サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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唐揚げ

 リュウジとルナの言葉が、ようやく同じ場所に着地したのを見届けて、チャコは小さく息を吐いた。胸の奥に残っていた硬いものが、少しだけほどけた気がする。

 

「ほな、戻ろか」

 

 チャコがそう言って、リュウジの肩を軽く叩く。リュウジも頷き、ドックの中央――帰還した乗員たちが集まり、医療班と整備班と局員が入り混じる渦のほうへ戻っていった。

 

 拍手はまだ続いている。誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが怒鳴っている。救助の成功は祝福されるべきものなのに、現場の空気は単純に明るいだけではない。緊張の抜けた身体が遅れて震えを返し、気丈に振る舞っていた人間ほど、今になって感情が遅れて溢れてくる。

 

 その中に、ひときわ鋭い声が突き刺さった。

 

「ちょっと話が違うじゃない!!」

 

 ドックの喧噪を一瞬だけ凍らせる、あの声。怒鳴り声のはずなのに、どこか通る声で、聞いた瞬間に「ペルシアだ」と分かってしまう声。

 

 リュウジとチャコが視線を向けると、そこにはペルシアとエリンがいた。二人の距離は近い。近いのに、間に見えない火花が散っている。

 

 ククルはその横で、困惑したように立ち尽くしていた。さっきまで泣き崩れてエリンに抱きついていたのに、今は涙が乾ききらない頬のまま、両手をどこに置けばいいか分からないみたいに指先が迷子になっている。

 

 ペルシアは眉を吊り上げ、両手を腰に当てた。まるで「これから裁判を始めます」と宣言する人の姿勢だ。対するエリンは、深いため息をひとつ吐いて、メディカル班の視線がこちらに向いているのを気にするように肩をすくめた。

 

「私、楽しみにしてたのよ!」

 

 ペルシアが言う。語尾に悲鳴みたいな勢いが乗っている。さっきまで“統括官モード”で人を叱り飛ばし、宇宙を舐めるなと啖呵を切っていた人間とは思えないほど、今の彼女は純度百パーセントで駄々をこねていた。

 

「満足するまで食べさせてくれるって言ったじゃない!」

 

 叫びながら、ペルシアは胸の前で拳を握りしめる。まるで裏切られた恋人みたいな顔をしている。

 

 エリンは口を開きかけて、途中でまた息を吐いた。

 

「言ったけど……」

 

 その「けど」が出た時点で、ペルシアの目がぎらりと光る。

 

「なに、その“けど”! いま、“けど”って言った!? 嘘ついたの!? 私に嘘ついたの!?」

 

「嘘なんて言わないよ」

 

 エリンは冷静に返す。声の温度は低い。いつもの、あの場を整える声だ。怒りはない。だけど容赦もない。

 

「別に今日なんて言ってないでしょ」

 

 ペルシアの顔が、ぴたりと止まった。

 

「……ぐっ……」

 

 言葉が喉で詰まる音が、実際に聞こえそうなくらいの「ぐっ」だった。ペルシアは唇を噛み、視線を泳がせる。完全に論破されている。

 

 チャコが小声で呟く。

 

「うわ、出た。エリンの正論パンチ」

 

 リュウジも口元だけ動かして返す。

 

「あれ、ペルシアには効くんだよな……」

 

 ペルシアは負けじと、次の弾を取り出した。

 

「ペルシアだってやることがあるでしょう?」

 

「ない!」

 

 即答だった。間髪入れず、迷いなく、誇らしげに。

 

「帰ってきたら休みって約束したもん!」

 

「あなたはなくても私はあるのよ」

 

 エリンは額を押さえたくなるのを堪えている顔で言う。

 

「会社に連絡しないといけないし、状況報告も。メディカルチェックの結果も整理しないと」

 

「メールでいいじゃん」

 

 ペルシアが当然のように言い放つ。

 

「そういう訳にはいかないの」

 

 エリンの声が少しだけ強くなる。ここで譲ったら、この人は本当に“メールだけ”で全部済ませようとする。しかも、件名に「よろしく★」とか付ける。エリンには確信があった。

 

 ペルシアは両手を広げて、悲劇のヒロインみたいに言った。

 

「もう、エリンの料理食べる口になってる」

 

 その言い方がずるい。まるで口が勝手にエリンの料理仕様に変形して戻らない、というようなニュアンスだ。

 

