朝のロカA2は、まだ眠りの膜を一枚残していた。透明な天蓋に当たる光は柔らかく、コロニー特有の白い空気が、歩くたびに靴底へまとわりつく。
ハワード財閥旅行会社のビルは、その中でもひときわ整った顔をしていた。建物の外壁は無駄がなく、入口の導線も、視線の誘導も、すべてが「効率」と「安全」を前提に作られている。
出入口の前にはセキュリティゲートがあり、いつも通り淡々と、しかし確実に、社員をひとりずつ通していく。
ククル、カイエ、エマは横並びでゲートに近づいた。三人の歩幅はそろっていない。そろえようとしていないのに、こういう時だけ妙に並んでしまうのが、彼女たちの癖だった。
「聞いた? ペルシアさん、結局“リュウジさんに任せた”しか言わないのよ」
カイエがゲートの手前で端末をかざしながら、小声で言った。声は落ち着いているのに、語尾にだけ不安が滲む。
「任せるって、信じていいのか、ダメなのか分からないよね」
エマが肩をすくめる。相変わらずの軽口の形なのに、その目は笑っていなかった。
“信じていいのかダメなのか分からない”という言い方は、彼女なりの防御だった。期待して裏切られるのが怖い。だから最初から半分笑っておく。そうすれば、傷が浅くなると信じている。
「でも、こういう時に私たちができること、ないのかな」
ククルが、胸の前で両手を握りしめた。ゲートの光が彼女の指先に当たり、白く透ける。
いつもの元気はある。けれど、無理に大きくしている元気じゃない。芯の方から出ている、落ち着かない元気だ。
「どうだろう。エリンさんは“心配しないで大丈夫”って言うだろうし」
カイエはスッとゲートを抜けながら言った。
「言うだろうし」という言葉が、すでに“言われたくない”を含んでいるのが、ククルには分かった。
「一人で抱え込んじゃうもんね」
エマが、受付フロアの床を踏みしめるように言う。
昨日までのエリンの背中が、脳裏に浮かぶ。整った背筋。丁寧な言葉。正しい判断。――なのに、どこか遠い。近づけない。触れたら割れてしまいそうな、薄いガラスの膜があった。
「年下の私たちが心配すると、余計にね」
カイエが続ける。
彼女は分かっていた。自分たちが「手伝います」と言えば言うほど、エリンは「大丈夫」と返す。その“大丈夫”は、本当に大丈夫の意味ではなく、守るための言葉なのだと。
「こういう時こそのペルシアさんなのにね」
エマがぼそりと呟く。
ペルシアなら、笑いながら突撃して、怒鳴りながら引っ張り出して、泣いてる相手を乱暴に抱きしめて、最後に「ほら、仕事するわよ!」で終わらせる。
あれが正しいかどうかは別として、少なくとも“空気”を動かす。
いま必要なのは、たぶんその“動き”だった。
ククルは、急に立ち止まった。
立ち止まったというより、決めた瞬間に足が止まった。
「やっぱり! 私、直接話してみる!」
「大丈夫なの?」
カイエの問いは真剣だった。止めるというより、支えるための確認だ。
「当たって砕けろ、だよ!」
ククルが拳を握って言う。勢いはあるが、声が少し震えていた。
「砕けちゃダメでしょ」
エマが突っ込む。いつもなら笑いに変えられる場面なのに、笑えない。だから、突っ込みが妙に優しい。
「うぅ……なんとかなる! たぶん!」
ククルは自分に言い聞かせるように言って、職場のフロアへ早足で入った。
そこは朝の匂いがした。
コーヒー、書類のインク、床の清掃剤、そして、まだ誰の緊張も乗っていない空気。
いつもなら、ここで全員が一斉に“仕事の顔”に切り替わる。
今日は、そこに“別の何か”が混ざっている。
救助任務の余韻。ニュース。会社の対応。人の命が絡む重さ。昇格話のざわつき。
何より――エリンの心の揺れ。
その中心にいるはずのエリンが、フロアの一角で端末を確認していた。
ククルは息を吸った。
行くなら今だ、と。
だが、その前に――
「朝から元気ね。おはよう」
ふっと笑う声がした。
エリンだった。
エリンは、いつもの制服を着ている。髪もきちんとまとめている。メイクも薄く整っている。
なのに、ククルは一瞬で理解してしまった。
違う。
昨日までのエリンと、何かが違う。
何が、という説明が難しい。目の輝き? 声の温度? 立ち方?
