サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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約束〜嘘つき〜

 翌朝。

 

 ホテルのカーテンを開けると、冥王星の光は淡く、冷えた空気を透かして白っぽく差し込んできた。

 ルナは深呼吸して、胸の奥に残るモヤの輪郭をいったん飲み込む。

 

 ――今日は観光。

 ――今日は見学。

 ――“探す”じゃなくて、“見る”。

 

 そう決めたはずなのに、リュックを背負う指先が少し強張っていた。

 

 ロビーに下りると、メノリはすでに整った身なりで待っていた。

 チャコは小さなポーチを肩に掛け、眠そうな顔のままでも目だけはしっかりしている。

 

「朝飯は?」とチャコが言いかけて、メノリが先に答える。

 

「現場の食堂で弁当が出る。手配は済ませてある」

 

「……相変わらず抜け目ないな」とチャコが呆れ半分に言う。

 

 メノリは「当然だろ」と返したが、その声は昨日より少し軽かった。

 チャコも、さっきまでの眠気が薄れている。顔色も悪くない。

 

 ルナはそれが、ただ嬉しかった。

 

 昨日まであんなに沈んでいた二人が、今朝は前を向いて歩いている。

 それだけで、胸の内の凍ったところが少し溶ける気がした。

 

 ――よかった。

 ――少しでも、笑える方向に戻ってくれて。

 

 メノリが手配してくれた見学ツアーは本当にスムーズだった。

 受付では名前を言うだけで通され、見学用の簡易タグとヘルメット、それに安全説明の資料が配布される。

 

「ヴィスコンティ様、こちらへどうぞ」とスタッフが丁寧に案内し、メノリが軽く頷く。

 

「……様って」とチャコが小声で言いかけて、ルナがそっと肘でつついた。

 

「チャコ、変なこと言わない」

 

「言うてへん、言うてへん」とチャコがむくれる。

 

 建設現場は、想像よりずっと“生きている”場所だった。

 

 巨大な骨組みが空間に組み上がり、クレーンが規則正しく動く。

 資材が運ばれ、仮設通路に足音が重なる。

 監督の合図で作業員が流れるように動き、金属音が重なり、工具の音が遠くで乾いたリズムを刻む。

 

 ルナは目を輝かせた。

 

「……すごい……」

 

 教科書の図面や資料では、線と数値でしかなかったものが、目の前で立体になっている。

 空気の振動、機械の唸り、作業員の掛け声、手袋越しに伝わる足場の硬さ――全部が現実だ。

 

「やっぱり実際に目で見るのと、学ぶことは違うね」

 

 ルナがそう言うと、チャコが肩をすくめた。

 

「そらそやろ。机の上の知識は“地図”や。現場は“土地”やからな」

 

「言い方、ちょっと格好いいじゃない」とルナが笑う。

 

「当たり前や、ウチは旧式やけど頭は新型や」とチャコが胸を張る。

 

 メノリは資料を確認しながら、ふと一文に目を止めた。

 

「……ほぅ。火起こし体験もあるのか」

 

「火起こし体験?」ルナが顔を上げる。

 

「ああ。見学者向けの簡易プログラムらしい。――久しぶりに、やってみないか?」

 

 メノリが言った瞬間、ルナの目が明るくなる。

 

「いいわね、やりましょう!」

 

 チャコがすぐに突っ込む。

 

「二人とも、ちゃんとできるんか?」

 

 ルナはむっとする。

 

「できるよ!」

 

「火起こしなんて、サヴァイヴの時でしかやってへんやろ」とチャコが言う。

 

 メノリは鼻で笑った。

 

「腕は鈍っていない」

 

「そうそう」とルナが頷く。

 

「なんなら火起こしの新記録を叩き出しちゃうわよ」

 

 ルナが笑みを浮かべると、チャコがニヤリとした。

 

「ほな、楽しみやな」

 

 午前の見学が終わると、参加者は食堂に案内された。

 広い食堂にはすでに弁当が並んでいて、番号を確認して受け取る方式だった。

 

 ルナは弁当を受け取り、少し重みのある包みを手にして、また胸の奥が温かくなるのを感じる。

 

 ――旅だ。

 ――ちゃんと“今”を歩いてる。

 

 食堂の窓際で座ると、ルナは弁当を開きながら言った。

 

「こういう食堂の匂いって、なんだか懐かしいね」

 

