サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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ククル

宇宙管理局近くのホテルは、窓の外に木星コロニーの光が滲むように浮かんでいた。

夜なのに街は眠らない。規則正しく並ぶ航路灯、遠くで淡く瞬く管制塔のビーコン。いつもなら「綺麗だね」と口にしていたはずの景色が、今夜はただ、現実の重さとして胸に沈んでいる。

 

ルナとメノリは、ホテルの一室にいた。

宇宙管理局が用意した部屋だ。必要最低限の家具。清潔なベッド。簡素なテーブル。――それでも、二人には充分すぎるほどだった。

 

ルナが、ソファの端に座ったまま言う。

 

「……本当に、いいのかな?」

 

声が小さく揺れた。申し訳なさと、ありがたさと、落ち着かない気持ちが一つに絡まっている。

 

メノリは窓際に立ち、外の明かりを眺めたまま答えた。

 

「気が引ける理由は分かる。だが、宇宙管理局長から『皆が戻るまでは面倒を見る』と言われてはな」

 

それは命令でも、押し付けでもなく、むしろ「頼まれてくれ」と言わんばかりの丁寧さだった。

ルナはそれを思い出すほど、余計に胸が痛くなる。

 

「それに……宇宙管理局の入館証まで用意してくれて。申し訳ないな」

 

テーブルの上に置かれた、細いIDカード。

薄いプラスチックのその一枚が、今はやけに重く見えた。

 

メノリがゆっくり振り返る。

 

「だが、それほど……ペルシアさんのいなかった宇宙管理局は危険だったってことだろ」

 

ルナは頷く。

思い出すだけで背筋が冷える。オペレーションルームに漂っていた、あの殺伐とした焦燥。誰もが何かを恐れているのに、それを言語化できずに目だけが乾いていた空気。

 

「……それは、分かるよ。ペルシアさんが来てから、空気が変わったもの」

 

たった一人が戻ってきただけで。

たった一つの怒号が響いただけで。

“命を救う現場”が、ようやく本来の呼吸を取り戻した。

 

メノリは短く言った。

 

「あれが、人の上に立つ人間の姿なんだろうな」

 

「……ええ」

 

ルナは目を伏せる。

ペルシアの背中を思い浮かべる。泥に汚れた作業着のまま、躊躇なくオペレーションの中心へ歩いていった姿。局長とローズの間に立ち、誰よりも冷静に、誰よりも激しく、命を拾いにいく姿。

 

それを思い出すと、ルナは自分の胸の奥がじん、と熱くなるのを感じた。

“守りたいものを守る”という言葉が、あの人の口から出ると、ただの綺麗事ではなくなる。

 

ルナは気持ちを切り替えるように、立ち上がった。

 

「さて……携帯、充電しなきゃ」

 

コンセントの位置を探しながら、照れ隠しみたいに笑う。

 

「実はずっと、電池切れで」

 

メノリも、はっとしたように自分の端末を取り出した。

 

「私もだ」

 

二人はほとんど同時に充電器を差し込み、ケーブルを繋いだ。

画面が黒いままだった携帯が、薄い光を取り戻す。

 

――その瞬間だった。

 

ルナの携帯が、起動音を立てるより早く震えた。

画面に表示された名前に、ルナは目を見開く。

 

「……シャアラ?」

 

ルナは慌てて通話ボタンを押し、耳に当てた。

 

「もしもし、シャアラ?」

 

『ルナ!? やっと繋がった!!』

 

シャアラの声は、息を切らしたように早い。

たぶん、通信履歴を何度も押し直したのだろう。怒っているというより、心配が溢れてしまっている声だった。

 

「ごめん、携帯が……ずっと電池切れで」

 

『電池切れで済む話じゃないわよ!! こっちは――』

 

一瞬、言葉が詰まる音がした。

その沈黙が、シャアラがどれだけ必死だったかを物語っていた。

 

『……ニュース、見たの。リュウジが……宇宙飛行士に復帰したって。本当なの?』

 

ルナの胸が、きゅっと縮む。

その名前を聞くだけで、嬉しさと痛みが一緒に湧いてくる。昨日までなら、きっと声を震わせていた。けれど今は、泣いた後の静けさがある。

 

「……うん。本当だよ」

 

『……嘘でしょ……』

 

シャアラの声が小さくなる。驚きが、理解に追いつかない。

ルナは続ける。

 

「私たち、見た。宇宙管理局で……アルテミスの出発、見送ったよ」

 

『……ルナ、今どこにいるの?……』

 

「木星。宇宙管理局の近くのホテルにいる。局長さんが、皆が戻るまでって」

 

『木星!? なんでそんなところに――』

 

「いろいろあってね……でも大丈夫。メノリもいるし」

 

メノリが横で、静かに頷いた。

シャアラは息を飲むようにして、そして爆発するみたいに言った。

 

『もう!! 連絡しなさいよ!! ほんとに……ほんとに……』

 

その声が涙混じりになったのが分かって、ルナの目も熱くなる。

 

「ごめん、シャアラ」

 

『……でも、無事ならよかった。……ベルも、ハワードも、みんな大騒ぎよ。今も――』

 

シャアラがそう言った瞬間、ルナの携帯がもう一度震えた。

着信が割り込んできている。

 

画面に表示された名前は――ハワード。

 

ルナは少し戸惑って、けれどシャアラが先に言った。

 

