サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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帰還

 宇宙管理局近くのホテル。その一室は、昼も夜も判別がつかないほど薄い照明に包まれていた。カーテンの向こうは宇宙港の灯りがにじみ、窓ガラスの端には、発着のたびに微かな振動が伝わってくる。

 

 ルナはソファの端に腰を落としたまま、何度目か分からないため息を吐いた。手の中の端末は、ずいぶん前に通知音を切っている。切っていなければ、沈黙の隙間に心臓が飛び出してしまいそうだったからだ。

 

 向かいの椅子にはメノリがいる。背筋を伸ばし、いつもより口数が少ない。落ち着いているように見えて、指先がわずかに机の縁をなぞっているのが、ルナには分かった。心の焦りを、手が追い払おうとしている。

 

「……ねえ、メノリ」

 

「ん?」

 

「今、どこまで行ってるのかな。アルテミス」

 

 メノリは窓の外へ視線をやり、短く息を吐いた。

 

「出発してからの時間を考えれば、まだセーシング領域の外だろ。そう簡単に音沙汰がある距離じゃない」

 

「……そうだよね」

 

 分かっている。分かっているのに、言わずにはいられない。祈るように言葉をこぼさないと、胸の中が張り裂けそうになる。

 

 そのときだった。

 

 端末が、静かな室内に不意に震えを響かせた。通知音は切ってあるのに、振動だけが容赦なく掌へ伝わる。ルナは一瞬、呼吸が止まった。

 

 画面に表示された発信者名は――イーナ。

 

「……イーナさん!」

 

 ルナが通話を受けると同時に、イーナの声が飛び込んできた。オペレーションルーム特有の、背後が忙しない音。短い報告、キーボードの打鍵音、通信の切り替わる微かな電子音。

 

『ルナ、メノリ。今、連絡して大丈夫ですか?』

 

「大丈夫です! なに、なにか……!」

 

『救助、成功しました。ブライアンさんとブルンクリンさん一向は、確保。生存確認。負傷者はいまふけど、致命的じゃありません。今、搬送手順に入ってます』

 

 一拍。ルナの頭は言葉を理解したのに、身体が追いつかなかった。

 

 次の瞬間、ルナは声にならない声を上げていた。

 

「やったー!!」

 

 反射的に立ち上がり、その勢いのままメノリに抱きつく。メノリの胸に額がぶつかり、硬い布地の感触と、確かな体温が伝わった。

 

「……ああ。本当に良かった」

 

 メノリの声は低く、珍しく柔らかかった。ルナの背に回された腕が、いつもより強い。抱きしめるというより、逃がさないように支える力だ。

 

『……二人とも、落ち着いてくださいね。まだ帰還まで手順が残ってるけど、ひとまず最悪は避けられました』

 

「はい……! ありがとうございます、イーナさん! 本当に……!」

 

『礼は大丈夫です。待つのは辛いと思いますけど、今は休んでください。動きがあればまた連絡します』

 

 通話が切れる。ルナは端末を握ったまま、しばらくその場に立ち尽くした。胸の奥で、硬く結んでいた縄がほどけていくような感覚がある。涙が出そうなのに、笑ってしまいそうで、どちらの顔をすればいいか分からない。

 

 メノリが静かに言った。

 

「……これで、少しは眠れるな」

 

「うん……眠れる。たぶん、今なら」

 

 そう言いながらルナは気づく。眠れる、じゃない。眠りたい。やっと眠れる。身体が、心が、ようやく許された気がした。

 

 それから二日後。

 

 宇宙管理局のドックには、三つの巨影が戻ってきた。

 

 グレートフォックス。アルテミス。ネフェリス。

 

 金属と光の巨大な塊が、ゆっくりと定位置へ滑り込み、ドックの固定アームが「ガチン」と鈍い音を立てて噛み合う。空気のない場所で起きたはずの動きが、なぜか“帰ってきた”という音を伴って胸へ届く。

 

 アルテミスの操縦室。計器類が次々と“帰還完了”の表示へ変わっていく中で、ペルシアが大きく背伸びをした。

 

「んーーー、やっと到着した! あー疲れた!」

 

 伸びの勢いで制服の上着が引っ張られ、肩のラインが崩れる。ペルシアはそれすら気にせず、椅子に沈み込んだ。

 

 すぐ隣で、クリスタルが呆れたように眉を上げる。

 

「よく言うわよ。帰り、ずっと寝てたくせに」

 

「久々に宇宙船に乗ったんだもん。仕方ないでしょ」

 

 悪びれないどころか、むしろ誇らしげだ。チャコが肩をすくめて笑った。

 

「まあ静かでよかったんちゃう?」

 