「サヴァイヴの時の“焚き火の匂い”とは全然ちゃうけどな」とチャコが言う。

 

「でも、みんなで食べるっていうのは似てる」とルナが笑う。

 

 メノリは弁当を口に運びながら、ちらりと外を見た。

 

「午後は火起こし、その後は建設工程の説明だ。時間配分も悪くない」

 

「やっぱりメノリがいると安心だね」とルナが言うと、メノリは「当然だ」と返したが、頬のこわばりは薄かった。

 

 食後。

 体験プログラムの広場には、すでに数十名の参加者が集まっていた。

 

 丸太の台、木の板、弓、紐、火種――一式が整っている。

 スタッフが説明を始める。

 

「本日の火起こしは弓切り式です。手もみ式ではありませんのでご安心ください。まずは――」

 

 説明の途中、メノリが小声で言う。

 

「手もみ式ではなくて助かる」

 

「ええ、あれだと血豆だらけになっちゃうね」とルナが笑う。

 

 チャコが腕を組み、鼻を鳴らした。

 

「ほな、二人ともカッコつけて失敗せんようにな」

 

 メノリはルナに視線を向けた。

 

「ルナ、合図を頼む」

 

「え? チャコじゃないの?」ルナがきょとんとする。

 

 メノリは少しだけ眉を上げる。

 

「チャコに言わせると余計なことを言う」

 

「ひどない?」とチャコが抗議する。

 

 ルナが笑って、結局チャコに向き直る。

 

「じゃあチャコ、合図お願い」

 

「ほないくで」

 

 チャコはわざとらしく胸を張り、周囲の視線が集まるのを楽しんでいるみたいに見えた。

 

 ルナとメノリは、それぞれ弓切り式のセットを前に構える。

 指先に紐の感触。木の板の乾いた匂い。

 サヴァイヴの夜、凍える手で火を欲したあの感覚が、一瞬だけ蘇った。

 

「スタートや!」

 

 チャコの声と同時に、二人は動いた。

 

 弓を引く。

 紐が回転軸を滑り、木が回る。

 回転が加速し、摩擦の音が立ち上がる。

 

 ――キュッ、キュッ、キュッ。

 

 煙が、驚くほど早く立った。

 

 周囲がざわめく。

 

「え、早くない?」

「もう煙出てる」

「慣れてるのかな」

 

 スタッフも思わず近づき、目を細める。

 

 ルナは集中した。

 息を乱さず、一定のテンポで弓を引く。

 板の溝に粉が溜まり、色が濃くなっていく。

 

 メノリも同じだ。

 無駄な動きがない。

 姿勢が崩れない。

 どこか“訓練”の延長みたいに、理詰めで動いている。

 

 数秒、数十秒――いや、体感では瞬きの間だった。

 

 ルナの板から、ふっと赤い点が生まれた。

 それが、呼吸を吸い込むように膨らみ――

 

 ボゥッ。

 

 火が上がった。

 

「……っ!」

 

 ルナは思わず息を止める。

 その直後、タッチの差でメノリの板からも火が上がった。

 

「ルナの勝ち〜!」

 

 チャコの声が響く。

 

「やった!」

 

 ルナは反射的にガッツポーズを作り、周りから拍手が起こった。

 拍手が、こんなに近くで自分に向けられることが、少しむず痒い。

 

「え、すご……」

「早すぎる」

「プロなの?」

 

 ルナは頬を赤らめ、照れ笑いしながら頭を下げた。

 

「ありがとうございます……」

 

 メノリが小さく息を吐き、ルナに言う。

 

「流石、ルナだな」

 

「いやいや、たまたまだよ」とルナが手を振る。

 

 スタッフが笑みを浮かべて言った。

 

「いやー、お二人とも早いですね。こういう体験でここまでスムーズなの、なかなかないですよ」

 

「ありがとうございます」とルナが言う。

 

 その横で、チャコが急に前に出た。

 

「ウチらが過去一番早いやろ? 何か景品はないんか?」

 

「チャ、チャコ!」ルナが恥ずかしそうに言う。

 

 スタッフは「あはは」と笑って、困ったように頬を掻いた。

 

「気にしないでください」とメノリが淡々とフォローする。

 

 スタッフが咳払いして、正直に答える。

 

「確かにお二人は早かったんですが……記録としては、うちのスタッフの方が早いんですよ」

 

「ほぅ〜、そないな人がおるんか」とチャコが目を丸くする。

 

