焚き火の最後の炎が小さく揺れ、やがて静かに消えた。
残されたのは、焦げた木片から立ちのぼるかすかな煙と、森の夜を渡る風の音だけ。
“みんなの家”の前では、リュウジとメノリが向かい合い、明日の行動を話していた。
「……明日はどのあたりを探すつもりだ?」
リュウジの声は低く落ち着いている。焚き火の赤が消えた後でも、その瞳はまだ光を宿していた。
「南の丘を回るのがいいだろう。雪も溶けてきたし、あのあたりなら獣の痕跡も見つかりやすい」
メノリが腕を組み、月明かりに照らされた手帳を指差す。
「ただし、湿地に近い。足を取られたら危険だ。ベルを同行させるのがいいだろう」
「ベルか……確かに、力仕事は頼めるな」
リュウジが頷く。
「だが、あいつはハワードと一緒に修繕作業の予定じゃなかったか?」
「修繕は午前で終わるだろう。午後から合流させれば問題ない」
メノリの声はきっぱりとしていたが、どこかに気遣いの柔らかさがあった。
「リュウジ、一人に負担をかけるわけにはいかない。私も南端までは一緒に行く」
「いいのか?」
「指示だけして動かないわけにはいかないだろう」
そう言いながら、メノリは静かに微笑んだ。
その表情には、仲間への信頼と責任が混ざっていた。
「分かった。明日は日の出と同時に出よう」
「了解だ。夜明け前には装備を整えておく」
短い会話。けれど、互いの言葉には確かな信頼があった。
二人はうなずき合うと、夜の風の中に溶け込むように沈黙した。
少し離れた枝の陰で、ルナはその様子を見ていた。
遠くの焚き火の跡が、ほんのりと赤く光っている。
リュウジの真剣な横顔――そして、落ち着いた声で応じるメノリ。
その二人の姿を見て、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
(……また、そうやって並んで話してる)
ルナは小さく息をのむ。
メノリの落ち着いた声、リュウジの穏やかな返し。
どちらも、仲間として当然の会話だと分かっている。
それでも、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。
指先がわずかに震えた。
風が髪を揺らし、冷たい空気が頬を撫でる。
ルナは目を伏せ、唇を噛みしめた。
(……私、何を考えてるの)
そう自分に言い聞かせるように呟き、夜空を見上げる。
星々は静かに瞬き、月が淡く森を照らしていた。
リュウジとメノリの声が、遠くでまだ小さく響いている。
その音が優しいほど、心が痛くなる――
ルナは胸に手を当て、そっと目を閉じた。
夜風が流れ、枝の間で葉が揺れる。
その音だけが、ルナの小さな吐息を包み込んでいった。
◇◇◇
夜が明け始めていた。
東の空がうっすらと白み、森の枝の隙間から柔らかな光が差し込む。
冷たい空気の中、鳥たちの鳴き声が一つ、また一つと響きはじめた。
“みんなの家”の前では、リュウジとメノリが出発の準備を進めていた。
焚き火の跡からは白い煙が細く立ちのぼり、朝の静けさの中に淡く溶けていく。
「この縄をもう少し短くしておこう。荷をまとめやすい」
リュウジが縄の結び目を確かめながら言う。
その手際は無駄がなく、まるで長年の習慣のようだった。
「南の丘まで行くなら、水筒を二本持っていった方がいいだろう。あの辺りは水場が少ない」
メノリは腰から手帳を取り出し、指先でなぞるように示す。
その横顔は朝の光を受け、凛としていた。
「了解だ」
リュウジは短く答え、荷袋に槍と黒曜石のナイフを差し込んだ。
その少し後ろで、ルナは黙って二人を見つめていた。
彼らのやり取りはまるで呼吸を合わせたように滑らかで、無駄がない。
メノリが指示を出し、リュウジがそれを理解してすぐ動く――その流れに言葉はいらなかった。
ルナは手にしていた水袋を少し強く握りしめた。
心の奥がざわつく。
彼らが真剣に話しているのはわかる。
それでも、どこかに置いていかれているような感覚があった。
「ルナ、悪い。包帯の予備、どこに置いた?」
リュウジの声がして、ルナはハッと我に返った。
「え? あ、うん。木箱の中よ。右のほう」
慌てて指差すと、リュウジが軽く頷いた。
「助かる」
その一言。
短いのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ルナは笑顔を作りながら、心の内を見せないようにした。
「荷はこれで全部だろう」
「そうだな」
メノリが地図を丸めながら言うと、リュウジが腰を伸ばした。
「メノリ、無理はするなよ」
不意にリュウジが言った。
その声音は低く、穏やかで、まるで仲間を気遣うようだった。
メノリは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「心配性だな。私だって戦えないわけじゃない」
そのやり取りを見ていたルナは、また胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
二人の間に漂う、穏やかで、どこか信頼の深い空気。
それが羨ましくて、苦しくて――息が少し詰まった。
ルナは俯き、掃除道具を手に取った。
床を拭くふりをしながら、そっと視線をそらす。
(……こんな気持ち、知られたくない)
彼女の胸の奥で、温かい何かと冷たい痛みがせめぎ合っていた。
「ルナ」
ふと、名前を呼ばれて振り返る。
リュウジが荷を肩に担いで、こちらを見ていた。
「帰りが遅くなるかもしれない」
「……うん。気をつけて」
ルナは微笑みながら答えた。
けれど、その笑顔の奥で、何かがかすかに軋むような音を立てた。
メノリとリュウジはうなずき合い、森の奥へと歩き出す。
木々の間から差す朝の光が、二人の背中を静かに包み込んでいた。
ルナはその姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
胸の奥に残ったのは、心配でも嫉妬でもない――名前のつけられない痛みだけだった。
やがて、風が吹いた。
淡い春の匂いを含んだ風がルナの頬を撫で、髪を揺らした。
その瞬間、彼女は小さく息を吐いた。
(……私、もっと強くならなきゃ)
そう心に言い聞かせて、ルナは静かに家の中へ戻っていった。
新しい一日が、静かに始まろうとしていた。
◇◇◇
森の中は静まり返っていた。
木々の間から差し込む朝の光が、まだ湿り気を帯びた土を銀色に照らしている。
