サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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緊張感

格納庫に足を踏み入れた瞬間、リュウジは空気の温度が変わるのを肌で感じた。

金属の匂い、燃料の微かな揮発臭、工具の油、冷却材。ざわめきはあるのに、雑音ではない。誰もが同じ一点へ意識を向けて動いている、あの独特の“現場の音”だった。

 

宇宙船アルテミスへ向かう通路には、整備士たちが蜘蛛の巣のように張りついている。外装パネルの継ぎ目を指でなぞる者、ケーブルの接続を覗き込む者、脚部のハイドロを叩いて反響を聞く者。

慌ただしいのに、焦りは見えない。焦ると壊す。だからこそ、速度は上げても手順は崩さない――整備士という生き物は、そうやって宇宙船の命を守る。

 

そしてその中央に鎮座する、銀白の機体。

アルテミス。

 

機体の腹は滑らかな曲線を描き、補強フレームの走り方が美しい。角がなく、尖りすぎてもいない。どこか、人間の身体の動きに寄り添う形をしている。

それは見栄えのためじゃない。機能のためだ。現場で使う船は、使う者の呼吸と合っていなければならない。

 

リュウジは思わず呟いた。

 

「……いい船を造ったな、サツキ」

 

言葉が空に溶ける前に、頭上で警告灯が一度だけ点滅し、整備士が片手を上げて通路を空けた。

「通るぞ」ではなく、「通ってくれ」という合図だ。整備士はパイロットに道を譲るのではない。船に入るべき者に道を譲る。

その差を、リュウジは知っている。

 

タラップはゆっくりと上がった。

金属の段に足を乗せるたび、ブーツの底が鈍い音を返す。

一段、二段。

そのたびに、胸の奥が静かに締まっていく。

 

扉が開き、宇宙船内へ。

 

最初に目に入ったのは備蓄スペースだった。

壁面に固定されたコンテナ、バンド、緊急用の食糧と水、簡易保温装置。ついさっきまで“机の上の数字”だったものが、ここでは現物として呼吸している。

次に医療スペース。医療用モジュールが展開できるように床面が補強され、照明は影を作りにくい配置になっている。

さらに個室――狭いが、寝返りが打てる。プライバシーのための隔壁が薄すぎず、厚すぎない。

長期化も想定している設計だ。

 

だが、リュウジがもっとも気に入ったのは、そこではなかった。

 

動線。

床面にわずかな誘導ラインが刻まれ、非常灯の位置は視界に入る角度に配置されている。扉の幅が絶妙で、担架が引っかからない。曲がり角には死角ができないようにパネルが斜めに落とされ、もし煙が出ても人の流れが滞らない。

 

“人を生かすための造り”だった。

 

リュウジは足を止め、ぽつりと言った。

 

「……随分と考えたんだな」

 

設計者がどんな顔をして図面を引いたのか、想像できる気がした。

サツキは派手な言葉を言うタイプじゃない。だが、その分、形に出る。形にしてしまう。

だからこの船は、言葉より雄弁だった。

 

操縦室へ足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わる。

計器の光、モニターの低い唸り、稼働するシステムの熱。

 

副操縦席では、すでにチャコがシステムにジャックインしていた。彼女は背中でリュウジの気配を受け、目を閉じたまま呟く。

 

「なんや、もう来たんか」

 

「ああ。悪かったな。急に捜索任務に指名して」

 

リュウジは操縦席に腰を下ろし、計器類を確認しながら言った。

座った瞬間、椅子のフィット感が妙に自然で、わずかに眉が動く。機体と身体の相性がいい。

こういう“合う船”は、操縦の入り口から違う。

 

チャコが口を尖らせる。

 

「ほんまやで。本当は行きたくないんやけどな」

 

「……だろうな」

 

「せやけど、ルナに頼まれてもうたさかい、仕方ないやろ」

 

リュウジの指が一瞬だけ止まった。

モニターに映るチェックリストの文字が、ほんのわずかに滲で見えた気がした。

気のせいだ。今の自分は、見えている。見えるようになった。

それでも――“ルナ”という音は、胸の一番柔らかい場所を叩く。

 

「……ルナに?」

 

「せや。『リュウジを手伝ってあげて』やて」

 

チャコが肩をすくめ、わざとらしくため息をつく。

 

「お人好しにもほどがあるで。裏切られた思うてたリュウジに手を貸せ言うんやから」

 

リュウジは計器の確認を続けながら、低く言った。

 

「ルナには……ちゃんと謝る」

 

「ウチらにもや!」

 

「……分かってる」

 

チャコはニヤリとし、乗せるように言う。

 

「帰ってきたら、極撰のジュース、ぎょうさん買うてもらうで」

 

「一箱届けてやる」

 

「足らへんやろ。何のためにアルバイトしてん」

 

「極撰を買うためじゃない」

 

「そないケチケチせんと。ええやろ」

 

チャコの軽口が操縦室にほどよい空気を作る。

緊張はある。だが張り詰めすぎた糸は切れる。

チャコはそれを分かっている。彼女はいつだって、現場の空気を“生きた形”に整えてきた。

 

チャコが指を鳴らす。

 

「よっしゃ! チェック完了や。システム正常! リュウジはどうや?」

 

「こっちも異常はない。完璧だ」

 

「それにしても、ええ宇宙船やな」

 