 ククルが小さく「そんな口って……」と呟きかけて、慌てて口を押さえた。言ってはいけない。笑ってはいけない場面なのに、笑いが出そうになる。

 

 エリンは目を細め、静かに返す。

 

「お酒飲めば治るでしょ。ペルシアは」

 

「無理」

 

 ペルシアは即答した。

 

「いまは“エリン料理口”なの。お酒じゃ治らないの」

 

「駄々こねない」

 

 エリンの声が、いつもの「落ち着いて」に近い響きに戻る。つまり、これは“乗務員教育モード”に入っている。

 

 しかし、ペルシアは引かない。

 

「だって約束したじゃない。満足するまで食べさせるって」

 

「だから、今日とは言ってない」

 

「言ってないって、言ってないって……!」

 

 ペルシアは頭を抱えるようにして、ぐるぐるとその場で半歩回った。悔しさが身体を余らせている。エリンはその様子を見て、ちらりと周囲を見る。ドックのど真ん中でこの言い争いは目立つ。さっきまで英雄の帰還で湧いていた人々が、いまや「次は何が始まるんだ」と興味津々に耳を傾けている。

 

 クリスタルが少し離れたところで腕を組み、楽しそうに口元を押さえていた。目が完全に笑っている。彼女は分かっている。これは危機ではない。これは“いつもの”だ。

 

 そこへ、エリンと同じ会社のチーフパーサーが、すっと間に入った。さっきククルに呼吸の仕方を教えていた、あの落ち着いた人だ。

 

「エリン」

 

 チーフパーサーは、叱るでもなく、淡々と呼ぶ。名前を呼ばれただけで、エリンの背筋が少しだけ伸びた。無意識に“上司の声”として聞いてしまう。

 

「……はい」

 

 チーフパーサーは視線だけで状況を把握し、次にククルを見る。ククルは困り切った顔で、助けを求めるように目を泳がせている。さっきまで泣いていたのもあって、顔がぐしゃぐしゃのままだ。放っておけば、また泣く。

 

 チーフパーサーは小さく笑った。

 

「行ってあげなさい。エリン」

 

「でも……」

 

 エリンが言いかけた瞬間、チーフパーサーは手を軽く上げて止める。

 

「私から会社には言っておくから」

 

 その一言が、強い。上司が「私が責任を取る」と言った時、人は動ける。エリンは迷う顔をした。彼女の中には、仕事への責任感が骨の髄まで染み付いている。誰かに任せること自体が苦手だ。

 

「しかし……」

 

 エリンがまだ言い淀むと、チーフパーサーはククルの頭の上に手を置き、ぽんと撫でた。

 

「ほら、あの子。可哀想だし」

 

 チーフパーサーがペルシアに視線を向ける。

 

「チーフパーサー……」

 

「あなたもだよ、ククル」

 

 チーフパーサーはククルに微笑んだ。

 

「泣きっぱなしで、落ち着く場所が必要でしょう。エリンがいてくれた方がいい」

 

 ククルは喉の奥が熱くなって、慌てて頷いた。

 

「はい……はい!」

 

 エリンはしばらく黙っていた。頭の中で優先順位を並べ替えている顔だ。報告、連絡、確認、メディカル、帰還ログ、会社連絡。全部が積み上がる。でも、チーフパーサーが背負ってくれると言った。なら――

 

「……分かりました」

 

 エリンが頷いた瞬間、ペルシアの顔がぱっと明るくなる。まるで電気が点いたみたいに。

 

「ほんと!? いいの!? 今!? 今日!? 今日ってこと!? 今日でいいの!?」

 

 質問が多い。多すぎる。矢継ぎ早に畳みかけて、逃げ道を塞ごうとする交渉術――いや、ただの欲望の奔流だ。

 

 エリンはこめかみを押さえながら言った。

 

「今じゃない」

 

「ええええ!?」

 

 ペルシアが悲鳴を上げる。ドックの何人かが肩を震わせる。笑っている。

 

「……今は帰還手続きと、あなたのブリーフィングが先」

 

 エリンは言い切った。「先」と言う時の声が、ドルトムントの頃のチーフパーサーの声に少し似ていた。つまり、ペルシアが逆らえない種類の声だ。

 

 ペルシアは唇を尖らせる。

 

