籍しているだろう」
「よう調べとるな」
チャコが感心した声を出す。
メノリは当然だと言わんばかりに、スープを一口飲んだ。
「だが、学校にいるんか?」
チャコが今度は眉を上げる。
そして、どこか遠慮のない言い方で続けた。
「リュウジのスペックじゃ飛び級しててもおかしくないやろ」
ルナの手が、一瞬止まった。
胸が少しだけ、ちくりとする。
“スペック”。
それは事実だ。リュウジは、普通の枠に収まらない。
だからこそ、ここに来ている。
普通の“連絡待ち”が通じない相手だから。
でもメノリは、揺れなかった。
「そこも調べてある」
短く言って、メノリは続ける。
「ここ数年で飛び級などの人間はいなかった。少なくとも記録上はな」
「……よく調べてあるわね」
ルナが言うと、メノリは僅かに口角を上げた。
「今の学校に、教育関係に聡い友達がいる。そいつに調べてもらった」
「その友達に感謝だね」
ルナが素直に言うと、メノリは「ああ」と頷いた。
「借りは返す。情報は力だ。こういうとき、机上の知識が役に立つ」
メノリの言い方は相変わらず硬い。
けれど、ルナには分かる。
これはメノリなりの“走り回り方”だ。
サヴァイヴの頃、メノリは手を動かした。
食料を守り、規律を保ち、仲間を叱り、仲間を支えた。
今のメノリは、情報を集め、道筋を引き、無駄を減らしている。
――仲間を守る形が変わっただけだ。
ルナは、ふっと息を吐いて、パンをもう一口かじった。
落ち着け、落ち着け。
焦ると、メノリが言う通り判断が鈍る。
そのとき、ルナは無意識に髪を耳にかけた。
食べるときに邪魔だから、ただそれだけの仕草。
けれど、メノリの視線がその動きに止まった。
「……ルナ」
「ん?」
ルナが顔を上げると、メノリは少しだけ眉をひそめたまま言った。
「髪が伸びたな」
「え……ええ」
ルナは一瞬、言葉に詰まった。
自分でも伸びたと思う。
でもそれを、改めて言われると――急に、恥ずかしくなる。
「ちょっと伸ばしてるの」
ルナが答えると、チャコが横から、さも当然のように言った。
「願掛けや」
「……願掛け?」
メノリが目を細める。
ルナは頬が熱くなるのを感じて、スープのカップを持ち上げて誤魔化した。
でも、隠せない。
この二人の前では、特に。
「ルナ」
メノリが静かに呼ぶ。
責める声ではない。
ただ、確かめる声。
ルナは、カップを置いた。
そして、少し恥ずかしそうに笑ってから、正直に言った。
「……うん」
喉が乾く。
言葉にすると、胸の奥が震える。
「リュウジが……無事でありますようにって、ね」
その瞬間、テーブルの上の空気が変わった。
冗談の余地が消える。
軽口が引く。
ただ、温かいスープの湯気だけが、静かに上へ昇っていく。
チャコが一度だけ、目を細めた。
普段の茶化しが消えた、真面目な表情。
「……そら、そうや」
短い一言。
でも、心からの同意だった。
メノリは、ルナから視線を外さずに、ほんの少しだけ呼吸を整えた。
「……そうか」
それだけ言って、メノリは視線を落とした。
スープの表面が、照明を映して揺れる。
メノリの横顔は硬いままだったが、ルナには分かった。
メノリも、同じ願いを持っている。
ただ、口にしないだけだ。
ルナは、胸の奥がじんと温かくなった。
恥ずかしさは残る。
でも、それ以上に、救われる。
冥王星に来た。
ここまで来た。
たったそれだけで、何かが少しだけ前に進んだ気がした。
ルナは息を吐いて、笑ってみせた。
「……食べ終わったら、行こう」
「当然だ」
メノリが即答する。
「まず一校目。近い順に回る。時間を無駄にしない」
「効率厨やな」
「黙れ」
メノリの即座の返しに、チャコが「はいはい」と笑う。
ルナもつられて笑った。
でも、その笑いの奥には、確かな覚悟がある。
会えるかどうかは分からない。
