エリンの料理がひと通り並んだころには、食堂の空気は完全に“宴会”のそれになっていた。
揚げたての唐揚げは山になり、サーモンとアボカドのポキは大皿にたっぷり。ポテトフライは塩がきらきらしていて、浅漬けの器は箸休めにちょうどいい。湯気の立つスープが、食堂の蛍光灯の下で薄く揺れている。
なのに。
その料理の中心から、ぽっかりと外された二人がいた。
テーブルの端。壁際。まるで“反省席”とでも言わんばかりに並べられた椅子に、ペルシアとリュウジが横並びで座らされていた。
目の前にあるのは、皿ではなく小さな籠――包装されたお菓子だけ。
ペルシアは頬を膨らませ、ぶつぶつ文句を言いながらクッキーをかじっている。しかもどこから出したのか、ちゃっかり小さなボトルを手元に置き、紙コップにちょびっとだけ注いでは飲んでいる。
「何で私がこんな目に遭うのよ……」
ペルシアが口を尖らせたまま、クッキーをもう一枚つまむ。
「それは俺のセリフだ」
リュウジも同じ籠からビスケットを取り、噛み砕いた。苦味のない甘さが、今の自分には妙に腹立たしい。
「だって、お酒飲めばお腹膨れると思ったんだもん」
「俺の腹を膨らませて料理を独り占めしようとしたってことか」
「まあね」
ペルシアは悪びれず、お菓子を上に放って口でキャッチした。器用さだけは無駄にある。
「欲深い奴め」
「欲深いのは宇宙管理局の規則のほうでしょ。人の自由を奪うんだもん」
「お前が言うな」
リュウジの返しは冷たいのに、どこか呆れている。ペルシアはその呆れを“勝ち”だと思っているのか、にやにやしてまた一口飲んだ。
そのとき、キッチンのほうでタイマーが鳴った。
ピピピ、と軽い電子音。宴会の笑い声の中でも、妙に存在感のある音だった。
エリンがエプロンを正しながらキッチンへ歩いていく。背中だけで“今から主役を出す”と言っているようだった。鍋を持ち上げ、ふぅ、と一息。重さではなく、熱さと香りの濃さに反応した仕草だった。
「鍋、持ってくわよ」
エリンがそう言った瞬間、ペルシアとリュウジの視線が同時にそちらへ向いた。罰席にいながら、匂いだけで本能が反応する。
エリンがテーブルの中央に鍋を置く。蓋を開けた途端、白い湯気がふわっと立ち上り、食堂の空気が一段と“家庭”寄りになる。乳の甘さ、バターの香り、煮込まれた玉ねぎの柔らかい匂い。
「うわぁ……いい匂い」
ククルが思わず両手を胸の前で握った。
「めっちゃ美味そうやな」
チャコが鼻を鳴らすように言う。ロボットのくせに、こういう時だけ妙に人間臭い。
「シチュー?」
クリスタルがグラスを置いて覗き込む。
「ええ、クリームシチュー」
エリンは当然のように頷き、手際よく取り分け始めた。お玉が鍋をすべる音が心地いい。皿に落ちる“とろり”が、全員の目を奪う。
「私、大好きなんです!」
サツキの目がきらきらする。整備士としての普段の落ち着きがどこかへ吹き飛ぶほどだ。
「お店顔負けだな」
メノリが珍しく素直に褒める。声の角が少し丸い。
「本当に、美味しそう」
ルナも言って、湯気の向こうで微笑んだ。料理の前だと、みんな少し柔らかくなる。
「そんなことないわよ」
エリンは照れもせず、淡々と皿を配っていく。そういうところが“本気”だ。
その完璧な流れに、空気を読まない声が割り込む。
「ねぇねぇ」
ペルシアだ。
罰席の端から身を乗り出し、指をちょいちょい動かしている。
「ただのクリームシチューよ」
エリンは視線も寄越さず、手を止めない。
「ねぇ、エリン。ねぇねぇ」
「冷めないうちに食べてね」
完全に無視だ。無視の精度が高い。ドルトムント時代から鍛えた“ペルシア対処スキル”が出ている。
マリが一口食べて、目を見開いた。
「ウマっ!?」
「良かった」
エリンがふっと息をつく。
