サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

126 / 183
弱音

 エリンの料理がひと通り並んだころには、食堂の空気は完全に“宴会”のそれになっていた。

 

 揚げたての唐揚げは山になり、サーモンとアボカドのポキは大皿にたっぷり。ポテトフライは塩がきらきらしていて、浅漬けの器は箸休めにちょうどいい。湯気の立つスープが、食堂の蛍光灯の下で薄く揺れている。

 

 なのに。

 

 その料理の中心から、ぽっかりと外された二人がいた。

 

 テーブルの端。壁際。まるで“反省席”とでも言わんばかりに並べられた椅子に、ペルシアとリュウジが横並びで座らされていた。

 

 目の前にあるのは、皿ではなく小さな籠――包装されたお菓子だけ。

 

 ペルシアは頬を膨らませ、ぶつぶつ文句を言いながらクッキーをかじっている。しかもどこから出したのか、ちゃっかり小さなボトルを手元に置き、紙コップにちょびっとだけ注いでは飲んでいる。

 

「何で私がこんな目に遭うのよ……」

 

 ペルシアが口を尖らせたまま、クッキーをもう一枚つまむ。

 

「それは俺のセリフだ」

 

 リュウジも同じ籠からビスケットを取り、噛み砕いた。苦味のない甘さが、今の自分には妙に腹立たしい。

 

「だって、お酒飲めばお腹膨れると思ったんだもん」

 

「俺の腹を膨らませて料理を独り占めしようとしたってことか」

 

「まあね」

 

 ペルシアは悪びれず、お菓子を上に放って口でキャッチした。器用さだけは無駄にある。

 

「欲深い奴め」

 

「欲深いのは宇宙管理局の規則のほうでしょ。人の自由を奪うんだもん」

 

「お前が言うな」

 

 リュウジの返しは冷たいのに、どこか呆れている。ペルシアはその呆れを“勝ち”だと思っているのか、にやにやしてまた一口飲んだ。

 

 そのとき、キッチンのほうでタイマーが鳴った。

 

 ピピピ、と軽い電子音。宴会の笑い声の中でも、妙に存在感のある音だった。

 

 エリンがエプロンを正しながらキッチンへ歩いていく。背中だけで“今から主役を出す”と言っているようだった。鍋を持ち上げ、ふぅ、と一息。重さではなく、熱さと香りの濃さに反応した仕草だった。

 

「鍋、持ってくわよ」

 

 エリンがそう言った瞬間、ペルシアとリュウジの視線が同時にそちらへ向いた。罰席にいながら、匂いだけで本能が反応する。

 

 エリンがテーブルの中央に鍋を置く。蓋を開けた途端、白い湯気がふわっと立ち上り、食堂の空気が一段と“家庭”寄りになる。乳の甘さ、バターの香り、煮込まれた玉ねぎの柔らかい匂い。

 

「うわぁ……いい匂い」

 

 ククルが思わず両手を胸の前で握った。

 

「めっちゃ美味そうやな」

 

 チャコが鼻を鳴らすように言う。ロボットのくせに、こういう時だけ妙に人間臭い。

 

「シチュー?」

 

 クリスタルがグラスを置いて覗き込む。

 

「ええ、クリームシチュー」

 

 エリンは当然のように頷き、手際よく取り分け始めた。お玉が鍋をすべる音が心地いい。皿に落ちる“とろり”が、全員の目を奪う。

 

「私、大好きなんです!」

 

 サツキの目がきらきらする。整備士としての普段の落ち着きがどこかへ吹き飛ぶほどだ。

 

「お店顔負けだな」

 

 メノリが珍しく素直に褒める。声の角が少し丸い。

 

「本当に、美味しそう」

 

 ルナも言って、湯気の向こうで微笑んだ。料理の前だと、みんな少し柔らかくなる。

 

「そんなことないわよ」

 

 エリンは照れもせず、淡々と皿を配っていく。そういうところが“本気”だ。

 

 その完璧な流れに、空気を読まない声が割り込む。

 

「ねぇねぇ」

 

 ペルシアだ。

 

 罰席の端から身を乗り出し、指をちょいちょい動かしている。

 

「ただのクリームシチューよ」

 

 エリンは視線も寄越さず、手を止めない。

 

「ねぇ、エリン。ねぇねぇ」

 

「冷めないうちに食べてね」

 

 完全に無視だ。無視の精度が高い。ドルトムント時代から鍛えた“ペルシア対処スキル”が出ている。

 

