宇宙船アルテミスが出発したあとも、ルナとメノリはしばらくその場から動けなかった。
宙を見上げる視線の先には、もう機影はない。それでも、目を逸らすのが怖かった。見送ったという事実が確定してしまう気がして。
(どうか無事に帰ってきますように。どうか救出任務が完遂されますように)
祈りという言葉は、普段の自分には少し照れくさい。けれど今だけは、祈る以外にできることがなかった。
背後から、控えめな声がかかった。
「お二人とも、もしよろしければ更衣室にご案内します」
振り返ると、イーナが一歩引いた位置に立っていた。仕事の場の緊張感を崩さないまま、それでもどこか気遣いが混じった声。
「あ、ありがとうございます」
ルナが頭を下げると、メノリが短く頷いた。
「とりあえず宇宙管理局の制服は脱いだほうがいい」
「……そうね」
制服のまま立ち尽くしていると、まるで自分たちも“任務の一部”になってしまったみたいで。今のルナには、その重さがつらかった。
イーナに案内され、二人は更衣室へ向かった。
扉を開けた瞬間、ルナは自分でも分かるほど肩が落ちた。空調の温度が同じでも、ここだけ空気が柔らかい。オペレーションルームの硬い光とは違う、少し影のある静けさがある。
「ここで着替えてください。荷物はロッカーにしまってください」
「ありがとうございます」
ルナが返事をすると、イーナは軽く会釈して扉の外へ出た。
カチリ、と扉が閉まる音。
その音が合図みたいに、ルナとメノリは同時に息を吐いた。深く、長く。吐き出したのは酸素だけじゃない。さっきまで胸の奥に詰め込んでいた、いろんなもの。
私服に着替え始めたところで、ルナはふと手を止めた。
「ねぇ、メノリ」
「なんだ」
「アルテミス……順調かな」
メノリはズボンのベルトを締めながら、淡々と言った。
「順調もなにも、まだ出発して三十分ぐらいだろ。順調でなければ困る」
「……それもそうね」
ルナは小さく笑った。笑ってしまった自分に、少し安心した。自分の中にまだ“いつもの自分”が残っている証拠みたいで。
そのとき、扉がノックされる。
「着替えが終わりましたら、オペレーションルームまでご案内します」
イーナが戻ってきていた。
メノリが眉を寄せる。
「私たちが行っていいんですか?」
「はい。局長からも、丁重におもてなしするように言われていますので」
ルナは申し訳なさが先に出た。
「それは、何か悪い気が……」
イーナはほんの少しだけ口角を上げた。微笑みというより、業務の“許容”に近い表情。
「気にしないでください」
「……それじゃあ、少しだけ甘えさせていただきます」
「はい」
更衣室を出て廊下へ向かうころには、ルナの心臓はまた少し早くなっていた。オペレーションルームの空気は、さっきまでいた場所よりさらに張り詰めているはずだ。
扉が開く。
そこは、いつもの殺伐とした緊張感に満ちていた。
壁一面に並ぶモニター。各席のオペレーターが、目と指を忙しなく動かしている。キーボードの乾いた音、短い報告、座標を読み上げる声。状況は深刻だ。救助の最中、いまこの瞬間にも誰かの命の残量が減っていく。
――なのに。
その空気の上に、別の温度が被さっていた。
何かを堪えている空気。
笑ってはいけない場面だと分かっているのに、口角が勝手に上がりそうになる、あの危険な感じ。咳払いが増えている。鼻をすする音が聞こえたと思ったら、笑いを誤魔化すための息だった。
ルナとメノリが足を踏み入れた瞬間、ナミが一瞬だけこちらを見て、口元を押さえた。シャオメイはモニターから目を離さないまま肩を小刻みに揺らしている。ジェームズは真面目な顔を作ろうとして失敗し、真顔のまま目だけが笑っている。
そして――スピーカーから。
「それで、“何をしにここに来た”って言ったのね!! なによ、その言い方!! まるで“勝手に押しかけやがって”みたいに言いやがって!!」
ペルシアの声が、オペレーションルームに響き渡った。