「はい。アルバイトですけど」

 

 スタッフは苦笑しながら言った。

 

「アルバイトで記録?」メノリが眉をひそめる。

 “アルバイト”という言葉が、冥王星の建設現場と妙に結びつかない。

 

「どないなやつなんや?」チャコが食いつく。

 

 スタッフは少し首を傾げ、視線を背後へ向けた。

 

「んー……あ、あの人です」

 

 スタッフが指差した先。

 

 広場の奥――資材置き場へ続く通路。

 そこを、ひとりの男性が歩いていた。

 

 両肩に、重そうな荷物を二つ乗せている。

 歩き方は安定していて、足取りは静かだ。

 黒い髪、短く整えられた襟足。

 姿勢だけで分かる、鍛えられた身体。

 

 ルナの世界が、音を失った。

 

 拍手も、笑い声も、風の音も。

 全部が遠のいて、視界の中心にその背中だけが残る。

 

 ――なっ。

 

 メノリが、言葉にならない声を漏らした。

 

 ――は?

 

 チャコが、口を半開きにしたまま固まった。

 

 ルナは大きく目を見開き、空いた口が塞がらなかった。

 

 見間違えるはずがない。

 

 あの背中。

 あの歩幅。

 あの、周囲を寄せつけない静かな空気。

 

 探していた人物が、ここにいるなんて。

 冥王星で、学校を退学して――

 こんな場所で、“アルバイト”として。

 

 両肩に荷物を乗せた男は、ふっと首を動かし、荷物のバランスを直した。

 

 その横顔が、一瞬だけ見える。

 

 ルナの喉が鳴った。

 

 声を出そうとして、息が詰まった。

 

 メノリの拳が、ぎり、と握りしめられる。

 チャコの耳がぴくりと動く。

 三人の呼吸が、同時に止まる。

 

 ――ようやく。

 

 ――ようやく、見つかった。

 

 胸の奥で何かが弾けそうなのに、足が動かなかった。

 喜びと、怒りと、安堵と、恐怖が、同じところで絡まり合う。

 

 ルナは、震える指先を握りしめて、ただ――その背中を見つめた。

 

 彼はまだ、こちらに気づいていない。

 

 遠い距離のまま、荷物を運ぶ背中だけが、淡い光の中で揺れていた。

 

ーーーー

 

 見つけた。

 

 その瞬間、ルナの身体は考えるより先に動いていた。

 

「――っ!」

 

 弓切り式の台から立ち上がり、ヘルメットを押さえる間もなく、ルナは広場を駆け出した。

 冷たい空気が肺に刺さっても、足が止まらない。鼓動が耳の奥でうるさく鳴る。

 

 背中が遠ざかる。荷物を担いだまま、男は通路の向こうへ――

 

「り、リュウジ!!」

 

 声が、震えた。

 叫んだはずなのに、喉の奥で掠れて、情けないほど細い。

 

 でも。

 

 その一声が届いたのか、男の歩みが、すっと止まった。

 

 遅れて、メノリも走り出している。

 チャコも「おい待て!」みたいな声を上げながら追ってきた。

 

 ルナの視界は、あの背中だけに固定されていた。

 

 男――リュウジは、ゆっくりと振り返った。

 

 そして。

 

 大きく目を見開いた。

 

 まるで、夢でも見ているみたいな顔。

 いつもの作った笑みも、無表情の仮面もない。

 ただ、素の驚きが、そこにあった。

 

「……どうしてここに……」

 

 リュウジの唇が動く。

 乾いた声が、風に混じって落ちた。

 

 ルナは、そこでやっと足を止めた。

 止めた瞬間、全身の震えが遅れて押し寄せる。

 

 息が苦しい。

 胸が痛い。

 でもそれ以上に――

 

「……よかった……」

 

 声にした瞬間、視界が滲んだ。

 涙が勝手に浮かんで、まつ毛に引っかかる。

 

 よかった。

 生きてた。

 ここにいた。

 ちゃんと、目の前にいる。

 

 ――その感情が、喉を塞ぐ。

 

 そこへ、怒号が飛んだ。

 

「それはこっちのセリフだ!!」

 

 メノリが、息を乱したまま真正面から吠えた。

 前髪が乱れ、普段の冷静さが一瞬だけ崩れている。

 それでも姿勢は崩さない。崩せないほど、怒りが固い。

 

「せや!!」

 チャコも隣で頷きながら、リュウジを睨みつけた。

 

