宇宙管理局の喫茶店は、妙に静かだった。
壁一面のモニターが並ぶオペレーションルームの騒然が嘘みたいに、ここではコーヒーミルの低い唸りと、食器が触れ合う小さな音だけが漂っている。窓の外には発着ゲートが見え、作業服の人影が忙しなく行き交っていた。
窓際の席で、リュウジとローズが向かい合っていた。
テーブルの上にはブラックコーヒーが二つ。どちらも湯気が細く上がっているのに、空気は冷めていた。
リュウジは言葉を選ぶそぶりすら見せない。カップに口を付け、ひと口飲んで、また黙る。視線はローズを見ているようで、見ていない。彼の中では“待つ”という行為が、そのまま“圧”になっていた。
ローズは落ち着かない様子で、カップを持ち上げては戻す。舌打ちを飲み込むように喉を鳴らし、視線を逸らし、もう一度リュウジの顔を見る。
沈黙が伸びた。
伸びきって、さすがに耐えきれなくなったのはローズの方だった。
「……リュウジ」
呼ばれても、リュウジはすぐに返事をしなかった。視線だけをゆっくり向ける。促すでも、拒むでもない。「喋りたいなら勝手に喋れ」という無言の態度だった。
ローズは小さく息を吐いた。いつもなら、こういう場面で自分が主導権を握る。声量も態度も、相手を押し切るためにある。だが――目の前の男には、それが効かない。
ローズは、珍しく言い訳を飲み込んだ。
「今回の件……色々と、すまなかった」
リュウジがカップを置く。音が硬い。ようやく口が開く。
「……何がだ?」
問いは短い。だが刃がある。
ローズは顔をしかめた。胸の奥に、悔しさが瞬く。けれど、それを前に出した瞬間、この場は終わる。ローズは歯を食いしばって、続けた。
「僕は統括官として……ブルンクリンやブライアンを見殺しにするところだった」
言葉にした途端、喉が熱くなる。自分の無能を認める音が、耳に刺さる。
「現場は混乱していた。オペレーターも通信も……それなのに僕は、怒鳴って、責任を分散して……自分だけ安全な位置に立っていた」
ローズは目を逸らして、窓の外を見た。発着ゲートの光が眩しい。
「リュウジがいなければ、取り返しのつかないことになるところだった」
ここまで言って、ローズは拳を握った。声が震えそうになるのを、無理やり押さえる。
「だから……謝る」
リュウジは表情を変えない。もうひと口コーヒーを飲み、ようやく淡々と返した。
「謝る相手が違う」
ローズが眉を寄せる。
「俺じゃない。ペルシアだろ」
言い切って、リュウジは再び黙った。ローズにとっては、それがいちばん堪える。叱責でも反論でもなく、“当然の前提”として告げられること。
ローズは唇を噛み、頷いた。
「……分かってる。ペルシアにも、ちゃんと謝罪する」
「ならいい」
リュウジはそれ以上何も言わない。赦すとも、認めるとも言わない。ただ、待つ。まるで審判のように。
ローズがもう一度カップに手を伸ばした、その時だった。
「やぁやぁ」
軽い声が割り込む。
ローズが反射的に顔を上げた。
入口の方から、見慣れた金髪の女が歩いてくる。歩き方がすでに“勝ち”だった。余裕があって、やたらと楽しそうで、しかも悪意の匂いがする。
「珍しい組み合わせだねえ」
ペルシアが、にやにやしながら言った。
「……っ!」
ローズの顔が引きつる。まるで見られたくないところを見られた人間の表情だ。
リュウジだけが落ち着いていた。ペルシアの到着を最初から予定していたみたいに、目線だけを向ける。
「遅い」
「ごめんごめん」
ペルシアは悪びれもせず、リュウジの隣に腰を下ろした。椅子を引く音が大きく、ローズの神経を逆撫でした。
ペルシアはローズの方に身体を向け、わざとらしく首を傾げる。
「それで? ローズ。私に言うことがあるんじゃないの? 言ってみな」
ローズがぐっと息を飲む。
リュウジがペルシアを見た。
「お前、様子を伺ってたな」
「そんな訳ないじゃない」
ペルシアは即答した。
「別に、面白そうとか思ってないから」
「……そうか」
リュウジは追及しない。追及しないことが、逆に刺さる。
ペルシアはローズの反応を楽しむように目を細めたまま、急に手を挙げた。
「あ、店員さーん」
店員が近づいてくる。宇宙管理局の喫茶店らしく、制服のシワひとつない。
「ご注文をお伺いします」
「カルボナーラと、ペペロンチーノ。特盛で」
店員が一瞬固まった。
「……えっと、二つとも、特盛でよろしいですか?」
「うん。あと水も。氷なしで」
ペルシアは当然のように頷く。
「よく食うな!」
リュウジが口元だけで笑う。
「ローズの奢りだし」
ペルシアが平然と言った。
「いつ、僕が奢るって言った!」
「いいじゃない。ケチくさいこと言わない」
「ケチくさいじゃない! 話の筋が――」
ローズが言いかけたところで、ペルシアがにっこり笑った。笑顔だけど、目は笑っていない。これは“威嚇”の笑みだ。
「あら。誰のおかげでブライアンやブルンクリンを救出できたと思ってるの?」
ローズが言葉を失う。
「誰のせいで、私があんな危険な目に遭ったと思ってるの?」
ペルシアは指を折って数え始めた。
「まず、ローズが現場を荒らした。次に、ローズが判断を遅らせた。あと、ローズが無駄に怒鳴った。さらに、ローズが……」
「分かった! 分かったから! 数えるな!」
ローズが慌てて止める。
「じゃあ奢るのね?」
ペルシアが首を傾げる。
「……奢ってやる!」
ローズが叫ぶように言った。
「よしよし」
ペルシアが満足げに頷く。
リュウジはコーヒーをひと口飲んで、淡々と呟いた。
「お前、交渉が雑なのに強いよな」
「褒め言葉として受け取っとく」
ペルシアは鼻歌でも歌いそうな顔で言い、ローズに向き直った。
「で、ローズ。謝罪は?」
ローズの肩が跳ねた。
さっきまでの“奢る奢らない”は前座だったのか、と顔に書いてある。
ローズは、拳を膝の上で握りしめた。リュウジの沈黙より、ペルシアの笑顔の方が怖い。彼女は笑いながら本質を突く。
ローズは、視線を落としたまま言った。
「……すまなかった」
ペルシアは間髪入れずに返す。
「何が?」
「……僕は統括官として、現場を混乱させた。責任を取る覚悟も……足りなかった」
言うたびに、ローズの喉が痛む。自分が憎んでいた“弱さ”を、自分が曝け出している。
ペルシアはふっと息を吐いた。
「うん。いいね。ちゃんと言えるじゃない」
ローズが顔を上げる。予想外の反応だった。
ペルシアは指を一本立てる。
「でも条件がある」
「条件……?」
