サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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本音

ペルシアの怒りが、まるで燃え尽きた焚き火のように鎮まったあと。

宇宙船アルテミスの中には、機械の呼吸だけが残っていた。

 

推進器が一定のリズムで低く唸り、床を伝う微細な振動が足裏に触れる。

換気の風が乾いた音を立て、計器の灯りが静かに点滅する。

さっきまで同じ空間に、雷のような怒号が落ちていたなんて信じられない。

それほど、船内は穏やかだった。

 

だからこそ――その静けさに、ククルの足音がよく響いた。

 

ククルは小さなトレイを両手で抱え、背筋を伸ばして歩く。

歩幅は一定、左右の揺れは最小。足の運びも丁寧で、船の揺れを予測するように重心を置いていた。

 

まずはクリスタルの席に、エネルギーパックを置く。

次にチャコへ、フルーツジュース。

そして最後に、操縦席のリュウジと、端末をいじっているペルシアのところへ、コーヒーを運ぶ。

 

「……随分、上手くなったな」

 

リュウジが、コーヒーのカップに目を落としながら言った。

口調は淡々としていたが、そこに含まれる評価は本物だった。

 

「本当ですか!」

 

ククルが、ぱっと顔を明るくする。

嬉しさが隠しきれず、ポニーテールの先がぴょんと跳ねた。

 

「ああ」

 

リュウジは短く頷き、カップの取っ手に指をかける。

その動きが無駄なく滑らかで、いかにも“操縦士の手”だった。

 

「もう一つかな」

 

その横で、ペルシアが端末の表示から目を逸らさないまま、ぼそりと呟いた。

 

ククルの視線が自然とペルシアへ向く。

何か失敗したのかと、少しだけ肩が硬くなる。

 

ペルシアは画面を見たまま言った。

 

「操縦士に飲み物を渡す時は、置くんじゃなくて、預ける感じで」

 

「置くより……預ける」

 

ククルは、言葉を噛みしめるように繰り返し、納得したように頷いた。

 

ペルシアはようやく端末から目を離し、ククルを見上げる。

その視線は厳しいというより、細部を拾い上げる職人の目だ。

 

「歩き方と立ち方は、とても良かったよ」

 

「ありがとうございます!」

 

ククルの声が弾む。

褒められたことが嬉しくて、足先まで軽くなりそうだった。

 

「やっぱり副パーサーは伊達じゃないね」

 

クリスタルが、エネルギーパックの封を切りながら笑う。

 

「当たり前でしょ」

 

ペルシアは軽く鼻を鳴らして、端末の入力に戻った。

その自信満々の背中は、さっきまでの怒号の残り火すら感じさせない。

 

コックピットの空気は落ち着いていた。

一瞬だけ、本当に“遠足前の準備”みたいな軽さが漂う。

 

その軽さを、チャコが遠慮なく掴んで投げた。

 

「なぁペルシア」

 

「なに?」

 

ペルシアは端末から目を逸らさない。

 

チャコはジュースのストローを噛みながら、少しだけ間を取った。

聞いていいのか迷っている時の、チャコ特有の間だ。

 

「聞いてええんか分からんけど……宇宙管理局を停職になってから、どこで何してたんや?」

 

ペルシアの指が、ふと止まった。

入力が止まったというより、質問を“処理”するために一度、手を休めた感じ。

 

「大したことはしてないわよ」

 

そう言って、端末から手を離す。

椅子の背にもたれ、軽く肩を回した。

 

「停職してすぐは、木星コロニーのカザレアで過ごしてたわ」

 

「……カ、カザレア!?」

 

ククルが椅子から浮きそうな勢いで驚き、同時にチャコが目を剥く。

 

「なんやて!? カザレアって、あのカザレアか!?」

 

クリスタルも、さすがに口を開けた。

 

「カザレアって……超高級リゾート地じゃない!?」

 

「ええ」

 

ペルシアが、楽しそうに笑う。

 

「とっても良かったわよ。毎日豪華ディナーにエステ三昧。幸せだったわ」

 

言い切る顔が、嘘ひとつない。

宇宙管理局の統括官が言う“幸せ”が、豪華ディナーとエステなのが妙に生々しい。

 

「よくそんなお金があったわね」

 

クリスタルが呆れ半分で言う。

 

「ないない。一ヶ月で有り金ぜーんぶ使い切っちゃったもん」

 

「全部使ったんですか!?」

 

ククルが素直すぎる声を出した。

チャコも、「アホやろ」と言いたいのを飲み込んだ顔をしている。

 

ペルシアはククルに手招きする。

「こっち」と指で呼び寄せ、ククルが耳を近づけると、ペルシアはその耳元へ、こっそり数字を囁いた。

 

ククルの目が、みるみる大きくなる。

 

「そ、そ、そんなにですか!?」

 

声が裏返った。

それだけで“桁”が普通じゃないことが伝わる。

 

ペルシアは肩をすくめ、楽しそうに笑う。

 

「宇宙管理局を停職した時点で、パァー!って使ってやろって思ってね」

 

「なんや……てっきりリークされた証拠を集めとったんかと思うたわ」

 