「でも……私、もう“食べる”って決めたの」

 

「決めても、順番は変わらない」

 

「お酒も決めたの!」

 

「それは知らない」

 

 エリンのツッコミが冷たい。ペルシアは一歩引き下がり、今度は条件交渉に切り替えた。

 

「じゃあ、いつ」

 

「今日の夜」

 

 エリンが言った。

 

「メディカルチェック終わって、シャワー浴びて、報告が終わったら」

 

 ペルシアの目がきらきらする。

 

「じゃあ、今から全部、秒速で終わらせる!」

 

「終わらせ方が雑になるからダメ」

 

「ええ……」

 

 ペルシアは肩を落とした。やけに子どもっぽい。その落差が余計におかしい。さっきまで“宇宙を舐めるな”と怒鳴っていた人間が、今は“料理を舐めないで”と怒っている。

 

 チャコが小声で言う。

 

「ペルシア、切り替え速すぎやろ」

 

「切り替えというか……生き方がそれなんだろ」

 

 リュウジがぼそっと返す。どこか呆れているのに、口元は少しだけ緩んでいた。

 

 ククルはまだ落ち着かない様子で、エリンとペルシアを交互に見ていた。自分のせいで話が進んでいるような気がして、居心地が悪い。けれど、エリンがこちらに向けた視線は優しくて、責める色がない。

 

「ククル」

 

 エリンが呼ぶ。

 

「……はい!」

 

 ククルが背筋を伸ばすと、エリンは微笑んだ。

 

「あなたはまず、呼吸を整える。それから、ちゃんと食べるのよ」

 

「は、はい……!」

 

 ククルの目にまた涙が溜まりかける。泣いてはいけない。今度は笑ってしまいそうな涙だ。

 

 そこへペルシアが割り込む。

 

「ねぇねぇ、何でも作るって言ったよね」

 

「言った」

 

「満足するまで食べていいって言ったよね」

 

「言った」

 

「じゃあ、唐揚げも食べたい」

 

「唐揚げも?」

 

「ポテトフライ」

 

「……揚げ物多くない?」

 

「だって“おつまみ”って言ったじゃない!」

 

 ペルシアの中では、おつまみ=揚げ物、という方程式が成立しているらしい。

 

 エリンはため息を吐きながら、しかし負けない。

 

「作るけど、量は健康の範囲」

 

「えええ!」

 

「メディカルチェック受けたばかりの人に、油の海は出せない」

 

「油の海って言い方ひどい!」

 

「あなたの言い方も十分ひどい」

 

 そのやり取りに、周囲がじわじわ笑い始める。先ほどまでの緊張が、少しずつ“日常”に戻っていく笑いだ。帰ってきた人間が、くだらないことで言い合いできる。つまり、帰還は成功したのだ、と皆が実感する。

 

 チーフパーサーは一歩引いて、エリンの肩を軽く叩いた。

 

「私は会社に連絡してくる。あなたは、まずこの二人を回収しておきなさい」

 

 回収。言い方が的確すぎて、チャコが吹き出しかけた。リュウジは咳払いで誤魔化す。

 

 エリンは頷く。

 

「ありがとうございます」

 

「あなたの顔は今、疲れてる」

 

 チーフパーサーはそう言って、穏やかに去っていった。背中が“頼れる大人”そのものだった。

 

 ペルシアはその背中を見送りながら、ぴょんと軽く跳ねた。

 

「やったー! 勝った!」

 

「勝ち負けじゃない」

 

 エリンが即座に言う。

 

「いいえ勝ちよ。私は胃袋で勝った」

 

「胃袋で勝つって何」

 

「エリン、知らないの? 世の中は胃袋で動くのよ」

 

「それはあなたの世界だけ」

 

 エリンのツッコミが冴える。ペルシアは胸を張った。

 

「じゃあ決まりね。夜、宴会。帰還祝い。私の帰還祝い」

 

「救助の成功祝いでもある」

 

「うんうん、それもついでにね!」

 

「ついで扱いしない」

 

 エリンが叱る。ペルシアは素直に「はーい」と返したが、返事の軽さが絶妙に腹立たしい。

 

 ククルはそのやり取りを見て、やっと少し笑えた。涙の跡は残っているのに、口元が緩む。怖かった時間が、笑いで少しずつ薄まっていく。

 