『切って! 切っていいから! 多分、今みんな順番にかけてくる! 私も、あとでまたかける!!』

 

「うん、ありがとうシャアラ。ほんとにごめん。あとで必ず――」

 

『いいから! ルナ、気をつけてね!!』

 

通話が切れる。

ルナはすぐにハワードの着信に出た。

 

「もしもし、ハワード?」

 

『ルナ!? ルナだよね!? 生きてる!?』

 

最初の一言がそれで、ルナは思わず笑ってしまった。

ハワードは昔から、感情が口に直結する。

 

「うん、生きてるよ」

 

『よかったぁぁぁ……! いや、よくない!! 聞いたんだけど!? リュウジが! S級に! 戻ったって!!』

 

声が大きい。

電話越しでも分かるくらい、彼は落ち着けていない。

 

「うん。戻った」

 

『しかもテレビに出たって!? 英雄が帰ってきたとかなんとか! なんだよそれ!! あいつ、どこで何してたんだよ!!』

 

ルナは、昨日の冥王星の夕焼けと、怒りで震えた自分の声を思い出した。

そして、今日、オペレーションルームで知った真実。見えなかった左眼。黙って抱えた恐怖。必死に積み上げた努力。

 

「……ハワード。私たち、もう見たよ」

 

『え?』

 

「宇宙管理局で、出発を見送った。救出任務に行ったの」

 

『救出任務!? 今!?』

 

「うん。ブルンクリンとブライアンさんたちの救助」

 

電話の向こうで、ハワードが息を吸い込む音がした。

 

『……まじかよ……』

 

いつもの軽口が消えて、心の底からの言葉になる。

 

『……ルナ、大丈夫か?』

 

その一言が、ルナの胸に刺さった。

大丈夫じゃない。けれど、もう泣き崩れるわけにもいかない。ルナは静かに答えた。

 

「大丈夫。……今は、待つしかないから」

 

ハワードは、迷子みたいにしばらく黙り、それから無理に明るく言った。

 

『……そっか。うん。待とう。……あ、ベルにも代わる! 今隣にいる!』

 

「え?」

 

次の瞬間、別の声が飛び込んできた。

 

『ルナ!? 本当にルナか!?』

 

ベルだった。

ベルの声は、強がろうとしているのに、強がれない揺れがある。

 

「ベル」

 

『……よかった……心配したよ……!』

 

ルナは言葉に詰まる。

ベルは続けた。

 

『ニュース見た瞬間、俺、叫んだんだ。リュウジだって。……だけどさ、ルナが……ルナがどうなってるのかって……』

 

ベルの声がかすれる。

ルナは目を閉じた。

 

「……私も、びっくりしたよ」

 

『びっくりするさ!?』

 

ベルは怒っているようで、怒り切れない。

その怒りの裏にあるのは、心配と、悔しさと、どうしようもなさだ。

 

「うん……でも、もう見送った。私たち、木星にいる」

 

『木星!? なんで!?』

 

その質問はみんな同じだ。

ルナは短く、要点だけを伝える。

 

「宇宙管理局に来たの。ブライアンさんの救助船が……運行不能になって」

 

『え!?』

 

「だからリュウジたちが行った。アルテミスで」

 

ベルの息が止まる気配がした。

 

『……ルナ……』

 

「大丈夫。ペルシアさんがいる」

 

その名前を出した瞬間、ベルは少しだけ安心したように息を吐いた。

 

『……あの人なら、絶対に諦めない』

 

「そうだな」

 

ベルは堪えるように言った。

 

『……ルナ。絶対帰ってくるから。あいつも……帰ってくるから』

 

「……うん」

 

その「うん」は、祈りに近かった。

 

通話が切れた直後、間髪入れずに着信が入る。

今度はシンゴ。

 

ルナは苦笑して出た。

 

「もしもし、シンゴ?」

 

『ルナ!!』

 

シンゴの声は、怒鳴っているようで、でも泣きそうだ。

 

『なんで繋がらないの! ……いや、いい。今はそれより……リュウジが戻ったって……本当!?』

 

「本当だよ」

 

『……っ……!』

 

シンゴは悔しそうに吐き捨てて、次に言葉が続かなくなる。

ルナは静かに補足する。

 

「もう、見送ったよ。救助任務に出た」

 

『救助任務!? 出たって、今!?』

 

「うん。木星の宇宙管理局から」

 

シンゴが短く笑う。乾いた笑いだ。

 

『……相変わらず無茶するな』

 

ルナは返した。

 

「……シンゴもでしょ」

 

『……まあね』

 

一拍置いて、シンゴは真面目な声になった。

 

『ルナ。……泣いた?』

 

ルナの喉が詰まる。

当てられてしまう。シンゴはそういうところが鋭い。

 

「……泣いたよ」

 

『そっか』

 

シンゴはそれ以上聞かない。

聞いたら、ルナが崩れるって分かっている。

その代わり、強い言葉を置く。

 

『……だったら今は泣いちゃダメだよ。帰ってくるまで。……帰ってきたら、好きなだけ泣いていいからね!』

 

ルナは目を潤ませながら笑った。

 

「……うん」

 

通話が切れる。

そして、最後の着信が鳴った。

 

画面に表示された名前を見た瞬間、ルナの心臓が跳ねた。

 

――カオル。

 

ルナは深呼吸して出た。

 

「……もしもし、カオル」

 

『ルナ』

 