ルナは目を瞬いた。あまりの勢いに、理解が追いつかない。
「ルナちゃんはね! 連絡一つ寄こさないあんたのために、わざわざ冥王星まで行ってくれたのよ!! それで第一声がそれ?? 何様のつもりよ!!」
ルナは思わずイーナのほうを見た。イーナは困ったように視線を逸らし、しかし説明の準備だけはできている顔をしている。
「……え? これって……」
声がかすれて、自分でも驚いた。
ペルシアの怒号は止まらない。
「だいたい! “学校で学ぶことない”って、だったら最初から編入しなければいいでしょ! 入学金払って、退学して、“生活するためにアルバイト”って……バカでしょ!!」
スピーカーの向こうで、慌てた声が割り込んだ。
「ペルシアさん、通信が入っていますよ!」
ククルの声だ。焦っている。必死に止めようとしている。けれど――
「いいのよ!! 宇宙に流してやらないと私の気が収まらないもの!!」
オペレーションルームの何人かが咳払いをした。咳払いという名の笑いの抑制だ。ルナも、笑っていいのか泣けばいいのか分からない。胸の奥が熱いのに、口元が勝手に緩みそうになる。
スピーカーから、今度はリュウジの声が聞こえた。低く、落ち着いている……が、明らかに“負け”のトーンだ。
「ペルシア、俺が悪かった」
「はぁ?? 当たり前でしょ!! あんたが全部悪いに決まってるでしょ!!!」
間髪入れず返ってくる。リュウジの反論の余地を最初から消し去る勢い。
さらに別の声。
「リュウジ、喋らん方がええで」
チャコだ。妙にリアルな助言が痛い。
「だいたいね! いくつになっても一人で抱えるから、こうなるんでしょ!! ドルトムントの時にエリンや私から何回も言われてるよね? 一人で抱え込むなって!!」
ルナは唇を噛んだ。笑いを堪えて、ではない。泣きそうになるのを堪えて、でもある。胸の中で、昨日がフラッシュバックする。自分の叫び。嘘つき。大っ嫌い。走り去った背中。あれは、怒りだった。でも、祈りでもあった。
「それなのに同じこと繰り返して? 今度はルナちゃんを傷つけて? ……あー、ルナちゃん可哀想!!!」
オペレーションルームの空気が、一瞬だけ“静かに”揺れた。笑いが止まる。止まってしまう。ペルシアの言葉が、軽口に見えて、根が本気だから。
ルナは息を吸った。震えが喉の奥に触れる。
そのとき、スピーカーの向こうの空気が変わった。
リュウジが、低い声で何かを指示する。
「……チャコ、自動操縦にしろ。力づくで止める」
「分かったわ」
チャコの操作音が聞こえた、気がした。直後――
「……え? エラー?」
チャコの声が、少しだけ間が抜ける。
そしてペルシアが勝ち誇ったように笑った。
「あはは! リュウジの考えることなんてお見通しよ! 自動操縦されないように、こっちのメインシステムで切ってあるわよ!! バーカ!!」
オペレーションルームの誰かが、ついに吹き出した。必死に咳に変えようとしたが失敗して、「ぶふっ」と変な音が漏れる。
ルナも肩が揺れた。笑いが込み上げる。こんな状況なのに、緊迫した任務の最中なのに――あの人たちは、宙の上で何をしているの。
「ほへぇ~、流石やな」
チャコの感心が、妙に素直で余計におかしい。
「感心する所じゃない」
リュウジのツッコミは冷静だが、どこか疲れている。
「力づくで止めるなんて野蛮な奴め!! か弱い私に暴力でも振るう気かしら?」
「か弱いは嘘だろ」
リュウジが言いかけた気配がして、しかし途中で飲み込む気配もした。言ったら終わる。火に油だ。学んでいる。遅いけど。
ペルシアが畳みかける。
「そんなんだから“嘘つき!”とか“大っ嫌い!”なんて言われるのよ!!」
ルナは反射的に顔を両手で覆った。恥ずかしい。自分の言葉が、宇宙に流されているみたいで。
「あの……これって」
ルナが小声でイーナに尋ねると、イーナは申し訳なさそうに、それでも事実だけを言った。