チャコがジト目で言う。

その横で、リュウジがコーヒーを一口飲み、苦味を確かめるように目を細めた。

 

「証拠なら追放されてすぐに集まってたし」

 

ペルシアが、さらっと言った。

 

「……そうなのか?」

 

リュウジが、少しだけ意外そうに言う。

彼はこういう“裏工作”を、軽口として言えるタイプではない。

 

「ええ。カラスとフレデリックに頼んだら、すぐ持ってきてくれたよ」

 

「流石だな」

 

リュウジが短く頷く。

“流石”の対象が、ペルシアなのか、カラスとフレデリックなのか、両方なのか。

少なくとも、その一言に信頼が混じっているのは分かった。

 

「だけど高くついたわよ。依頼料に口止め料」

 

「口止め料も払ってたんか。どうりでカラスが何にも教えてくれへんわけやな」

 

チャコが頬を膨らませる。

 

クリスタルが、ペルシアを横目で見た。

 

「どうせ、私たちを巻き込ませないように、とか考えてたんでしょ」

 

「その通り」

 

ペルシアが、あっさり認めた。

 

ククルが首を傾げる。

疑問が顔いっぱいに広がる。

 

「でも、どうして証拠があったのに、宇宙管理局にすぐ戻らなかったんですか?」

 

ペルシアは、きょとんとした。

 

「え? そんなの決まってるじゃない」

 

「……え?」

 

ククルが小さく声を漏らす。

 

ペルシアは当然のように言った。

 

「せっかくまとまった休暇なのよ? すぐに戻ったら勿体ないじゃない」

 

クリスタルが即座にツッコむ。

 

「停職と休暇は違うから」

 

チャコが吹き出す。

リュウジも、口元だけで笑った。ほんの少し。

その“ほんの少し”が、逆に面白い。

 

だがチャコがすぐに呆れたように口を開く。

 

「ウチら色々と探したんやで」

 

チャコが言う。

 

「そうそう、大変だったんだから」

 

クリスタルも乗る。

 

「だから、ごめんなさいって言ったじゃない」

 

ペルシアは悪びれない。

むしろ“はい、謝罪済み”という顔だ。

 

「反省してる人を責めて何になるのよ」

 

ペルシアが胸を張る。

その瞬間、全員の心に同じツッコミが浮かんだ。

 

――散々リュウジに怒って、謝っても許さなかったくせに、どの口が言うんだろ。

 

言葉にはしない。

言葉にしたら、また雷が落ちる。

その理性が、この船の平和を支えていた。

 

ククルが、ふと現実的な質問を投げる。

 

「お金がなくなってから、何してたんですか?」

 

「お金がなくなってからは、バイト三昧よ」

 

ペルシアは、あっけらかんと言った。

 

「宇宙以外の仕事にも興味あったし」

 

「何のバイトしてたんや?」

 

チャコが興味津々に身を乗り出す。

 

「えっとね。ケーキ屋に、喫茶店、お花屋、配送業……などなどかな」

 

「結構、転々としてたんだな」

 

リュウジが淡々と言う。

その口調の中に、“意外”と“納得”が同居している。

 

「ちなみに今は農作業のアルバイトね」

 

「せやから、あんなに汚れた作業着やったんやな」

 

チャコが頷く。

 

「そうそう。朝五時に起きて、畑を耕してた所で、局長に呼び出されたのよ」

 

ペルシアは懐かしそうに笑い、次の瞬間にはいたずらっ子みたいな目になった。

 

「そうだ。今度、農薬の散布、リュウジ手伝ってよ」

 

「俺がか?」

 

リュウジが眉を上げる。

 

「そ。小型飛行機で農薬散布してよ」

 

「ああ。分かった」

 

リュウジの返事が速い。

断る理由がない、と判断した時の彼の返答は迷いがない。

 

「言質とったからね」

 

ペルシアが指を立てる。

 

「ああ」

 

「いやー助かるよ」

 

ペルシアが満足げに言い、ククルが真面目な顔で手を挙げた。

 

「あの、ペルシアさん、アルバイトしても大丈夫なんですか?」

 

「なんで?」

 

ペルシアが首を傾げる。

 

「宇宙管理局って、副業いいんですか?」

 

ククルが聞くと、クリスタルが即答した。

 

「駄目よね」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

ペルシアが笑って言う。

 

「規則変えるから」

 

クリスタルが目を細める。

 

「やめなさいよ、そういうこと簡単に言うの」

 

「簡単じゃないよ?」

 

ペルシアは涼しい顔だ。

 

「稟議を通すのが大変なの」

 

「じゃあ、なんでそんな軽く言えるんや」

 

チャコが突っ込む。

 

「慣れてるから」

 

ペルシアは平然と返し、ククルが尊敬と恐怖が混じった顔で頷いた。

 

その会話の最中にも、アルテミスは前へ進んでいる。

“今は静か”というだけで、状況が安全になったわけではない。

 

航法モニターの端で、座標が更新される。

セーシング領域の境界が、薄い線で示され、外側は暗い海のように広がっている。

 

