宇宙管理局近くのホテル。その一室は、昼も夜も判別がつかないほど薄い照明に包まれていた。カーテンの向こうは宇宙港の灯りがにじみ、窓ガラスの端には、発着のたびに微かな振動が伝わってくる。
ルナはソファの端に腰を落としたまま、何度目か分からないため息を吐いた。手の中の端末は、ずいぶん前に通知音を切っている。切っていなければ、沈黙の隙間に心臓が飛び出してしまいそうだったからだ。
向かいの椅子にはメノリがいる。背筋を伸ばし、いつもより口数が少ない。落ち着いているように見えて、指先がわずかに机の縁をなぞっているのが、ルナには分かった。心の焦りを、手が追い払おうとしている。
「……ねえ、メノリ」
「ん?」
「今、どこまで行ってるのかな。アルテミス」
メノリは窓の外へ視線をやり、短く息を吐いた。
「出発してからの時間を考えれば、まだセーシング領域の外だろ。そう簡単に音沙汰がある距離じゃない」
「……そうだよね」
分かっている。分かっているのに、言わずにはいられない。祈るように言葉をこぼさないと、胸の中が張り裂けそうになる。
そのときだった。
端末が、静かな室内に不意に震えを響かせた。通知音は切ってあるのに、振動だけが容赦なく掌へ伝わる。ルナは一瞬、呼吸が止まった。
画面に表示された発信者名は――イーナ。
「……イーナさん!」
ルナが通話を受けると同時に、イーナの声が飛び込んできた。オペレーションルーム特有の、背後が忙しない音。短い報告、キーボードの打鍵音、通信の切り替わる微かな電子音。
『ルナ、メノリ。今、連絡して大丈夫ですか?』
「大丈夫です! なに、なにか……!」
『救助、成功しました。ブライアンさんとブルンクリンさん一向は、確保。生存確認。負傷者はいまふけど、致命的じゃありません。今、搬送手順に入ってます』
一拍。ルナの頭は言葉を理解したのに、身体が追いつかなかった。
次の瞬間、ルナは声にならない声を上げていた。
「やったー!!」
反射的に立ち上がり、その勢いのままメノリに抱きつく。メノリの胸に額がぶつかり、硬い布地の感触と、確かな体温が伝わった。
「……ああ。本当に良かった」
メノリの声は低く、珍しく柔らかかった。ルナの背に回された腕が、いつもより強い。抱きしめるというより、逃がさないように支える力だ。
『……二人とも、落ち着いてくださいね。まだ帰還まで手順が残ってるけど、ひとまず最悪は避けられました』
「はい……! ありがとうございます、イーナさん! 本当に……!」
『礼は大丈夫です。待つのは辛いと思いますけど、今は休んでください。動きがあればまた連絡します』
通話が切れる。ルナは端末を握ったまま、しばらくその場に立ち尽くした。胸の奥で、硬く結んでいた縄がほどけていくような感覚がある。涙が出そうなのに、笑ってしまいそうで、どちらの顔をすればいいか分からない。
メノリが静かに言った。
「……これで、少しは眠れるな」
「うん……眠れる。たぶん、今なら」
そう言いながらルナは気づく。眠れる、じゃない。眠りたい。やっと眠れる。身体が、心が、ようやく許された気がした。
それから二日後。
宇宙管理局のドックには、三つの巨影が戻ってきた。
グレートフォックス。アルテミス。ネフェリス。
金属と光の巨大な塊が、ゆっくりと定位置へ滑り込み、ドックの固定アームが「ガチン」と鈍い音を立てて噛み合う。空気のない場所で起きたはずの動きが、なぜか“帰ってきた”という音を伴って胸へ届く。
アルテミスの操縦室。計器類が次々と“帰還完了”の表示へ変わっていく中で、ペルシアが大きく背伸びをした。
「んーーー、やっと到着した! あー疲れた!」
伸びの勢いで制服の上着が引っ張られ、肩のラインが崩れる。ペルシアはそれすら気にせず、椅子に沈み込んだ。
すぐ隣で、クリスタルが呆れたように眉を上げる。
「よく言うわよ。帰り、ずっと寝てたくせに」
「久々に宇宙船に乗ったんだもん。仕方ないでしょ」
悪びれないどころか、むしろ誇らしげだ。チャコが肩をすくめて笑った。
「まあ静かでよかったんちゃう?」
