サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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引き継ぎ

 翌朝――宇宙管理局の食堂は、昨夜の余韻を引きずったまま静かに明るかった。

 

 照明が変わったわけではない。ただ、夜の熱が抜け、残った匂いが冷えて、現実の輪郭だけがくっきり浮かび上がっている。テーブルには空になった皿と、丸められた紙コップ。誰かが投げ置いたブランケット。椅子の背に掛かった制服の上着。

 

 そして床には、昨夜のまま散らばった寝姿。

 

 リュウジは机に伏せた姿勢のまま。メノリは背筋だけは最後まで真面目に、腕を組んで寝ている。ルナは椅子に凭れたまま、髪が頬にかかっている。ククルは丸くなって、まるで子どもみたいに眠っていた。チャコはソファの端で、画面を暗くした端末を抱えている。

 

 クリスタルとマリも、椅子の背を借りるように眠っていた。サツキは頬をほんのり赤くしたまま、テーブルに額を乗せている。

 

 その静けさを破ったのは――

 

「起きろーッ!!」

 

 耳をつんざくような声と、乾いた足音だった。

 

 ペルシアが、腕を組みながら食堂の中央に立っていた。昨夜の飲み足りない宣言はどこへやら。目は澄んでいて、髪はきっちりまとめられている。あの人は、どれだけ飲んでも、どれだけ泣いても、仕事のスイッチが入るとこうなる。

 

「寝てる場合じゃないわよ! ここ、宇宙管理局の食堂! 宿泊施設じゃないの! 片付け! 撤収! 解散! 五分で!」

 

 誰も動かない。あまりにも唐突すぎる。

 

 ペルシアは眉を吊り上げた。

 

「……おい」

 

 言い方が変わった。声の温度が一段落ちる。

 

「……起きろって言ってんのよォ!!」

 

 次の瞬間、彼女はテーブルを叩いた。どん、と鈍い音が広がり、眠りの膜が破れた。

 

「ひゃっ!?」

 

 最初に跳ね上がったのはククルだった。背筋を伸ばしたまま固まって、次に周囲を見回して、自分がどこにいるのか思い出すまでに三秒かかった。

 

「お、おはようございます!!」

 

「おはようじゃないわよ」

 

 ペルシアは即答した。

 

 続いてサツキが顔を上げた。髪が少し乱れている。

 

「え……朝……?」

 

「そう、朝。よく寝た? よかったわね。さ、立て」

 

「は、はい!」

 

 サツキは反射で立ち上がり、姿勢を正す。整備班の朝礼みたいだ。

 

 マリはゆっくり目を開け、すべてを悟ったような顔で額を押さえた。

 

「……ペルシアさんか」

 

「私よ」

 

「……最悪の目覚めだ」

 

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 

 クリスタルは寝ぼけ眼で髪をかき上げ、ため息をついた。

 

「……あなた、ほんと元気ね」

 

「元気じゃないと回らないのよ、人生は」

 

 チャコがソファの端で小さくうなった。

 

「……朝からうるさ……」

 

「チャコ?」

 

 ペルシアの声が優しくなった。優しい声の方が怖い。

 

「起きるか、宇宙に放り投げるか、どっち?」

 

「起きるわ!!」

 

 チャコは即答し、跳ね起きた。寝ぼけが一瞬で吹き飛ぶ。

 

 最後に動いたのは、ルナとメノリ、そしてリュウジだった。

 

 ルナはゆっくり目を開け、ぼんやりとしたまま周囲を見る。昨日の涙の痕跡が、まだ瞳の奥に残っているようだった。それでも彼女は口元に小さな笑みを浮かべ、ペルシアを見上げる。

 

「……おはようございます、ペルシアさん」

 

「おはよう。ルナちゃん」

 

 メノリは眉間に皺を寄せたまま起き上がり、状況を確認し、即座に自分の姿勢を正した。眠っていたのに、起きた瞬間から真面目の顔に戻るのが、いっそ面白い。

 

「……騒がしいな」

 

「騒がしいのはあなたたちの寝相よ」

 

 ペルシアは鼻で笑った。

 

 そして――リュウジは、机に伏せたまま、微かに肩を揺らした。

 

 起きない。

 

 ペルシアはゆっくりとリュウジの背後に回り、頭上に影を落とした。

 

「リュウジ」

 

 呼びかける。

 

 反応はない。

 

 ペルシアはにっこり笑った。

 

「……起きろ」

 