声は落ち着いている。落ち着いているのに、温度が高い。

カオルは感情を抑えるのが上手い。だからこそ、抑えた声が怖い。

 

『ニュースを見た。リュウジがS級に戻ったそうだな』

 

「……うん」

 

『お前は……どうしている』

 

ルナは迷った。

嘘はつけない。でも、全部は言えない。

それでも、カオルには隠しても無駄だと直感する。

 

「木星にいる。宇宙管理局の近くのホテル」

 

『……なぜ』

 

「救助任務があるから。ブライアンさんたちが……運行不能になって」

 

電話の向こうで、カオルが息を吸う。

 

『……リュウジが行ったのか』

 

「行った。アルテミスで」

 

沈黙が落ちる。

その沈黙は、怒りではなく、理解と覚悟の確認だった。

 

『……そうか』

 

カオルは低く言った。

 

『お前は、見送ったのか』

 

「……うん。見送った」

 

『……目を合わせたか』

 

ルナの心臓が、また跳ねた。

カオルは的確に核心を突く。

 

「……うん。乗り込む瞬間に」

 

『……何を言った』

 

「言ってない。目だけで」

 

『それで十分だ』

 

カオルの声が少しだけ柔らかくなる。

それでも、彼は一つ、釘を刺すみたいに言った。

 

『ルナ。お前が苦しいのは分かる。だが今は、任務が先だ。――お前が折れれば、待つ者が折れる』

 

ルナは、唇を噛んだ。

その言葉は厳しい。でも正しい。ルナ自身が、今それを必死で守っていた。

 

「……分かってる」

 

『ならいい』

 

カオルは短く言い、そして不意に、少しだけ小さく付け足す。

 

『……無事でいろ。必ず』

 

「……うん。カオルも」

 

通話が切れた。

 

ルナは携帯を膝の上に置き、しばらく動けなかった。

一気に押し寄せた声の波が、部屋の空気を熱くしている。

 

メノリが充電器を繋ぎ終えた携帯を見つめながら言った。

 

「……全員、同じことを言っているな」

 

ルナは小さく笑った。

 

「心配してるってことだよね」

 

「当たり前だ。……お前は、よく持ちこたえている」

 

ルナは首を振る。

持ちこたえているように見えるだけで、内側はぐらぐらだ。

ただ、今泣いてしまったら、何もできなくなる。

 

「持ちこたえてるんじゃないよ。……持ちこたえなきゃいけないだけ」

 

メノリはそれを否定しない。

代わりに、静かに言った。

 

「なら、ここでは一度息をしろ。泣きたいなら泣け。だが――明日また立て」

 

ルナの胸が熱くなる。

メノリの言葉はいつも命令みたいで、でも優しい。

 

ルナは窓の外を見た。

木星コロニーの灯りが遠くで揺れている。

あのどこかに、アルテミスが進んでいる。

 

「……帰ってくるよね」

 

問いではない。願いだ。

 

メノリは短く、しかし確かに答えた。

 

「帰ってくる」

 

「……うん」

 

ルナは携帯を握りしめる。

さっきまで鳴り続けていたその小さな機械が、今は静かだ。

静けさが、逆に怖い。

 

だからルナは、自分の中で言い聞かせるように、小さく呟いた。

 

「……待とう」

 

その夜、ホテルの部屋の明かりは消えなかった。

祈りを捧げるように、二人は何度も窓の外を見た。

星を見ているのではない。宙を見ている。

その宙の向こうにいる人たちが、必ず帰ってくると信じるために。

 

ーーー

 

操縦室は、必要最低限の照明だけが点いていた。

アルテミスのコックピットは、明るすぎない。目の奥が痛くならない程度の淡い光が、計器類の輪郭だけを浮かび上がらせている。壁面のモニターには、航路、周辺宙域のレーダー、微細なデブリ群の予測図、通信ログの波形が並び、どれもが「静かな危機」を淡々と示していた。

 

艦体は自動操縦に任せてある。だが、任せているからこそ油断できない。

セーシング領域の縁に近づくにつれて、微弱なノイズが増え、通信の反射が複雑になる。ほんのわずかなズレが、生存確率の差になる。

 

操縦席にはリュウジ。副操縦席にはペルシア。

ペルシアは端末を片手に、片手で時折コントロールパネルを叩き、航路の微調整と資料の読み込みを繰り返していた。睫毛の影が短く揺れるたび、画面の数字が鋭く更新される。言葉は少ない。けれど、その指先は休まらない。

 

リュウジは、前方の宙を睨むように見ている。実際には何もない暗闇だ。だが、そこに「見えないもの」があると、彼は知っている。粉塵、帯、乱流、そして人の命。

 

「もうすぐ交代だな」

 

リュウジが呟いた。声は静かだが、操縦室の空気を引き締めるだけの強さがあった。

 

ペルシアは端末から目を離さず、「そうね」とだけ返し、ログを一つ閉じた。

その瞬間、コックピットの扉が軽くノックされ、次いで開いた。

 

「お待たせしました!」

 

音符がつきそうな明るさで、ククルが顔を出した。

両手にトレーを持ち、湯気の立つカップを落とさないように、歩幅を小さく刻んで入ってくる。足音が静かなのは、アルテミスの床が衝撃を吸う構造だからだ。サツキの設計思想が、こんなところにも現れている。

 

ククルは操縦席の背後に回り、リュウジの横へ立った。

そして、カップを「置く」のではなく、ペルシアが以前言った通り「預ける」ように差し出す。

 

