サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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休暇?

次の日の朝、ルナは目を開けた瞬間に、自分の瞼が妙に重いことに気づいた。

眠いわけじゃない。睡眠は、たぶん足りている。けれど――目の奥が、じんと痛む。昨日、泣いたからだ。泣いたという事実が、肌に残る熱みたいに、まだ引いていない。

 

布団の中でじっとしていると、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。

昨日の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

“嘘つき”

“大っ嫌い”

自分が言った言葉なのに、まるで別の誰かの声みたいで、胸がきゅっと縮む。

 

――でも、もう戻れない。

あの時、ルナの中で何かが壊れて、同時に、何かが“決まってしまった”。

 

ドアの外で、足音が止まった。

小さくノックが鳴る。

 

「ルナ、起きとるか?」

 

チャコの声は、いつもより柔らかかった。

ふざけている時の調子じゃない。心配を隠さない声。

 

「うん……起きてるよ」

 

ルナは声を出して、自分の声が少し掠れていることに気づいた。

喉も、昨日泣いたせいで腫れているのかもしれない。言葉が引っかかる。

 

ドアが少し開いて、チャコが顔だけ出す。

髪はまだ整えきっていない。寝起きのまま、急いで様子を見に来たのが分かる。

 

「……大丈夫か?」

 

チャコの問いは短いのに、あまりにも優しくて、ルナは一瞬、胸が熱くなった。

大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。

昨日の夜に全部吐き出してしまったせいで、逆に空っぽになって、何をどう握っていいか分からない。

 

でも、だからこそ言ってしまう。

余計な心配はかけたくない。チャコにも、メノリにも。

自分が崩れたら、二人まで引きずってしまう気がした。

 

「……大丈夫。なんか、吹っ切れたみたい」

 

口にした瞬間、自分で分かった。

嘘だ。

吹っ切れてなんかいない。

ただ、泣いて、怒って、疲れて、心が一時的に麻痺しているだけだ。

 

それでも、チャコはすぐに否定しない。

否定したらルナが壊れるって分かってるみたいに、黙って頷いた。

 

その時、もう一つの声が部屋の外から響いた。

 

「それは良かった」

 

メノリだ。

声はいつも通り淡々としているのに、そこに“余計なことは言わない”という配慮が滲んでいた。

 

ルナは布団を押しのけ、ゆっくり起き上がる。

鏡を見なくても、目が腫れているのが分かる。視界の端が少し霞む。

 

「おはよう、メノリ」

 

「おはよう」

 

メノリはいつもの調子で返した。

だが、ルナの顔を見た瞬間だけ、ほんの一瞬、目が揺れた。

それを隠すみたいに、メノリはすぐ話を進める。

 

「それより準備ができたら行くぞ」

 

「……行くってどこに?」

 

ルナは反射で聞き返した。

今日の予定は、帰るだけだと思っていた。冥王星でこれ以上、心を削る余裕なんてない。

 

「宇宙管理局だ」

 

「宇宙管理局……?」

 

ルナの脳が言葉を噛み砕くのに時間がかかった。

宇宙管理局。冥王星のこのコロニーにも、支局のような施設がある。

でも、なぜそこへ。

 

「エリンさん達の様子を見に行こうと思ってな」

 

エリン。

その名前が出た瞬間、ルナの胸の奥が少しだけ動いた。

忙しそうに痩せていたエリン。ペルシアがいなくなった後、言葉にしない複雑さを抱えながら立ち回っていたエリン。

そして今は――ブライアンたちと共に探索任務の救援に向かったはずのエリン。

 

「……私たちが行って、何ができるの?」

 

ルナは言いかけて、飲み込んだ。

“何もできない”と断定してしまったら、昨日の自分がもっと惨めになる気がしたからだ。

 

メノリは腕を組み、短く言う。

 

「できることがあるかどうかは問題じゃない。確認する」

 

その言い方は、サヴァイヴで毎日やっていた“生存の判断”そのものだった。

情報がない時ほど、足で動き、目で見て、確認する。

不安の正体を放置しない。

 

「コロニーの建設の現場に付き合ったんだ。嫌とは言わせないぞ」

 