 それでも反応がない。

 

 ペルシアの笑みが、消えた。

 

「起きろって言ってんのよ!!」

 

 次の瞬間、彼女はリュウジの後頭部を軽く叩いた。軽く、だが音はやけに響いた。

 

「……っ」

 

 リュウジがようやく顔を上げる。眉が僅かに上がっている。あれは動揺の癖だ――と、昨夜の話を思い出してしまう者が何人かいた。

 

「……うるさい」

 

「うるさくしないと起きないでしょ」

 

 ペルシアは即座に返す。

 

 リュウジはため息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。髪を乱したまま、目だけが妙に冴えている。起きた直後の静かな殺気が、いつもの彼に戻りつつあった。

 

「……分かった」

 

「分かればよろしい」

 

 ペルシアは満足そうに頷いた。

 

 そうして、慌ただしい朝の撤収が始まった。

 

 皿を重ね、ゴミをまとめ、テーブルを拭く。昨日は救助、今日は片付け。現実はいつも容赦がない。だが、不思議と誰も文句を言わなかった。言う気力がないのもあるが――あの夜の温度が、まだ胸のどこかに残っているからだ。

 

 十分後、食堂は元の姿に戻り、各々は帰る支度を整え始めた。

 

 最初に去るのはサツキだった。

 

「先に戻ります。整備班に連絡しないと」

 

 言いながら、彼女は頭を下げた。目は真剣で、昨夜の赤らみが嘘みたいに消えている。

 

「ごめんね、巻き込んで」

 

 エリンが申し訳なさそうに言うと、サツキは首を振った。

 

「巻き込まれたんじゃありません。自分で来たんです。それに……学びが多かったです」

 

 言い切ったあと、サツキは少し照れたように笑った。

 

「また、助けが必要なら呼んでください。今度は……もっと役に立ちます」

 

「期待してる」

 

 クリスタルが軽く手を振る。

 

 サツキは頷き、足早に去っていった。

 

 次に帰るのは、ルナ、メノリ、そしてチャコだった。

 

 ルナはロビーに出る手前で、もう一度だけ振り返った。自分が今ここにいる理由――救助の成功、リュウジの帰還、ペルシアの復活、全部が一気に押し寄せて、まだ胸が追いついていない。

 

 それでもルナは小さく息を吐き、前を向いた。

 

「行こう、チャコ。メノリ」

 

「せやな」

 

「そうだな」

 

 三人は並んで歩き出す。昨日より少しだけ足取りが軽いのは、きっと“終わった”と知ったからだ。終わって、戻ってくる場所があると知ったからだ。

 

 エリンとククルは、その後ろから帰路についた。

 

 ククルは何度も振り返っては、食堂の方を名残惜しそうに見た。あの宇宙の緊張感、救助の時間、そしてペルシアの怒号――全部が彼女にとって、強烈な“現場”だった。

 

「エリンさん、ちゃんと休んでくださいね」

 

「あなたもね」

 

 エリンは柔らかく言う。昨夜の弱音は、消えたわけじゃない。だが、背中を押す手触りに変わっていた。

 

 そして最後に去るのは、リュウジだった。

 

 食堂の出口で、マリとクリスタルが見送る。

 

「世話になったな」

 

 リュウジが短く言う。

 

「まったくよ。しっかりやりなさいよ」

 

 クリスタルが呆れたように言うが、目はどこか優しい。

 

「次はリュウジの操縦する宇宙船に乗せてくれ」

 

 マリが冗談めかして言う。

 

「……ああ」

 

 リュウジは短く頷いた。軽い返事なのに、妙に重みがある。

 

「それじゃ」

 

 リュウジは踵を返し、歩き出した。

 

 彼の行き先は、ひとまず冥王星だった。

 

 宇宙管理局から出航するゲート――その前は、いつもより静かだった。救助任務は終わった。人の流れも落ち着き、慌ただしさが薄れている。

 

 その静けさの中に、一人だけ立っている影があった。

 

 作業着の上着を肩に掛け、制帽は手に持ったまま。何かを見送るように、ゲートの向こうを眺めている。

 

「……ここにいたのか、ペルシア」

 

 リュウジが声をかけると、ペルシアは振り返った。

 

「ええ」

 

 短く頷く。その顔は、昨夜の宴会の顔でも、オペレーションルームの鬼の顔でもない。ひとりの人間の顔だった。

 

「ねぇ、リュウジ」

 