全部だ。
全部が、少しだけ“軽い”。それは浮ついた軽さじゃない。余計な鎧が一枚脱げた軽さだ。
ククル、カイエ、エマは、そろって黙ってしまった。
驚いたときに声が出ないのは、三人とも同じだった。
「あら、どうしたの?」
エリンが首をかしげる。
その仕草が、自然だった。
どこにも“正しい上司”の演技がない。ただそこにいる。
「い、いえ……」
カイエが先に言葉を出した。
言いながら、自分の声が少し上ずっていることに気づく。
エマが続けようとして、言葉を飲み込む。
「変わりまし……」と口が動いた。
でも、それを言ってしまったら、何かが崩れそうだった。良い意味で。
だから、飲み込む。
ククルは、胸の中で小さく叫んだ。
戻ってる。
いや、戻った、じゃない。
“私たちが知っているエリンさん”が、ここにいる。
その瞬間、フロアの入口が少し騒がしくなった。
チーフパーサーが入ってきたのだ。職場の空気が一段締まる。立ち上がる背筋。小さな会釈。端末が一斉に動く。
エリンは、それを見てすぐに歩き出した。迷いがない。
チーフパーサーのもとへ、まっすぐ向かう。
ククルたちは、その背中を目で追った。
背中が、強い。
強さを見せつける強さではなく、自然に“決めている”背中だった。
エリンはチーフパーサーの前で立ち止まり、軽く頭を下げた。二人の会話は小声で、周囲には聞こえない。
けれど、エリンの表情だけは見える。
はっきりしている。
曇りがない。
謝っているのではなく、相談しているのでもなく、報告している。――いや、もっと正確に言うなら、提案している。
チーフパーサーが頷いた。
一拍遅れて、もう一度頷く。
何かを確認するように端末を見て、エリンに目を戻し、短く「分かった」と言ったように見えた。
話が終わると、エリンはフロア全体に視線を向けた。
その視線は、点ではなく面だった。誰かだけを見るのではなく、全員を包む。
かつて、エリンが持っていた“場を整える目”だ。
「みんな、聞いて」
声は大きくない。
でも、通る。
余計な抑揚がない分、芯が真っ直ぐ届く。
「今日は午前中からシュミレーションをやるから、早めに準備を済ませておいてね」
一瞬、フロアが静まり、次に返事が揃った。
「はい!」
その返事の揃い方が、昨日までと違った。
義務の返事じゃない。
「了解しました」ではなく「やります」の返事だ。
エリンは小さく頷いた。
その頷きに、余計な感情が乗っていない。
だからこそ、強かった。
そして、エリンはそのままフロアを後にした。
歩幅が一定で、足音が軽い。
逃げるような軽さではない。前に出る人間の軽さだ。
残されたフロアには、短い余韻が残った。
誰も、すぐに言葉を出せなかった。
けれど、空気が変わったのは全員が感じていた。
ククルは最初に動いた。
端末を胸に抱え、深呼吸を一つして、カイエとエマを振り返る。
「……ね、今の見た?」
「見た」
カイエが短く答える。
目だけが少し潤んでいる。泣かない。泣かないけど、揺れている。
「うん、見た。すごいね、あれ」
エマも言った。
軽口が出ない。
そのこと自体が、彼女の本気だった。
「話すって言ってたの、ククル」
カイエが確認するように言う。
「うん……言ってた。けど……」
ククルは言葉を探した。
さっきまでの勢いは、胸の中で形を変えていた。
突撃する理由が“心配”だけなら、今は必要ない。
でも、何もしないのは違う。
「……直接、話すのはやめる。今は、準備する。シュミレーション、ちゃんと成功させる。エリンさんが戻ってきたんだもん。私たちが、支える番だよね」
言い終えてから、ククル自身が驚いた。
“当たって砕けろ”と言っていた自分が、今は“支える”と言っている。
砕けるのではなく、立つ。
誰かの隣で、ちゃんと立つ。