「えーと……宇宙船が出発してから、今までずっとペルシアさんが怒っています」
メノリが腕を組んで、淡々と結論を出す。
「……自業自得だ」
ルナは涙が出そうになるのを堪えながら、でも笑ってしまった。
「うん……そうだね」
スピーカーの向こうでは、最後の一撃みたいにペルシアが叫ぶ。
「私のルナちゃんを泣かせたんだから、覚悟しなさいよ!!!」
その瞬間、オペレーションルームの空気がふっと緩んだ。緩んだのに、誰も手を止めない。モニターを追う目は鋭いまま、指は正確なまま。だけど、肩から一枚だけ力が抜けたような空気。
笑ってはいけない。分かっている。
でも、笑える場所があるのは、生きるために必要だ。
ルナは目元をそっと拭って、モニターへ視線を戻した。
(お願い。ちゃんと――帰ってきて)
祈りは、まだ終わっていなかった。
ーーーー
オペレーションルームの空気は、相変わらず“仕事の硬度”を保ったままだった。
なのに、その中央にもう一つ、別の戦場が生まれていた。
スピーカーから流れてくる声――ペルシアの怒り。
オペレーターの肩が微かに跳ねた。笑いではない。痛い、と体が反応している。
ルナはメノリの横で、椅子の背に触れるほどの距離に立っていた。座れと言われても、今は座れない。胸の奥が落ち着かない。自分の怒りが、今、宇宙の向こうで代弁されているみたいだった。
そして、アルテミス側のマイクに拾われた、わずかな沈黙のあと。
「……ペルシア、反省してる――」
リュウジの声が入る。落ち着いている。落ち着こうとしている、が正しい。声の端に、ほんの少し擦れた焦りが混ざっていた。
「言い訳ならいらない」
ペルシアが被せる。
「“必要なのは、ルナちゃんが泣かない未来を作ること。あんたはそこから逃げた。逃げたのよ、リュウジ」
その瞬間、オペレーションルームの誰かが咳払いをした。笑いを誤魔化す咳ではない。緊張を飲み込む咳だ。
ルナの隣で、メノリが低く息を吐いた。眉間の皺が、さらに深くなる。
「……容赦ないな」
「うん……」
ルナは小さく言った。自分でも驚くほど、声が震えていた。
スピーカーの向こう、アルテミスのコックピット。
リュウジは今、前を見ているはずだ。未知の宙を、救助のために飛んでいる。だから、これ以上の感情の揺れは危険だ。操縦士の心の揺れは、機体の揺れに直結する。
それを分かっているからこそ――リュウジは“視線だけ”で助けを求めた。
彼の斜め後ろにいるクリスタルに、ちらりと視線を流したのだ。言葉にしない、助けてくれ、という無言の合図。
その視線を受け取ったクリスタルは、ペルシアに語りかけるように言った。
「まぁまぁ、ペルシア。リュウジも反省してるんだし……そろそろ許してあげたら?」
オペレーションルームの数名が、反射的に目を上げた。誰もが一瞬、“終わるか?”と思ったのだ。嵐が収まる気配を期待した。
通信の向こうで、ペルシアが一度だけ息を吐く音がした。
「……それもそうね」
その一言に、オペレーションルームの空気がほんの少しだけ緩んだ。
リュウジも、同じように息を吐いた。短く、静かに。救われた、という息だった。ほんの一瞬、操縦桿を握る手の力が抜ける気配があった。
――だが、それが甘かった。
「……なんて言うわけないでしょ!!」
ペルシアの叫び声が爆発した。
「なに勝手に安心してるのよ!! 反省してる? 反省してるって何!? 反省って言えば全部許されると思ってるの!? そんなの、ルナちゃんの涙に失礼でしょ!!」
オペレーションルームのあちこちから、堪えきれない微妙な笑いが漏れた。笑ってはいけない。分かっているのに、ペルシアの“急カーブ”があまりにも鮮やかすぎて、身体が勝手に反応してしまう。
ナミがキーボードを叩きながら、唇を噛む。シャオメイは顔を上げず、肩だけ震わせる。
そしてペルシアは矛先を変えた。
「それに――クリスタルも同罪よ!!」
「はぁ!?」
クリスタルの声が裏返る。