風が梢を渡るたび、霧のような冷気が頬を撫でた。
「……空気が変わったな」
リュウジが呟く。
槍を肩に担ぎ、慎重に足を進めていた。
「そうだな。昨日までよりも匂いが濃い。南の湿地からの風だろう」
メノリは周囲を見回し、枝葉の動きを確かめる。
その鋭い目は、一切の油断を許さない。
二人はしばらく黙って歩いた。
すると、不意にリュウジが立ち止まる。
「……見ろ」
指差した先、低木の根元に赤と白の実が混ざっていた。
ひときわ光を反射するような白い果実――その隣に、燃えるような朱色の果実が寄り添っている。
「月梨と炎果か。もう実をつけていたのか」
リュウジの声は落ち着いていたが、その瞳は確かに輝きを帯びていた。
「了解だ。私が摘むから、周囲を見ていてくれ」
メノリは慎重に葉をかき分け、果実を一つずつ布袋に入れていく。
白い月梨が朝の光を受けて透き通り、赤い炎果がまるで焔のように輝いた。
その時――リュウジの耳が森の奥からの微かな音を捉えた。
風とは違う、重い息づかい。
彼は無言で槍を構え、メノリに目で合図する。
「……何かいるのか?」
メノリが声を潜める。
リュウジは頷き、木の陰をゆっくりと覗き込んだ。
藪の向こうで、茶色い毛並みが揺れた。
獣――四つ足の草食種だが、体格は大人二人分はある。
冬を越して腹を空かせているのか、地面を掘りながら根を食っていた。
「距離は十五メートル……風下だ。気づかれてない」
リュウジが呟くと、メノリは腰を落として頷く。
「仕留められるか?」
「問題ない」
リュウジは黒曜石の穂先を光にかざし、呼吸を整えた。
息を止め、腕の力をゆっくりと溜める。
空気が凍るような静寂の中――槍が音もなく放たれた。
“シュッ”
鋭い風切り音のあと、獣が短く呻き声を上げて倒れた。
その場に血の匂いが広がり、鳥たちが一斉に飛び立つ。
リュウジはすぐに駆け寄り、首筋に槍を突き立てて止めを刺した。
「……仕留めた」
短く言い、槍を抜くと、深く息を吐く。
メノリが近づき、倒れた獣を見下ろした。
「見事なものだな。速くて正確だった」
「何度もやってきたことだ」
「それでも、誰にでもできることじゃないだろう」
メノリの口調には、珍しく柔らかな響きがあった。
リュウジは少しだけ口元を緩めた。
「……助かる。これで少しは皆に食わせられる」
「月梨と炎果も十分ある。帰りは重くなりそうだな」
「構わん。背負うのは慣れてる」
そう言ってリュウジは獣の足を縄で縛り、肩に担いだ。
森の木漏れ日が、二人の背中を淡く照らす。
「行こう、メノリ」
「ああ。みんなが喜ぶだろう」
風が吹き抜ける。
枝葉のざわめきの向こうに、春を告げる鳥の声がかすかに響いた。
二人はその音に導かれるように、“みんなの家”への道をゆっくりと戻っていった。
◇◇◇
森を抜けて戻ってきたのは、まだ太陽が真上に昇る前だった。
リュウジの肩には仕留めた獣が担がれ、メノリの腕には赤く艶やかな「炎果」と、淡く銀色に輝く「月梨」の入った袋。
二人の姿を見つけるや否や、“みんなの家”の前にいたルナがぱっと顔を上げた。
「――リュウジ! メノリ!」
声が森に響く。
「思ったより早かったのね!」
「食料がすぐ見つかったんだ」
リュウジは淡々と答え、肩から重そうな獣を下ろす。
どさりと地面に響く音に、ハワードが目を丸くした。
「おおっ!? 本当に仕留めてきたのかよ! しかも、こんなデカいの!」
「うわぁ……!」とシャアラが思わず口を押さえる。
「これ、一頭分全部? すごい……!」
ベルも近づいて、じっと獣の体を見た。
「……見事だな、リュウジ。動き出す前に仕留めたんだね」
「風下を取れた。偶然もあるがな」
リュウジは肩の汗を拭いながら、淡々と答えた。
「南の丘で見つけたの。月梨と炎果もよ」
メノリが袋を開くと、赤と銀の果実が朝の光を受けて輝いた。
「炎果!」とルナが目を輝かせる。
「甘くておいしいのよね!」
「月梨もあるじゃないか!」とハワードが嬉しそうに声を上げる。
「冷たくて最高だったよな!」
「前はあれ、三つも食っただろ」とカオルが呆れたように言う。
「だって、うまかったんだって!」
ハワードが言い返すと、周りから笑い声が上がった。
その笑いの中で、カオルは静かに立ち上がった。
「獣の血抜きは川のほうがいいな。俺も行こう」
「大丈夫だ、慣れてる。洗濯場のほうでやる」
リュウジがそう言い、獣の脚を縛り直す。
「そうか。なら、刃を貸しておこう」
カオルが腰から黒曜石の短剣を抜いて渡す。
「助かる」
ルナはそのやり取りを見つめ、静かに息を吐いた。
相変わらず、二人の連携は無駄がなくて、言葉が少なくても通じ合っている。
それが少しだけ羨ましくもあり、心強くもあった。
洗濯場のほうでは、水音が絶えず響いていた。
リュウジは川の水で獣の血を洗い流しながら、慎重に刃を動かす。
水面には太陽の光が反射し、魚影がきらめく。
風が吹くたび、木々の香りと獣の鉄の匂いが混ざり合った。
「手際がいいな」
後ろからベルの声がした。
「俺も、父さんに教わってたんだ。獣を解体する時の呼吸ってやつ」
「そうか……いい親父さんだったんだな」
リュウジの声に、ベルは小さく笑った。
「……ああ。父さんなら今の俺を見て、少しは褒めてくれるかもしれない」
その言葉にリュウジも口角を上げる。
「褒めるだろうさ。お前は仲間を守ってる」
ベルは照れくさそうにうつむき、「……ありがとう」と呟いた。
一方その頃、家の中ではメノリが果実を整え、ルナとシャアラが布を広げていた。
「炎果は日が高いうちに切っておこう。月梨は冷やしておくといいだろう」
「了解、メノリ」
ルナは手際よく果実を並べながら微笑む。
「でも、こんなに早く戻ってくるなんて思わなかったわ」
「運が良かったんだろう」
シャアラの言葉に、メノリは少しだけ笑って返した。
外からはハワードの明るい声が響いていた。
「カオルー! 肉、焼くなら俺も手伝うぞ!」
「お前、味見専門だろ」
「そ、それは確認ってやつだ!」
「確認で一番食うやつがあるか」
メノリが苦笑しながら首を振ると、ルナとシャアラが吹き出した。
やがてリュウジとベルが戻ってきた。
リュウジの腕には下処理の終わった獣肉、ベルの肩には乾かすための網代わりの枝を束ねたもの。
「思ったより軽かったな。脂の少ない獣だったようだ」
リュウジが言うと、ベルが「でも肉質は悪くない」と頷く。
