ペルシアの怒りが、まるで燃え尽きた焚き火のように鎮まったあと。
宇宙船アルテミスの中には、機械の呼吸だけが残っていた。
推進器が一定のリズムで低く唸り、床を伝う微細な振動が足裏に触れる。
換気の風が乾いた音を立て、計器の灯りが静かに点滅する。
さっきまで同じ空間に、雷のような怒号が落ちていたなんて信じられない。
それほど、船内は穏やかだった。
だからこそ――その静けさに、ククルの足音がよく響いた。
ククルは小さなトレイを両手で抱え、背筋を伸ばして歩く。
歩幅は一定、左右の揺れは最小。足の運びも丁寧で、船の揺れを予測するように重心を置いていた。
まずはクリスタルの席に、エネルギーパックを置く。
次にチャコへ、フルーツジュース。
そして最後に、操縦席のリュウジと、端末をいじっているペルシアのところへ、コーヒーを運ぶ。
「……随分、上手くなったな」
リュウジが、コーヒーのカップに目を落としながら言った。
口調は淡々としていたが、そこに含まれる評価は本物だった。
「本当ですか!」
ククルが、ぱっと顔を明るくする。
嬉しさが隠しきれず、ポニーテールの先がぴょんと跳ねた。
「ああ」
リュウジは短く頷き、カップの取っ手に指をかける。
その動きが無駄なく滑らかで、いかにも“操縦士の手”だった。
「もう一つかな」
その横で、ペルシアが端末の表示から目を逸らさないまま、ぼそりと呟いた。
ククルの視線が自然とペルシアへ向く。
何か失敗したのかと、少しだけ肩が硬くなる。
ペルシアは画面を見たまま言った。
「操縦士に飲み物を渡す時は、置くんじゃなくて、預ける感じで」
「置くより……預ける」
ククルは、言葉を噛みしめるように繰り返し、納得したように頷いた。
ペルシアはようやく端末から目を離し、ククルを見上げる。
その視線は厳しいというより、細部を拾い上げる職人の目だ。
「歩き方と立ち方は、とても良かったよ」
「ありがとうございます!」
ククルの声が弾む。
褒められたことが嬉しくて、足先まで軽くなりそうだった。
「やっぱり副パーサーは伊達じゃないね」
クリスタルが、エネルギーパックの封を切りながら笑う。
「当たり前でしょ」
ペルシアは軽く鼻を鳴らして、端末の入力に戻った。
その自信満々の背中は、さっきまでの怒号の残り火すら感じさせない。
コックピットの空気は落ち着いていた。
一瞬だけ、本当に“遠足前の準備”みたいな軽さが漂う。
その軽さを、チャコが遠慮なく掴んで投げた。
「なぁペルシア」
「なに?」
ペルシアは端末から目を逸らさない。
チャコはジュースのストローを噛みながら、少しだけ間を取った。
聞いていいのか迷っている時の、チャコ特有の間だ。
「聞いてええんか分からんけど……宇宙管理局を停職になってから、どこで何してたんや?」
ペルシアの指が、ふと止まった。
入力が止まったというより、質問を“処理”するために一度、手を休めた感じ。
「大したことはしてないわよ」
そう言って、端末から手を離す。
椅子の背にもたれ、軽く肩を回した。
「停職してすぐは、木星コロニーのカザレアで過ごしてたわ」
「……カ、カザレア!?」
ククルが椅子から浮きそうな勢いで驚き、同時にチャコが目を剥く。
「なんやて!? カザレアって、あのカザレアか!?」
クリスタルも、さすがに口を開けた。
「カザレアって……超高級リゾート地じゃない!?」
「ええ」
ペルシアが、楽しそうに笑う。
「とっても良かったわよ。毎日豪華ディナーにエステ三昧。幸せだったわ」
言い切る顔が、嘘ひとつない。
宇宙管理局の統括官が言う“幸せ”が、豪華ディナーとエステなのが妙に生々しい。
「よくそんなお金があったわね」
クリスタルが呆れ半分で言う。
「ないない。一ヶ月で有り金ぜーんぶ使い切っちゃったもん」
「全部使ったんですか!?」
ククルが素直すぎる声を出した。
チャコも、「アホやろ」と言いたいのを飲み込んだ顔をしている。
ペルシアはククルに手招きする。
「こっち」と指で呼び寄せ、ククルが耳を近づけると、ペルシアはその耳元へ、こっそり数字を囁いた。
ククルの目が、みるみる大きくなる。
「そ、そ、そんなにですか!?」
声が裏返った。
それだけで“桁”が普通じゃないことが伝わる。
ペルシアは肩をすくめ、楽しそうに笑う。
「宇宙管理局を停職した時点で、パァー!って使ってやろって思ってね」
「なんや……てっきりリークされた証拠を集めとったんかと思うたわ」