「ああ……妙にしっくりくる」

 

「さすがサツキやな」

 

チャコがジャックを外し、立ち上がる。

 

「ほなウチは機械室、見てくるで」

 

「分かった。俺は宇宙服に着替えてくる」

 

リュウジが言うと、チャコは片手をひらひら振って操縦室を出ていった。

 

 

宇宙服に袖を通すとき、リュウジは一瞬だけ息を止めた。

布の重みではなく、覚悟の重みが肩に乗る。

何度も着てきたはずなのに、今日は違う。

 

“戻ってきた”その日だ。

戻ってきた瞬間に、また命を背負う。

 

着替え終え、タラップを降りる。

格納庫のフロアに出ると、すぐに視線がぶつかった。

 

クリスタル。

 

彼女は医療資機材の最終チェックを終えたところらしく、手袋を外しながらリュウジを見上げた。

表情は淡いが、瞳だけが確かに笑っている。

 

「まさか本当にS級を取って戻ってくるなんてね」

 

「疑ってたのか?」

 

「いいえ。リュウジなら成し遂げると思ってたわ」

 

あっさりとした肯定が、逆に胸を刺す。

信じられていたのに、信じる人たちを傷つけた。

それを思うと、喉の奥が乾く。

 

「……色々と悪かったな」

 

「いいのよ」

 

クリスタルはすぐに続けた。

 

「それよりも、ちゃんと覚悟しときなよ」

 

「覚悟?」

 

リュウジが眉を上げると、クリスタルはにやりと笑った。

 

「ま、そのうち分かるわよ」

 

その言い方が、妙に怖い。

そして同時に、妙に優しい。

“逃げるな”とも、“受け止めろ”とも取れる声音だった。

 

そこへ、整備士の一人が近づいてきた。

油の匂いをまとい、額に汗。目が鋭い。

ミゲルだ。

 

「久しぶりだな、リュウジ」

 

「ミゲルさん。ご無沙汰しています」

 

リュウジが軽く会釈すると、ミゲルは鼻で笑った。

 

「まったく。お前が操縦するって聞いて、急ピッチで仕上げてる。もう少し待ってろ」

 

「ありがとうございます」

 

「任せとけ」

 

ミゲルはそう言って、また宇宙船へ向かって走り出した。

整備士たちの間を縫うように走る背中は、まるで“戦場”へ戻る兵士みたいだった。

 

クリスタルが小声で言う。

 

「随分と仲いいのね」

 

リュウジが答える前に、別の声が割って入る。

 

「そりゃ、整備士の意見を聞くような珍しいパイロットは好かれるもの」

 

軽口。なのに妙に芯がある。

 

振り向くまでもない。

その声は、ペルシアだった。

 

「久しぶり、リュウジ」

 

ペルシアは制帽を被り、制服を着ている。

その姿は“副パーサー”というより、完全に“指揮官”だった。

軽口を叩きながら、背中に責任を背負っている。

 

リュウジはわずかに目を細め、微笑む。

 

「……ペルシア」

 

言葉は短い。

それだけで互いに十分だった。

 

ペルシアが腕時計を見る。

 

「出発まであと五分。準備はできてる?」

 

「問題はない。だが少し外す」

 

「どこ行くの?」

 

クリスタルが怪訝そうに言うと、リュウジは視線を逸らさず言った。

 

「すぐ戻る」

 

そう言い残し、歩き出した。

 

ペルシアが背中に向かって吐き捨てる。

 

「勝手な奴め」

 

クリスタルが苦笑いする。

 

「ペルシアがそれを言うか」

 

「うるさい」

 

言い返すペルシアの口元は、ほんの少しだけ上がっていた。

こういうやり取りができる時点で、彼女は“戻ってきた”のだ。

 

その時、タラップからチャコが降りてきた。

整備士の間をぬいっと抜ける。どこか自分の庭みたいな顔で。

 

「ペルシア。こっちは準備完了や」

 

「ありがとう、チャコ」

 

ペルシアが言うと、別方向からミゲルの声が響いた。

 

「こっちも最終チェック完了だ! なんとか一時間、零さなかったぜ!」

 

「流石ね、ミゲル」

 

ミゲルは鼻を鳴らし、整備士たちへ指示を飛ばしながらまた走っていく。

 

ペルシアはふと、遠くを見つめた。

視線の先は格納庫の入り口。

そこに何かを待つ気配があった。

 

「……後は……来るかな」

 

呟きが漏れた瞬間、チャコが首を傾げる。

 

「誰を待ってるんや?」

 

「え?」

 

ペルシアが一瞬言葉に詰まり、そして――目を見開いた。

 

「あ……来たわよ!」

 

声が弾む。

その弾み方は、まるで“時間が間に合った”ことを全身で喜ぶみたいだった。

 

格納庫の奥。

赤い髪のポニーテールを激しく揺らしながら、こちらへ走ってくる女性がいる。

走り方が乱暴で、でも必死で、でもどこか誇りがある。

靴音が格納庫の床に響き、息が切れているのに足を止めない。

 

彼女はペルシアの前でやっと立ち止まり、膝に手を置いて呼吸を整えた。

顔を上げる。汗で前髪が額に張りついている。

 

「ペルシアさん……お待たせしました!」

 

声が震える。疲れではない。間に合った安堵と、ここから始まる恐怖と、全部が混ざった震えだ。

 