「無視しないでよ、エリン!」
ペルシアがついに声を張った。食堂の空気が一瞬、笑いと同時に止まる。
エリンは自分の取り分を口に含み、嚥下してから、ようやくペルシアを見る。
「どうしたの?」
「私もシチュー食べたい」
真っ直ぐだ。欲望が直球すぎる。
エリンは当たり前の顔で首を傾げた。
「ダメよ?」
「なんで? なんで? なんで?」
ペルシアが三連打する。言葉の勢いだけで突破しようとしている。
「リュウジにお酒飲ませたから」
「もう反省してる。本当にごめんなさい」
ペルシアが両手を合わせ、瞳を潤ませる。泣き落としの構え。
エリンは少し考える素振りを見せた。笑顔を向ける。期待が膨らむ。ペルシアの顔がぱっと明るくなる。
「だめ」
「ぐっ……!」
ペルシアが息を詰まらせる。絶妙なタイミングで突き落とされた。
「……そこをなんとか」
「お菓子でお腹いっぱいになったら教えて」
「それじゃあ、食べられないじゃん」
ペルシアがしょんぼりする。肩まで落ちる。今度は演技じゃないくらいしょぼくれて見えるのがずるい。
その様子を見て、ルナが静かに立ち上がった。
自分の器を手に取り、テーブルの端へ歩く。しょんぼりしているペルシアの隣に腰を下ろすと、ルナは小さく声をかけた。
「ペルシアさん」
「ん……?」
ペルシアが泣きそうな目で見上げる。いつもなら“うるささ”で押すのに、今は“しおらしさ”で来る。
「一緒に食べましょう」
ルナが優しく笑う。
ペルシアの目が丸くなって、次の瞬間、ふわっと柔らかくなる。
「……うん。食べる」
そしてペルシアは、ルナを抱きしめた。勢いがある。抱きしめ方が強い。
「ルナちゃん、大好き!!」
「わっ……」
ルナがちょっとよろける。けれど笑って受け止める。ペルシアの温度は、抱きつく時だけ嘘がない。
「まったく、ルナは優しいわね」
エリン側から見て、くすっと笑った。怒りながらも、こういうところで“許す場所”を作るのがエリンだ。
「ルナはペルシア派やな」
チャコが得意げに言う。
「ペルシア派?」
サツキが首を傾げる。
「なんだそれは?」
メノリも眉をひそめる。
クリスタルが酒を揺らしながら、さも当たり前みたいに説明した。
「ペルシアを甘やかす人がペルシア派、エリンの言うことを聞く人がエリン派なんだってよ」
「やだ、何それ」
エリンが笑いながら言う。本人は知らない設定だったらしい。
「ペルシアさんが言ってました」
ククルが真面目に追撃する。裏切りのない事実を淡々と。
「なるほどね。つまり今の形はちょうど二分しているのね」
エリンが面白そうに言うと、ペルシアがむくっと顔を上げた。ルナに抱きついたまま。
「ちょっと待ってよ! 他にペルシア派はいないの!?」
食堂が一瞬静かになる。誰も席を立とうとしない。視線が泳ぐ。空気が“危険”に寄る。
「……ククル!!」
ペルシアが名指しした。
「はい!」
ククルが反射で立ち上がる。背筋が伸びすぎて軍人みたいだ。
「ククルはどっち派なの!?」
ペルシアが問い詰める。エリンも、にこにこと笑っているが、その笑顔が圧だ。両方から圧が来る。
「えっと、私は……」
ククルの視線がペルシアとエリンの間を行ったり来たりする。助けを求めるようにクリスタルを見るが、クリスタルは酒を飲みながら楽しそうにしているだけだ。チャコもニヤニヤしている。サツキは固唾を飲む。マリは「頑張れ……」と小声で言う。ルナは抱きつかれて身動きが取れない。
ククルは両手をぎゅっと握って、覚悟を決めた。
「私はエリンさん派とペルシアさん派です!!」
そして、勢いよく座った。逃げた。堂々と逃げた。
「ちぇ、つまんない」
ペルシアが唇を尖らせる。期待してた答えじゃないらしい。
ペルシアは今度はリュウジを睨みつけた。罰席でお菓子を食べながら、状況だけは把握している男。