「次から、怒鳴る前に“確認”しなさい。人に押し付ける前に“自分が何をするか”を決めなさい。責任を取る気があるなら、まずは逃げない」
ペルシアの声音が少しだけ落ち着く。からかいが消え、現場の統括官の声になる。
「それができないなら、統括官の席に座る資格はない」
ローズの表情が曇る。だが、反論は出てこない。
ペルシアはすぐに、いつもの軽さに戻った。
「あと、カルボナーラは塩気強めでお願いね」
「話が軽すぎるだろ!」
ローズが思わず突っ込む。
「軽くしてないと、胃が持たないのよ。現場も、人生も」
ペルシアは肩をすくめた。
リュウジがローズを見た。ほんの少しだけ、目元が柔らかい。
「ペルシアはこうやって場を回す。真面目に向き合うと壊れる奴もいるからな」
ローズが舌打ちしかけて、止めた。
「……ペルシア」
「なに?」
「……借りは返す。今回の件も……その、ブルンクリン財閥の件も」
ペルシアの眉が上がる。
「へえ。丸く抑えたって?」
ローズが唇を噛む。
「……余計なことだと思うなら、言わなくていい」
「余計なことだよ」
ペルシアは即答した。
そして、にやりと笑う。
「でも、借りは借り。覚えとく」
ローズがため息を吐く。だが、その顔は少しだけ“救われた”顔だった。
そこへ店員が料理を運んできた。特盛の皿が二枚、テーブルに並べられる。量がとんでもない。香りが一気に広がり、喫茶店の空気が現実的になる。
「お待たせいたしました。カルボナーラ特盛、ペペロンチーノ特盛です」
「うわ、やば。最高」
ペルシアが手を合わせる。
「いただきます!」
ローズが思わず呟く。
「……本当に食うんだな」
「食べるに決まってるでしょ。私、働いたんだから」
ペルシアがフォークを巻きながら言う。
リュウジはコーヒーを揺らし、ローズにだけ聞こえるくらいの声で言った。
「これが“統括官”の現実だ。現場を回すのは、格好よさじゃない。体力と神経と、時々こういう馬鹿さだ」
「馬鹿さって言うな!」
ペルシアが即座に突っ込む。
リュウジは肩をすくめた。
「褒めてる」
ペルシアが満足げに頷く。
「よろしい」
ローズは、二人を見比べた。
救助任務の中心にいた二人が、今はこの狭い喫茶店の席で、特盛パスタを挟んで笑っている。さっきまで胃の底にあった不快な焦げつきが、少しだけ薄くなるのをローズ自身が感じていた。
ペルシアはフォークを止めずに言った。
「ローズ。ちゃんと食べな。奢りだからって見てるだけだと、腹減るよ」
「奢りって、僕が払うだけで僕の飯じゃないだろ!」
「そうそう、そのツッコミ。今のは良かった」
ペルシアが嬉しそうに言う。
ローズが睨む。
「……僕を育てようとしてるのか?」
「当たり前でしょ」
ペルシアは笑った。
「私が戻ってきたんだから。腐ったままの宇宙管理局なんて、見てられないもの」
その言葉に、ローズは一瞬だけ黙った。
リュウジはコーヒーを飲み干す。
この喫茶店の窓の外では、今日も誰かが宙へ出て、誰かが帰ってくる。
守るべきものは同じだ。
だから――この場も、いまの一歩も、全部が“任務”に繋がっている。
ペルシアが口の端にソースをつけたまま、にやりと笑う。
「さ、ローズ。今日は奢りで終わりじゃないよ? これからが本番。統括官の仕事、ちゃんと教えてあげるから」
ローズが嫌そうに顔をしかめる。
「……覚悟しろってことか」
「そういうこと」
ペルシアは満足げに頷き、特盛の山に再びフォークを突き立てた。
ーーーー
ペルシアが特盛の山を征服し終えたころ、ローズはすっかり魂を削られた顔で席を立った。
「……伝票、僕が払うんだよな」
最後まで悪あがきのように確認してくるのが、ローズらしい。
「当たり前でしょ。統括官の器って、懐の深さも含まれるのよ」
「含まれない!」
ローズは叫びたいのを飲み込み、こめかみを押さえながら会計へ向かった。背中が小刻みに震えているのは、怒りか疲労か、あるいは両方だろう。
精算を終えると、ローズは戻ってきて深々と息を吐き、ペルシアを見た。
「……次は、僕の胃が死ぬ前に言ってくれ」
「次はないわよ。今日は祝勝会だから」
「祝勝会って、僕が祝われてない!」
「気のせい」
ペルシアが軽く手を振ると、ローズは呻き声のような笑い声を漏らし、今度こそ喫茶店を出ていった。自動ドアが閉まる瞬間まで、どこか悔しそうにペルシアを睨んでいたが、それもすぐに仕事用の顔に切り替わる。
ローズがいなくなった途端、席の空気がふっと緩む。
窓の外で走る整備員、遠くで鳴るアナウンス、スプーンがカップに触れる音。それらが、いまになってようやく耳に入ってくる。
ペルシアは椅子に背中を預け、満足げに腹を撫でた。
「はぁ……生き返った。人間って食べ物でできてるわね」
「さっきまで遊んでたくせに」
リュウジがコーヒーを一口飲み、乾いた声で突っ込む。
「遊びも食欲も、私の燃料よ。……で」
ペルシアは食後のコーヒーを啜り、ソーサーに戻した。カップが小さく音を立てる。さっきまでの馬鹿騒ぎみたいな空気が、そこで一段落する。
ペルシアは視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「……エリン、乗務員辞めるって」
リュウジの指が止まった。
ほんの一瞬だけ、時間が引っかかったように見えた。すぐにリュウジは何事もなかったようにカップを持ち直すが、目だけが鋭くなる。
「今の話か」
「うん。さっき電話があった」
ペルシアは携帯端末をテーブルの端に置き、指で軽く叩く。
「『辞めようと思う』って、いきなり言われた。声、落ち着いてた。ああいう時のエリンは一番危ない」
「泣いてたのか」
「泣いてない。だから危ないって言ってるの」
ペルシアは笑わない。からかいも挟まない。いつもの軽さを剥いだ声だった。
リュウジは少し黙ってから、低く言う。
「……何があった」
「色々よ」
ペルシアは短く言い切り、指を折るように事情を並べていった。
「まず、救助任務のこと。あのホークの中で、エリンは“いつものエリン”じゃなかった。本人もそれを自覚してる」
ペルシアの視線が宙を見た。宇宙船の中で聞いた声が、まだ耳に残っているような顔だ。
「焦ってた。周りの空気に飲まれてた。マリやサツキがエリンを気にして、気を遣って、余計に状況が崩れていった。あれを見て、エリンは自分が“軸”になれてなかったって分かったんだと思う」
「……お前が怒鳴ったからか」
リュウジが淡々と言う。
ペルシアは肩をすくめた。