 マリが一口食べて、目を見開いた。

 

「ウマっ!?」

 

「良かった」

 

 エリンがふっと息をつく。

 

「無視しないでよ、エリン!」

 

 ペルシアがついに声を張った。食堂の空気が一瞬、笑いと同時に止まる。

 

 エリンは自分の取り分を口に含み、嚥下してから、ようやくペルシアを見る。

 

「どうしたの?」

 

「私もシチュー食べたい」

 

 真っ直ぐだ。欲望が直球すぎる。

 

 エリンは当たり前の顔で首を傾げた。

 

「ダメよ?」

 

「なんで? なんで? なんで?」

 

 ペルシアが三連打する。言葉の勢いだけで突破しようとしている。

 

「リュウジにお酒飲ませたから」

 

「もう反省してる。本当にごめんなさい」

 

 ペルシアが両手を合わせ、瞳を潤ませる。泣き落としの構え。

 

 エリンは少し考える素振りを見せた。笑顔を向ける。期待が膨らむ。ペルシアの顔がぱっと明るくなる。

 

「だめ」

 

「ぐっ……!」

 

 ペルシアが息を詰まらせる。絶妙なタイミングで突き落とされた。

 

「……そこをなんとか」

 

「お菓子でお腹いっぱいになったら教えて」

 

「それじゃあ、食べられないじゃん」

 

 ペルシアがしょんぼりする。肩まで落ちる。今度は演技じゃないくらいしょぼくれて見えるのがずるい。

 

 その様子を見て、ルナが静かに立ち上がった。

 

 自分の器を手に取り、テーブルの端へ歩く。しょんぼりしているペルシアの隣に腰を下ろすと、ルナは小さく声をかけた。

 

「ペルシアさん」

 

「ん……?」

 

 ペルシアが泣きそうな目で見上げる。いつもなら“うるささ”で押すのに、今は“しおらしさ”で来る。

 

「一緒に食べましょう」

 

 ルナが優しく笑う。

 

 ペルシアの目が丸くなって、次の瞬間、ふわっと柔らかくなる。

 

「……うん。食べる」

 

 そしてペルシアは、ルナを抱きしめた。勢いがある。抱きしめ方が強い。

 

「ルナちゃん、大好き!!」

 

「わっ……」

 

 ルナがちょっとよろける。けれど笑って受け止める。ペルシアの温度は、抱きつく時だけ嘘がない。

 

「まったく、ルナは優しいわね」

 

 エリン側から見て、くすっと笑った。怒りながらも、こういうところで“許す場所”を作るのがエリンだ。

 

「ルナはペルシア派やな」

 

 チャコが得意げに言う。

 

「ペルシア派?」

 

 サツキが首を傾げる。

 

「なんだそれは?」

 

 メノリも眉をひそめる。

 

 クリスタルが酒を揺らしながら、さも当たり前みたいに説明した。

 

「ペルシアを甘やかす人がペルシア派、エリンの言うことを聞く人がエリン派なんだってよ」

 

「やだ、何それ」

 

 エリンが笑いながら言う。本人は知らない設定だったらしい。

 

「ペルシアさんが言ってました」

 

 ククルが真面目に追撃する。裏切りのない事実を淡々と。

 

「なるほどね。つまり今の形はちょうど二分しているのね」

 

 エリンが面白そうに言うと、ペルシアがむくっと顔を上げた。ルナに抱きついたまま。

 

「ちょっと待ってよ! 他にペルシア派はいないの!?」

 

 食堂が一瞬静かになる。誰も席を立とうとしない。視線が泳ぐ。空気が“危険”に寄る。

 

「……ククル!!」

 

 ペルシアが名指しした。

 

「はい!」

 

 ククルが反射で立ち上がる。背筋が伸びすぎて軍人みたいだ。

 

「ククルはどっち派なの!?」

 

 ペルシアが問い詰める。エリンも、にこにこと笑っているが、その笑顔が圧だ。両方から圧が来る。

 

「えっと、私は……」

 

 ククルの視線がペルシアとエリンの間を行ったり来たりする。助けを求めるようにクリスタルを見るが、クリスタルは酒を飲みながら楽しそうにしているだけだ。チャコもニヤニヤしている。サツキは固唾を飲む。マリは「頑張れ……」と小声で言う。ルナは抱きつかれて身動きが取れない。

 

 ククルは両手をぎゅっと握って、覚悟を決めた。

 

「私はエリンさん派とペルシアさん派です!!」

 

 そして、勢いよく座った。逃げた。堂々と逃げた。

 

