サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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チーフパーサー

 朝のロカA2は、まだ眠りの膜を一枚残していた。透明な天蓋に当たる光は柔らかく、コロニー特有の白い空気が、歩くたびに靴底へまとわりつく。

 

 ハワード財閥旅行会社のビルは、その中でもひときわ整った顔をしていた。建物の外壁は無駄がなく、入口の導線も、視線の誘導も、すべてが「効率」と「安全」を前提に作られている。

 出入口の前にはセキュリティゲートがあり、いつも通り淡々と、しかし確実に、社員をひとりずつ通していく。

 

 ククル、カイエ、エマは横並びでゲートに近づいた。三人の歩幅はそろっていない。そろえようとしていないのに、こういう時だけ妙に並んでしまうのが、彼女たちの癖だった。

 

「聞いた? ペルシアさん、結局“リュウジさんに任せた”しか言わないのよ」

 

 カイエがゲートの手前で端末をかざしながら、小声で言った。声は落ち着いているのに、語尾にだけ不安が滲む。

 

「任せるって、信じていいのか、ダメなのか分からないよね」

 

 エマが肩をすくめる。相変わらずの軽口の形なのに、その目は笑っていなかった。

 “信じていいのかダメなのか分からない”という言い方は、彼女なりの防御だった。期待して裏切られるのが怖い。だから最初から半分笑っておく。そうすれば、傷が浅くなると信じている。

 

「でも、こういう時に私たちができること、ないのかな」

 

 ククルが、胸の前で両手を握りしめた。ゲートの光が彼女の指先に当たり、白く透ける。

 いつもの元気はある。けれど、無理に大きくしている元気じゃない。芯の方から出ている、落ち着かない元気だ。

 

「どうだろう。エリンさんは“心配しないで大丈夫”って言うだろうし」

 

 カイエはスッとゲートを抜けながら言った。

 「言うだろうし」という言葉が、すでに“言われたくない”を含んでいるのが、ククルには分かった。

 

「一人で抱え込んじゃうもんね」

 

 エマが、受付フロアの床を踏みしめるように言う。

 昨日までのエリンの背中が、脳裏に浮かぶ。整った背筋。丁寧な言葉。正しい判断。――なのに、どこか遠い。近づけない。触れたら割れてしまいそうな、薄いガラスの膜があった。

 

「年下の私たちが心配すると、余計にね」

 

 カイエが続ける。

 彼女は分かっていた。自分たちが「手伝います」と言えば言うほど、エリンは「大丈夫」と返す。その“大丈夫”は、本当に大丈夫の意味ではなく、守るための言葉なのだと。

 

「こういう時こそのペルシアさんなのにね」

 

 エマがぼそりと呟く。

 ペルシアなら、笑いながら突撃して、怒鳴りながら引っ張り出して、泣いてる相手を乱暴に抱きしめて、最後に「ほら、仕事するわよ!」で終わらせる。

 あれが正しいかどうかは別として、少なくとも“空気”を動かす。

 いま必要なのは、たぶんその“動き”だった。

 

 ククルは、急に立ち止まった。

 立ち止まったというより、決めた瞬間に足が止まった。

 

「やっぱり! 私、直接話してみる!」

 

「大丈夫なの?」

 

 カイエの問いは真剣だった。止めるというより、支えるための確認だ。

 

「当たって砕けろ、だよ!」

 

 ククルが拳を握って言う。勢いはあるが、声が少し震えていた。

 

「砕けちゃダメでしょ」

 

 エマが突っ込む。いつもなら笑いに変えられる場面なのに、笑えない。だから、突っ込みが妙に優しい。

 

「うぅ……なんとかなる! たぶん!」

 

 ククルは自分に言い聞かせるように言って、職場のフロアへ早足で入った。

 

 そこは朝の匂いがした。

 コーヒー、書類のインク、床の清掃剤、そして、まだ誰の緊張も乗っていない空気。

 

 いつもなら、ここで全員が一斉に“仕事の顔”に切り替わる。

 今日は、そこに“別の何か”が混ざっている。

 救助任務の余韻。ニュース。会社の対応。人の命が絡む重さ。昇格話のざわつき。

 何より――エリンの心の揺れ。

 

 その中心にいるはずのエリンが、フロアの一角で端末を確認していた。

 

 ククルは息を吸った。

 行くなら今だ、と。

 

 だが、その前に――

 

「朝から元気ね。おはよう」

 

 ふっと笑う声がした。

 

 エリンだった。

 

 エリンは、いつもの制服を着ている。髪もきちんとまとめている。メイクも薄く整っている。

 なのに、ククルは一瞬で理解してしまった。

 

 違う。

 

 昨日までのエリンと、何かが違う。

 何が、という説明が難しい。目の輝き? 声の温度? 立ち方?

