サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第13話

焚き火の最後の炎が小さく揺れ、やがて静かに消えた。

 残されたのは、焦げた木片から立ちのぼるかすかな煙と、森の夜を渡る風の音だけ。

 “みんなの家”の前では、リュウジとメノリが向かい合い、明日の行動を話していた。

 

「……明日はどのあたりを探すつもりだ?」

 リュウジの声は低く落ち着いている。焚き火の赤が消えた後でも、その瞳はまだ光を宿していた。

 

「南の丘を回るのがいいだろう。雪も溶けてきたし、あのあたりなら獣の痕跡も見つかりやすい」

 メノリが腕を組み、月明かりに照らされた手帳を指差す。

「ただし、湿地に近い。足を取られたら危険だ。ベルを同行させるのがいいだろう」

 

「ベルか……確かに、力仕事は頼めるな」

 リュウジが頷く。

「だが、あいつはハワードと一緒に修繕作業の予定じゃなかったか?」

 

「修繕は午前で終わるだろう。午後から合流させれば問題ない」

 メノリの声はきっぱりとしていたが、どこかに気遣いの柔らかさがあった。

「リュウジ、一人に負担をかけるわけにはいかない。私も南端までは一緒に行く」

 

「いいのか?」

「指示だけして動かないわけにはいかないだろう」

 そう言いながら、メノリは静かに微笑んだ。

 その表情には、仲間への信頼と責任が混ざっていた。

 

「分かった。明日は日の出と同時に出よう」

「了解だ。夜明け前には装備を整えておく」

 

 短い会話。けれど、互いの言葉には確かな信頼があった。

 二人はうなずき合うと、夜の風の中に溶け込むように沈黙した。

 

 少し離れた枝の陰で、ルナはその様子を見ていた。

 遠くの焚き火の跡が、ほんのりと赤く光っている。

 リュウジの真剣な横顔――そして、落ち着いた声で応じるメノリ。

 

 その二人の姿を見て、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 

(……また、そうやって並んで話してる)

 

 ルナは小さく息をのむ。

 メノリの落ち着いた声、リュウジの穏やかな返し。

 どちらも、仲間として当然の会話だと分かっている。

 それでも、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。

 

 指先がわずかに震えた。

 風が髪を揺らし、冷たい空気が頬を撫でる。

 ルナは目を伏せ、唇を噛みしめた。

 

(……私、何を考えてるの)

 

 そう自分に言い聞かせるように呟き、夜空を見上げる。

 星々は静かに瞬き、月が淡く森を照らしていた。

 リュウジとメノリの声が、遠くでまだ小さく響いている。

 

 その音が優しいほど、心が痛くなる――

 ルナは胸に手を当て、そっと目を閉じた。

 

 夜風が流れ、枝の間で葉が揺れる。

 その音だけが、ルナの小さな吐息を包み込んでいった。

 

◇◇◇

 

夜が明け始めていた。

 東の空がうっすらと白み、森の枝の隙間から柔らかな光が差し込む。

 冷たい空気の中、鳥たちの鳴き声が一つ、また一つと響きはじめた。

 

 “みんなの家”の前では、リュウジとメノリが出発の準備を進めていた。

 焚き火の跡からは白い煙が細く立ちのぼり、朝の静けさの中に淡く溶けていく。

 

「この縄をもう少し短くしておこう。荷をまとめやすい」

 リュウジが縄の結び目を確かめながら言う。

 その手際は無駄がなく、まるで長年の習慣のようだった。

 

「南の丘まで行くなら、水筒を二本持っていった方がいいだろう。あの辺りは水場が少ない」

 メノリは腰から手帳を取り出し、指先でなぞるように示す。

 その横顔は朝の光を受け、凛としていた。

 

「了解だ」

 リュウジは短く答え、荷袋に槍と黒曜石のナイフを差し込んだ。

 

 その少し後ろで、ルナは黙って二人を見つめていた。

 彼らのやり取りはまるで呼吸を合わせたように滑らかで、無駄がない。

 メノリが指示を出し、リュウジがそれを理解してすぐ動く――その流れに言葉はいらなかった。

 

 ルナは手にしていた水袋を少し強く握りしめた。

 心の奥がざわつく。

 彼らが真剣に話しているのはわかる。

 それでも、どこかに置いていかれているような感覚があった。

 

「ルナ、悪い。包帯の予備、どこに置いた?」

 リュウジの声がして、ルナはハッと我に返った。

 

「え? あ、うん。木箱の中よ。右のほう」

 慌てて指差すと、リュウジが軽く頷いた。

 

「助かる」

 

 その一言。

 短いのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 ルナは笑顔を作りながら、心の内を見せないようにした。

 

「荷はこれで全部だろう」

「そうだな」

 メノリが地図を丸めながら言うと、リュウジが腰を伸ばした。

 

「メノリ、無理はするなよ」

 不意にリュウジが言った。

 その声音は低く、穏やかで、まるで仲間を気遣うようだった。

 

 メノリは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。

「心配性だな。私だって戦えないわけじゃない」

 

 そのやり取りを見ていたルナは、また胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。

 二人の間に漂う、穏やかで、どこか信頼の深い空気。

 それが羨ましくて、苦しくて――息が少し詰まった。

 

 ルナは俯き、掃除道具を手に取った。

 床を拭くふりをしながら、そっと視線をそらす。

 

(……こんな気持ち、知られたくない)

 

 彼女の胸の奥で、温かい何かと冷たい痛みがせめぎ合っていた。

 

「ルナ」

 ふと、名前を呼ばれて振り返る。

 リュウジが荷を肩に担いで、こちらを見ていた。

「帰りが遅くなるかもしれない」

 

「……うん。気をつけて」

 ルナは微笑みながら答えた。

 けれど、その笑顔の奥で、何かがかすかに軋むような音を立てた。

 

 メノリとリュウジはうなずき合い、森の奥へと歩き出す。

 木々の間から差す朝の光が、二人の背中を静かに包み込んでいた。

 

 ルナはその姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

 胸の奥に残ったのは、心配でも嫉妬でもない――名前のつけられない痛みだけだった。

 

 やがて、風が吹いた。

 淡い春の匂いを含んだ風がルナの頬を撫で、髪を揺らした。

 その瞬間、彼女は小さく息を吐いた。

 

(……私、もっと強くならなきゃ)

 

 そう心に言い聞かせて、ルナは静かに家の中へ戻っていった。

 新しい一日が、静かに始まろうとしていた。

 

◇◇◇

 

森の中は静まり返っていた。

 木々の間から差し込む朝の光が、まだ湿り気を帯びた土を銀色に照らしている。

 風が梢を渡るたび、霧のような冷気が頬を撫でた。

 

「……空気が変わったな」

 リュウジが呟く。

 槍を肩に担ぎ、慎重に足を進めていた。

 

「そうだな。昨日までよりも匂いが濃い。南の湿地からの風だろう」

 メノリは周囲を見回し、枝葉の動きを確かめる。

 その鋭い目は、一切の油断を許さない。

 

 二人はしばらく黙って歩いた。

 すると、不意にリュウジが立ち止まる。

「……見ろ」

 

 指差した先、低木の根元に赤と白の実が混ざっていた。

 ひときわ光を反射するような白い果実――その隣に、燃えるような朱色の果実が寄り添っている。

 

「月梨と炎果か。もう実をつけていたのか」

 リュウジの声は落ち着いていたが、その瞳は確かに輝きを帯びていた。

 

「了解だ。私が摘むから、周囲を見ていてくれ」

 メノリは慎重に葉をかき分け、果実を一つずつ布袋に入れていく。

 白い月梨が朝の光を受けて透き通り、赤い炎果がまるで焔のように輝いた。

 

 その時――リュウジの耳が森の奥からの微かな音を捉えた。

 風とは違う、重い息づかい。

 彼は無言で槍を構え、メノリに目で合図する。

 

「……何かいるのか?」

 メノリが声を潜める。

 リュウジは頷き、木の陰をゆっくりと覗き込んだ。

 

 藪の向こうで、茶色い毛並みが揺れた。

 獣――四つ足の草食種だが、体格は大人二人分はある。

 冬を越して腹を空かせているのか、地面を掘りながら根を食っていた。

 

「距離は十五メートル……風下だ。気づかれてない」

 リュウジが呟くと、メノリは腰を落として頷く。

「仕留められるか?」

「問題ない」

 

 リュウジは黒曜石の穂先を光にかざし、呼吸を整えた。

 息を止め、腕の力をゆっくりと溜める。

 空気が凍るような静寂の中――槍が音もなく放たれた。

 

 “シュッ”

 

 鋭い風切り音のあと、獣が短く呻き声を上げて倒れた。

 その場に血の匂いが広がり、鳥たちが一斉に飛び立つ。

 

 リュウジはすぐに駆け寄り、首筋に槍を突き立てて止めを刺した。

「……仕留めた」

 短く言い、槍を抜くと、深く息を吐く。

 