 クリスタルが近づいてきて、リュウジとチャコの隣に立った。目元が楽しそうだ。

 

「すごいわね。あのペルシアを“食べ物”で黙らせるなんて」

 

「黙ってへんけどな」

 

 チャコが即座に返す。

 

「むしろ、より元気になっただけだ」

 

 リュウジが淡々と言うと、クリスタルが肩を揺らして笑った。

 

「それでも収まった判定なんだ、あれは。エリン、扱いに慣れてる」

 

 チャコが頷く。

 

「ホンマや。」

 

 リュウジは小さく息を吐いた。

 

「……恐ろしい」

 

 その言葉の温度は、どこか感心にも近かった。

 

 ペルシアはエリンの腕にしがみつくように寄っていき、勝利宣言の続きを始める。

 

「ねぇ、夜までに私、シャワーも報告も終わらせるから、エリンもちゃんと終わらせてよね。逃げたら許さないからね」

 

「逃げない。逃げない」

 

 エリンは淡々と返す。

 

「ただし、あなたも逃げない。帰還ログの提出と、局長への報告。あなたの“やることない”は却下」

 

 ペルシアが露骨に嫌な顔をした。

 

「えー……」

 

「えーじゃない」

 

「だってさっきまで宇宙で頑張ったんだよ?」

 

「頑張った。だからこそ締めまでやる」

 

「エリンってほんと厳しい……」

 

「あなたが甘すぎる」

 

 やり取りが、完全にいつもの二人だ。

 

 その空気に、周囲の緊張がまたひとつほどけた。救助の現場が、ようやく“帰ってきた現場”に変わっていく。

 

 ククルは小さく呟いた。

 

「……流石、エリンさん」

 

 クリスタルが同意するように言う。

 

「本当ね」

 

 チャコも驚いたように笑う。

 

「ペルシアを唯一扱える人やな」

 

 リュウジはほんの少しだけ微笑んで、最後に言った。

 

「あのペルシアの怒りを収めるなんて……」

 

 言い終える前に、ペルシアがこちらを振り返った。

 

「誰が怒ってるって? 私、今すっごく機嫌いいんだけど?」

 

 そして、満面の笑みでこう付け足す。

 

「だって今夜、エリンの料理が待ってるんだもん!」

 

 エリンが冷たく言う。

 

「調子に乗ると、ポキは小皿になるよ」

 

 ペルシアが固まった。

 

「……やだ……」

 

「なら、ちゃんと報告」

 

「……はい……」

 

 その即落ちに、ドックのあちこちから笑いが漏れた。

 

 救助が終わった。帰還した。涙も謝罪も、まだ終わっていない仕事も山ほどある。

 

 それでも――このくだらない言い合いができることが、何よりの“無事”の証明だった。

 

ーーーー

 

 宇宙管理局の食堂は、いつもなら規則正しい時間割で人が流れていく場所だ。皿が鳴る音も、椅子を引く音も、どこか整備された“業務の一部”みたいに淡々としている。

 

 なのに今夜だけは違った。

 

 湯気の立つ匂いが、壁に染み込むほど濃い。油の香り、醤油の焦げる香り、炊きたての米の甘さ。それに混ざって、誰かが開けた炭酸の乾いた音と、笑い声。

 

 宴会――そう呼ぶのがいちばんしっくりくる。

 

 テーブルの周りには、ペルシア、エリン、ククル、クリスタル、チャコ、サツキ、マリ、ルナ、メノリ、そしてリュウジ。救助が終わったとはいえ、全員が全員、完全に肩の力を抜けているわけではない。疲労が骨に残ったままの者もいるし、気が張った糸を切った瞬間にどっと眠気が押し寄せてきそうな者もいる。

 

 それでも、同じ皿を囲むという行為が、人を少しだけ“戻して”くれる。

 

 エリンだけは、まだ戻れない側にいた。

 

 食堂の奥、簡易キッチンのコンロがフル稼働している。エリンはエプロンの紐をきつく結び、鍋の蓋を片手で押さえ、片手でフライパンを振り、頭の中で段取りを組み直しながら動いていた。

 

「手伝いますか?」

 

 サツキが一度だけ立ち上がりかけた。マリも「あ、私も」と椅子を鳴らした。

 

 でも二人とも、すぐに座り直した。

 