リュウジは、コーヒーを置き、操縦盤に視線を戻した。

さっきまでの小さな笑いは消え、目が“計算”に戻る。

 

「……通信ポイントまで、あと二十分」

 

その一言で、船内の空気がほんの少し締まった。

 

チャコが端末を叩き、ククルが自分の姿勢を正す。

クリスタルがエネルギーパックを握り直し、ペルシアは端末を開いて別の画面に切り替える。

 

“冗談の時間”と“仕事の時間”が、ペルシアの呼吸ひとつで切り替わる。

 

その切り替えを見て、ククルが小声で呟いた。

 

「……すごい」

 

ペルシアが聞き逃すはずがない。

 

「なにが?」

 

「いえ、その……切り替えが……」

 

ククルが言い淀む。

 

ペルシアは少しだけ表情を柔らげた。

 

「切り替えじゃないよ。全部、同じ」

 

「同じ……?」

 

「笑っても、怒っても、指示しても。目的は一つ。守ること」

 

言葉が短いのに、重かった。

 

クリスタルが、あえて軽く言う。

 

「でも守るために豪華ディナーとエステ三昧は必要なの?」

 

ペルシアが即座に返す。

 

「必要。精神衛生は救助効率に直結する」

 

チャコが笑う。

 

「言い方だけは完璧やな」

 

リュウジが、ほんの少しだけ口元を上げた。

 

そのとき、ククルがふと思い出したようにペルシアを見る。

 

「……でも、ペルシアさん。証拠を集めてたなら、新しい統括官のこと……すぐに終わらせることもできたんですよね?」

 

ペルシアは端末を見たまま、答える。

 

「できたよ」

 

淡々とした声。

 

「……じゃあ、どうして」

 

ククルの疑問は純粋だった。

 

ペルシアは一拍置いてから言った。

 

「終わらせるのは簡単。でも“終わらせ方”が大事」

 

クリスタルが眉を上げる。

 

「終わらせ方?」

 

「そう。ローズを潰すだけなら簡単。局長に証拠を渡して、懲戒処分。はい終わり」

 

ペルシアは言葉を区切る。

その口調には、現場の経験が染みついている。

 

「でも、それだとローズは“自分は悪かった”じゃなくて、“負けた”って思う」

 

チャコが鼻を鳴らす。

 

「めんどくさいな」

 

「めんどくさいよ」

 

ペルシアが素直に認めた。

 

「でも、統括官って、そういう面倒を引き受ける仕事」

 

ククルが息を飲む。

 

「ローズはね。今は震えてる。悔しい。情けない。――そう思えるなら、まだ立て直せる」

 

ペルシアは端末の画面を閉じた。

画面が暗くなった分、彼女の目の光がはっきり見える。

 

「私が戻ったのは、“勝つため”じゃない。救助のため。守るため。――そして、宇宙管理局が腐らないため」

 

クリスタルが、いつもの軽口を飲み込む顔をした。

チャコも、ジュースのストローを噛むのをやめる。

 

リュウジだけは、操縦盤の光の中で静かに頷いた。

 

「……お前は変わらないな」

 

リュウジの声は、評価でも褒め言葉でもない。

事実を言っているだけ。

だがそれが、ペルシアにはいちばん心地よい。

 

ペルシアは肩をすくめる。

 

「変わってたら、今ごろリゾート地で永久就職してる」

 

「永久就職ってなんやねん」

 

チャコが突っ込み、ククルが笑いそうになって口を押さえた。

 

しかし、笑いは短く終わる。

船内のスピーカーが、低く通知音を鳴らしたからだ。

 

通信ウィンドウに、弱い信号が点る。

座標の端に、途切れ途切れの波形。

 

チャコが即座に反応する。

 

「……通信拾った」

 

リュウジが目を細め、操縦桿をほんの少し動かす。

機体がわずかに進路を修正する。

 

ペルシアが、椅子を引く音を立てずに立ち上がる。

さっきまで“雑談”をしていた人間の動きじゃない。

音ひとつで空気が変わる。

 

「音量上げて」

 

「了解」

 

チャコが操作する。

波形が太くなり、ノイズ混じりの声が、かすかに船内へ流れ込んだ。

 

「……こちら……ブライ……」

 

途切れている。

だが確かに、“生きた声”だった。

 

ククルが息を呑み、クリスタルが唇を結ぶ。

リュウジの目が、一段深く沈んだ。

 

ペルシアは一瞬だけ目を閉じ、すぐ開く。

 

「よし。生きてる」

 

その一言が、船内の温度を変えた。

さっきまでの笑いが、今度は別の意味で胸を温める。

 

ペルシアは、ククルへ視線を向けた。

 

「ククル」

 

「はい!」

 

「今のは“預ける”じゃなくて、“繋ぐ”仕事。準備できてる?」

 

ククルは背筋を伸ばし、唇を引き結んだ。

 

「できます。やります」

 

リュウジが短く言う。

 

「行くぞ」

 

アルテミスが、静かなまま速度を上げる。

静かなのに、心臓だけがうるさい。

 

そしてその静けさの底で――

ペルシアが、ふっと小さく笑った。

 