「なんでよ!?」
「なんでって……」
ペルシアの声が、低くなる。怒りが“熱”から“圧”に変わる。地面に沈むみたいに重い声。
「リュウジが怪我してることも、宇宙飛行士を目指してることも知ってて、黙ってたでしょ!」
矛先がクリスタルへ向いた。本人は椅子に座っているのに、まるで壇上に立たされたみたいに。
「それは仕方ないでしょ! それに何の罪になるのよ」
クリスタルは呆れたように言うが、目は笑っていない。声は軽くても、内側で必死に耐えている声だ。
「ペルシアのルナちゃんに事情を伝えなかった罪よ!」
「何それ!」
クリスタルが思わず叫ぶ。
「そもそも!!」
ペルシアは畳みかける。息継ぎの位置が“攻撃の区切り”になっていて、返す隙がない。
「リュウジがそんなことになってるなら、相談ぐらいしなさいよ!! そうしてれば、ルナちゃんだって傷つかずに済んだじゃない!!」
その言葉が、ルナの胸をぎゅっと掴んだ。
(……そうだ)
言われなくても分かっていた。もし、最初から言ってくれていたら。もし、目が見えないことを。もし、怖かったことを。もし、プライドじゃなくて、助けが欲しかったことを。
そうしたら――ルナは、あんなふうに叫ばずに済んだかもしれない。
「だけど……」
クリスタルが言いかける。
「だけどもヘチマもない!!」
ペルシアが切り捨てる。
「要領が悪いのよ! 要領が!!」
「なんで私が怒られるのよ……」
クリスタルが小さく呟いて、リュウジに視線を向けた。
画面の向こうのリュウジは、一息ついていた。
“やれやれ”とでも言いたげな、ほんの僅かな安堵の表情。
それが――クリスタルには許せなかった。
「……私だって、ちゃんと話せって言ったのに!」
クリスタルの声が、いつもの軽さから一段落ちる。
「リュウジが!」
「お、おい!」
リュウジが慌てて制止しようとするが遅い。
ペルシアの視線が、ぴたりとリュウジに戻る。オペレーションルームの空気が“凍る”というより、“尖る”。針が一斉に立ったみたいに。
「……へぇ?」
ペルシアの声が静かになる。静かな怒りは、爆発より怖い。
「つまり。クリスタルは“言え”と言ったのに。あんたが黙った、と」
リュウジは短く息を吐いた。通信越しでも分かる、あの“まずい”というため息。
「ペルシア、今は任務中だ」
「任務中だからこそよ!!」
ペルシアが吠える。
「任務中でも、あんたのその性格は治らないでしょ!! だから叩き直すの!!」
オペレーションルームの誰かが、とうとう笑いを漏らした。笑いと言うより、感嘆に近い。ペルシアが叱っているのに、どこか“守っている”のが分かるから。
ペルシアは続ける。
「リュウジも、S級をもう一度目指すなら、どうして言わないのよ!! 目が見えなくてもやりようがあるでしょう!! 相談すれば、いくらでも手はあった!!」
リュウジが、わざとらしくではない、本当に疲れたため息を溢した。
そのため息が、ペルシアの怒りに油を注ぐ。
「それに何よ! 私がちょっと追放されたからって、焦ってたみたいね!!」
ルナは息を呑んだ。
ペルシアの“追放”は、ここにいる全員の胸に刺さっている言葉だ。冗談にできるのは、本人だけ。本人が冗談にしても、周りは冗談にできない。
でもペルシアは、それを自分の口で言う。自分を傷にしないためじゃない。誰かがその傷を利用するのを許さないために、自分で“握る”。
「だいたい!」
ペルシアの声が鋭利になる。
「あなたは昔からエリン派のくせに、こういう時はペルシア派に成り上がるのね!!!」
「待て、それは――」
リュウジが言いかけるが、無駄だ。
オペレーションルームの片隅で、ククルがぽつりと呟いた。
「……ペルシアさんの方が、エリンさんより上なんだ」
言った本人が、すぐに口に手を当てた。
「あ」
空気が止まる。
だがペルシアは気にしない。気にする暇がないほど、本気で怒っている。
「リュウジがS級を返上するって言った時に!」