「怒鳴ったのは事実。でも、怒鳴ったことが原因じゃない。怒鳴られて効くくらい、エリンの中に“折れ目”ができてたってこと」
ペルシアは言葉を選び直すように息を吐いた。
「それに、会社のこと。エリン、チーフパーサーの話が来てるでしょ」
「聞いてる」
「返事をしてない。迷ってる」
ペルシアは指先でソーサーの縁をなぞった。そこに付いた微かな水滴を、爪で弾く。
「エリンは“乗務員からやり直す”って言って入ってきた。現場で汗をかいて、基本から積み直して、自分の責任で立てるようになるために。……なのに現実は、半年も経たずに副パーサー。周りは持ち上げる。仕事は増える。『エリンがいれば大丈夫』って空気ができる」
ペルシアは苦笑したが、どこか苦い。
「エリンは“便利な安心”になりたくてやってきたわけじゃない。あの子は、乗務員の仕事が好きなの。誰かの隣に立って、気づかれないところで支えて、現場を整えるのが好きなのよ。なのに、今は肩書きと期待が先に立って、本人が置き去りになってる」
「……それで辞めるのか」
「辞めたくなる気持ちは分かる」
ペルシアは肯定もしない。否定もしない。ただ事実として言った。
「エリンはね、“自分がいるせいで周りが崩れた”って思ってる。自分が副パーサーになって、周りが期待して、気を遣って、結果として命に関わる局面で集中が欠けた。あの子はそれを“自分の責任”として抱え込んでる」
リュウジの眉が僅かに動く。
「それは……違う」
「違うよ。でも、エリンの頭の中では違わないの」
ペルシアは視線を上げ、リュウジを見た。
「しかも今度はチーフパーサー。会社は“上がれ”と言う。周りは“当然だ”と言う。でもエリンは、上がるほど自分が現場から離れていく気がして怖いんだと思う。責任が増えて、判断が増えて、もしまた失敗したら、今度こそ人を殺すかもしれないって」
言葉が重い。喫茶店の空気が少し冷たくなる。
リュウジは黙ってコーヒーを飲んだ。カップの縁が、唇に触れている時間が長い。考えている時の癖だ。
「……で、お前は」
リュウジがカップを置く。
「お前は何て言った」
ペルシアは小さく首を振った。
「何も言ってない。辞めるな、とも。続けろ、とも」
「らしくないな」
「らしいわよ」
ペルシアは即答した。
「エリンの人生はエリンのもの。誰かが決めていい話じゃない。私が『続けろ』って言ったところで、あの子の心が戻るわけじゃない。『辞めろ』って言ったところで、あの子が救われるとも限らない」
ペルシアは指を組む。珍しく、迷いを隠さない手つきだった。
「ただね。エリンが“決める前に”話せる相手は必要だと思う。自分の気持ちを整理して、何が怖いのか、何が嫌なのか、何を守りたいのか。それを吐き出せる相手」
ペルシアは、リュウジをまっすぐ見た。
「だから、リュウジ。任せる」
リュウジが目を細める。
「俺に?」
「そう。エリン派筆頭」
ペルシアが言い切ると、リュウジの眉が僅かに上がった。
「……まだ言ってるのか、それ」
「事実でしょ。エリンの言うことは聞くじゃない」
「聞いたり聞かなかったりだ」
「でもエリンが“本気で”言ったことは、結局ちゃんと聞く」
ペルシアは、そこだけは揺るがないという顔をした。
「エリンはあなたのこと、変な言い方だけど――“信用してる”。絶対に甘やかさないし、綺麗事も言わないし、でも必要な時にちゃんと手を差し伸べる。あなたはそういう人間だから」
リュウジは目線を逸らし、短く息を吐いた。
「買い被りだ」
「買い被ってない。私はそういうの当てるの上手いの」
ペルシアはさらっと言った後、声を少し落とした。
「ただし、ひとつ条件」
「条件?」
「“救おう”としないこと」
ペルシアの言葉が、まっすぐ刺さる。
「エリンを救えるのはエリンだけ。あなたができるのは、横に立って、話を聞いて、選択を尊重すること。『辞めるな』って押したら、あの子は黙る。あの子が一番嫌うのは、“期待で縛られること”だから」
リュウジは静かに頷いた。
「分かった」
短い返事。だが、その重さは本物だった。
ペルシアは少しだけ安心したように息を吐く。
「あと、もうひとつ」
「まだあるのか」
「ある。エリンは今、“自分の技術を全部渡そうとしてる”」
ペルシアが言うと、リュウジの目が鋭くなる。
「引き継ぎ、みたいに見えるってカイエが言ってた」
「カイエから聞いたのか」
「さっきね。仕事場では変わらないけど、時折――全部伝えておきたい、みたいな目をしてるって」
ペルシアは笑わない。
「そういう人が、何も言わずに辞めたらどうなると思う? 周りは混乱する。あの子は“迷惑をかけないように”って、静かに消える可能性がある」
リュウジの指がテーブルの縁を叩いた。ごく小さく、苛立ちの音。
「……エリンさんは、また一人で」
「そう。だから任せるって言った」
ペルシアはゆっくりと背もたれに寄りかかり、少しだけ笑った。
「私が言っても、エリンは意地を張る。『平気よ』って言う。『大丈夫』って笑う。……でも、あなたが言ったら、黙るかもしれない。黙って、考えて、やっと本音を出すかもしれない」
ペルシアはコーヒーを飲み干した。
「ねえ、リュウジ」
「何だ」
「あなた、あの子のこと好きでしょ」
ペルシアの軽口が戻った。だが、茶化しているだけじゃない。
リュウジは顔色を変えずに答える。
「尊敬してる」
「はいはい、そういうことにしとく」
ペルシアは笑って、指でテーブルを軽く叩く。
「でもね。尊敬って、便利よ。好きって言わなくて済む」
「……くだらない」
「くだらなくない」
ペルシアは珍しく即座に返した。
「言葉にしないと、伝わらないこともある。あなたが身をもって知ってるでしょ」
リュウジが黙る。
その沈黙に、ペルシアはそれ以上追い打ちをしなかった。彼女は、必要なところで止めるのが上手い。
「とにかく」
ペルシアは立ち上がり、ストレッチするみたいに肩を回した。
「私は口を出さない。エリンが辞めても続けても、私が決めることじゃない。……でも、エリンが“何も言わずに消える”のは許さない。あれは、周りのためにも、本人のためにも、最悪」
リュウジも席を立つ。
「分かった。会いに行く」
「今日?」
「今日」
即答だった。
ペルシアは満足げに頷く。
「よし。じゃあ私は宇宙管理局に戻る。ローズをもう少し鍛えなきゃ」
「楽しそうだな」
「楽しいわけないでしょ。でも、放っておいたらまた腐る」
ペルシアは小さく笑って、先に歩き出しかけた。