 メノリが近づき、倒れた獣を見下ろした。

「見事なものだな。速くて正確だった」

「何度もやってきたことだ」

「それでも、誰にでもできることじゃないだろう」

 メノリの口調には、珍しく柔らかな響きがあった。

 

 リュウジは少しだけ口元を緩めた。

「……助かる。これで少しは皆に食わせられる」

 

「月梨と炎果も十分ある。帰りは重くなりそうだな」

「構わん。背負うのは慣れてる」

 

 そう言ってリュウジは獣の足を縄で縛り、肩に担いだ。

 森の木漏れ日が、二人の背中を淡く照らす。

 

「行こう、メノリ」

「ああ。みんなが喜ぶだろう」

 

 風が吹き抜ける。

 枝葉のざわめきの向こうに、春を告げる鳥の声がかすかに響いた。

 二人はその音に導かれるように、“みんなの家”への道をゆっくりと戻っていった。

 

◇◇◇

 

森を抜けて戻ってきたのは、まだ太陽が真上に昇る前だった。

 リュウジの肩には仕留めた獣が担がれ、メノリの腕には赤く艶やかな「炎果」と、淡く銀色に輝く「月梨」の入った袋。

 二人の姿を見つけるや否や、“みんなの家”の前にいたルナがぱっと顔を上げた。

 

「――リュウジ! メノリ!」

 声が森に響く。

「思ったより早かったのね!」

 

「食料がすぐ見つかったんだ」

 リュウジは淡々と答え、肩から重そうな獣を下ろす。

 どさりと地面に響く音に、ハワードが目を丸くした。

 

「おおっ!? 本当に仕留めてきたのかよ! しかも、こんなデカいの!」

「うわぁ……!」とシャアラが思わず口を押さえる。

「これ、一頭分全部? すごい……!」

 

 ベルも近づいて、じっと獣の体を見た。

「……見事だな、リュウジ。動き出す前に仕留めたんだね」

「風下を取れた。偶然もあるがな」

 リュウジは肩の汗を拭いながら、淡々と答えた。

 

「南の丘で見つけたの。月梨と炎果もよ」

 メノリが袋を開くと、赤と銀の果実が朝の光を受けて輝いた。

「炎果!」とルナが目を輝かせる。

「甘くておいしいのよね!」

 

「月梨もあるじゃないか!」とハワードが嬉しそうに声を上げる。

「冷たくて最高だったよな!」

「前はあれ、三つも食っただろ」とカオルが呆れたように言う。

「だって、うまかったんだって!」

 ハワードが言い返すと、周りから笑い声が上がった。

 

 その笑いの中で、カオルは静かに立ち上がった。

「獣の血抜きは川のほうがいいな。俺も行こう」

「大丈夫だ、慣れてる。洗濯場のほうでやる」

 リュウジがそう言い、獣の脚を縛り直す。

「そうか。なら、刃を貸しておこう」

 カオルが腰から黒曜石の短剣を抜いて渡す。

「助かる」

 

 ルナはそのやり取りを見つめ、静かに息を吐いた。

 相変わらず、二人の連携は無駄がなくて、言葉が少なくても通じ合っている。

 それが少しだけ羨ましくもあり、心強くもあった。

 

 洗濯場のほうでは、水音が絶えず響いていた。

 リュウジは川の水で獣の血を洗い流しながら、慎重に刃を動かす。

 水面には太陽の光が反射し、魚影がきらめく。

 風が吹くたび、木々の香りと獣の鉄の匂いが混ざり合った。

 

「手際がいいな」

 後ろからベルの声がした。

「俺も、父さんに教わってたんだ。獣を解体する時の呼吸ってやつ」

「そうか……いい親父さんだったんだな」

 リュウジの声に、ベルは小さく笑った。

「……ああ。父さんなら今の俺を見て、少しは褒めてくれるかもしれない」

 

 その言葉にリュウジも口角を上げる。

「褒めるだろうさ。お前は仲間を守ってる」

 

 ベルは照れくさそうにうつむき、「……ありがとう」と呟いた。

 

 一方その頃、家の中ではメノリが果実を整え、ルナとシャアラが布を広げていた。

「炎果は日が高いうちに切っておこう。月梨は冷やしておくといいだろう」

「了解、メノリ」

 ルナは手際よく果実を並べながら微笑む。

「でも、こんなに早く戻ってくるなんて思わなかったわ」

「運が良かったんだろう」

 シャアラの言葉に、メノリは少しだけ笑って返した。

 

 外からはハワードの明るい声が響いていた。

「カオルー! 肉、焼くなら俺も手伝うぞ!」

「お前、味見専門だろ」

「そ、それは確認ってやつだ!」

「確認で一番食うやつがあるか」

 メノリが苦笑しながら首を振ると、ルナとシャアラが吹き出した。

 

 やがてリュウジとベルが戻ってきた。

 リュウジの腕には下処理の終わった獣肉、ベルの肩には乾かすための網代わりの枝を束ねたもの。

 

「思ったより軽かったな。脂の少ない獣だったようだ」

 リュウジが言うと、ベルが「でも肉質は悪くない」と頷く。

「焼けば香りが立つだろう」

「じゃあ今日の昼はごちそうだね!」とルナが声を上げた。

 

「炎果と一緒に煮てもいいな」とメノリが提案する。

「甘みと酸味のバランスが取れるだろう」

「お前だけは止めとけ……」とハワードが呆れながら笑った。

「失敗したらハワードの皿に盛るだけだ」とメノリがさらりと返す。

「えぇ!? なんで僕だけ!?」

 再び笑い声が起こり、家の中に柔らかな陽の光が広がった。

 

 森のざわめき、果実の香り、そして仲間たちの笑顔。

 冬の厳しさを乗り越えた仲間たちは、少しずつ――確かな“日常”を取り戻していた。

 

◇◇◇

 

午後の陽光が、森の木々の隙間からやわらかく差し込んでいた。

 大いなる木の上に建つ“みんなの家”では、修繕の音が心地よく響いている。

 ルナは腕まくりをして、木の梁を磨いていた。

 その隣ではベルが木槌で楔を打ち、ハワードが枝で削った木片を差し込んでいく。

 

「ベル、その板もう少し右!」とルナが声を上げる。

「分かった」とベルは優しく頷き、力を込めて梁を押した。

 その静かな動きに、木組みが“ぎしり”と鳴く。

「よし……そこだ!」

 ハワードが声をかけ、木槌を叩く音がリズムよく響いた。

 

「釘を使わないのに、こうしてちゃんと固定できるなんて不思議ね」

 シャアラが感心したように呟く。

「構造自体が噛み合うように作ってあるからね」

 ベルは嬉しそうに笑った。

「自然の中で生きるなら、自然に頼らないとね」

 その言葉にルナは一瞬手を止め、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「……いい言葉ね、ベル」

「うん」

 風が木々を揺らし、枝葉の影が床をかすめていった。

 家の中に流れるその時間は、どこか懐かしく、暖かかった。

 

◇◇◇

 

 一方その頃、リュウジとカオルは川沿いに立っていた。

 雪解け水が勢いを増し、澄んだ流れが陽光を反射して眩しい。

 リュウジは腰を落とし、槍を手にして川面をじっと見つめていた。

 

「まだ水は冷たいな」

「そうだな。……けど、魚の動きは出てきてる」

 カオルの声はいつもより少し柔らかかった。

 彼もまた、黒曜石のナイフを手にして腰を低く構えている。

 

 リュウジはわずかに足を動かし、流れの中に視線を定めた。

 次の瞬間、鋭い水音――

 槍の先が一閃し、水しぶきとともに銀色の魚体が跳ね上がる。

 

「見事だな」

「こいつは群れで動いてるな。下流にもう少しいるはずだ」

「なら、俺が網代わりの枝を構えておく」

 カオルが膝まで水に入り、流れを遮るように木の枝を組んだ。

 その隙間に魚が追い込まれ、次々と捕らえられていく。

 

 水音と息づかいだけが響く数分間。

 やがて二人は川辺に腰を下ろした。

 カオルが水をすくい、顔を洗う。

「……悪くない日だな」

 その言葉に、リュウジはわずかに口元を緩めた。

「そうだな。風が穏やかで、空気もうまい」

 

「お前も変わったな、リュウジ」

「なんだいきなり?」

「前は“仲間のことなんて気にしない”って言ってただろう」

「……そうかもしれんな」

 リュウジは拾い上げた魚を見下ろしながら、小さく息をついた。

「けど今は、あいつらの笑い声を聞くと、悪くないと思う」

 

 川面に映る太陽の光が揺れ、二人の影をきらめかせた。

 雪解けの水が冷たく、それでいて春の匂いが混じり始めている。

 

 夕方前、“みんなの家”にリュウジとカオルが戻ると、

 ルナたちは床を拭き終え、梁の補強も済ませていた。

 

「おかえり!」とルナが駆け寄る。

「魚が群れてた。食料には十分だ」

 リュウジが背負った袋を降ろすと、シャアラが目を丸くした。

「うわぁ……! こんなにたくさん!」

 