メノリの言葉は半分冗談みたいなのに、強引な優しさがあった。

ルナを部屋に閉じ込めておいたら、余計に落ちてしまうと分かっている。

ルナの心を、少しでも外へ引っ張り出そうとしている。

 

「……う、うん」

 

ルナは頷いた。

頷いた瞬間、チャコが少しだけ息を吐いた。安心したような、ホッとしたような。

 

「なら準備ができたら行こう」

 

メノリはそれだけ言って、先に廊下へ出た。

チャコは最後までルナの顔を見ていたが、何も言わず、肩を軽く叩いて後を追った。

 

ルナは一人になってから、ゆっくりと支度を始めた。

歯を磨き、顔を洗い、目の腫れを冷やす。

鏡の中の自分は、昨日より少しだけ大人びて見えた。

でもそれは、成長じゃない。傷が増えただけだ。

 

――それでも、歩くしかない。

リュウジがいなくても。

リュウジが自分に何も言わなくても。

ルナは、ルナとして前に進むしかない。

 

 

出発の時刻が来て、三人はエアポートへ向かった。

冥王星のコロニーの街並みが、窓の外を滑っていく。

この場所で、昨日、あんなにも必死に探して。

見つけて。

壊れて。

そして、結局何も掴めなかった。

 

エアポートは朝の空気でひんやりしていた。

人の流れがあり、荷物を引く音が響く。

ルナの心だけが、そこから少し置いていかれているようだった。

 

搭乗手続きを済ませ、ゲートを抜け、宇宙船の中へ入る。

座席に座ると、窓の向こうに滑走路が見えた。

 

ルナは窓に額を近づけ、エアポート全体を見渡す。

もしかしたら――と思ってしまう。

来るわけがないと頭で分かっているのに、心が勝手に期待してしまう。

 

もしかしたらリュウジが来るんじゃないか。

昨日の夜、何か言いそびれたことがあって。

あるいは、たった一言でいいから――「悪かった」とか、「行ってらっしゃい」とか。

何でもいい。

最後に、ちゃんと顔を見て、終わらせたい。

 

でも、何も起こらなかった。

人は行き交い、スタッフは忙しく動き、表示板の文字が淡々と点滅するだけ。

 

リュウジの姿は、どこにもない。

 

「……来ないか」

 

ルナの唇から、声にならない言葉が漏れた。

隣でチャコが気づいて、何か言いかけて、やめた。

メノリは前を向いたまま、ただ静かに座っている。

 

アナウンスが流れる。

出発準備の案内。

シートベルト着用の指示。

 

ルナはベルトを締めながら、窓の外から目を離せなかった。

最後の最後まで、期待が残ってしまう自分が悔しい。

 

宇宙船がゆっくりと動き出す。

エアポートの景色が、少しずつ遠ざかる。

 

――終わりだ。

ここでの時間は終わり。

ここでの希望も、終わり。

 

ルナは唇を噛んだ。

噛んだせいでまた涙が出そうになって、急いで目を閉じた。

 

もしかしたら、もう会う事はないかもしれない。

その考えが、針みたいに胸に刺さる。

刺さった針は抜けない。痛みはずっと残る。

 

それでも、宇宙船は上昇していく。

窓の外の光が白く滲み、冥王星のコロニーが、点のように小さくなっていく。

 

ルナは目を開け、最後にもう一度だけエアポートを探した。

そこにいないことを確認するために。

そして――確認してしまった自分を、静かに心の中で抱きしめるために。

 

「……さよなら」

 

口に出したかどうか、自分でも分からなかった。

ただ、心の奥で、何かがそっと区切られた音がした。

 

その音は静かで、誰にも聞こえない。

だからこそ、ルナは一人で受け止めるしかなかった。

 

ーーーー

 

木星――巨大なガスの海の上に浮かぶコロニーの外郭。

その一角にある“宇宙管理局”の建物の前で、ルナは立ち尽くしていた。

 

目の前の施設は、冥王星で見た学校の校舎なんかとは比較にならない。

厚い装甲のような外壁、いくつも重なるゲート、監視カメラの赤い点。

ここだけ空気の密度が違う――そんな錯覚があった。

 

「……ここ、宇宙管理局の本部じゃない」

 

ルナが思わず口にすると、メノリは片眉を上げた。

 