そして、ふと思い出したように振り返る。
「リュウジ」
「何だ」
「エリンに会う時、変な格好つけないでね。あなたのそういうところ、あの子は見抜くから」
リュウジは鼻で笑った。
「俺が格好つけるか」
「つけるのよ。無自覚に」
ペルシアは指を一本立てる。
「それと、あなたが言うべき言葉は一つ。『お前はどうしたい』。それだけ」
リュウジは短く頷いた。
「……了解」
ペルシアは背中を向け、ドアへ向かう。
その背中は軽いのに、頼もしかった。さっきまで特盛を食べていた人間とは思えない。
ドアの前で、ペルシアが最後に振り返る。
「エリンを頼む。エリン派筆頭」
「その呼び方、やめろ」
「やだ」
ペルシアは笑って、今度こそ去っていった。
喫茶店に残ったリュウジは、コーヒーの残りを一口で飲み干し、カップをソーサーに置いた。
音が、やけに静かに響いた。
――守りたいものを守る。
それは宙の話だけじゃない。
いま自分が向かうのは、宇宙の外れじゃない。ロカA2の、いつもの会社の、いつもの廊下。その先にいる、いつもの強い女だ。
だけどその“いつもの強さ”が、今は揺らいでいる。
リュウジは席を立った。
迷わず、歩き出した。
ーーーー
夜八時を回ったころ、ハワード財閥旅行会社のフロアはすっかり静まり返っていた。
日中はあれほど人が行き交い、コールと足音と笑い声で満ちていた場所なのに、今は空調の低い唸りと、遠くの自販機が冷える音だけが残っている。天井の照明は半分落とされ、窓ガラスにはロカA2の夜景が薄く反射していた。
デスクにいるのはエリンだけだった。
朝は誰よりも早く来て、夜は誰よりも遅く帰る。業務量が多いのは確かだが、今日はそれ以上に、頭の中が散らかっていた。
チーフパーサーの話。
副パーサーとしての現場。
乗務員を辞める、という言葉。
自分で考えたはずの結論が、紙みたいに軽く揺れて、ちょっとした風でひっくり返りそうだった。
「……だめね」
エリンは小さく呟いて首を振る。ペンを持ち直し、画面の数字と文章を目で追った。チェック欄を一つずつ潰していく。指先が勝手に動く。身体は覚えている。こんな時でも仕事だけは裏切らない。
終業のベルはとっくに鳴っていた。
それでも、最後の返信を打ち終え、スケジュールを明日に回し、机の上を揃えたのは二十一時前だった。椅子から立ち上がると、背中に薄い疲労が張り付いているのが分かる。肩を回すと、関節が小さく鳴った。
エリンは端末をバッグにしまい、上着を羽織った。
出口へ向かう廊下で、壁に貼られたポスターが目に入る。笑顔で敬礼する乗務員の写真。会社のスローガン。どれも綺麗で、正しくて、少しだけ遠い。
エリンはカードキーをかざし、最後のセキュリティゲートを抜けた。
外気が頬に触れた瞬間、少しだけ呼吸が楽になる。ロカA2の夜は冷える。ライトに照らされた舗道が、薄く濡れているみたいに見えた。
「相変わらず……エリンさんが最後ですか?」
背後から声がした。
いつもの警備員の声だと思って、エリンは条件反射で微笑みを作りかけた。けれど、その声の低さと、言葉の区切りの癖が、記憶の引き出しを乱暴に開けた。
エリンは振り向く。
「……リュウジ?」
そこにいたのは、暗がりに溶け込むような黒髪の青年だった。街灯の光が輪郭だけを切り取っていて、表情の陰影がいつもより濃い。だけど、その立ち方と目線で一瞬で分かる。
「遅くまで、お疲れさまです、エリンさん」
彼は丁寧に頭を下げた。敬語がいつもより少し柔らかい。
エリンは思わず目を見開いたまま固まる。
「どうしてここに? ……今、冥王星じゃ」
「用事があったので」
リュウジはさらっと言った。まるで「買い物帰りです」とでも言うみたいに。
「それに……今日は、エリンさんに会いに来ました」
エリンの胸が、ほんの少しだけ跳ねた。嫌な意味じゃなくて、意外な方向からボールが飛んできた時の驚きに近い。
「会いに、って。連絡すればいいじゃない」
「連絡したら、断るでしょう」
即答だった。
エリンは口を開きかけ、閉じる。否定できない自分が悔しい。
「……どうして、そんな確信があるの」
「エリンさんの癖です。忙しい時は『大丈夫』って言って、余計に一人で抱えます」
エリンは一瞬、口元を引き結んだ。図星を刺された時の、あの感じ。
「……何よ、それ。私、そんな風に見えてるの?」
「見えてます」
リュウジが真顔で言うので、エリンは堪えきれず小さく笑ってしまった。
「ひどい。もう少し言い方ってものがあるでしょう」
「すみません。言い方は下手です」
彼は謝りながら、ぜんぜん悪びれていない。
エリンは息を吐いて、視線を逸らした。
「……で? 何か用があるんでしょう」
「はい。夕飯、行きませんか」
「……今から?」
「今からです」
エリンは時計を見る。二十一時。普通なら「遅い」と言って断る時間だ。
だけど今日は、家に帰っても多分眠れない。ソファに座っても、端末を開いても、頭の中の会議が続くだけだ。なら、いっそ。
「……いいわ。でも、そんなに遅くならないところね」
「承知しました。予約してあります」
当然のように言うリュウジに、エリンは眉を上げた。
「予約……? いつの間に」
「さっきです。エリンさんが『最後』になるのは分かってたので」
「ストーカーみたいな言い方しないで」
「ストーカーって。経験です」
経験って何の経験よ、と突っ込みたくなるのに、本人が真面目なので笑ってしまう。
エリンは小さく肩を竦めた。
「……分かった。案内して」
「はい」
リュウジは歩き出した。エリンはその半歩後ろをついていく。夜風が二人の間を抜けて、少しだけ空気を冷やす。歩くたびに、さっきまで頭の中で飛び交っていた声が、遠ざかっていく気がした。
⸻
二人はビルの前を離れ、通りへ出た。
ロカA2の夜は賑やかすぎない。街の明かりは控えめで、音も落ち着いている。喧騒がない分、心の声がよく聞こえる場所だ。
リュウジが予約した店は、会社から少し離れた小さなレストランだった。
ガラス窓の奥に温かい光が揺れ、入り口のベルが控えめに鳴る。エリンが店内に足を踏み入れた瞬間、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「ここ、いい雰囲気ね」
「静かな方が、話しやすいと思いまして」
「……気が利くようになったじゃない」
「元からです」
「嘘。昔のあなたは“必要最低限”だった」
「今も必要最低限です」