「ほら、アンタはあっちに行きなさいよ」
「何でだ?」
リュウジが淡々と返す。
「アンタはエリン派でしょ!」
ペルシアが指を突きつける。
すると、エリンが首を傾げた。
「あら、リュウジはペルシア派でしょ?」
「どうしたらそうなるのよ」
ペルシアが呆れたように言う。自分のことを甘やかすイメージがないらしい。
「え? だってリュウジはペルシアには甘いじゃない。昔から二日酔いの時はリュウジが介抱してるし、仕事だってよく手伝っていたじゃない」
エリンの言葉がさらっと刺さる。
ペルシアが即座に噛みついた。
「それだったらエリンが倒れた時は寝ないで看病してたじゃない」
「そうだけど、私の言うことは聞いたり聞かなかったりよ」
「じゃあ、結局どっちなんよ」
チャコがゲラゲラ笑う。
クリスタルが口元に指を当て、楽しそうに言った。
「派閥が増える前に、ルール作ったら?」
「ルール?」
サツキが目を丸くする。
メノリが一度だけ頷く。
「規則がないから揉めるんでしょう」
「……その言い方、宇宙管理局の人みたい」
マリが笑って言う。頬がまだ赤い。
ペルシアが急に真面目な顔をした。
「じゃあ、ルールね。ペルシア派は、私の言うことを聞く」
「それはエリン派と同じじゃない」
エリンが即ツッコミを入れる。
「違う。ペルシア派は、私を甘やかす」
「それ、ただのわがままじゃない?」
クリスタルが笑う。
「わがままじゃない。愛よ、愛」
ペルシアが胸を張る。自信満々だ。
リュウジがぼそっと言った。
「……くだらない」
「何!? 何がくだらないの!?」
ペルシアが即反応する。
「派閥なんて作るから揉める」
「揉めるのが楽しいのよ!」
ペルシアが言い返す。
エリンが溜息をついて、鍋を軽く叩いた。
「はい、はい。派閥は後。シチュー冷めるから」
「冷めないうちに食べましょう!」
ククルが張り切って言う。さっきの緊張を取り返すように。
全員が笑って、またスプーンが動き出す。クリームシチューは確かに美味しくて、食べるたびに身体の芯がほどけていく。
罰席の二人だけは、お菓子をかじって見ている。
ペルシアがシチューを食べるルナの器をちらりと見て、低い声で言った。
「……ずるい」
「自業自得だ」
リュウジが冷たく言う。だが、その冷たさは本気じゃない。
「でも、ルナちゃんがくれた」
「それも含めて自業自得だ」
「なにそれ」
ペルシアがむっとする。
リュウジはクッキーを口に入れ、もぐもぐしながら視線を逸らした。
その横顔を見て、エリンが小さく笑う。
「ほら、リュウジはペルシア派よ」
「どこがよ!」
ペルシアが叫ぶ。
「今のだって、言い返さないで受けてるじゃない」
「……」
リュウジが黙る。黙った瞬間、ペルシアが勝ち誇った顔をする。
「ほら! ほらね! エリン! 見た!?」
エリンは肩をすくめるだけで、鍋の底をさらうように最後の一杯をよそった。
その場にいた誰もが、分かっていた。
派閥なんてどうでもいい。本当は、全員が“同じ側”なのだ。
無事に帰ってきた側。
同じ卓を囲める側。
くだらない口げんかを、笑ってできる側。
ペルシアがルナをまた抱きしめようとしたところで、エリンが低い声で止めた。
「ペルシア、ルナのシチューがこぼれる」
「……はい」
ペルシアがしぶしぶ手を引っ込める。
その瞬間、全員が吹き出した。
笑い声が食堂に広がり、湯気がふわっと揺れた。
ーーーー
宴会は、存分に盛り上がった。
料理は次々と皿から消えていき、紙コップのお酒も、ジュースも、湯気の立つシチューも、笑い声に押されるように進んでいく。誰かが話し始めれば、別の誰かが笑って返し、笑いが収まる前にまた別の話題が飛んだ。
それが、夜というものだ。
けれど、夜は必ず終わる。