声が跳ねる。
「どれだけ私が苦労したと思ってるのよ!!!」
その言葉の“重さ”に、オペレーションルームの笑いは消えた。
ナミの指が止まらないまま、目が僅かに曇る。ジェームズが一度だけ唇を結び、背筋を正す。シャオメイは肩を震わせるのをやめ、画面を見つめた。
ペルシアの怒りは、過去の自分の傷をなぞる怒りではない。現実の“仕事”の怒りだ。現場を知る人間の、責任の怒り。
「役員への説明!」
指折り数えるように声が刻まれる。
「規則の修正!」
「各方面への説明!」
「新たな宇宙飛行士の育成!!」
「……などなど!!」
最後の“などなど”が、逆に本気を滲ませる。言葉にしきれないほど、細かい地獄があったのだ。
「身をボロボロにして働いてたって言うのに!!!」
その叫びは、通信越しでも“握りしめた拳”が見えるようだった。
オペレーションルームに沈黙が落ちる。機械音と報告だけが、仕事の心音みたいに鳴る。
ルナは喉の奥が熱くなった。
ペルシアは怒っている。怒鳴っている。けれどその怒りの核には、たった一つ、祈りがある。
――生きて戻れ。
――守れ。
――誰も置いていくな。
「リュウジ」
ペルシアの声が、急に低くなる。
「私はね。あんたが“守りたい”って言うの、信じてる。昔からずっと」
その一言で、オペレーションルームの空気がまた少し変わった。怒りが、責めから、約束へ変化する音。
「でもね」
ペルシアは続ける。
「守りたいなら、守り方を覚えなさいよ。自分だけ背負って折れて、周りを泣かせて、それで守ったことになると思うの? ……思うわけないでしょ」
ルナは目を伏せた。涙が落ちそうだった。落ちるのが怖かった。自分の涙が、また誰かを動かしてしまう気がして。
メノリが小さく、しかしはっきりと呟いた。
「……ペルシアさんは、正しい」
「うん」
ルナは頷いた。頷くしかなかった。
ーーーー
通信席のペルシアが、まだ怒っている。
怒りは衰えを知らず、むしろ燃料を足されたように言葉が途切れない。
しかも厄介なのは、リュウジがどう反応しても「正解」が存在しないことだった。
黙れば。
「……ちょっと。黙らないで。聞いてるの?」
聞いてると言えば。
「聞いてるって何!? 聞いてるだけで許されると思ってるの!?」
だから、リュウジは最小限の言葉を選ぶ。だが、最小限は“冷たい”とみなされる。
「……すまない」
「すまないで済むなら宇宙管理局いらないでしょ!」
チャコは機関系の端末にジャックインし、メインシステムのログを追っていた。
口元は引きつっている。笑ってはいけない。だが、笑いが漏れると本気で怒られる。
ククルは、通信パネルの脇に立ったまま、完全に置物になっていた。
彼女は“救助任務の重圧”に備えてきた。だが現実は、“ペルシアという天災”が先に降っている。
クリスタルは医療スペースの入口に腕を組んで立ち、リュウジの顔を見ては、言いたげに眉を動かす。
「自業自得」
「でもちょっと可哀想」
その二つが、彼女の表情の中でせめぎ合っていた。
ペルシアは言葉を止めない。呼吸が切れない。
怒りの熱が、コックピットの計器の光より眩しい。
「だいたいね、あんたは昔からそう! “守る”の使い方が下手なのよ! 守るって、隠すことじゃない! 背中を向けて勝手に抱え込むのは、“守る”じゃなくて“逃げ”!」
リュウジは操縦盤から目を離さず、低く言う。
「……逃げてない」
「言い返すな!!」
「いや、言い返したつもりは――」
「言い返してる!! 口答え!!」
チャコが堪え切れず、端末の前で肩を震わせた。
リュウジが横目で睨む。
「笑うな」
「笑てへん。これは震えや。宇宙の寒さでな」
「船内温度は適正だ」
「心が寒いんや」
「黙れ」
ククルが、小さく咳払いをした。
この場に必要な緊張は“救助の緊張”であって、家庭裁判所の呼び出しじゃない。
だが、ペルシアは止まらない。