ペルシアは腕時計を見て、ニヤリと笑う。

 

「出発三分前。ギリギリセーフね」

 

「すみません! 確認に手間取って……」

 

「いいのよ。間に合ったなら、それで十分」

 

ペルシアはその女性の肩を軽く叩いた。

その叩き方は、叱責じゃない。

「よく来た」という合図だった。

 

チャコが小声で呟く。

 

「……ほぉ。やっと揃ったって顔しとるな、ペルシア」

 

クリスタルも静かに頷いた。

誰が来たのか、ルナたちはまだ知らない。

けれどこの場の空気が、彼女の到着を“必要なピース”として受け入れているのが分かる。

 

ーーーー

 

出発直前の格納庫は、奇妙な熱を帯びていた。

整備士たちの足音が絶え間なく響き、機体の外装を叩く乾いた音、工具が金属に触れる高い音、チェックシートを読み上げる声が波のように行き交う。アルテミスの腹の下では最後のパネル固定が行われ、補助灯の光が白い船体を冷たく照らしていた。

 

その周りに、いつの間にか人が集まり始めていた。

管制スタッフ、整備班の残り、備蓄庫担当、医療資機材の搬入を手伝った者たち。誰も大声では喋らない。だが誰もが目で同じものを追っている。

「飛ぶ」という現実が、数字や手順を越えて、空気そのものになっていた。

 

タラップの前には四人が並んでいた。

制帽を被ったペルシア。白衣の上に軽装のアウターを羽織ったクリスタル。工具袋を肩から斜めに掛けたチャコ。

そして、赤い髪をポニーテールに縛り、背筋をぴんと伸ばした若い女性

 

ペルシアは周囲を見回し、口元だけを軽く上げた。

 

「流石にマスコミはいないわね。ちょっと寂しい」

 

クリスタルが呆れたように息を吐く。

 

「呑気すぎ。急遽決まった運航だもん。嗅ぎつける暇もないでしょ」

 

「それもそうか」

 

ペルシアはあっさりと納得し、次の瞬間にはもう別のことを考えている顔になった。切り替えの早さが、彼女の怖さでもあり頼もしさでもある。

 

チャコがククルを横目に見ながら、遠慮なく聞いた。

 

「それでペルシア。この子は誰なんや? タラップ前におる時点で、もう“仲間”みたいな顔しとるけど」

 

「そもそも四人で行くんじゃなかったの?」

 

クリスタルも首を傾げる。二人の疑問は当然だった。リュウジは“連携が乱れるのが嫌”と言い切った。少数精鋭で行くと。そこに、追加の一人。

 

ペルシアは、さらりと答えた。

 

「ククルよ」

 

ククルは反射的に背筋を伸ばし、深く頭を下げた。

 

「ククルです。よろしくお願いします」

 

「よろしくね」

 

クリスタルが柔らかく返すと、チャコも腕を組んだまま口角を上げる。

 

「よろしゅう頼むわ。……で、ほんまにええんか?」

 

「何が?」

 

ペルシアがわざとらしく瞬きをする。

 

クリスタルが言葉を継いだ。

 

「ククルが一緒に行くこと、リュウジに言ってあるの? リュウジ、あれだけ“余計な人間を連れていくと連携が乱れる”って」

 

チャコも頷く。

 

「許可ないまま乗せたら、操縦席で揉めるで。揉めてる暇なんかない状況やのに」

 

ペルシアは肩をすくめ、諦めたような表情で告げた。

 

「私も止めたんだけどね。どうしても連れてけってククルが言うから」

 

ククルは拳を握りしめた。表情は真剣で、いつもの明るさの奥に、硬い決意が見えた。

 

「……それ、ちゃんと理由あるんだよね」

 

クリスタルが問うと、ペルシアは一瞬だけ視線を逸らした。

逸らしたというより、頭の中で“その場面”を引き出したのが分かった。

 

「理由なら、十分すぎるほどね」

 

ペルシアはそう言って、短く息を吐いた。

格納庫のざわめきの中で、彼女の声だけが妙に澄んで聞こえた。

 

 

少し前。

ペルシアがブルンクリンとブライアン一行の家族へ説明を終え、オペレーションルームへ戻ろうとした廊下でのこと。

 

宇宙管理局本部の廊下は、光が冷たい。歩く靴音がやけに響く。

あちこちで止まらない通信、紙束を抱えて走るスタッフ、顔色の悪いオペレーター。空気は常に薄い緊張で満ちている。

 

そこで、ククルが声を張った。

 

「ペルシアさん!」

 

ペルシアは振り返り、ククルの隣にいた男性にも軽く会釈した。

スーツ姿。会社の人間だ。恐らくハワード財閥側の調整役。ククルが“勝手に来た”わけではない、ということが一目で分かる。

恐らくハワード財閥の旅行会社から派遣しているチーフパーサーとエリンがいるので、会社としても参加していたのだろう。

 

「どうしたの、ククル?」

 

ククルは一歩前へ出て、深々と頭を下げた。

 

「私も今回の救出任務に参加させてください!」

 

「は?」

 

ペルシアの声が素で出た。

冗談に聞こえなかった。ククルの頭の下げ方が、軽いお願いではなく“命を賭けた懇願”のそれだったからだ。

 

「お願いします!」

 