「チャコ、まるで私がうるさいみたいじゃない!」

 

「そこまでは言うとらんやろ」

 

 軽口の応酬。その声が、操縦室の緊張をほどいていく。二日前まで、これと同じ口で怒鳴り散らし、叱りつけ、命を引っ張って帰ってきたとは思えない。

 

 クリスタルが、ふと後ろを振り返って言った。

 

「ペルシアが通信席で眠るから、ククルなんて音を立てないようにずっと緊張してたんだから」

 

「い、いえ、私は……」

 

 ククルが言葉に詰まる。否定したいのに、否定したら“緊張してた自分”を恥ずかしいと認めるみたいで、言い方が見つからない。

 

 ペルシアは横目でククルを見て、口元を少し緩めた。

 

「そういえば、ククルがいるのに気にならなかったわね」

 

「それはそれで、なんでか悲しいです……」

 

 ククルが苦笑いを浮かべると、ペルシアは当然のように言った。

 

「ククルもちゃんと成長したって意味よ」

 

「……ペルシアさん」

 

 ククルの声が少しだけ弾む。嬉しい、と言わずとも分かる温度がそこにあった。

 

 その空気を区切るように、リュウジが淡々と告げる。

 

「エアロック解除した。降りられるぞ」

 

「はーい」

 

 ペルシアの返事は妙に軽い。だがリュウジは軽くしない。

 

「ペルシア、降りる前にログを宇宙管理局に送っておけ」

 

「え?」

 

 ペルシアが目を丸くすると、クリスタルが即座に突っ込む。

 

「当たり前でしょ。アルテミスの通信士は誰よ?」

 

「私だけど……誰か送ってくれたら良かったじゃない。私だって寝てたんだから」

 

 チャコが半眼になる。

 

「何言うとんねん。通信席で眠っとったから、誰もできひぃんやろ」

 

「あ……!」

 

 ペルシアが唇を尖らせ、悔しそうに呻いた。ククルが小さく声をかける。

 

「ペルシアさん……」

 

「ククル、手伝う必要はないわよ」

 

 クリスタルが先回りして釘を刺す。ククルは反射的に背筋を伸ばして「はい」と頷いた。

 

「分かったわよ。ちゃんとやるわよ」

 

 ペルシアが渋々端末に向き直ると、チャコは立ち上がりながら言った。

 

「その方がええ。ウチらは先に降りとるで」

 

「お先〜」

 

 クリスタルがひらひらと手を振り、操縦室を出ていく。ククルも慌てて立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。

 

「すみません、ペルシアさん」

 

「いいのよ。行って」

 

 操縦室の扉が閉まり、残ったのはペルシアとリュウジだけになった。船内が急に静かになる。エンジン停止後の余韻が、低い振動として床から伝わる。

 

 リュウジは操作パネルに手を伸ばし、システムを順番に落としていく。手順に無駄がない。安全確認のチェックは、最後の最後まで淡々としている。帰還したから終わり、ではない。帰還しても、最後に事故が起きれば全てが台無しだ。

 

「俺も先に降りるぞ」

 

 リュウジがそう言った瞬間、ペルシアが目を見開いた。

 

「ええ!?」

 

 信じられない、という顔。まるで“当然手伝う”が前提だったみたいに。

 

「リュウジ、手伝ってくれないの?」

 

 ペルシアがじっと見つめる。見つめ方がずるい。任務中の統括官の視線ではなく、どこか子どもっぽい、拗ねた目。

 

 リュウジは一拍、無表情のまま返す。

 

「自業自得だろ」

 

「そっか……」

 

 ペルシアの肩が、ほんの少しだけ落ちる。その落ち方が、わざとらしい。なのに、どこか本気の寂しさも混じっているのが厄介だった。

 

 ペルシアは端末を睨みながら、小さく呟く。

 

「……リュウジは、私が一人でアルテミスで作業するのに先に降りるんだ。きっと、これがエリンだったら手伝うんだろうなぁ」

 

 空気が一瞬、止まった。

 

 リュウジの手が、操作パネルの上で止まる。ペルシアは端末を見ているふりをしているが、視線の端は確実にリュウジを捉えている。刺すような呟き。しかも、わざと“比べる”言い方をする。

 

 リュウジは無言で息を吐いた。短い沈黙の後、観念したように口を開く。

 

「……分かった。手伝ってやる」

 

 ペルシアの顔がぱっと明るくなる。切り替えが速すぎる。

 

「流石、リュウジ! 愛してる!」

 

「いいから早くやれ」

 