 ハワードが喜びの声を上げる。

「やったな! 今夜も魚のごちそうだ!」

 ベルも穏やかに笑った。

「今日は温かい汁物にしよう。みんなで食べよう」

「そうだな」とメノリが頷く。

「久しぶりに、穏やかな夜になりそうだ」

 

 その言葉に、ルナは小さく頷いた。

 リュウジとカオルの無事な姿を見て、胸の奥の緊張がようやくほどけていく。

 

 ――季節は、確実に春へと向かっている。

 けれどそのぬくもり以上に、仲間たちの笑顔が、ルナの心を温めていた。

 

◇◇◇

 

夕暮れ時。

 焚き火の赤い光が“みんなの家”の外壁を照らし、川から戻った魚がきれいに並べられていた。

 ベルが串を削り、ハワードがその魚を受け取って並べていく。

 ルナとシャアラは鍋の水を温めながら、香草を刻んでいた。

 

「……ねえ、いつもシャアラばかりに作らせてごめんね」

 ルナが火のそばでしゃがみ込みながら言うと、シャアラは首を横に振った。

「いいのよ。好きでやってるんだから」

 いつもの穏やかな笑顔。けれど、その目の下には少し疲れの影が見える。

 

 その様子を見ていたメノリが、腕を組みながら口を開いた。

「今日は私が作るとしよう」

 

 焚き火の周りにいた全員の動きが――止まった。

 

「え?」

 ルナが思わず振り返る。

 メノリは真剣な表情のまま続けた。

「こういうのは持ち回りでやるべきだろう? シャアラにばかり負担をかけるのは公平じゃない」

 

 まっとうな意見。誰も反論できない。

 だが――

 その場に漂う空気は、どこか張り詰めていた。

 

 ハワードが焚き火の火を見つめながら、口を開こうとして――閉じた。

 ベルは気まずそうに視線を逸らし、ルナは無理に笑顔を作った。

「そ、そうね。メノリが言う通りだわ。たまには……うん、いいと思う」

 

 その隣で、リュウジが薪をくべながら、ぼそりと呟いた。

「……大丈夫か?」

「何がだ?」とメノリは眉を上げる。

「いや……火力の話だ」

「そうか。なら問題ないだろう」

 自信満々に答えるその姿に、ルナは苦笑するしかなかった。

 

 そんな中でも、メノリだけは真剣そのものだ。

 木の皿に魚を並べ、香草をまぶし、果実の搾り汁をかけていく。

「見た目は……悪くないけど……」とルナが小声で呟くと、

「味は……きっと……」とシャアラが恐る恐る続けた。

 

 その様子を見たベルが、優しく言った。

「メノリが作ってくれるの、嬉しいよ。いつも助けてもらってるし」

 その一言で、場の空気が少し和らぐ。

 メノリは表情を緩め、「そう言ってくれると助かる」と小さく笑った。

 

 ――だが、火にかけられた鍋の中から、すでに不穏な香りが立ち上り始めていた。

「……なあ、今、焦げてないか?」とハワードが鼻をひくつかせる。

「焦げではない。風味だ」

「風味で煙が出るのか!?」

「黙って見ていろ、科学的な調整だ」

 

 ルナが額を押さえながらため息をつく。

 ベルが微笑ましくそれを見ていた。

「……ま、これも仲間の味ってやつだな」

 彼の穏やかな声に、ルナも思わず吹き出した。

 

 ――果たしてこのあと、誰が最初のひと口を担当するのか。

 焚き火の炎がパチパチと鳴る音だけが、静かな緊張の中に響いていた。

 

◇◇◇

 

夜の森に、焚き火の赤い光が揺らめいていた。

 鍋の中からは、かすかに甘い――いや、どこか苦い香りが漂っている。

 

 全員が焚き火を囲んで座っていたが、その表情は硬い。

 ルナは笑顔を作りつつ、鍋の中を覗き込んだ。

「……すごく……個性的な香りね、メノリ」

「うむ、狙い通りだ」

 メノリは真剣な表情でうなずき、木の杓文字で具をすくい上げた。

 

 鍋の中には、香草と共に煮込まれた魚、そして果実のかけらが見える。

 だがその果実――“炎果”の赤が、煮詰まりすぎて黒く変色していた。

 

「……ちょっと焦げてない?」とハワードが恐る恐る尋ねる。

「焦げではない。深みだ」

「……深み、ね……」

 ハワードの笑顔が引きつる。

 

 リュウジは黙って腕を組んでいたが、やがて目を閉じて小さく息を吐いた。

「……ルナ」

「なに?」

「最初のひと口、頼んだ」

「えっ!? な、なんで私なの!?」

「リーダーだからだ」

「そ、そんな理屈ある!?」

 慌てるルナを見て、ハワードが小声で呟いた。

「ルナ、勇気を出せ……僕らの未来がかかってる」

「縁起でもないこと言わないで!」

 

 ベルが苦笑しながら、そっと手を伸ばした。

「……僕が最初に食べるよ」

「ベル!?」とシャアラが驚く。

「大丈夫。食べられないものなら、すぐ分かるさ」

 穏やかな笑みを浮かべながら、ベルは器を受け取った。

 

 全員が息をのむ中、ベルはゆっくりとスプーンを口に運ぶ。

 一口、咀嚼――そして……沈黙。

 

 焚き火の爆ぜる音だけが響いた。

「……どうだ?」とメノリ。

 ベルは少し考えるように目を伏せ、そして小さく微笑んだ。

「……うん、思ったより、悪くない。ちょっと苦いけど、後味は……不思議と温かい味だ」

「え? 本当に?」とルナが目を丸くする。

 シャアラが恐る恐るスプーンを口に運んだ。

 

 ――次の瞬間。

「……あっ、これは……!」

 全員の視線が集まる。

「ちょっと苦いけど……でも、なんか懐かしい味がする……」

 シャアラの頬がゆるみ、ほんのりと笑顔がこぼれた。

 

 ルナもおそるおそる一口。

 舌に広がったのは、香草の苦みと焦げた果実の甘み、そして魚の旨み。

「……本当だ……なんだか、不思議と落ち着く味」

 

 ハワードも恐る恐るスプーンを手に取り、

「……うわ、苦っ! けど、悪くない!」と笑った。

 

 それを見たメノリは、照れくさそうに息をついた。

「焦げたのは少し計算外だったが……結果的に、悪くはなかったようだな」

「うん!」とルナが笑顔を向けた。

「メノリの料理、意外と癖になるかも」

 

「いや、意外とって言葉は余計だろう」

 メノリが苦笑しながら返すと、全員の笑い声が上がった。

 

 その笑い声は、夜の森にやさしく溶けていく。

 焚き火の炎が仲間たちの頬を照らし、

 焦げた香りと笑い声が、ひとつの“記憶の味”になっていった。

 

⬜︎

 

焚き火の炎が小さく揺れ、木のはぜる音が夜の静けさに溶けていた。

 食事を終えたみんなはそれぞれの場所でくつろいでいた。

 ベルは食器を洗い、ハワードはその手伝いをしながらも、合間に「焦げも悪くないな」などと笑っている。

 メノリは火のそばで腕を組み、焚き火を見つめていた。

 シャアラは眠そうな瞳で小さく欠伸を漏らし、ルナは静かに立ち上がった。

 

 ――外の空気が、恋しくなったのだ。

 

 “みんなの家”の外に出ると、夜風が頬を撫でた。

 森の木々は月明かりを浴び、静かに光っている。

 遠くでは、かすかに虫の声。

 見上げれば、満天の星が夜空いっぱいに広がっていた。

 

「……きれい」

 ルナは思わず呟いた。

 この星に降り立ってから、幾度となく見上げてきた空。

 でも今夜は、いつもよりずっと、穏やかに見えた。

 ――寒さではなく、胸の奥の温もりが残っている。

 

 背後から足音が聞こえた。

「外に出てたのか」

 低く静かな声。振り向くと、リュウジが立っていた。

 手には焚き火の薪を一本持ち、火の粉を払うように軽く振っている。

 

「少し、風にあたりたくて」

「……そうか」

 リュウジも隣に立ち、同じように夜空を見上げた。

 二人の間に、言葉はいらなかった。

 ただ、星の光がゆっくりと彼らを照らしていた。

 

 やがてルナが、少し笑みを浮かべた。

「メノリの料理、意外と美味しかったわね」

「意外と、な」

「ふふっ、やっぱりそう思ってた?」

「まぁ……あの焦げ具合で食べられるなら上出来だ」

 リュウジの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

 それを見てルナは、目を細めて笑った。

 

「でもね、なんだか嬉しかったの」

「嬉しかった?」

「うん。あんなに一生懸命に作ってくれて。

 みんなが笑って、少しだけ焦げてても“おいしい”って言って。

 ……それだけで、なんか“ここが家なんだ”って思えたの」

 

 リュウジは小さく頷いた。

「そうだな。……あいつらが笑ってると、悪くない気分になる」

「ふふ、それってリュウジが言うと珍しい」

「俺もそう思う」

 二人の間に、風が通り抜けた。

 