「リュウジさん、コーヒーです。預けますね」

 

リュウジが一瞬だけ目を細める。ほとんど笑みと言っていい。

 

「助かる」

 

ククルはすぐに副操縦席側へ移り、今度はペルシアへ同じように差し出した。

 

「ペルシアさんも。……あ、熱いので気をつけてください」

 

「ククル、偉いじゃん」

 

ペルシアはようやく端末から目を上げ、受け取ったカップを軽く揺らした。香りを確かめるように一度だけ鼻から吸う。

 

「……ちゃんと香りがある。えらい。合格」

 

「本当ですか!」

 

ククルの顔がぱっと明るくなる。その笑顔だけで、操縦室の温度が少し上がった気がした。

 

「いえ、私にはこのぐらいしかできないですから」

 

謙遜の言葉のはずなのに、声が震えていない。

ククルは、ただそう思っている。自分にできることを一つずつやる。それが、彼女の「真面目さ」なのだとリュウジは思った。

 

コーヒーを一口飲み、リュウジは視線を前に戻しながら言った。

 

「そういえば、ククル。どうしてこの任務に参加したんだ?」

 

ククルは一瞬、きょとんとした顔をした。次いで、少しだけ背筋を伸ばす。

 

「……そういえば、人数が足りないからって理由しか聞いてないわね」

 

ペルシアがカップを唇に当てたまま、目だけでククルを見る。声は軽いが、視線は真剣だった。

リュウジもペルシアも、今は余計な雑談をしている場合ではない。だからこそ、聞くなら短く、核心だけを、と思っていたはずなのに――ククルは、その問いを逃げなかった。

 

「皆さんの力になりたかったのは、本当です」

 

ククルは言った。

そして、言葉を切ってから、もう一つ続ける。

 

「それと……エリンさんを、もう二度と失いたくないって思いました」

 

操縦室の静けさが、わずかに重くなった。

リュウジの指が、操縦桿の近くで止まる。ペルシアもカップを持ったまま動きを止めた。

 

「失う?」

 

ペルシアが聞き返す。冗談の温度はない。

 

ククルは頷き、少し目を伏せた。

 

「はい。悲劇のフライトが起こった時、私はもうドルトムント財閥を辞めた後でした」

 

その言葉だけで、空気が変わる。

「悲劇のフライト」――それはただの事故ではない。名前を持った痛みだ。忘れたいのに忘れられない、宙に刻まれた傷だ。

 

ククルは続けた。

 

「ニュースで……エリンさんたちが生きているって分かって、私は、お見舞いに行ったんです。入院している病院に」

 

彼女は、そこで一度言葉を詰まらせた。

唇を噛みしめる。その癖は、必死に泣くのを堪えるときのものだ。

 

「当時のことを思い出すと……今でも、ここが痛いです」

 

胸元を指で押さえ、ククルは小さく息を吸った。

そして、ゆっくり言う。

 

「病院で見たエリンさんは……とても弱々しく見えました」

 

誰かがコックピットの機械音を一つ大きく感じた気がした。

アルテミスの心臓音。一定のリズム。人間の感情とは無関係に、淡々と宙を進む音。

 

ククルの声は、震えたが、はっきりしていた。

 

「酸素マスクと……点滴と……身体にいろんな器具が付けられていて。でも目は開けないで、ずっと眠っていて」

 

その情景が、操縦室の中に立ち上がる。

白いシーツ。冷たい照明。消毒の匂い。規則的に鳴る機械音。

そして、目を閉じたまま動かないエリン。

 

「ドルトムントで、皆を引っ張ってくれたエリンさんが……ただ、痩せて、皮みたいになっていく姿を見た時、私は……悔しいって思ったんです」

 

「……悔しいか」

 

リュウジが呟いた。

それは、同情ではない。確認だ。自分の中にも同じ火種があるかどうかを確かめるような低い声だった。

 

ククルは強く頷く。

 

「はい。辞めた後も、ミラが色々と情報を教えてくれて……私がいた頃の、あの十四班は、すっかりメンバーも入れ替わって、荒んでいく一方だって……」

 

言いながら、ククルの指がトレーの縁をぎゅっと握る。

彼女は続けた。

 

「その中でも、エリンさんは皆をまとめようと努力していて……なのに、あのフライトで、こんなことになって」

 

喉が鳴る。言葉が胸の奥で詰まっている。

けれど、ククルは逃げない。

 

「もし、あのフライトで……こんな私が、あの場にいれば……少しでもエリンさんの役に立てたんじゃないかって」

 

一つ息を呑み、彼女は言った。

 

「なんで、あの時辞めちゃったんだろうって。……自分が情けなくて、悔しかったんです」

 

その悔しさは、ただの後悔ではない。

時間を巻き戻せない現実を前にして、それでも何かを取り戻したいと思う衝動だ。

 

「だから……もう、私たちが憧れたエリンさんを、失いたくないんです」

 

ククルの声が、最後だけ少しだけ強くなった。

涙は落ちなかった。落とす暇がない。今ここにいる自分が、もう二度と遅れたくないと決めているからだ。

 

ペルシアは、「ふーん」とだけ言った。

軽い相槌に聞こえる。だが、その一音に、妙な温度が混ざっている。

 

リュウジが、ペルシアに視線を投げる。

 

「それだけか?」

 