カイエがふっと笑った。
それは小さくて、でも確かな笑みだった。
「ククル、偉いじゃない」
「えへへ……」
エマが肩を叩く。
「砕けなくて偉い」
「だから砕けちゃダメって言ったでしょ!」
三人の間に、ようやく“いつもの”温度が戻り始める。
それでも、今日は少し違う。
軽口が軽すぎない。ちゃんと芯がある。
フロアの奥から、誰かが声を上げた。
「シュミレーション準備、チェックリスト回すよ!」
「了解!」
「先に機材室、開ける!」
人が動き出す。
空気が“仕事”へと変換されていく。
だが、それはただの仕事じゃない。エリンの意志に呼応する動きだった。
ククルは端末を開き、今日のシフトと手順を確認する。
カイエはチェック項目を並べ替え、エマは必要な資料を束ねていく。
それぞれの手が、迷いなく動いた。
その時、ククルはふと気づいた。
エリンは、何も“説明”していない。
「私はこう思った」「だからこうする」なんて言っていない。
言っていないのに、全員が分かってしまった。
大丈夫だ。
戻ってきた。
そして、進むつもりだ。
その確信が、フロア全体の背筋をそろえている。
ククルは、息を吸って、胸の中で小さく言った。
(エリンさん。……私、頑張ります)
もちろん、走りたくなる時はある。
でもその時は、ペルシアの声を思い出せばいい。
走って縮まる時間なんて、ないのだから。
そして――今の自分たちには、走らなくても追いつける場所がある。
そう思えた。
午前のシュミレーションは、きっと厳しい。
エリンは本気だ。
本気で、現場を取り戻しに来ている。
だからこそ、ククルも本気で笑った。
怖さは消えていない。
でも、怖さは弱さの証明じゃない。
昨日までの曇った空気は、もうない。
あるのは――芯の通った朝の匂いだけだった。
ーーーー
社長室のあるフロアは、空気の密度が違った。
通路の床材は足音を吸い、照明は眩しさよりも“清潔さ”を優先している。壁際には、非常時の誘導灯と避難経路図が過不足なく配置され、観葉植物ひとつにさえ配置理由があるように見えた。
ハワード財閥旅行会社の中枢。ここは、現場の汗や息遣いが届かない距離にある――はずなのに、今日ばかりは、社長室の前の空気が妙に熱い。
エリンは、扉の前で立ち止まっていた。
その横に、現チーフパーサーが並ぶ。年齢はエリンより上で、背筋の角度が綺麗だった。制服の皺もなく、指先に至るまで“手入れ”が行き届いている。
彼女は、エリンを見ずに言った。
「緊張してる?」
「……少しだけ」
エリンは正直に返した。
緊張というより、胸の奥のどこかがひりつく。ここで言葉を間違えれば、自分の選んだ“戻る”という決意が揺らぐ気がした。
チーフパーサーは小さく頷いた。
「今まで“答えを出す”仕事をしてきた人が、“自分の答え”を出す時は、だいたいこうなるのよ。大丈夫。あなたは、ちゃんと準備をしてきた」
エリンは、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
数秒の沈黙。
その沈黙を破るように、社長室の前にいる秘書が軽く会釈し、扉の横の端末に指を当てた。
「社長、エリンさんとチーフパーサーがお見えです」
短い返答があり、扉が開いた。
社長室は広く、窓の向こうにはコロニーの空が整然と切り取られていた。机は大きいが、物は少ない。端末は二台、紙の書類は必要最小限。余白が“権力”を象徴している部屋だった。
室内には三人が待っていた。
社長ハワード・クルーズ。
宇宙事業本部長。
旅行事業本部長。
そして、少し奥に、先ほど隣にいたはずのチーフパーサーが歩を進め、社長の近くに立つ。ここでは彼女は“同席者”ではなく、“見届け役”のようだった。