 しばらく星を見上げたあと、ルナが小さく口を開く。

「ねぇ、あの時――リュウジが言ってた“仲間を守る”って言葉。

 本当は、自分のことも守りたいって意味があるんじゃない?」

 

 リュウジは目を細め、しばらく黙っていた。

 やがて、静かに答える。

「……かもしれないな。

 俺が誰かを守ってるようで、実はあいつらに救われてるのかもな」

 

 ルナはその言葉に、ゆっくりと微笑んだ。

「……やっぱり、優しいのね」

「やめてくれ、そういうのは性に合わない」

「ふふっ、そう言うと思った」

 

 二人はしばらく黙って星空を眺めた。

 静寂の中、風の音と遠くの焚き火の匂いだけが漂う。

 その光景は、まるでこの惑星が二人を包み込んでいるようだった。

 

 やがてルナが、そっと目を閉じて言った。

「……明日も、いい日になるといいね」

「ああ。きっとなるさ」

 

 その言葉に、ルナは微笑みを返す。

 焚き火の明かりが遠くでまたひとつ弾け、夜の静けさが戻った。

 

 ――この夜、ふたりの間に生まれたのは、

 言葉よりもずっと静かで、あたたかな信頼のぬくもりだった。

 

⬜︎

 

朝の光が“大いなる木”の枝葉の間からこぼれ落ち、木組みの床をやわらかく照らしていた。

 昨日までの冷たい風はどこか和らぎ、空気の中にはほんのりとした春の匂いが混ざっている。

 

 ルナはいつものように外の枝道を歩き、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 木の根元では、朝露を浴びた苔がしっとりと輝き、森の奥からは鳥のさえずりが聞こえてくる。

 

 ――そんな静かな朝。

 

「なぁ、みんな!」

 やけに元気な声が響いた。

 “みんなの家”の入り口からハワードが顔を出し、両手を腰に当てて立っていた。

 

「いいこと思いついたぞ!」

 突然の大声に、シャアラが驚いて振り返り、手に持っていた木のカップを落としそうになる。

「びっくりした……ハワード、朝からどうしたの?」

 

「ちょっと真面目な提案だ!」

 ハワードは胸を張って堂々と宣言する。

「シンゴたちが帰ってくるまでの間、みんなで料理を順番で作ろうと思う!」

 

 ルナは小首をかしげた。

「順番で……?」

「そう! 料理当番制だ! 毎日同じ味じゃつまらないだろ? だから交代で作るんだよ!」

 

 焚き火のそばで枝を割っていたベルが、静かに顔を上げた。

「……悪くない考えかもな。みんなでやれば、負担も減るし」

「だろ!? ベル、分かってるな!」

「でも、順番はどうするの?」とルナが尋ねると、ハワードは得意げに人差し指を立てた。

 

「そこも考えた! 最初は俺! 次がルナ、次がリュウジ、最後がベル!」

 

「……え?」

 ルナは一瞬、固まった。

「なんでその順番なの?」

「そりゃあ、俺が“先陣を切る男”だからさ! お手本を見せてやる!」

 どこまでも自信満々だ。

 

 メノリが腕を組み、少し呆れたように言う。

「お手本……ね。前回の“黒焦げスープ事件”を忘れたわけじゃないだろうな?」

「ち、違う! あれは風向きが悪かっただけだ!」

「料理に風は関係ないだろう」

 メノリの冷静な突っ込みに、ハワードは目を逸らす。

 

 ルナは苦笑しながら、シャアラに視線を向けた。

「ねぇ……私、ちょっと不安なんだけど」

「だ、大丈夫だと思う……たぶん……」

 シャアラの声がどこか震えていた。

 

 その場の空気を少し和らげるように、ベルが優しく言った。

「まぁ、順番にやるのはいいことだよ。ハワードも頑張ってるし」

「ほら! ベルはわかってる!」とハワードが嬉しそうに言う。

「ただし、焦がさないようにな」とベルが穏やかに微笑む。

「任せろ! 今回は完璧だ!」

 

 リュウジは焚き火に薪をくべながら、低く呟いた。

「……完璧、ね」

「おいリュウジ、その言い方どういう意味だよ!」

「悪い意味じゃない。ただ、準備はしておく」

「何の準備!?」

「非常用の水」

「縁起でもないこと言うなよ!!」

 

 ルナが思わず吹き出した。

「ふふっ……まぁ、順番制はいい案よ。みんなで支え合うっていうのは、ハワードらしいし」

「おっ、やっぱりルナは分かってるな!」

 ハワードが胸を張ると、ベルとシャアラが顔を見合わせて笑った。

 

 木の上を渡る風が、春の香りを運んでくる。

 どこか穏やかで、柔らかな空気。

 

 こうして――

 “シンゴたちが戻るまでの料理当番制”が決まった。

 先陣を切るのは、やる気だけは人一倍のハワード。

 

 焚き火の炎がパチリと音を立てる。

 ルナは少し不安げに笑いながらも、心のどこかで楽しみにしていた。

 

「……さて、今日の朝食、どうなるのかしらね」

 

 森の中に、春を告げる鳥の声が響いた

 

⬜︎

 

大いなる木の上。

 朝の日差しが枝の間から差し込み、木漏れ日が焚き火の炎をやわらかく照らしていた。

 

「よーし! 僕がやる番だ!」

 ハワードが腕をまくり、胸を張って宣言する。

 ルナ、メノリ、ベル、シャアラ、リュウジが木の上のテラスに集まり、その様子を見守っていた。

 

「……ほんとにやるのね、ハワード」

 ルナが苦笑いを浮かべる。

「当然だろ? 料理の腕も見せるチャンスだ!」

「またそのセリフ、聞いた気がする」

 メノリが眉を寄せながら、少し冷たい視線を送る。

 

「だって、俺、この前のことを反省してるんだ!」

「この前?」

 シャアラが首をかしげた瞬間――メノリがため息をついた。

「“黒焦げスープ事件”だろう」

 

 その言葉に、全員の表情が引きつった。

 リュウジが薪をくべながら、ぼそりと呟く。

「……あれは事件というより、災害だったな」

「ちょ、ちょっと待て! そんな言い方はないだろ!」

 ハワードは慌てて手を振る。

 

「だって……スープが鍋ごと真っ黒になって、底が抜けたのよ?」

 ルナが思い出して肩を震わせる。

「……火の色まで黒かったな」とリュウジ。

「おい! そんなに言うなよ!」

「スープで鍋が燃えるなんて、初めて見た」とメノリが淡々と続ける。

「ぐっ……」

 ハワードは項垂れた。

 

 ベルが少し笑いながら、静かに言った。

「まぁまぁ、その時は材料も悪かったしな。焦げたけど……努力は伝わったよ」

「べ、ベル……優しいなぁ……!」

 ハワードが感動して手を握ろうとするが、ベルはさりげなく避けた。

「ただし、今回は焦がすなよ」

「ぐっ……任せろ!」

 

 

 ハワードは再び気合を入れ直し、炎の前に立つ。

「今日のメニューは、“森の恵みスープ”だ!」

「……またスープなの?」とルナが苦笑する。

「リベンジだよ、リベンジ!」

 ハワードは誇らしげに木のボウルを掲げる。

 

 果実の皮をむき、根菜を刻み、川魚の切り身を鍋に放り込む。

「見ろよ! ちゃんと順番に入れてる!」

「順番だけで味は決まらないと思うが……」とメノリ。

「うるさい! 今度は完璧だ!」

 

 香草を投げ入れ、スプーンでかき混ぜる――が、すぐに煙が上がった。

「ちょ、ちょっと! 煙出てるわよ!」

「うん、これは……香りづけだ!」

「それ、焦げてる!」

「違う! 演出だ!」

 

 メノリが額を押さえ、リュウジが黙って水桶を横に置く。

「……用意がいいな」とハワードが目を細める。

「前回、予測してなかったからな」

「……くっ!」

 

 やがて、鍋の中から「ぼこっ」という音が鳴った。

 泡が弾けるたびに、スープが深い茶色――いや、ほとんど黒に近い色へと変わっていく。

 誰もが黙ったまま見守る中、ハワードは最後の味見をして――満面の笑みを浮かべた。

 

「できた! 今度こそ完璧だ!」

「……香りが、独特ね」とルナ。

「焦げてはいない。……ただ、何か燃えた匂いはする」とメノリ。

「じゃあ、俺が最初に食べるよ」とベルが言った。

 

 スプーンを手に取り、一口。

 ――静寂。

 焚き火の音だけが響く。

 

「……ベル?」

「……うん」

「どう?」

「……温かい」

「それだけ!?」

 

 ベルが少し考えて、柔らかく笑った。

「……うん、味は……不思議だけど、前よりずっと優しい味だよ」

 その言葉に、ハワードの顔がぱっと明るくなった。

 

「だろ!? だから言っただろ、俺も成長してるって!」

「まあ、黒焦げスープから“焦げ風味スープ”には昇格だな」とメノリが淡々と付け加える。

「ほめてるのか、それ!」

「事実を述べただけだ」

 