会えたとき、何を言うのかも分からない。
それでも――探す。
スープを飲み干し、パンの最後の一欠片を口に入れる。
カップの底に残った温度が、掌に心地よかった。
ルナはリュックの肩紐を持ち直し、立ち上がる。
メノリが先に歩き出し、チャコがその横に並ぶ。
ルナは一歩遅れて、その後ろに付いた。
冥王星のエアポートの床は、静かに光を反射している。
その上を歩く足音が、三人分、重なって響く。
ルナは、胸の中でそっと呟いた。
(もう少しだけ、伸ばしていいよね)
願掛けの髪が、揺れる。
会えるまで。
無事だと確かめるまで。
三人は、冥王星のコロニーの街へ向かって、歩き出した。
ーーーー
冥王星のコロニー区画は、思っていたよりも静かだった。
人がいないわけじゃない。通りにはそれなりに往来があり、制服姿の学生も、仕事帰りらしい大人も、荷物を抱えた配達員もいる。
それでも、ソーラ・デッラ・ルーナで感じる“音の洪水”がここにはない。
足音は吸い込まれるように床へ落ち、話し声は壁の柔らかい素材に拡散していく。
空気が冷たいのではなく――空気が落ち着いている。
そんな街の中を、ルナたちは歩いていた。
冥王星の地図アプリに表示される目的地は、三つ。
メノリが事前に洗い出した、高等部の学校――その一つ目が、いま目の前にあった。
白を基調とした校舎。
雪や氷をイメージさせる幾何学模様の外壁。
門の横には、校名が刻まれたプレートと、受付窓口の案内。
ルナは、喉が鳴るのを感じた。
(ここに……いるのかな)
期待が、胸の奥で膨らむ。
それと同時に、“いなかったらどうする”が、同じ場所に影を作る。
だが、メノリは迷いなく門へ向かった。
「お前たちはここで待て。余計なことは言うなよ」
「え、でも――」
「私が手続きを済ませる。情報の扱いは慎重にする」
メノリはそう言って、受付へ吸い込まれていった。
その背中は、驚くほど頼もしかった。
冥王星に着いたとき「迷子になるな」と言った口調と同じだ。
冷静で、淡々としていて、でも背中で“私がいる”と言ってくれる。
ルナは、思わず息を吐いた。
「メノリって、やっぱりすごいね」
隣でチャコが肩をすくめる。
「そら、あいつはああいうとこ強いわ。サヴァイヴでも、手続きいうか……ルールとか段取りとか、誰より早かったやろ」
「うん……」
ルナは頷きながら、校門の先を見つめた。
あの頃。
規律や判断を背負ってくれたのはメノリだった。
ルナがリーダーとして前に立つほど、メノリは後ろから全体を締めてくれた。
だから今も――こうやって、ルナが立ち止まりそうな場所で、メノリが先に進んでくれる。
しばらくして、メノリが戻ってきた。
表情は平坦。
けれど、口元がほんの少しだけ硬い。
メノリは何も言わず、静かに首を振った。
「……ここではないようだ」
その言葉は、思ったよりも胸に刺さった。
覚悟していたのに、期待していたのに。
ルナは一瞬、言葉を失いかけた。
けれど、すぐに口を開いた。
「次に行きましょう」
自分でも驚くほど、声がちゃんと出た。
言葉が震えなかった。
それが嬉しいのか、悲しいのか、分からない。
ただ、止まってはいけないと思った。
「次の場所はここから少し遠いさかい、エアタクシーで向かうのがええやろ」
チャコが言う。
「そうしよう」
メノリが頷く。
その頷きには、迷いがなかった。
迷っている暇なんてないというように。
⸻
エアタクシーは、小型のカプセル型だった。
透明度の高い窓から街並みが流れていく。
冥王星のコロニーは、景観が整いすぎているくらい整っていて、逆に現実味が薄い。
ルナは窓の外を見ながら、心の中で数えた。
(次で……二つ目)
もう二つ目。
まだ二つ目。
どちらの感覚も、同時に胸の中にある。
「……ルナ、顔、固うなっとるで」
チャコが小声で言う。
「固くない」