時間が経つにつれて、熱を帯びた声が少しずつほどけ、椅子に預けた背中が深く沈んでいく。さっきまで騒がしかった食堂が、ふわりと静けさを取り戻していく。
最初に伏せたのはサツキだった。頬が少し赤いまま、机に肘をつき、そこから滑るように額を落とす。
次にチャコとマリ。いつもなら冷静に場を見ているはずの彼女も、肩から力が抜けて、口元に笑いの名残を残したまま眠りに落ちた。
ククルは最後まで頑張っていた。皿を下げようとして、途中で「あ」と言いかけたまま固まって、そのまま椅子に丸くなってしまった。子どもみたいだ、と誰かが笑ったが、もう声の主も眠っている。
クリスタルはグラスを持ったまま、腕を組むように胸の前で抱え、長いまつ毛を伏せている。寝顔だけは妙に優しい。
メノリは、最初こそ姿勢を崩さなかった。背筋を伸ばして「私は寝ない」と言いたげだったのに、気がつけば腕を組んだまま、首が少し傾き、額が机に触れた。眠っていても厳格な雰囲気が残っているのが、らしかった。
ルナは、机に伏せるのではなく、椅子の背に凭れて眠っていた。横に少し倒れた頭が、肩に触れそうで触れない。穏やかな呼吸が小さく上下している。頬がほんのり温かい。
そして――リュウジも、眠っていた。
あれだけ強情で、眠る場所が変わると眠れないような男が。机に腕を置き、そこに額を預けている。髪が少し乱れて、呼吸は静か。酔いのせいか、いつもの険しさが抜け落ちて、年相応の顔に戻っていた。
食堂の照明が少し落とされている。鍋も片付けられ、料理の匂いは薄く残りながらも、空気は落ち着いていた。時計の秒針の音が聞こえそうな静けさ。遠くで誰かが笑ったような幻聴がするが、それはきっと、さっきまでの熱の残響だ。
その静けさの中で、まだ起きている者が二人だけいた。
ペルシアとエリン。
ペルシアは紙コップを片手に、スヤスヤ眠るルナの頬を指先でつついていた。軽く、軽く。壊れものを確かめるみたいに。
「……」
ルナは眉をぴくりと動かしたが、起きない。ペルシアは小さく笑って、もう一度つつこうとした。
「起きちゃうわよ」
隣に座りながら、エリンが小声で言った。
「はーい」
ペルシアは素直に手を止める。止めたはずなのに、その指先はまだ名残惜しそうに宙を漂っている。
「それにしても、みんなよく寝てるね」
ペルシアは紙コップをエリンに差し出した。乾杯のときとは違う、静かな仕草だった。
「疲れてるのよ」
エリンはそう言って、眠っているリュウジの方に視線を向けた。言葉が少し柔らかい。怒りも、緊張も、今日の騒ぎも、全部終わって、ようやく出てきた本音の声だった。
「そういうエリンは寝ないのね」
ペルシアはエリンの差し出したコップに、遠慮なくお酒を注いでいく。トクトク、と小さな音が静寂に滲む。
「ありがとう……私は、目が冴えちゃったかな」
エリンは紙コップを口元に運び、一口だけ飲む。喉を通る音さえ小さく感じた。
「ペルシアは?」
「私はまだ飲み足りないから」
ペルシアは笑って言う。その笑いはいつもの軽さだけど、今の空気の中ではどこか無理に明るくしているみたいにも見えた。
エリンは、ふと目を伏せた。紙コップを両手で包む。まるで暖を取るみたいに。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。
沈黙は気まずいものじゃなかった。むしろ、ようやくここまで辿り着いた、と言うべきものだった。
救助が終わって、全員が戻ってきて、宴会までして――それでも胸の中の波は、すぐには引かない。
エリンが、ぽつりと呟いた。
「……私、客室乗務員が向いてないのかな」
ペルシアは、紙コップを口元で止めた。
「どうしてそう思うの?」