二度目の頭。さらに深い。

ペルシアは眉を寄せ、声の温度を一段落とす。

 

「ククル。今回の救出任務がどういうものか分かってる?」

 

「分かっています!」

 

ククルは顔を上げる。目が濡れてはいない。だが、揺れている。

怖い。怖いに決まっている。セーシング領域外、未知の粉塵、通信断。救助に向かった船まで航行不能。

それでも、引かない。

 

ペルシアはククルの隣の男性へ視線を向けた。

 

「会社側は問題ないんですか?」

 

男性は言葉を選びながら答える。

 

「会社から正式に許可が出ない限りは……」

 

ペルシアは困ったように口元を歪め、ククルへ言った。

 

「気持ちは嬉しいけど、今回は諦めなさい」

 

そう言い残し、踵を返した――その瞬間。

 

「今回の救出任務は人数が少ないです」

 

ククルの声が背中に刺さる。

ペルシアは足を止め、ゆっくり振り返った。

 

ククルは続ける。

 

「リュウジさんとの通信、全部聞こえてました。ペルシアさんでも、無線通信と船内の把握に加えて、コックピットコンディションまで一人でこなすのは無理です!」

 

言い切った。

胸の奥に溜めていたものを、一気に吐き出したような声だった。

 

ペルシアの表情は変わらない。

変わらないまま、歩み寄った。

 

一歩、二歩。

距離が詰まるたび、ククルは無意識に息を止めた。

叱責が来る。そう身構えたのが見えた。

 

だがペルシアは、ふっと不敵に笑い、低い声で言った。

 

「私も舐められたものね。ドルトムントの時、エリンやあなた達、乗客を支えたのは誰だったかしら?」

 

ククルは即答した。

 

「それはパイロットと乗務員全員の力です!」

 

その言葉に、ペルシアは目を細めた。

そして、ククルの顎に指先をそっと乗せる。強引ではないが、逃げられない距離。

 

「……随分と言うようになったじゃない」

 

ククルは震えない。

顎に指が触れているのに、目を逸らさない。

その“逸らさない強さ”を、ペルシアは確かに見た。

 

ペルシアは指を離し、短く呟いた。

 

「分かった」

 

ククルの顔がぱっと明るく灯る。

だがペルシアはすぐに釘を刺した。

 

「ただし、あと三十分でちゃんと会社から許可が降りたらね」

 

「分かりました! 必ず説得します!」

 

男性が青ざめる。

 

「ほ、本気か!?」

 

「本気です!」

 

ククルは即答した。

ペルシアは肩をすくめ、半ば呆れ、半ば楽しそうに言った。

 

「それじゃあ頼んだわよ」

 

 

「そんなことがあったのよ」

 

格納庫の現在へ戻って、ペルシアは淡々と語り終えた。

 

チャコが口を大きく開けて笑う。

 

「元気少女やなぁ。そら勢いで乗り込むわ」

 

「でも明るくなっていいじゃない」

 

クリスタルはククルを見て微笑んだ。

緊張の場に、明るさは“軽さ”ではない。“息継ぎ”になる。

 

ククルは胸を張る。

 

「任せてください! 船内を明るくするのは私の役目ですから!」

 

「ちなみに走ったりしたら足を引っ掛けるからね」

 

ペルシアが即座に刺す。

 

「ええ!?」

 

ククルが素で驚き、チャコがまた笑う。

クリスタルも口元を押さえて肩を揺らした。

 

その瞬間、格納庫の空気が少しだけ柔らかくなった。

それでも、出発の時刻は容赦なく近づく。

 

――そして、出発時間。

 

アルテミスの外部灯が点滅し、搭載物資の最終固定が終わった合図が鳴った。

整備士たちが退避ラインへ下がる。

タラップの脇で待機していたスタッフが、時計を見て頷く。

 

それなのに。

 

肝心の男がいない。

 

最初の一分は、誰も何も言わなかった。

二分目も、ペルシアは耐えた。

三分目で、ペルシアの眉間の皺が深くなる。

そして五分――

 

ペルシアの堪忍袋が切れた。

 

「……あのバカはどこに行ってるのよ!」

 

格納庫のざわめきが、一瞬だけ止まった気がした。

整備士たちが一斉に“聞こえないふり”をする。プロの技だ。

 

クリスタルが手を上げて宥める。

 

「まぁまぁ。何かあったんでしょ」

 

「せっかく時間厳守で進めたのに!」

 

ペルシアは時計を叩くように指差す。

“時間に厳しい”のではない。“命に厳しい”のだ。遅れは、誰かの呼吸を削る。

 

チャコも首を傾げた。

 

「なんかあったんやろか……」

 

ククルが勢いよく一歩前へ出た。

 

「私、見てきます!」

 

その瞬間だった。

 

格納庫の入り口の方から、のんびりした足音。

そして現れたのは――紙袋を抱えて歩いてくるリュウジだった。

 

まるで、散歩帰りみたいな顔で。

 

ペルシアの目が細くなる。危険な細さだ。

 

「待たせたな」

 

「遅い!!」

 

ペルシアの声が跳ね上がった。

 

「すぐ戻るって言ったでしょう!!」

 

リュウジはきょとんとした顔で首を傾げる。

 

「……悪かった」

 

悪いとは思っているらしい。だが深刻さが足りない。

ペルシアのこめかみに血管が浮いた。

 