「焼けば香りが立つだろう」
「じゃあ今日の昼はごちそうだね!」とルナが声を上げた。
「炎果と一緒に煮てもいいな」とメノリが提案する。
「甘みと酸味のバランスが取れるだろう」
「お前だけは止めとけ……」とハワードが呆れながら笑った。
「失敗したらハワードの皿に盛るだけだ」とメノリがさらりと返す。
「えぇ!? なんで僕だけ!?」
再び笑い声が起こり、家の中に柔らかな陽の光が広がった。
森のざわめき、果実の香り、そして仲間たちの笑顔。
冬の厳しさを乗り越えた仲間たちは、少しずつ――確かな“日常”を取り戻していた。
◇◇◇
午後の陽光が、森の木々の隙間からやわらかく差し込んでいた。
大いなる木の上に建つ“みんなの家”では、修繕の音が心地よく響いている。
ルナは腕まくりをして、木の梁を磨いていた。
その隣ではベルが木槌で楔を打ち、ハワードが枝で削った木片を差し込んでいく。
「ベル、その板もう少し右!」とルナが声を上げる。
「分かった」とベルは優しく頷き、力を込めて梁を押した。
その静かな動きに、木組みが“ぎしり”と鳴く。
「よし……そこだ!」
ハワードが声をかけ、木槌を叩く音がリズムよく響いた。
「釘を使わないのに、こうしてちゃんと固定できるなんて不思議ね」
シャアラが感心したように呟く。
「構造自体が噛み合うように作ってあるからね」
ベルは嬉しそうに笑った。
「自然の中で生きるなら、自然に頼らないとね」
その言葉にルナは一瞬手を止め、穏やかな笑みを浮かべた。
「……いい言葉ね、ベル」
「うん」
風が木々を揺らし、枝葉の影が床をかすめていった。
家の中に流れるその時間は、どこか懐かしく、暖かかった。
◇◇◇
一方その頃、リュウジとカオルは川沿いに立っていた。
雪解け水が勢いを増し、澄んだ流れが陽光を反射して眩しい。
リュウジは腰を落とし、槍を手にして川面をじっと見つめていた。
「まだ水は冷たいな」
「そうだな。……けど、魚の動きは出てきてる」
カオルの声はいつもより少し柔らかかった。
彼もまた、黒曜石のナイフを手にして腰を低く構えている。
リュウジはわずかに足を動かし、流れの中に視線を定めた。
次の瞬間、鋭い水音――
槍の先が一閃し、水しぶきとともに銀色の魚体が跳ね上がる。
「見事だな」
「こいつは群れで動いてるな。下流にもう少しいるはずだ」
「なら、俺が網代わりの枝を構えておく」
カオルが膝まで水に入り、流れを遮るように木の枝を組んだ。
その隙間に魚が追い込まれ、次々と捕らえられていく。
水音と息づかいだけが響く数分間。
やがて二人は川辺に腰を下ろした。
カオルが水をすくい、顔を洗う。
「……悪くない日だな」
その言葉に、リュウジはわずかに口元を緩めた。
「そうだな。風が穏やかで、空気もうまい」
「お前も変わったな、リュウジ」
「なんだいきなり?」
「前は“仲間のことなんて気にしない”って言ってただろう」
「……そうかもしれんな」
リュウジは拾い上げた魚を見下ろしながら、小さく息をついた。
「けど今は、あいつらの笑い声を聞くと、悪くないと思う」
川面に映る太陽の光が揺れ、二人の影をきらめかせた。
雪解けの水が冷たく、それでいて春の匂いが混じり始めている。
夕方前、“みんなの家”にリュウジとカオルが戻ると、
ルナたちは床を拭き終え、梁の補強も済ませていた。
「おかえり!」とルナが駆け寄る。
「魚が群れてた。食料には十分だ」
リュウジが背負った袋を降ろすと、シャアラが目を丸くした。
「うわぁ……! こんなにたくさん!」
ハワードが喜びの声を上げる。
「やったな! 今夜も魚のごちそうだ!」
ベルも穏やかに笑った。
「今日は温かい汁物にしよう。みんなで食べよう」
「そうだな」とメノリが頷く。
「久しぶりに、穏やかな夜になりそうだ」
その言葉に、ルナは小さく頷いた。
リュウジとカオルの無事な姿を見て、胸の奥の緊張がようやくほどけていく。
――季節は、確実に春へと向かっている。
けれどそのぬくもり以上に、仲間たちの笑顔が、ルナの心を温めていた。
◇◇◇
夕暮れ時。
焚き火の赤い光が“みんなの家”の外壁を照らし、川から戻った魚がきれいに並べられていた。
ベルが串を削り、ハワードがその魚を受け取って並べていく。
ルナとシャアラは鍋の水を温めながら、香草を刻んでいた。
「……ねえ、いつもシャアラばかりに作らせてごめんね」
ルナが火のそばでしゃがみ込みながら言うと、シャアラは首を横に振った。
「いいのよ。好きでやってるんだから」
いつもの穏やかな笑顔。けれど、その目の下には少し疲れの影が見える。
その様子を見ていたメノリが、腕を組みながら口を開いた。
「今日は私が作るとしよう」
焚き火の周りにいた全員の動きが――止まった。
「え?」
ルナが思わず振り返る。
メノリは真剣な表情のまま続けた。
「こういうのは持ち回りでやるべきだろう? シャアラにばかり負担をかけるのは公平じゃない」
まっとうな意見。誰も反論できない。
だが――
その場に漂う空気は、どこか張り詰めていた。
ハワードが焚き火の火を見つめながら、口を開こうとして――閉じた。
ベルは気まずそうに視線を逸らし、ルナは無理に笑顔を作った。
「そ、そうね。メノリが言う通りだわ。たまには……うん、いいと思う」
その隣で、リュウジが薪をくべながら、ぼそりと呟いた。
「……大丈夫か?」
「何がだ?」とメノリは眉を上げる。
「いや……火力の話だ」
「そうか。なら問題ないだろう」
自信満々に答えるその姿に、ルナは苦笑するしかなかった。
そんな中でも、メノリだけは真剣そのものだ。
木の皿に魚を並べ、香草をまぶし、果実の搾り汁をかけていく。
「見た目は……悪くないけど……」とルナが小声で呟くと、
「味は……きっと……」とシャアラが恐る恐る続けた。
その様子を見たベルが、優しく言った。
「メノリが作ってくれるの、嬉しいよ。いつも助けてもらってるし」
その一言で、場の空気が少し和らぐ。
メノリは表情を緩め、「そう言ってくれると助かる」と小さく笑った。
――だが、火にかけられた鍋の中から、すでに不穏な香りが立ち上り始めていた。
「……なあ、今、焦げてないか?」とハワードが鼻をひくつかせる。
「焦げではない。風味だ」
「風味で煙が出るのか!?」
「黙って見ていろ、科学的な調整だ」
ルナが額を押さえながらため息をつく。
ベルが微笑ましくそれを見ていた。
「……ま、これも仲間の味ってやつだな」