 リュウジはため息をこぼし、椅子を引いてペルシアの端末の横に座った。端末画面には、帰還ログの一覧がずらりと並ぶ。通信記録、牽引テンションの推移、セーシング領域外での微弱通信ログ、ホークの牽引開始時刻、ネフェリスの牽引安定化タイミング、グレートフォックスとの補助テンション連携――どれも一つ欠ければ、後から必ず責められる。

 

「どれから送る?」リュウジが聞く。

「全部よ、全部。……って言いたいところだけど、優先順位は分かるでしょ」

 

 ペルシアは端末を操作しながら、いつもの顔に戻っていく。さっきまでの子どもっぽさが嘘みたいに消え、目の奥に冷静さが宿る。指先の動きが速い。ログのタグを付け、圧縮形式を選び、送信先の管制サーバを指定する。

 

 リュウジが横で画面を覗き込み、必要な項目が抜けていないかを確認する。

 

「ネフェリス側の通信封鎖ログ、別で送れ。報告書が荒れる」

 

「分かってる。ブルンクリンの“青二才発言”も添付しとく?」

 

「余計に荒れる」

 

「でも、腹立つじゃない」

 

「腹立つなら、紙に書いて燃やせ」

 

 ペルシアが「ひど」と笑い、リュウジは笑わない。笑わないのに、そのやり取りが妙に自然で、操縦室が少しだけ暖まる。

 

 送信ボタンを押すと、端末が低く振動し、データ転送のバーが伸びていく。

 

「……ねえ、リュウジ」

 

「何だ」

 

「今回、ちゃんと褒めてあげる」

 

 ペルシアが唐突に言う。リュウジは画面から目を逸らさず、短く返す。

 

「今さらか」

 

「今さらじゃないわよ。S級って伊達じゃないって、改めて思ったもの」

 

「当たり前だ」

 

 リュウジの声は淡々としているのに、ペルシアは満足そうに頷いた。転送バーが半分を超える。操縦室の静けさの中で、機械が仕事をしている音だけが微かに響く。

 

 ペルシアが口を尖らせ、しかし次の瞬間には笑った。

 

「……ほんと、リュウジって優しくない」

 

「優しくしたら、付け上がるだろ」

 

「付け上がるわよ?」

 

「だからだ」

 

 転送バーが終端に到達し、端末が「送信完了」を表示した。ペルシアは勝ち誇ったように胸を張る。

 

「ほら、やった」

 

「最初からやれ」

 

「最初からやってたら、リュウジに手伝ってもらえなかったじゃない」

 

「そういう問題じゃない」

 

 リュウジが立ち上がり、最後のスイッチを落とす。操縦室の照明が一段暗くなり、計器の表示が待機モードに移行する。船が「完全に止まった」ことを、静かに知らせる。

 

「行くぞ」

 

「はーい」

 

 二人が操縦室を出ると、通路の先から笑い声が聞こえた。クリスタルとチャコ、それにククルが待ちきれずに覗き込んでいる。

 

「おっそい!」

クリスタルが言う。

 

「まさか手伝わせたんか、リュウジに」

チャコがニヤニヤする。

 

「もちろん」ペルシアが胸を張る。

 

「偉そうに言うな」リュウジが即座に言う。

 

 ククルはほっとした顔で、二人を見た。

 

「ログ、送れましたか?」

 

「完璧」ペルシアが親指を立てる。「リュウジのおかげでね」

 

 そのやり取りに、クリスタルが小さく笑う。

 

「まあ、何にせよ。全員、生きて帰ってきた。それが一番よ」

 

「せやな」チャコが頷く。

「帰ったらジュースの話、忘れたらあかんで」

 

「覚えてる」

リュウジが淡々と言う。

 

「ほんまに?」

チャコが疑う。

 

「一箱届ける」

 

「足らへん」

 

「……分かった、二箱」

 

「よっしゃ!」

 

 軽口が飛び、疲れが笑いに変わっていく。ドックの外側では医療班と整備班が慌ただしく動き、ネフェリスの収容準備が進んでいるはずだ。ホーク側の処置も続いている。まだ終わっていない。

 

 それでも、帰ってきた。

 

 その事実が、アルテミスの通路をゆっくりと満たしていく。

 

 ペルシアが一度だけ振り返り、アルテミスの操縦室の扉を見た。そこには、ついさっきまで彼女たちが命を繋いだ場所がある。静かな扉。その向こうで、もう戦いは終わった。

 

「……さ、行くわよ。あとは地上の仕事」

 

 ペルシアがそう言って歩き出す。

 

 リュウジが短く頷き、クリスタルが続き、チャコが「ほな」と肩を回し、ククルが「はい!」と声を張って後に続いた。

 

 アルテミスはドックに鎮座したまま、黙って彼らを見送った。

 

ーーーー

 