 全部だ。

 全部が、少しだけ“軽い”。それは浮ついた軽さじゃない。余計な鎧が一枚脱げた軽さだ。

 

 ククル、カイエ、エマは、そろって黙ってしまった。

 驚いたときに声が出ないのは、三人とも同じだった。

 

「あら、どうしたの?」

 

 エリンが首をかしげる。

 その仕草が、自然だった。

 どこにも“正しい上司”の演技がない。ただそこにいる。

 

「い、いえ……」

 

 カイエが先に言葉を出した。

 言いながら、自分の声が少し上ずっていることに気づく。

 

 エマが続けようとして、言葉を飲み込む。

 「変わりまし……」と口が動いた。

 でも、それを言ってしまったら、何かが崩れそうだった。良い意味で。

 だから、飲み込む。

 

 ククルは、胸の中で小さく叫んだ。

 

 戻ってる。

 いや、戻った、じゃない。

 “私たちが知っているエリンさん”が、ここにいる。

 

 その瞬間、フロアの入口が少し騒がしくなった。

 チーフパーサーが入ってきたのだ。職場の空気が一段締まる。立ち上がる背筋。小さな会釈。端末が一斉に動く。

 

 エリンは、それを見てすぐに歩き出した。迷いがない。

 チーフパーサーのもとへ、まっすぐ向かう。

 

 ククルたちは、その背中を目で追った。

 背中が、強い。

 強さを見せつける強さではなく、自然に“決めている”背中だった。

 

 エリンはチーフパーサーの前で立ち止まり、軽く頭を下げた。二人の会話は小声で、周囲には聞こえない。

 けれど、エリンの表情だけは見える。

 

 はっきりしている。

 曇りがない。

 謝っているのではなく、相談しているのでもなく、報告している。――いや、もっと正確に言うなら、提案している。

 

 チーフパーサーが頷いた。

 一拍遅れて、もう一度頷く。

 何かを確認するように端末を見て、エリンに目を戻し、短く「分かった」と言ったように見えた。

 

 話が終わると、エリンはフロア全体に視線を向けた。

 その視線は、点ではなく面だった。誰かだけを見るのではなく、全員を包む。

 かつて、エリンが持っていた“場を整える目”だ。

 

「みんな、聞いて」

 

 声は大きくない。

 でも、通る。

 余計な抑揚がない分、芯が真っ直ぐ届く。

 

「今日は午前中からシュミレーションをやるから、早めに準備を済ませておいてね」

 

 一瞬、フロアが静まり、次に返事が揃った。

 

「はい!」

 

 その返事の揃い方が、昨日までと違った。

 義務の返事じゃない。

 「了解しました」ではなく「やります」の返事だ。

 

 エリンは小さく頷いた。

 その頷きに、余計な感情が乗っていない。

 だからこそ、強かった。

 

 そして、エリンはそのままフロアを後にした。

 歩幅が一定で、足音が軽い。

 逃げるような軽さではない。前に出る人間の軽さだ。

 

 残されたフロアには、短い余韻が残った。

 誰も、すぐに言葉を出せなかった。

 けれど、空気が変わったのは全員が感じていた。

 

 ククルは最初に動いた。

 端末を胸に抱え、深呼吸を一つして、カイエとエマを振り返る。

 

「……ね、今の見た?」

 

「見た」

 

 カイエが短く答える。

 目だけが少し潤んでいる。泣かない。泣かないけど、揺れている。

 

「うん、見た。すごいね、あれ」

 

 エマも言った。

 軽口が出ない。

 そのこと自体が、彼女の本気だった。

 

「話すって言ってたの、ククル」

 

 カイエが確認するように言う。

 

「うん……言ってた。けど……」

 

 ククルは言葉を探した。

 さっきまでの勢いは、胸の中で形を変えていた。

 突撃する理由が“心配”だけなら、今は必要ない。

 でも、何もしないのは違う。

 