クルーズは、椅子から立ち上がらない。ただ、温度のある視線でエリンを見る。
「エリン。来てくれてありがとう」
「お時間をいただき、ありがとうございます」
エリンは一礼した。声は落ち着いている。自分でも驚くほどに。
昨夜まで胸を塞いでいたものが、今朝は不思議と軽かった。夢のせいだと、エリンは思った。あの空気。あの笑い声。あの、最後まで船内に残るリュウジを呼びに行く自分。――あれが“自分が好きだった仕事の匂い”だと、ようやく認められたから。
宇宙事業本部長が、端末を軽く叩いた。
「エリン。先日の件から今日まで、あなたの返答を待っていた。無理をさせてしまったなら、先に詫びる」
「いえ。こちらこそ、ご決断が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
エリンは一歩前に出て、息を整える。
言葉は決まっていた。けれど、ここで“形”にしなければならない。
「チーフパーサーの件ですが……」
旅行事業本部長がわずかに身を乗り出す。宇宙事業本部長の目が鋭くなる。
クルーズは、表情だけで待った。
エリンは深く頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします。チーフパーサーとしての職務、全力で務めます」
一瞬、部屋の空気が止まる。
そして、クルーズが嬉しそうに頷いた。
「そう言ってもらえて、正直ほっとしている」
宇宙事業本部長が、喉の奥で小さく息を吐いた。
旅行事業本部長も、目元だけが緩む。
クルーズは続けた。
「正式な辞令と、職務の詳細は追って連絡する。今日この場は“受諾の確認”だけだ。あなたの現場は止めない」
「ありがとうございます」
エリンは顔を上げ、真っ直ぐに言った。
「申し訳ありません、午前中のシュミレーションの時間ですので、失礼いたします」
その言葉に、三人の本部長クラスが一瞬、目を丸くする。
“この場”でそんな言葉が出るのは、普通なら失礼にもなり得る。だが、エリンが言うと――違う。
逃げるのではなく、戻る。
権威より、現場の時間を守る。
それが、エリンという人間の“芯”だった。
クルーズは満足そうに頷く。
「行きなさい。あなたの仕事を、あなたのやり方で」
「はい。失礼します」
エリンはもう一度頭を下げ、チーフパーサーと共に社長室を出た。
扉が閉まった瞬間だった。
社長室に残った全員が、まるで示し合わせたように大きく息を吐いた。
「……良かったぁ」
クルーズが、思わず口に出してしまう。社長の声にしては、少し人間臭い安堵だった。
宇宙事業本部長が苦笑する。
「辞めるとか言い出すのかと思って、内心ヒヤヒヤしていましたよ。あれだけの任務を二度、現場で経験して、心が折れても不思議じゃない」
旅行事業本部長が頷き、机の上の書類に手を置いた。
「これで一つ、懸念は消えました。さて……エリンの職務は、どうしますか」
その言い方には、二つの意味が混ざっている。
チーフパーサーとしての“新しい職務”と、これまで副パーサーとして担ってきた“空席の穴”。
組織は感情で回らない。けれど、感情が回復したからこそ、次を決められる。
宇宙事業本部長が、少し身を乗り出した。
「エリンには、例の件を任せるのはどうでしょう」
クルーズが眉を上げる。
「スペースホープの件か?」
「ええ」
宇宙事業本部長が頷く。
スペースホープ。
現チーフパーサーが口を開く。
「スペースホープは、他のチーフパーサーで候補を絞っています。運用の経験値だけで見れば、他にも適任はいるはずです」
言葉は丁寧だが、“譲れない現場の論理”がある。
今いるチーフパーサー達にも、面子がある。彼女がそれを分かっているからこそ、慎重な言い回しになる。
旅行事業本部長が、静かに言った。