彼の穏やかな声に、ルナも思わず吹き出した。
――果たしてこのあと、誰が最初のひと口を担当するのか。
焚き火の炎がパチパチと鳴る音だけが、静かな緊張の中に響いていた。
◇◇◇
夜の森に、焚き火の赤い光が揺らめいていた。
鍋の中からは、かすかに甘い――いや、どこか苦い香りが漂っている。
全員が焚き火を囲んで座っていたが、その表情は硬い。
ルナは笑顔を作りつつ、鍋の中を覗き込んだ。
「……すごく……個性的な香りね、メノリ」
「うむ、狙い通りだ」
メノリは真剣な表情でうなずき、木の杓文字で具をすくい上げた。
鍋の中には、香草と共に煮込まれた魚、そして果実のかけらが見える。
だがその果実――“炎果”の赤が、煮詰まりすぎて黒く変色していた。
「……ちょっと焦げてない?」とハワードが恐る恐る尋ねる。
「焦げではない。深みだ」
「……深み、ね……」
ハワードの笑顔が引きつる。
リュウジは黙って腕を組んでいたが、やがて目を閉じて小さく息を吐いた。
「……ルナ」
「なに?」
「最初のひと口、頼んだ」
「えっ!? な、なんで私なの!?」
「リーダーだからだ」
「そ、そんな理屈ある!?」
慌てるルナを見て、ハワードが小声で呟いた。
「ルナ、勇気を出せ……僕らの未来がかかってる」
「縁起でもないこと言わないで!」
ベルが苦笑しながら、そっと手を伸ばした。
「……僕が最初に食べるよ」
「ベル!?」とシャアラが驚く。
「大丈夫。食べられないものなら、すぐ分かるさ」
穏やかな笑みを浮かべながら、ベルは器を受け取った。
全員が息をのむ中、ベルはゆっくりとスプーンを口に運ぶ。
一口、咀嚼――そして……沈黙。
焚き火の爆ぜる音だけが響いた。
「……どうだ?」とメノリ。
ベルは少し考えるように目を伏せ、そして小さく微笑んだ。
「……うん、思ったより、悪くない。ちょっと苦いけど、後味は……不思議と温かい味だ」
「え? 本当に?」とルナが目を丸くする。
シャアラが恐る恐るスプーンを口に運んだ。
――次の瞬間。
「……あっ、これは……!」
全員の視線が集まる。
「ちょっと苦いけど……でも、なんか懐かしい味がする……」
シャアラの頬がゆるみ、ほんのりと笑顔がこぼれた。
ルナもおそるおそる一口。
舌に広がったのは、香草の苦みと焦げた果実の甘み、そして魚の旨み。
「……本当だ……なんだか、不思議と落ち着く味」
ハワードも恐る恐るスプーンを手に取り、
「……うわ、苦っ! けど、悪くない!」と笑った。
それを見たメノリは、照れくさそうに息をついた。
「焦げたのは少し計算外だったが……結果的に、悪くはなかったようだな」
「うん!」とルナが笑顔を向けた。
「メノリの料理、意外と癖になるかも」
「いや、意外とって言葉は余計だろう」
メノリが苦笑しながら返すと、全員の笑い声が上がった。
その笑い声は、夜の森にやさしく溶けていく。
焚き火の炎が仲間たちの頬を照らし、
焦げた香りと笑い声が、ひとつの“記憶の味”になっていった。
⬜︎
焚き火の炎が小さく揺れ、木のはぜる音が夜の静けさに溶けていた。
食事を終えたみんなはそれぞれの場所でくつろいでいた。
ベルは食器を洗い、ハワードはその手伝いをしながらも、合間に「焦げも悪くないな」などと笑っている。
メノリは火のそばで腕を組み、焚き火を見つめていた。
シャアラは眠そうな瞳で小さく欠伸を漏らし、ルナは静かに立ち上がった。
――外の空気が、恋しくなったのだ。
“みんなの家”の外に出ると、夜風が頬を撫でた。
森の木々は月明かりを浴び、静かに光っている。
遠くでは、かすかに虫の声。
見上げれば、満天の星が夜空いっぱいに広がっていた。
「……きれい」
ルナは思わず呟いた。
この星に降り立ってから、幾度となく見上げてきた空。
でも今夜は、いつもよりずっと、穏やかに見えた。
――寒さではなく、胸の奥の温もりが残っている。
背後から足音が聞こえた。
「外に出てたのか」
低く静かな声。振り向くと、リュウジが立っていた。
手には焚き火の薪を一本持ち、火の粉を払うように軽く振っている。
「少し、風にあたりたくて」
「……そうか」
リュウジも隣に立ち、同じように夜空を見上げた。
二人の間に、言葉はいらなかった。
ただ、星の光がゆっくりと彼らを照らしていた。
やがてルナが、少し笑みを浮かべた。
「メノリの料理、意外と美味しかったわね」
「意外と、な」
「ふふっ、やっぱりそう思ってた?」
「まぁ……あの焦げ具合で食べられるなら上出来だ」
リュウジの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
それを見てルナは、目を細めて笑った。
「でもね、なんだか嬉しかったの」
「嬉しかった?」
「うん。あんなに一生懸命に作ってくれて。
みんなが笑って、少しだけ焦げてても“おいしい”って言って。
……それだけで、なんか“ここが家なんだ”って思えたの」
リュウジは小さく頷いた。
「そうだな。……あいつらが笑ってると、悪くない気分になる」
「ふふ、それってリュウジが言うと珍しい」
「俺もそう思う」
二人の間に、風が通り抜けた。
しばらく星を見上げたあと、ルナが小さく口を開く。
「ねぇ、あの時――リュウジが言ってた“仲間を守る”って言葉。
本当は、自分のことも守りたいって意味があるんじゃない?」
リュウジは目を細め、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「……かもしれないな。
俺が誰かを守ってるようで、実はあいつらに救われてるのかもな」
ルナはその言葉に、ゆっくりと微笑んだ。
「……やっぱり、優しいのね」
「やめてくれ、そういうのは性に合わない」
「ふふっ、そう言うと思った」
二人はしばらく黙って星空を眺めた。
静寂の中、風の音と遠くの焚き火の匂いだけが漂う。
その光景は、まるでこの惑星が二人を包み込んでいるようだった。
やがてルナが、そっと目を閉じて言った。
「……明日も、いい日になるといいね」
「ああ。きっとなるさ」
その言葉に、ルナは微笑みを返す。
焚き火の明かりが遠くでまたひとつ弾け、夜の静けさが戻った。
――この夜、ふたりの間に生まれたのは、
言葉よりもずっと静かで、あたたかな信頼のぬくもりだった。
⬜︎
朝の光が“大いなる木”の枝葉の間からこぼれ落ち、木組みの床をやわらかく照らしていた。