「チャコ、まるで私がうるさいみたいじゃない!」
「そこまでは言うとらんやろ」
軽口の応酬。その声が、操縦室の緊張をほどいていく。二日前まで、これと同じ口で怒鳴り散らし、叱りつけ、命を引っ張って帰ってきたとは思えない。
クリスタルが、ふと後ろを振り返って言った。
「ペルシアが通信席で眠るから、ククルなんて音を立てないようにずっと緊張してたんだから」
「い、いえ、私は……」
ククルが言葉に詰まる。否定したいのに、否定したら“緊張してた自分”を恥ずかしいと認めるみたいで、言い方が見つからない。
ペルシアは横目でククルを見て、口元を少し緩めた。
「そういえば、ククルがいるのに気にならなかったわね」
「それはそれで、なんでか悲しいです……」
ククルが苦笑いを浮かべると、ペルシアは当然のように言った。
「ククルもちゃんと成長したって意味よ」
「……ペルシアさん」
ククルの声が少しだけ弾む。嬉しい、と言わずとも分かる温度がそこにあった。
その空気を区切るように、リュウジが淡々と告げる。
「エアロック解除した。降りられるぞ」
「はーい」
ペルシアの返事は妙に軽い。だがリュウジは軽くしない。
「ペルシア、降りる前にログを宇宙管理局に送っておけ」
「え?」
ペルシアが目を丸くすると、クリスタルが即座に突っ込む。
「当たり前でしょ。アルテミスの通信士は誰よ?」
「私だけど……誰か送ってくれたら良かったじゃない。私だって寝てたんだから」
チャコが半眼になる。
「何言うとんねん。通信席で眠っとったから、誰もできひぃんやろ」
「あ……!」
ペルシアが唇を尖らせ、悔しそうに呻いた。ククルが小さく声をかける。
「ペルシアさん……」
「ククル、手伝う必要はないわよ」
クリスタルが先回りして釘を刺す。ククルは反射的に背筋を伸ばして「はい」と頷いた。
「分かったわよ。ちゃんとやるわよ」
ペルシアが渋々端末に向き直ると、チャコは立ち上がりながら言った。
「その方がええ。ウチらは先に降りとるで」
「お先〜」
クリスタルがひらひらと手を振り、操縦室を出ていく。ククルも慌てて立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「すみません、ペルシアさん」
「いいのよ。行って」
操縦室の扉が閉まり、残ったのはペルシアとリュウジだけになった。船内が急に静かになる。エンジン停止後の余韻が、低い振動として床から伝わる。
リュウジは操作パネルに手を伸ばし、システムを順番に落としていく。手順に無駄がない。安全確認のチェックは、最後の最後まで淡々としている。帰還したから終わり、ではない。帰還しても、最後に事故が起きれば全てが台無しだ。
「俺も先に降りるぞ」
リュウジがそう言った瞬間、ペルシアが目を見開いた。
「ええ!?」
信じられない、という顔。まるで“当然手伝う”が前提だったみたいに。
「リュウジ、手伝ってくれないの?」
ペルシアがじっと見つめる。見つめ方がずるい。任務中の統括官の視線ではなく、どこか子どもっぽい、拗ねた目。
リュウジは一拍、無表情のまま返す。
「自業自得だろ」
「そっか……」
ペルシアの肩が、ほんの少しだけ落ちる。その落ち方が、わざとらしい。なのに、どこか本気の寂しさも混じっているのが厄介だった。
ペルシアは端末を睨みながら、小さく呟く。
「……リュウジは、私が一人でアルテミスで作業するのに先に降りるんだ。きっと、これがエリンだったら手伝うんだろうなぁ」
空気が一瞬、止まった。
リュウジの手が、操作パネルの上で止まる。ペルシアは端末を見ているふりをしているが、視線の端は確実にリュウジを捉えている。刺すような呟き。しかも、わざと“比べる”言い方をする。
リュウジは無言で息を吐いた。短い沈黙の後、観念したように口を開く。
「……分かった。手伝ってやる」
ペルシアの顔がぱっと明るくなる。切り替えが速すぎる。
「流石、リュウジ! 愛してる!」
「いいから早くやれ」