「……」

 

 リュウジは、言い返さなかった。

 目を見開いたまま、三人を見ている。

 驚きと、困惑と、少しだけ――逃げ場を探すような目。

 

 ルナは涙を拭うことすら忘れ、ただ彼を見た。

 汚れた作業着。手袋。肩に残る荷物の跡。

 学生らしい制服はない。

 “ここで生きている”匂いがした。

 

 最初に爆発したのは、メノリだった。

 

「連絡しろ。最低限それくらいはできるだろう」

「……」

「お前はどれだけ私たちが動いたと思っている」

「……」

「冥王星まで来たんだぞ。三校回った。最後の学校で“退学”だと聞かされた時の気持ちが分かるか?」

 

 声の調子が低い。

 怒鳴っているのに、冷たい。

 冷たいのに、揺れている。

 

 その隣でチャコが一歩踏み出す。

 

「ウチはな、ルナの電話なら出るやろ思って、わざわざルナの端末借りる準備までしとったんやで?」

「それは関係ないだろ……」

「関係あるわ!!」

 チャコがすかさず返す。

「退学? 勝手に? 誰が許可したんや? 冥王星来る言うて、行って、学校入って、退学して、今ここでバイト……何しとんねん!!」

 

 勢いで言葉が濃くなる。

 チャコは怒っている。

 でもそれ以上に、焦っている。

 怒りの芯に、心配がべったり貼り付いている。

 

 メノリも畳みかける。

 

「ペルシアさんの件があった時もそうだ。お前は勝手に抱える」

「……」

「勝手に区切りをつけて、勝手に離れて、勝手に消える。――自分だけが我慢すれば済むと思っているのか?」

 

 その言葉に、ルナは胸がきゅっとなった。

 

 メノリの怒りは、正しい。

 チャコの怒りも、正しい。

 ルナだって言いたいことは山ほどある。

 

 でも、今、目の前のリュウジを見てしまうと――

 言葉が、痛みになるのが怖かった。

 

 リュウジは、二人の怒りを正面から受け止めていた。

 目を逸らさない。

 言い訳もしない。

 

 ただ。

 

 少しだけ唇を噛む。

 

「……悪かった」

 

 絞り出したような声。

 それだけで、ルナの胸の奥がまたじくりと痛む。

 

 メノリが眉間に皺を寄せる。

 

「謝って済む話ではない」

「分かってる」

「なら説明しろ」

「……今は――」

 

 リュウジが言葉を切った。

 

 彼は一瞬、周囲を見た。

 広場の人々の視線。スタッフの戸惑い。

 作業服の同僚が遠くで手を振って呼んでいる。

 

 リュウジは、肩の荷物を少し持ち直し、低い声で言った。

 

「……続きは後にしてくれ」

 

「は?」

 メノリの声が尖る。

 

「まだアルバイト中だ」

 リュウジは淡々と告げた。

 その淡々が逆に、状況の切迫を感じさせる。

 

 チャコが目を細める。

 

「……今、仕事優先とか言うんか?」

「優先じゃない」

 リュウジが即答する。

「でも、途中で抜けられない。――迷惑をかける」

 

 その一言で、空気が少し変わった。

 

 怒りの中に、別のものが混じる。

 “迷惑をかける”という言葉は、どこか――

 リュウジの内側の傷に触れてしまう気がして、ルナは息を呑んだ。

 

 メノリは舌打ちしそうな顔をして、でも飲み込んだ。

 

「……なら」

 メノリは一歩踏み出し、低く言う。

「終わるまで待っている」

 

「メノリ?」

 ルナが思わず呼ぶ。

 

「入口で待つ。終わったら来い」

 メノリの声は命令に近い。

 けれど、その目は“逃がさない”という意志だけではなく、

 “今度こそ帰ってこい”という、仲間の目だった。

 

 チャコも頷いた。

 

「逃げたら追いかけるで」

「……追いかけたら今度は捕まえる」

 メノリがさらりと重ねる。

 

「怖っ」

 チャコがぼそっと言う。

 

 ルナは泣きそうになりながら笑いそうになって、顔がぐちゃぐちゃになる。

 

 リュウジは、少しだけ肩を落とした。

 そして、珍しく観念したみたいに、短く頷く。

 

「……分かった」

 

 その返事が、ルナにはやけに重く聞こえた。

 

 彼が“分かった”と言う時は、

 きっと本当に、逃げ道を閉じた時だ。

 