 分かっているのだ。エリンが“本気で作る料理”に、半端な手出しはできない。混ぜる手の角度、火の入れ方、盛りつけの間合い。そこに別の人間の癖が混ざった瞬間、料理が「濁る」。

 

 だから、エリン以外はテーブルに並ぶ皿を見つめて待つしかなかった。

 

 唐揚げの山、サーモンとアボカドのポキ、揚げたてのポテトフライ、野菜の浅漬け、簡単なスープ。料理が運ばれるたび、ペルシアが「きゃー!」と歓声を上げ、ククルが「わぁ……」と目を輝かせ、チャコが「ええ匂いや……」と唸る。クリスタルはグラスを揺らしながら、涼しい顔で「戦場じゃないって、こういうことね」と笑った。

 

 そして、宴会が“完全に宴会”になったのは、マリの叫び声からだった。

 

「目が見えなかった!?」

 

 声の主、マリの頬はうっすら赤い。酒のせいだけじゃない。興奮と驚きが血を上げている。

 

 テーブルの向こうでリュウジは、唐揚げを一つ口に運びながら、淡々と頷いた。

 

「ああ」

 

「信じられない……そんなこと、一度も言ってなかったじゃない」

 

 サツキが眉をひそめる。彼女の驚きは、怒りより先に心配が立つ種類のものだった。

 

 チャコがすかさず口を挟む。

 

「大事なことはホンマ言わんからな、リュウジは」

 

「ほんと男ってバカよね」

 

 クリスタルが、酒の入ったグラスを傾けながらさらりと言った。言い方は軽いが、内容は鋭い。

 

「仰る通りです」

 

 メノリが真面目に頷く。頷きの角度が、叱責の角度だ。

 

 リュウジはそれらを受け止めるように黙り、また唐揚げを食べた。咀嚼の音だけが無駄に落ち着いていて、余計に腹立たしい。

 

 ルナが苦笑いでメノリの方へ身を寄せる。

 

「まぁまぁ、メノリ……」

 

「甘い」

 

 メノリの返事は短い。けれどルナの声を完全に跳ね返すほど冷たくはない。ルナはその“温度差”に救われる。

 

 ククルが恐る恐るフォローに回った。空気を柔らかくするのが自分の役目だと、身体が覚えている。

 

「リュウジさんにも、きっと考えがあった訳ですから……」

 

「そうやって甘やかすからリュウジが付け上がるのよ」

 

 クリスタルが、グラスを置きながら言った。

 

「せやせや。今回はリュウジが悪い」

 

 チャコがジュースを吸い上げて、うんうんと頷く。

 

「次はないからな」

 

 メノリの目が細くなる。言い方は静かだが、圧がある。言葉より視線が怖い。

 

 リュウジは、唐揚げをもう一つ食べた。メノリの視線を、見えていないみたいに無視して。

 

 その瞬間、メノリの肩が小さく震えた。怒りでプルプルしている。ルナは慌ててメノリの腕に触れる。

 

「落ち着いて、メノリ。ね? 今は、せっかくの宴会だし……」

 

「宴会だろうが何だろうが、言うべきことは言う」

 

 メノリはそう返すが、ルナの手を振りほどかない。それだけで、ルナはまた少し息ができた。

 

 そこに、完全に酔っ払っているペルシアの声が飛び込んできた。

 

「ちょっとリュウジー! 唐揚げ食べすぎ!」

 

 ペルシアは頬が赤い。目も少し潤んでいる。怒りではなく、酒の勢いで感情が前に出るタイプの潤みだ。

 

「お前だってポキを一人で食べてただろ」

 

 リュウジがさらりと返す。

 

「あれは私のだもん!」

 

 ペルシアの返しが子どもみたいで、ククルが思わず笑いそうになって口を押さえる。

 

「なら、唐揚げは俺のだ」

 

「アンタ、昔から本当にエリンの唐揚げ好きよね」

 

 ペルシアは得意げに言う。まるで「私は知ってるのよ」と言いたいみたいに。

 

「大好物だ」

 

 リュウジが即答する。

 

 その一言が、ルナの胸にちくりと刺さった。ほんの小さな針。痛みというほどじゃないのに、確かに存在する針。

 

「……そうなんだ」

 

 ルナがぽつりと呟くと、隣のサツキが、助け舟を出すように明るく言った。

 