 ルナは笑いながらスプーンを手に取り、一口すくう。

「……あ、ほんと。少し苦いけど、飲める味になってる!」

「ほら見ろ! 努力の成果だ!」

「ハワード、次は焦がさないようにね」

「次もスープにする気か?」とリュウジが呟くと、

「も、もちろん新作を考えるさ!」とハワードが胸を張った。

 

 シャアラは笑いながら頬を染めた。

「なんだかんだで、こういう朝って好きだな」

「そうだね」とルナも微笑む。

 

 焚き火の上では、ハワードの“特製スープ”が再び小さく泡を立てていた。

 その香りは――少し焦げていて、少し甘くて、何よりも仲間の温もりが混ざっていた。

 

◇◇◇

 

昼の陽射しが“大いなる木”の隙間を縫うように差し込み、木の床をまだらに照らしていた。

 午前の修繕作業を終えた仲間たちは、焚き火のまわりに集まって昼食の支度を見守っている。

 今日の当番はルナ。少し緊張した面持ちで、黒曜石のナイフを手にした。

 

「えっと……何を作ろうかな」

 ルナが小さく呟くと、すぐ後ろから声がした。

「魚と香草があるなら、包み焼きがいい」

 低く静かな声――リュウジだった。

 

「包み焼き?」

「葉で魚と香草を包んで、熱した石の上で蒸す。焦げにくい」

 リュウジは簡潔に言いながら、火のそばで木の枝を削り始めた。

 

 その横顔を見上げながら、ルナは思わず微笑む。

「……ありがとう、リュウジ。じゃあ、それにしようかな」

 

 ハワードが腕を組んで口を挟む。

「おいおい、なんでリュウジばっかりルナに教えてんだよ。ズルいじゃないか!」

「ズルいって、料理の話だろ?」とメノリが呆れ顔で言う。

「う、うるさいな! 僕だって手伝えるし!」

 「ハワードが手伝ったら、また“焦げ伝説”が生まれるだろう」

 カオルが淡々と火の番をしながら言うと、皆の笑いが弾けた。

 

 ルナは照れながら、ナイフで魚の鱗を丁寧に落としていく。

 しかし手が少し滑り、身が崩れかけた。

「っ……」

 リュウジがすかさず手を伸ばし、ルナの手元を支える。

「焦るな。力を抜け」

「……ありがとう」

 彼の手がほんの一瞬触れ、ルナの鼓動が跳ねた。

 

 包み終えた葉を熱した石の上に並べる。

 香草と炎果の香りが立ち上り、焚き火の煙と混ざってふわりと漂う。

 

「うん、いい匂いがしてきたわね」

 シャアラが嬉しそうに言う。

「前の黒焦げスープと違って、食べ物の匂いがする!」とハワード。

「ハワード、それをまだ言うのか」

 ベルが苦笑しながらも優しい声で注意する。

 

 数分後、ルナは火ばさみを手に取り、包みを持ち上げた。

 葉の表面に焦げ目がついて、香ばしい匂いが広がる。

「……少し焦げたかも」

 ルナが不安げに包みを開くと、魚の身はふっくらとしていたが、端が少し黒い。

 

「見た目は……うん、まぁ、味が大事だし」

「そうだ。見た目は飾りだ」

 リュウジがひとつを手に取り、ためらいなく口に運ぶ。

 一口、噛んで、静かに目を閉じた。

「……美味い」

「え?」

「見た目は悪いが、味は温かい。……心が落ち着く味だ」

 

 その一言にルナの胸がじんと熱くなる。

「ほんと?」

「ああ。焦げ味も悪くない。香草がよく効いてる」

「それ、褒めてるの?」

「俺なりに」

 リュウジの口元が、わずかに笑った。

 

 ハワードが急いで木皿を差し出す。

「おい、僕も味見させろ!」

 ベルが制して言う。

「焦げてない方、食べたら?」

「えっ、そっちは……いや、まぁ、焦げてない方でいいや!」

 

 みんなが笑いながら食べる中、メノリが落ち着いた声で言う。

「次は葉をもう一枚重ねて包むといいだろう。けれど、味は悪くない。これなら夕食にも使える」

「ほんと? よかった……」とルナは安堵の息を漏らす。

 

 その光景を眺めながら、リュウジは焚き火に新しい薪をくべた。

 炎の音が小さく弾ける。

「次は、もう少し焦がさないように」

「うん。次も、ちゃんと教えてね」

「……考えとく」

 

 その言葉にルナはそっと笑い、焚き火の向こうで揺れる彼の横顔を見つめた。

 少し焦げた包み焼き――でも、それは、

 この木の上でみんなと過ごす時間の“あたたかさ”そのもののようだった。

 

◇◇◇

 

午後がゆっくり傾き、枝葉の影が“大いなる木”の床を長く横切りはじめた。

 焚き火の上では湯が小さく揺れ、昼の名残の香草が乾いてぱち、と音を立てる。

 

「――で、今夜は俺の番だ」

 リュウジが手短に言うと、焚き火の輪にいた皆の視線が集まった。

「何が食べたい?」

 低く落ち着いた声。普段の指揮と同じ調子だが、その眼は少しだけ楽しげだ。

 

「私は、なんでもいい」

 メノリが即答する。「栄養のバランスが取れていれば十分だろう」

「わ、私も……なんでも」

 シャアラは指を胸の前で重ね、小さく頷く。

「私も。リュウジにお任せでいいわ」

 ルナが微笑むと、リュウジは「了解」と短くうなずいた。

 

 そのとき、ハワードが腕を組んで身を乗り出す。

「なぁ……言いにくいけどさ。リュウジって、料理は下手なんじゃないの?」

「え?」とルナが目を瞬く。

「いや、ほら、あいつって完璧だろ? だから意外なところに弱点があるはずなんだよ。ね? こう……塩と砂糖を間違えるとか!」

「まっさか」ルナは笑い、肩をすくめる。「リュウジが? ないない」

「ふん、じゃあ見てろよ。完璧超人にも穴はあるんだ……たぶん!」

 

 リュウジはそのやり取りに苦笑をひとつ残し、槍と黒曜石のナイフ、細い縄、布袋を携えて立ち上がる。

「食料、採ってくる。日が落ち切る前に戻る」

 

 南の崖は、冬の風に削られた岩肌がむき出しで、鳥の影が斜面を横切っていた。

 地面はまだ少し湿り、靴底にひやりとした感触が伝わる。

 リュウジは岩の割れ目を指で確かめ、体重を分散させながら静かに登っていく。

 指先が届くくぼみ、足の親指だけがかかる浅い段差――呼吸は浅く、一定。

 巣の近くまで来ると、風向きを読んで待つ。鳥が離れた瞬間、手を伸ばし、そっと卵を布袋に包んだ。

 大きすぎない、肌理の細かい殻を選んで五つ。割れがないか、耳のそばで軽く振って音を聞く。

 帰り際、岩陰で啄んでいた小型の野鳥に目が留まる。縄を指で輪にして落とし、逃げ道を塞いだところへ一歩。

 ―― 羽音、短い影、静かな捕獲。素早く頸を締め、無駄に苦しませない。

 

 崖を下りると、今度は浜へ寄る。

 潮が引いたばかりの岩だまりから、薄緑の昆布を選っては束ね、海水で砂を洗い落とす。

 ぬめりは強いが、繊維は柔らかい。出汁向きだ。

 

 大いなる木へ戻ったのは、空が茜と藍の境目に差し掛かるころ。

 焚き火のそばで待っていたルナがぱっと顔を明るくする。

「おかえり、早かったね!」

「卵を五つ。小ぶりだが質はいい。野鳥も一羽。昆布は少し」

「……本当に、なんでも見つけてくるのね」ルナが感嘆の吐息を漏らす。

「完璧超人かどうか、今から確かめようじゃないか」

 ハワードがニヤニヤしながら肘でベルをつつく。

 ベルは穏やかに笑って首を振った。「邪魔はするなよ、ハワード」

 

「下拵えに入る」

 リュウジは短く告げ、作業を流れるように始めた。

 

 まず、出汁。

 昼の包み焼きで出た魚の骨を清水でさっと洗い、鉄板の端で軽く炙る。香りが立ったら鍋へ。

 先ほどの昆布は、端を切り込み、湯の手前の温度でゆっくり引き出す。ぐらりと泡が立つ直前に昆布を引き上げ、骨の旨味だけを静かに移す。

 灰汁が上がれば、小枝で削ったヘラで静かに掬い、澄ませる。

 焚き火の熱は強い。薪をずらして「弱火」を作り、鍋の位置を数センチ単位で調整。

 火は“見る”より“聞く”。湯の縁で小さく歌う音に合わせるのだ。

 

 次に、野鳥。

 胸から開いて内臓を取り、冷たい水で血を落とす。皮の薄い脂を指でならして鉄板へ。

 香草は指で潰して香りを出し、肉へ揉み込む。焼き色がついたら、火から離して余熱で火を通す。

 「焦げは風味」ではない。焦げは境界線だ――そういう顔つきで、リュウジは鉄板の上の位置と時間を刻む。

 