「言ってなかったか?」

 

「聞いてないわよ」

 

ルナが即座に返すと、横のチャコが腕を組んだまま鼻を鳴らす。

 

「せやけど、中に入れるんか?」

 

“入れる訳がない”という言葉が、喉まで上がった。

けれどルナは飲み込んだ。

冥王星で、言葉にした瞬間に壊れるものがあると知ったばかりだったから。

 

メノリは淡々と、しかし迷いのない声で言った。

 

「心配ない。すぐに迎えが来る」

 

「迎え?」

 

チャコが首を傾げ、ルナも視線を正面のゲートへ向ける。

警備員が動く気配がした。止められる――そう思った瞬間。

 

ゲートの向こう、建物の奥から、ひらりと手を振る影が見えた。

制服の上に薄いコート、背筋の伸びた歩き方。

こちらへ近づく速度は早くないのに、周囲の空気を変える。

 

「――久しぶり」

 

凛とした声。

 

「クリスタル!」

 

チャコが反射で声を上げた。

 

「クリスタルさん……!?」

 

ルナは息を呑む。

ソーラ・デッラ・ルーナで、リュウジたちを止めたあの人。

冷たいほどの理性と、揺るがない判断を持つ人。

 

メノリは一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。

 

「今日はよろしくお願いします」

 

「こちらこそ、よろしくね」

 

クリスタルは口元だけで笑い、すぐに視線をチャコへ移す。

 

「本当に入って大丈夫なんか?」

 

チャコの問いに、クリスタルは即答する。

 

「ええ。話は聞いてるし、上の許可も取ってあるから」

 

“上の許可”

その言葉が、ルナの背中を冷やした。

宇宙管理局の“上”――そこに通じるのは、力と責任と、そして“何かを隠す権利”だ。

 

クリスタルは踵を返し、軽く顎で促す。

 

「それじゃあ行きましょ」

 

 

ゲートをくぐると、世界が一段暗くなった気がした。

金属探知、端末照合、荷物の検査。

一つ通るたびに“外”の空気が剥ぎ取られ、“内”の冷たさが肌に貼り付く。

 

廊下に入った途端、音が変わった。

足音が速い。声が短い。

笑い声がない。

モニターの警告音だけが、心臓の鼓動と同じリズムで鳴っている気がする。

 

宇宙管理局の中は――殺伐としていた。

緊張感が壁の塗装に染みているようだった。

 

ルナは思わずメノリに小声で聞いてしまう。

 

「……本当に大丈夫なの?」

 

メノリは前を見たまま、短く答えた。

 

「大丈夫だろ」

 

その言い方が、余計に“確信がない”ことを隠しているように聞こえた。

チャコがすぐ横から、わざと明るく言う。

 

「せや、ウチらは正式にお客様として来とるんや」

 

「ごめんね、ちょっとバタバタしてるの」

 

クリスタルが振り返らずに言った。

その言葉は柔らかいのに、背景の空気が柔らかさを許していない。

 

チャコが口を開きかける。

 

「何かあったんか?」

 

「チャコ!」

 

ルナが反射でチャコの口元を手で塞いだ。

しまった、と思った。

まるで子ども扱いみたいで、失礼だ。

でも止めたかった。ここは――迂闊な言葉が命取りになりそうだった。

 

しかしクリスタルは振り返り、淡々と言った。

 

「いいのよ。昨夜にね、ブライアンの救助船が隕石の粉塵に巻き込まれて運行不能になってね」

 

「……え?」

 

ルナの声は、喉の奥で引っかかったまま出てきた。

 

メノリが一歩前へ出る。声が鋭くなる。

 

「エリンさん達は大丈夫なんですか!?」

 

クリスタルは頷く。

 

「今のところは大丈夫」

 

“今のところは”

その四文字が、ルナの胸を締めつけた。

宇宙で“今のところ”は、時間が経つほど残酷になる。

 

「せやけど、早く救助せなあかんやろ」

 

チャコの声が低い。いつもの冗談の温度が消えている。

 

「ええ。それは今、オペレーションルームでやってるわ」

 

クリスタルは歩きながら続けた。

 

「だけど新しい統括官が現場を混乱させてるのもあるのよね」

 