「そうだが……エリンほどの適任はいないだろう。スペースホープには、元エリンの部下がいる」
その一言で、室内の空気が少し変わる。
単なる能力だけではない。
“チームが回る”という視点。
宇宙事業本部長が続けた。
「現場は結局、人です。手順も規則も、最後は人が動かす。エリンは、動かし方を知っている。統率ではなく、活かし方を」
クルーズは腕を組み、少しだけ考える素振りを見せた。
そして、短く頷いた。
「なら、決まりだ」
現チーフパーサーが一つ息を吐く。
「承知しました。スペースホープに関しては、私の方で候補の整理をしていましたが……エリンに切り替えましょう」
宇宙事業本部長と旅行事業本部長が同時に頷いた。
救助任務を経て、彼らは理解していた。
エリンは強いが、強いからこそ限界を言わない。
限界を言わせずに引き出せば、必ず壊れる。
現チーフパーサーが、ふと視線を落とし、別の懸念を口にした。
「では……エリンが空ける副パーサーの席は、どうなさいますか」
旅行事業本部長が即答しかけて、止めた。
宇宙事業本部長も、端末に視線を落とし、言葉を選ぶ。
クルーズが言った。
「それは、エリンに決めてもらうのがいい」
現チーフパーサーがわずかに目を細める。
「本人に、ですか?」
「そうだ」
クルーズは淡々としているが、その声は迷いがない。
「副パーサーは肩書きではない。現場の空気を支える役だ。誰を隣に置けば自分が一番機能するか、誰が一番伸びるか。チーフパーサーの裁量として、エリンに持たせるべきだ」
宇宙事業本部長が頷いた。
「スペースホープを任せるなら、なおさらです。副パーサーが“形”だけでは回りません。エリンが選んだなら、現場は納得します」
旅行事業本部長も、静かに同意する。
「エリンは人気で引っ張るタイプじゃない。信頼で引っ張る。信頼は、選んだ責任も含む。副パーサーを自分で決めるなら、腹もくくれる」
現チーフパーサーは、諦めたように息を吐き、頷いた。
「分かりました。では、私からエリンに“副パーサー選定の権限がある”ことを伝えます。……ただ、現場がざわつく可能性はあります」
クルーズは、口角を少しだけ上げた。
「ざわつくぐらいでいい。ざわつかない組織は、もう死んでいる。動く組織は、必ず音がする」
その言葉に、宇宙事業本部長が小さく笑った。
「社長、今日はいちだんと“現場寄り”ですね」
「救助任務の報告を読んだからな」
クルーズは窓の外を見た。
あの宙で、誰かが命を拾い、誰かが命を支えている。
机上の数字と書類だけで、その現実を“理解したふり”をしてはいけない。
旅行事業本部長が、机上のメモを一枚取り上げる。
「では、スペースホープに関する指示系統を整えます。エリンが動きやすいよう、調整します」
「頼む」
クルーズが頷く。
現チーフパーサーは、最後にもう一度だけ確認するように言った。
「副パーサーの席は、エリンが決める。社長、宇宙事業本部長、旅行事業本部長、よろしいですね」
「もちろんだ」
「異論はない」
「同意」
三人の返答が揃った。
その瞬間、社長室の空気が一段、軽くなった。
“決まった”のだ。
そして、決まったからには動ける。
扉の外――現場では、もう午前のシュミレーションが始まろうとしている。
エリンは、そこで指示を出し、空気を整え、仲間を動かすだろう。
社長室の中で、クルーズは小さく呟いた。
「……良かった。あの子が戻ってくれて」
その言葉には、社長としての利益計算だけではない、ひどく人間的な安堵が滲んでいた。
宇宙事業本部長も、旅行事業本部長も、現チーフパーサーも――誰もそれを否定しない。
ただ、静かに頷く。
エリンが受けたのは役職だけではない。
あの空気を、もう一度作るという責任だ。