チャコがジト目で言う。
その横で、リュウジがコーヒーを一口飲み、苦味を確かめるように目を細めた。
「証拠なら追放されてすぐに集まってたし」
ペルシアが、さらっと言った。
「……そうなのか?」
リュウジが、少しだけ意外そうに言う。
彼はこういう“裏工作”を、軽口として言えるタイプではない。
「ええ。カラスとフレデリックに頼んだら、すぐ持ってきてくれたよ」
「流石だな」
リュウジが短く頷く。
“流石”の対象が、ペルシアなのか、カラスとフレデリックなのか、両方なのか。
少なくとも、その一言に信頼が混じっているのは分かった。
「だけど高くついたわよ。依頼料に口止め料」
「口止め料も払ってたんか。どうりでカラスが何にも教えてくれへんわけやな」
チャコが頬を膨らませる。
クリスタルが、ペルシアを横目で見た。
「どうせ、私たちを巻き込ませないように、とか考えてたんでしょ」
「その通り」
ペルシアが、あっさり認めた。
ククルが首を傾げる。
疑問が顔いっぱいに広がる。
「でも、どうして証拠があったのに、宇宙管理局にすぐ戻らなかったんですか?」
ペルシアは、きょとんとした。
「え? そんなの決まってるじゃない」
「……え?」
ククルが小さく声を漏らす。
ペルシアは当然のように言った。
「せっかくまとまった休暇なのよ? すぐに戻ったら勿体ないじゃない」
クリスタルが即座にツッコむ。
「停職と休暇は違うから」
チャコが吹き出す。
リュウジも、口元だけで笑った。ほんの少し。
その“ほんの少し”が、逆に面白い。
だがチャコがすぐに呆れたように口を開く。
「ウチら色々と探したんやで」
チャコが言う。
「そうそう、大変だったんだから」
クリスタルも乗る。
「だから、ごめんなさいって言ったじゃない」
ペルシアは悪びれない。
むしろ“はい、謝罪済み”という顔だ。
「反省してる人を責めて何になるのよ」
ペルシアが胸を張る。
その瞬間、全員の心に同じツッコミが浮かんだ。
――散々リュウジに怒って、謝っても許さなかったくせに、どの口が言うんだろ。
言葉にはしない。
言葉にしたら、また雷が落ちる。
その理性が、この船の平和を支えていた。
ククルが、ふと現実的な質問を投げる。
「お金がなくなってから、何してたんですか?」
「お金がなくなってからは、バイト三昧よ」
ペルシアは、あっけらかんと言った。
「宇宙以外の仕事にも興味あったし」
「何のバイトしてたんや?」
チャコが興味津々に身を乗り出す。
「えっとね。ケーキ屋に、喫茶店、お花屋、配送業……などなどかな」
「結構、転々としてたんだな」
リュウジが淡々と言う。
その口調の中に、“意外”と“納得”が同居している。
「ちなみに今は農作業のアルバイトね」
「せやから、あんなに汚れた作業着やったんやな」
チャコが頷く。
「そうそう。朝五時に起きて、畑を耕してた所で、局長に呼び出されたのよ」
ペルシアは懐かしそうに笑い、次の瞬間にはいたずらっ子みたいな目になった。
「そうだ。今度、農薬の散布、リュウジ手伝ってよ」
「俺がか?」
リュウジが眉を上げる。
「そ。小型飛行機で農薬散布してよ」
「ああ。分かった」
リュウジの返事が速い。
断る理由がない、と判断した時の彼の返答は迷いがない。
「言質とったからね」
ペルシアが指を立てる。
「ああ」
「いやー助かるよ」
ペルシアが満足げに言い、ククルが真面目な顔で手を挙げた。
「あの、ペルシアさん、アルバイトしても大丈夫なんですか?」
「なんで?」
ペルシアが首を傾げる。
「宇宙管理局って、副業いいんですか?」
ククルが聞くと、クリスタルが即答した。
「駄目よね」
「大丈夫、大丈夫」
ペルシアが笑って言う。
「規則変えるから」
クリスタルが目を細める。
「やめなさいよ、そういうこと簡単に言うの」
「簡単じゃないよ?」
ペルシアは涼しい顔だ。
「稟議を通すのが大変なの」
「じゃあ、なんでそんな軽く言えるんや」
チャコが突っ込む。
「慣れてるから」
ペルシアは平然と返し、ククルが尊敬と恐怖が混じった顔で頷いた。
その会話の最中にも、アルテミスは前へ進んでいる。
“今は静か”というだけで、状況が安全になったわけではない。
航法モニターの端で、座標が更新される。
セーシング領域の境界が、薄い線で示され、外側は暗い海のように広がっている。
リュウジは、コーヒーを置き、操縦盤に視線を戻した。