 ペルシアが先に言った。

 

「どうした?」

 

 リュウジは立ち止まる。彼は急がない。こういう瞬間にだけは、いつも丁寧だ。

 

 ペルシアは視線をゲートの先に戻し、ぽつりと呟いた。

 

「やっぱり違うものね」

 

「何がだ」

 

「宇宙管理局であなた達から報告を受けるのと、現場の最前線で知るのは」

 

 ペルシアの声には、悔しさと、懐かしさと、ほんの少しの恐怖が混じっていた。報告書の文字と、実際の呼吸。数字と、叫び。ログと、鼓動。

 

「当たり前だ」

 

 リュウジは即答する。

 

 ペルシアは小さく笑った。笑いながら、少しだけ肩を落とす。

 

「そうよね」

 

 そこで、リュウジが言った。

 

 今まで言わなかった言葉を、噛み砕くように。

 

「……だが、お前のように俺達が帰ってこれる場所を作ってくれるから、俺達はまた飛び立てるんだ」

 

 ペルシアの表情が一瞬止まる。

 

 リュウジの言葉は派手じゃない。褒めるのが下手で、感謝の形も不器用だ。けれど、その一言は、どんな称賛よりも重い。

 

 ペルシアは一拍、間を置いた。

 

 そして微笑んで頷く。

 

「……ふふっ。そうね」

 

 笑みの裏に、いくつもの夜が滲んでいた。眠れなかった夜、責任を飲み込んだ夜、誰かの名前を胸の奥で呼び続けた夜。

 

 リュウジは視線を逸らし、帽子のつばを指で軽く触れた。

 

「それじゃあ、俺は行く」

 

 言いかけたところで――

 

「ちょっと待って」

 

 ペルシアが止めた。

 

 リュウジが振り返る。

 

「……エリンのこと、よろしく頼むわね」

 

 ペルシアは軽い調子を装った。だが、その言葉には、昨夜の会話の温度が残っている。折れかけた心を、どう扱うか。怒鳴るのか、抱くのか、放っておくのか。

 

「エリンさん?」

 

 リュウジは眉を僅かに上げる。癖だ。

 

「ええ。あの子、心が折れてるから」

 

 ペルシアは言った。否定もしない。誤魔化しもしない。現実をそのまま差し出す。

 

 リュウジは少しだけ黙った。

 

 何かを飲み込むように。

 

「……分かった」

 

 短い返事だった。だがその一言は、背負う覚悟の音だった。

 

「それじゃあ、本当に行く」

 

「ええ。アンタも頑張って」

 

「ああ」

 

 リュウジはゲートを越えていった。

 

 背中が遠ざかる。歩幅は一定で、迷いのない歩き方。けれど、その背中の奥に、まだ言えなかった言葉が詰まっているのをペルシアは見抜いていた。

 

 だから彼女は、言わなかった。

 

 “ルナのことも”とは。

 

 言わなくても、あの男は分かっている。分かっているからこそ、あんな遠回りをしたのだ。

 

 ペルシアはひとり、ゲートの前に残る。

 

 そして小さく息を吐いた。

 

 戻る場所を作る者の呼吸だ。

 

 誰かが帰ってくるために、誰かが飛び立てるために。

 

 その仕事は、きっと今日も終わらない。

 

 

ーーーー

 

 ロカA2――ハワード財閥旅行会社の本社ビルは、いつも通りきっちりと磨かれていた。

 

 ガラス張りのエントランスに映る天井照明は眩しく、床は鏡のように人影を映す。受付のカウンターには社員章が整列し、案内サインの角度まで揃っている。ここは「安心」と「信頼」を売る会社だ。だからこそ、見た目の秩序は何よりも強い宣伝になる。

 

 けれど、その秩序の中に、今日だけは小さな歪みがあった。

 

 エリンとククルが、エントランスを横切る瞬間――フロアの空気が、ほんの僅かに変わったのだ。

 

 視線が集まる。囁きが走る。誰も声にしないが、誰もが知っている。

 

 救助任務の応援に出た便で、二機が航行不能になり、あの英雄が戻ってきて――そして、彼女たちは無事に帰ってきた。

 

 エリンは制服の襟を整え直すような仕草をして、歩幅を崩さずに進む。髪も乱れていない。姿勢も背筋もいつも通りだ。だが、目の下に薄い影があり、頬は少しだけ削げたように見える。

 