「ね。やっぱり休暇は必要でしょ?」

 

クリスタルが、呆れたように返す。

 

「今それ言う?」

 

「言う。だって、今が一番いいタイミング」

 

チャコが口角を上げた。

 

「相変わらず、変な女やな」

 

ククルは、その“変”がなぜか頼もしくて、目を輝かせた。

 

リュウジは操縦盤の光の中で、ほんの少しだけ柔らかく言った。

 

「……頼むぞ」

 

その言葉は、救助のためでも、任務のためでもある。

同時に、ここにいる全員への――“預ける”言葉だった。

 

アルテミスは宙を裂き、未探索領域へ踏み込んでいく。

笑いの残り香を背に、緊張と希望を胸に抱えながら。

 

ーーーー

 

アルテミスの操縦室には、機械が生き物みたいに呼吸する音が満ちていた。

航法モニターに流れる座標、速度、外殻温度、微細な姿勢制御の補正値。壁面の表示が一定のリズムで更新され、誰も触れていないのに、船全体が“前へ進むための計算”を続けている。

 

その静けさを切り裂くように、スピーカーが一度だけ鳴った。

 

「……こちら……ホー……」

 

掠れた声。

ブライアンの船――ホークからの通信だ。

たった数音だけが、操縦室の空気を震わせた。全員が一斉に顔を上げ、息を止める。

 

だが次の瞬間、音はザザ、と濁流のようなノイズに呑まれた。

声が溶け、言葉が形を失い、雑音だけが残る。

 

「……今の、ブライアンだよね」

 

クリスタルが低く呟く。

ククルは箸を持つ手を止めたまま、目だけを大きくした。チャコはモニターを睨み、指先でノイズフィルタの設定を切り替える。

 

リュウジは操縦桿から手を離さない。表情が変わらないまま、視線だけが鋭く前方の闇を捉えている。

 

ペルシアが、歯を軽く噛んだ。

 

「……送信がやられてるわね。船側の送信系が死にかけてる。だから、出るには出るけど、まともな変調ができてない」

 

誰かを安心させるための言い方ではない。

現実を切り分けるための言葉だ。状況を正確に見誤らないために、あえて冷たく言う。

 

「とりあえず、こっちからの通信が届いているか、ログだけは送っておく」

 

ペルシアは自分の端末を開き、入力欄を高速で叩き始めた。

“受信確認不要。こちらはアルテミス。到達予定、〇〇時間。現在座標――”

文章は短く、余計な感情がない。けれど、その短文の裏側に「生きてて」「待ってて」が詰まっている。

 

リュウジは頷いた。

 

「頼む」

 

それだけ。

その一言に、“今はそれしかできない”という悔しさと、“それでもやる”という覚悟が両方混じっていた。

 

チャコが舌打ちを飲み込み、ブルンクリン側のログを呼び出す。

通信ポイント――最後の通信地点から算出した“入るはずの範囲”は確かに通っている。だが応答がない。

 

「ブルンクリンの方はどう?」とクリスタル。

 

チャコはモニターを眺めたまま答える。

 

「最後の通信地点からやと、通信ポイントには入ってるはずやけど……応答がないな」

 

ペルシアが即座に補足する。

 

「送信機が壊れている可能性が高いわね。あるいは、送信できても、姿勢制御が壊れてアンテナの向きが死んでる。……どっちにしても、こっちが近づかないと拾えない」

 

チャコが肩をすくめた。

 

「せやな。どちらにせよ、もう少し近づかんとあかんな」

 

操縦席のリュウジが、航法表示の縁に目をやる。セーシング領域――あの境界線は、まだ遠い。近づいているのに、遠い。

 

ペルシアが視線だけで確認する。

 

「リュウジ、あとどれくらいでセーシング領域の縁に到着する?」

 

「あと十三時間。予定通りならな」

 

答えは淡々としていた。

淡々としているからこそ、重い。十三時間は、待つ側にも、待たれる側にも長い。

 

クリスタルが唇を噛む。

 

「どうする?」

 

ペルシアは一瞬だけ、全モニターを見渡した。

アルテミスの状態、通信状況、航路、燃料残、そして、彼らの表情。迷う時間はない。だが、独断になってもいけない。――だから、短くまとめる。

 

「とりあえず現状維持で向かいましょう。さっき、スターフォックスも宇宙管理局を出発したみたいだし」

 

その言葉に、操縦室の空気がほんの少しだけ緩む。

“援軍が来る”という事実は、安心というより、“最悪に備えられる”という希望だ。

 

クリスタルが頷く。

 

「それなら安心ね」

 

リュウジも短く息を吐いた。

 

「ああ。とりあえずは一安心だな」

 

その瞬間――まるで合図でもしたみたいに、チャコが腹のあたりを押さえた。

 

「……せやな。なんや安心したら腹が減ってきたで」

 

クリスタルが苦笑する。

 

「もう十八時だもんね。ククル~?」

 

ペルシアが、いつもの調子で声を投げた。

操縦室に返事がない。

 

「あれ?」

ペルシアが首を傾げる。「どこ行ったのかしら」

 