さっきまでの小さな笑いは消え、目が“計算”に戻る。
「……通信ポイントまで、あと二十分」
その一言で、船内の空気がほんの少し締まった。
チャコが端末を叩き、ククルが自分の姿勢を正す。
クリスタルがエネルギーパックを握り直し、ペルシアは端末を開いて別の画面に切り替える。
“冗談の時間”と“仕事の時間”が、ペルシアの呼吸ひとつで切り替わる。
その切り替えを見て、ククルが小声で呟いた。
「……すごい」
ペルシアが聞き逃すはずがない。
「なにが?」
「いえ、その……切り替えが……」
ククルが言い淀む。
ペルシアは少しだけ表情を柔らげた。
「切り替えじゃないよ。全部、同じ」
「同じ……?」
「笑っても、怒っても、指示しても。目的は一つ。守ること」
言葉が短いのに、重かった。
クリスタルが、あえて軽く言う。
「でも守るために豪華ディナーとエステ三昧は必要なの?」
ペルシアが即座に返す。
「必要。精神衛生は救助効率に直結する」
チャコが笑う。
「言い方だけは完璧やな」
リュウジが、ほんの少しだけ口元を上げた。
そのとき、ククルがふと思い出したようにペルシアを見る。
「……でも、ペルシアさん。証拠を集めてたなら、新しい統括官のこと……すぐに終わらせることもできたんですよね?」
ペルシアは端末を見たまま、答える。
「できたよ」
淡々とした声。
「……じゃあ、どうして」
ククルの疑問は純粋だった。
ペルシアは一拍置いてから言った。
「終わらせるのは簡単。でも“終わらせ方”が大事」
クリスタルが眉を上げる。
「終わらせ方?」
「そう。ローズを潰すだけなら簡単。局長に証拠を渡して、懲戒処分。はい終わり」
ペルシアは言葉を区切る。
その口調には、現場の経験が染みついている。
「でも、それだとローズは“自分は悪かった”じゃなくて、“負けた”って思う」
チャコが鼻を鳴らす。
「めんどくさいな」
「めんどくさいよ」
ペルシアが素直に認めた。
「でも、統括官って、そういう面倒を引き受ける仕事」
ククルが息を飲む。
「ローズはね。今は震えてる。悔しい。情けない。――そう思えるなら、まだ立て直せる」
ペルシアは端末の画面を閉じた。
画面が暗くなった分、彼女の目の光がはっきり見える。
「私が戻ったのは、“勝つため”じゃない。救助のため。守るため。――そして、宇宙管理局が腐らないため」
クリスタルが、いつもの軽口を飲み込む顔をした。
チャコも、ジュースのストローを噛むのをやめる。
リュウジだけは、操縦盤の光の中で静かに頷いた。
「……お前は変わらないな」
リュウジの声は、評価でも褒め言葉でもない。
事実を言っているだけ。
だがそれが、ペルシアにはいちばん心地よい。
ペルシアは肩をすくめる。
「変わってたら、今ごろリゾート地で永久就職してる」
「永久就職ってなんやねん」
チャコが突っ込み、ククルが笑いそうになって口を押さえた。
しかし、笑いは短く終わる。
船内のスピーカーが、低く通知音を鳴らしたからだ。
通信ウィンドウに、弱い信号が点る。
座標の端に、途切れ途切れの波形。
チャコが即座に反応する。
「……通信拾った」
リュウジが目を細め、操縦桿をほんの少し動かす。
機体がわずかに進路を修正する。
ペルシアが、椅子を引く音を立てずに立ち上がる。
さっきまで“雑談”をしていた人間の動きじゃない。
音ひとつで空気が変わる。
「音量上げて」
「了解」
チャコが操作する。
波形が太くなり、ノイズ混じりの声が、かすかに船内へ流れ込んだ。
「……こちら……ブライ……」
途切れている。
だが確かに、“生きた声”だった。
ククルが息を呑み、クリスタルが唇を結ぶ。
リュウジの目が、一段深く沈んだ。
ペルシアは一瞬だけ目を閉じ、すぐ開く。
「よし。生きてる」
その一言が、船内の温度を変えた。
さっきまでの笑いが、今度は別の意味で胸を温める。
ペルシアは、ククルへ視線を向けた。
「ククル」
「はい!」
「今のは“預ける”じゃなくて、“繋ぐ”仕事。準備できてる?」
ククルは背筋を伸ばし、唇を引き結んだ。
「できます。やります」
リュウジが短く言う。
「行くぞ」
アルテミスが、静かなまま速度を上げる。
静かなのに、心臓だけがうるさい。
そしてその静けさの底で――
ペルシアが、ふっと小さく笑った。
「ね。やっぱり休暇は必要でしょ?」
クリスタルが、呆れたように返す。
「今それ言う?」
「言う。だって、今が一番いいタイミング」