「エリンさんの料理はどれも美味しいですから。唐揚げに限りませんよ」

 

「分かる。お酒でお腹を膨らませるのはもったいない」

 

 マリが真顔で頷いた。頬が赤いのに、言い方だけ妙に理知的だ。

 

「……そうか、その手があったか」

 

 ペルシアが突然、何かを思い出した顔をする。目がきらりと光った。

 

 次の瞬間、彼女は紙コップをリュウジの前に差し出していた。どこから出したのか分からないボトルを傾け、トゥクトゥクと気持ちよく酒を注いでいく。

 

「乾杯♪」

 

 ペルシアが紙コップ同士を軽くぶつけた。

 

「何が乾杯や。リュウジはまだ未成年やろ」

 

 チャコが呆れたように言う。

 

「そういえばそうですね」

 

 ククルが慌てて口を挟む。声が裏返りそうだ。

 

 ルナもメノリも、同時にリュウジを見た。止めるだろう。普通は止める。せめて拒否するだろう。

 

 だが、予想に反して――リュウジは紙コップを口元に近づけ、ためらいなく飲み干した。

 

「なっ!?」

 

 メノリの声がひっくり返った。

 

「ちょっと!」

 

 ルナも思わず立ち上がりかけた。

 

「お! いい呑みっぷり!」

 

 ペルシアが上機嫌で、また酒を注ごうとする。

 

 クリスタルが肩を揺らして笑いながら言った。

 

「私は別にいいけど、エリンにバレたら怒られるわよ」

 

「大丈夫、大丈夫。バレっこないわよ」

 

 ペルシアは自信満々に言い、また乾杯とリュウジと紙コップをぶつけて二人で飲み干した。

 

 テーブルの空気が、ぐらりと揺れる。

 

 笑っていいのか、止めるべきなのか。全員がその境目で足踏みしている。ククルは青ざめた。サツキは口を押さえた。マリは「え、マジ……」と呟いた。メノリの額には今にも血管が浮きそうだ。

 

 そして、その揺れを終わらせたのは――キッチン側から漂ってきた、氷点下みたいな気配だった。

 

 エリンが、料理皿を抱えて立っていた。目が笑っていない。口元だけが微笑んでいる。その笑みが一番怖い。

 

「……ねえ」

 

 エリンの声は静かだ。静かだからこそ、食堂のど真ん中に通る。

 

「今、誰が何を飲んだの?」

 

 ペルシアが固まる。リュウジは一瞬だけ目を逸らした。チャコが「終わったな」と小声で言う。クリスタルは面白がっているふりをするが、目だけは真剣だ。ククルは直立不動になった。

 

「えっと……」

 

 ペルシアが言い訳を探す声を出した瞬間、エリンが一歩近づいた。

 

「ペルシア」

 

「はい」

 

 ペルシアが反射で返事をする。完全に“指導される側”の返事だ。

 

「リュウジ」

 

 エリンが次に呼ぶ。

 

 リュウジは、そこでようやく姿勢を正した。普段の冷たい口調が、わずかに変わる。

 

「……すみません、エリンさん」

 

 謝罪の速さも、妙に素直だ。テーブルの全員が「そこは素直なんだ」と思った。

 

 エリンは皿を置き、ペルシアとリュウジの紙コップをひょいと回収した。手つきが慣れている。たぶん、ドルトムントの頃にも似た光景があったのだろう。

 

「没収」

 

「ちょっとぉ!」

 

 ペルシアが抗議する。

 

「ちょっとじゃない。未成年に飲ませるのは論外」

 

 エリンの声がはっきりと冷たい。

 

「でも、乾杯しただけ!」

 

「乾杯もダメ」

 

「じゃあ、私は!? 私は成年!」

 

「あなたは成年。だからこそ止める側」

 

「うぐっ……」

 

 ペルシアがまた詰まる。今日だけで何回詰まっているのか分からない。

 

 メノリが、ここぞとばかりに頷いた。

 

「当然だ」

 

 ルナも息を吐き、座り直した。正直、安心した。エリンがいると場が締まる。良くも悪くも、それが事実だ。

 

 エリンはテーブルに新しい皿を置いていく。揚げたての唐揚げが、また増えた。サーモンとアボカドのポキも、器が大きくなっている。見た瞬間、ペルシアの目が輝いた。

 