「ちぇ、つまんない」

 

 ペルシアが唇を尖らせる。期待してた答えじゃないらしい。

 

 ペルシアは今度はリュウジを睨みつけた。罰席でお菓子を食べながら、状況だけは把握している男。

 

「ほら、アンタはあっちに行きなさいよ」

 

「何でだ?」

 

 リュウジが淡々と返す。

 

「アンタはエリン派でしょ!」

 

 ペルシアが指を突きつける。

 

 すると、エリンが首を傾げた。

 

「あら、リュウジはペルシア派でしょ?」

 

「どうしたらそうなるのよ」

 

 ペルシアが呆れたように言う。自分のことを甘やかすイメージがないらしい。

 

「え? だってリュウジはペルシアには甘いじゃない。昔から二日酔いの時はリュウジが介抱してるし、仕事だってよく手伝っていたじゃない」

 

 エリンの言葉がさらっと刺さる。

 

 ペルシアが即座に噛みついた。

 

「それだったらエリンが倒れた時は寝ないで看病してたじゃない」

 

「そうだけど、私の言うことは聞いたり聞かなかったりよ」

 

「じゃあ、結局どっちなんよ」

 

 チャコがゲラゲラ笑う。

 

 クリスタルが口元に指を当て、楽しそうに言った。

 

「派閥が増える前に、ルール作ったら?」

 

「ルール?」

 

 サツキが目を丸くする。

 

 メノリが一度だけ頷く。

 

「規則がないから揉めるんでしょう」

 

「……その言い方、宇宙管理局の人みたい」

 

 マリが笑って言う。頬がまだ赤い。

 

 ペルシアが急に真面目な顔をした。

 

「じゃあ、ルールね。ペルシア派は、私の言うことを聞く」

 

「それはエリン派と同じじゃない」

 

 エリンが即ツッコミを入れる。

 

「違う。ペルシア派は、私を甘やかす」

 

「それ、ただのわがままじゃない?」

 

 クリスタルが笑う。

 

「わがままじゃない。愛よ、愛」

 

 ペルシアが胸を張る。自信満々だ。

 

 リュウジがぼそっと言った。

 

「……くだらない」

 

「何!? 何がくだらないの!?」

 

 ペルシアが即反応する。

 

「派閥なんて作るから揉める」

 

「揉めるのが楽しいのよ!」

 

 ペルシアが言い返す。

 

 エリンが溜息をついて、鍋を軽く叩いた。

 

「はい、はい。派閥は後。シチュー冷めるから」

 

「冷めないうちに食べましょう!」

 

 ククルが張り切って言う。さっきの緊張を取り返すように。

 

 全員が笑って、またスプーンが動き出す。クリームシチューは確かに美味しくて、食べるたびに身体の芯がほどけていく。

 

 罰席の二人だけは、お菓子をかじって見ている。

 

 ペルシアがシチューを食べるルナの器をちらりと見て、低い声で言った。

 

「……ずるい」

 

「自業自得だ」

 

 リュウジが冷たく言う。だが、その冷たさは本気じゃない。

 

「でも、ルナちゃんがくれた」

 

「それも含めて自業自得だ」

 

「なにそれ」

 

 ペルシアがむっとする。

 

 リュウジはクッキーを口に入れ、もぐもぐしながら視線を逸らした。

 

 その横顔を見て、エリンが小さく笑う。

 

「ほら、リュウジはペルシア派よ」

 

「どこがよ!」

 

 ペルシアが叫ぶ。

 

「今のだって、言い返さないで受けてるじゃない」

 

「……」

 

 リュウジが黙る。黙った瞬間、ペルシアが勝ち誇った顔をする。

 

「ほら! ほらね! エリン! 見た!?」

 

 エリンは肩をすくめるだけで、鍋の底をさらうように最後の一杯をよそった。

 

 その場にいた誰もが、分かっていた。

 

 派閥なんてどうでもいい。本当は、全員が“同じ側”なのだ。

 

 無事に帰ってきた側。

 同じ卓を囲める側。

 くだらない口げんかを、笑ってできる側。

 

 ペルシアがルナをまた抱きしめようとしたところで、エリンが低い声で止めた。

 

「ペルシア、ルナのシチューがこぼれる」

 

「……はい」

 

 ペルシアがしぶしぶ手を引っ込める。

 

 その瞬間、全員が吹き出した。

 

 笑い声が食堂に広がり、湯気がふわっと揺れた。

 

ーーーー

 