 リュウジは荷物を担ぎ直し、最後にルナの方を見る。

 その視線が一瞬だけ揺れた。

 泣いているルナを見て、何か言いかけて、言葉を飲み込んだみたいに。

 

「……待ってろ」

 

 小さく、そう言って。

 

 リュウジは踵を返した。

 

 作業服の背中が遠ざかる。

 でも今度は、消えていく怖さじゃなくて――

 “終われば戻ってくる”という約束が、背中に見えた。

 

 メノリが腕を組み、低く呟く。

 

「……逃げるなよ」

 

 チャコが鼻を鳴らす。

 

「逃げたら、ウチが泣かす」

「泣かせるのは私だ」

「どっちでもええわ!」

 

 ルナは、胸の奥を押さえながら、やっと息を吐いた。

 

 冥王星の冷たい空気が肺に入って、痛いほど現実だった。

 

 ――見つけた。

 ――もう、いなくならないで。

 

 ルナは入口の方へ目を向けた。

 待つ。待てる。

 だって、今はもう、背中が遠ざかっても――

 それが“終わり”じゃないと、知っているから。

 

ーーーー

 

 

  冥王星のコロニーが、ゆっくりと茜色に染まっていく。

 

 白い建材と金属の骨組みが夕陽を反射し、工事用の照明がまだ点かない時間帯。冷え始めた空気が肌を刺し、吐く息がうっすら白くなる。遠くで作業車のバックアラームが鳴り、最後の片付けをする人影が行き交っていた。

 

 入口付近のベンチで待っていたルナは、何度目か分からないほど腕時計に視線を落として、それから――顔を上げた。

 

 見えたのは、作業着。

 

 埃を被った上着。膝のあたりが擦れたズボン。手には簡易バッグ。髪は昼間より乾いているが、まだ少し乱れている。疲れているはずなのに、歩幅は乱れず、視線だけがまっすぐこちらを捉えた。

 

 リュウジだった。

 

 その瞬間、ルナの胸の奥に張り詰めていた糸が、一瞬だけ緩む。

 

 ――来た。

 

 ――逃げなかった。

 

 それだけで、涙が出そうになるほど安堵してしまう自分がいて、ルナは下唇を噛んだ。嬉しい。だけど、嬉しいだけじゃない。嬉しいだけで済ませたくない。

 

 リュウジが立ち止まる。

 

 茜色の光が彼の横顔を縁取る。普段なら影に隠れる目の色が、この時間だけははっきり見えた。けれど、その目は相変わらず、どこか遠い。自分の内側に手を突っ込まれないように、薄い膜を張っている。

 

 そして、開口一番。

 

「それで――何をしにここに来た」

 

 声は低く、淡々としていた。

 まるで、こちらが“勝手に押しかけた”と言わんばかりの言い方。

 

 その一言で、メノリの眉間が即座に寄った。

 

「貴様が連絡一つしないから心配して見に来たのだろう!」

 

 メノリは感情を抑えたまま怒る時ほど、言葉が鋭くなる。しかも昨日は、冥王星まで来て、三校回って、最後に“退学”の事実を突きつけられた直後だ。緊張の糸はとっくに限界まで張っている。

 

「せや! いったい何をしてるんや!」

 

 チャコも間髪入れずに追撃する。ルナの横に立ち、身体を少し前に出す。まるで盾みたいに。

 

 リュウジは肩をすくめもしない。ただ、事実だけを並べるように言った。

 

「ただのアルバイトだ」

「……は?」

「金は稼がないと生きていけないからな」

 

 その言葉が、ルナの胸に小さく刺さった。

 

 “稼がないと生きていけない。”

 

 正しい。現実だ。冥王星の空気は冷たいし、ここはサヴァイヴみたいに皆で分け合う場所じゃない。生活には金が必要だし、食料も部屋も、ただでは手に入らない。

 

 でも――

 

 でも、その言い方は、まるで。

 “お前たちは何も分かっていない”と突き放すみたいで。

 

 ルナは、握っていた指先に力が入るのを感じた。

 

 メノリが声を強める。

 

「なら、どうして退学になった!」

 

 言葉が落ちた瞬間、チャコも一歩踏み出す。

 

「そうや! 学校行く言うたやろ! やりたい事がある言うたやろ!!」

 

 リュウジは一瞬だけ、目を伏せた。

 そして、ひどく簡単に言った。

 