「固い」
「……固いかも」
ルナは負けを認めるように息を吐いた。
メノリは前の座席で黙ったまま、情報端末を操作している。
何か、次の場所の導線や受付の手順を再確認しているのだろう。
その背中が、逆に心を焦らせる。
“本気”で探してくれているからこそ、結果が怖い。
エアタクシーが着陸し、二校目が視界に入った。
ここは一校目よりも小規模で、校舎は古い。
けれど、入り口の警備は厳重で、受付の窓口も堅牢な印象だった。
メノリは同じように、迷いなく受付へ向かった。
「また、待っていろ」
「うん」
ルナは頷き、チャコと並んで校門脇に立つ。
冥王星の空調の風が、ほんの少しだけ強く吹いた。
ルナは髪を押さえる。
(この髪、願掛けなんだよね)
さっき言ったとおり。
リュウジが無事でありますように。
でも今は――
無事かどうかより、“どこにいるのか”が分からないことが怖かった。
戻ってきたメノリの表情は、一校目と同じだった。
そして、同じように首を振る。
「……ここでもない」
ルナの胸が、きゅっと縮む。
チャコが小さく舌打ちした。
「……おかしいな。三つしかない言うとったのに」
「記録上は三つしかない。だが――」
メノリは言いかけて、口を閉じた。
“だが”の先を言わなかったのは、まだ可能性を潰したくないからだろう。
ルナは、胸の奥で何かがざわめくのを感じながらも、足を動かした。
「次が最後ね」
自分に言い聞かせるように、ルナが言う。
メノリは頷き、チャコは「せやな」と短く返した。
そして、三つ目――最後の学校へ。
⸻
最後の学校は、少し離れた区画にあった。
周囲には医療施設や研究棟らしき建物も点在していて、雰囲気が違う。
何かの専門性が高いエリア――そんな印象だった。
校門の前に立った瞬間、ルナは胸の奥で小さく祈った。
(ここであって。お願い)
メノリはいつも通り、受付へ向かった。
その背中に、今まで以上の緊張が乗っている気がする。
ルナとチャコは、校門の横で待った。
チャコが落ち着かない様子で足を揺らす。
ルナは何度も掌を握ったり開いたりしてしまう。
そのときだった。
――校内から、声が聞こえた。
「なに!?」
メノリの声。
普段のメノリからは想像できないほど、鋭く、驚きが混じっていた。
ルナの心臓が跳ねる。
チャコと顔を見合わせた次の瞬間、二人は同時に走り出していた。
受付へ駆け寄ると、メノリがカウンター越しの職員に詰め寄るように身を乗り出している。
職員は困惑した顔で、何か端末を示していた。
「それは確かなのですか!?」
メノリの声が震える。
怒りというより、信じたくないものに触れたときの震えだった。
「メノリ、落ち着いて!」
ルナが、咄嗟にメノリの腕に触れた。
「どうしたんや!?」
チャコも横から覗き込む。
メノリは唇を噛み締め、目を閉じた。
そして、静かに――噛み締めた唇を開いた。
「……リュウジは、この学校に編入していたそうだ」
「それじゃ――!」
ルナの表情が、思わず明るくなりかけた。
“いた”という言葉が、希望の扉を開けてしまう。
だが、その扉は、次の言葉で叩き壊された。
「だが……既に退学しているそうだ」
――退学。
ルナの頭の中が、真っ白になった。
「……は?」
声が、喉から漏れただけだった。
意味が理解できない。
チャコが、代わりに爆発した。
「は!? なんやそれ!!」
職員がびくっと肩を震わせる。
メノリは低く息を吐いた。
「退学……?」
ルナが呟くと、その声は自分のものじゃないみたいに頼りなかった。
「そのようだ」
メノリの声は固い。
拳が震えている。
「くそっ! あいつは一体何をしてるんだ!」
メノリが声を荒げた。
普段なら決して見せない失態。
メノリの“怒り”ではなく、悔しさがむき出しになっていた。
「メノリ、落ち着いて!」
ルナはもう一度、強く言った。