リュウジの返しが淡々としているのに、どこか柔らかい。
エリンは小さく笑ってしまった。笑うと、肩の凝りがほんの少しほどける。
席に案内され、注文を済ませる。
エリンは、いつもなら“店員の動線”“テーブルの間隔”“非常灯の位置”を無意識に確認してしまう。
今日はそれが、少しだけ遅れて来た。
――疲れているんだ。
それを認めるのが悔しくて、エリンは水を一口飲んだ。
料理が運ばれてくるまでの間、沈黙が落ちた。
ただ、居心地が悪い沈黙ではない。互いの呼吸が邪魔にならない距離の沈黙。
エリンは水滴を指でなぞりながら、ぽつりと聞いた。
「ねぇ、リュウジ。今日は……どういう風の吹き回し?」
「風の吹き回し、ですか」
「だってあなた、急に『夕飯』とか言うタイプじゃないでしょう」
「……そうですね」
リュウジは少し視線を落とし、正直に言った。
「ドルトムントの時とは逆でしたね」
エリンは顔を上げる。
リュウジは、真っ直ぐエリンを見た。
「当時はエリンさんが、俺を外に引っ張り出してくれました。俺が……気を張りすぎて危なかったから」
エリンの胸が、きゅっと縮む。懐かしいというより、思い出すと今でも痛い記憶。あの頃のリュウジは、強いのに脆くて、強いからこそ脆いのが見えづらかった。
エリンは微笑んだ。笑顔の作り方じゃなく、本当に。
「そう。危なかったのよ。あなた、あの時の目……誰にも頼らないって決めた人の目をしてた」
「……今は違います」
エリンは少しだけ目を細めた。
「成長したのね」
「エリンさんに言われると、複雑です」
「何でよ」
「褒められるの、慣れてません」
「嘘。あなた、褒められると顔には出さないけど、絶対ちょっとだけ嬉しそうにする」
「……それは、癖です」
「ほら、分かりやすい」
エリンが笑うと、リュウジは小さくため息をついて、でも同じように笑った。
料理が運ばれてきた。エリンの前には温かいスープと軽いサラダ、メインは魚のソテー。
しばらくは食事をしながら、取り留めのない話をした。ロカA2の天気、会社の新人の話、ククルの成長、チャコの相変わらずの口の悪さ、ペルシアの相変わらずのペース。
「ククルね。あの子、今はちゃんと“預ける”ができるのよ」
「知ってます。それに相変わらず元気でしたね」
「ええ。あの子の“元気”はね、現場の空気を変える。大事な才能よ」
エリンの声が、少し誇らしげになる。
リュウジは頷いた。
「俺もそう思います。……エリンさんが育てた」
「育ててない。勝手に育ったの」
「そういうところです」
「どういうところよ」
「人の成果を、自分のものにしない」
エリンは少し黙ってから、苦笑した。
「……それが普通でしょう」
「普通じゃないです」
リュウジは真面目に言った。
エリンはその言葉を、スープと一緒に飲み込むように息を吐いた。胸の奥が、少しだけ温かくなる。
そして、しばらく沈黙が落ちた。
料理の皿が空き始めるころ、エリンは自分でも驚くほど自然に口が動いた。
「……リュウジ。さっき、逆だって言ったでしょ」
「はい」
「……今度は、私が危ないって?」
リュウジはすぐに否定しなかった。少し考えてから、言う。
「危ないというより……無理をしてる」
エリンは笑って誤魔化そうとした。
「無理なんて。仕事だから」
「仕事だから無理をしていい理由にはならないです」
きっぱりと言われて、エリンは言葉に詰まる。今の言い方は、どこか自分に似ていた。昔、自分が彼に言った言葉に似ている。
エリンは視線を落とした。
「……私ね、最近、分からなくなるの」
「何がですか」
「自分が、乗務員に向いてるのか」
口に出した途端、胸の奥にしまっていたものが、少しだけ溢れた。言葉にしたら止まらなくなりそうで、エリンは急いで続ける。
「向いてるとか向いてないとか、そんなの今さらよね。分かってる。分かってるんだけど……今回の任務で、私、空気を整えられなかった。焦って、当たり前のことしか言えなくて。落ち着いて、って……」
エリンは苦笑した。
「落ち着いて、なんて。落ち着いてない人に言っても、意味ないのにね」
リュウジは黙って聞いている。途中で遮らない。肯定もしない。否定もしない。ただ、目が逸れない。
それが、エリンには不思議と楽だった。
「私は重圧に負けたの。今回だけじゃない。……ずっとそうだった」
指先が冷たくなっている。
自分の手が、自分のものじゃないみたいだった。
「ドルトムントの時もそう。ペルシアが辞めて、カイエが辞めて、ククルが辞めて、エマも辞めて……」
名前を口にするたび、胸の奥が痛む。
それは“失った”痛みと、同じだけ“置き去りにした”痛みだった。
「代わりに来た乗務員は、やる気もなくて……空気も冷たくて。私は、諦めた」
諦めた、と言い切ってしまって、エリンは目を伏せた。
その言葉は、自分の中で一番触れたくなかった部分を正確に刺した。
「……諦めたっていうより、逃げたんだと思う。重圧から。期待から。責任から」
喉がきしむ。
言葉にするほど、胸の奥に積もっていたものが剥がれて、むき出しになっていく。
「私はね、きっと……皆が想像してるより、ずっと弱い」
リュウジの瞳が揺れた。
視線を外さずに、エリンを見ている。
そこに“失望”はない。それが余計に、エリンを苦しめた。
「ラスぺランツァでも、みんな褒めてくれた。リュウジも、チャコも、サツキも、マリも、クリスタルも」
エリンは笑おうとした。笑えなかった。
「でも……本当は違う。あれは本当の私じゃない」
言った瞬間、心の奥で“嘘だ”と叫ぶ自分もいた。
けれど、“嘘じゃない”と答える自分もいる。
相反する声が喧嘩して、頭が痛くなる。
「一からやり直して、鍛え直したいって言ったの。……あれ、本心も少しはあった」
エリンは視線を上げ、リュウジを見た。
その目は、今まで見せたことのない濁り方をしていた。
「でもね、もっと深いところの本心は……きっと、“責任の中心”から降りたかった。そこから逃げたかった」
エリンは、ようやく言葉になったものを吐き出すように続ける。
「副パーサーになって、半月。チーフパーサーになってほしいって話が来て。……それが怖かった」
エリンは笑ってしまった。乾いた笑いだった。
「笑っちゃうよね。私はずっと人を支える側のつもりだったのに、支えられないと立てなくなるなんて」
唇が震える。
涙がこぼれそうで、エリンは目を閉じた。
「私、客室乗務員が向いてないのかもしれない。……もう、辞めた方がいい。そう思う」