「……これは」

 

「ポキ。満足するまで食べたいって言ってたでしょ」

 

 エリンが言う。

 

 ペルシアが満面の笑みになる。

 

「やったー!」

 

「ただし」

 

 エリンがすかさず続ける。

 

「皆んなが食べてからね」

 

「ええええ!」

 

「ええええじゃない」

 

 エリンがいつもの調子に戻ると、周りがようやく笑える空気になった。ククルが小さく肩を揺らし、サツキが安堵の笑いを漏らし、マリが「エリンさん、強……」と呟く。

 

 ペルシアはぶつぶつ言いながらも、結局椅子に座り直し、箸を持ち直した。

 

「……じゃあ、唐揚げ食べる」

 

「それなら許す」

 

 エリンが言い切ると、ペルシアは勝ち誇ったように頷いた。

 

「ほら見て。交渉成立」

 

「成立してない」

 

「してる!」

 

 ペルシアが笑い、エリンも諦めたように小さく笑った。

 

 その笑みを見て、ククルの胸の奥が温かくなる。さっきまで泣いていた自分が少し恥ずかしい。でも、この空気が欲しかった。帰ってきた現実が、いま、皿の上に乗っている。

 

 そして、話題はまた自然に戻っていった。

 

 マリが頬を赤らめたまま、リュウジを見つめる。

 

「でも……本当に、よく隠したわね。目が見えないって、普通……」

 

「言えば止められると思ったからな」

 

 リュウジは淡々と言いながら、唐揚げをもう一つ口に運ぶ。

 

「止めるに決まってるだろ」

 

 メノリが即座に返す。

 

「俺は止まれない」

 

「バカを言うな」

 

 メノリの言葉は厳しいのに、さっきより少しだけ柔らかい。怒りではなく、心配が混ざっている声だ。

 

 ルナがその間に入る。

 

「……でも、戻ってきた。ちゃんと、戻ってきたよね」

 

 その言葉に、リュウジが一瞬だけ手を止めた。

 

「ああ」

 

 短い返事。でも、ルナには分かる。そこに重みがある。

 

 チャコがジュースを掲げる。

 

「ほな、改めてや。今日は酒やなくて、ジュースで乾杯や。ルナ、飲めるやろ」

 

「ええ」

 

 ルナが笑って頷く。

 

「未成年はジュースで乾杯。それがルール」

 

 エリンがキッチンから顔だけ出して言うと、ペルシアが「えー」と不満そうに唸る。

 

「ペルシアもジュースにしなさい」

 

「やだ」

 

「やだじゃない」

 

「……はい」

 

 ペルシアが渋々ジュースを取ると、全員が紙コップやグラスを掲げた。

 

「無事に帰ってきたことに」

 

 クリスタルが言う。

 

「それから、救助が成功したことに」

 

 サツキが続ける。

 

「そして、これからも皆が生きていけるように」

 

 ククルが小さく言う。

 

 最後にメノリが締める。

 

「乾杯だろ」

 

「乾杯!」

 

 声が重なり、コップが軽く鳴った。

 

 リュウジはその音を聞きながら、ふとルナの方を見た。ルナも見返した。言葉はない。でも、目だけで分かるものがある。約束は、ここから始め直すのだと。

 

 ペルシアはその空気をぶち壊すように、唐揚げに箸を伸ばしながら言った。

 

「ねぇ、リュウジ。唐揚げ、まだ食べるの?」

 

「食べる」

 

「じゃあ、私も食べる」

 

「お前はポキ食ってろ」

 

「嫌。唐揚げも食べる」

 

「欲張りだな」

 

「欲張りなのはあなたでしょ。エリンの唐揚げ独占しようとしたくせに」

 

「独占してない」

 

「してた!」

 

 言い合いが始まり、テーブルがまた笑いに包まれる。

 

 エリンはキッチンで、もう一皿揚げたてを仕上げながら小さく呟いた。

 

「……ほんと、忙しい」

 

 だけど、その声はどこか嬉しそうだった。

 

 宇宙の緊張は、まだ完全に消えない。次の任務も、報告も、処理も山ほどある。

 

 それでも今夜だけは――皿の上の温かさと、くだらない言い合いと、ちゃんと帰ってきたという事実が、みんなの胸を満たしていった。

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