そして、続ける。
「今、騒いでも何も変わらないわ」
言葉にした瞬間、ルナ自身が一番それを分かっていた。
騒いでも、退学が取り消されるわけじゃない。
ここにリュウジが現れるわけでもない。
それでも――怒りたかった。
悲鳴を上げたかった。
どうして?って叫びたかった。
でも、ルナはここで崩れたくなかった。
メノリが崩れかけているからこそ、ルナが踏ん張らないといけないと思った。
「くっ……!」
メノリが悔しさを滲ませ、唇を強く噛む。
その目に浮かんだ感情は、怒りよりも――焦りと、自分への苛立ちだった。
チャコが、低い声で言った。
「ルナの言うとおりや。今日は一旦、引き上げようや」
チャコの声は、普段の軽さがない。
それだけ、この状況が重い。
メノリはしばらく動かなかった。
職員が気まずそうに視線を泳がせる。
やがて、メノリは大きく息を吐いた。
「……すまなかった」
ルナに向けた謝罪だった。
チャコに向けた謝罪でもある。
そして多分、自分自身への謝罪でもある。
「行こう」
メノリの声は低い。
でも、まだ折れていない。
ルナは頷いた。
チャコも「せや」と短く言った。
三人は受付を離れ、校門を出た。
外の空気は同じはずなのに、さっきより冷たく感じた。
エアタクシーを呼ぶ手続きも、メノリが黙々とこなした。
その動きは機械みたいに正確で、感情を押し殺しているのが分かった。
ルナは窓の外を見た。
冥王星の街は、相変わらず静かで、整っている。
けれどルナの中は、ぐちゃぐちゃだった。
(退学って……どういうこと?)
編入したのに。
やりたいことのために来たのに。
なのに退学――?
理由が分からない。
連絡が来ない理由が、もっと分からなくなる。
“見つからない”じゃない。
“いたのに、いなくなった”。
それは、探し物が、さらに遠くへ逃げた感覚だった。
⸻
ホテルの部屋に戻ると、冥王星の静けさが一気に押し寄せてきた。
ドアが閉まる音は柔らかく、廊下の気配はすぐに遠のく。
室内の空調は安定していて、温度はちょうどいいはずなのに――ルナの指先だけが、少し冷たかった。
チャコは先に靴を脱ぎ、ベッドに荷物を放り投げるように置いた。
「……はぁ。ほんま、やってられへんな」
愚痴というより、吐き出しに近い声だった。
メノリは無言でジャケットを脱ぎ、机の椅子に掛けた。
それから端末を机に置き、画面に映る“退学”という文字をもう一度見て、指で消すようにスワイプした。
消せるわけがないのに。
ルナはベッドの端に腰を下ろして、膝の上で両手を組んだ。
胸の奥に刺さったままの棘が、動くたびに痛む。
メノリが、ゆっくり息を吸って――吐いた。
「……明日からは、リュウジの探しようがない」
その言い方は冷静だった。
けれど、その冷静さは“諦め”ではなく、現実の分析だった。
「三校回った。記録上、在籍していたのはここだけ。退学している以上、学校という線は切れる。
残るのは個人の足取りだが――連絡もない、住所もない、居場所も分からない。冥王星のコロニーで学生一人を探すのは、非効率すぎる」
メノリの声は淡々としていて、正しい。
正しいからこそ、ルナの胸は苦しくなった。
ルナは一つ息を吐いた。
「……うん」
その“うん”が、喉の奥で少し引っかかった。
頷いた瞬間に、現実を認めた気がしてしまったからだ。
沈黙が落ちる。
窓の外には、冥王星の夜景が静かに広がっている。
派手なネオンはなく、控えめな灯りが規則正しく並ぶだけ。
それなのに、ルナにはそれがやけに遠く感じた。
――この街のどこかに、リュウジはいるのだろうか。
それとももう、ここにすらいないのだろうか。
考え始めると、底のない穴に落ちていきそうだった。
だから、ルナは――息を吸って、声を出した。
「じゃあさ」
自分でも分かる。
この声は、少しだけ明るく作っている。