「……直接、話すのはやめる。今は、準備する。シュミレーション、ちゃんと成功させる。エリンさんが戻ってきたんだもん。私たちが、支える番だよね」

 

 言い終えてから、ククル自身が驚いた。

 “当たって砕けろ”と言っていた自分が、今は“支える”と言っている。

 砕けるのではなく、立つ。

 誰かの隣で、ちゃんと立つ。

 

 カイエがふっと笑った。

 それは小さくて、でも確かな笑みだった。

 

「ククル、偉いじゃない」

 

「えへへ……」

 

 エマが肩を叩く。

 

「砕けなくて偉い」

 

「だから砕けちゃダメって言ったでしょ!」

 

 三人の間に、ようやく“いつもの”温度が戻り始める。

 それでも、今日は少し違う。

 軽口が軽すぎない。ちゃんと芯がある。

 

 フロアの奥から、誰かが声を上げた。

 

「シュミレーション準備、チェックリスト回すよ!」

 

「了解!」

 

「先に機材室、開ける!」

 

 人が動き出す。

 空気が“仕事”へと変換されていく。

 だが、それはただの仕事じゃない。エリンの意志に呼応する動きだった。

 

 ククルは端末を開き、今日のシフトと手順を確認する。

 カイエはチェック項目を並べ替え、エマは必要な資料を束ねていく。

 それぞれの手が、迷いなく動いた。

 

 その時、ククルはふと気づいた。

 

 エリンは、何も“説明”していない。

 「私はこう思った」「だからこうする」なんて言っていない。

 言っていないのに、全員が分かってしまった。

 

 大丈夫だ。

 戻ってきた。

 そして、進むつもりだ。

 

 その確信が、フロア全体の背筋をそろえている。

 

 ククルは、息を吸って、胸の中で小さく言った。

 

(エリンさん。……私、頑張ります)

 

 もちろん、走りたくなる時はある。

 でもその時は、ペルシアの声を思い出せばいい。

 

 走って縮まる時間なんて、ないのだから。

 

 そして――今の自分たちには、走らなくても追いつける場所がある。

 そう思えた。

 

 午前のシュミレーションは、きっと厳しい。

 エリンは本気だ。

 本気で、現場を取り戻しに来ている。

 

 だからこそ、ククルも本気で笑った。

 怖さは消えていない。

 でも、怖さは弱さの証明じゃない。

 

 昨日までの曇った空気は、もうない。

 あるのは――芯の通った朝の匂いだけだった。

 

ーーーー

 

 社長室のあるフロアは、空気の密度が違った。

 

 通路の床材は足音を吸い、照明は眩しさよりも“清潔さ”を優先している。壁際には、非常時の誘導灯と避難経路図が過不足なく配置され、観葉植物ひとつにさえ配置理由があるように見えた。

 ハワード財閥旅行会社の中枢。ここは、現場の汗や息遣いが届かない距離にある――はずなのに、今日ばかりは、社長室の前の空気が妙に熱い。

 

 エリンは、扉の前で立ち止まっていた。

 

 その横に、現チーフパーサーが並ぶ。年齢はエリンより上で、背筋の角度が綺麗だった。制服の皺もなく、指先に至るまで“手入れ”が行き届いている。

 彼女は、エリンを見ずに言った。

 

「緊張してる?」

 

「……少しだけ」

 

 エリンは正直に返した。

 緊張というより、胸の奥のどこかがひりつく。ここで言葉を間違えれば、自分の選んだ“戻る”という決意が揺らぐ気がした。

 

 チーフパーサーは小さく頷いた。

 

「今まで“答えを出す”仕事をしてきた人が、“自分の答え”を出す時は、だいたいこうなるのよ。大丈夫。あなたは、ちゃんと準備をしてきた」

 

 エリンは、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 

 数秒の沈黙。

 その沈黙を破るように、社長室の前にいる秘書が軽く会釈し、扉の横の端末に指を当てた。

 

「社長、エリンさんとチーフパーサーがお見えです」

 

 短い返答があり、扉が開いた。

 

 社長室は広く、窓の向こうにはコロニーの空が整然と切り取られていた。机は大きいが、物は少ない。端末は二台、紙の書類は必要最小限。余白が“権力”を象徴している部屋だった。

 

 室内には三人が待っていた。

 社長ハワード・クルーズ。

 宇宙事業本部長。

 旅行事業本部長。

 