チャコが肩を揺らす。

 

「トイレでも行っとるんちゃうか?」

 

その時、操縦室の扉がスッと開いた。

入ってきたのはククルだ。音符が付いているんじゃないかと思うくらい、明るい声が響く。

 

「お待たせしました!」

 

声だけで、船内の照明が一段明るくなった気がした。

 

「今日の夕食を持ってきました!」

 

両手にはトレー。密閉パック、温かい蒸気、そして妙に“ちゃんとした匂い”。

乾燥食のはずなのに、ひどく現実味がある。

 

「ナイスタイミング」とクリスタルが笑う。

 

ペルシアは嬉しそうに目を細めた。

 

「なに、やればできるじゃない」

 

ククルは胸を張る。

 

「今日の夕飯は、乾燥食のご飯と、牛の大和煮を戻した――牛丼もどきです!」

 

「ええ声やな。船内が明るくなる」とチャコが言うと、ククルは照れたように肩をすくめた。

 

リュウジが、端末を閉じるペルシアの横で淡々と付け足す。

 

「これがククルの持ち味だ」

 

ククルは嬉しそうに頷き、夕食を各席に置いて回る。

彼女の動きは軽い。廊下でもそうだったが、操縦室内でも邪魔にならない位置取りができている。

 

クリスタルがパックを持ち上げて目を丸くした。

 

「温かいね。どうやって温めたの?」

 

ククルは、まるで秘密を披露するみたいに笑う。

 

「この宇宙船、キッチンがついてるんですよ」

 

「……キッチン」

 

ペルシアが悔しそうに唇を尖らせる。

 

リュウジが、機体の仕様を思い返すように言った。

 

「サツキは本当によく考えてるな」

 

「でもなんか悔しい」とペルシア。

 

クリスタルが笑みを深くする。

 

「悔しい?」

 

「ククルは私と同じで料理ができないと思ってたのに」

 

その言い方があまりに自信満々で、チャコが噴きそうになるのをこらえた。

 

ククルが、クスッと笑う。

 

「それはカイエですよ」

 

「それは仕方ないね。昔からカイエはペルシア派だったもんね。ククルはずっとエリン派だったし」

 

ペルシアはさらっと言って、牛丼もどきを口に運ぶ。

言い放った本人は完全に真顔なのに、会話の温度だけが妙におかしい。

 

チャコが箸を止め、眉を上げる。

 

「その……エリン派、ペルシア派ってなんなんや?」

 

ペルシアは当然のように答えた。

 

「私を甘やかしてくれる人がペルシア派で、エリンの味方をする人がエリン派なのよ」

 

「なんやそれ!」

チャコが笑い、クリスタルも吹き出す。

 

リュウジが冷静に突っ込む。

 

「お前が勝手に言ってるだけだろ」

 

「エリン派筆頭のくせに」とペルシア。

 

「誰がだ」

 

「昔からリュウジはエリンの言うことは素直に聞くじゃない」

 

「……必要ならな」

 

「エリンの味方ばっかりして」とペルシアはなおも言い、リュウジは返す言葉を探すのをやめて牛丼もどきを食べる。

“言えば言うほどややこしくなる”と本能が理解している顔だった。

 

クリスタルが面白がって乗る。

 

「ペルシア派は他に誰がいるの?」

 

ペルシアは少し考えるふりをして、指を立てた。

 

「タツヤ班長とかはペルシア派だったわね。私がフライトに遅刻してもエリンに黙っててくれたし」

 

ククルが箸を落としそうな勢いで驚く。

 

「ええ!? フライトに遅刻したことがあったんですか!?」

 

「たまーにね」とペルシアは涼しい顔。

 

リュウジがぼそり。

 

「タツヤ班長は面倒事を避けてただけだと思うぞ」

 

チャコが目を細める。

 

「せやけど、本当にエリンにバレとらんかったんか?」

 

「そりゃ、もちろん」とペルシア。

 

クリスタルが、わざとらしく首を傾げた。

 

「どうだろうね」

 

ククルが真面目に補強する。

 

「エリンさん、そういう所はちゃんと見てますよ」

 

「でも、一回も言われたことはなかったわよ?」とペルシア。

 

チャコが即答する。

 

「言わんかっただけやろ」

 

リュウジも頷く。

 

「今思えば、エリンさんが気付かないのは違和感があるな」

 

言われた瞬間、ペルシアも“確かに”と思ってしまう。

遅刻を叱らないエリン。

それは優しさか、それとも――あえて言わない圧か。

 

ペルシアは一瞬だけ目を泳がせ、そして逃げるように笑った。

 

「……まぁ、時効よ! 時効!」

 

「調子のええやっちゃ」とチャコが笑う。

 

リュウジも口元だけで笑った。クリスタルも肩を揺らし、ククルはほっとしたように笑いながら、食器の位置を微調整する。

 

――あまりにも、普通の光景だった。

それが、逆に胸に刺さる。

 

ここは未探索領域へ向かう救助船の操縦室。

ノイズ越しに、仲間の声が消えかけたばかりの場所。

なのに、今、牛丼もどきを食べて笑っている。

 