「ルナちゃんがね、どんな顔してたか知ってる? 冥王星であんた見つけたとき、絶対、嬉しくて泣きそうな顔をしてた筈よ!!怒りも心配も全部抱えてて――それなのに、あんたは何? そのくだらないプライドは、宇宙に捨ててきなさいよ!」
「……」
リュウジが黙る。
「ほら、黙った。ほらまた黙った!」
「聞いてる」
「聞いてるって言うな!!」
「……どうすればいい」
「“どうすればいい”じゃない!!」
ペルシアは片手で額を押さえた。
その仕草は疲れているようにも見える。だが、疲労は怒りの燃料に変換されているだけだ。
「ほんっとに! あんたは! そうやって! 正解を誰かに出してもらおうとする!!」
リュウジの眉が僅かに動いた。
それを見逃さないペルシアが、すかさず追撃する。
「今! 今眉動いた! はい、言い訳作ろうとしてる!」
「作ってない」
「作ってる!!」
ククルが、口元を押さえた。
この人たち、救助に行く前に互いを救助した方がいい。
そのときだった。
ペルシアの怒りが――途中で、止まった。
まるで、誰かが音量つまみを“ゼロ”にしたみたいに。
次の言葉が来ない。
コックピットの時間が一瞬止まる。
リュウジ、チャコ、ククル、クリスタル。
全員の視線がペルシアに集まった。
ペルシアは鼻の下に指を当て、短く「しぃ」と合図した。
怒りの女王が、突然“静寂の司令官”に変わる。
そして、通信パネルの回線を繋ぐ。
「……宇宙管理局、こちらアルテミス。回線を開けて」
その声は、さっきまでの怒号と同じ人物とは思えないほど落ち着いていた。
切り替えの速さが恐ろしい。
だからこそ、彼女は統括官だったのだと、全員が思い知らされる。
スピーカーから、オペレーションルームの雑音が流れ込む。
キーボードの音。短い報告。誰かの息の詰まった沈黙。
そして――ローズの震えた声が混じった。
⸻
宇宙管理局、オペレーションルーム。
壁一面の大型モニターの光が、オペレーターたちの頬を青白く照らしている。
救助の座標、通信の途切れ、航行不能のステータス。
数字と警告が、無情に並ぶ。
その空間に、アルテミスからの“さっきまでの怒り声”が、ずっと響いていた。
笑ってはいけない緊張。
だが、肩を揺らしてしまう人間の弱さ。
誰もが“仕事の顔”を貼り付けようとして失敗している。
――ただ一人、笑えない男がいた。
ローズ。
統括官席の前で、ローズはズボンの裾を握りしめていた。
指が白い。震えが止まらない。
「何故だ……!」
ローズの声が割れる。
「僕はペルシアより強いはずだ!!」
オペレーションルームの空気が固まる。
誰もが作業の手を止めない。止められない。だが耳は、ローズに向いてしまう。
「僕はペルシアを超えたはずだ! 一年もの期間は僕に力を、ペルシアには衰えをもたらしたはずだ!!」
ローズが叫ぶ。
「それなのに何故……何故あいつは、僕の前に立っている!!」
悔しさが、声の裏から漏れる。
“憎しみ”に見える。だが、もっと正確には“憧れが崩れた痛み”だった。
ルナが、その背中を見ていた。
ローズの肩は小さく震え、喉が詰まり、言葉が湿った。
「……分かってる!!」
ローズは自分で自分を殴るように言う。
「あいつは、入社した時から特別だった。いきなり統括官になり、ずっと最前線で走り続けてきたんだ」
オペレーターたちの目線が、ローズへ集まる。
彼の独白が、組織の“汚い裏側”を引きずり出していく。
「ペルシアは俺の目標だった……それなのに、違法行為に手を染めた。あいつを目標にしてた皆んなを裏切ったんだ」
“裏切り”。
その単語が、部屋の温度を下げる。
ローズの視線が宙を泳ぐ。
「僕は……失望し、憎み、呪いさえした」
喉の奥から、溜め込んだものが漏れる。
「そして誓った。必ずペルシアをこの手で追放してやろうと。僕の尊敬と信頼を裏切ったペルシアを、絶対に許さないと」
言い切ったはずなのに、声が弱くなる。
「……なのに……なのに……」