リュウジはため息をこぼし、椅子を引いてペルシアの端末の横に座った。端末画面には、帰還ログの一覧がずらりと並ぶ。通信記録、牽引テンションの推移、セーシング領域外での微弱通信ログ、ホークの牽引開始時刻、ネフェリスの牽引安定化タイミング、グレートフォックスとの補助テンション連携――どれも一つ欠ければ、後から必ず責められる。
「どれから送る?」リュウジが聞く。
「全部よ、全部。……って言いたいところだけど、優先順位は分かるでしょ」
ペルシアは端末を操作しながら、いつもの顔に戻っていく。さっきまでの子どもっぽさが嘘みたいに消え、目の奥に冷静さが宿る。指先の動きが速い。ログのタグを付け、圧縮形式を選び、送信先の管制サーバを指定する。
リュウジが横で画面を覗き込み、必要な項目が抜けていないかを確認する。
「ネフェリス側の通信封鎖ログ、別で送れ。報告書が荒れる」
「分かってる。ブルンクリンの“青二才発言”も添付しとく?」
「余計に荒れる」
「でも、腹立つじゃない」
「腹立つなら、紙に書いて燃やせ」
ペルシアが「ひど」と笑い、リュウジは笑わない。笑わないのに、そのやり取りが妙に自然で、操縦室が少しだけ暖まる。
送信ボタンを押すと、端末が低く振動し、データ転送のバーが伸びていく。
「……ねえ、リュウジ」
「何だ」
「今回、ちゃんと褒めてあげる」
ペルシアが唐突に言う。リュウジは画面から目を逸らさず、短く返す。
「今さらか」
「今さらじゃないわよ。S級って伊達じゃないって、改めて思ったもの」
「当たり前だ」
リュウジの声は淡々としているのに、ペルシアは満足そうに頷いた。転送バーが半分を超える。操縦室の静けさの中で、機械が仕事をしている音だけが微かに響く。
ペルシアが口を尖らせ、しかし次の瞬間には笑った。
「……ほんと、リュウジって優しくない」
「優しくしたら、付け上がるだろ」
「付け上がるわよ?」
「だからだ」
転送バーが終端に到達し、端末が「送信完了」を表示した。ペルシアは勝ち誇ったように胸を張る。
「ほら、やった」
「最初からやれ」
「最初からやってたら、リュウジに手伝ってもらえなかったじゃない」
「そういう問題じゃない」
リュウジが立ち上がり、最後のスイッチを落とす。操縦室の照明が一段暗くなり、計器の表示が待機モードに移行する。船が「完全に止まった」ことを、静かに知らせる。
「行くぞ」
「はーい」
二人が操縦室を出ると、通路の先から笑い声が聞こえた。クリスタルとチャコ、それにククルが待ちきれずに覗き込んでいる。
「おっそい!」
クリスタルが言う。
「まさか手伝わせたんか、リュウジに」
チャコがニヤニヤする。
「もちろん」ペルシアが胸を張る。
「偉そうに言うな」リュウジが即座に言う。
ククルはほっとした顔で、二人を見た。
「ログ、送れましたか?」
「完璧」ペルシアが親指を立てる。「リュウジのおかげでね」
そのやり取りに、クリスタルが小さく笑う。
「まあ、何にせよ。全員、生きて帰ってきた。それが一番よ」
「せやな」チャコが頷く。
「帰ったらジュースの話、忘れたらあかんで」
「覚えてる」
リュウジが淡々と言う。
「ほんまに?」
チャコが疑う。
「一箱届ける」
「足らへん」
「……分かった、二箱」
「よっしゃ!」
軽口が飛び、疲れが笑いに変わっていく。ドックの外側では医療班と整備班が慌ただしく動き、ネフェリスの収容準備が進んでいるはずだ。ホーク側の処置も続いている。まだ終わっていない。
それでも、帰ってきた。
その事実が、アルテミスの通路をゆっくりと満たしていく。
ペルシアが一度だけ振り返り、アルテミスの操縦室の扉を見た。そこには、ついさっきまで彼女たちが命を繋いだ場所がある。静かな扉。その向こうで、もう戦いは終わった。
「……さ、行くわよ。あとは地上の仕事」
ペルシアがそう言って歩き出す。
リュウジが短く頷き、クリスタルが続き、チャコが「ほな」と肩を回し、ククルが「はい!」と声を張って後に続いた。
アルテミスはドックに鎮座したまま、黙って彼らを見送った。
ーーーー
エアロックの前で、ククルが深呼吸をひとつした。肩で息をしているのが自分でも分かる。笑顔を作ろうとして、うまく頬が上がらない。けれど、そのままでもいいと思えた。