  エアロックの前で、ククルが深呼吸をひとつした。肩で息をしているのが自分でも分かる。笑顔を作ろうとして、うまく頬が上がらない。けれど、そのままでもいいと思えた。

 

 艦内灯の白い光の下、彼女は扉の縁に両手を添える。厚い金属が指先にひんやりと伝わり、微かな振動が掌に残っている。外側はドック。帰ってきた場所。帰ってくるはずの場所。

 

 ロック解除の合図が短く鳴り、緩衝の音と共に気圧の差がなだめられていく。

 

「……開きます」

 

 誰に言ったわけでもなく、ククルは小さく呟いて、扉をゆっくり押し開いた。

 

 次の瞬間、明るい光が差し込んできた。

 

 白い。眩しい。宇宙船の中の照明とは違う、ドック全体を照らす強い光。照明の角度も、反射の具合も、まるで舞台のスポットライトみたいだった。そこに混じる、金属とオイルと冷却剤の匂い。さらに人の熱気。声。足音。思った以上に「生きている」空気が押し寄せてきて、ククルは一瞬だけ、足を止めた。

 

 けれど彼女はすぐに笑った。いつも通りの、明るい声を取り戻して言う。

 

「ちゃんと帰って来ましたね!」

 

「せやな」

 

 チャコが隣で頷く。短く、しかし確かな肯定だった。

 

 先に視界に飛び込んできたのは、タラップの下に広がる人だかりだった。整備班、医療班、管制のスタッフ、警備、そしてその向こうに、招集された関係者らしき姿。表情の硬い人もいれば、手を握りしめて祈るように見上げている人もいる。誰もが同じ方向を見て、同じ息の仕方をしていた。

 

 クリスタルが思わず漏らす。

 

「それにしても……凄い数の人ね」

 

「S級二人が事故に遭って、それを英雄が救ったんだもの。話題性は抜群よ」

 

 ペルシアがさらりと言う。いつもの軽口の調子だ。だが、その声音の下には、ドックの緊張と熱を正確に掴んでいる冷静さがあった。ここには、興奮と安堵と、そしてこれから始まる処置の現実が混ざっている。油断していい場所じゃない。

 

 ククルは振り返って、笑顔を作った。

 

「さぁ行きましょう!」

 

「元気少女のククルが先導ね」

 

 クリスタルが肩をすくめながら歩き出し、チャコが「ほな」とタラップへ向かう。二人が先に降りていく靴音が、金属の段に乾いたリズムを刻む。

 

 ペルシアはエアロックの縁で、いったん立ち止まった。タラップの先。人の波。照明に照らされた影。自分たちが降りていくために、無意識に作られていく細い通路。

 

 その光景を、ペルシアは少し眩しそうに眺めていた。

 

「どうした?」

 

 背後からリュウジの声がかかる。近い。音が柔らかい。操縦席にいたときの声よりも、少しだけ温度がある。

 

 ペルシアは視線を外さずに言った。

 

「……この景色、いいわね」

 

 リュウジは一拍置いて、短く息を吐いた。

 

「……ああ」

 

 ペルシアは、タラップの手すりに軽く指を置く。金属の冷たさが、逆に現実を教えてくれる。

 

「ブライアン捜索の時、私は迎える側だったから分からなかったけど……」

 

 言葉を区切り、ペルシアはドックを見下ろした。

 

「ちゃんと帰りを待っててくれる人がいるんだって、こうして降りる側になると実感するのよね」

 

 リュウジは視線を前へ向けたまま、静かに言った。

 

「S級になって良かったと思える瞬間の一つだな」

 

「……ふふ」

 

 ペルシアが小さく笑う。自分の中の、どこか軋んでいた部分が、音を立てずにほどけていくみたいだった。待たれている。帰る場所がある。待つ側の苦しさも知っているからこそ、その事実が胸に沁みた。

 

「ほら、行くぞ」

 

「はいはい。英雄の背中に置いていかれないようにしないとね」

 

「置いていく」

 

「嘘つき」

 

 言い返しながら、ペルシアはタラップへ足をかけた。金属の段が僅かに震え、その振動が足裏から膝に伝わる。光が強くなる。声が近づく。拍手のような音が、どこかから湧いたのが分かった。

 

 タラップを降り切った先で、クリスタルはすでにスターフォックスのフォックスと向き合っていた。

 

「無事で何よりだ、クリスタル」

 

 フォックスはいつものように落ち着いた声だったが、握手に込める力が少し強い。言葉よりも先に、彼の安堵が手のひらから伝わってきたのだろう。クリスタルも、少しだけ目を細める。

 

「あなたたちもね。待機、助かったわ」

 

「当然だ。お前たちが戻るまで、あの縁は守る」

 