 そして、少し奥に、先ほど隣にいたはずのチーフパーサーが歩を進め、社長の近くに立つ。ここでは彼女は“同席者”ではなく、“見届け役”のようだった。

 

 クルーズは、椅子から立ち上がらない。ただ、温度のある視線でエリンを見る。

 

「エリン。来てくれてありがとう」

 

「お時間をいただき、ありがとうございます」

 

 エリンは一礼した。声は落ち着いている。自分でも驚くほどに。

 昨夜まで胸を塞いでいたものが、今朝は不思議と軽かった。夢のせいだと、エリンは思った。あの空気。あの笑い声。あの、最後まで船内に残るリュウジを呼びに行く自分。――あれが“自分が好きだった仕事の匂い”だと、ようやく認められたから。

 

 宇宙事業本部長が、端末を軽く叩いた。

 

「エリン。先日の件から今日まで、あなたの返答を待っていた。無理をさせてしまったなら、先に詫びる」

 

「いえ。こちらこそ、ご決断が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」

 

 エリンは一歩前に出て、息を整える。

 言葉は決まっていた。けれど、ここで“形”にしなければならない。

 

「チーフパーサーの件ですが……」

 

 旅行事業本部長がわずかに身を乗り出す。宇宙事業本部長の目が鋭くなる。

 クルーズは、表情だけで待った。

 

 エリンは深く頭を下げた。

 

「謹んで、お受けいたします。チーフパーサーとしての職務、全力で務めます」

 

 一瞬、部屋の空気が止まる。

 そして、クルーズが嬉しそうに頷いた。

 

「そう言ってもらえて、正直ほっとしている」

 

 宇宙事業本部長が、喉の奥で小さく息を吐いた。

 旅行事業本部長も、目元だけが緩む。

 

 クルーズは続けた。

 

「正式な辞令と、職務の詳細は追って連絡する。今日この場は“受諾の確認”だけだ。あなたの現場は止めない」

 

「ありがとうございます」

 

 エリンは顔を上げ、真っ直ぐに言った。

 

「申し訳ありません、午前中のシュミレーションの時間ですので、失礼いたします」

 

 その言葉に、三人の本部長クラスが一瞬、目を丸くする。

 “この場”でそんな言葉が出るのは、普通なら失礼にもなり得る。だが、エリンが言うと――違う。

 逃げるのではなく、戻る。

 権威より、現場の時間を守る。

 それが、エリンという人間の“芯”だった。

 

 クルーズは満足そうに頷く。

 

「行きなさい。あなたの仕事を、あなたのやり方で」

 

「はい。失礼します」

 

 エリンはもう一度頭を下げ、チーフパーサーと共に社長室を出た。

 

 扉が閉まった瞬間だった。

 

 社長室に残った全員が、まるで示し合わせたように大きく息を吐いた。

 

「……良かったぁ」

 

 クルーズが、思わず口に出してしまう。社長の声にしては、少し人間臭い安堵だった。

 

 宇宙事業本部長が苦笑する。

 

「辞めるとか言い出すのかと思って、内心ヒヤヒヤしていましたよ。あれだけの任務を二度、現場で経験して、心が折れても不思議じゃない」

 

 旅行事業本部長が頷き、机の上の書類に手を置いた。

 

「これで一つ、懸念は消えました。さて……エリンの職務は、どうしますか」

 

 その言い方には、二つの意味が混ざっている。

 チーフパーサーとしての“新しい職務”と、これまで副パーサーとして担ってきた“空席の穴”。

 組織は感情で回らない。けれど、感情が回復したからこそ、次を決められる。

 

 宇宙事業本部長が、少し身を乗り出した。

 

「エリンには、例の件を任せるのはどうでしょう」

 

 クルーズが眉を上げる。

 

「スペースホープの件か?」

 

「ええ」

 

 宇宙事業本部長が頷く。

 スペースホープ。

 

 現チーフパーサーが口を開く。

 

「スペースホープは、他のチーフパーサーで候補を絞っています。運用の経験値だけで見れば、他にも適任はいるはずです」

 

 言葉は丁寧だが、“譲れない現場の論理”がある。

 今いるチーフパーサー達にも、面子がある。彼女がそれを分かっているからこそ、慎重な言い回しになる。

 