ペルシアはコーヒーを一口飲んでから、肩をすくめた。

 

「まあね。宙に出る理由は人それぞれだし」

 

それは、肯定でも否定でもない。

「理由を選別するつもりはない」という宣言だ。ペルシアらしい。

 

だが彼女は、続けて言った。

 

「でも、エリンは幸せ者だと思う」

 

「え?」

 

ククルが目を丸くする。

ペルシアは、カップの縁を指でなぞりながら、少しだけ笑った。

 

「だって、こんなに慕われて、こんなところにも来てくれる人がいるんだもの」

 

ククルの顔が、一気に明るく灯った。

 

「は、はい!!」

 

返事がまっすぐすぎて、思わず笑いたくなる。

操縦室の空気が一瞬ゆるむ。

それは、危機が消えたからではない。危機の中にいるからこそ、「守りたいもの」を口にできたからだ。

 

そのタイミングで、扉が開く。

 

「なんや、ええ空気やな」

 

チャコの声が入ってきた。

続いてクリスタルが、静かな笑みを浮かべて顔を出す。

 

「本当ね」

 

二人は交代の時間に合わせて来たのだろう。

チャコはいつものように、操縦室の空気を一瞬で軽くする達人だ。クリスタルは軽さの中に、きちんと現場の緊張を保つ。

 

ククルは胸を張った。

 

「それが私の仕事ですから!」

 

「それでこそ元気少女や」

 

チャコがケラケラ笑う。

 

クリスタルは時計代わりに端末を見て、はっきり言った。

 

「リュウジ、ペルシア。交代の時間よ」

 

「ああ」

 

リュウジは操縦席から立ち上がった。

立ち上がる動作は無駄がない。足の置き方も、手の離し方も、すべてが慣れている。

 

「何かあったら、いつでも呼んでくれ」

 

そう言いながら、計器類に目を走らせる。

自動操縦の状態、航路維持、レーダーの反応。通信ログ。

最後に、彼は短く言った。

 

「今は自動操縦にしてある」

 

「了解」

 

クリスタルは即答し、操縦席へ入る準備をする。

チャコもシステム席に向かうため、端末を確認しながら立ち位置を変えた。ククルは自然にチャコの背後に回り、補助の動線を確保する。

 

ペルシアは席から立ち上がり、両腕を上に伸ばした。

 

「うーん!」

 

伸びの音が、やけに大きく聞こえる。

緊張の糸を、今だけ少しだけ緩めるための儀式。

 

「宇宙船で眠れるかな」

 

ペルシアが半分本気、半分冗談の顔で言う。

 

「大丈夫だろ」

 

リュウジはそっけないが、どこか優しい声で返す。

 

「私、寝酒しないと眠れないのよね」

 

「お酒なんて積んでませんよ!?」

 

ククルが目をひん剥く。

それがおかしくて、チャコが吹き出しそうになる。

 

ペルシアは平然とした顔でククルを見る。

 

「分かってるわよ」

 

「まったく、呑気」

 

クリスタルが呆れながら笑う。

 

「ホンマやな。オペレーションルームでのペルシアはカッコよかったのにな」

 

チャコが言うと、ペルシアは肩をすくめた。

 

「現場は現場、休憩は休憩。メリハリってやつよ」

 

その言葉は冗談みたいで、実は本気だ。

休めるときに休まなければ、最後まで持たない。

誰よりも命を救いたい人間が、誰よりも自分の限界を知っている。

 

リュウジは扉の方へ歩きながら、ちらりと操縦席を見た。

そこに座るクリスタル、その後ろでシステムを触るチャコ、補助に入るククル。

連携は悪くない。むしろ、いい。

 

「……頼んだ」

 

そう言い残し、リュウジは操縦室を出る。

 

ペルシアも最後に、ククルへ視線を向けた。

 

「ククル」

 

「はい!」

 

「さっきの話、忘れないで。守りたいものがあるなら、守るために動きなさい。泣くのは、帰ってからでいい」

 

ククルは、強く頷いた。

 

「はい!」

 

ペルシアは満足そうに頷き、扉の外へ出る。

扉が閉まり、操縦室には再び、機械音と計器の光だけが残った。

 

けれど、さっきまでの静けさとは違う。

ここには理由がある。

帰るべき場所がある。

失いたくない人がいる。

 

アルテミスは、変わらぬ速度で宙を進む。

そして交代した操縦室の中で、四人はそれぞれの役割を、静かに、確かに握り直した。

 

ーーーー

 

アルテミスの操縦を交代してから、コックピットの空気は一段落ち着いていた。

 

操縦席にはクリスタルが座り、視線は計器と前方モニターを往復している。淡い照明に浮かぶ速度、姿勢、推進出力、航路補正値。セーシング領域の縁へ向かうルートは自動操縦に預けてあるとはいえ、宇宙は「大丈夫」を試すのが好きだ。油断は一瞬で致命傷になる。

 

その隣、副操縦席にはチャコが腰を落とし、システムログとレーダー反応を睨むように追っていた。外部ノイズの増減、通信帯域の歪み、微細デブリの予測図、衝突回避の警戒域。手元の端末に指を走らせるたび、画面が淡く切り替わる。

 

そして二人の背後。少し離れた場所でククルが立ち、チャコの手の動きを観察するように目で追っていた。必要があればすぐ手が出せる距離、邪魔にならない距離。エリンやペルシアに叩き込まれた動線の取り方が、今も身体に染みついている。