 後ろでスリッピーが「準備はバッチリだったよ!」と手を振り、ファルコが「世話のかかる奴だ」と短く頷く。ドックの空気が、ほんの少し軽くなる。

 

 チャコはというと、タラップの下に集まっていた見学者の子どもたちに、ぶんぶんと手を振っていた。整備班の家族なのか、制服の袖を引っ張っている子もいる。目がきらきらして、宇宙船よりも「帰ってきた人」を見ている。

 

「おーい、危ないで。ほら、そこ離れや」

 

 チャコが笑いながら言うと、子どもが「チャコだ!」と叫んで、周りの大人が慌てて口元を押さえた。笑いと涙が同じ場所にある。

 

 そしてククルは――

 

 ホーク側のエアロックが開いた瞬間から、視線がそこに釘付けだった。

 

 疲れきった足取りで降りてきたのは、エリンだった。いつもより髪が乱れている。頬に薄い擦り傷。だが、立っている。歩けている。それだけで、ククルの胸の奥が熱くなる。

 

 エリンは、ネフェリスに乗っていたチーフパーサーらしき女性と短く言葉を交わしていた。先輩乗務員同士の、状況確認の会話。声は低く、しかし互いの無事を確かめ合うような温度がある。

 

 ククルは我慢できなかった。

 

「エリンさん!!」

 

 呼びかけた声が震える。走らない、と言われたばかりなのに、足が勝手に前へ出てしまう。次の瞬間、ククルはエリンに抱きついていた。腕が震える。指先が縋りつく。涙が勝手に出てくる。

 

「……っ、良かった……っ、本当に……っ……」

 

 声が言葉にならない。嗚咽が混じる。エリンは一瞬驚いたように目を瞬き、すぐに優しく微笑んだ。

 

「ククル……来たのね」

 

 エリンはククルの頭をそっと撫でる。指が髪を梳く。その手つきが、昔、ドルトムントで乗務員を落ち着かせたときのものと同じだった。安心させる手。大丈夫、と伝える手。

 

「泣かなくていいのよ。帰ってきたでしょう」

 

「……帰ってきました……っ……」

 

 ククルが泣きながら頷くと、エリンはもう一度、頭を撫でた。

 

「うん。帰ってきた」

 

 その姿を、少し離れた場所で見ていたチーフパーサーが、ふっと肩の力を抜いたように見えた。乗務員の世界は、言葉にしないで分かる。無事に戻ったときの「触れて確かめる」その儀式みたいな抱擁が、ここにもあった。

 

 その頃には、医療班がすでにホークへ向かって動いている。ストレッチャー、酸素ボンベ、器具のケース。整備班はネフェリスの損傷部位を撮影しながら、牽引ワイヤーの固定解除に取りかかっていた。安心して泣いている暇はない。だが、人は泣いてしまう。泣くことで、ようやく“帰ってきた”を身体に落とし込む。

 

 リュウジとペルシアがタラップを降りてきた瞬間、空気が少しだけ変わった。

 

 ざわめきが、一拍、止まる。

 

 誰かが「リュウジだ」と呟いたのが聞こえた。別の誰かが「ペルシア……」と声を漏らす。二人の名前は、帰還ログよりも早くドックを走っていた。英雄と統括官。救助の中心。最前線。

 

 そして――宇宙管理局長が、数名の幹部と共に前へ出てきた。

 

 局長は、普段よりも背筋が伸びていた。歳相応の皺が目立つはずなのに、今日だけはその皺すら強さに見える。帽子を取り、ほんの僅かに頭を下げた。

 

「……よく帰ってきてくれた」

 

 その一言に、ドックの緊張がふっと緩む。拍手が広がる。誰かが涙を拭う。警備が「下がってください」と声を張る。混ざり合う音の中、局長の声だけが通る。

 

「リュウジ。ペルシア。クリスタル、チャコ、ククル……全員だな」

 

「はい」

 

 ペルシアが背筋を伸ばし、簡潔に答えた。さっきまでアルテミスで眠っていた人とは思えないほど、きちんとしている。その切り替えが、やはり統括官なのだと改めて思わせる。

 

 リュウジは局長を見て、短く頷いた。

 

「任務、完了しました。ホーク、ネフェリス共に牽引帰還。生存者は確保済み。詳細ログは送信済みです」

 

 淡々とした報告。だが、そこに余計な飾りがないからこそ、重みがある。局長は目を閉じるように頷いた。

 

「……ありがとう。本当に、ありがとう」

 

 局長は言いながら、視線をネフェリスの方へ向けた。損傷した船体。牽引ワイヤーの跡。戻ってきたことの証拠がそこにある。

 