昨日までの冷たい風はどこか和らぎ、空気の中にはほんのりとした春の匂いが混ざっている。
ルナはいつものように外の枝道を歩き、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
木の根元では、朝露を浴びた苔がしっとりと輝き、森の奥からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
――そんな静かな朝。
「なぁ、みんな!」
やけに元気な声が響いた。
“みんなの家”の入り口からハワードが顔を出し、両手を腰に当てて立っていた。
「いいこと思いついたぞ!」
突然の大声に、シャアラが驚いて振り返り、手に持っていた木のカップを落としそうになる。
「びっくりした……ハワード、朝からどうしたの?」
「ちょっと真面目な提案だ!」
ハワードは胸を張って堂々と宣言する。
「シンゴたちが帰ってくるまでの間、みんなで料理を順番で作ろうと思う!」
ルナは小首をかしげた。
「順番で……?」
「そう! 料理当番制だ! 毎日同じ味じゃつまらないだろ? だから交代で作るんだよ!」
焚き火のそばで枝を割っていたベルが、静かに顔を上げた。
「……悪くない考えかもな。みんなでやれば、負担も減るし」
「だろ!? ベル、分かってるな!」
「でも、順番はどうするの?」とルナが尋ねると、ハワードは得意げに人差し指を立てた。
「そこも考えた! 最初は俺! 次がルナ、次がリュウジ、最後がベル!」
「……え?」
ルナは一瞬、固まった。
「なんでその順番なの?」
「そりゃあ、俺が“先陣を切る男”だからさ! お手本を見せてやる!」
どこまでも自信満々だ。
メノリが腕を組み、少し呆れたように言う。
「お手本……ね。前回の“黒焦げスープ事件”を忘れたわけじゃないだろうな?」
「ち、違う! あれは風向きが悪かっただけだ!」
「料理に風は関係ないだろう」
メノリの冷静な突っ込みに、ハワードは目を逸らす。
ルナは苦笑しながら、シャアラに視線を向けた。
「ねぇ……私、ちょっと不安なんだけど」
「だ、大丈夫だと思う……たぶん……」
シャアラの声がどこか震えていた。
その場の空気を少し和らげるように、ベルが優しく言った。
「まぁ、順番にやるのはいいことだよ。ハワードも頑張ってるし」
「ほら! ベルはわかってる!」とハワードが嬉しそうに言う。
「ただし、焦がさないようにな」とベルが穏やかに微笑む。
「任せろ! 今回は完璧だ!」
リュウジは焚き火に薪をくべながら、低く呟いた。
「……完璧、ね」
「おいリュウジ、その言い方どういう意味だよ!」
「悪い意味じゃない。ただ、準備はしておく」
「何の準備!?」
「非常用の水」
「縁起でもないこと言うなよ!!」
ルナが思わず吹き出した。
「ふふっ……まぁ、順番制はいい案よ。みんなで支え合うっていうのは、ハワードらしいし」
「おっ、やっぱりルナは分かってるな!」
ハワードが胸を張ると、ベルとシャアラが顔を見合わせて笑った。
木の上を渡る風が、春の香りを運んでくる。
どこか穏やかで、柔らかな空気。
こうして――
“シンゴたちが戻るまでの料理当番制”が決まった。
先陣を切るのは、やる気だけは人一倍のハワード。
焚き火の炎がパチリと音を立てる。
ルナは少し不安げに笑いながらも、心のどこかで楽しみにしていた。
「……さて、今日の朝食、どうなるのかしらね」
森の中に、春を告げる鳥の声が響いた
⬜︎
大いなる木の上。
朝の日差しが枝の間から差し込み、木漏れ日が焚き火の炎をやわらかく照らしていた。
「よーし! 僕がやる番だ!」
ハワードが腕をまくり、胸を張って宣言する。
ルナ、メノリ、ベル、シャアラ、リュウジが木の上のテラスに集まり、その様子を見守っていた。
「……ほんとにやるのね、ハワード」
ルナが苦笑いを浮かべる。
「当然だろ? 料理の腕も見せるチャンスだ!」
「またそのセリフ、聞いた気がする」
メノリが眉を寄せながら、少し冷たい視線を送る。
「だって、俺、この前のことを反省してるんだ!」
「この前?」
シャアラが首をかしげた瞬間――メノリがため息をついた。
「“黒焦げスープ事件”だろう」
その言葉に、全員の表情が引きつった。
リュウジが薪をくべながら、ぼそりと呟く。
「……あれは事件というより、災害だったな」
「ちょ、ちょっと待て! そんな言い方はないだろ!」
ハワードは慌てて手を振る。
「だって……スープが鍋ごと真っ黒になって、底が抜けたのよ?」
ルナが思い出して肩を震わせる。
「……火の色まで黒かったな」とリュウジ。
「おい! そんなに言うなよ!」
「スープで鍋が燃えるなんて、初めて見た」とメノリが淡々と続ける。
「ぐっ……」
ハワードは項垂れた。
ベルが少し笑いながら、静かに言った。
「まぁまぁ、その時は材料も悪かったしな。焦げたけど……努力は伝わったよ」
「べ、ベル……優しいなぁ……!」
ハワードが感動して手を握ろうとするが、ベルはさりげなく避けた。
「ただし、今回は焦がすなよ」
「ぐっ……任せろ!」
⸻
ハワードは再び気合を入れ直し、炎の前に立つ。
「今日のメニューは、“森の恵みスープ”だ!」
「……またスープなの?」とルナが苦笑する。
「リベンジだよ、リベンジ!」
ハワードは誇らしげに木のボウルを掲げる。
果実の皮をむき、根菜を刻み、川魚の切り身を鍋に放り込む。
「見ろよ! ちゃんと順番に入れてる!」
「順番だけで味は決まらないと思うが……」とメノリ。
「うるさい! 今度は完璧だ!」
香草を投げ入れ、スプーンでかき混ぜる――が、すぐに煙が上がった。
「ちょ、ちょっと! 煙出てるわよ!」
「うん、これは……香りづけだ!」
「それ、焦げてる!」
「違う! 演出だ!」
メノリが額を押さえ、リュウジが黙って水桶を横に置く。
「……用意がいいな」とハワードが目を細める。
「前回、予測してなかったからな」
「……くっ!」
やがて、鍋の中から「ぼこっ」という音が鳴った。
泡が弾けるたびに、スープが深い茶色――いや、ほとんど黒に近い色へと変わっていく。
誰もが黙ったまま見守る中、ハワードは最後の味見をして――満面の笑みを浮かべた。
「できた! 今度こそ完璧だ!」
「……香りが、独特ね」とルナ。
「焦げてはいない。……ただ、何か燃えた匂いはする」とメノリ。
「じゃあ、俺が最初に食べるよ」とベルが言った。
スプーンを手に取り、一口。
――静寂。
焚き火の音だけが響く。