「新しい統括官?」

 

チャコが眉をひそめる。

 

「そう。ローズって言うんだけど、ペルシアの代わりで就任したの」

 

ルナは胸の奥がひりついた。

ペルシア。

その名前を、ここで聞くとは思わなかった。

 

「そうなんですね……」

 

ルナは、言葉を絞り出す。

 

クリスタルは一瞬だけルナを見る。

その視線には“分かるでしょう?”という意味が混じっていた。

 

「そう。実際に見てみる?」

 

「いいんですか?」

 

メノリが即座に問う。

状況を把握することが、今は何より優先だと理解している顔。

 

「ええ。せっかくだし、感想は聞かせてね」

 

クリスタルがそう言って、厚い扉の前で認証パネルに端末をかざした。

短い電子音。

扉がゆっくり開き――

 

宇宙管理局の心臓部、オペレーションルームが姿を現した。

 

 

一瞬で、耳が痛くなった。

 

「イーナ!お前が対応しろ!僕は忙しいんだ!!」

 

怒号が室内を切り裂く。

人の声なのに、金属の刃みたいだった。

 

「なんや……」

 

チャコが呟く。

ルナは喉の奥が冷えるのを感じた。

 

クリスタルが小声で説明する。

 

「あそこで威張っているのが新しい統括官のローズね」

 

ちょうどその時、ローズが手を振り払うように叫ぶ。

 

「さっさと行け!」

 

「分かりました!」

 

イーナが、走るようにこちらへ向かってきた。

すれ違いざまに軽く会釈し、そのまま脇を抜けていく。

彼女の顔は蒼白で、目の焦点が定まっていない。

 

クリスタルがローズに近づきながら言う。

 

「何があったの?」

 

ローズがこちらを見て、鼻で笑った。

 

「……クリスタルか。そいつらは?」

 

ローズの視線が、ルナたちを値踏みするように滑る。

 

クリスタルの声が一段低くなった。

 

「質問しているのはこっち。答えて」

 

ローズは舌打ちし、苛立ちを隠そうともせず言った。

 

「ブルンクリンとブライアン一行の親族達の説明に立ち会えと言うから、そんな暇はないと断ったんだ。それで?」

 

ローズは肩をすくめる。

 

「私の友人よ」

 

クリスタルが短く言う。

 

「友人? おい、こんな所に連れてきていいと思ってるのか?」

 

ローズの声が刺々しくなる。

 

クリスタルは一歩も退かない。

 

「許可は取ってある。それより自分の仕事に集中すれば?」

 

「チッ……」

 

ローズは大型モニターに視線を移し、苛立ちを噛み殺すように頬を動かした。

 

「なんや嫌な奴やな」

 

チャコが耐えきれず呟く。

 

「静かにして」

 

ルナが小さく言った。

ここで余計な刺激を与えたら、話が進まなくなる。

救助が遅れる。

その恐怖が、ルナの口を動かした。

 

その時――

 

「統括官!」

 

赤髪団子の女性が自席から口を開いた。呼吸が荒い。

 

「ブライアン一行とブルンクリン一行との通信が途絶しています。モニターA地点まで有人無線機を派遣した方がいいと思います」

 

彼女の声は震えているのに、内容は冷静だった。

現場を回しているのは、この人たちだと一瞬で分かった。

 

しかしローズは即座に切り捨てる。

 

「駄目だ。有人無線機を派遣するには規則で操縦士を選択するのに時間がかかる。それよりも今は救助メンバーを選ぶ方が先だ」

 

「しかし!」

 

「うるさい!」

 

ローズの声が跳ね上がった。

 

「ならお前が責任取るのか!」

 

室内の空気が、凍りつく。

誰もが顔を伏せ、手元の端末に視線を落とす。

怒鳴られた彼女は唇を噛み、首を下げた。

 

「……分かりました」

 

ローズは勝ち誇ったように顎を上げる。

 

「分かったらメンバーの選考を進めろ!」

 

そして、何事もなかったように言った。

 

「おい!飯を持ってきてくれ」

 

「は、はい!」

 

オペレーターの一人が走り、すぐに戻ってきた。

パン、スープ、サラダ。簡素だが整った献立。

 