それでも、作らないと崩れてしまいそうだった。
「せっかく冥王星まで来たんだし、明日は観光でもしようよ」
チャコが、ベッドの上で仰向けになったまま、顔だけこちらに向ける。
「観光って……」
呆れたような、半分怒っているような声。
でも、チャコの目は鋭いというより、心配そうだった。
ルナはチャコを見て、少しだけ胸を張る。
「ええー、いいでしょう!」
わざとらしいほどの元気な声を出してみせる。
「冥王星では、コロニー建設の現場を見学できるみたいなんだよ。ほら、私……惑星開拓技師の専門科だし。
現場って、見られる時に見ておきたいじゃない?」
言いながら、ルナは自分に言い聞かせているのも分かった。
探せない。
今はどうにもできない。
それなら、せめて――“ここに来た意味”を何かに変えたい。
無駄足だった、って結論だけは、嫌だった。
チャコは「ふん」と鼻を鳴らした。
「……まぁ、ルナらしい言い分やな」
ルナはすかさず、メノリに視線を向けた。
「メノリも、いいでしょう?」
メノリは一瞬、目を伏せた。
いつものメノリなら、ここで「無駄だ」と言う。
「今は情報を掘るべきだ」と言う。
でも――
メノリの口角が、ほんの少しだけ上がった。
それは、今日初めて見る“柔らかい表情”だった。
くすっと、小さく笑みを浮かべて、メノリは言った。
「ああ、そうしよう」
ルナの胸の奥が、少しだけ軽くなる。
その軽さは、希望というより――救いに近い。
「やった!」
ルナは思わず声を上げて、笑みを作った。
作った笑みのはずなのに、今回は少しだけ本物の温度が混ざった気がした。
ルナはチャコを見る。
「チャコはどうする?」
チャコはわざとらしく肩をすくめた。
「しゃーないな。ウチも行くわ」
ルナは頷いて、二人の顔を見回す。
「それじゃあ、決まりね!」
そして、わざと明るい声で続ける。
「楽しみだな」
言った直後、ルナは胸の奥が少し痛んだ。
“楽しい”なんて、本当は言える状況じゃない。
リュウジのことが、まだ、ずっと引っかかっている。
それでも――
こうやって言葉にして、明日の予定を作って、笑ってみせないと、心が折れそうだった。
メノリはルナを見て、静かに言った。
「無理に笑う必要はない」
その一言に、ルナの目が揺れる。
「……うん。でも」
ルナは小さく息を吐いて、窓の外を見た。
「笑わないと、怖いんだよ」
チャコが、少しだけ真面目な声で言う。
「……ルナ」
ルナは首を振る。
「大丈夫。明日は見学に行こう。
私、現場を見るの、ほんとに好きだし……それに、せっかく来たんだもん」
“せっかく”という言葉が、胸に刺さる。
せっかく来たのに、リュウジはいない。
せっかく来たのに、何も掴めなかった。
だからこそ、ルナはその言葉を、別の意味にすり替えた。
せっかく来たなら、学ぶ。見る。記憶に残す。
未来に繋げる。
そうやってしか、今の自分を立たせていられない。
メノリは頷き、端末を閉じた。
「分かった。明日は朝から動く。見学の予約は私が確認する」
「ありがとう、メノリ」
ルナが言うと、メノリは「礼を言うな」と短く返した。
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
チャコは欠伸を一つして、ベッドに寝転がる。
「ほな、今日はもう寝よか。頭、回らんわ」
「うん」
ルナは頷いた。
布団に入る前、ルナは一瞬だけ携帯端末を手に取った。
リュウジの名前を開いて――文字を打ちかける。
『冥王星に来てるよ』
でも、送信はしない。
指が止まる。
ルナは画面を消して、端末を伏せた。
――明日は観光。
明日は見学。
明日は、笑ってみせる。
それでも、胸の奥に残るのは、ひとつだけ。
不在の現実。
それが、冥王星の夜の静けさよりも、ずっと重く響いていた。