チャコが口角を上げた。
「相変わらず、変な女やな」
ククルは、その“変”がなぜか頼もしくて、目を輝かせた。
リュウジは操縦盤の光の中で、ほんの少しだけ柔らかく言った。
「……頼むぞ」
その言葉は、救助のためでも、任務のためでもある。
同時に、ここにいる全員への――“預ける”言葉だった。
アルテミスは宙を裂き、未探索領域へ踏み込んでいく。
笑いの残り香を背に、緊張と希望を胸に抱えながら。
ーーーー
アルテミスの操縦室には、機械が生き物みたいに呼吸する音が満ちていた。
航法モニターに流れる座標、速度、外殻温度、微細な姿勢制御の補正値。壁面の表示が一定のリズムで更新され、誰も触れていないのに、船全体が“前へ進むための計算”を続けている。
その静けさを切り裂くように、スピーカーが一度だけ鳴った。
「……こちら……ホー……」
掠れた声。
ブライアンの船――ホークからの通信だ。
たった数音だけが、操縦室の空気を震わせた。全員が一斉に顔を上げ、息を止める。
だが次の瞬間、音はザザ、と濁流のようなノイズに呑まれた。
声が溶け、言葉が形を失い、雑音だけが残る。
「……今の、ブライアンだよね」
クリスタルが低く呟く。
ククルは箸を持つ手を止めたまま、目だけを大きくした。チャコはモニターを睨み、指先でノイズフィルタの設定を切り替える。
リュウジは操縦桿から手を離さない。表情が変わらないまま、視線だけが鋭く前方の闇を捉えている。
ペルシアが、歯を軽く噛んだ。
「……送信がやられてるわね。船側の送信系が死にかけてる。だから、出るには出るけど、まともな変調ができてない」
誰かを安心させるための言い方ではない。
現実を切り分けるための言葉だ。状況を正確に見誤らないために、あえて冷たく言う。
「とりあえず、こっちからの通信が届いているか、ログだけは送っておく」
ペルシアは自分の端末を開き、入力欄を高速で叩き始めた。
“受信確認不要。こちらはアルテミス。到達予定、〇〇時間。現在座標――”
文章は短く、余計な感情がない。けれど、その短文の裏側に「生きてて」「待ってて」が詰まっている。
リュウジは頷いた。
「頼む」
それだけ。
その一言に、“今はそれしかできない”という悔しさと、“それでもやる”という覚悟が両方混じっていた。
チャコが舌打ちを飲み込み、ブルンクリン側のログを呼び出す。
通信ポイント――最後の通信地点から算出した“入るはずの範囲”は確かに通っている。だが応答がない。
「ブルンクリンの方はどう?」とクリスタル。
チャコはモニターを眺めたまま答える。
「最後の通信地点からやと、通信ポイントには入ってるはずやけど……応答がないな」
ペルシアが即座に補足する。
「送信機が壊れている可能性が高いわね。あるいは、送信できても、姿勢制御が壊れてアンテナの向きが死んでる。……どっちにしても、こっちが近づかないと拾えない」
チャコが肩をすくめた。
「せやな。どちらにせよ、もう少し近づかんとあかんな」
操縦席のリュウジが、航法表示の縁に目をやる。セーシング領域――あの境界線は、まだ遠い。近づいているのに、遠い。
ペルシアが視線だけで確認する。
「リュウジ、あとどれくらいでセーシング領域の縁に到着する?」
「あと十三時間。予定通りならな」
答えは淡々としていた。
淡々としているからこそ、重い。十三時間は、待つ側にも、待たれる側にも長い。
クリスタルが唇を噛む。
「どうする?」
ペルシアは一瞬だけ、全モニターを見渡した。
アルテミスの状態、通信状況、航路、燃料残、そして、彼らの表情。迷う時間はない。だが、独断になってもいけない。――だから、短くまとめる。
「とりあえず現状維持で向かいましょう。さっき、スターフォックスも宇宙管理局を出発したみたいだし」
その言葉に、操縦室の空気がほんの少しだけ緩む。
“援軍が来る”という事実は、安心というより、“最悪に備えられる”という希望だ。
クリスタルが頷く。
「それなら安心ね」
リュウジも短く息を吐いた。
「ああ。とりあえずは一安心だな」
その瞬間――まるで合図でもしたみたいに、チャコが腹のあたりを押さえた。
「……せやな。なんや安心したら腹が減ってきたで」
クリスタルが苦笑する。
「もう十八時だもんね。ククル~?」
ペルシアが、いつもの調子で声を投げた。
操縦室に返事がない。
「あれ?」
ペルシアが首を傾げる。「どこ行ったのかしら」