 ククルはというと、同じ制服でも肩に余計な力が入っていた。背筋は伸びているのに、どこか落ち着かない。足音が自分の耳に響くのが怖いみたいに、息を浅くして歩く。

 

 エリンが小さく言った。

 

「ククル、呼吸」

 

「は、はい……」

 

「胸じゃなくて、お腹で。ほら」

 

 ククルは言われた通り息を吸い、ゆっくり吐いた。目が少しだけ落ち着いた。

 

 ふたりが通されたのは、社長室フロアの前室だった。壁は落ち着いた木目調。飾りは少ない。ここにあるものは「権威」ではなく「決断」だ。受付担当が丁寧に頭を下げる。

 

「社長がお待ちです。どうぞ」

 

 重い扉の前で、ククルが喉を鳴らした。

 

「……エリンさん、怒られますよね」

 

「怒られるのはあなたの方よ。私はただ呼ばれただけ」

 

「そ、それもそうですけど……」

 

 ククルの声が尻すぼみになった。エリンは短く息を吐く。笑うほどの余裕はない。ただ、崩れてしまうほどの弱さも見せたくない。

 

「大丈夫。言うべきことを言えばいい」

 

「はい……」

 

 扉が開く。

 

 社長室は広かったが、豪華というより機能的だった。光沢のあるデスク。壁際には航路図が映し出された大型パネル。窓の向こうには、ロカA2の空が静かに広がっている。

 

 その正面に、三人が並んで座っていた。

 

 社長、ハワード・クルーズ。

 

 宇宙事業本部長。

 

 旅行事業本部長。

 

 誰が見ても「責任者」の並びだ。ふたりは反射で姿勢を正した。

 

 クルーズが、ゆっくり口を開く。

 

「よく戻ってきた」

 

「ありがとうございます」

 

 エリンが頭を下げる。ククルもつられて、勢いよく頭を下げた。

 

「……ありがとうございます!」

 

 その勢いに、旅行事業本部長がわずかに目を細め、宇宙事業本部長が咳払いをひとつした。

 

「ククル。今回は大目に見る」

 

 宇宙事業本部長の声は、冷たいわけではない。ただ、余計な装飾を一切省いた「規則」の声だ。

 

「次からは、必ず報告を通すこと。現場で判断するな。君が無事に帰ってきたのは結果論だ」

 

「……すみませんでした」

 

 ククルは額がデスクに付きそうなほど深く頭を下げる。

 

 旅行事業本部長は、少し柔らかい調子で言った。

 

「まあ、ククルの『助けたい』って気持ちは伝わったよ。エリンを助けたい、ってね」

 

 ククルの肩がぴくりと揺れる。怒られるのは覚悟していた。だが、その気持ちを言葉にされた瞬間、胸の奥が熱くなる。泣きそうなのを堪えるように、奥歯を噛んだ。

 

 クルーズが手を上げた。

 

「まあいいではないか。こうして無事に戻ってきたのだから」

 

 社長の声は、強いのに穏やかだった。怒鳴らず、しかし空気を支配する声。ハワード財閥の頂点にいる男の話し方だ。

 

「二人には一週間ほど休みを与える。ゆっくり身体を休ませなさい」

 

「ありがとうございます」

 

「ありがとうございます……!」

 

 エリンとククルが声を揃える。ククルは安堵で膝が抜けそうになった。エリンは、胸の奥で小さく頷いた。休みが必要なのは確かだ。体も、そして心も。

 

 クルーズは二人を一度見て、話を終えるような空気を作った。

 

 エリンは会釈し、退室のために一歩下がる。

 

 その時だった。

 

「エリン」

 

 名前を呼ぶ声に、エリンの背筋が反射で硬くなる。ククルも止まった。扉の取っ手に手をかける直前で、時間が静止する。

 

 エリンは振り返った。

 

「はい」

 

 クルーズは背もたれに軽く体を預け、目だけで彼女を射抜くように見た。

 

「君には二度の救助任務を経験している」

 

「……はい」

 

「そして、副パーサーになって半月も経つ」

 

「はい」

 

 言葉が少ない。だが、その短い言葉の間に、何かが積み上がっていくのが分かった。エリンは息を整える。ククルは背中でその空気を感じ、勝手に緊張を深めた。

 

 宇宙事業本部長が続ける。

 

「君なら、乗務員からの信頼も厚い」

 

 旅行事業本部長も言葉を重ねた。

 