 

チャコがふっと息を吐き、肩の力を抜いた。

 

「それにしても、ペルシアがおらんと、ホンマ静かやな」

 

クリスタルは操縦桿から目だけを逸らして、笑いを含んだ声を返す。

 

「それ、チャコが言う?」

 

「なんや、ウチが騒がしいみたいやないか」

 

「騒がしいっていうか……あなた、ブライアン捜索の時にルナのこと話して散々笑い取ってたじゃない」

 

「ええやんか。皆も盛り上がっとったし」

 

チャコは悪びれず、端末を指先で軽く叩いた。クリスタルは視線を前に戻しながら、口元だけで笑う。

 

「今回は言わないのね」

 

「今回は宇宙管理局にルナがおるからな。『また余計なこと言って!』って怒られるしな」

 

「なるほど。それは残念ね」

 

クリスタルの声は軽いが、操縦席の姿勢は崩れない。冗談を言いながら、必要なものは必ず見ている。そういうタイプだと、ククルはこの数時間でよく分かった。

 

クリスタルは一息ついてから、背後を振り返るように言った。

 

「じゃあ、せっかくだしククルのこと教えてよ」

 

「え!? 私ですか!?」

 

ククルは反射的に声が裏返り、慌てて口元を押さえた。宇宙船の中では声量の調整も仕事だ。自分で自分を叱りそうになって、逆に焦る。

 

チャコがにやりと笑う。

 

「せやな。ウチにも教えてぇな。ククルって、どんな子なんや?」

 

「でも、何を話せばいいのか……」

 

ククルは言いながら、視線が泳ぐ。今の自分は「補助」だ。出しゃばるのは違う。でも、二人が求めているのは仕事の手順じゃない。空気を整える話題だ。救助任務の真っ只中だからこそ、息継ぎが必要になる。

 

クリスタルが提案するように言った。

 

「そうね。じゃあ、ククルがペルシアやエリンと初めて会った時とか、一緒に働いていた時のことを教えてよ」

 

ククルの胸が、少しだけきゅっと縮む。

 

エリン。ペルシア。

自分にとって、名前だけで背筋が伸びる二人だ。思い返せば、あの時がなければ、今ここに立っていなかったかもしれない。

 

「それでしたら……」

 

ククルは小さく頷き、記憶の引き出しをゆっくり開いた。

 

 

ドルトムント財閥の旅行会社。

空調の効いたフロアの奥から奥まで、ざわめきが波のように広がっていた。

 

「聞いた? うちの会社、S級パイロットの英雄が来るんだって」

 

「え、ほんと? あの人でしょ? 最年少でS級になったっていう……」

 

「班を新設するらしいよ。特別班。選抜だって!」

 

誰かが興奮気味に話し、別の誰かが「信じられない」と笑う。キーボードの音と端末の通知音の上に、人の噂話がふわりと重なる。普段なら注意されるような私語でも、その日は誰も止めなかった。皆が、同じ方向を向いて浮き足立っていた。

 

ククルにも、その話は耳に入っていた。

 

受付の端末を整理しながら、聞こえてくる単語を拾ってしまう。S級、英雄、新設、選抜。胸の奥がそわそわして、落ち着かない。

 

背後から同僚の乗務員が、肩越しに声をかけてきた。

 

「ねぇククルも聞いた?」

 

「何を?」

 

「S級パイロットのために特別な班を新設するらしいよ!」

 

「……知ってるよ」

 

言葉が少しだけ硬くなる。自分でも分かる。だが、同僚は気づかないふりをして、さらに続けた。

 

「チーフパーサーは、あのエリンさん。副パーサーはペルシアさんって話らしいよ!」

 

ククルの指が、端末の縁で止まった。

 

「……知ってるよ。カイエとエマも選ばれたんだもん」

 

言ってから、胸の内側が痛んだ。

カイエもエマも同期だ。明るくて、要領が良くて、何より現場での勘が強い。選ばれるのは当然だと思う。頭ではそう理解しているのに、心の方が勝手に寂しくなる。

 

同僚が少し気を遣ったように笑った。

 

「そっか、あの二人はククルと同期だもんね」

 

「う、うん」

 

頷きながら、ククルは無理に口角を上げた。

笑ったつもりだった。けれど、頬が上手く動かなかった。

 

同僚は肩をぽんと叩く。

 

「まぁ、二人は優秀だったしね。私たちは地道に頑張ろう」

 

「……そうだね」

 

その言葉に合わせて、ククルはもう一度笑った。今度は、笑えているように見えたかもしれない。少なくとも、そう見えるように努力した。

 

でも心の奥に、小さな針が刺さったままだった。

 

“選ばれない”

それは、否定されることとは違う。けれど、置いていかれる感覚は確かにある。

 

それからしばらくして、ククルは会議室に呼ばれた。

 

呼び出しの端末通知を見た瞬間、心臓がどくんと鳴った。

何かやらかしただろうか。手順を間違えた? 報告が遅れた? ミスを隠していたわけじゃない。なのに、呼ばれたという事実だけで、頭の中に不安が雪崩のように押し寄せた。

 

会議室の前で、ククルは制服の襟を整える。

深呼吸。ノック。扉を開ける。

 

「し、失礼します」

 

会議室の空気は、ひんやりしていた。

長机の向こうに二人の女性が座っている。

 