だが、その“普通”が必要だった。

張り詰めっぱなしの心は、いつか折れる。

折れたら、助けられる命も助けられない。

 

ペルシアは箸を置き、端末を開いた。

笑いの余韻を抱えたまま、目だけが冷たく戻る。

 

「食べ終わったら、再度ログ送信。あと、通信ポイントの補正を十ミリ単位で詰めるわよ。ノイズがひどいから、拾える可能性を上げる」

 

「了解」とリュウジ。

 

「うちもやる」とチャコ。

 

「私も」とクリスタル。

 

ククルも、背筋を伸ばして頷いた。

 

「はい!」

 

その返事が操縦室に響いた瞬間、アルテミスの“日常”は終わる。

そして、彼らはまた“仕事”に戻った。

笑いは消えるが、消え方が違う。疲れた笑いではなく、腹の底に残る火として消える。

 

操縦席のリュウジが、前方の闇に視線を据える。

十三時間後、境界線。

その先で待つのはノイズではない。沈黙だ。

 

ペルシアは端末を叩きながら、低く呟いた。

 

「……待ってなさいよ、ブライアン。ブルンクリン。こっちは、ちゃんと行くから」

 

誰にも聞こえないくらい小さな声。

けれど、操縦室の全員が“今の言葉”を聞いた気がした。

 

チャコが、ほんの少しだけ声を柔らかくする。

 

「ペルシア、さっきの“時効”は、エリンが決めるやつやで」

 

「……うるさい」

 

ペルシアが口だけで返し、クリスタルが小さく笑う。

ククルは、黙って湯気の消えたパックを片付けた。

 

アルテミスは進む。

ノイズの向こう側へ。

笑いと緊張を同じ船内に載せたまま、救助のために。

 

ーーーー

 

夕食のパックが片付けられ、操縦室には再び機械の息づかいだけが残った。

金属の壁の向こうで、アルテミスは黙々と宙を切り裂いている。何も起きていない――その“何も起きていない”を維持するために、無数のセンサーが働き、航法が計算し続け、誰かの指先が休みなく動いている。

 

その中で、ペルシアがふいに声を出した。

 

「とりあえず、交代で休憩しましょう」

 

淡い命令ではなく、疲労を読んだ上での判断だった。

背中に張りついた緊張は、放っておくと崩れる。崩れたら、誰かがミスをする。ミスをすれば、宙は容赦なく命を持っていく。

 

リュウジが頷く。

 

「そうだな。休めるときに休んだ方がいい」

 

チャコはレーダー表示を指でなぞり、機器の反応を確かめた。

 

「アルテミスも問題なさそうやし、レーダーも異常なしや」

 

クリスタルが椅子の背にもたれたまま言う。

 

「二班に分ける?」

 

ペルシアは迷いなく割り振った。

 

「そうね。リュウジと私で一班。クリスタル、チャコ、ククルで一班でどう?」

 

「いいんじゃないか?」とリュウジ。

 

「それがええやろ」とチャコ。

 

ククルも姿勢を正し、即答する。

 

「分かりました」

 

ペルシアは端末を一度閉じて、各員を見た。

 

「それじゃあ、リュウジがいない間はクリスタルが操縦。チャコがシステムと通信。ククルはチャコの補助に入ってあげて」

 

「了解」とクリスタルは立ち上がった。「何かあったら起こしてね」

 

「ほな、あとは頼んだで」とチャコが肩を回し、ククルが丁寧に頭を下げる。

 

「ペルシアさん、リュウジさん、よろしくお願いします」

 

三人が操縦室を出ていき、扉が静かに閉まる。

その音が消えた瞬間、空間の密度が変わった。今まで賑やかだったわけじゃない。けれど、誰かがいることで保たれていた“音の抜け道”がなくなり、静けさが濃くなる。

 

ペルシアは一つ息を吐き、キッチンの方へ向かった。

足音が遠ざかり、また戻ってくる。

手にしたカップから、湯気が細く立ち上っていた。

 

「はい、コーヒー」

 

操縦席のリュウジに差し出す。

リュウジは受け取り、短く言った。

 

「ありがとう」

 

ペルシアはそのまま副操縦席に腰を降ろし、自分の分のカップを口に運ぶ。熱が喉を通って、胸の奥へ落ちていく。

その間も、彼女の視線は端末から離れない。

 

やがて、端末の光に顔を照らされながら、ペルシアがぽつりと呟いた。

 

「流石のリュウジでも緊張するのね」

 

リュウジは操縦桿を軽く握り直し、横目でペルシアを見る。

 

「緊張してると思うか?」

 

「強がらない。舵を切るときに息を細かく吐いてるでしょ。それ、緊張している時のリュウジの癖よ」

 

一瞬、リュウジのまつ毛が僅かに動いた。

自覚していない所を突かれたときの反応だ。口元は動かないのに、目だけが正直になる。

 

「……俺でも気づいてなかった」

 

ペルシアはカップを置き、肩をすくめる。

 

「癖ってそういうものよ。まあ、私が気づいたわけじゃないけどね」

 