「それに、エリンが来てから売り上げは右肩上がりだ。広告を打ったわけでもないのに、予約が増えている」

 

 数字の話だ。会社にとって、最も動かしがたい根拠。

 

 クルーズが結論を口にする。

 

「そろそろ君に、チーフパーサーに昇格してもらいたい」

 

 空気が、止まった。

 

 ククルが小さく息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。驚きと、誇らしさと、羨ましさと、不安が混ざった呼吸。

 

 エリンは一瞬、言葉が出なかった。

 

 頭の中では「当然の流れ」と「違う」という二つの声が同時に鳴っている。

 

 当然――副パーサーとしての動きは評価されている。現場でも、会社でも。実際、彼女がいるだけで、フロアは安定する。

 

 違う――今の自分は、チーフパーサーになるべき人間なのか。そもそも、客室乗務員を続けていいのか。昨日までの“未探索領域”の冷えた空気が、まだ骨に残っている。あの場所で、エリンは自分の弱さを見た。自分の心が揺れているのを見た。

 

 それでも、この会社には恩がある。

 

 救助任務の穴埋めで死ぬほど忙しくても、現場が崩れないよう支えてくれた仲間がいる。ククルのような若い乗務員が、命を懸けるほど慕ってくれる。

 

 エリンは喉を潤すように唇を舐めた。

 

「……私が、ですか?」

 

 声が思ったより低かった。驚きの声にならなかったのは、受け取る準備を心のどこかでしていたからだろう。

 

 宇宙事業本部長が頷く。

 

「君ならできる」

 

 旅行事業本部長も、追い打ちのように言う。

 

「現場の士気も上がる。君が前に立てば、会社の信用も強くなる」

 

 クルーズが最後に言った。

 

「一から鍛え直したいと言った君の言葉通り、そろそろ充分だろう」

 

 ――充分。

 

 その一言が、エリンの胸に刺さった。

 

 充分って、何だろう。

 

 「充分」なら、もうここにいる理由はないのではないか。

 

 やり直すために来た。自分のために来た。過去の自分の傲慢さや、背負い癖を壊すために来た。けれど今、評価され、必要とされ、昇格を提示される。

 

 また同じ場所に立つのか。

 

 また、背負う側になるのか。

 

 頭の中に、ペルシアの怒鳴り声が蘇った。

 

 “仲間の力を最大限に活かすのが仕事でしょ!”

 

 エリンは、あの言葉を否定できない。

 

 否定できないから、怖いのだ。

 

 ククルが、隣で小さく囁いた。

 

「……エリンさん……すごい……」

 

 その声が、エリンを救うようで、同時に縛るようでもあった。

 

 ここで「はい」と答えれば、皆が喜ぶ。会社も喜ぶ。ククルも喜ぶ。現場も喜ぶ。

 

 でも、それは本当に“自分のため”の答えだろうか。

 

 エリンは目を伏せた。短い沈黙が落ちる。

 

 社長室の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。

 

 エリンは、ゆっくり顔を上げた。迷いを隠すために笑うのではなく、迷いをそのまま抱えた目で、社長を見る。

 

「……少し、考えさせてください」

 

 言い切った瞬間、ククルの表情が固まった。

 

 まさか断るのか、という驚きではない。エリンの声の奥にある“揺れ”を、初めてはっきり感じ取った顔だった。

 

 クルーズは、すぐに怒らなかった。眉を動かすこともない。ただ目を細め、短く頷いた。

 

「……いい」

 

 それだけ。

 

 エリンは会釈し、ククルも慌てて頭を下げる。

 

「失礼します」

 

 扉が閉まる。

 

 廊下に出た瞬間、ククルが堪えきれず息を吐いた。

 

「……エリンさん……どうして……」

 

 責める声ではない。泣きそうな声だ。

 

 エリンは歩きながら、答えを探すように視線を前に置いたまま言った。

 

「今すぐ“受けます”って言ったら、きっと後で後悔する」

 

「後悔……」

 

「私は、自分がどこに立つべきか、まだ決めきれてない」

 

 ククルは言葉を失った。尊敬している人が、こんなふうに迷うのを見たことがなかった。エリンはいつも、正しい答えを持っているように見えたから。

 

 一方、社長室に残った三人は――扉が閉まったあと、短い沈黙の中にいた。

 

 旅行事業本部長が先に口を開く。

 

「……嫌な予感がしますね」

 

 宇宙事業本部長が頷く。

 