問い返す声は、意外なくらい静かだった。からかいも、皮肉もない。叱る気配もない。聞くための声。
エリンは笑おうとした。けれど、その笑みは途中で崩れた。
「今回のこと……」
言葉が続かない。喉の奥が詰まっている。
ペルシアは、エリンの顔を見た。真正面から見るのではなく、少し横から。逃げ道を残すような角度で。
「心が折れた?」
ペルシアが言うと、エリンは小さく頷いた。
「……折れた、と思う」
エリンは紙コップを握り直し、指先に力を込めた。
「私、ずっと……“もう一度やり直す”って言い続けてきたでしょう?」
「うん」
「チーフパーサーだったのに、乗務員からやり直すって決めて。自分の力で上がるんだって決めて」
エリンは目を閉じた。瞼の裏に、今日の出来事が次々と蘇るのだろう。衝撃、揺れ、乗客の声、焦る仲間、ノイズ混じりの通信。自分の声が、どこか遠い。
「なのに……“できる限りのことをした”って言ったら、ペルシアに否定された」
エリンは乾いた笑いを漏らした。
「否定されたのが悔しかったんじゃない。……当たってたから」
ペルシアは何も言わない。否定もしない。肯定もしない。言葉を挟まない。
それが、今のエリンには救いだった。
「私、空気を整えるのが得意だった。乗務員をまとめるのが得意だった。……そう思ってた」
エリンは自分の紙コップを見つめる。透明な飲み物が揺れている。
「でも今回は、私が揺れた。私が焦った。……気が散った。マリやサツキが私を気にしてくれたのも、嬉しかったはずなのに、同時に“重い”って思った」
言葉を吐くたびに、胸が軽くなるのか、重くなるのか分からない。けれどエリンは止まらない。
「それで、結局、私がみんなの集中を乱した」
ペルシアはゆっくりと息を吐いた。
「……辞めたいの?」
エリンは、その問いにすぐ答えなかった。
食堂の奥で、誰かが寝返りを打つ音がした。椅子が小さくきしむ。眠っているルナが、少しだけ口元を動かした。夢を見ているのかもしれない。
エリンは、その寝顔を見てから、ようやく言った。
「辞めた方がいいのかな、って思った」
言った瞬間、自分でも驚いたように目を見開く。言葉にしたことが、現実になってしまいそうで。
「私は、“向いてるか向いてないか”じゃなくて、“やり直す”って決めたのに……」
エリンは唇を噛んだ。
「……今回の件で、私、怖くなった。もう一回、同じ状況になったら、また揺れるんじゃないかって。そうしたら、今度こそ誰かを失うんじゃないかって」
ペルシアは、紙コップを机に置いた。音が小さく響く。
「怖いのは、ちゃんと向き合ってる証拠よ」
「……慰め?」
「いいえ」
ペルシアは即答した。
「慰めなら、もっと軽く言う。『大丈夫、大丈夫』って。『エリンならできる』って。それで終わり」
エリンは苦笑した。
「ペルシアらしい」
「私は、あんたが“できる”のは知ってる。でも、“揺れる”のも知ってる。だから、今回のことで折れたのは……まぁ、当然だと思う」
エリンは目を伏せた。否定されないことが、逆に痛い。
「でもね」
ペルシアは続けた。声は静かなのに、妙に芯がある。
「今回の件で、私、思ったのよ。客室乗務員として現場に戻りたいって」
エリンは顔を上げた。
「戻りたい……?」
「そう」
ペルシアは、眠っている仲間たちを見渡した。チャコの丸くなった背中、ククルの無防備な寝顔、クリスタルのグラスを抱えたままの姿、メノリの真面目すぎる寝方、ルナの穏やかな呼吸、そして――机に伏せたリュウジ。
「私、統括官として“外側”から守る役をやってたでしょう?」
「うん」
「外側から守るのは、必要。規則も、手順も、体制も。全部必要」
ペルシアはそこで少し笑った。自分に向ける笑いだ。