そして社長室は、その責任を“ひとりにさせない”段取りを、ようやく整え始めたところだった。
ーーーー
シュミレーションルームの前に並ぶ乗務員たちの背筋は、揃っているようで揃っていなかった。
制服の襟は正され、髪はまとめられ、足の幅も規定どおり――だが、目だけが落ち着かない。視線が入口へ、入口へと吸い寄せられている。
壁際のモニターには「本日の訓練:船内サービス/乗客対応(基礎復習)」と表示されていた。
“基礎復習”。その言葉が示すのは、いつも通りの、少し安心できる時間――のはずだった。
「副パーサーが遅刻って、珍しいね」
列の後方、若い乗務員が小声で言った。隣の同期が肩をすくめる。
「本来なら嬉しいけどさ、エリンさんの指導は優しいから全然苦じゃないのよね」
「そうそう。他の人だったら、すごく怖いし」
声がひそひそと連鎖する。緊張をほぐしたい気持ちが、つい口を滑らせる。
その会話の端を、少し離れた位置で聞いていたカイエが、目を細めた。
笑うでもなく、怒るでもなく。ただ、静かに。
「……みんな、エリンさんのこと分かってないね」
それは呟きに近い。けれど、妙に通る声だった。
「え? そうなの?」
乗務員の一人が首を傾げる。
その反応に、エマが軽く頷いた。彼女はカイエほど鋭くないが、観察は的確だった。
「エリンさん、優しいのは優しい。でも、厳しいよ」
「そうかな? 厳しいとは感じないかな」
「うん、私も。“厳しい”っていうより、丁寧っていうか……」
そんな言葉が出てくるあたり、彼女たちはまだ“優しさ”の表面しか触っていない。カイエは内心で小さく息を吐いた。
ククルは列の端、背筋だけは立派に伸ばしながら、落ち着かない手を指先で握っていた。
どこか、胸が騒ぐ。
「今日のエリンさんは……分からないよ」
言ってしまってから、ククルは自分でも困った。
根拠がない。けれど、そうとしか言えなかった。
「何か違う気がする」
「何それ?」
「言葉にすると分からないけど……」
ククルは眉を寄せる。
“違う”。その感覚だけがはっきりしている。
エマが、口の端を上げた。冗談めかしているのに、核心を突く口調だった。
「つまり、今までみたいな生温いシュミレーションじゃないって言いたいのよね」
ククルの顔がぱっと明るくなる。
「そう! さすがエマ!」
笑いが、列全体に温度を戻す。
ククルの明るさは、空気を救う。新人の誰かがクスッと笑い、緊張の肩が少し落ちた。
その瞬間だった。
「へぇ。生温いシュミレーション、か」
背後から、柔らかな声が落ちた。
空気が凍ったように固まる。
「ひぃっ……!」
ククルが分かりやすく跳ねた。肩がびくりと上がり、視線が一気に入口へ飛ぶ。
「え、エリンさん!?」
入口に立っていたのはエリンだった。
姿勢はいつも通り美しい。髪も整っている。制服も乱れていない。息も切れていない。
だが――目が違った。
優しい光はある。けれど、その奥に静かな刃がある。
怒っているわけじゃない。むしろ逆だ。落ち着いている。落ち着きすぎている。
その落ち着きが、一番怖い。
乗務員たちが一斉に背筋を伸ばした。足の揃え方まで同時に揃う。
遅れて入ってきたのに、エリンがいるだけで場が“整列”する。
エリンはゆっくり歩み、列の正面に立った。視線が、列を横切る。顔の高さ、肩の位置、手の置き方――すべてを見ているのが分かる。
そして、ククルにだけ、ふと視線を留めた。
「ククルにそんなこと言われる日が来るなんて」
エリンは小さく笑った。
その笑みは確かに優しい。だが、同時に“逃げ道を塞ぐ笑み”でもあった。
「い、いえ……」
ククルは声が裏返りかけるのを必死で抑えた。
隣のカイエが、微動だにしない。横目で見ても、まったく表情が変わっていない。エマだけが、ほんの僅かに口角を緩めた。まるで“やっぱり来た”と言いたげに。