「え?」

 

「昔、エリンがね。教えてくれたのよ」

 

「エリンさんが?」

 

「そ。あの子、色々な癖を知ってたわよ。悩んでるときは僅かに眉が上がるとか、動揺してるときは目元が僅かに下がるとか」

 

リュウジは、信じられないものを見たように前方を見つめたまま言った。

 

「……俺の知らない癖をどれだけ知っているんだ?」

 

ペルシアは楽しそうに笑う。

 

「さあね」

 

そして、さらりと追い打ちをかける。

 

「だけど、トランプとかしたら絶対に勝てなかったのは、そういう癖を見抜かれてるからだと思うよ」

 

リュウジがほんの少しだけ口角を上げる。

怒りでも呆れでもない、諦めに似た笑みだった。

 

「……今度やるなら、ポーカーフェイスの練習が必要だな」

 

「そうね。エリンに教われば?」

 

「やめろ。勝てる気がしない」

 

そのやり取りは、ほんの数秒だけ操縦室を柔らかくした。

だが柔らかい空気の下に、ずっと硬い骨がある。

彼らは今、救助任務のまっただ中だ。誰かが笑えば、そのぶん“怖さ”が滲む。怖いから笑う。笑えるのは、怖さを知っているからだ。

 

リュウジが、端末に視線を落とすペルシアへ言った。

 

「……ちなみにさっきから何を見ているんだ?」

 

ペルシアは端末を持ち上げる。

 

「これ?」

 

「ああ」

 

「アルテミス、ホーク、ネフェリスの設計図に、北側未探索領域の分析データや報告書」

 

「全部、見てるのか?」

 

「ええ。だいたい頭には入れたけどね」

 

彼女は、まるで“当然”と言うように言った。

その当然が、どれほどの努力の上に成り立っているかを、リュウジは知っている。だからこそ、言葉が自然と低くなる。

 

「流石だな」

 

ペルシアは目を逸らさない。

 

「当たり前でしょ。皆んなの命がかかってるんだから」

 

「……ああ」

 

その一言の重さが、操縦室の天井に張りつく。

命がかかっている。たったそれだけで、全てが正当化されるわけじゃない。でも、全てを“やる理由”にはなる。

 

ペルシアは、端末をスクロールしながらふと口にする。

 

「リュウジの報告書もあったわよ」

 

「ああ。過去に北の未探索領域には、二ヶ月ほど航行したことがある」

 

ペルシアは頷き、先ほどのノイズを思い返すように言った。

 

「恐らく周期的に発生している隕石群の粉塵に、二機とも巻き込まれたんだろうな」

 

ペルシアは迷いなく答える。

 

「その可能性が濃厚ね。リュウジの時も巻き込まれたみたいだけど、上手く躱したようね」

 

「ああ。薄い帯を見つければ、突破はそう難しくはない」

 

ペルシアの視線が一瞬だけ鋭くなる。

 

「それはリュウジだからよ。ブライアンもブルンクリンも、それが出来なかった」

 

「まあ、今回はそう難しくない」

 

「そうなの?」

 

リュウジが、今度はペルシアを見る。

そこに信頼があった。仲間としての信頼ではなく、“相棒”としての信頼だ。相手の感覚を、能力を、経験を、背中で知っている者だけが向けられる眼差し。

 

「今回はペルシアがいる。お前の耳があれば、最適のルートを割り出せるだろ?」

 

ペルシアは一瞬驚いたように瞬きをし、それから笑った。

 

「ふふ。まあね」

 

その笑みが見えた瞬間、リュウジの目元がほんの少し柔らかくなる。

彼は小さく呟いた。

 

「……もう大丈夫そうだな」

 

ペルシアが首を傾げる。

 

「何が?」

 

リュウジは前方に視線を戻したまま、慎重に言葉を選ぶ。

 

「一年間、姿を見せなかったのは休暇って言っていたが……本当はそれだけじゃないんだろ?」

 

ペルシアの指が止まった。

端末の光が彼女の頬を照らし、視線の影が落ちる。

 

「……やっぱ分かっちゃう?」

 

「なんとなくだがな」

 

リュウジは“決めつけ”をしない。

確信を言い切らない。だから、ペルシアは話せる。

ペルシアはカップの縁を指でなぞり、少しだけ息を吸った。

 

「正直な話ね。私の心はずっとギリギリだったのよ」

 

その言葉は、怒号でも冗談でもなかった。

平坦で、静かで、逃げ道がない。

だからこそ、真実だった。

 

「最初はドルトムントで、あの班と揉めた時。次は悲劇のフライトで、リュウジとエリン達を守れなかったとき。……そしてブライアン捜索の時に、あなた達が消失したと思ったとき」

 

ペルシアは、口の中で一度だけ言葉を噛み砕く。

“消失した”という響きが、今も喉を刺すのだろう。

 

「あの段階で、私の心は完全にボロボロに砕かれてたのよ」

 

リュウジは何も言わない。

慰めの言葉は、彼女の傷を軽くする危険がある。

だから、ただ聞く。聞き続ける。それが今できる一番の“寄り添い”だと知っている。

 