「……ベル?」
「……うん」
「どう?」
「……温かい」
「それだけ!?」
ベルが少し考えて、柔らかく笑った。
「……うん、味は……不思議だけど、前よりずっと優しい味だよ」
その言葉に、ハワードの顔がぱっと明るくなった。
「だろ!? だから言っただろ、俺も成長してるって!」
「まあ、黒焦げスープから“焦げ風味スープ”には昇格だな」とメノリが淡々と付け加える。
「ほめてるのか、それ!」
「事実を述べただけだ」
ルナは笑いながらスプーンを手に取り、一口すくう。
「……あ、ほんと。少し苦いけど、飲める味になってる!」
「ほら見ろ! 努力の成果だ!」
「ハワード、次は焦がさないようにね」
「次もスープにする気か?」とリュウジが呟くと、
「も、もちろん新作を考えるさ!」とハワードが胸を張った。
シャアラは笑いながら頬を染めた。
「なんだかんだで、こういう朝って好きだな」
「そうだね」とルナも微笑む。
焚き火の上では、ハワードの“特製スープ”が再び小さく泡を立てていた。
その香りは――少し焦げていて、少し甘くて、何よりも仲間の温もりが混ざっていた。
◇◇◇
昼の陽射しが“大いなる木”の隙間を縫うように差し込み、木の床をまだらに照らしていた。
午前の修繕作業を終えた仲間たちは、焚き火のまわりに集まって昼食の支度を見守っている。
今日の当番はルナ。少し緊張した面持ちで、黒曜石のナイフを手にした。
「えっと……何を作ろうかな」
ルナが小さく呟くと、すぐ後ろから声がした。
「魚と香草があるなら、包み焼きがいい」
低く静かな声――リュウジだった。
「包み焼き?」
「葉で魚と香草を包んで、熱した石の上で蒸す。焦げにくい」
リュウジは簡潔に言いながら、火のそばで木の枝を削り始めた。
その横顔を見上げながら、ルナは思わず微笑む。
「……ありがとう、リュウジ。じゃあ、それにしようかな」
ハワードが腕を組んで口を挟む。
「おいおい、なんでリュウジばっかりルナに教えてんだよ。ズルいじゃないか!」
「ズルいって、料理の話だろ?」とメノリが呆れ顔で言う。
「う、うるさいな! 僕だって手伝えるし!」
「ハワードが手伝ったら、また“焦げ伝説”が生まれるだろう」
カオルが淡々と火の番をしながら言うと、皆の笑いが弾けた。
ルナは照れながら、ナイフで魚の鱗を丁寧に落としていく。
しかし手が少し滑り、身が崩れかけた。
「っ……」
リュウジがすかさず手を伸ばし、ルナの手元を支える。
「焦るな。力を抜け」
「……ありがとう」
彼の手がほんの一瞬触れ、ルナの鼓動が跳ねた。
包み終えた葉を熱した石の上に並べる。
香草と炎果の香りが立ち上り、焚き火の煙と混ざってふわりと漂う。
「うん、いい匂いがしてきたわね」
シャアラが嬉しそうに言う。
「前の黒焦げスープと違って、食べ物の匂いがする!」とハワード。
「ハワード、それをまだ言うのか」
ベルが苦笑しながらも優しい声で注意する。
数分後、ルナは火ばさみを手に取り、包みを持ち上げた。
葉の表面に焦げ目がついて、香ばしい匂いが広がる。
「……少し焦げたかも」
ルナが不安げに包みを開くと、魚の身はふっくらとしていたが、端が少し黒い。
「見た目は……うん、まぁ、味が大事だし」
「そうだ。見た目は飾りだ」
リュウジがひとつを手に取り、ためらいなく口に運ぶ。
一口、噛んで、静かに目を閉じた。
「……美味い」
「え?」
「見た目は悪いが、味は温かい。……心が落ち着く味だ」
その一言にルナの胸がじんと熱くなる。
「ほんと?」
「ああ。焦げ味も悪くない。香草がよく効いてる」
「それ、褒めてるの?」
「俺なりに」
リュウジの口元が、わずかに笑った。
ハワードが急いで木皿を差し出す。
「おい、僕も味見させろ!」
ベルが制して言う。
「焦げてない方、食べたら?」
「えっ、そっちは……いや、まぁ、焦げてない方でいいや!」
みんなが笑いながら食べる中、メノリが落ち着いた声で言う。
「次は葉をもう一枚重ねて包むといいだろう。けれど、味は悪くない。これなら夕食にも使える」
「ほんと? よかった……」とルナは安堵の息を漏らす。
その光景を眺めながら、リュウジは焚き火に新しい薪をくべた。
炎の音が小さく弾ける。
「次は、もう少し焦がさないように」
「うん。次も、ちゃんと教えてね」
「……考えとく」
その言葉にルナはそっと笑い、焚き火の向こうで揺れる彼の横顔を見つめた。
少し焦げた包み焼き――でも、それは、
この木の上でみんなと過ごす時間の“あたたかさ”そのもののようだった。
◇◇◇
午後がゆっくり傾き、枝葉の影が“大いなる木”の床を長く横切りはじめた。
焚き火の上では湯が小さく揺れ、昼の名残の香草が乾いてぱち、と音を立てる。
「――で、今夜は俺の番だ」
リュウジが手短に言うと、焚き火の輪にいた皆の視線が集まった。
「何が食べたい?」
低く落ち着いた声。普段の指揮と同じ調子だが、その眼は少しだけ楽しげだ。
「私は、なんでもいい」
メノリが即答する。「栄養のバランスが取れていれば十分だろう」
「わ、私も……なんでも」
シャアラは指を胸の前で重ね、小さく頷く。
「私も。リュウジにお任せでいいわ」
ルナが微笑むと、リュウジは「了解」と短くうなずいた。
そのとき、ハワードが腕を組んで身を乗り出す。
「なぁ……言いにくいけどさ。リュウジって、料理は下手なんじゃないの?」
「え?」とルナが目を瞬く。
「いや、ほら、あいつって完璧だろ? だから意外なところに弱点があるはずなんだよ。ね? こう……塩と砂糖を間違えるとか!」
「まっさか」ルナは笑い、肩をすくめる。「リュウジが? ないない」
「ふん、じゃあ見てろよ。完璧超人にも穴はあるんだ……たぶん!」
リュウジはそのやり取りに苦笑をひとつ残し、槍と黒曜石のナイフ、細い縄、布袋を携えて立ち上がる。
「食料、採ってくる。日が落ち切る前に戻る」
南の崖は、冬の風に削られた岩肌がむき出しで、鳥の影が斜面を横切っていた。
地面はまだ少し湿り、靴底にひやりとした感触が伝わる。
リュウジは岩の割れ目を指で確かめ、体重を分散させながら静かに登っていく。
指先が届くくぼみ、足の親指だけがかかる浅い段差――呼吸は浅く、一定。
巣の近くまで来ると、風向きを読んで待つ。鳥が離れた瞬間、手を伸ばし、そっと卵を布袋に包んだ。
大きすぎない、肌理の細かい殻を選んで五つ。割れがないか、耳のそばで軽く振って音を聞く。