エリンは一呼吸置いて、両手を軽く組んだ。
「さて。それじゃあ……生温いシュミレーションを始めましょうか」
その言い方があまりに自然で、笑いがこぼれそうになる。
カイエが、堪えきれないように鼻で小さく笑った。
その音に釣られるように、列のあちこちで口元が緩み、空気にやっと人間味が戻る。
「え、エリンさん!?」
ククルが素で驚く。
笑える。今のエリンは、笑いを許している。けれど――それは油断ではない。むしろ、ここから締め上げる前の“余白”だ。
エリンはクスッと笑って、すぐに咳払いをした。
たった一度の咳払いで、笑みが引っ込む。部屋が引き締まる。
「冗談は置いといて」
エリンは深く頭を下げた。
「遅れてごめんなさい」
“副パーサーとして”の謝罪ではなく、“一人の乗務員として”の謝罪。
それが、背中の角度から伝わる。
列の中で何人かが目を丸くした。
エリンが顔を上げ、静かに言う。
「それじゃあ、今日のシュミレーションは――初心に戻ります」
モニターの画面が切り替わり、次の項目が表示される。
【訓練内容】
・乗客役/乗務員役の二班編成
・乗り入れ(乗客誘導)
・船内サービス(基本動作の徹底)
・想定外対応(途中で追加)
最後の“途中で追加”が、妙に太字だった。
エリンは続ける。
「乗客役と乗務員役の二班に分かれて行う。乗客の乗り入れと船内サービスを重点的に。今日はね、派手なトラブル対応じゃない。『当たり前を当たり前に出す』練習をする」
“当たり前”――それは一番難しい。
ごまかしが利かない。手癖が出る。雑さが出る。
そして、見られているのは“技術”ではなく、“姿勢”だ。
「はい!!」
乗務員たちの声が揃った。綺麗に、よく通る声。
エリンは満足そうに頷いた。
「よし」
その一言が、船内アナウンスよりも強い。
エリンは視線を少し柔らかくして、全体を見渡す。
「それじゃあ、行きましょう」
そして、あえて、優しい調子を作った。
「大丈夫。優しく教えてあげるからね」
「はい!」
元気よく返事が返る。
……ただし、返事が返らなかった場所が、三つあった。
ククル。
カイエ。
エマ。
三人だけが、喉の奥で声を止めた。
その瞬間、三人の脳裏に、同じ記憶が浮かび上がる。
ドルトムント財閥のころ。
まだ自分たちが“今よりずっと未熟”だったころ。
エリンが、同じ口調で言った後――必ず続けた言葉。
『優しいと、甘やかしは違うからね』
ニッコリ笑って。
逃げ道を残さず。
でも、決して見捨てない声で。
ククルは唇を結び、背筋をもう一段伸ばした。
カイエは、目の奥の火が静かに灯るのを感じた。
エマは、胸の内で小さく頷く。
“戻ってきた”。
昨日までのエリンではない。
ただ優しいだけのエリンでもない。
芯を決めたエリンが、ここに立っている。
エリンは手元の端末を一度だけ確認し、淡々と指示を出した。
「二班に分ける。乗客役は――カイエ、あなたがリーダー。乗務員役は――ククル、あなたがリーダー。エマは全体の動線チェック。やってみて」
「……はい」
三人の返事は遅れた。
けれど、その声は揃って、静かに強かった。
エリンは目を細めて笑った。ほんの僅かに。
「その返事、いいわ」
その瞬間、シュミレーションルームの温度が変わる。
楽しいだけの訓練ではない。
怖いだけの訓練でもない。
“本物の現場”に近づく空気が、ここに生まれた。
ククルは心の中で思った。
(やっぱり、今日のエリンさんは分からない。
でも――分からないから、ついていきたくなるんだ)
エリンはもう一度、全員を見渡した。
「始めるよ。――動いて」
号令ではない。
けれど、それは“船が動き出す”のと同じ重みを持った合図だった。