ペルシアは続けた。

 

「確かにローズをやり直させる目的もあった。局長にそう言った。……でも本当は、私が休みたかったのよね」

 

「だからアルバイトもしたのか?」とリュウジ。

 

「ええ。いろんな職種の人に触れて、自分を見つめ直したかった。宇宙の人間だけじゃなくて……“地上”の人間にも」

 

“地上”。

その言い方が、ペルシアらしい。

宇宙を舞台にして生きる者ほど、地上のことを軽く扱ってしまう。けれど本当は、地上こそが命を繋いでいる。宇宙の仕事も、帰る場所があるからできる。

 

リュウジが穏やかに問う。

 

「どうだった?」

 

ペルシアは、端末を閉じた。

その仕草が、仕事を一旦置く合図みたいだった。

彼女の声はいつの間にか柔らかくなり、遠くを見るようになる。

 

「花屋の人は、毎朝同じ時間に同じ花を並べるの。ケーキ屋は、焼き時間を一秒単位で守るの。配送業は、“時間”と“安全”のバランスで生きてる」

 

その言い方は、ただの職業紹介じゃない。

彼女が見て、触れて、驚いて、尊敬した“生き方”の列挙だった。

 

「宇宙管理局の人間は、どうしても大きい話をする。規則、組織、宇宙船、領域、政治……」

 

ペルシアは指先でカップを軽く叩く。

その音が、操縦室に小さな波紋を作る。

 

「でも、花屋の人は違う。『この花を今日、枯らさない』っていう戦いをしてる」

 

ペルシアの目が、少しだけ潤んだように見えた。

泣きそうなわけじゃない。

懐かしさに似た光が入っただけだ。

 

「喫茶店の人は、『この一杯を、きちんと出す』っていう責任を持ってる」

 

リュウジがゆっくり頷く。

その頷きは、理解の頷きだ。

“命を守る”という巨大な言葉は、結局のところ“今日の一杯をきちんと出す”みたいな小さな正確さの積み重ねでできている。

 

ペルシアは少し笑う。

 

「宇宙の仕事って、どうしても“英雄”とか“奇跡”とか、そういう言葉がついて回るじゃない?」

 

「……ああ」

 

「でもね、地上の人たちは、奇跡なんて待ってないの。今日のことを今日やるだけ。明日も同じことをやるだけ。毎日、当たり前を壊さないように生きてる」

 

言葉の最後が、少しだけ震えた。

それは弱さではない。

“その当たり前が、どれだけ強いか”を知った震えだ。

 

「その姿を見た時に、私……まだまだだなって思った」

 

リュウジは、操縦桿の指をゆっくり動かし、微細な姿勢制御をかけた。

アルテミスの進路が、ほんの僅かに修正される。

宙は広い。ほんの僅かなズレが、致命傷になる。だから、今この瞬間の僅かな修正が命を救う。

 

彼は前を見たまま言った。

 

「……お前は十分すぎるほどやってる」

 

ペルシアが苦笑する。

 

「そういうの、言わないで。甘やかしはペルシア派の特権だから」

 

「誰がペルシア派だ」

 

「今の、完全にペルシア派」

 

「……違う。事実を言っただけだ」

 

ペルシアが小さく笑う。

笑いながら、カップを持ち直す。

その指先はもう震えていなかった。

 

「地上でね、配送のおじさんに言われたの。『急いでるときほど、スピード出すな』って」

 

リュウジが微かに目を細めた。

 

「……いい言葉だな」

 

「でしょ?」

 

ペルシアは端末を開き直す。

その動きが、また統括官の動きに戻る。けれどさっきまでの張り詰めた鋭さとは違う。

地上で手に入れた“芯”が、彼女の内側に一本通っている。

 

「だから、今も同じ。急ぐけど、焦らない。救うために、丁寧にやる」

 

リュウジは頷いた。

操縦室の窓の外に、見えない境界線が近づいてくる。

十三時間後。そこから先は、ノイズではなく沈黙が待っている。

 

ペルシアが端末に入力する。

ブライアンに向けたログ。

ブルンクリンに向けたログ。

“こちらはアルテミス。進行中。必ず行く。”

 

その短文の裏側には、花屋の人の「枯らさない」、喫茶店の人の「きちんと出す」、配送業の人の「急ぐほどスピードを出すな」が詰まっている。

 

リュウジが小さく息を吐く。

息が細かい。

ペルシアはそれを見て、ふっと笑った。

 

「ほら。やっぱり緊張してる」

 

「……してない」

 

「してる」

 

「……」

 

言い返さない。

それが、リュウジの“認めた”の合図だった。

 

ペルシアはコーヒーを一口飲み、そして、いつもの調子にほんの少しだけ戻って言った。

 

「大丈夫よ。私がいるんだから」

 

その言葉が、奇跡みたいに軽く響くのに、重い。

ペルシアは、英雄の言葉ではなく、地上の責任の言葉としてそれを言った。

 

アルテミスは進む。

当たり前を壊さないために。

救うために、丁寧に、焦らず、そして――必ず。

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