その言葉を言い切った瞬間、胸の中が少しだけ静かになった。
“決めた”という静けさ。
そして同時に――“終わらせてしまう”という冷たさ。
エリンは、あえて顔を上げなかった。
リュウジの反応を見れば、心が崩れると思ったからだ。
けれど。
リュウジが、静かに呼んだ。
「エリンさん」
声が、いつもより低い。
それは叱る音ではない。
火を起こす前の、静かな体温の音だった。
エリンは、ゆっくり顔を上げる。
リュウジは真っ直ぐに見ていた。
驚きと、戸惑いと、痛み――そして、強い意志が混ざった視線。
「……こんなに弱そうなエリンさん、初めて見た」
エリンの胸が、ぎゅっと鳴った。
“弱そう”という言葉が痛い。
でも、侮蔑じゃないのが分かる。
リュウジは“弱さ”を馬鹿にする人間じゃない。
「でも」
リュウジは、続けた。
「怖さは、弱さの証明じゃない」
エリンの目が揺れる。
「怖いって思えるのは、今の自分が、ちゃんと“失いたくない”って知ってるってことです」
ゆっくり、言葉が胸に染みていく。
「俺だって怖いです」
エリンは、息を止めた。
リュウジが“怖い”と言う。
その事実だけで、世界が少し歪む。
いつだって冷静で、いつだって無表情で、いつだって強いと思っていた男が――。
リュウジは視線を外さずに言った。
「操縦桿を握るのは、怖い」
その言葉は、飾りじゃない。
宇宙の闇に一度でも触れた者だけが出せる、重さを持っていた。
「事故の可能性。判断の遅れ。機械の不具合。粉塵帯。……仲間の命」
リュウジは一つ息を吐く。
「全部、頭の中で“最悪”が走る」
エリンは思わず、唇を噛んだ。
その景色が想像できる。
怖いのは当然だ。
でも彼は、その怖さを“怖くない”顔で隠してきた。
「それでも俺は、逃げない」
リュウジの声が静かに強くなる。
「一人で背負えるだけ背負って、恐怖心から逃げずに受け止めてる」
エリンの胸が、熱くなる。
それは彼が言う“宇宙飛行士”の覚悟そのものだった。
「それが宇宙飛行士だと思ってます」
エリンは、息を吐いた。
吐いたはずなのに、息が足りない。
「……エリンさんも、同じじゃないですか」
エリンは首を振りかけた。
でもリュウジの言葉が早い。
「一度、逃げたって言いましたね。諦めたって言いましたね。……それでも、戻ってきた」
エリンの肩が震える。
「また乗務員として立とうとして、また誰かの前に立とうとして、今も仕事をしてる」
リュウジはゆっくりと続けた。
「それは、逃げた人間の姿じゃない」
「……でも私は、今また辞めるって言ってる」
「だから言います」
リュウジは、少しだけ身を乗り出した。
声を大きくするわけじゃない。
距離を、詰める。
「辞めたいなら辞めてもいい」
エリンの胸が一度冷えた。
「でも、その理由が“弱いから”なら――それは違う」
リュウジの目が、まっすぐに刺さる。
「弱いんじゃない。……支えが必要なだけです」
エリンの心臓が大きく鳴った。
「エリンさんが支えを欲しいなら、パイロットに寄りかかればいい」
エリンの瞳に、涙が溜まる。
寄りかかる。
そんな発想を、彼が口にするとは思わなかった。
「乗務員は道具じゃない。仲間です」
リュウジは一言ずつ確かめるように言う。
「仲間なら、寄りかかってもいい。頼ってもいい。俺はそう思います」
エリンの涙が、ぽろりと落ちた。
落ちた涙が、自分でも止められなくなる。
「……私、頼っていいの?」
「いいです」
リュウジの返事は短い。
短いからこそ、揺れない。
「望むなら助けます。望むなら支えます」
その言葉が、エリンの中の“誰にも見せたくなかった弱さ”を、静かに肯定した。
「ですが」
リュウジはそこで、少しだけ視線を落とした。
何かを噛みしめているようだった。
「俺が言いたいのは、俺が助けたいって話じゃありません」
エリンは涙のまま、息を呑む。
リュウジは顔を上げた。
「この宇宙の安全を守るには、エリンさんみたいな乗務員が絶対に必要です」
エリンの胸に、熱いものが広がる。
必要。
その言葉が、今のエリンにとってどれほど救いになるか。
「必要としてるのは、俺だけじゃない」
リュウジの声が、少しだけ柔らかくなる。
「ククルも、カイエも、エマも」
エリンの目が見開く。
その名前を、リュウジが迷いなく出したことに驚いた。
「今でも、エリンさんの背中を見て育ってます」
エリンの胸の奥で、何かが崩れた。
崩れたのは、“自分なんかが”という壁だった。
「……でも、私、あの子たちを置いて……」
「置いてない」
リュウジが即答する。
「置いてないから、今こうして――エリンさんは悩んでるんでしょう」
エリンは嗚咽を飲み込んだ。
言葉が出ない。
リュウジは、少しだけ間を取って続けた。
「また歩き始めればいい」
その言葉は、命令じゃない。
願いでもない。
“許可”だった。
「エリンさんが望む乗務員の姿を、目指せばいい」
エリンの視界が滲む。
涙が溢れて、頬を伝って落ちていく。
「……私、怖いよ」
ようやく絞り出した声は、子どものように震えていた。
リュウジは頷いた。
「怖くていい」
「……また失敗したら?」
「失敗しますよ。誰だって」
リュウジは淡々と言う。
淡々としているのに、優しい。
「でも、失敗しても終わりじゃない。終わりにしない限り」
エリンは胸を押さえた。
息が苦しいのに、どこか軽い。
「……リュウジ」
「はい」
「あなた、そんな風に言う人だった?」
リュウジは一瞬、困ったように目を逸らし、そして小さく言った。
「……俺だって悲劇のフライトのように失敗して、支えられてきましたから」
エリンはその言葉が胸に刺さった。
支えられてきた。
誰に、とは言わない。
でも、分かる。
ペルシアもサヴァイヴの仲間も――全部、彼を支えてきた。
リュウジは続ける。
「だから、エリンさんが支えを欲しいなら、支えられていい」
エリンは泣きながら笑った。
こんな言葉を、彼から聞く日が来るなんて思わなかった。
「……私、辞めるって言ったのに」
「撤回できます」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないです」
リュウジは真っ直ぐに言った。
「でも――辞めるのは、いつでもできる。
戻るのは、今しかできないかもしれない」
エリンの胸が、どくんと鳴った。
そうだ。
辞めるのは簡単だ。
逃げるのは簡単だ。
でも――“戻る”には勇気がいる。
“もう一度やる”には覚悟がいる。
エリンは涙を指で拭いた。