「……俺が学校で学ぶ事は何もない」

 

 その瞬間、空気がぴん、と張り詰めた。

 

 メノリとチャコの温度が、さらに上がる気配がした。

 怒りの火に油を注ぐ一言。

 メノリの肩がわずかに震え、チャコの口が言葉を吐き出す直前に歪む。

 

 ――違う。

 

 ルナの胸の中で、何かが壊れる音がした。

 

 ガラスみたいな音ではなかった。

 もっと鈍く、重い。

 ずっと積み上げてきたものが、内側から崩れる音だった。

 

 ルナは、黙ったまま一歩前に出る。

 

 誰よりも小さいはずのその一歩が、場の空気を変えた。

 怒号の主役だったメノリとチャコの視線が、自然とルナに集まる。

 

 リュウジも、ルナを見る。

 

 その目が一瞬だけ、揺れた。

 ルナの雰囲気が変わったのを、彼も感じ取ったのだろう。

 

「……ちょっと待って」

 

 ルナの声は大きくない。

 でも、はっきりと通った。

 

 メノリもチャコも、言葉を飲み込む。

 怒りの波が一旦引く。

 代わりに立ち上がるのは、ルナの中でずっと押し殺してきたもの。

 

 ルナは、ゆっくり息を吸った。

 そして、リュウジを真っ直ぐ見た。

 

「リュウジ、やりたい事があるからって冥王星に来たのよね」

 

 確認の言葉。

 けれど、その語尾には揺れがある。

 答えが分かっているのに、あえて口にする時の震え。

 

 リュウジは答えない。

 黙っている。それが肯定に見えた。

 

 ルナは続ける。少しずつ、言葉の温度を上げながら。

 

「……連絡を返さないのも、学校を退学したのも、全部、“やりたい事”のためなら仕方ないって思った」

 

 “思った”という過去形が、胸を締め付ける。

 ルナはその過去形の中で、どれだけ自分を納得させてきたのだろう。

 

 返事が来ない夜。

 メッセージを打っては消す癖。

 既読すらつかない通知欄。

 チャコと一緒に調べた時間。

 

 ルナは、それら全部を“信じる”で繋いできた。

 

「今日のアルバイトも……」

 ルナの声が少し強くなる。

「やりたい事のためにやってるんじゃないの?」

 

 リュウジは、相変わらず黙ったままだ。

 

 その沈黙が、ルナを追い詰めた。

 

「……あえて聞かなかった」

 

 ルナの唇が、かすかに震える。

 言葉が喉に引っかかる。けれど、もう止められない。

 

「聞いたら、答えないって分かってたから。聞いたら、また作った笑顔で誤魔化すって分かってたから……だから、待った」

 

 夕陽が沈みかけ、コロニーの影が長く伸びる。

 通路の向こうで照明が一つ、二つ点いた。

 その光が、ルナの瞳の濡れた縁を照らす。

 

 ルナは言った。

 言ってしまった。

 ずっと胸の中で、祈りみたいに握りしめてきた問いを。

 

「……リュウジの“やりたい事”って、なに?」

 

 その言葉は、怒りだった。

 だけど同時に、祈りだった。

 

 教えてほしい。

 あなたの中で、何が起きているのか。

 あなたがどこに向かっているのか。

 私はそこにいていいのか。

 ――私は、あなたの味方でいられるのか。

 

 ルナの問いに、リュウジは――答えなかった。

 

 少しだけ眉が動き、口が開きかけて、閉じる。

 目が逸れそうになって、逸らさない。

 逸らせない。

 

 沈黙は、答えより残酷だった。

 

 ルナは、ぽつりと言う。

 

「……教えてくれないんだね」

 

 その声音には、怒りと失望と、どうしようもない哀しさが混ざっていた。

 ルナは笑っていないのに、どこか笑ってしまいそうな顔をしていた。

 泣きたいのに、泣きたくない。

 怒りたいのに、怒りたくない。

 それでも――壊れていく。

 

「なんか……私がバカみたいじゃない」

 

 ルナの言葉に、メノリが息を詰める。

 チャコが「ルナ……」と呼びかけそうになって、止める。

 

 ルナは、続けた。

 一歩も退かない。逃げない。

 ここで言わなければ、ずっと自分が崩れていくのを知っているから。

 

「リュウジがやりたい事のために前に進んでるなら、私も前に進んでいいって思ってた。私も頑張ろうって、ちゃんと勉強もして、夢も見て……それが全部、私の勘違いだったのかなって」