ローズは椅子に深く座り、パンを齧る。

 

「……みんな食べてないのに自分は食べるのね」

 

クリスタルの声は冷たい。

 

ローズは平然と答える。

 

「僕は全体の統括が仕事だ。僕が倒れる訳にはいかない」

 

そして、付け加えるように言った。

 

「皆を救う責任があるからな」

 

――責任。

その言葉が、ルナの胸に刺さった。

ペルシアの“責任”を、ルナは知っている。

あの人は、責任を言葉にしなかった。行動で背負っていた。

眠らず、走り、怒られ、傷つき、それでも誰かを守ろうとしていた。

 

目の前の男の“責任”は、口の中で砕けるパンみたいに軽く見えた。

 

気づけば、ルナの口が開いていた。

 

「……責任、取る気があるんですか?」

 

空気が止まった。

 

ローズの手が止まる。

咀嚼が止まる。

視線が――ルナに突き刺さる。

 

「……は?」

 

ローズがゆっくり立ち上がった。

 

「今なんて言った」

 

ルナの心臓が暴れる。

怖い。

でも止まれない。

冥王星で泣いて、信じて、裏切られて、それでも立っている。

その“切実さ”が、ルナの声を支えていた。

 

「貴方は責任取る気があるんですか?」

 

ローズの目が細くなる。

 

「お前、僕を馬鹿にする気か?」

 

メノリの声が横から刺さる。

 

「馬鹿にはしていない。貴方の態度がそう見えるだけだ」

 

ローズが叫ぶ。

 

「お前らに何が分かる!!」

 

ルナは震える息を吸い、言った。

 

「私に宇宙管理局の仕事は分かりません。でも、本気で責任を取ろうとしてる人を見る目はあります」

 

ローズの口元が歪む。

 

「素人風情が」

 

「素人でも分かるんです」

 

ルナの声が強くなる。

胸の奥の痛みが、怒りに変わる。怒りの奥には祈りがある。

――お願い、誰かを助けて。

――お願い、失わないで。

その祈りが、ルナを前へ押す。

 

「私が知っている統括官は、こんな事はしません! 自分の身を削っても、本気で責任に向き合い、行動を移していました。貴方にはまるでそれが感じられません!」

 

「お前が知っている統括官は誰だ!!」

 

ローズが机を叩いた。

 

ルナは一瞬だけ目を伏せ、そして真っ直ぐ見上げた。

 

「ペルシアさんです!」

 

その名が落ちた瞬間――

ローズの顔色が変わった。

怒りだけじゃない。焦りと、何か触れてはいけないものに触れられたような怯え。

 

「そいつの名を出すな!!」

 

ローズの叫びが、オペレーションルームを震わせた。

 

「警備員!こいつらを叩き出せ!任務の邪魔だ!」

 

扉の近くにいた警備員が動く。

重い靴音がこちらへ近づく。

ルナの喉が締まり、チャコが一歩前へ出かけ、メノリの目が鋭く細まる。

 

その瞬間――

 

オペレーションルームの扉が、もう一度開いた。

 

静かな音だった。

けれど、室内のざわめきが“それ”に吸い込まれるように止まった。

 

「やれやれ、騒々しいわね」

 

落ち着いた声が響く。

怒号とは真逆の温度。

それなのに、誰もが反射で背筋を伸ばす声。

 

「……相変わらず、せっかちな事で」

 

その声の主は、まだ影の中にいて――

ルナは息を止めた。

 

誰が来たのか。

この場の空気が変わった理由を、身体が先に理解していた。

 

ーーーー

 

泥にまみれた靴底が、床を鈍く叩いた。

オペレーションルームの明るすぎる照明の下で、土の匂いが一瞬だけ立ち上がる。

 

薄汚れた作業着。肩口は擦り切れ、袖口は黒ずんでいる。

帽子の唾は後ろに回され、髪は乱れているのに――背筋だけは、いつものようにまっすぐだった。

 

その女は扉の中央に立ち、全員を見下ろすでもなく、媚びるでもなく、ただ“そこにいる”だけで場を支配した。

 

「久しぶりね、ローズ」

 

不敵な笑み。

軽い挨拶のはずなのに、言葉の端が刃だった。

 