帰り際、岩陰で啄んでいた小型の野鳥に目が留まる。縄を指で輪にして落とし、逃げ道を塞いだところへ一歩。
―― 羽音、短い影、静かな捕獲。素早く頸を締め、無駄に苦しませない。
崖を下りると、今度は浜へ寄る。
潮が引いたばかりの岩だまりから、薄緑の昆布を選っては束ね、海水で砂を洗い落とす。
ぬめりは強いが、繊維は柔らかい。出汁向きだ。
大いなる木へ戻ったのは、空が茜と藍の境目に差し掛かるころ。
焚き火のそばで待っていたルナがぱっと顔を明るくする。
「おかえり、早かったね!」
「卵を五つ。小ぶりだが質はいい。野鳥も一羽。昆布は少し」
「……本当に、なんでも見つけてくるのね」ルナが感嘆の吐息を漏らす。
「完璧超人かどうか、今から確かめようじゃないか」
ハワードがニヤニヤしながら肘でベルをつつく。
ベルは穏やかに笑って首を振った。「邪魔はするなよ、ハワード」
「下拵えに入る」
リュウジは短く告げ、作業を流れるように始めた。
まず、出汁。
昼の包み焼きで出た魚の骨を清水でさっと洗い、鉄板の端で軽く炙る。香りが立ったら鍋へ。
先ほどの昆布は、端を切り込み、湯の手前の温度でゆっくり引き出す。ぐらりと泡が立つ直前に昆布を引き上げ、骨の旨味だけを静かに移す。
灰汁が上がれば、小枝で削ったヘラで静かに掬い、澄ませる。
焚き火の熱は強い。薪をずらして「弱火」を作り、鍋の位置を数センチ単位で調整。
火は“見る”より“聞く”。湯の縁で小さく歌う音に合わせるのだ。
次に、野鳥。
胸から開いて内臓を取り、冷たい水で血を落とす。皮の薄い脂を指でならして鉄板へ。
香草は指で潰して香りを出し、肉へ揉み込む。焼き色がついたら、火から離して余熱で火を通す。
「焦げは風味」ではない。焦げは境界線だ――そういう顔つきで、リュウジは鉄板の上の位置と時間を刻む。
卵は割ってボウルへ。
先の昆布と魚の出汁をほんの少し。塩は指先で“雨”のように散らし、泡立てないよう箸で溶く。
鉄板の鍋肌で薄い油膜を作り、卵液を流し、固まり始めた“端”を巻いては寄せ、また流す――だし巻きが層を重ね、ふわりとした厚みになっていく。
「……ちょっと、匂いがすごい」
シャアラが目を丸くする。魚の骨の香ばしさ、昆布の甘い磯、焼ける鳥の脂、溶き卵の温い匂い――それらが一つに混ざって、夜の空気をやさしく満たした。
最後に、月梨のソース。
薄切りの月梨を鉄板の片隅で温め、塩をひとつまみ。果汁が滲んだところへ、出汁をほんの匙一杯。
しゃらり、と粘りが出る前に火を切り、果肉を崩さずに木椀で受ける。冷たさの名残と温かさが同居する、不思議な風合いだ。
「盛る」
木の皿が並ぶ。
魚の出汁スープは澄んでいる。表面に小さな光の輪。
野鳥の香草焼き・月梨ソースは、焼き目の褐色に銀色の果肉が映える。
だし巻き卵は、層の間から湯気がふうわり。切り口は瑞々しい。
「……」
誰もが言葉を失った。
ハワードの口がぽかんと開き、メノリは無言で椀の湯気を見つめ、ベルは目元を緩ませる。
カオルは鼻で静かに息を吸っただけだが、確かな“納得”がその目にあった。
「いただきます」
ルナがそっと両手を合わせ、スープを一口。
舌に触れた瞬間、塩気よりも“温度”が広がる。昆布と骨の透明な旨味、焚き火の微かな香ばしさ――喉を通るころには、胸の奥がじんわり温まっていた。
「……優しい。すごく、優しい味」
リュウジがこちらを見ずに、薪の位置を少し直す。「冷めやすいからな」
メノリはだし巻きをひと口。
箸先で押すと、じわりと出汁が滲む。
「層が細かい。火入れが的確だろう。……不必要な力がどこにもない」
それは、この上ない賛辞だ。
シャアラは野鳥を。
カリッとした皮、柔らかな身。月梨のひんやりした甘酸が熱をやさしく包む。
「……あったかくて、ほっとする。果物がこんなに合うなんて」
「脂に酸が合うからだ」リュウジが短く答える。
ベルはゆっくりと頷いた。
「出汁の匂いが、家の匂いみたいだ。……みんなで食べるって、こういう味になるんだな」
その言葉に、ルナの胸が熱くなる。
「ちょ、ちょっと待て……なんだこれ、うま……」
ハワードはスープ→だし巻き→肉→またスープと、忙しく上下する。
「嘘だろ、完璧だぞ……! 弱点どこ行った!」
「最初から無かったんだろう」カオルが火箸を置き、短く言う。「――旨い」
ハワードは頭を抱え、「ぐぬぬ」と呻きながらも、顔は嬉しそうだった。
ルナはだし巻きの端をそっと口に運ぶ。
ふわ、と解ける。さっきのスープと同じ温かさが、でも少し違う輪郭で広がった。
隣でリュウジが静かに椀を持ち上げる。
「塩を強くしないほうが、この時間には合う」
「……うん。みんなの顔が、柔らかくなる味だね」
メノリが椀を置いて、結ぶように言った。
「結論だろう。――リュウジは、料理もできる」
言外に「完敗だ」と続いているのが、全員に伝わった。
風が枝を渡り、焚き火の炎が低く揺れる。
スープの湯気、焼き目の香り、月梨のきらめき。
言葉は少なくとも、誰もが同じものを味わっていた。
“生き延びただけ”の食事ではない――“帰ってくる場所の味”。
「……ごちそうさま」
ルナがそう言うと、仲間たちも静かに手を合わせた。
夜の青が濃くなる。
大いなる木の上に灯った小さな食卓は、遠い星の下で、確かに家だった。
◇◇◇
焚き火の炎が低くなり、あたりは静けさを取り戻していた。
夕食を終えた皆は満ち足りた表情で座り込み、夜風に頬をなでられている。
鉄板の上に残る香草の香りが、まだかすかに漂っていた。
「……じゃあ、片づけは私がやる」
メノリが立ち上がり、空いた木皿を一つひとつ手際よく重ねていく。
それを見ていたリュウジも無言で腰を上げ、火ばさみを手に取った。
「俺もやる。焦げついた部分は俺が落とす」
「助かる。力仕事は任せた方が早いだろう」
メノリは淡々と返しながら、鍋に水を張り、手を動かす。
焚き火の明かりが二人の横顔を照らし、静かな夜気が二人の間を流れた。
リュウジは鍋底の焦げを木の枝でこすり落としながら、ふと口を開いた。
「……みんな、よく動くようになったな。火の扱いも慣れた」
「そうだな。最初の頃は水をこぼすだけでも大騒ぎだっただろう」
メノリが微かに笑みを浮かべる。
その声には、ほんの少しの柔らかさがあった。
「お前がうまくまとめてる」
「私は指示を出しているだけだ。皆が自分で考えるようになった」
「……それでも、お前がいたから今がある」