「現場での疲労だけではない。彼女の顔は……決めかねている顔だった」

 

 クルーズは窓の外を見たまま、ゆっくりと言った。

 

「……彼女は賢い。賢いからこそ、引き受けた先の地獄も見えてしまう」

 

 そして、ほんの僅かだけ声を落とす。

 

「それでも必要だ。今のこの会社には、エリンが必要だ」

 

 必要とすることと、押し付けることは違う。

 

 その境界が曖昧になった時、優秀な人間ほど壊れる。

 

 クルーズは指先でデスクを軽く叩き、決断の重さを指に思い出させるように息を吐いた。

 

「……様子を見よう。だが、手遅れにはするな」

 

 社長室の空気が、少しだけ冷たくなった。

 

 廊下の先では、エリンが立ち止まり、窓際に視線を向けていた。

 

 ガラス越しに見える空は、明るい。

 

 けれどエリンの胸の中は、まだ夜のままだった。

 

 自分は、客室乗務員を続けていいのか。

 

 自分は、誰かの前に立っていいのか。

 

 そして――もし立つなら、どんな顔で立てばいいのか。

 

 隣でククルが、そっと言った。

 

「……エリンさん。私は……エリンさんがどっちを選んでも、ついていきます」

 

 エリンは、返事をしなかった。

 

 ただ、ほんの少しだけ口角を上げた。

 

 それは笑顔ではなく――生きるための、呼吸みたいな表情だった。

 

 

ーーーー

 

 二週間という時間は、短いようで、案外いろいろなものを滲ませる。

 

 救助任務の熱が冷め、宇宙管理局の廊下から「緊急」の赤いランプが消えた頃――ハワード財閥旅行会社の現場にも、ようやく普段の呼吸が戻り始めていた。

 

 ただし、ひとつだけ。

 

 エリンの周囲だけが、ほんの少しだけ季節外れの寒さを引きずっているようだった。

 

 彼女はいつも通りの顔で出勤する。いつも通りの声で乗務員に指示を出し、いつも通りの手際で場を整える。笑顔も崩さない。立ち姿も、歩幅も、変わらない。

 

 なのに――見ている者には分かる。

 

 「いつも通り」の中に、薄い膜のようなものが一枚増えている。触れれば破れそうな膜。破れたら中身が溢れてしまうから、エリンはそれを自分で支え続けている。

 

 そして、それをいちばん近くで見ているのは、ククルではなかった。

 

 カイエだった。

 

    ◇

 

 ロカA2の、宇宙管理局近く。昼休憩の空気が薄く漂う小さなスペースで、ペルシアは携帯端末を耳に当てたまま、椅子の背にもたれていた。

 

 口元には甘い飴があるのに、目は笑っていない。指先で端末の縁を小刻みに叩いている。

 

「それで、エリンの様子は?」

 

 声は軽い。けれど、それはいつもの軽口じゃない。「軽く言って重く聞く」――彼女が最前線で身につけた癖だった。

 

 端末の向こうで、カイエが一拍置いて答えた。

 

「仕事場では、変わらないですね」

 

「でしょうね」

 

 ペルシアは飴をころりと舌の上で転がす。

 

「でも……」

 

 カイエの声が、少しだけ曇る。

 

「時折、自分の持ってる技術を全部伝えようとしてる姿が……まるで引き継ぎみたいに見えて」

 

 ペルシアの指が止まった。

 

「ふぅん……だいぶ、やられてるのね」

 

 吐息が、ただの息ではなくなる。誰かが傷ついているときの、ペルシアのため息だ。

 

「それで、チーフパーサーの話が来てるって知ってるのは?」

 

「ククルとエマ。それと……リュウジさんには伝えました」

 

 リュウジ――その名が出た瞬間、ペルシアは鼻から息を抜いた。

 

「……はぁ」

 

「ペルシアさん?」

 

「いいえ。なんでもない」

 

 言いながら、ペルシアは視線を天井に投げた。まるでそこに「なんとかなるか」と書いてあるか確認するみたいに。

 

「じゃあ、この件は“エリン派筆頭”に任せましょう」

 

「……エリン派筆頭?」

 

 カイエが、心底わからない声を出す。

 

「まあいいから。細かい説明は省略よ。あなたは現場の空気だけ見て。エリンが、何を手放そうとしてるか。何を守ろうとしてるか。それだけ」

 

「……分かりました」

 

 カイエが真面目に返事をした。

 