艦内灯の白い光の下、彼女は扉の縁に両手を添える。厚い金属が指先にひんやりと伝わり、微かな振動が掌に残っている。外側はドック。帰ってきた場所。帰ってくるはずの場所。
ロック解除の合図が短く鳴り、緩衝の音と共に気圧の差がなだめられていく。
「……開きます」
誰に言ったわけでもなく、ククルは小さく呟いて、扉をゆっくり押し開いた。
次の瞬間、明るい光が差し込んできた。
白い。眩しい。宇宙船の中の照明とは違う、ドック全体を照らす強い光。照明の角度も、反射の具合も、まるで舞台のスポットライトみたいだった。そこに混じる、金属とオイルと冷却剤の匂い。さらに人の熱気。声。足音。思った以上に「生きている」空気が押し寄せてきて、ククルは一瞬だけ、足を止めた。
けれど彼女はすぐに笑った。いつも通りの、明るい声を取り戻して言う。
「ちゃんと帰って来ましたね!」
「せやな」
チャコが隣で頷く。短く、しかし確かな肯定だった。
先に視界に飛び込んできたのは、タラップの下に広がる人だかりだった。整備班、医療班、管制のスタッフ、警備、そしてその向こうに、招集された関係者らしき姿。表情の硬い人もいれば、手を握りしめて祈るように見上げている人もいる。誰もが同じ方向を見て、同じ息の仕方をしていた。
クリスタルが思わず漏らす。
「それにしても……凄い数の人ね」
「S級二人が事故に遭って、それを英雄が救ったんだもの。話題性は抜群よ」
ペルシアがさらりと言う。いつもの軽口の調子だ。だが、その声音の下には、ドックの緊張と熱を正確に掴んでいる冷静さがあった。ここには、興奮と安堵と、そしてこれから始まる処置の現実が混ざっている。油断していい場所じゃない。
ククルは振り返って、笑顔を作った。
「さぁ行きましょう!」
「元気少女のククルが先導ね」
クリスタルが肩をすくめながら歩き出し、チャコが「ほな」とタラップへ向かう。二人が先に降りていく靴音が、金属の段に乾いたリズムを刻む。
ペルシアはエアロックの縁で、いったん立ち止まった。タラップの先。人の波。照明に照らされた影。自分たちが降りていくために、無意識に作られていく細い通路。
その光景を、ペルシアは少し眩しそうに眺めていた。
「どうした?」
背後からリュウジの声がかかる。近い。音が柔らかい。操縦席にいたときの声よりも、少しだけ温度がある。
ペルシアは視線を外さずに言った。
「……この景色、いいわね」
リュウジは一拍置いて、短く息を吐いた。
「……ああ」
ペルシアは、タラップの手すりに軽く指を置く。金属の冷たさが、逆に現実を教えてくれる。
「ブライアン捜索の時、私は迎える側だったから分からなかったけど……」
言葉を区切り、ペルシアはドックを見下ろした。
「ちゃんと帰りを待っててくれる人がいるんだって、こうして降りる側になると実感するのよね」
リュウジは視線を前へ向けたまま、静かに言った。
「S級になって良かったと思える瞬間の一つだな」
「……ふふ」
ペルシアが小さく笑う。自分の中の、どこか軋んでいた部分が、音を立てずにほどけていくみたいだった。待たれている。帰る場所がある。待つ側の苦しさも知っているからこそ、その事実が胸に沁みた。
「ほら、行くぞ」
「はいはい。英雄の背中に置いていかれないようにしないとね」
「置いていく」
「嘘つき」
言い返しながら、ペルシアはタラップへ足をかけた。金属の段が僅かに震え、その振動が足裏から膝に伝わる。光が強くなる。声が近づく。拍手のような音が、どこかから湧いたのが分かった。
タラップを降り切った先で、クリスタルはすでにスターフォックスのフォックスと向き合っていた。
「無事で何よりだ、クリスタル」
フォックスはいつものように落ち着いた声だったが、握手に込める力が少し強い。言葉よりも先に、彼の安堵が手のひらから伝わってきたのだろう。クリスタルも、少しだけ目を細める。
「あなたたちもね。待機、助かったわ」
「当然だ。お前たちが戻るまで、あの縁は守る」