拭っても拭っても出てくる。
でも、その涙は、さっきまでの“折れた涙”じゃなかった。
「……私、もう一回やってみようかな」
声が小さい。
でも、確かに言えた。
言えたことが奇跡みたいだった。
リュウジの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「それでいいと思います」
「……私、チーフパーサーの話も」
「逃げるために受ける必要はないです」
リュウジは、先回りして言った。
「でも、逃げないために受けるのは、ありだと思います」
エリンは息を吸う。
胸の奥に熱が灯る。
「……あなた、ずるい」
「何がですか」
「必要だって言う。背中を見てるって言う。……そんなの、歩くしかなくなるじゃない」
リュウジは少しだけ眉を上げた。
そして、静かに言った。
「エリンさんには、歩いてほしいから」
エリンの涙が、また溢れた。
でも今度は、胸が温かい。
「ありがとう、リュウジ」
「俺は、言っただけです」
「言うのが一番難しいのよ」
エリンは笑う。
リュウジも、微かに息を吐く。
それが笑いに近いことを、エリンは見逃さなかった。
エリンは料理に手を伸ばした。
温かい皿の湯気が、さっきより優しく見える。
「食べましょう」
「はい」
二人は同じタイミングで口に運ぶ。
味がする。温度がある。
エリンは思った。
――まだ大丈夫。
――私はまだ、ここにいていい。
そして心の中で、静かに決めた。
もう一度、歩き始める。
今度は、怖さを“弱さ”だと決めつけない。
怖いまま、抱えて。
誰かに寄りかかりながらでも。
それでも前へ。
リュウジが“必要だ”と言ったその言葉が、エリンの背中に、確かな手を添えていた。
ーーーー
家に着いたエリンは、玄関で靴を脱いだまま、しばらく立ち尽くしていた。
廊下の照明は自動で淡く灯り、部屋の奥は静かで、冷蔵庫の低い稼働音だけが生活の気配を残している。
「……ただいま」
誰に言うでもない言葉が、少しだけ自分に返ってくる。
制服の上着をハンガーに掛け、髪をまとめていたゴムを外すと、頭皮がふっと解放される。指先で髪を梳くと、今日はやけに軽く感じた。疲れていないわけじゃない。むしろ疲れているはずなのに、身体の奥が静かに温い。
リュウジと話してから、心のどこかが“凍ったまま”じゃなくなった。
どんな言葉を、どんな順番で言われたのか。記憶を辿ろうとすると、そこだけ白く霞む。けれど、確かに残っているものがある。
“必要だ”と言われた重み。
否定されなかった安心。
そして、許されたような気持ち。
エリンは小さく息を吐いて、キッチンへ向かった。
コップに水を注ぐ。水は冷たく、喉を通ると身体の内側に線を引くみたいに澄んだ。
それでも、胸のあたりは静かに熱い。
時計は、もう深い時間を指していた。
シャワーを浴びる気力もない。顔だけ洗い、髪をざっと整え、薄手の部屋着に着替える。
ベッドに腰を下ろすと、マットレスがやさしく沈み、今日一日の重さがやっと形になって身体から抜けていく気がした。
スマート端末を置く手が止まる。
画面には未読のメッセージがいくつか光っている。
返信しなきゃ、と思う。でも、今はいい。今は――眠りたい。
明日という言葉を思い浮かべるのが、怖くない。
それが、何より不思議だった。
エリンは灯りを落として、布団に潜り込んだ。
目を閉じた瞬間、すぐには眠れなかった。胸が静かに波打って、脈が耳の奥に聞こえる。
でも、その波は荒くない。
海の底の、ゆっくりした潮の動きみたいだった。
「……」
何か言いかけて、やめた。
言葉は要らない。
そのまま、エリンの意識は、ふっと、柔らかい闇へと沈んでいった。
⸻
夢を見た。
久しぶりに見る夢は、やけに鮮明で、匂いも温度も音も、現実みたいにそこにあった。
宇宙船内
白い壁に、コロニー航路のスケジュール、注意事項、乗客のリスト。
卓上には紙コップと、簡易な栄養バー。
そして、どこかから漂うコーヒーの香り。
懐かしい。
懐かしすぎて、胸がきゅっとなる。
「おはようございます、チーフパーサー」
誰かの声で顔を上げると、ククルがいた。
いつもより少し髪をきっちりまとめて、でも目だけは相変わらず元気で、キラキラしている。
その後ろで、カイエが腕を組んで、何かを言いたそうに口を尖らせている。
そして、その横でエマが、こっそりギャレーの方向を指差しながら、誰にも聞こえないように笑っていた。
――そうだ。
こういう顔だ。
こういう“朝の顔”を、私は知っていた。
「今日も……よろしくね」
エリンがそう言うと、自分の声が驚くほど自然に出た。
作った丁寧さじゃない。
日常の、呼吸みたいな言葉だった。
「もちろんです!」
ククルが返事をしながら、もう走り出している。
走る。
そう、ククルは走る。
「ククル、走らない!」
背後から鋭い声が飛ぶ。
振り向くまでもない。
ペルシアだ。
彼女は資料を片手に、呆れたように眉を上げ、でも口元は笑っている。
怒っているのに、楽しそうな怒り方。
あの人はいつもそうだった。
「ええ!?でも時間が!」
「時間は走って縮まらないの!止まっても縮まらないけど!」
「止まったらダメですよね!?」
「そうよ!だから歩きなさい!」
「はい!」
ククルは返事だけはいい。
返事だけは、完璧にいい。
そのやり取りの横で、カイエが肩を揺らしている。
「ペルシアさん、今日も朝から元気ですね。もっと優しく言えばいいのに」
「優しく言ったら伝わらないでしょ。ねえ、ククル?」
「はい!伝わりません!」
「ほら!」
ペルシアが勝ち誇った顔をして、カイエが「やれやれ」と肩を竦める。
エマはその隙にギャレーへ消え、数秒後に戻ってきた。
何かを口元に隠している。
頬がもぐもぐ動いている。
手には、皿の影に隠された小さなケーキ。
「エマ……」
エリンが呼ぶと、エマは一瞬、固まった。
目が泳いで、次に“何もしてません”という笑顔になる。
「チーフ、違うんです!?これは……確認」
「確認?」
「味の確認。ほら、乗客に出す前に」
「どこが味見よ、その量」
ペルシアがすかさず突っ込む。
「違うんです!これは必要な……」
「必要なら、私にも必要よ。ちょうだい」
「嫌です!」
エマが即答した瞬間、宇宙船に笑いが起きた。
カイエが腹を抱えるみたいに笑い、ククルが「それは違う!」と謎の正義感を発揮し、ペルシアが「ほら、エリン、チーフとして怒りなさい」と肘でエリンをつつく。
怒る?