 宴会は、存分に盛り上がった。

 

 料理は次々と皿から消えていき、紙コップのお酒も、ジュースも、湯気の立つシチューも、笑い声に押されるように進んでいく。誰かが話し始めれば、別の誰かが笑って返し、笑いが収まる前にまた別の話題が飛んだ。

 

 それが、夜というものだ。

 

 けれど、夜は必ず終わる。

 

 時間が経つにつれて、熱を帯びた声が少しずつほどけ、椅子に預けた背中が深く沈んでいく。さっきまで騒がしかった食堂が、ふわりと静けさを取り戻していく。

 

 最初に伏せたのはサツキだった。頬が少し赤いまま、机に肘をつき、そこから滑るように額を落とす。

 

 次にチャコとマリ。いつもなら冷静に場を見ているはずの彼女も、肩から力が抜けて、口元に笑いの名残を残したまま眠りに落ちた。

 

 ククルは最後まで頑張っていた。皿を下げようとして、途中で「あ」と言いかけたまま固まって、そのまま椅子に丸くなってしまった。子どもみたいだ、と誰かが笑ったが、もう声の主も眠っている。

 

 クリスタルはグラスを持ったまま、腕を組むように胸の前で抱え、長いまつ毛を伏せている。寝顔だけは妙に優しい。

 

 メノリは、最初こそ姿勢を崩さなかった。背筋を伸ばして「私は寝ない」と言いたげだったのに、気がつけば腕を組んだまま、首が少し傾き、額が机に触れた。眠っていても厳格な雰囲気が残っているのが、らしかった。

 

 ルナは、机に伏せるのではなく、椅子の背に凭れて眠っていた。横に少し倒れた頭が、肩に触れそうで触れない。穏やかな呼吸が小さく上下している。頬がほんのり温かい。

 

 そして――リュウジも、眠っていた。

 

 あれだけ強情で、眠る場所が変わると眠れないような男が。机に腕を置き、そこに額を預けている。髪が少し乱れて、呼吸は静か。酔いのせいか、いつもの険しさが抜け落ちて、年相応の顔に戻っていた。

 

 食堂の照明が少し落とされている。鍋も片付けられ、料理の匂いは薄く残りながらも、空気は落ち着いていた。時計の秒針の音が聞こえそうな静けさ。遠くで誰かが笑ったような幻聴がするが、それはきっと、さっきまでの熱の残響だ。

 

 その静けさの中で、まだ起きている者が二人だけいた。

 

 ペルシアとエリン。

 

 ペルシアは紙コップを片手に、スヤスヤ眠るルナの頬を指先でつついていた。軽く、軽く。壊れものを確かめるみたいに。

 

「……」

 

 ルナは眉をぴくりと動かしたが、起きない。ペルシアは小さく笑って、もう一度つつこうとした。

 

「起きちゃうわよ」

 

 隣に座りながら、エリンが小声で言った。

 

「はーい」

 

 ペルシアは素直に手を止める。止めたはずなのに、その指先はまだ名残惜しそうに宙を漂っている。

 

「それにしても、みんなよく寝てるね」

 

 ペルシアは紙コップをエリンに差し出した。乾杯のときとは違う、静かな仕草だった。

 

「疲れてるのよ」

 

 エリンはそう言って、眠っているリュウジの方に視線を向けた。言葉が少し柔らかい。怒りも、緊張も、今日の騒ぎも、全部終わって、ようやく出てきた本音の声だった。

 

「そういうエリンは寝ないのね」

 

 ペルシアはエリンの差し出したコップに、遠慮なくお酒を注いでいく。トクトク、と小さな音が静寂に滲む。

 

「ありがとう……私は、目が冴えちゃったかな」

 

 エリンは紙コップを口元に運び、一口だけ飲む。喉を通る音さえ小さく感じた。

 

「ペルシアは?」

 

「私はまだ飲み足りないから」

 

 ペルシアは笑って言う。その笑いはいつもの軽さだけど、今の空気の中ではどこか無理に明るくしているみたいにも見えた。

 

 エリンは、ふと目を伏せた。紙コップを両手で包む。まるで暖を取るみたいに。

 

 しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。

 

 沈黙は気まずいものじゃなかった。むしろ、ようやくここまで辿り着いた、と言うべきものだった。

 

 救助が終わって、全員が戻ってきて、宴会までして――それでも胸の中の波は、すぐには引かない。

 

 エリンが、ぽつりと呟いた。

 

「……私、客室乗務員が向いてないのかな」

 