ひとりは、凛と背筋を伸ばし、視線が真っ直ぐな女性。エリン。

もうひとりは、椅子に少しだらしなく座りながらも、目だけが獲物を捉えるように鋭い女性。ペルシア。

 

ククルの足が一瞬止まる。

二人とも、噂の中心にいる人間だ。ここに呼ばれる意味が分からない。

 

ペルシアが、面倒くさそうに口を開いた。

 

「やっと来た」

 

「あ、すみません!」

 

ククルは反射で頭を下げた。

 

「こら、ペルシア!」

 

エリンの声がぴしゃりと飛ぶ。笑顔なのに、空気が一瞬で引き締まるのが分かった。

 

「ごめんごめん」

 

ペルシアは軽く手を振るが、反省の色は薄い。エリンはため息を一つついてから、ククルに向き直った。

 

「まったく……ごめんなさいね。どうぞ、かけて」

 

エリンが椅子を指し示す。

ククルは慌てて椅子に座った。背筋が勝手に固くなる。

 

「あ、あのー……」

 

小さく声を出すと、エリンが優しく首を傾げた。

 

「どうしたの?」

 

「私、何か悪いことしたんでしょうか……」

 

言った瞬間、喉がひりついた。

会議室に呼ばれる=叱責。そう刷り込まれている自分が、情けない。

 

ペルシアがにやにやしながら身を乗り出す。

 

「ははーん。何かやましいことがあるのかな〜?」

 

「うるさい」

 

エリンが、指でペルシアの脇腹をつん、と突いた。

 

「ぐっほぉ!?」

 

ペルシアが大げさに脇腹を押さえて机に伏せる。その芝居がかった動きが可笑しくて、ククルは思わず笑ってしまった。

 

「あ……すみません!」

 

また慌てて頭を下げる。

 

「いいのよ」

 

エリンはくすりと笑い、声の温度を柔らかくした。

 

「それよりごめんなさいね。忙しいのに呼び出しちゃって」

 

「い、いえ! そんなことはないです」

 

ククルは必死に否定する。社交辞令ではなく、本当にそう言うしかなかった。目の前の二人に、嫌だなんて言えるはずがない。

 

ペルシアが机から顔を上げ、わざとらしく口を尖らせた。

 

「ねぇ〜そんな社交辞令いいから本題に……」

 

言いかけたところで、エリンが笑顔のままペルシアに視線を向ける。

その笑顔の裏には、「黙ってろ」という圧があった。

 

「……すみません」

 

ペルシアは素直に謝り、今度は机に顔を伏せた。

ククルは目を瞬いた。あのペルシアが黙る。エリンの圧がすごい。

 

エリンはもう一度ため息を吐き、ククルの目を見る。

 

「悪気があるわけじゃないのよ」

 

「い、いえ、全然気にしてません」

 

ククルは必死に頷いた。

 

「それじゃあ、早速だけど」

 

エリンが口を開く。

ククルはごくりと唾を飲み込んだ。今度こそ叱られるのかと思って、指先が冷える。

 

「今度、S級パイロットがこの会社に来ることは知ってるでしょ?」

 

ククルは頷く。

 

「それで、新しい班ができるのも知ってるよね?」

 

「はい、知ってます」

 

「それじゃあ、もう意味は分かるよね」

 

「え?」

 

ククルは首を傾げた。意味? 何の意味?

頭が追いつかない。

 

ペルシアが顔を上げて、笑いながら口を挟む。

 

「察し悪いな〜」

 

「ペ・ル・シ・ア!」

 

「……黙ります」

 

ペルシアは両手で口を塞いで、目だけで「どうぞ」とエリンに譲った。

 

エリンは苦笑しながら、ククルに真っ直ぐ言った。

 

「ククル。新しく作る班のために、一緒にやってくれないかしら?」

 

「え……?」

 

ククルの目が大きく開く。

心臓が一拍遅れて跳ねた。今なんて言った? 私に? 新しい班?

 

「ククルの力を貸してほしいの」

 

エリンの声は柔らかいのに、否応なく人を前に進ませる強さがあった。

ククルは言葉を受け入れるのに時間がかかった。

 

「……私で、いいのでしょうか?」

 

絞り出すように言った瞬間、自分が何を言っているのか分からなくなる。

本当は「入りたい」「お願いします」と叫びたいのに、口から出てくるのは弱気な言葉だった。

 

エリンは頷く。

 

「理由を聞いても?」

 

ククルは唇を噛んだ。

 

「……私はドジで、おっちょこちょいです。それに、新しい班はS級に合わせた、この会社でも優秀な人材を集めているって聞いてます」

 

声が震える。

自分で自分を下げる言葉が、喉を擦って痛い。それでも言わずにいられなかった。

 

「それで?」

 

エリンは急かさない。逃げ道も塞がない。

ただ、続きを待つ。

 

「それなのに私では実力不足だと思いますし、皆さんにご迷惑をかけてしまいます」

 

言ってしまった。

やってしまった。

ククルは内心で頭を抱えた。断られるに決まってる。自分で断りの理由を並べたのだから。

 

エリンが優しく微笑み、口を開こうとした、その瞬間。

 

「ごちゃごちゃ言い訳終わり。一緒にやろうよ」

 

ペルシアが机から体を起こし、軽い調子で言った。

 

エリンの視線が向く。だが、今回は何も言わない。ペルシアの言葉の裏に、悪意がないと分かっているからだ。

 