クリスタルが間に割って入る。

 

「まぁまぁ、それよりどこ行ってたの?」

 

リュウジは紙袋を持ち上げる。

 

「ああ。ちょっとコーヒーを買ってきた」

 

「は?」

 

チャコの声が裏返った。

 

「え?」

 

ククルも同時に固まった。

 

ペルシアは一拍置いて、真顔のまま言った。

 

「……あなたね。バカなの? バカなの?」

 

二回言った。

二回言うのは、彼女なりの“最終警告”だ。

 

リュウジは涼しい顔で返す。

 

「俺にとっては必需品だ」

 

ペルシアが額を押さえた。

 

「ははーん、店が混んでて遅れたのね」

 

「そうだ」

 

「……没収!」

 

ペルシアは紙袋をひったくるように取り上げた。

 

「あ、おい!」

 

リュウジが手を伸ばすが、ペルシアは一歩引いて避ける。

 

「私にも寄越しなさい!」

 

「なっ!?」

 

「勝手な奴だ」

 

リュウジが呟くと、クリスタルが笑った。

 

「お互い様よ」

 

チャコが肩をすくめる。

 

「ほな行こうか。……って、緊張感どこ行ったんや」

 

ククルが慌てて頷く。

 

「はい! 予定より遅れましたけど、戻って来て良かったです!」

 

リュウジがククルを見て、ようやく状況を飲み込んだように眉を上げた。

 

「……ククルも行くのか?」

 

ククルは背筋を伸ばして頭を下げる。

 

「はい! よろしくお願いします!」

 

リュウジは一瞬だけ黙った。

“連携が乱れる”と言った男だ。

許可していない追加メンバー。

その一瞬の沈黙に、クリスタルとチャコは息を止める。ペルシアは微動だにしない。

 

だがリュウジは、あっさりと口を開いた。

 

「……よろしく頼む」

 

短いが、拒絶ではない。

ククルの目がぱっと輝いた。

 

その瞬間、ペルシアが紙袋の中を覗き込み、声を上げた。

 

「あ! スコーンもあるじゃない!」

 

「それは俺のだ!」

 

リュウジが即座に叫ぶ。

 

チャコが呆れた声を出す。

 

「ホンマ緊張感ないなぁ……」

 

クリスタルとククルが同時に笑ってしまう。

笑ってから、ハッとして口を押さえる。

だが、その笑いは不謹慎ではなかった。

むしろ、全員が“今から地獄へ行く”ことを理解しているからこそ、一瞬の温度が必要だった。

 

ペルシアはスコーンを一つ取り出し、わざとゆっくりと袋を揺らした。

 

「ねえリュウジ。出発前に糖分、いるでしょ?」

 

「いるが……それは俺のだ」

 

「はいはい。じゃあ半分ね。統括官命令」

 

「統括官はお前じゃないだろ」

 

「細かいこと言わない。どうせ今から私も一緒に乗るんだから」

 

リュウジは小さく息を吐いた。

その息は“諦め”に見えて、どこか“安心”にも見えた。

この場にいる誰もが、無茶をする。だが無茶をする者同士は、互いの無茶を計算に入れて動ける。

 

ペルシアが制帽のつばを指で弾き、声を張った。

 

「さぁ、乗り込み。遊びはここまでよ」

 

一瞬で空気が締まる。

チャコが先にタラップへ向かい、クリスタルが医療資機材の固定を最終確認しながら続く。

ククルは緊張で喉が鳴るのをこらえ、拳を握ってからほどいて、呼吸を整えた。

リュウジは紙袋の行方を諦めた顔で、しかし足取りだけは迷いなくタラップへ向かう。

 

タラップの段を踏む音が、格納庫に重く響いた。

整備士たちが見送る。

彼らは声援を飛ばさない。縁起のいい言葉も、軽々しく言わない。

ただ、目で言う。

“頼む”と。

“帰ってこい”と。

“船を、生きて返せ”と。

 

アルテミスの扉が開き、船内の灯りが彼らを飲み込んでいく。

さっきまでの笑いは、ちゃんと胸の奥へ仕舞われた。

代わりに残ったのは、揺るがない手順と、やり切る覚悟。

 

そして――その覚悟の中心に、相変わらず紙袋を抱えたまま、ペルシアがちゃっかり歩いている。

 

「コーヒー、あとで返してあげるから」

 

「返すと言ったな?」

 

「言ったわ」

 

「ほんとだな」

 

「……たぶんね」

 

「おい」

 

小さな突っ込みが船内に転がり、ククルが思わず噴き出しそうになるのをこらえる。

クリスタルが肩を揺らして笑いを飲み込み、チャコが低い声で言った。

 

「ほんま、どこまで行ってもあんたらは……」

 

リュウジが操縦室へ向かいながら、ぽつりと返す。

 

「……こういうのがないと、逆に落ち着かない」

 

その言葉に、ペルシアが一瞬だけ振り返り、目だけで笑った。

 

格納庫の外部スピーカーが鳴る。

出発シーケンス開始。

エアロック閉鎖。

エンジン起動準備。

 

アルテミスは、静かに息を吸う。

そして次の瞬間には――未探索領域へ、救いに行くための獣になる。

 

ーーーー

 

タラップの下、格納庫の空気がいよいよ“出発”の形に固まりつつあった。

 