チャコが肩を揺らす。
「トイレでも行っとるんちゃうか?」
その時、操縦室の扉がスッと開いた。
入ってきたのはククルだ。音符が付いているんじゃないかと思うくらい、明るい声が響く。
「お待たせしました!」
声だけで、船内の照明が一段明るくなった気がした。
「今日の夕食を持ってきました!」
両手にはトレー。密閉パック、温かい蒸気、そして妙に“ちゃんとした匂い”。
乾燥食のはずなのに、ひどく現実味がある。
「ナイスタイミング」とクリスタルが笑う。
ペルシアは嬉しそうに目を細めた。
「なに、やればできるじゃない」
ククルは胸を張る。
「今日の夕飯は、乾燥食のご飯と、牛の大和煮を戻した――牛丼もどきです!」
「ええ声やな。船内が明るくなる」とチャコが言うと、ククルは照れたように肩をすくめた。
リュウジが、端末を閉じるペルシアの横で淡々と付け足す。
「これがククルの持ち味だ」
ククルは嬉しそうに頷き、夕食を各席に置いて回る。
彼女の動きは軽い。廊下でもそうだったが、操縦室内でも邪魔にならない位置取りができている。
クリスタルがパックを持ち上げて目を丸くした。
「温かいね。どうやって温めたの?」
ククルは、まるで秘密を披露するみたいに笑う。
「この宇宙船、キッチンがついてるんですよ」
「……キッチン」
ペルシアが悔しそうに唇を尖らせる。
リュウジが、機体の仕様を思い返すように言った。
「サツキは本当によく考えてるな」
「でもなんか悔しい」とペルシア。
クリスタルが笑みを深くする。
「悔しい?」
「ククルは私と同じで料理ができないと思ってたのに」
その言い方があまりに自信満々で、チャコが噴きそうになるのをこらえた。
ククルが、クスッと笑う。
「それはカイエですよ」
「それは仕方ないね。昔からカイエはペルシア派だったもんね。ククルはずっとエリン派だったし」
ペルシアはさらっと言って、牛丼もどきを口に運ぶ。
言い放った本人は完全に真顔なのに、会話の温度だけが妙におかしい。
チャコが箸を止め、眉を上げる。
「その……エリン派、ペルシア派ってなんなんや?」
ペルシアは当然のように答えた。
「私を甘やかしてくれる人がペルシア派で、エリンの味方をする人がエリン派なのよ」
「なんやそれ!」
チャコが笑い、クリスタルも吹き出す。
リュウジが冷静に突っ込む。
「お前が勝手に言ってるだけだろ」
「エリン派筆頭のくせに」とペルシア。
「誰がだ」
「昔からリュウジはエリンの言うことは素直に聞くじゃない」
「……必要ならな」
「エリンの味方ばっかりして」とペルシアはなおも言い、リュウジは返す言葉を探すのをやめて牛丼もどきを食べる。
“言えば言うほどややこしくなる”と本能が理解している顔だった。
クリスタルが面白がって乗る。
「ペルシア派は他に誰がいるの?」
ペルシアは少し考えるふりをして、指を立てた。
「タツヤ班長とかはペルシア派だったわね。私がフライトに遅刻してもエリンに黙っててくれたし」
ククルが箸を落としそうな勢いで驚く。
「ええ!? フライトに遅刻したことがあったんですか!?」
「たまーにね」とペルシアは涼しい顔。
リュウジがぼそり。
「タツヤ班長は面倒事を避けてただけだと思うぞ」
チャコが目を細める。
「せやけど、本当にエリンにバレとらんかったんか?」
「そりゃ、もちろん」とペルシア。
クリスタルが、わざとらしく首を傾げた。
「どうだろうね」
ククルが真面目に補強する。
「エリンさん、そういう所はちゃんと見てますよ」
「でも、一回も言われたことはなかったわよ?」とペルシア。
チャコが即答する。
「言わんかっただけやろ」
リュウジも頷く。
「今思えば、エリンさんが気付かないのは違和感があるな」
言われた瞬間、ペルシアも“確かに”と思ってしまう。
遅刻を叱らないエリン。
それは優しさか、それとも――あえて言わない圧か。
ペルシアは一瞬だけ目を泳がせ、そして逃げるように笑った。
「……まぁ、時効よ! 時効!」
「調子のええやっちゃ」とチャコが笑う。
リュウジも口元だけで笑った。クリスタルも肩を揺らし、ククルはほっとしたように笑いながら、食器の位置を微調整する。
――あまりにも、普通の光景だった。
それが、逆に胸に刺さる。
ここは未探索領域へ向かう救助船の操縦室。
ノイズ越しに、仲間の声が消えかけたばかりの場所。
なのに、今、牛丼もどきを食べて笑っている。