 卵は割ってボウルへ。

 先の昆布と魚の出汁をほんの少し。塩は指先で“雨”のように散らし、泡立てないよう箸で溶く。

 鉄板の鍋肌で薄い油膜を作り、卵液を流し、固まり始めた“端”を巻いては寄せ、また流す――だし巻きが層を重ね、ふわりとした厚みになっていく。

 

「……ちょっと、匂いがすごい」

 シャアラが目を丸くする。魚の骨の香ばしさ、昆布の甘い磯、焼ける鳥の脂、溶き卵の温い匂い――それらが一つに混ざって、夜の空気をやさしく満たした。

 

 最後に、月梨のソース。

 薄切りの月梨を鉄板の片隅で温め、塩をひとつまみ。果汁が滲んだところへ、出汁をほんの匙一杯。

 しゃらり、と粘りが出る前に火を切り、果肉を崩さずに木椀で受ける。冷たさの名残と温かさが同居する、不思議な風合いだ。

 

「盛る」

 木の皿が並ぶ。

 魚の出汁スープは澄んでいる。表面に小さな光の輪。

 野鳥の香草焼き・月梨ソースは、焼き目の褐色に銀色の果肉が映える。

 だし巻き卵は、層の間から湯気がふうわり。切り口は瑞々しい。

 

「……」

 誰もが言葉を失った。

 ハワードの口がぽかんと開き、メノリは無言で椀の湯気を見つめ、ベルは目元を緩ませる。

 カオルは鼻で静かに息を吸っただけだが、確かな“納得”がその目にあった。

 

「いただきます」

 ルナがそっと両手を合わせ、スープを一口。

 舌に触れた瞬間、塩気よりも“温度”が広がる。昆布と骨の透明な旨味、焚き火の微かな香ばしさ――喉を通るころには、胸の奥がじんわり温まっていた。

「……優しい。すごく、優しい味」

 リュウジがこちらを見ずに、薪の位置を少し直す。「冷めやすいからな」

 

 メノリはだし巻きをひと口。

 箸先で押すと、じわりと出汁が滲む。

「層が細かい。火入れが的確だろう。……不必要な力がどこにもない」

 それは、この上ない賛辞だ。

 

 シャアラは野鳥を。

 カリッとした皮、柔らかな身。月梨のひんやりした甘酸が熱をやさしく包む。

「……あったかくて、ほっとする。果物がこんなに合うなんて」

「脂に酸が合うからだ」リュウジが短く答える。

 

 ベルはゆっくりと頷いた。

「出汁の匂いが、家の匂いみたいだ。……みんなで食べるって、こういう味になるんだな」

 その言葉に、ルナの胸が熱くなる。

 

「ちょ、ちょっと待て……なんだこれ、うま……」

 ハワードはスープ→だし巻き→肉→またスープと、忙しく上下する。

「嘘だろ、完璧だぞ……! 弱点どこ行った!」

「最初から無かったんだろう」カオルが火箸を置き、短く言う。「――旨い」

 ハワードは頭を抱え、「ぐぬぬ」と呻きながらも、顔は嬉しそうだった。

 

 ルナはだし巻きの端をそっと口に運ぶ。

 ふわ、と解ける。さっきのスープと同じ温かさが、でも少し違う輪郭で広がった。

 隣でリュウジが静かに椀を持ち上げる。

「塩を強くしないほうが、この時間には合う」

「……うん。みんなの顔が、柔らかくなる味だね」

 

 メノリが椀を置いて、結ぶように言った。

「結論だろう。――リュウジは、料理もできる」

 言外に「完敗だ」と続いているのが、全員に伝わった。

 

 風が枝を渡り、焚き火の炎が低く揺れる。

 スープの湯気、焼き目の香り、月梨のきらめき。

 言葉は少なくとも、誰もが同じものを味わっていた。

 “生き延びただけ”の食事ではない――“帰ってくる場所の味”。

 

「……ごちそうさま」

 ルナがそう言うと、仲間たちも静かに手を合わせた。

 夜の青が濃くなる。

 大いなる木の上に灯った小さな食卓は、遠い星の下で、確かに家だった。

 

◇◇◇

 

焚き火の炎が低くなり、あたりは静けさを取り戻していた。

 夕食を終えた皆は満ち足りた表情で座り込み、夜風に頬をなでられている。

 鉄板の上に残る香草の香りが、まだかすかに漂っていた。

 

「……じゃあ、片づけは私がやる」

 メノリが立ち上がり、空いた木皿を一つひとつ手際よく重ねていく。

 それを見ていたリュウジも無言で腰を上げ、火ばさみを手に取った。

 

「俺もやる。焦げついた部分は俺が落とす」

「助かる。力仕事は任せた方が早いだろう」

 メノリは淡々と返しながら、鍋に水を張り、手を動かす。

 焚き火の明かりが二人の横顔を照らし、静かな夜気が二人の間を流れた。

 

 リュウジは鍋底の焦げを木の枝でこすり落としながら、ふと口を開いた。

「……みんな、よく動くようになったな。火の扱いも慣れた」

「そうだな。最初の頃は水をこぼすだけでも大騒ぎだっただろう」

 メノリが微かに笑みを浮かべる。

 その声には、ほんの少しの柔らかさがあった。

 

「お前がうまくまとめてる」

「私は指示を出しているだけだ。皆が自分で考えるようになった」

「……それでも、お前がいたから今がある」

 リュウジの声は穏やかで、真っすぐだった。

 メノリは一瞬、動きを止める。

「……褒め言葉として受け取っておこう」

「そうしてくれ」

 焚き火がぱちりと音を立て、二人の影が木の壁に揺れる。

 

 その少し離れた場所。

 ルナは片づけが終わった木皿を抱えながら、無意識に二人を見つめていた。

 火の明かりの中で交わすリュウジとメノリの会話――

 特別なことは何ひとつ話していない。けれど、その空気には“信頼”があった。

 

 無駄のないやり取り。

 互いに言葉を省きながらも通じ合うような呼吸。

 それを見ているだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 

(……私、何してるんだろ)

 ルナは小さく唇を噛む。

 リュウジの横顔を思い出す。

 焚き火の明かりに照らされた真剣な眼差し、優しく笑ったときの瞳――

 その全部が、知らないうちに心の奥へ残っていた。

 

 けれど今、その眼差しは別の方向を見ている。

 まるで、メノリとだけ共有できる“静かな世界”がそこにあるようで。

 

 胸が少し痛んだ。

 苦しいほどではない。でも、どうしようもなく熱を帯びるような痛みだった。

 

 シャアラが隣でそっと声をかける。

「ルナ、どうしたの?」

「……ううん、なんでもない」

 ルナは微笑んで答えた。けれど、その笑顔の奥で心は波立っていた。

 

 ――リュウジの隣に立つとき、自分もあんな風に見えるだろうか。

 そんな問いが、胸のどこかに残ったまま、夜は静かに更けていった。

 

◇◇◇

 

夜更け。

 焚き火の明かりはすっかり消え、外では風が枝葉を擦り合わせていた。

 大いなる木の上に作られた“みんなの家”は、虫の声と遠くの波の音に包まれている。

 

 女子たちの寝室スペース――木の壁に吊るされた布の間仕切りの中。

 それぞれの寝具の上で、ルナ・メノリ・シャアラの三人が横になっていた。

 小さなランプが一つ、橙色の光をかすかに灯している。

 

「……今日の夕食、すごかったね」

 シャアラがぽつりと呟いた。

「うん。あんなにおいしいもの、久しぶりに食べた」

 ルナは天井を見上げたまま、ふっと息を漏らす。

 あの味と、リュウジの真剣な横顔が、まだ胸の奥に残っていた。

 

「リュウジ、料理も上手いなんてね」

 シャアラは寝返りをうちながら、メノリに向かって笑う。

「最初はどうなるかと思ったけど……完璧だったね」

「そうだな。彼は器用だ。火加減や手順も的確だった」

 メノリは淡々と答える。けれど、その声はどこか穏やかだった。

 

 ルナはその声を聞きながら、胸の奥が少しざわつく。

 食後、焚き火の片づけをしていた二人の姿が、また頭に浮かんだ。

 あの時――リュウジがメノリを見つめていた表情。

 そこには確かな信頼と、言葉にしない安心感があった。

 

(……私も、あんなふうに話せたら)

 そんな思いが胸の奥で小さく膨らんでいく。

 でも、それを自分から言葉にするのは怖かった。

 

「ルナ?」

 メノリが視線を向ける。

「えっ……な、なに?」

「ぼんやりしてただろう。どうかしたのか?」

「ううん、なんでもない。ただ……眠れなくて」

 ルナは笑って誤魔化す。

「考えごとか」

 メノリは少しだけ息を吐き、やわらかく言った。

「今日はゆっくり休め。明日はまた修繕の続きがあるだろう」

「……うん」

 

 ルナは横を向き、背を向けた。

 その背中越しに、メノリが布団を整える音が聞こえる。

 シャアラは静かに微笑みながら、小さく言った。

「ねぇ、ルナ。リュウジのこと、少し気にしてるでしょ?」

「えっ……ち、違うよ!」

「顔に出てる」

 シャアラはくすっと笑い、毛布を頭まで引き上げた。

「……大丈夫。誰にも言わない」

 