後ろでスリッピーが「準備はバッチリだったよ!」と手を振り、ファルコが「世話のかかる奴だ」と短く頷く。ドックの空気が、ほんの少し軽くなる。
チャコはというと、タラップの下に集まっていた見学者の子どもたちに、ぶんぶんと手を振っていた。整備班の家族なのか、制服の袖を引っ張っている子もいる。目がきらきらして、宇宙船よりも「帰ってきた人」を見ている。
「おーい、危ないで。ほら、そこ離れや」
チャコが笑いながら言うと、子どもが「チャコだ!」と叫んで、周りの大人が慌てて口元を押さえた。笑いと涙が同じ場所にある。
そしてククルは――
ホーク側のエアロックが開いた瞬間から、視線がそこに釘付けだった。
疲れきった足取りで降りてきたのは、エリンだった。いつもより髪が乱れている。頬に薄い擦り傷。だが、立っている。歩けている。それだけで、ククルの胸の奥が熱くなる。
エリンは、ネフェリスに乗っていたチーフパーサーらしき女性と短く言葉を交わしていた。先輩乗務員同士の、状況確認の会話。声は低く、しかし互いの無事を確かめ合うような温度がある。
ククルは我慢できなかった。
「エリンさん!!」
呼びかけた声が震える。走らない、と言われたばかりなのに、足が勝手に前へ出てしまう。次の瞬間、ククルはエリンに抱きついていた。腕が震える。指先が縋りつく。涙が勝手に出てくる。
「……っ、良かった……っ、本当に……っ……」
声が言葉にならない。嗚咽が混じる。エリンは一瞬驚いたように目を瞬き、すぐに優しく微笑んだ。
「ククル……来たのね」
エリンはククルの頭をそっと撫でる。指が髪を梳く。その手つきが、昔、ドルトムントで乗務員を落ち着かせたときのものと同じだった。安心させる手。大丈夫、と伝える手。
「泣かなくていいのよ。帰ってきたでしょう」
「……帰ってきました……っ……」
ククルが泣きながら頷くと、エリンはもう一度、頭を撫でた。
「うん。帰ってきた」
その姿を、少し離れた場所で見ていたチーフパーサーが、ふっと肩の力を抜いたように見えた。乗務員の世界は、言葉にしないで分かる。無事に戻ったときの「触れて確かめる」その儀式みたいな抱擁が、ここにもあった。
その頃には、医療班がすでにホークへ向かって動いている。ストレッチャー、酸素ボンベ、器具のケース。整備班はネフェリスの損傷部位を撮影しながら、牽引ワイヤーの固定解除に取りかかっていた。安心して泣いている暇はない。だが、人は泣いてしまう。泣くことで、ようやく“帰ってきた”を身体に落とし込む。
リュウジとペルシアがタラップを降りてきた瞬間、空気が少しだけ変わった。
ざわめきが、一拍、止まる。
誰かが「リュウジだ」と呟いたのが聞こえた。別の誰かが「ペルシア……」と声を漏らす。二人の名前は、帰還ログよりも早くドックを走っていた。英雄と統括官。救助の中心。最前線。
そして――宇宙管理局長が、数名の幹部と共に前へ出てきた。
局長は、普段よりも背筋が伸びていた。歳相応の皺が目立つはずなのに、今日だけはその皺すら強さに見える。帽子を取り、ほんの僅かに頭を下げた。
「……よく帰ってきてくれた」
その一言に、ドックの緊張がふっと緩む。拍手が広がる。誰かが涙を拭う。警備が「下がってください」と声を張る。混ざり合う音の中、局長の声だけが通る。
「リュウジ。ペルシア。クリスタル、チャコ、ククル……全員だな」
「はい」
ペルシアが背筋を伸ばし、簡潔に答えた。さっきまでアルテミスで眠っていた人とは思えないほど、きちんとしている。その切り替えが、やはり統括官なのだと改めて思わせる。
リュウジは局長を見て、短く頷いた。
「任務、完了しました。ホーク、ネフェリス共に牽引帰還。生存者は確保済み。詳細ログは送信済みです」
淡々とした報告。だが、そこに余計な飾りがないからこそ、重みがある。局長は目を閉じるように頷いた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
局長は言いながら、視線をネフェリスの方へ向けた。損傷した船体。牽引ワイヤーの跡。戻ってきたことの証拠がそこにある。