「医療班、負傷者を優先しろ。整備班、船体の安全確認。管制、ドック内動線を確保。……全員、滞りなく」

 

 局長の指示が飛ぶ。待ち構えていた各班が一斉に動き出す。帰還はゴールではない。帰還してからが、現場の戦いだ。

 

 それでも局長は、もう一度だけ、リュウジたちに視線を戻した。

 

「……君たちも、まずは降りて休め。だが、あとで状況説明は頼む」

 

 ペルシアは局長に向けて、ほんの少しだけ口角を上げた。

 

「局長、迎えが多くて嬉しいわ。こんなに待ってくれてるなんて」

 

 局長は疲れた顔のまま、しかし微かに笑う。

 

「待つ側の気持ちは……今日、全員が知った。君もな」

 

 ペルシアは一瞬、言葉を失い、次に軽く肩をすくめた。

 

「……やだ。局長、そういうこと言うと泣いちゃうじゃない」

 

「泣く暇はある。戻ってきたからな」

 

 その一言が、ペルシアの胸の奥に落ちた。

 

 彼女は視線をドックの人だかりへ向ける。待っていた人たち。祈っていた人たち。怒っていた人たち。すべてが、同じ場所で息をしている。帰還という現実の中で。

 

 リュウジが隣で、低い声で言った。

 

「……帰るってのは、悪くないな」

 

 ペルシアは横目でリュウジを見る。

 

「今さら? 英雄」

 

「今さらだ」

 

 その短い言葉のやり取りに、クリスタルがふっと笑った。チャコが「ほんまに、素直やないな」と呆れ、ククルが「でも、良いですね」と涙声で言う。

 

 アルテミスの影がドックの床に伸びている。その影の中を、彼らは歩き出した。救助の余韻を背負ったまま、次の仕事へ向かうために。

 

 背後では、医療班の指示が飛び、担架が動き、整備班の工具が鳴る。ホークの方からは、ブライアンの声が聞こえた気がした。ネフェリスの方では、誰かがまだ文句を言っているような気配もある。

 

 けれど、今だけは――

 

 ドックの照明の下で、帰ってきた人間が、帰りを待っていた人間に迎えられる。

 

 その当たり前が、どれほど貴重なものなのかを、全員が知っていた。

 

ーーーー

 

 ククルは引き続きエリンに抱きついたまま、肩を震わせて涙を流していた。腕の力は強くない。むしろ、離れたら現実が崩れてしまう気がして、必死に「ここにいる」ことを確かめるような抱き方だった。

 

「……よかった……ほんとに……」

 

 かすれた声が、エリンの胸元に吸い込まれていく。ククルは泣きながら笑おうとして、うまくいかずにまた涙をこぼす。エリンは困ったように息を吐いて、けれどその困り顔には温度があった。叱るでも、無理に引きはがすでもなく、ただ背中を撫でる。落ち着かせるための、一定のリズムで。

 

 その横で、ネフェリスから降りてきたチーフパーサーが、柔らかな目を細めた。

 

「エリン、愛されてるわね」

 

 冗談みたいな言い方だったが、からかいではなく、事実を言葉にしただけの響きだった。チーフパーサーはククルの肩にそっと手を添える。

 

「ククル。落ち着いて。ほら、息。吸って、吐いて。大丈夫、ここは安全よ」

 

 ククルは顔を上げようとして、涙で視界が歪んでしまい、またエリンに額を押しつけた。

 

「すみません……すみません、私……」

 

「謝る必要ない。泣くのは弱さじゃないわ。今まで張り詰めてたんでしょ」

 

 チーフパーサーの声は、仕事の場での指示みたいに落ち着いているのに、耳に触れるところだけが優しい。ククルの呼吸が少しずつ整っていく。その様子を見て、エリンは静かに微笑んだ。まるで「よく来たね」と言っているみたいに。

 

 少し離れたところでは、クリスタルがサツキとマリの前に立っていた。二人とも顔色は青白い。帰還した安堵よりも、緊張が抜けきらない疲労が先に出ている。

 

「サツキ、マリ。お疲れ様」

 

 サツキは肩をびくりと揺らし、やっと息を吐いた。マリは短く頭を下げる。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼はいらない。生きて戻った。それがまず一番」

 

 クリスタルはあえて柔らかい声を選ぶ。責める気配を一ミリも混ぜない。けれど甘やかしでもない。帰ってきた人間にだけ渡せる、次へ繋ぐための声だった。

 

「サツキ。あんた、よく持たせたわ。あの状況で整備士がパニックになったら終わりだもの」

 

 サツキは口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。悔しさと情けなさと、いろいろが喉で絡まっている顔だった。

 

「……まだ、足りなかったです」

 