 ルナは何も言えず、ただ布の中で目を閉じた。

 胸の鼓動が静かな夜に溶けていく。

 ――リュウジの笑顔。

 ――メノリと並ぶ姿。

 その全部が、遠くて、でもどうしても目を逸らせなかった。

 

 風が一度だけ木の外壁を揺らし、微かな音を立てた。

 その音に紛れるように、ルナのため息がひとつ零れた。

 それを聞いたシャアラは、目を閉じたまま、

 そっとルナの方に毛布を伸ばして、静かに寄り添った。

 

◇◇◇

 

夜が明け、森を渡る風がやわらかく木の葉を揺らした。

 薄い朝霧が湖面を覆い、やがて太陽の光がそれを溶かしていく。

 大いなる木の上にも、春の兆しが確かに訪れていた。

 

 ルナは目を開けた。

 ほんの少し眠っただけなのに、心はまだ重たいままだった。

 シャアラがすでに起きていて、水袋を手にしている。

「おはよう、ルナ。顔が少し赤いよ?」

「え……そう?」

「うん。寝不足かな」

 ルナは曖昧に笑ってごまかした。

 昨夜のこと――シャアラに言われた言葉が、まだ胸の奥に残っている。

 

 その時、外から低い声が聞こえた。

「おい、もう起きてるか?」

 リュウジだった。

 ルナの心臓が一瞬で跳ねた。

 声を聞いただけで、胸の奥がざわつく。

「おはよう、起きているぞ」

 メノリが寝具を畳みながら応じる。

「朝食、準備できてるの?」とシャアラ。

「いや。今日は先に川辺の様子を見てくる。雪解けで水位が上がってる」

「わかった。気をつけて」メノリは落ち着いた声で返す。

 リュウジは小さく頷き、木の梯子へ向かった。

 

 ルナは――何も言えなかった。

 声をかけようとしたのに、喉の奥で言葉が止まった。

 昨日の夜、あの焚き火の明かりの中で、リュウジとメノリが並んで話していた光景。

 その静かな距離感が、まるで今も二人の間に漂っている気がした。

 

 メノリが寝具を束ねている。

「ルナ?」

「え、な、なに?」

「顔が赤い。熱でもあるのか?」

「ち、違うの。……ちょっと寒くて」

 慌てて毛布を抱えるようにして言い訳をした。

 メノリは首を傾げながらも、追及はしなかった。

 その何気ない優しさが、今はむしろ胸に刺さった。

 

 ルナは窓のない壁に背を預け、小さく息を吐く。

 下からは、リュウジが外を歩く足音が聞こえる。

 規則正しく、力強く、それでいて落ち着いたリズム。

 

(……どうして、こんなに意識しちゃうんだろ)

 ルナは自分の手を見つめた。

 昨日、料理を教えてもらったとき、ほんの一瞬触れた指先の感触。

 あれを思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。

 なのに――あの片づけの時のリュウジの横顔を思うと、冷たい痛みが混ざる。

 

 シャアラが荷物をまとめながら、ルナの方をちらりと見た。

「ねぇルナ」

「なに?」

「リュウジと、ちゃんと話した方がいいよ」

「え……?」

「昨日から、ルナ、ちょっと変。……リュウジもきっと気づいてる」

 その言葉に、ルナは息を呑んだ。

 

 外から、メノリの声が聞こえる。

「リュウジ、調査が終わったら知らせてくれ」

「了解」

 短いやり取り。その響きは静かで、けれど妙に息が合っていた。

 

 ルナは俯き、毛布をぎゅっと握った。

 風が木の壁を揺らす音の向こうで、彼の足音が遠ざかっていく。

 

(……ねぇ、どうしてこんなに苦しいんだろう)

 言葉にならない想いだけが、朝の光の中に滲んでいった。

 

◇◇◇

 

昼前、陽が少しずつ高く昇り、木々の間に光が降り注いでいた。

 リュウジは背に槍を背負い、川辺の様子を確かめるために歩いていった。

 彼の足取りは迷いがなく、森の中を進む音だけが静かに響いていた。

 

 ルナは――どうしても気になっていた。

 寝室でメノリと交わした短いやり取りが、胸の奥に引っかかっていたのだ。

 “気をつけて”――メノリがそう言ったときの柔らかな声。

 リュウジが、あの声に軽く頷いた瞬間の姿。

 それが、どうしても頭から離れなかった。

 

(ちょっと様子を見るだけ……)

 そう自分に言い訳をしながら、ルナはそっと木の梯子を降りた。

 森の中を歩く。足元の落ち葉がかすかに音を立てるたびに、胸の鼓動が早くなる。

 リュウジの姿はすぐに見つかった。

 陽に照らされた川辺で、彼は膝をつき、水面を覗き込んでいる。

 

 春の雪解けで川は勢いを増し、冷たい光を反射していた。

 ルナは少し離れた木の陰に身を隠し、そっとその姿を見つめた。

 

 リュウジは慎重に川底の石を動かし、水の流れを確かめていた。

 時折、槍の柄で深さを測りながら、水位の変化を記録しているようだった。

 その横顔は真剣で――でもどこか、優しい。

 風が吹いて、黒髪が少し揺れた。

 その仕草ひとつひとつが、ルナには胸を締めつけるように映る。

 

(……どうしてこんなに見ていたくなるんだろう)

 

 ふと、足元の枝を踏んでしまった。

 ぱき、と乾いた音が響く。

 リュウジの動きが止まり、ゆっくりと振り向いた。

 

「……ルナ?」

 見つかった。

 ルナは木の陰から顔を出し、苦笑いを浮かべる。

「……ごめん。ちょっと、様子を見に来ただけ」

「様子?」

「ほら……川の水、急に増えて危ないかもって思って」

 リュウジはしばらく黙ってルナを見ていたが、やがて息を吐いた。

「……まったく。お前は心配性だな」

「だって……」

 

 ルナは言葉を詰まらせた。

 本当は“心配”じゃなくて、“会いたかった”――そう言いたかった。

 けれど、それはどうしても口にできなかった。

 

 リュウジは川の縁に手をつき、立ち上がる。

「水位は思ったほどじゃない。雪解けの流れが落ち着けば問題ないだろう」

「そっか……」

「でも、この辺りは地盤が緩い。立つな」

 そう言って、リュウジはルナの腕を軽く掴んで引き寄せた。

 

 その手の温かさに、ルナの心臓が跳ねる。

 距離が、あまりに近かった。

 頬に当たる息の温度がわかるほどに。

 

「……ありがとう」

 かすれるような声でルナが言う。

 リュウジは手を離し、目を細めた。

「危ないことをするな。それだけだ」

 そして、川の流れに視線を戻した。

 

 ルナは俯き、小さく頷いた。

 頬が熱くて、顔を上げられない。

 でもその胸の中では、冷たい川風と一緒に、温かい何かがゆっくりと広がっていた。

 

 二人の間に、言葉のない沈黙が落ちる。

 けれど、その沈黙は不思議と優しかった。

 春の光が、川面にきらめきながら流れていく。

 ルナはその光を見つめながら、

 ――もう少し、この時間が続けばいいのに、と思った。

 

◇◇◇

 

川の流れが遠ざかるにつれ、鳥のさえずりが戻ってきた。

 森の中はやわらかな風が吹き抜け、湿った土の匂いが漂っている。

 

 リュウジは、肩に吊った槍を軽く持ち替えながら、先を歩いていた。

 その背を、ルナは少し離れて見つめていた。

 先ほど川辺で見た真剣な表情が、まだ頭に焼きついて離れない。

 

「……ねぇ、リュウジ」

 静けさを破るように、ルナが声をかけた。

 

「なんだ」

「こうして歩いてると、なんだか最初の頃を思い出すね」

「最初?」

「うん。島に来たばかりの頃。あの時も、川を探して歩いたでしょう?」

 ルナは少し笑いながら言った。

 リュウジも小さく頷く。

 

「ああ。あの時は、みんな必死だったな」

「……今だって、必死だよ」

 ルナがそう言うと、リュウジは少しだけ足を止めた。

 

「そうだな。でも――あの頃と違って、今は“守りたいもの”がある」

 その言葉に、ルナははっと息を呑んだ。

 

「守りたいもの?」

「そうだ。あの時は、過去に囚われていた。けど今は……」

 リュウジは言葉を区切り、振り返る。

 木漏れ日の中、黒髪が風に揺れた。

 その瞳がまっすぐにルナを見つめる。

 

「みんながいる。お前も、カオルも、チャコも。……それに、この島で築いたものもな」

 リュウジの言葉は穏やかで、それでいて芯が通っていた。

 ルナは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

 

「……リュウジ、変わったね」

「変わった?」

「うん。最初の頃は、もっと冷たかったよ」

「……そうかもな」

 リュウジはわずかに苦笑を浮かべ、森の奥に視線を向けた。

「でも、それはルナのおかげだ。お前が、俺を“人間”に戻してくれた」

 