アルテミスの外装灯が規則正しく点滅し、整備班が最後の確認のために船体の腹を見上げている。工具の金属音はもうほとんど消えて、残っているのは靴音と、遠慮がちに交わされる短い報告だけだった。誰も長く喋らない。喋ると、緊張が声の震えになってしまうから。

 

タラップ前には、さっきまでの軽口が嘘みたいに、四人の背中が揃っていた。

 

ペルシアは制帽を正し、クリスタルは医療バッグの肩紐の位置を確かめ、チャコは機械室に繋がる端末の最終ログを手元の端末で確認している。ククルは深呼吸を一つして、背筋を伸ばした。緊張で指先が少し冷たい。それでも、目は揺れていなかった。

 

そしてその一歩後ろ、リュウジが静かに立っていた。

 

宇宙服の襟元を整えながら、目だけで船体を見上げる。アルテミスは、ネフェリスみたいに“人の神経”を読み取る船じゃない。だがその分、余計な癖がない。動線も視界も、まっすぐに設計されている。操縦者の精神が揺れれば、そのまま揺れが操縦に出る船だ。

 

だからこそ、リュウジの目は静かだった。静かで、鋭い。戦場へ行く目だ。

 

「……」

 

声を出さずに、呼吸だけ整える。そのとき。

 

格納庫の奥から、ゆっくりとした足音が近づいてきた。誰かが歩いているというより、空気が“人を通す”感じがする。皆が自然に道を開けた。

 

そこに現れたのは局長だった。

 

局長は、いつもより少しだけ表情が硬い。口元の皺が深く、目の下に疲労が乗っている。それでも歩幅は一定で、逃げない人間の歩き方だった。ペルシアが一瞬だけ視線を向け、軽く顎を引く。局長はそれに頷き返し、タラップ前で足を止めた。

 

「間に合ったか」

 

局長が短く言うと、ペルシアが肩をすくめた。

 

「どうにかね。遅刻魔がいたけど」

 

リュウジが咳払いひとつで誤魔化す。クリスタルが小さく笑い、チャコが「ほんまやで」と呟く。ククルは笑っていいのか分からず、唇を噛みそうになった。

 

局長はそんなやり取りを眺め、次の瞬間、声のトーンを変えた。冗談を挟まない、現場の声になる。

 

「……今回の件、簡単な救助じゃない。分かっているな」

 

ペルシアが即答する。

 

「分かってる。だから行く」

 

局長の視線が、今度はリュウジへ移る。真正面から、逃げ道のない角度で。

 

「リュウジ」

 

呼ばれた瞬間、格納庫の空気がさらに一段、重くなる。リュウジは局長の前で立ち止まり、僅かに頭を下げた。

 

「局長」

 

局長は一拍置いてから言った。労いというより、覚悟を共有する言葉だった。

 

「戻ってきてくれて助かる。……君の復帰は、局としても重い決断だった。君自身にとってもな」

 

リュウジは黙って頷く。あまりにも多くを背負いすぎて、簡単な返事では割に合わない。

 

局長は続けた。

 

「君は、英雄として見られる。だが今日は英雄でなくていい。ここにいる誰も、英雄なんて求めていない」

 

局長が一人一人に視線を配る。ペルシア、チャコ、クリスタル、ククル。最後にもう一度リュウジ。

 

「……全員で生きて帰ってこい。それだけだ」

 

言葉は短いのに、その場にいる全員の肺を押すほどの重さがあった。

 

ペルシアが口角を上げる。

 

「了解。局長、言質取ったわよ。生きて帰ってきたら、休暇もらうから」

 

局長は苦笑した。

 

「好きにしろ。――ただし、生きて帰ってきたら、だ」

 

「当然」

 

ペルシアが言い切る。チャコが「そらそや」と頷き、クリスタルは医療バッグを握り直す。ククルは喉を鳴らしそうになるのをこらえて、背筋をさらに伸ばした。

 

局長は最後に、声を落として言った。

 

「……行ってこい」

 

その瞬間、タラップ前に立つ四人と、そこに続くリュウジの背中が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。誰かが背中を押したのではない。背中を押さなくてもいいほどの覚悟に、局長が“確認の印”を押しただけだ。

 

「行くわよ」

 

ペルシアが一歩、タラップへ足をかける。金属の段が小さく鳴った。

 

その音を合図に、クリスタル、ククル、チャコが続く。彼らの宇宙服が擦れる音が、格納庫の静けさを裂く。

 

リュウジが最後にタラップへ向かう。

 

そのときだった。

 

格納庫の外、退避ラインの向こう側。整備班や管制スタッフ、関係者が集まっている人混みの中に――一瞬、光の粒のように見えた。

 

ルナ。

 

見間違えるはずがなかった。

髪は以前より少し伸びていて、光が当たると柔らかく揺れる。制服ではない。私服の上に薄手の上着を羽織っている。顔色は良くない。目元が赤い。泣いた跡が、隠しきれていない。

 

 

ルナは、まっすぐこちらを見ていた。

見つけた瞬間に駆け出しそうな勢いを、必死に堪えながら。

 

リュウジの足が、ほんの僅かに止まる。

 

胸の奥に、昨日の怒鳴り声が刺さる。

「嘘つき」「大っ嫌い」

それなのに、ルナの目には怒りだけじゃない。恐怖も、祈りも、願いも、全部が混ざっている。

 

ルナも気づいた。

彼の視線を受け止め、唇が僅かに震えた。

 

何か言いたい。

言えばいいのに。

叫べばいいのに。

でも叫べない。ここは現場で、出発直前で、彼女の声一つで誰かの手順が乱れる。それを分かっている。

 

だからルナは、声ではなく目で言った。

 

――行くの?