 旅行事業本部長が、静かに言った。

 

「そうだが……エリンほどの適任はいないだろう。スペースホープには、元エリンの部下がいる」

 

 その一言で、室内の空気が少し変わる。

 単なる能力だけではない。

 “チームが回る”という視点。

 

 宇宙事業本部長が続けた。

 

「現場は結局、人です。手順も規則も、最後は人が動かす。エリンは、動かし方を知っている。統率ではなく、活かし方を」

 

 クルーズは腕を組み、少しだけ考える素振りを見せた。

 そして、短く頷いた。

 

「なら、決まりだ」

 

 現チーフパーサーが一つ息を吐く。

 

「承知しました。スペースホープに関しては、私の方で候補の整理をしていましたが……エリンに切り替えましょう」

 

 宇宙事業本部長と旅行事業本部長が同時に頷いた。

 救助任務を経て、彼らは理解していた。

 エリンは強いが、強いからこそ限界を言わない。

 限界を言わせずに引き出せば、必ず壊れる。

 

 現チーフパーサーが、ふと視線を落とし、別の懸念を口にした。

 

「では……エリンが空ける副パーサーの席は、どうなさいますか」

 

 旅行事業本部長が即答しかけて、止めた。

 宇宙事業本部長も、端末に視線を落とし、言葉を選ぶ。

 

 クルーズが言った。

 

「それは、エリンに決めてもらうのがいい」

 

 現チーフパーサーがわずかに目を細める。

 

「本人に、ですか?」

 

「そうだ」

 

 クルーズは淡々としているが、その声は迷いがない。

 

「副パーサーは肩書きではない。現場の空気を支える役だ。誰を隣に置けば自分が一番機能するか、誰が一番伸びるか。チーフパーサーの裁量として、エリンに持たせるべきだ」

 

 宇宙事業本部長が頷いた。

 

「スペースホープを任せるなら、なおさらです。副パーサーが“形”だけでは回りません。エリンが選んだなら、現場は納得します」

 

 旅行事業本部長も、静かに同意する。

 

「エリンは人気で引っ張るタイプじゃない。信頼で引っ張る。信頼は、選んだ責任も含む。副パーサーを自分で決めるなら、腹もくくれる」

 

 現チーフパーサーは、諦めたように息を吐き、頷いた。

 

「分かりました。では、私からエリンに“副パーサー選定の権限がある”ことを伝えます。……ただ、現場がざわつく可能性はあります」

 

 クルーズは、口角を少しだけ上げた。

 

「ざわつくぐらいでいい。ざわつかない組織は、もう死んでいる。動く組織は、必ず音がする」

 

 その言葉に、宇宙事業本部長が小さく笑った。

 

「社長、今日はいちだんと“現場寄り”ですね」

 

「救助任務の報告を読んだからな」

 

 クルーズは窓の外を見た。

 あの宙で、誰かが命を拾い、誰かが命を支えている。

 机上の数字と書類だけで、その現実を“理解したふり”をしてはいけない。

 

 旅行事業本部長が、机上のメモを一枚取り上げる。

 

「では、スペースホープに関する指示系統を整えます。エリンが動きやすいよう、調整します」

 

「頼む」

 

 クルーズが頷く。

 

 現チーフパーサーは、最後にもう一度だけ確認するように言った。

 

「副パーサーの席は、エリンが決める。社長、宇宙事業本部長、旅行事業本部長、よろしいですね」

 

「もちろんだ」

 

「異論はない」

 

「同意」

 

 三人の返答が揃った。

 

 その瞬間、社長室の空気が一段、軽くなった。

 “決まった”のだ。

 そして、決まったからには動ける。

 

 扉の外――現場では、もう午前のシュミレーションが始まろうとしている。

 エリンは、そこで指示を出し、空気を整え、仲間を動かすだろう。

 

 社長室の中で、クルーズは小さく呟いた。

 

「……良かった。あの子が戻ってくれて」

 

 その言葉には、社長としての利益計算だけではない、ひどく人間的な安堵が滲んでいた。

 宇宙事業本部長も、旅行事業本部長も、現チーフパーサーも――誰もそれを否定しない。

 

 ただ、静かに頷く。

 

 エリンが受けたのは役職だけではない。

 あの空気を、もう一度作るという責任だ。

 

 そして社長室は、その責任を“ひとりにさせない”段取りを、ようやく整え始めたところだった。

 