「うん。足りなかった。でも、だからって“全部ダメ”じゃない。そこ、勘違いしないで」

 

 クリスタルの視線がマリへ移る。

 

「マリも。声、出してた。無線で喉が潰れそうなくらい。あれができるなら、次は“頭”も一緒に動かせる」

 

 マリの目がわずかに揺れ、唇が震えた。泣きそうなのをこらえている。

 

「……はい」

 

「よし。反省は帰ってからでいい。今はまず、自分の身体を回収しなさい。水、飲んで。寝て。ね?」

 

 その言葉に、二人はやっと頷いた。

 

 その一方で、リュウジは周囲を見渡していた。人だかり、拍手、歓声、医療班の担架、整備士の怒鳴り声。どれも「帰還」を構成する大切な要素のはずなのに、リュウジの視線はそこに留まらない。

 

 誰かを探すように。

 

 呼吸が浅くなる。自分でも意識していない癖が、舵を切るときみたいに出ていた。ほんのわずか、息を細かく吐く。胸の奥が落ち着かない。――見つけたいのに、見つけるのが怖い。そんな矛盾が、足を重くした。

 

 横から、チャコがリュウジの足を軽く叩いた。合図みたいに。

 

「ほら」

 

 チャコは顎をしゃくり、人混みの向こうを指さした。

 

「あそこや」

 

 その方向に、リュウジの目が吸い寄せられる。警備ラインの向こう、少しだけ静かな区画。見送る側の場所に、ルナとメノリがいた。

 

 ルナは両手を胸の前で握りしめて立っている。指先に力が入って白くなっているのが、遠目でも分かった。メノリはその半歩後ろ。視線は冷静で、だけどルナの背中を守るように立っている。

 

 リュウジはゆっくりと歩き出した。

 

 チャコもその後を追う。

 

 数十歩の距離のはずなのに、体感は何倍も長い。靴底が床を叩く音が、やけに大きく響いた。周囲の喧騒が遠のき、視界が狭くなる。まるで宇宙空間に出たときみたいに、世界が静かになっていく。――いや、静かなのは世界じゃない。自分の中だけが、勝手に無音になる。

 

 そして、ルナの前に立った。

 

 リュウジはじっとルナを見つめる。

 

 ルナも、いつものようにリュウジを見つめ返す。

 

 けれど、その「いつものように」は、ほんの少し違っていた。ルナの目元は赤い。泣いた痕が残っているのに、泣かないようにしている。頬の筋肉がこわばり、唇がかすかに震えている。それでも逃げない目だった。怒りと寂しさと心配が、綺麗に混ざらず、ぐちゃぐちゃのままそこにある。

 

 リュウジは喉を鳴らした。

 

「俺は……」

 

 声は出たのに、続かない。

 

「俺は……俺は……」

 

 何を言えばいいのか分からなかった。謝りたい。全部話したい。けれど、どの言葉も「言い訳」に聞こえてしまう気がした。守りたかったと言えば、守ったつもりの自分を正当化してしまう。苦しかったと言えば、相手に「じゃあ仕方ないね」と言わせてしまう。そんなのは違う。ルナが欲しいのは、綺麗な結論じゃない。誤魔化さない言葉だ。

 

 ルナは何も言わない。

 

 きっとリュウジからの言葉を待っている。

 

 その沈黙が、リュウジの胸を締め付けた。怒鳴られた方が楽だった。責められた方が、受け止めれば済む。けれどルナは待っている。受け止めるだけじゃなく、リュウジ自身が差し出す言葉を。

 

 リュウジが何とか言葉を絞り出そうとした、その瞬間――

 

 後頭部をがしっと掴まれた。

 

「バカですみませんでしたー!」

 

 ペルシアの声が、ドックの空気を真っ二つに割る。次の瞬間、リュウジの上体は強制的に前へ倒され、頭が下がった。ペルシアの手は容赦がない。逃げ道のない掴み方だった。

 

 ルナが、思わず苦笑する。

 

「……ペルシアさん」

 

 メノリも小さく息を吐いた。チャコは肩を揺らして、笑いを堪えるように顔を背けた。

 

 ペルシアはリュウジの後頭部を押さえたまま、ルナに向かって言った。

 

「こういう時は、まず反射で頭! 言葉が詰まるなら先に誠意! ほら!」

 

 ぺしっと、リュウジの尻が叩かれる。

 

「シャキッとしなさい」

 

 それだけ言うと、ペルシアは嵐みたいに去っていった。背中が遠ざかるのに、場の空気は少しだけ軽くなる。笑ってはいけないはずなのに、誰かが咳払いで笑いを誤魔化す音がした。

 

 その言葉にリュウジは頭を下げたまま、言葉を告げた。

 

「……悪かった」

 