エリンは一瞬、迷って――そして、笑った。
夢の中の自分は、笑うことを“選ぶ”必要がなかった。
笑いが、勝手に出てしまう。
それが心地よくて、胸が温かくなる。
心の奥が、ふっとほどけていく。
場面は宇宙船の運航中へ移った。
客室は明るく、フロアはいつもより広く見える。
窓の外の宇宙は濃い藍で、星が静かに瞬いている。
カイエは乗客の子どもたちの輪の真ん中にいて、カードゲームを配っていた。
「ルールは簡単。勝った人が偉い。負けた人は……偉くない」
「そんなのヤダー!」
「じゃあ勝てばいいのよ」
大人げない。
でも、その大人げなさが、子どもたちを笑わせている。
ククルは――また走っている。
今度は客室内だ。
トレーを持って、角を曲がる。
「ククル!」
遠くからペルシアの声。
「走らない!」
「走ってません!」
「じゃあ飛んでるのよ!」
「ええ!?私、飛べます!?」
「飛べない!」
エリンが笑う。
笑った拍子に、胸が少し痛い。
痛いのに、苦しくない。
懐かしさが刺さるのに、刺さった場所があたたかい。
ギャレーでは、エマがまだ何かをつまみ喰いしている。
バレていないと思っている顔だ。
でも、あれは絶対にバレている。
「エマ、指にクリームついてる」
エリンが言うと、エマは手を背中に隠す。
遅い。
ペルシアがその手を掴んで、指先を見せた。
「……ほら。犯罪者」
「犯罪者じゃないです!」
「ケーキ泥棒」
「泥棒じゃないです!」
「じゃあ何?」
「……味見係です」
「そんな係、聞いたことないよ」
その声が、どこかから聞こえた。
操縦室だ。
エリンは、コーヒーを持って操縦室に向かっていた。
そうだ。
私はいつも、最後に操縦室へ行く。
扉が開く。
そこには、のらりくらりとした口調のタツヤがいて、計器を見ながら「いやぁ、今日も平和だね」と言っている。
「タツヤ班長、平和って言うとフラグになるからやめてください」
「また〜そんなことないでしょうに」
その隣、操縦席にリュウジがいた。
背筋はまっすぐ。
指先は落ち着いている。
視線は前方のモニターと、窓の向こうを交互に見ている。
「もう着陸します」
リュウジが言った。
エリンは、驚くほど自然に笑っていた。
驚くほど、軽い声で言っていた。
「了解」
その言葉は、仕事の言葉なのに――
“帰る”という意味も含んでいる気がした。
着陸。
乗客が降りる。
「ありがとう!」
「楽しかった!」
「また乗りたい!」
笑顔が弾ける。
エリンはその笑顔を受け止める。
受け止めているのに、無理をしていない。
ブリーフィングルームに戻ると、ペルシアが軽口で全員を揶揄い、笑いが起きる。
ククルが「それは違います!」と反論し、カイエが「はいはい」と流し、エマがまた何かを隠し、誰かが「エマ、また食べたでしょ」と言って、全員が笑う。
笑いが、笑いとして成立している。
そこに誰も傷つかない。
誰も置いていかれない。
そして――
最後まで宇宙船に残るリュウジを、エリンが呼びに行く。
いつもの、あの流れ。
「リュウジ、終わったよ」
「分かってます」
「分かってるなら来て」
「……今行きます」
その“今行きます”が遅い。
わざと。
たぶん、わざと。それはまだやる事があるからだ。
エリンは呆れて、でも笑っていた。
その瞬間、夢の中で、エリンの胸の奥に言葉が落ちた。
やっと分かった。
私は、この空気が好きだったんだ。
⸻
そこで、目を覚ました。
天井が見える。
いつもの自分の部屋。
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
エリンはしばらく、動けなかった。
夢の余韻が、肌に残っている。
笑い声が、耳の奥にまだ響いている。
でも不思議だった。
身体が軽い。
嘘みたいに軽い。
胸に手を当てる。
呼吸はちゃんと通っている。
昨日までの重さが、どこかへ行ってしまったみたいだった。
「……」
涙が出るかと思った。
でも、出なかった。
もう泣くだけ泣いた。
涙は、出ない。
それでも、喉の奥が熱い。
熱いのに、痛くない。
エリンは起き上がり、窓を少し開けた。
外の空気が入ってくる。
少し冷たくて、気持ちがいい。
そのままキッチンへ行き、コーヒーを淹れた。
湯気が立ち上がる。
香りが鼻をくすぐる。
紙コップじゃない。
でも、夢の中と同じ匂いだ。
エリンはカップを両手で包むように持って、ゆっくりと息を吐いた。
――あの空気を、もう一度作りたい。
あの空間を。
私が好きだった、あの場所を。
笑いが生まれて、誰も置いていかれなくて、ちゃんと帰ってこられる場所を。
それは、昔に戻ることじゃない。
同じ班を、同じ形で再現することでもない。
ただ、私が“好き”だと思える現場を、もう一度、今の私で作りたい。
乗務員も乗客もパイロットも全員が安心していられる空間を。
誰かに期待されるからじゃない。
逃げないためでもない。
私は、ここが好きだから。
エリンはカップを口に運んだ。
苦味と、温度が身体に染みていく。
「……よし」
小さく呟いて、笑った。
その笑みは、夢の中の笑みと同じくらい自然だった。
その日の朝、エリンの足取りは、昨日までとは違っていた。