 ルナの胸がきゅっと締めつけられる。

 “人間に戻してくれた”――その言葉の重さが、まっすぐに心に響いた。

 

「……そんな大げさな」

「いや。本当のことだ」

 短く、けれど強くそう言い切るリュウジ。

 その声が、森の中に溶けていく。

 

 少し歩いたあと、ルナはふと笑った。

「じゃあ、これからもちゃんと“人間”でいてもらわないと困るね」

「どういう意味だ?」

「だって……時々、無茶するから。あの夜みたいに」

 リュウジは言葉に詰まり、視線を逸らした。

「……あれは必要なことだった」

「そういうの、もう少し控えてよね」

「気をつけるよ」

 

 二人の間に、やわらかな沈黙が落ちる。

 遠くで鳥の鳴き声が響く。

 森の中を抜ける春風が、ルナの髪をやさしく揺らした。

 

「ねぇ、リュウジ」

「なんだ」

「さっきの“守りたいもの”に、私も入ってる?」

 その問いは、思わず漏れたような声だった。

 ルナはすぐに後悔して、視線を下げる。

 

 けれど――リュウジは少し間を置き、静かに言った。

「……ああ。当たり前だろ」

 

 ルナは顔を上げた。

 その瞬間、リュウジの口元に浮かぶ小さな笑みが見えた。

 春の光の中、その笑顔はいつもより少し柔らかく見えた。

 

 ルナの胸の奥がじんわりと熱くなる。

 森を抜ける道の先に、大いなる木の影が見えてくる。

 家に帰る道なのに、どこか名残惜しい気持ちがした。

 

◇◇◇

 

大いなる木の根元まで戻ると、ちょうど日が真上に昇っていた。

 枝葉の間から差し込む光は、まだ柔らかいけれど、どこか春のぬくもりを含んでいる。

 

 ルナとリュウジが戻ると、ハワードが真っ先に気づいた。

「おーい、帰ってきたぞー! どうだった、収穫は?」

 

 手を振りながら近づくハワードの後ろで、ベルが焚き火の周りに座り、木の枝で鍋をかき混ぜている。

「おかえり、二人とも。思ったより早かったな」

「川の水位が下がってたの。魚も取りやすかったんだ」

 ルナが笑顔で答えると、ハワードが目を輝かせて身を乗り出す。

「じゃあ、魚あるんだな!? やった!」

 

 リュウジは無言で袋から魚を数匹取り出し、焚き火のそばに置く。

 銀色の鱗が陽の光を反射して、きらりと光った。

「おお、立派だな」とベルが感心したように言う。

「川の下流のほうに群れがいた。少し冷たかったけど、取りやすかった」

 淡々と話すリュウジに、ルナは小さく笑みを浮かべた。

 

「リュウジ、寒くなかった?」

「平気だ。もう冬じゃない」

「……そうだね」

 ルナが頷くと、風が吹き抜け、木の葉の音がさらさらと響いた。

 

 その時、メノリが腰に手を当てて言った。

「じゃあ、魚は焼きにして出そう。ベル、火をもう少し強くしてくれるか?」

「ああ」

 ベルは器用に薪をくべ、火が勢いを増す。

 

「ハワード、今度は焦がすなよ?」

「この前のことは忘れろって!」

「“黒焦げスープ事件”を?」

 メノリが淡々と返すと、ハワードはぐっと詰まり、リュウジが横目で笑った。

 

「よし、ルナ。魚の下ごしらえ頼む」

「うん!」

 ルナは水桶を持ち、嬉しそうに魚を洗いはじめた。

 シャアラは手拭きを用意し、ベルは串を削る。

 焚き火のそばには炭の匂いと魚の香りが混じり合い、穏やかな空気が漂っていた。

 

 ほどなくして、焼きたての魚が並んだ。

 香ばしい匂いが漂い、ハワードが鼻をひくつかせる。

「うおお、これはうまそうだ! 早く食べようぜ!」

「ちょっと待て。みんな揃ってからだ」とメノリがピシャリと制す。

 全員が座につき、ルナが手を合わせた。

「じゃあ、いただきます」

 

 魚を口に運ぶと、香ばしさとほんのりした塩味が広がる。

「おいしい……!」とシャアラが目を輝かせる。

「うん、脂が乗ってるな」とベルが頷く。

 ハワードは何も言わず、夢中でかぶりついている。

 

「これ、ルナが焼いたのか?」とリュウジが尋ねる。

「ううん、メノリと一緒に。少し焦げちゃったけど」

「いや、これぐらいのほうが香りが立つ」

 リュウジがそう言って笑うと、ルナの頬がわずかに赤くなった。

 

 食後、風がやわらかく吹いた。

 みんなが満腹でうたた寝しそうになる中、メノリが木陰で手帳を広げている。

「何をしてるの?」とルナが尋ねると、メノリは淡々と答えた。

「今後の食料計画の整理だ。天気も安定してきたし、畑を再開できるかもしれない」

「頼りになるね」とルナが笑うと、メノリは小さく微笑み返した。

 

 焚き火の煙が空にのぼる。

 リュウジは静かに魚の骨をまとめながら、空を見上げた。

 どこまでも青く澄んだ空に、冬の名残が薄く漂っている。

 

 その横顔を見て、ルナはふと胸の奥が温かくなった。

 春の光の中で、みんなの笑顔と焚き火の残り火が、穏やかに溶け合っていた。

 

◇◇◇

 

夜風が木々をゆらし、枝葉の擦れる音がかすかに響く。

 焚き火の赤い光がゆらゆらと揺れ、みんなの寝床が影絵のように浮かび上がっていた。

 

 他の仲間たちはもう寝静まっている。

 けれど、火のそばにはまだ二人の影が残っていた。

 

 リュウジとメノリだ。

 

 メノリは手帳を膝の上に広げ、焚き火の明かりでページを照らしている。

 その隣でリュウジは、火にくべる薪の長さを見計らいながら、静かに口を開いた。

 

「明日の探索範囲は北の丘のあたりに広げるか」

「そうだな。南側の果樹林は昨日、ベルたちが確認しただろう。果実はまだ熟していなかった」

 メノリは視線を落としたまま、真剣な表情で言う。

「北の丘なら、風の通り道だから木の実も日当たりもいい。まだ雪の残っている場所があるかもしれないが……」

「それなら、火打ち石を余分に持っていく」

「準備は抜かりないな」

 メノリの口元に、ほんのわずか笑みが浮かんだ。

 

 その穏やかなやり取りを、少し離れた木の陰からルナがそっと見つめていた。

 彼女は眠れずに外へ出たのだ。

 夜の静けさと星の光の中、二人の声が焚き火に溶けて響く。

 

 ――いつも通りのリュウジ。

 けれど、メノリと並ぶその姿が妙に自然に見えて、ルナの胸がざわついた。

 

「リュウジ、お前、無理していないか?」

 メノリが少し声を落とす。

「無理?」

「お前は常に前を見すぎる。島のこと、仲間のこと、責任を全部抱え込もうとする。……たまには誰かに任せてもいいんだ」

 焚き火の赤が二人の横顔を照らす。

 リュウジは少し間をおき、火の粉を見つめたまま口を開いた。

 

「……俺がやらなきゃいけないことだ」

「そうやって抱え込むところ、昔の私に似ている」

 メノリの声には、どこか柔らかさがあった。

「だが――そういうところが、このグループを支えてるのも事実だな」

 

 リュウジは苦笑した。

「お前にそう言われるとはな」

「私だって成長してるんだ。リーダー代理くらい務まるさ」

「頼もしい限りだ」

 ふたりの間に小さな笑い声が生まれる。

 

 その音を聞いて、ルナの胸がぎゅっと締めつけられた。

 ――楽しそうに話してる。

 別に、嫌なわけじゃない。

 でも、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。

 

 星明かりがルナの頬を照らし、静かな夜風が髪を揺らす。

 リュウジがふと火に薪をくべる。その火花が宙に舞い、ルナの瞳に映り込んだ。

 

「……ルナ、そこにいるのか」

 リュウジの声がした。

 ルナは驚き、思わず木の影から顔を出す。

「ご、ごめん。起こしちゃったかなと思って」

「いや。もう話は終わりだ」

 リュウジが立ち上がり、火のそばを離れる。

「おやすみ、メノリ」

「ああ。……ルナ、無理するなよ」

 メノリの声に、ルナは小さく会釈してその場を離れた。

 

 二人きりの夜気の中、ルナはうつむきながら歩く。

 リュウジの足音がすぐ後ろに続いていた。

 

「寝られなかったのか」

「うん。星がきれいだったから」

「……そうか」

 

 短い会話。

 でも、ほんの少しの沈黙が、言葉よりも雄弁に心を揺らす。

 

 焚き火の光が遠ざかり、夜の闇が二人を包み込む。

 ルナはリュウジの背を見つめながら、そっと胸に手を当てた。

 ――どうして、こんなにも。

 その理由を、まだ自分でもわかっていなかった。

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