 その真面目さが、ペルシアの苛立ちを少しだけ溶かす。

 

「ありがと。カイエ」

 

 ペルシアが通話を切る寸前、カイエが控えめに付け足した。

 

「……ペルシアさんも、無理しないでください」

 

 ペルシアは一瞬固まって、それから笑った。

 

「なにそれ。心配してくれてるの?」

 

「……はい。少しだけ」

 

「じゃあ安心して。私は“無理するのが仕事”だから」

 

 冗談の形で言って、通話を切る。

 

 切ったあと、ペルシアは飴を噛み砕いた。

 

 甘さが、舌に残る。胸には残らない。

 

    ◇

 

 同じ頃。

 

 ソーラ・デッラ・ルーナの、ルナの家。

 

 ルナは端末を耳に当てたまま、窓の外を見ていた。外は穏やかな光だ。けれど、電話越しの話は穏やかではない。

 

「やっぱりエリンさんって、すごいのね」

 

 ルナが呟くと、端末の向こうからリュウジの短い声が返ってきた。

 

「まあ、妥当だろ」

 

 相変わらず無愛想な言い方。だけど、以前のように突き放す冷たさはない。

 

 救助任務が終わってから、リュウジはルナの電話に出るようになった。短い返事でも、繋がっているという事実が、ルナには救いだった。

 

「でも……エリンさん、悩んでるの?」

 

「みたいだな」

 

「どうして?」

 

「……あの任務以来、辞めるか続けるかで悩んでる」

 

 その言葉に、ルナの胸が小さく跳ねた。

 

「エリンさんが……辞める!?」

 

 声が上ずる。

 

 すると、横から別の声が割り込んできた。

 

「なんやて!? エリンが辞めるんか!?」

 

 チャコだ。ソファの背からぴょこんと顔を出し、耳をそばだてている。

 

「チャコ」

 

 ルナがたしなめるより先に、リュウジが淡々と返した。

 

「チャコ、ジュースは届いたか?」

 

「届いたで。二箱。おおきにな」

 

 ちゃっかり礼は言う。そこだけは律儀だ。

 

「……やのーて! エリンが辞めるってホンマなんか!?」

 

「分からない」

 

「分からんて!」

 

 チャコの声が一段上がる。

 

 ルナは苦笑いしながら、端末に口を寄せた。

 

「リュウジ、今どこにいるの?」

 

「今から宇宙管理局に向かう」

 

「えっ、もう?」

 

「話を聞く。俺が聞ける範囲でな」

 

 リュウジの声は淡々としているのに、そこに含まれる“急ぎ”は隠せない。

 

 ルナはそれを聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

 エリンは、ルナにとっても大切な人だ。けれど、リュウジにとってはもっと別の意味がある。恩人であり、支えであり、時に負けたくない相手であり――そして、誰よりも“人を見てくれる人”。

 

「……分かった。気をつけてね」

 

「当たり前だ」

 

 相変わらず短い。

 

 でも、その短さの中に、今は確かに“戻ってくる”が含まれている。

 

 通話が切れたあと、チャコが腕組みした。

 

「はぁ……エリンが辞めるとか、そんなの許されへんやろ」

 

「うん……」

 

 ルナは返事をしながら、端末の画面を見つめた。

 

 救助任務のあと、少しずつ繋がりが戻ったと思っていた。

 

 でも、繋がりは糸じゃなくて、呼吸なのかもしれない。

 

 吸って、吐いて、また吸って――止まれば、途切れる。

 

    ◇

 

 一方、その頃の宇宙管理局。

 

 局長室の扉は、いつもより軽いノックで開いた。

 

「失礼します」

 

「……おや、ペルシアか」

 

 局長が顔を上げる。ペルシアは入ってくるなり、椅子に腰を下ろす前から言った。

 

「私、辞めた方がいいよね?」

 

「何でだ?」

 

 局長は眉ひとつ動かさない。慣れている。ペルシアの「唐突」は、もうこの部屋の家具みたいなものだ。

 

「だってさ、一応、S級のブルンクリンに暴言吐いたし。ブルンクリン財閥が黙ってないでしょ」

 

「その件なら大丈夫だ」

 

「……え?」

 

 ペルシアが間抜けな声を出した。

 

「ブルンクリン財閥は、ローズが丸く抑えた」

 

「ローズが?」

 

 ペルシアの目が細くなる。信じられない、という顔だ。

 

「ああ。『ペルシアに作った借りを返す』と言っていた」

 