「医療班、負傷者を優先しろ。整備班、船体の安全確認。管制、ドック内動線を確保。……全員、滞りなく」
局長の指示が飛ぶ。待ち構えていた各班が一斉に動き出す。帰還はゴールではない。帰還してからが、現場の戦いだ。
それでも局長は、もう一度だけ、リュウジたちに視線を戻した。
「……君たちも、まずは降りて休め。だが、あとで状況説明は頼む」
ペルシアは局長に向けて、ほんの少しだけ口角を上げた。
「局長、迎えが多くて嬉しいわ。こんなに待ってくれてるなんて」
局長は疲れた顔のまま、しかし微かに笑う。
「待つ側の気持ちは……今日、全員が知った。君もな」
ペルシアは一瞬、言葉を失い、次に軽く肩をすくめた。
「……やだ。局長、そういうこと言うと泣いちゃうじゃない」
「泣く暇はある。戻ってきたからな」
その一言が、ペルシアの胸の奥に落ちた。
彼女は視線をドックの人だかりへ向ける。待っていた人たち。祈っていた人たち。怒っていた人たち。すべてが、同じ場所で息をしている。帰還という現実の中で。
リュウジが隣で、低い声で言った。
「……帰るってのは、悪くないな」
ペルシアは横目でリュウジを見る。
「今さら? 英雄」
「今さらだ」
その短い言葉のやり取りに、クリスタルがふっと笑った。チャコが「ほんまに、素直やないな」と呆れ、ククルが「でも、良いですね」と涙声で言う。
アルテミスの影がドックの床に伸びている。その影の中を、彼らは歩き出した。救助の余韻を背負ったまま、次の仕事へ向かうために。
背後では、医療班の指示が飛び、担架が動き、整備班の工具が鳴る。ホークの方からは、ブライアンの声が聞こえた気がした。ネフェリスの方では、誰かがまだ文句を言っているような気配もある。
けれど、今だけは――
ドックの照明の下で、帰ってきた人間が、帰りを待っていた人間に迎えられる。
その当たり前が、どれほど貴重なものなのかを、全員が知っていた。
ーーーー
ククルは引き続きエリンに抱きついたまま、肩を震わせて涙を流していた。腕の力は強くない。むしろ、離れたら現実が崩れてしまう気がして、必死に「ここにいる」ことを確かめるような抱き方だった。
「……よかった……ほんとに……」
かすれた声が、エリンの胸元に吸い込まれていく。ククルは泣きながら笑おうとして、うまくいかずにまた涙をこぼす。エリンは困ったように息を吐いて、けれどその困り顔には温度があった。叱るでも、無理に引きはがすでもなく、ただ背中を撫でる。落ち着かせるための、一定のリズムで。
その横で、ネフェリスから降りてきたチーフパーサーが、柔らかな目を細めた。
「エリン、愛されてるわね」
冗談みたいな言い方だったが、からかいではなく、事実を言葉にしただけの響きだった。チーフパーサーはククルの肩にそっと手を添える。
「ククル。落ち着いて。ほら、息。吸って、吐いて。大丈夫、ここは安全よ」
ククルは顔を上げようとして、涙で視界が歪んでしまい、またエリンに額を押しつけた。
「すみません……すみません、私……」
「謝る必要ない。泣くのは弱さじゃないわ。今まで張り詰めてたんでしょ」
チーフパーサーの声は、仕事の場での指示みたいに落ち着いているのに、耳に触れるところだけが優しい。ククルの呼吸が少しずつ整っていく。その様子を見て、エリンは静かに微笑んだ。まるで「よく来たね」と言っているみたいに。
少し離れたところでは、クリスタルがサツキとマリの前に立っていた。二人とも顔色は青白い。帰還した安堵よりも、緊張が抜けきらない疲労が先に出ている。
「サツキ、マリ。お疲れ様」
サツキは肩をびくりと揺らし、やっと息を吐いた。マリは短く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。生きて戻った。それがまず一番」
クリスタルはあえて柔らかい声を選ぶ。責める気配を一ミリも混ぜない。けれど甘やかしでもない。帰ってきた人間にだけ渡せる、次へ繋ぐための声だった。
「サツキ。あんた、よく持たせたわ。あの状況で整備士がパニックになったら終わりだもの」