ローズの目が潤む。怒りで濡れているのか、悔しさで滲んでいるのか分からない。
「何故、僕は勝てないんだ……」
その瞬間、ルナが一歩、ローズに近づいた。
ローズが顔を上げる前に、ルナの声が落ちる。
静かだ。だが、部屋中に通る声。
「ペルシアさんは、あなたとは違います」
ローズが睨む。
「またお前か」
ルナは、息を吸った。
そして、思い出す。
ブライアン捜索のときの、オペレーションルーム。
目の下の濃い影。涙で崩れそうな顔を化粧で隠し、誰よりも前に立ち続けた統括官。
「私は、ブライアンさんの救出任務の時しか、宇宙管理局のペルシアさんを知りません」
ルナはまっすぐ言う。
「あの時のペルシアさんは……リュウジたちを失ったかもしれないって、失望の中で涙を流していました。心が折れかけていました」
ローズの視線が揺れる。
ルナは続けた。
「でも、それでもペルシアさんは、ご家族の前に立っていました。化粧で涙の跡やクマを消して、非難や怒号を一人で受け止めていました」
ルナの言葉は、痛いほど具体的だ。
「一睡もせず、食事もエナジードリンクだけで、いつ倒れてもおかしくない状態で、ずっとモニターを見つめていました」
部屋の誰かが、息を飲む。
彼らも知っている。見ていた。だから、言葉が刺さる。
「本当は、ペルシアさん自身が一番悔しくて、諦めたくないのに……統括官としての任務を全うしていました」
ローズの視線が、ルナから逸れた。
耐えきれないように。
「ペルシアさんは、あなたと違って責任から逃げない。統括官としての覚悟が違うんです」
ローズの肩が、沈む。
「僕には……敵わないのか……」
その呟きの直後。
オペレーションルームのスピーカーが――生き物みたいに息を吹き返した。
アルテミスからの回線から笑い声が聞こえてきた。
「……ローズ、笑わせないでよ」
ペルシアの声。
張りつめた空気が、いきなり別の方向に引っ張られる。
緊迫の中に、毒気のある余裕が混ざる。
「舐めてるわね」
クリスタルの声が重なる。
「ペルシアとあんたじゃ役者がちゃう」
チャコが笑いを含ませる。
「勝ち負けを持ち出すことが違いますね」
ククルが真面目に刺す。
そして、最後に。
「……単純に格の差が違う」
リュウジの声が落ちる。
ローズの顔が引きつった。
ペルシアが、淡々と続ける。
「私はそもそも勝ち負けなんて興味ないのよ」
その声は、怒号ではない。
けれど、怒号より強い。
「私はただ、守りたいものを守るだけ。任務に出たメンバーにちゃんと帰ってきてほしいだけ。ただそれだけなの」
ルナの喉が鳴る。
“守る”。その言葉が、今度は重く胸に落ちる。
「だから守れるなら、命を救えるなら、どんな手段も惜しまないのよ」
ペルシアの声が鋭くなる。
「それが規則や組織のしがらみに触れたとしてもよ」
ローズの目が揺れる。
憎しみが、少しだけ“理解”に削られた表情になる。
ペルシアは決定打を放った。
「あなたが私に勝てないのは、単純に命を守る覚悟が違うから。……ただそれだけよ」
オペレーションルームが、静まった。
機械音と呼吸音だけが残る。
ローズが、顔を上げる。
言葉が出ない。悔しさと、何か別の感情が混じっている。
ペルシアは、最後に少しだけ声を柔らげた。
「同期のよしみよ。教えてあげる」
その“優しさ”が、逆に怖い。
「ちゃんと見てなさい。統括官の席で」
回線の向こうで、アルテミスの機械音が鳴っている。
救助船は、前へ進んでいる。
そして、コックピットでは――
ペルシアが一つ伸びをした
「まぁ、ルナちゃんの声も聞けたし、今回はこのぐらいで許してあげる」
その言葉に船内はホッと胸を撫で下ろした。
その空気が緩みにならないようペルシアは釘を刺す。
「まだ一/三も言いたいこと言ってないけどね!」
その言葉が本当なのか嘘なのか分からない。
ただペルシアが言うと本当にそう思えてしまう。
宇宙船内にはゴクリと言うリュウジの唾の音だけが広かった。