 ペルシアは、紙コップを口元で止めた。

 

「どうしてそう思うの?」

 

 問い返す声は、意外なくらい静かだった。からかいも、皮肉もない。叱る気配もない。聞くための声。

 

 エリンは笑おうとした。けれど、その笑みは途中で崩れた。

 

「今回のこと……」

 

 言葉が続かない。喉の奥が詰まっている。

 

 ペルシアは、エリンの顔を見た。真正面から見るのではなく、少し横から。逃げ道を残すような角度で。

 

「心が折れた?」

 

 ペルシアが言うと、エリンは小さく頷いた。

 

「……折れた、と思う」

 

 エリンは紙コップを握り直し、指先に力を込めた。

 

「私、ずっと……“もう一度やり直す”って言い続けてきたでしょう?」

 

「うん」

 

「チーフパーサーだったのに、乗務員からやり直すって決めて。自分の力で上がるんだって決めて」

 

 エリンは目を閉じた。瞼の裏に、今日の出来事が次々と蘇るのだろう。衝撃、揺れ、乗客の声、焦る仲間、ノイズ混じりの通信。自分の声が、どこか遠い。

 

「なのに……“できる限りのことをした”って言ったら、ペルシアに否定された」

 

 エリンは乾いた笑いを漏らした。

 

「否定されたのが悔しかったんじゃない。……当たってたから」

 

 ペルシアは何も言わない。否定もしない。肯定もしない。言葉を挟まない。

 

 それが、今のエリンには救いだった。

 

「私、空気を整えるのが得意だった。乗務員をまとめるのが得意だった。……そう思ってた」

 

 エリンは自分の紙コップを見つめる。透明な飲み物が揺れている。

 

「でも今回は、私が揺れた。私が焦った。……気が散った。マリやサツキが私を気にしてくれたのも、嬉しかったはずなのに、同時に“重い”って思った」

 

 言葉を吐くたびに、胸が軽くなるのか、重くなるのか分からない。けれどエリンは止まらない。

 

「それで、結局、私がみんなの集中を乱した」

 

 ペルシアはゆっくりと息を吐いた。

 

「……辞めたいの?」

 

 エリンは、その問いにすぐ答えなかった。

 

 食堂の奥で、誰かが寝返りを打つ音がした。椅子が小さくきしむ。眠っているルナが、少しだけ口元を動かした。夢を見ているのかもしれない。

 

 エリンは、その寝顔を見てから、ようやく言った。

 

「辞めた方がいいのかな、って思った」

 

 言った瞬間、自分でも驚いたように目を見開く。言葉にしたことが、現実になってしまいそうで。

 

「私は、“向いてるか向いてないか”じゃなくて、“やり直す”って決めたのに……」

 

 エリンは唇を噛んだ。

 

「……今回の件で、私、怖くなった。もう一回、同じ状況になったら、また揺れるんじゃないかって。そうしたら、今度こそ誰かを失うんじゃないかって」

 

 ペルシアは、紙コップを机に置いた。音が小さく響く。

 

「怖いのは、ちゃんと向き合ってる証拠よ」

 

「……慰め?」

 

「いいえ」

 

 ペルシアは即答した。

 

「慰めなら、もっと軽く言う。『大丈夫、大丈夫』って。『エリンならできる』って。それで終わり」

 

 エリンは苦笑した。

 

「ペルシアらしい」

 

「私は、あんたが“できる”のは知ってる。でも、“揺れる”のも知ってる。だから、今回のことで折れたのは……まぁ、当然だと思う」

 

 エリンは目を伏せた。否定されないことが、逆に痛い。

 

「でもね」

 

 ペルシアは続けた。声は静かなのに、妙に芯がある。

 

「今回の件で、私、思ったのよ。客室乗務員として現場に戻りたいって」

 

 エリンは顔を上げた。

 

「戻りたい……?」

 

「そう」

 

 ペルシアは、眠っている仲間たちを見渡した。チャコの丸くなった背中、ククルの無防備な寝顔、クリスタルのグラスを抱えたままの姿、メノリの真面目すぎる寝方、ルナの穏やかな呼吸、そして――机に伏せたリュウジ。

 

「私、統括官として“外側”から守る役をやってたでしょう?」

 

「うん」

 

「外側から守るのは、必要。規則も、手順も、体制も。全部必要」

 

 ペルシアはそこで少し笑った。自分に向ける笑いだ。

 