「ですが……」

 

ククルがまだ言おうとした。

 

「それ、終わり! それでやるの? 『はい』か『イエス』どっち?」

 

ペルシアは畳みかける。

ククルは困って口を開きかけた。

 

「え? それは、両方……」

 

「こら」

 

エリンが短く遮る。

ペルシアの口元が、ほんの少しだけすぼむ。叱られた子どもみたいに。

 

エリンはククルへ視線を戻し、穏やかに言った。

 

「ククル。もちろん無理強いはしないけど、一つ間違ってるわよ」

 

「……何か間違えてましたか?」

 

「ええ。新しい班を作るのは、S級パイロットに合わせて作るんじゃない」

 

ククルは戸惑った。

 

「でも、皆、そう言ってます」

 

エリンは問いを返す。

 

「じゃあ、乗務員は何のためにいるのかな?」

 

ククルは反射で答えそうになる。

 

「それは、お客様のために……」

 

言いかけたところで、気づいた。

胸の奥がすうっと冷えて、同時に熱くなる。

自分は、何を見ていた? S級? 英雄? 選抜? 認められること?

違う。自分がここにいる理由は――。

 

エリンが頷く。

 

「そう。私たちはお客様のためにいるのよ。だから、誰がパイロットだろうと、やることは変わらないの」

 

ククルは俯いた。目の奥が熱くなる。

言われたのは当たり前のことだ。新人研修で散々叩き込まれた。なのに、噂と羨望に心を奪われて、いつの間にか自分の軸を見失っていた。

 

ペルシアが、軽く手を振った。

 

「まぁ、よろしくね。ククル」

 

その「よろしくね」が、嘘みたいに軽いのに、妙に救われた。

背負わせるでもなく、持ち上げるでもなく、「当たり前に仲間にする」声だったから。

 

ククルの目の端に、涙が溜まった。

急に視界が滲んで、慌てて袖で拭う。

 

「はい……こちらこそ、よろしくお願いします!」

 

声が震えた。

でも、震えたままでいいと思った。震えるほど嬉しいのなら、それは偽物じゃない。

 

エリンが微笑む。

 

「よろしくね」

 

「エリンさん、ペルシアさん、よろしくお願いします!」

 

ククルは深く頭を下げた。胸が熱い。苦しい。嬉しい。全部が混ざって、涙が落ちそうになる。

 

ペルシアが楽しそうに言う。

 

「ククル、揶揄いがいがありそうで楽しみ」

 

「え!?」

 

ククルが顔を上げると、エリンが呆れたように笑った。

 

「やめなさい」

 

その「やめなさい」が、叱責じゃなくて、仲間同士のやりとりに聞こえた瞬間、ククルは確信した。

自分は、この班に入りたかったのだ。最初から。

 

 

「それが、エリンさんとペルシアさんに最初に会った時の話です」

 

ククルの声で現在に戻る。

操縦室の計器は相変わらず淡々と光り、アルテミスは静かに宙を進んでいた。

 

チャコが小さく笑う。

 

「ペルシアはホンマ変わらへんな」

 

「でも、それがペルシアのいい所よね」

 

クリスタルは前方モニターから視線を外さず、口元だけで笑った。

 

ククルは頷く。

 

「はい。ペルシアさんは最初から、私が同じ班で働きたいってことを見抜いていたんだと思います」

 

「そうだろうね」

 

クリスタルの声が少しだけ柔らかくなる。

 

「あんな軽口だけど、本質は間違えないから」

 

「はい。本当、助けられてばかりでした」

 

ククルが言うと、チャコがすかさず突っ込む。

 

「エリン派なのによう言うわ」

 

ククルは胸を張って、少しだけいたずらっぽく言った。

 

「私はエリンさん派兼ペルシアさん派ですから」

 

「欲張りなやっちゃな」

 

チャコがケラケラ笑い、クリスタルもつられて笑う。

笑い声が操縦室に広がり、すぐに静かに溶ける。

 

その静けさの中で、ククルはふと気づいた。

今、自分はあの頃よりもずっと落ち着いている。怖いのは怖い。救助任務の重さも分かっている。通信は不安定で、これからセーシング領域外へ踏み込む。命がかかっている。

 

それでも、胸の奥に一本、まっすぐな柱が立っている気がした。

 

エリンに言われた言葉。

「誰がパイロットだろうと、やることは変わらない」

 

ペルシアの軽い「よろしくね」。

それが今の自分を支えている。

 

クリスタルが計器を確認し、短く言う。

 

「レーダー、問題なし。微細ノイズは増えてるけど想定内。航路補正も安定してる」

 

「ログも異常なしや」

 

チャコも端末を見ながら頷く。

 

ククルは一歩だけ前に出て、いつもの位置に戻った。

二人の背後、邪魔にならない距離。必要ならすぐ動ける距離。

 

「何かあれば、すぐ言ってください」

 

そう言うと、チャコが振り返らずに返す。

 

「頼むで、元気少女」

 

「はい!」

 

ククルは明るく返事をした。

その返事が、操縦室をほんの少しだけ温める。危機の中で、誰かの呼吸を整える温度だ。

 

アルテミスは静かに進む。

宙の闇の向こうに、まだ見えない誰かがいる。

だからこそ、今ここにいる自分たちは、目の前の「やるべきこと」を一つずつ、確実に積み重ねていく。

 

笑いながら、祈りながら、前へ。

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