サツキは口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。悔しさと情けなさと、いろいろが喉で絡まっている顔だった。
「……まだ、足りなかったです」
「うん。足りなかった。でも、だからって“全部ダメ”じゃない。そこ、勘違いしないで」
クリスタルの視線がマリへ移る。
「マリも。声、出してた。無線で喉が潰れそうなくらい。あれができるなら、次は“頭”も一緒に動かせる」
マリの目がわずかに揺れ、唇が震えた。泣きそうなのをこらえている。
「……はい」
「よし。反省は帰ってからでいい。今はまず、自分の身体を回収しなさい。水、飲んで。寝て。ね?」
その言葉に、二人はやっと頷いた。
その一方で、リュウジは周囲を見渡していた。人だかり、拍手、歓声、医療班の担架、整備士の怒鳴り声。どれも「帰還」を構成する大切な要素のはずなのに、リュウジの視線はそこに留まらない。
誰かを探すように。
呼吸が浅くなる。自分でも意識していない癖が、舵を切るときみたいに出ていた。ほんのわずか、息を細かく吐く。胸の奥が落ち着かない。――見つけたいのに、見つけるのが怖い。そんな矛盾が、足を重くした。
横から、チャコがリュウジの足を軽く叩いた。合図みたいに。
「ほら」
チャコは顎をしゃくり、人混みの向こうを指さした。
「あそこや」
その方向に、リュウジの目が吸い寄せられる。警備ラインの向こう、少しだけ静かな区画。見送る側の場所に、ルナとメノリがいた。
ルナは両手を胸の前で握りしめて立っている。指先に力が入って白くなっているのが、遠目でも分かった。メノリはその半歩後ろ。視線は冷静で、だけどルナの背中を守るように立っている。
リュウジはゆっくりと歩き出した。
チャコもその後を追う。
数十歩の距離のはずなのに、体感は何倍も長い。靴底が床を叩く音が、やけに大きく響いた。周囲の喧騒が遠のき、視界が狭くなる。まるで宇宙空間に出たときみたいに、世界が静かになっていく。――いや、静かなのは世界じゃない。自分の中だけが、勝手に無音になる。
そして、ルナの前に立った。
リュウジはじっとルナを見つめる。
ルナも、いつものようにリュウジを見つめ返す。
けれど、その「いつものように」は、ほんの少し違っていた。ルナの目元は赤い。泣いた痕が残っているのに、泣かないようにしている。頬の筋肉がこわばり、唇がかすかに震えている。それでも逃げない目だった。怒りと寂しさと心配が、綺麗に混ざらず、ぐちゃぐちゃのままそこにある。
リュウジは喉を鳴らした。
「俺は……」
声は出たのに、続かない。
「俺は……俺は……」
何を言えばいいのか分からなかった。謝りたい。全部話したい。けれど、どの言葉も「言い訳」に聞こえてしまう気がした。守りたかったと言えば、守ったつもりの自分を正当化してしまう。苦しかったと言えば、相手に「じゃあ仕方ないね」と言わせてしまう。そんなのは違う。ルナが欲しいのは、綺麗な結論じゃない。誤魔化さない言葉だ。
ルナは何も言わない。
きっとリュウジからの言葉を待っている。
その沈黙が、リュウジの胸を締め付けた。怒鳴られた方が楽だった。責められた方が、受け止めれば済む。けれどルナは待っている。受け止めるだけじゃなく、リュウジ自身が差し出す言葉を。
リュウジが何とか言葉を絞り出そうとした、その瞬間――
後頭部をがしっと掴まれた。
「バカですみませんでしたー!」
ペルシアの声が、ドックの空気を真っ二つに割る。次の瞬間、リュウジの上体は強制的に前へ倒され、頭が下がった。ペルシアの手は容赦がない。逃げ道のない掴み方だった。
ルナが、思わず苦笑する。
「……ペルシアさん」
メノリも小さく息を吐いた。チャコは肩を揺らして、笑いを堪えるように顔を背けた。
ペルシアはリュウジの後頭部を押さえたまま、ルナに向かって言った。
「こういう時は、まず反射で頭! 言葉が詰まるなら先に誠意! ほら!」
ぺしっと、リュウジの尻が叩かれる。
「シャキッとしなさい」
それだけ言うと、ペルシアは嵐みたいに去っていった。背中が遠ざかるのに、場の空気は少しだけ軽くなる。笑ってはいけないはずなのに、誰かが咳払いで笑いを誤魔化す音がした。