だが、その“普通”が必要だった。
張り詰めっぱなしの心は、いつか折れる。
折れたら、助けられる命も助けられない。
ペルシアは箸を置き、端末を開いた。
笑いの余韻を抱えたまま、目だけが冷たく戻る。
「食べ終わったら、再度ログ送信。あと、通信ポイントの補正を十ミリ単位で詰めるわよ。ノイズがひどいから、拾える可能性を上げる」
「了解」とリュウジ。
「うちもやる」とチャコ。
「私も」とクリスタル。
ククルも、背筋を伸ばして頷いた。
「はい!」
その返事が操縦室に響いた瞬間、アルテミスの“日常”は終わる。
そして、彼らはまた“仕事”に戻った。
笑いは消えるが、消え方が違う。疲れた笑いではなく、腹の底に残る火として消える。
操縦席のリュウジが、前方の闇に視線を据える。
十三時間後、境界線。
その先で待つのはノイズではない。沈黙だ。
ペルシアは端末を叩きながら、低く呟いた。
「……待ってなさいよ、ブライアン。ブルンクリン。こっちは、ちゃんと行くから」
誰にも聞こえないくらい小さな声。
けれど、操縦室の全員が“今の言葉”を聞いた気がした。
チャコが、ほんの少しだけ声を柔らかくする。
「ペルシア、さっきの“時効”は、エリンが決めるやつやで」
「……うるさい」
ペルシアが口だけで返し、クリスタルが小さく笑う。
ククルは、黙って湯気の消えたパックを片付けた。
アルテミスは進む。
ノイズの向こう側へ。
笑いと緊張を同じ船内に載せたまま、救助のために。
ーーーー
夕食のパックが片付けられ、操縦室には再び機械の息づかいだけが残った。
金属の壁の向こうで、アルテミスは黙々と宙を切り裂いている。何も起きていない――その“何も起きていない”を維持するために、無数のセンサーが働き、航法が計算し続け、誰かの指先が休みなく動いている。
その中で、ペルシアがふいに声を出した。
「とりあえず、交代で休憩しましょう」
淡い命令ではなく、疲労を読んだ上での判断だった。
背中に張りついた緊張は、放っておくと崩れる。崩れたら、誰かがミスをする。ミスをすれば、宙は容赦なく命を持っていく。
リュウジが頷く。
「そうだな。休めるときに休んだ方がいい」
チャコはレーダー表示を指でなぞり、機器の反応を確かめた。
「アルテミスも問題なさそうやし、レーダーも異常なしや」
クリスタルが椅子の背にもたれたまま言う。
「二班に分ける?」
ペルシアは迷いなく割り振った。
「そうね。リュウジと私で一班。クリスタル、チャコ、ククルで一班でどう?」
「いいんじゃないか?」とリュウジ。
「それがええやろ」とチャコ。
ククルも姿勢を正し、即答する。
「分かりました」
ペルシアは端末を一度閉じて、各員を見た。
「それじゃあ、リュウジがいない間はクリスタルが操縦。チャコがシステムと通信。ククルはチャコの補助に入ってあげて」
「了解」とクリスタルは立ち上がった。「何かあったら起こしてね」
「ほな、あとは頼んだで」とチャコが肩を回し、ククルが丁寧に頭を下げる。
「ペルシアさん、リュウジさん、よろしくお願いします」
三人が操縦室を出ていき、扉が静かに閉まる。
その音が消えた瞬間、空間の密度が変わった。今まで賑やかだったわけじゃない。けれど、誰かがいることで保たれていた“音の抜け道”がなくなり、静けさが濃くなる。
ペルシアは一つ息を吐き、キッチンの方へ向かった。
足音が遠ざかり、また戻ってくる。
手にしたカップから、湯気が細く立ち上っていた。
「はい、コーヒー」
操縦席のリュウジに差し出す。
リュウジは受け取り、短く言った。
「ありがとう」
ペルシアはそのまま副操縦席に腰を降ろし、自分の分のカップを口に運ぶ。熱が喉を通って、胸の奥へ落ちていく。
その間も、彼女の視線は端末から離れない。
やがて、端末の光に顔を照らされながら、ペルシアがぽつりと呟いた。
「流石のリュウジでも緊張するのね」
リュウジは操縦桿を軽く握り直し、横目でペルシアを見る。
「緊張してると思うか?」
「強がらない。舵を切るときに息を細かく吐いてるでしょ。それ、緊張している時のリュウジの癖よ」
一瞬、リュウジのまつ毛が僅かに動いた。
自覚していない所を突かれたときの反応だ。口元は動かないのに、目だけが正直になる。
「……俺でも気づいてなかった」
ペルシアはカップを置き、肩をすくめる。
「癖ってそういうものよ。まあ、私が気づいたわけじゃないけどね」
「え?」