「でもね。現場の空気って、机の上だけじゃ分からないのよ。目の前で、震える手がある。泣きそうな声がある。パニックになる視線がある。そこに立って、“大丈夫”を嘘じゃなくするのが……乗務員の仕事」

 

 エリンの喉が、かすかに鳴った。言葉にできない反応。

 

「今日、あんたが揺れたのを責めるつもりはない」

 

 ペルシアは続ける。

 

「でも、私は見た。……“揺れたエリン”を、私が昔、救ってた頃と同じように、“私が救ってやりたい”って思った」

 

 エリンは小さく息を吸った。

 

「ペルシア……」

 

「うん?」

 

「私、弱くなったのかな」

 

 エリンの声が震えた。自分でそれを認めたくないように。

 

「弱くなったんじゃない」

 

 ペルシアは即答した。

 

「背負うものが増えただけよ。今まで背負ってなかったものを背負うようになった。だから重い。それだけ」

 

「……でも」

 

「でも、じゃない」

 

 ペルシアが指を立てる。叱る指じゃない。止める指。

 

「エリン。あんた、辞めるって言うのは自由。逃げるのも自由。人は逃げてもいい。私も……逃げた」

 

 エリンの瞳が揺れる。ペルシアが“逃げた”と言うのは、あまりに珍しい。

 

「私、一年休んだ。遊んで、バイトして、笑って、……泣いて。全部やった」

 

 ペルシアは肩をすくめる。

 

「それで戻ってきた。戻ってきて、思ったの。……やっぱり現場って、嫌いじゃないなって」

 

 エリンは、紙コップの縁を指でなぞった。

 

「私は……どうしたらいいのかな」

 

 ペルシアは、少しだけ考えた。いつもの即答がない。

 

 そして、エリンの目を見て言った。

 

「辞めるかどうかは、今決めなくていい」

 

 エリンが息を止める。

 

「決めるなら、今日じゃなくていい。あんたは疲れてる。心が折れたって言った。折れた骨で走れって言うのは、馬鹿のやることよ」

 

「……」

 

「だから、まず休め」

 

 ペルシアは言い切った。

 

「そして、現場に戻りたいと思ったら戻ればいい。戻れないと思ったら、戻らなくていい」

 

 それは、慰めの言葉じゃない。突き放しでもない。選択を返してくる言葉だった。

 

 エリンは、しばらく黙っていた。目の奥で何かがほどけるのが見えた気がした。

 

 やがて、エリンは小さく笑った。

 

「……ペルシア、あなたって本当にずるいね」

 

「どこが」

 

「私が“弱い”って言っても、笑わない。叱らない。優しくしすぎない。……逃げ道だけ作る」

 

「逃げ道は必要でしょ」

 

 ペルシアは当たり前のように言う。

 

「だって、生きるってそういうことだもん」

 

 エリンは、紙コップを口元に運び、少し飲んだ。アルコールが喉を温め、胸に落ちていく。

 

「……ペルシア」

 

「なに」

 

「戻ってきてくれて、ありがとう」

 

 エリンの声は、今日の通信のときみたいに落ち着いている。嘘の温度がない。

 

 ペルシアは一瞬だけ口籠った。ほんの一瞬。いつもの彼女ならすぐ茶化すところなのに。

 

「……当たり前でしょ」

 

 ペルシアはそう言って、照れ隠しみたいに紙コップを煽った。

 

 そして、眠っているルナの方を見た。

 

「ルナちゃん、寝顔かわいい」

 

「つつかないでね」

 

「はーい」

 

 ペルシアは素直に頷く。その素直さが、妙にしみる。

 

 エリンも、眠っているリュウジに目を向けた。

 

 彼は机に伏せたまま、静かに呼吸をしている。肩の上下がゆっくりで、どこにも急ぎがない。今日の彼が背負っていたものが、眠りの中でだけ軽くなる。

 

 エリンは小さく呟いた。

 

「……私も、もう少しだけ、ここにいようかな」

 

「うん」

 

 ペルシアは頷いた。

 

「起きたら、また叱ってあげればいい」

 

「あなたが?」

 

「私が」

 

 ペルシアはニヤリと笑う。

 

「だって私は、まだ飲み足りないんだもん」

 

 エリンは、ようやく本当に笑った。声は出さず、肩だけが揺れる。

 

 食堂の隅で、誰かが寝息を立てる。笑い声がない静けさは、怖くない。むしろ、守られている証拠だった。

 

 二人は紙コップを軽く合わせた。音は小さい。けれど、その小ささが、今はちょうどよかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。