ーーーー

 

 シュミレーションルームの前に並ぶ乗務員たちの背筋は、揃っているようで揃っていなかった。

 制服の襟は正され、髪はまとめられ、足の幅も規定どおり――だが、目だけが落ち着かない。視線が入口へ、入口へと吸い寄せられている。

 

 壁際のモニターには「本日の訓練:船内サービス/乗客対応(基礎復習)」と表示されていた。

 “基礎復習”。その言葉が示すのは、いつも通りの、少し安心できる時間――のはずだった。

 

「副パーサーが遅刻って、珍しいね」

 

 列の後方、若い乗務員が小声で言った。隣の同期が肩をすくめる。

 

「本来なら嬉しいけどさ、エリンさんの指導は優しいから全然苦じゃないのよね」

 

「そうそう。他の人だったら、すごく怖いし」

 

 声がひそひそと連鎖する。緊張をほぐしたい気持ちが、つい口を滑らせる。

 

 その会話の端を、少し離れた位置で聞いていたカイエが、目を細めた。

 笑うでもなく、怒るでもなく。ただ、静かに。

 

「……みんな、エリンさんのこと分かってないね」

 

 それは呟きに近い。けれど、妙に通る声だった。

 

「え? そうなの?」

 

 乗務員の一人が首を傾げる。

 その反応に、エマが軽く頷いた。彼女はカイエほど鋭くないが、観察は的確だった。

 

「エリンさん、優しいのは優しい。でも、厳しいよ」

 

「そうかな? 厳しいとは感じないかな」

 

「うん、私も。“厳しい”っていうより、丁寧っていうか……」

 

 そんな言葉が出てくるあたり、彼女たちはまだ“優しさ”の表面しか触っていない。カイエは内心で小さく息を吐いた。

 

 ククルは列の端、背筋だけは立派に伸ばしながら、落ち着かない手を指先で握っていた。

 どこか、胸が騒ぐ。

 

「今日のエリンさんは……分からないよ」

 

 言ってしまってから、ククルは自分でも困った。

 根拠がない。けれど、そうとしか言えなかった。

 

「何か違う気がする」

 

「何それ?」

 

「言葉にすると分からないけど……」

 

 ククルは眉を寄せる。

 “違う”。その感覚だけがはっきりしている。

 

 エマが、口の端を上げた。冗談めかしているのに、核心を突く口調だった。

 

「つまり、今までみたいな生温いシュミレーションじゃないって言いたいのよね」

 

 ククルの顔がぱっと明るくなる。

 

「そう! さすがエマ!」

 

 笑いが、列全体に温度を戻す。

 ククルの明るさは、空気を救う。新人の誰かがクスッと笑い、緊張の肩が少し落ちた。

 

 その瞬間だった。

 

「へぇ。生温いシュミレーション、か」

 

 背後から、柔らかな声が落ちた。

 

 空気が凍ったように固まる。

 

「ひぃっ……!」

 

 ククルが分かりやすく跳ねた。肩がびくりと上がり、視線が一気に入口へ飛ぶ。

 

「え、エリンさん!?」

 

 入口に立っていたのはエリンだった。

 姿勢はいつも通り美しい。髪も整っている。制服も乱れていない。息も切れていない。

 だが――目が違った。

 

 優しい光はある。けれど、その奥に静かな刃がある。

 怒っているわけじゃない。むしろ逆だ。落ち着いている。落ち着きすぎている。

 

 その落ち着きが、一番怖い。

 

 乗務員たちが一斉に背筋を伸ばした。足の揃え方まで同時に揃う。

 遅れて入ってきたのに、エリンがいるだけで場が“整列”する。

 

 エリンはゆっくり歩み、列の正面に立った。視線が、列を横切る。顔の高さ、肩の位置、手の置き方――すべてを見ているのが分かる。

 そして、ククルにだけ、ふと視線を留めた。

 

「ククルにそんなこと言われる日が来るなんて」

 

 エリンは小さく笑った。

 その笑みは確かに優しい。だが、同時に“逃げ道を塞ぐ笑み”でもあった。

 

「い、いえ……」

 

 ククルは声が裏返りかけるのを必死で抑えた。

 隣のカイエが、微動だにしない。横目で見ても、まったく表情が変わっていない。エマだけが、ほんの僅かに口角を緩めた。まるで“やっぱり来た”と言いたげに。

 