「昔、エリンがね。教えてくれたのよ」
「エリンさんが?」
「そ。あの子、色々な癖を知ってたわよ。悩んでるときは僅かに眉が上がるとか、動揺してるときは目元が僅かに下がるとか」
リュウジは、信じられないものを見たように前方を見つめたまま言った。
「……俺の知らない癖をどれだけ知っているんだ?」
ペルシアは楽しそうに笑う。
「さあね」
そして、さらりと追い打ちをかける。
「だけど、トランプとかしたら絶対に勝てなかったのは、そういう癖を見抜かれてるからだと思うよ」
リュウジがほんの少しだけ口角を上げる。
怒りでも呆れでもない、諦めに似た笑みだった。
「……今度やるなら、ポーカーフェイスの練習が必要だな」
「そうね。エリンに教われば?」
「やめろ。勝てる気がしない」
そのやり取りは、ほんの数秒だけ操縦室を柔らかくした。
だが柔らかい空気の下に、ずっと硬い骨がある。
彼らは今、救助任務のまっただ中だ。誰かが笑えば、そのぶん“怖さ”が滲む。怖いから笑う。笑えるのは、怖さを知っているからだ。
リュウジが、端末に視線を落とすペルシアへ言った。
「……ちなみにさっきから何を見ているんだ?」
ペルシアは端末を持ち上げる。
「これ?」
「ああ」
「アルテミス、ホーク、ネフェリスの設計図に、北側未探索領域の分析データや報告書」
「全部、見てるのか?」
「ええ。だいたい頭には入れたけどね」
彼女は、まるで“当然”と言うように言った。
その当然が、どれほどの努力の上に成り立っているかを、リュウジは知っている。だからこそ、言葉が自然と低くなる。
「流石だな」
ペルシアは目を逸らさない。
「当たり前でしょ。皆んなの命がかかってるんだから」
「……ああ」
その一言の重さが、操縦室の天井に張りつく。
命がかかっている。たったそれだけで、全てが正当化されるわけじゃない。でも、全てを“やる理由”にはなる。
ペルシアは、端末をスクロールしながらふと口にする。
「リュウジの報告書もあったわよ」
「ああ。過去に北の未探索領域には、二ヶ月ほど航行したことがある」
ペルシアは頷き、先ほどのノイズを思い返すように言った。
「恐らく周期的に発生している隕石群の粉塵に、二機とも巻き込まれたんだろうな」
ペルシアは迷いなく答える。
「その可能性が濃厚ね。リュウジの時も巻き込まれたみたいだけど、上手く躱したようね」
「ああ。薄い帯を見つければ、突破はそう難しくはない」
ペルシアの視線が一瞬だけ鋭くなる。
「それはリュウジだからよ。ブライアンもブルンクリンも、それが出来なかった」
「まあ、今回はそう難しくない」
「そうなの?」
リュウジが、今度はペルシアを見る。
そこに信頼があった。仲間としての信頼ではなく、“相棒”としての信頼だ。相手の感覚を、能力を、経験を、背中で知っている者だけが向けられる眼差し。
「今回はペルシアがいる。お前の耳があれば、最適のルートを割り出せるだろ?」
ペルシアは一瞬驚いたように瞬きをし、それから笑った。
「ふふ。まあね」
その笑みが見えた瞬間、リュウジの目元がほんの少し柔らかくなる。
彼は小さく呟いた。
「……もう大丈夫そうだな」
ペルシアが首を傾げる。
「何が?」
リュウジは前方に視線を戻したまま、慎重に言葉を選ぶ。
「一年間、姿を見せなかったのは休暇って言っていたが……本当はそれだけじゃないんだろ?」
ペルシアの指が止まった。
端末の光が彼女の頬を照らし、視線の影が落ちる。
「……やっぱ分かっちゃう?」
「なんとなくだがな」
リュウジは“決めつけ”をしない。
確信を言い切らない。だから、ペルシアは話せる。
ペルシアはカップの縁を指でなぞり、少しだけ息を吸った。
「正直な話ね。私の心はずっとギリギリだったのよ」
その言葉は、怒号でも冗談でもなかった。
平坦で、静かで、逃げ道がない。
だからこそ、真実だった。
「最初はドルトムントで、あの班と揉めた時。次は悲劇のフライトで、リュウジとエリン達を守れなかったとき。……そしてブライアン捜索の時に、あなた達が消失したと思ったとき」
ペルシアは、口の中で一度だけ言葉を噛み砕く。
“消失した”という響きが、今も喉を刺すのだろう。
「あの段階で、私の心は完全にボロボロに砕かれてたのよ」
リュウジは何も言わない。
慰めの言葉は、彼女の傷を軽くする危険がある。
だから、ただ聞く。聞き続ける。それが今できる一番の“寄り添い”だと知っている。
ペルシアは続けた。