「まったく……余計なことを」

 

 ペルシアは文句を言いながらも、口元がほんの少しだけ緩んだ。

 

 そのタイミングで、扉が再びノックされた。

 

「失礼します」

 

 入ってきたのはナミとフレイ。どちらもきっちりした姿勢だ。

 

「二人とも、どした? どした?」

 

 ペルシアは椅子にもたれたまま、軽い調子で手を振る。

 

「ペルシアさんに要件が」

 

 ナミが真面目に言う。

 

「なに? あ、お昼のお誘い? そうね、ラーメンでも食べに行く? ドロドロの家系がいいな」

 

「い、いえ……それに私は脂っこいのはちょっと」

 

 ナミが一歩引く。

 

「お子ちゃま」

 

 ペルシアがニヤリとする。

 

「なっ!?」

 

 ナミがむっとする。

 

 フレイがこめかみを押さえる。

 

「統括官……」

 

「フレイは相変わらず堅いなぁ。私の方が年下なんだから、もっとフランクでいいのに」

 

「そういう訳にはいきません」

 

「あっそ。で?」

 

 ペルシアがようやく話を戻す。

 

 フレイが一歩前に出た。

 

「リュウジさんがお見えになっています」

 

「リュウジが?」

 

 ペルシアの目が、はっきりと悪い光を帯びた。

 

「はい。今は一階の喫茶店で、ローズが対応してます」

 

「ぶっ……なにそれ、面白そう」

 

 ペルシアは口元を押さえるが、笑いが漏れている。

 

 局長は咳払いをした。

 

「ペルシア」

 

「見てくる」

 

 ペルシアは椅子から立ち上がり、局長室を出ようとする。勢いがつきすぎて、扉にぶつかりそうになり、手をかけたところでピタリと止まった。

 

 そして振り返る。

 

「局長、新しく規則に『統括官補佐』って役職を追加していい?」

 

「統括官補佐?」

 

「そう。ローズにもっと教えたいことあるし。規則の改正は来週回すから、役員には私から言っとく」

 

 言い切って、ペルシアは扉の向こうに消えた。

 

 残された局長室に、静けさが落ちる。

 

 ナミが目を丸くした。

 

「局長……そんな簡単にいくんですか?」

 

「まあ、ペルシアなら問題ないだろ」

 

 局長は、いつものように淡々と言う。

 

 フレイが苦い顔をする。

 

「役員が首を縦に振るとは思えませんが」

 

「いや、振る」

 

 局長は苦笑した。

 

「ペルシアは役員達に好かれてるからな」

 

「え? 好かれてるんですか?」

 

 ナミが本気で驚く。

 

「ああ。ペルシアは素直だし、お酒の場だと盛り上げるし、おじさん達からは好かれる」

 

「それ、ただの宴会要員では……」

 

 フレイがぼそりと呟く。

 

 局長は肩をすくめた。

 

「世の中はな、フレイ。正しさだけで回っていない。『人を動かす力』ってのは、正しさと同じくらい価値がある」

 

 フレイは何も言えなくなる。

 

 ナミだけが、まだ腑に落ちない顔で首を傾げていた。

 

    ◇

 

 その頃。

 

 一階の喫茶店では、ローズが「統括官らしい顔」を作りながら、目の前のリュウジと向き合っていた――

 

 ……というところへ。

 

 廊下を小走りで進む足音が近づく。

 

 ペルシアだ。

 

 口元に、楽しそうな笑み。目は完全に“見物”の光。

 

「ローズとリュウジ。二人きりの喫茶店……」

 

 呟きながら、ペルシアは扉の影に身体を寄せた。

 

 その瞬間、彼女の端末が震えた。

 

 表示されたのは、カイエの名前――ではない。

 

 「エリン」。

 

 ペルシアの笑みが、ほんの少しだけ消える。

 

 代わりに、別の表情が浮かんだ。

 

 怒りでもなく、冷たさでもなく。

 

 “戻りたい”という、どこか切実な顔。

 

「……エリン」

 

 ペルシアは小さく呟き、端末を握り直した。

 

 そして、喫茶店の扉に手をかける。

 

 ローズとリュウジのところへ行くのか。

 

 それとも、エリンの声を先に聞くのか。

 

 ペルシアは息を吸い――

 

 結局、どちらも選ぶように、にやりと笑った。

 

「忙しくなるわね。久しぶりに、ほんとに」

 

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