 低い声。震えないように押さえ込んだ声。

 

「何も言わないで、ずっと隠していた」

 

 息を吐くと胸が痛い。それでも、続ける。

 

「本当に悪かった」

 

 ルナは短く返す。

 

「……うん」

 

 その一文字が重かった。許しでも拒絶でもない。ただ「聞いている」の合図。だからこそ刺さる。

 

 少し間を置いて、ルナが言った。

 

「私もごめんなさい。リュウジに酷いこと言っちゃった」

 

 言いながら、ルナの指先がわずかに震える。謝っているのに、心がまだ落ち着いていない。それが分かる。

 

「言われて当然だ」

 

 リュウジは頭を下げたまま即答した。

 

 ルナは小さく首を振る。否定でも同意でもなく、ぐちゃぐちゃの感情を整理しようとする仕草だった。

 

「うん……でも、言ったことは後悔はしてない」

 

 声が震える。喉が詰まり、言葉が切れそうになる。それでも続ける。

 

「……今でもやっぱり寂しいよ」

 

 リュウジが顔を上げた。

 

 ルナも、同じように顔を上げた。

 

 そこにあったルナの顔は、涙を堪えていてぐしゃぐしゃだった。泣かないようにしてるのに泣いてしまう。笑おうとしてるのに笑えない。頬に溜まっていた涙が、ついに一筋、すべって落ちた。

 

 ルナは、そのまま言った。

 

「だから約束して」

 

 握りしめていた両手を、ぎゅっと胸に押し付ける。

 

「もう隠し事はしないって」

 

 涙が頬を伝い、唇が震える。

 

「辛い時は辛いって、言うって約束して」

 

 リュウジは強く頷いた。

 

「約束する」

 

 短い言葉。だけど逃げない言葉。誓いの形をした言葉だった。

 

 その言葉が、ルナの胸に温かく広がっていく。怒りが消えたわけじゃない。寂しさが無くなるわけでもない。でも、“これから”に向けた足場ができた気がした。ルナは涙を流しながら、それでも笑った。

 

「……無事に帰って来てくれてありがとう」

 

 言葉の温度に嘘はない。心配で怖くて、それでも待っていた時間が、この一言に全部詰まっている。

 

 リュウジはまた頭を下げた。

 

「……ありがとう」

 

 ルナが慌てたように言う。

 

「……もう、頭を下げなくてもいいよ」

 

 少し笑って、けれど目はまだ濡れている。

 

「でも……真面目なところも、リュウジらしいって思う」

 

 その言葉に、リュウジの肩がほんの少しだけ緩む。胸の奥が、ようやく息を吐ける。

 

 ――その瞬間。

 

「まだ顔を上げるな」

 

 メノリの声が落ちた。低く、短く、鋭い。冗談ではない。守るための刃の音だった。

 

 リュウジが反射的に顔を上げかけたのを、メノリが止めた。

 

「メノリ……」

 

 ルナが小さく呼ぶ。けれどメノリは視線を逸らさない。

 

「いいか。今回の件はルナが許したのなら水に流そう」

 

 一拍置いて、さらに重くする。

 

「ただ――これが最後の忠告だ」

 

 メノリの目が、リュウジをまっすぐ貫く。

 

「ペルシアさんに叱られたこと、ルナとの約束。肝に銘じろ」

 

 リュウジは頷く。逃げずに、正面から。

 

「分かっている」

 

 チャコが小声でぼそっと言う。

 

「メノリ、厳しいなぁ」

 

 メノリはその声を聞こえないふりをして、最後に言った。

 

「分かったのならいい。次にルナを泣かせたら容赦はしない」

 

 脅しではない。宣言だった。ルナを守ると決めた人間の、静かな誓い。

 

 リュウジは息を吐いて言った。

 

「ありがとう」

 

 そして、ゆっくり顔を上げる。

 

 メノリの表情は柔らかかった。厳しさの奥にある安堵が、確かにあった。“帰ってきた”という事実を、ちゃんと受け入れている顔だった。

 

 ルナは涙を指で拭い、赤い目のままもう一度笑った。泣いたままの笑顔だった。

 

 リュウジは、その笑顔を見つめながら、胸の奥で誓い直す。

 

 隠さない。逃げない。強がりだけで誰かを守ろうとしない。

 

 守りたいものを守るなら、守られる側の痛みも、ちゃんと受け止める。

 

 ドックの喧騒は続いている。医療班の声も、整備士の足音も、泣き声も笑い声も、全部が混ざっている。

 

 それでも今、リュウジの世界は――ルナの涙と、ルナの「ありがとう」の中にあった。

 

 そしてその言葉が、彼の帰還をようやく“本物”にした。

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