その名を言うまでもない。

ルナも、メノリも、チャコも、そしてクリスタルでさえ、大きく目を見開いた。

 

オペレーションルームの時間が止まった――そう錯覚するほどに、空気が張り詰める。

モニターの警告音さえ、遠くへ押しやられた気がした。

 

ローズの顔から血の気が引き、次の瞬間、激情が戻った。

 

「……ペルシア!」

 

叫びは、怒りと焦りの混合だった。

その一言が合図のように、室内のあちこちで小さな声が漏れる。

 

「ペルシアさんが戻ってきた……」

「ペルシアさんだ……」

「本当に……?」

 

誰もが信じたくて、信じきれなくて、確かめるように視線を重ねる。

 

ペルシアは一度だけ、ルナたちに目を向けた。

その瞳は、以前と同じ――明るくて、やけに人懐っこくて、なのに奥に影を抱えている。

 

彼女はニコッと笑った。

それだけで、ルナの胸の奥が痛む。

“変わらない”が、こんなにも切ないことがあるのかと。

 

クリスタルが何か言いかけた。

「ペルシア、あなた――」とでも言うように唇が動いた、その瞬間。

 

ペルシアは、指一本でクリスタルを静止した。

言葉じゃない。合図だけ。

“今は、黙って見てて”と告げる、あまりにも自然な仕草。

 

次いで彼女は、何事もなかったように大型モニターへ視線を移した。

映し出されているのは、セーシング領域外で途絶した二つの反応――ブルンクリンとブライアンの船、そして救助船の最後の座標。

 

その横でローズが鼻で笑う。

 

「永らく姿を見せなかったと思えば……どこかでのたれ死んだかと思っていた」

 

彼は言葉を飾ったつもりだろう。

だがそれは、品のない勝利宣言にしか聞こえなかった。

 

ペルシアは視線をモニターから外さないまま、淡々と返す。

 

「貴方は随分と“お山の大将”が様になってるわね」

 

柔らかな声。

しかし、毒が綺麗に溶けていた。

 

ローズが一歩前に出る。

その眼差しは“統括官”の威を借りている。

だが、その奥にあるのは明らかな焦りだった。

 

「なるほど……ここに無礼な一般客を呼んだのは、お前の仕業だな?」

 

ローズの視線がルナたちに刺さる。

ルナは息を止めた。

今この瞬間、彼の苛立ちの矛先が向く可能性がある。

 

「宇宙ハンターの件はまだしも……一般人をオペレーションルームに入れるなんて。次は牢獄行きは確実だぞ?」

 

ローズが不敵に笑う。

“脅し”を楽しむ余裕がある、と見せかけたかったのだろう。

 

ペルシアはようやくローズへ身体を向けた。

泥だらけの作業着のまま、堂々とした姿勢で。

 

「流石の僕も、これ以上同期が落ちぶれる様は――あまり見栄えがいいものではないなって思ってね」

 

ローズがわざとらしく言う。

 

ペルシアは口角を上げた。

あくまで、笑みだ。

けれどその笑みは、相手の喉元に刃を当てる形をしていた。

 

「今日は随分とペラペラ喋るわね。久しぶりに“憧れの同期”に会えて興奮してるのかしら? それとも日頃のストレスの発散かしら?」

 

「……っ!」

 

ローズの眉間が歪む。

図星だった。

そして図星を突かれた人間は、必ず“権力”にすがる。

 

そして立て続けにペルシアはニヤッと笑みを浮かべた。

 

「よっぽど私の後釜は荷が重かったようね、統括殿」

 

「逆上せ上がるなよ!」

 

ローズが声を荒げる。

 

「今は俺が統括官だ。ここにいるオペレーターも通信技師も――全て俺の意図のままに動かせる!」

 

机の上の端末が震え、周囲のスタッフが視線を落とす。

従うしかない空気。

命令に逆らえば“責任を取らされる”空気。

 

ローズの声は更に高くなる。

 

「お前の時代は終わったんだ! ペルシア!!」

 

その叫びに、ルナの肩がわずかに揺れた。

思い出してしまう。

ペルシアが自分の身を削って現場を動かしていた姿を。

それを“終わった”の一言で踏みにじられる悔しさを。

 