 

リュウジも目で返す。

 

――行く。

 

ルナの瞳が潤む。頬に涙が落ちそうになるのを、下唇を噛んで止める。

そして、ほんの少しだけ顎を上げた。強がりの仕草。ルナらしい。

 

――帰ってきて。

 

その目の言葉が、痛いほどに伝わる。

 

リュウジは一瞬、胸が詰まった。

謝りたい。

説明したい。

遅すぎた言葉を全部並べたい。

 

でも今は、それをする場所じゃない。

 

彼はただ、ほんの僅かに口元を緩めた。

笑顔というより、“誓い”の形だった。

 

――帰る。

 

ルナが、目を見開く。

そのまま小さく頷いた。

言葉にすれば崩れてしまう感情を、頷き一つで抱えたまま。

 

リュウジは視線を切り、タラップへ足を乗せた。

金属が鳴る。

それが、二人の会話の終わりの合図みたいに響いた。

 

扉が開き、アルテミスが彼を飲み込む。

 

「閉鎖」

 

船内から声が飛ぶ。

エアロックが閉じる。

外の音が薄くなる。

格納庫の世界が、ガラス越しの映像みたいに遠ざかる。

 

そして、出発シーケンスが始まった。

 

外部スピーカーから無機質なアナウンスが流れる。

 

「アルテミス、発進準備。周辺退避確認。離脱開始」

 

船体の下から、低い振動が伝わる。

最初は呼吸のような小さな振動。次第に、それが“意思”を持った揺れになる。

アルテミスが目を覚ます。

 

ルナは退避ラインの向こうで、拳を握っていた。

握りすぎて爪が食い込み、痛い。痛いほうがいい。痛くないと、足が崩れてしまいそうだった。

 

隣に、メノリが立っている。

いつもなら眉間に皺を寄せて何か言いそうなのに、今は黙って前を見ている。目は細い。怒っているのか、祈っているのか、判別がつかない顔。

 

アルテミスが、ゆっくりと浮く。

 

格納庫の床から少しだけ離れた瞬間、周囲から小さなどよめきが漏れた。

歓声ではない。安堵でもない。

“始まってしまった”という、静かな恐れの音だった。

 

船体が前へ滑るように進む。

誘導灯が点滅し、管制の指示が飛び、整備班が最後まで目で追う。

そして、格納庫の扉が開き、アルテミスは外の闇へ向かっていく。

 

白い船体が、光の中から消えかけたとき。

 

ルナは、思わず一歩だけ前へ出た。

背中を誰かに引かれたように。

 

「ルナ」

 

メノリが低い声で呼ぶ。止める声ではない。支える声だ。

 

ルナは息を吸い、ようやく吐いた。

 

「……行っちゃった」

 

「行ったな」

 

メノリの返事は短い。

短いのに、何故か救われる。

“行っちゃった”と“行ったな”の間に、現実が固定される。

 

アルテミスが格納庫外へ消え、扉がゆっくり閉まり始める。

その光景を最後まで見届けてから、ルナはようやくメノリを見た。

 

「メノリ」

 

「なんだ」

 

ルナは言葉を探した。

口を開けば、泣いてしまう。泣いてしまえば、昨日の自分がさらに惨めになる気がした。

 

「……私、ひどいこと言った」

 

メノリはすぐに否定しなかった。

いつもなら「気にするな」とか「当然だ」とか言いそうなのに、メノリは一度だけ目を伏せた。

 

「言ったな」

 

「うん。大っ嫌いって……」

 

ルナの声が震える。

メノリは、そこでようやく口を開いた。

 

「言葉は刃物だ。」

 

「……分かってる」

 

「だが、刺された側が悪いときもある」

 

ルナが顔を上げる。

メノリの目が、少しだけ柔らかい。

 

「今回の件は、ルナが悪いわけじゃない。ルナ。あいつが説明しなかった。それだけだ」

 

「でも……私が信じられなかったみたいで……」

 

ルナは唇を噛む。

信じたかった。信じたかったのに、信じるための材料がなかった。

祈りだけで耐えるのは、あまりにも苦しかった。

 

メノリは、ルナの横顔を見て言う。

 

「信じるってのは、相手に委ねることじゃない。自分の心を守りながら、相手も守ることだ。だから時には怒る。怒っていい」

 

「怒って……いいの?」

 

「当然だ。怒らなければ、壊れていただろ」

 

その言葉に、ルナの胸の奥が少しほどける。

涙がまた浮かびそうになり、ルナは慌てて空を見上げた。格納庫の天井しか見えないのに、無理やり目線を上げた。

 

「……でも、あれは怒りじゃない。怖かったの」

 

ルナは小さく言った。

 

「置いていかれるのが。知らないところで、勝手に遠くへ行って、二度と戻らないかもしれないって……」

 

メノリは黙って聞いている。

その沈黙が、説教ではなく“受け止め”だと分かる。

 