 

 夕暮れの風が、ルナの髪を揺らす。

 伸ばした髪。願掛け。

 無事でいて、と祈って伸ばした髪。

 その髪が頬にかかって、ルナは指で払うこともしない。

 

 リュウジが、低い声で言う。

 

「……ルナ」

 

 名前を呼んだだけ。

 それだけで、ルナの心が揺れる。

 呼ばれると、信じてしまうから。

 呼ばれると、“まだ繋がっている”と思ってしまうから。

 

 だからルナは、先に声を上げる。

 

「約束したじゃない!」

 

 その一言に、熱が乗る。

 

「もう隠し事しないって、置いていかないって!……言ったよね?」

 

 ルナの問いは、責めるためだけじゃない。

 “戻ってきて”の言い換えだった。

 

 リュウジは、唇を噛んだ。

 ほんのわずかに肩が揺れた。

 何かを堪えている。

 

 でも、言葉は出ない。

 

 出せないのか。

 出したくないのか。

 ルナにはもう、分からない。

 

「……もう、辛いよ」

 

 ルナの声が、低く落ちる。

 

「信じて待つなんて。私、強いふりしてただけだよ。平気なふりして、笑ってただけ……ねぇ、リュウジ」

 

 ルナは、震える息を吸う。

 胸の奥が痛い。肺が苦しい。

 でも止まれない。

 

「あなたが黙るたびに、私の中で“いない”が増えていく。連絡がないだけじゃなくて……ここにいても、遠い……私、どこに手を伸ばせばいいの?」

 

 その瞬間だった。

 

 リュウジが、ついに声を荒げた。

 

「――分かっている」

 

 低く、鋭い声。

 怒りなのか、焦りなのか。

 ルナの心が一瞬で凍る。

 

「俺は――」

 

 言いかけて、止まる。

 

 言えない。

 言わない。

 

 その“止まり方”が、ルナの最後の糸を切った。

 

 ルナの目が、揺れた。

 でも泣かない。泣けない。

 泣いたら、きっと――まだ信じてしまうから。

 

 代わりに、出てきたのは、叫びだった。

 

「……嘘つき!!」

 

 声が裂けるように響いた。

 周囲の作業員が足を止める。

 スタッフが振り返る。

 茜色の空気の中で、その言葉だけが鋭く突き刺さる。

 

 ルナは続けた。

 言葉にしてしまったら、もう戻れないと分かっているのに。

 

「リュウジなんて――」

 

 喉の奥が熱くなり、言葉が震える。

 それでも、吐き出す。

 

「大っ嫌い!!」

 

 その言葉は、刃物だった。

 でも本当は、刃物じゃなくて――

 祈りが折れた音だった。

 

 リュウジの目が、わずかに見開かれる。

 作った笑みでも、無表情でもない。

 ただ、真正面から殴られたような顔。

 

「ルナ――!」

 

 リュウジが、名前を呼んだ。

 呼んだ瞬間に、ルナは走り出していた。

 

 背を向ける。

 逃げる。

 逃げなければ、崩れてしまう。

 戻ってしまう。

 あなたの沈黙に、また自分を合わせてしまう。

 

 足音が、硬い床に響く。

 茜色の光が、視界の端で流れていく。

 

「ルナ!!」

 

 後ろから声が追う。

 その声は、初めて――焦っていた。

 

 メノリが短く叫ぶ。

 

「ルナ!」

 

 チャコも、歯を食いしばるような声を出す。

 

「ルナ!! 待て!!」

 

 でもルナは止まらない。

 

 止まったら、聞いてしまう。

 聞いたら、許してしまう。

 許したら、また同じことになる気がした。

 

 ルナの胸の中には、怒りがある。

 でもその怒りの中心にあるのは――祈りだ。

 

 どうか、答えて。

 どうか、戻ってきて。

 どうか、私の手を取って。

 

 それが叶わないなら――

 せめて、私が壊れないように。

 

 ルナは走った。

 茜色のコロニーの中を、泣きそうな顔のまま、泣かないまま、走った。

 

 背後で、誰かが追いかけてくる足音がした。

 それがリュウジなのか、メノリなのか、チャコなのか――

 確認する勇気は、なかった。

 

 ただ、走る。

 

 走りながら、ルナの胸の奥で、さっき壊れたものの欠片が、痛いほど鳴っていた。

 

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