ペルシアは、首を傾げるように笑った。

 

「確かに統括官の“肩書き”は捨てたけど――宇宙管理局の名までは捨てた覚えはないけど?」

 

その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が変わった。

“肩書き”の話ではない。

“所属”でもない。

この人は、現場を守るために戻ってきた――そう感じさせる確信が滲んだ。

 

ローズが顔を歪めて叫ぶ。

 

「警備員! こいつを追い出せ!」

 

「は、はっ!」

 

警備員が動く。

重い足音。

制服の腕が伸び、ペルシアへ近づく。

 

ルナは反射的に一歩前へ出かけた。

止めたい。

止められるはずがないのに。

 

しかし――

 

「待て!」

 

扉が再び開き、低く落ち着いた声が飛んだ。

 

全員の視線が跳ねる。

オペレーションルームの入口に立っていたのは、白髪混じりの男――局長だった。

 

「彼女は私が呼んだ」

 

ローズが凍りついたように、ゆっくり立ち上がる。

 

「……局長!」

 

怒りと困惑が混ざった声。

 

「どういう事ですか!? ペルシアを呼んだって!? 彼女は懲戒解雇になった筈です!」

 

その言い方は、まるで“確認”じゃない。

“攻撃”だった。

自分の立場を守るための。

 

局長はわざとらしく顎に手を当て、首を傾げた。

 

「懲戒解雇?」

 

間を置き、淡々と告げる。

 

「ペルシアに言い渡した処分は無期限停職だ。 そして期限が終わったから呼び戻したんだ」

 

ローズの口が半開きになる。

 

「し、しかし――!」

 

食い下がろうとするローズに、ペルシアが口を挟む。

 

「そうそう! 私は一年の休暇――じゃなくて停職になったのよ!」

 

その言い方が、あまりにも“ペルシアらしい”軽さで、室内に一瞬だけ奇妙な間が生まれた。

だが局長はその間を、冷たい刃で切った。

 

「おかしいな。懲戒解雇という冗談は、ペルシアにしか伝えてない筈だ」

 

ルナの喉が鳴る。

“冗談”という言葉が、ここでこんなに重い。

 

ペルシアはローズを真っ直ぐ見たまま続けた。

 

「全て知ってるのよ。貴方が局長室に盗聴器を仕掛けていたことも、調べがついているわ」

 

「何のことだ!」

 

ローズが叫ぶ。

叫びは、否定というより“拒絶”だった。

真実に触れられたくない拒絶。

 

ペルシアはポケットから小さな録音機を取り出した。

それを指で弾くように見せる。

――カチ、と微かな音。

 

「貴方、リークする記者ぐらい選びなさいよ」

 

ペルシアの声は静かだ。

静かすぎて、逆に怖い。

 

「どこで誰が聞いてるか分からないのに……ペラペラと喋っていたわよ」

 

局長も頷く。

 

「私も既に確認済みだ」

 

ローズの目が泳ぐ。

目の前の“証拠”と、“局長の承認”が同時に突き付けられた。

 

「そ、そんな……」

 

膝から力が抜ける音がした。

ローズの身体が、ゆっくり床へ沈んでいく。

統括官の椅子から降りるのではない。

“落ちる”。

 

周囲のオペレーターが息を呑む。

誰も助けない。

助ける必要がない。

今この場にいる全員が、彼の叫び声に削られていたのだから。

 

ペルシアは倒れたローズを見下ろし――ほんの少しだけ、寂しそうな顔をした。

だがそれは一瞬で消え、いつもの笑みに戻る。

 

「やっぱり貴方には荷が重かったようね、ローズ」

 

ローズが唇を震わせる。

言い返せない。

言い返せる材料がもうない。

 

ペルシアは肩をすくめた。

 

「ま、私にはどうでもいいけど」

 

その言葉が落ちた瞬間――

オペレーションルーム全体の空気が、ようやく“呼吸”を思い出したように動いた。

 

局長が一歩進み出る。

 

「……さて」

 

その声に、全員の視線が自然と集まる。

誰もが、理解している。

 

ここからが本題だ。

ブライアンとブルンクリンを救うための“本当のオペレーション”が始まる。

 

 

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