ルナは続けた。

 

「昨日、リュウジが私の前で黙ったとき……私、あの瞬間に全部終わったと思った。だって、何も言わないってことは、私に話す価値がないって言われたみたいで……」

 

声が詰まる。

ルナは笑おうとした。失敗した。唇が震えただけだった。

 

「……変だよね」

 

「変ではない」

 

メノリが即座に切り捨てるように言った。

だが声は優しい。

 

「ルナはルナなりに、必死だった。それだけだ」

 

ルナは目を閉じた。

必死だった。必死で、だからこそ言葉が乱暴になった。

それを“必死だった”と認めてくれるだけで、救われる。

 

「メノリ」

 

「なんだ」

 

「……私、リュウジに謝れるかな」

 

メノリの眉が僅かに動く。

 

「謝る必要があるのか?」

 

「言い方が……ひどかったから」

 

「言い方はな。だが謝るなら、ルナが“怒ったこと”ではなく、“大っ嫌いと言って走ったこと”だろう」

 

「……うん」

 

ルナは頷く。

大っ嫌いじゃない。

本当は、好きだ。好きだからこそ怒った。好きだからこそ怖かった。

その矛盾を、やっと言葉にできた気がする。

 

メノリは、少しだけ唇を緩めた。

 

「謝ればいい。謝るなら、正面から言え。逃げるな」

 

「メノリが言うと、なんか怖い」

 

「怖くていい。真剣だからな」

 

ルナは思わず小さく笑った。

笑った瞬間、胸の奥が痛んだ。笑える自分が、少しだけ戻ってきたのに、アルテミスはもう遠い。

 

「でもさ」

 

ルナは呟く。

 

「……帰ってくるって、目で言ったの。リュウジ」

 

「見ていた」

 

メノリの声が低くなる。

 

「ルナとあいつが視線を交わした瞬間、私は分かった。あいつは“戻るつもり”だ」

 

「……ほんと?」

 

「嘘をつく必要がないだろ」

 

ルナは頷く。

信じたい。今度は、信じたい。

でも信じるだけじゃなく、自分の心も守る。そうしないと、また壊れる。

 

「メノリ」

 

「なんだ」

 

「もし……もし戻ってこなかったら、私、どうしたらいい」

 

口にした瞬間、自分でも怖くなった。

それでも言ってしまった。言わないと、胸の中で膨らんで爆発してしまうから。

 

メノリはすぐに答えなかった。

代わりに、格納庫の閉じた扉を一度だけ見た。

その扉の向こうの闇を、目で測るように。

 

そして、静かに言った。

 

「戻ってこなければ、今度は私が連れ戻す」

 

ルナは息を呑む。

 

「……メノリが?」

 

「そうだ。私だけでは足りないなら、ルナも連れて行く」

 

「え」

 

「泣いてる暇があるなら、準備をしろ」

 

その言葉は厳しいのに、優しさだった。

“泣いていい”と言われるより、ずっと救われる。

泣いてもいい。でも泣くだけで終わらせない。そう言われた気がした。

 

ルナは、もう一度格納庫の扉を見た。

アルテミスはもう見えない。

見えないのに、胸の中ではエンジンの振動がまだ残っている。

 

「……うん」

 

ルナは小さく頷いた。

 

「私、待つ。だけど待つだけじゃなくて、ちゃんと前を向く。リュウジが戻ってきたとき、私がちゃんと立っていられるように」

 

メノリは短く返す。

 

「それでいい」

 

ルナは息を吸い、吐いた。

 

「ねえメノリ。リュウジ、コーヒー持って行ったよね」

 

「持って行ったな」

 

「……リュウジらしいね」

 

「いや、ただのバカだ」

 

二人の声が重なり、少しだけ笑いが漏れた。

笑うたびに胸が痛むのに、その痛みが“生きている”証拠みたいに感じる。

 

ルナは目元を指で拭って、メノリを見た。

 

「ねえ。メノリはさ……怖くないの?」

 

メノリは少しだけ目を細めた。

 

「怖いに決まっている」

 

「そうだよね」

 

「怖いからこそ、動ける」

 

「……そっか」

 

ルナはまた頷いた。

怖い。怖いのはルナだけじゃない。

メノリも、チャコも、クリスタルも、ペルシアも。皆怖い。それでも動いている。

 

ルナは胸の奥に、じわりと熱が灯るのを感じた。

それは安心じゃない。

決意だ。

 

「帰ってきたら、私、ちゃんと聞く」

 

ルナは言った。

 

「リュウジが隠してたことも。苦しかったことも。全部。怒るけど……聞く」

 

メノリが頷く。

 

「それでいい」

 

ルナは、最後にもう一度だけ、格納庫の扉へ視線を送った。

見えない宙の先に、アルテミスがいる。

その操縦席に、リュウジがいる。

 

「……帰ってきて」

 

声には出さなかった。

出したら崩れるから。

だから心の中で、はっきりと言った。

 

メノリが隣で小さく呟く。

 

「帰ってこい、リュウジ」

 

ルナはメノリを見て、少しだけ笑った。

涙の跡が残ったままの笑顔だった。

 

「うん。帰ってきて」

 

二人は同時に、もう一度だけ頷いた。

見えない宙へ向けて。

いま飛び立った仲間へ向けて。

そして、戻ってくる未来へ向けて。

 

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