 エリンは一呼吸置いて、両手を軽く組んだ。

 

「さて。それじゃあ……生温いシュミレーションを始めましょうか」

 

 その言い方があまりに自然で、笑いがこぼれそうになる。

 カイエが、堪えきれないように鼻で小さく笑った。

 その音に釣られるように、列のあちこちで口元が緩み、空気にやっと人間味が戻る。

 

「え、エリンさん!?」

 

 ククルが素で驚く。

 笑える。今のエリンは、笑いを許している。けれど――それは油断ではない。むしろ、ここから締め上げる前の“余白”だ。

 

 エリンはクスッと笑って、すぐに咳払いをした。

 たった一度の咳払いで、笑みが引っ込む。部屋が引き締まる。

 

「冗談は置いといて」

 

 エリンは深く頭を下げた。

 

「遅れてごめんなさい」

 

 “副パーサーとして”の謝罪ではなく、“一人の乗務員として”の謝罪。

 それが、背中の角度から伝わる。

 列の中で何人かが目を丸くした。

 

 エリンが顔を上げ、静かに言う。

 

「それじゃあ、今日のシュミレーションは――初心に戻ります」

 

 モニターの画面が切り替わり、次の項目が表示される。

 

【訓練内容】

・乗客役/乗務員役の二班編成

・乗り入れ(乗客誘導)

・船内サービス(基本動作の徹底)

・想定外対応(途中で追加)

 

 最後の“途中で追加”が、妙に太字だった。

 

 エリンは続ける。

 

「乗客役と乗務員役の二班に分かれて行う。乗客の乗り入れと船内サービスを重点的に。今日はね、派手なトラブル対応じゃない。『当たり前を当たり前に出す』練習をする」

 

 “当たり前”――それは一番難しい。

 ごまかしが利かない。手癖が出る。雑さが出る。

 そして、見られているのは“技術”ではなく、“姿勢”だ。

 

「はい!!」

 

 乗務員たちの声が揃った。綺麗に、よく通る声。

 エリンは満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

 その一言が、船内アナウンスよりも強い。

 エリンは視線を少し柔らかくして、全体を見渡す。

 

「それじゃあ、行きましょう」

 

 そして、あえて、優しい調子を作った。

 

「大丈夫。優しく教えてあげるからね」

 

「はい!」

 

 元気よく返事が返る。

 ……ただし、返事が返らなかった場所が、三つあった。

 

 ククル。

 カイエ。

 エマ。

 

 三人だけが、喉の奥で声を止めた。

 

 その瞬間、三人の脳裏に、同じ記憶が浮かび上がる。

 ドルトムント財閥のころ。

 まだ自分たちが“今よりずっと未熟”だったころ。

 エリンが、同じ口調で言った後――必ず続けた言葉。

 

『優しいと、甘やかしは違うからね』

 

 ニッコリ笑って。

 逃げ道を残さず。

 でも、決して見捨てない声で。

 

 ククルは唇を結び、背筋をもう一段伸ばした。

 カイエは、目の奥の火が静かに灯るのを感じた。

 エマは、胸の内で小さく頷く。

 

 “戻ってきた”。

 昨日までのエリンではない。

 ただ優しいだけのエリンでもない。

 芯を決めたエリンが、ここに立っている。

 

 エリンは手元の端末を一度だけ確認し、淡々と指示を出した。

 

「二班に分ける。乗客役は――カイエ、あなたがリーダー。乗務員役は――ククル、あなたがリーダー。エマは全体の動線チェック。やってみて」

 

「……はい」

 

 三人の返事は遅れた。

 けれど、その声は揃って、静かに強かった。

 

 エリンは目を細めて笑った。ほんの僅かに。

 

「その返事、いいわ」

 

 その瞬間、シュミレーションルームの温度が変わる。

 楽しいだけの訓練ではない。

 怖いだけの訓練でもない。

 

 “本物の現場”に近づく空気が、ここに生まれた。

 

 ククルは心の中で思った。

 

(やっぱり、今日のエリンさんは分からない。

 でも――分からないから、ついていきたくなるんだ)

 

 エリンはもう一度、全員を見渡した。

 

「始めるよ。――動いて」

 

 号令ではない。

 けれど、それは“船が動き出す”のと同じ重みを持った合図だった。

 

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