その言葉にリュウジは頭を下げたまま、言葉を告げた。
「……悪かった」
低い声。震えないように押さえ込んだ声。
「何も言わないで、ずっと隠していた」
息を吐くと胸が痛い。それでも、続ける。
「本当に悪かった」
ルナは短く返す。
「……うん」
その一文字が重かった。許しでも拒絶でもない。ただ「聞いている」の合図。だからこそ刺さる。
少し間を置いて、ルナが言った。
「私もごめんなさい。リュウジに酷いこと言っちゃった」
言いながら、ルナの指先がわずかに震える。謝っているのに、心がまだ落ち着いていない。それが分かる。
「言われて当然だ」
リュウジは頭を下げたまま即答した。
ルナは小さく首を振る。否定でも同意でもなく、ぐちゃぐちゃの感情を整理しようとする仕草だった。
「うん……でも、言ったことは後悔はしてない」
声が震える。喉が詰まり、言葉が切れそうになる。それでも続ける。
「……今でもやっぱり寂しいよ」
リュウジが顔を上げた。
ルナも、同じように顔を上げた。
そこにあったルナの顔は、涙を堪えていてぐしゃぐしゃだった。泣かないようにしてるのに泣いてしまう。笑おうとしてるのに笑えない。頬に溜まっていた涙が、ついに一筋、すべって落ちた。
ルナは、そのまま言った。
「だから約束して」
握りしめていた両手を、ぎゅっと胸に押し付ける。
「もう隠し事はしないって」
涙が頬を伝い、唇が震える。
「辛い時は辛いって、言うって約束して」
リュウジは強く頷いた。
「約束する」
短い言葉。だけど逃げない言葉。誓いの形をした言葉だった。
その言葉が、ルナの胸に温かく広がっていく。怒りが消えたわけじゃない。寂しさが無くなるわけでもない。でも、“これから”に向けた足場ができた気がした。ルナは涙を流しながら、それでも笑った。
「……無事に帰って来てくれてありがとう」
言葉の温度に嘘はない。心配で怖くて、それでも待っていた時間が、この一言に全部詰まっている。
リュウジはまた頭を下げた。
「……ありがとう」
ルナが慌てたように言う。
「……もう、頭を下げなくてもいいよ」
少し笑って、けれど目はまだ濡れている。
「でも……真面目なところも、リュウジらしいって思う」
その言葉に、リュウジの肩がほんの少しだけ緩む。胸の奥が、ようやく息を吐ける。
――その瞬間。
「まだ顔を上げるな」
メノリの声が落ちた。低く、短く、鋭い。冗談ではない。守るための刃の音だった。
リュウジが反射的に顔を上げかけたのを、メノリが止めた。
「メノリ……」
ルナが小さく呼ぶ。けれどメノリは視線を逸らさない。
「いいか。今回の件はルナが許したのなら水に流そう」
一拍置いて、さらに重くする。
「ただ――これが最後の忠告だ」
メノリの目が、リュウジをまっすぐ貫く。
「ペルシアさんに叱られたこと、ルナとの約束。肝に銘じろ」
リュウジは頷く。逃げずに、正面から。
「分かっている」
チャコが小声でぼそっと言う。
「メノリ、厳しいなぁ」
メノリはその声を聞こえないふりをして、最後に言った。
「分かったのならいい。次にルナを泣かせたら容赦はしない」
脅しではない。宣言だった。ルナを守ると決めた人間の、静かな誓い。
リュウジは息を吐いて言った。
「ありがとう」
そして、ゆっくり顔を上げる。
メノリの表情は柔らかかった。厳しさの奥にある安堵が、確かにあった。“帰ってきた”という事実を、ちゃんと受け入れている顔だった。
ルナは涙を指で拭い、赤い目のままもう一度笑った。泣いたままの笑顔だった。
リュウジは、その笑顔を見つめながら、胸の奥で誓い直す。
隠さない。逃げない。強がりだけで誰かを守ろうとしない。
守りたいものを守るなら、守られる側の痛みも、ちゃんと受け止める。
ドックの喧騒は続いている。医療班の声も、整備士の足音も、泣き声も笑い声も、全部が混ざっている。
それでも今、リュウジの世界は――ルナの涙と、ルナの「ありがとう」の中にあった。
そしてその言葉が、彼の帰還をようやく“本物”にした。