「確かにローズをやり直させる目的もあった。局長にそう言った。……でも本当は、私が休みたかったのよね」
「だからアルバイトもしたのか?」とリュウジ。
「ええ。いろんな職種の人に触れて、自分を見つめ直したかった。宇宙の人間だけじゃなくて……“地上”の人間にも」
“地上”。
その言い方が、ペルシアらしい。
宇宙を舞台にして生きる者ほど、地上のことを軽く扱ってしまう。けれど本当は、地上こそが命を繋いでいる。宇宙の仕事も、帰る場所があるからできる。
リュウジが穏やかに問う。
「どうだった?」
ペルシアは、端末を閉じた。
その仕草が、仕事を一旦置く合図みたいだった。
彼女の声はいつの間にか柔らかくなり、遠くを見るようになる。
「花屋の人は、毎朝同じ時間に同じ花を並べるの。ケーキ屋は、焼き時間を一秒単位で守るの。配送業は、“時間”と“安全”のバランスで生きてる」
その言い方は、ただの職業紹介じゃない。
彼女が見て、触れて、驚いて、尊敬した“生き方”の列挙だった。
「宇宙管理局の人間は、どうしても大きい話をする。規則、組織、宇宙船、領域、政治……」
ペルシアは指先でカップを軽く叩く。
その音が、操縦室に小さな波紋を作る。
「でも、花屋の人は違う。『この花を今日、枯らさない』っていう戦いをしてる」
ペルシアの目が、少しだけ潤んだように見えた。
泣きそうなわけじゃない。
懐かしさに似た光が入っただけだ。
「喫茶店の人は、『この一杯を、きちんと出す』っていう責任を持ってる」
リュウジがゆっくり頷く。
その頷きは、理解の頷きだ。
“命を守る”という巨大な言葉は、結局のところ“今日の一杯をきちんと出す”みたいな小さな正確さの積み重ねでできている。
ペルシアは少し笑う。
「宇宙の仕事って、どうしても“英雄”とか“奇跡”とか、そういう言葉がついて回るじゃない?」
「……ああ」
「でもね、地上の人たちは、奇跡なんて待ってないの。今日のことを今日やるだけ。明日も同じことをやるだけ。毎日、当たり前を壊さないように生きてる」
言葉の最後が、少しだけ震えた。
それは弱さではない。
“その当たり前が、どれだけ強いか”を知った震えだ。
「その姿を見た時に、私……まだまだだなって思った」
リュウジは、操縦桿の指をゆっくり動かし、微細な姿勢制御をかけた。
アルテミスの進路が、ほんの僅かに修正される。
宙は広い。ほんの僅かなズレが、致命傷になる。だから、今この瞬間の僅かな修正が命を救う。
彼は前を見たまま言った。
「……お前は十分すぎるほどやってる」
ペルシアが苦笑する。
「そういうの、言わないで。甘やかしはペルシア派の特権だから」
「誰がペルシア派だ」
「今の、完全にペルシア派」
「……違う。事実を言っただけだ」
ペルシアが小さく笑う。
笑いながら、カップを持ち直す。
その指先はもう震えていなかった。
「地上でね、配送のおじさんに言われたの。『急いでるときほど、スピード出すな』って」
リュウジが微かに目を細めた。
「……いい言葉だな」
「でしょ?」
ペルシアは端末を開き直す。
その動きが、また統括官の動きに戻る。けれどさっきまでの張り詰めた鋭さとは違う。
地上で手に入れた“芯”が、彼女の内側に一本通っている。
「だから、今も同じ。急ぐけど、焦らない。救うために、丁寧にやる」
リュウジは頷いた。
操縦室の窓の外に、見えない境界線が近づいてくる。
十三時間後。そこから先は、ノイズではなく沈黙が待っている。
ペルシアが端末に入力する。
ブライアンに向けたログ。
ブルンクリンに向けたログ。
“こちらはアルテミス。進行中。必ず行く。”
その短文の裏側には、花屋の人の「枯らさない」、喫茶店の人の「きちんと出す」、配送業の人の「急ぐほどスピードを出すな」が詰まっている。
リュウジが小さく息を吐く。
息が細かい。
ペルシアはそれを見て、ふっと笑った。
「ほら。やっぱり緊張してる」
「……してない」
「してる」
「……」
言い返さない。
それが、リュウジの“認めた”の合図だった。
ペルシアはコーヒーを一口飲み、そして、いつもの調子にほんの少しだけ戻って言った。
「大丈夫よ。私がいるんだから」
その言葉が、奇跡みたいに軽く響くのに、重い。
ペルシアは、英雄の言葉ではなく、地上の責任の言葉としてそれを言った。
アルテミスは進む。
当たり前を壊さないために。
救うために、丁寧に、焦らず、そして――必ず。