「でもね。現場の空気って、机の上だけじゃ分からないのよ。目の前で、震える手がある。泣きそうな声がある。パニックになる視線がある。そこに立って、“大丈夫”を嘘じゃなくするのが……乗務員の仕事」
エリンの喉が、かすかに鳴った。言葉にできない反応。
「今日、あんたが揺れたのを責めるつもりはない」
ペルシアは続ける。
「でも、私は見た。……“揺れたエリン”を、私が昔、救ってた頃と同じように、“私が救ってやりたい”って思った」
エリンは小さく息を吸った。
「ペルシア……」
「うん?」
「私、弱くなったのかな」
エリンの声が震えた。自分でそれを認めたくないように。
「弱くなったんじゃない」
ペルシアは即答した。
「背負うものが増えただけよ。今まで背負ってなかったものを背負うようになった。だから重い。それだけ」
「……でも」
「でも、じゃない」
ペルシアが指を立てる。叱る指じゃない。止める指。
「エリン。あんた、辞めるって言うのは自由。逃げるのも自由。人は逃げてもいい。私も……逃げた」
エリンの瞳が揺れる。ペルシアが“逃げた”と言うのは、あまりに珍しい。
「私、一年休んだ。遊んで、バイトして、笑って、……泣いて。全部やった」
ペルシアは肩をすくめる。
「それで戻ってきた。戻ってきて、思ったの。……やっぱり現場って、嫌いじゃないなって」
エリンは、紙コップの縁を指でなぞった。
「私は……どうしたらいいのかな」
ペルシアは、少しだけ考えた。いつもの即答がない。
そして、エリンの目を見て言った。
「辞めるかどうかは、今決めなくていい」
エリンが息を止める。
「決めるなら、今日じゃなくていい。あんたは疲れてる。心が折れたって言った。折れた骨で走れって言うのは、馬鹿のやることよ」
「……」
「だから、まず休め」
ペルシアは言い切った。
「そして、現場に戻りたいと思ったら戻ればいい。戻れないと思ったら、戻らなくていい」
それは、慰めの言葉じゃない。突き放しでもない。選択を返してくる言葉だった。
エリンは、しばらく黙っていた。目の奥で何かがほどけるのが見えた気がした。
やがて、エリンは小さく笑った。
「……ペルシア、あなたって本当にずるいね」
「どこが」
「私が“弱い”って言っても、笑わない。叱らない。優しくしすぎない。……逃げ道だけ作る」
「逃げ道は必要でしょ」
ペルシアは当たり前のように言う。
「だって、生きるってそういうことだもん」
エリンは、紙コップを口元に運び、少し飲んだ。アルコールが喉を温め、胸に落ちていく。
「……ペルシア」
「なに」
「戻ってきてくれて、ありがとう」
エリンの声は、今日の通信のときみたいに落ち着いている。嘘の温度がない。
ペルシアは一瞬だけ口籠った。ほんの一瞬。いつもの彼女ならすぐ茶化すところなのに。
「……当たり前でしょ」
ペルシアはそう言って、照れ隠しみたいに紙コップを煽った。
そして、眠っているルナの方を見た。
「ルナちゃん、寝顔かわいい」
「つつかないでね」
「はーい」
ペルシアは素直に頷く。その素直さが、妙にしみる。
エリンも、眠っているリュウジに目を向けた。
彼は机に伏せたまま、静かに呼吸をしている。肩の上下がゆっくりで、どこにも急ぎがない。今日の彼が背負っていたものが、眠りの中でだけ軽くなる。
エリンは小さく呟いた。
「……私も、もう少しだけ、ここにいようかな」
「うん」
ペルシアは頷いた。
「起きたら、また叱ってあげればいい」
「あなたが?」
「私が」
ペルシアはニヤリと笑う。
「だって私は、まだ飲み足りないんだもん」
エリンは、ようやく本当に笑った。声は出さず、肩だけが揺れる。
食堂の隅で、誰かが寝息を立てる。笑い声がない静けさは、怖くない。むしろ、守られている証拠だった。
二人は紙コップを軽く合わせた。音は小さい。けれど、その小ささが、今はちょうどよかった。