リュウジの声は穏やかで、真っすぐだった。
メノリは一瞬、動きを止める。
「……褒め言葉として受け取っておこう」
「そうしてくれ」
焚き火がぱちりと音を立て、二人の影が木の壁に揺れる。
その少し離れた場所。
ルナは片づけが終わった木皿を抱えながら、無意識に二人を見つめていた。
火の明かりの中で交わすリュウジとメノリの会話――
特別なことは何ひとつ話していない。けれど、その空気には“信頼”があった。
無駄のないやり取り。
互いに言葉を省きながらも通じ合うような呼吸。
それを見ているだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
(……私、何してるんだろ)
ルナは小さく唇を噛む。
リュウジの横顔を思い出す。
焚き火の明かりに照らされた真剣な眼差し、優しく笑ったときの瞳――
その全部が、知らないうちに心の奥へ残っていた。
けれど今、その眼差しは別の方向を見ている。
まるで、メノリとだけ共有できる“静かな世界”がそこにあるようで。
胸が少し痛んだ。
苦しいほどではない。でも、どうしようもなく熱を帯びるような痛みだった。
シャアラが隣でそっと声をかける。
「ルナ、どうしたの?」
「……ううん、なんでもない」
ルナは微笑んで答えた。けれど、その笑顔の奥で心は波立っていた。
――リュウジの隣に立つとき、自分もあんな風に見えるだろうか。
そんな問いが、胸のどこかに残ったまま、夜は静かに更けていった。
◇◇◇
夜更け。
焚き火の明かりはすっかり消え、外では風が枝葉を擦り合わせていた。
大いなる木の上に作られた“みんなの家”は、虫の声と遠くの波の音に包まれている。
女子たちの寝室スペース――木の壁に吊るされた布の間仕切りの中。
それぞれの寝具の上で、ルナ・メノリ・シャアラの三人が横になっていた。
小さなランプが一つ、橙色の光をかすかに灯している。
「……今日の夕食、すごかったね」
シャアラがぽつりと呟いた。
「うん。あんなにおいしいもの、久しぶりに食べた」
ルナは天井を見上げたまま、ふっと息を漏らす。
あの味と、リュウジの真剣な横顔が、まだ胸の奥に残っていた。
「リュウジ、料理も上手いなんてね」
シャアラは寝返りをうちながら、メノリに向かって笑う。
「最初はどうなるかと思ったけど……完璧だったね」
「そうだな。彼は器用だ。火加減や手順も的確だった」
メノリは淡々と答える。けれど、その声はどこか穏やかだった。
ルナはその声を聞きながら、胸の奥が少しざわつく。
食後、焚き火の片づけをしていた二人の姿が、また頭に浮かんだ。
あの時――リュウジがメノリを見つめていた表情。
そこには確かな信頼と、言葉にしない安心感があった。
(……私も、あんなふうに話せたら)
そんな思いが胸の奥で小さく膨らんでいく。
でも、それを自分から言葉にするのは怖かった。
「ルナ?」
メノリが視線を向ける。
「えっ……な、なに?」
「ぼんやりしてただろう。どうかしたのか?」
「ううん、なんでもない。ただ……眠れなくて」
ルナは笑って誤魔化す。
「考えごとか」
メノリは少しだけ息を吐き、やわらかく言った。
「今日はゆっくり休め。明日はまた修繕の続きがあるだろう」
「……うん」
ルナは横を向き、背を向けた。
その背中越しに、メノリが布団を整える音が聞こえる。
シャアラは静かに微笑みながら、小さく言った。
「ねぇ、ルナ。リュウジのこと、少し気にしてるでしょ?」
「えっ……ち、違うよ!」
「顔に出てる」
シャアラはくすっと笑い、毛布を頭まで引き上げた。
「……大丈夫。誰にも言わない」
ルナは何も言えず、ただ布の中で目を閉じた。
胸の鼓動が静かな夜に溶けていく。
――リュウジの笑顔。
――メノリと並ぶ姿。
その全部が、遠くて、でもどうしても目を逸らせなかった。
風が一度だけ木の外壁を揺らし、微かな音を立てた。
その音に紛れるように、ルナのため息がひとつ零れた。
それを聞いたシャアラは、目を閉じたまま、
そっとルナの方に毛布を伸ばして、静かに寄り添った。
◇◇◇
夜が明け、森を渡る風がやわらかく木の葉を揺らした。
薄い朝霧が湖面を覆い、やがて太陽の光がそれを溶かしていく。
大いなる木の上にも、春の兆しが確かに訪れていた。
ルナは目を開けた。
ほんの少し眠っただけなのに、心はまだ重たいままだった。
シャアラがすでに起きていて、水袋を手にしている。
「おはよう、ルナ。顔が少し赤いよ?」
「え……そう?」
「うん。寝不足かな」
ルナは曖昧に笑ってごまかした。
昨夜のこと――シャアラに言われた言葉が、まだ胸の奥に残っている。
その時、外から低い声が聞こえた。
「おい、もう起きてるか?」
リュウジだった。
ルナの心臓が一瞬で跳ねた。
声を聞いただけで、胸の奥がざわつく。
「おはよう、起きているぞ」
メノリが寝具を畳みながら応じる。
「朝食、準備できてるの?」とシャアラ。
「いや。今日は先に川辺の様子を見てくる。雪解けで水位が上がってる」
「わかった。気をつけて」メノリは落ち着いた声で返す。
リュウジは小さく頷き、木の梯子へ向かった。
ルナは――何も言えなかった。
声をかけようとしたのに、喉の奥で言葉が止まった。
昨日の夜、あの焚き火の明かりの中で、リュウジとメノリが並んで話していた光景。
その静かな距離感が、まるで今も二人の間に漂っている気がした。
メノリが寝具を束ねている。
「ルナ?」
「え、な、なに?」
「顔が赤い。熱でもあるのか?」
「ち、違うの。……ちょっと寒くて」
慌てて毛布を抱えるようにして言い訳をした。
メノリは首を傾げながらも、追及はしなかった。
その何気ない優しさが、今はむしろ胸に刺さった。
ルナは窓のない壁に背を預け、小さく息を吐く。
下からは、リュウジが外を歩く足音が聞こえる。
規則正しく、力強く、それでいて落ち着いたリズム。
(……どうして、こんなに意識しちゃうんだろ)
ルナは自分の手を見つめた。
昨日、料理を教えてもらったとき、ほんの一瞬触れた指先の感触。
あれを思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
なのに――あの片づけの時のリュウジの横顔を思うと、冷たい痛みが混ざる。
シャアラが荷物をまとめながら、ルナの方をちらりと見た。
「ねぇルナ」
「なに?」
「リュウジと、ちゃんと話した方がいいよ」
「え……?」
「昨日から、ルナ、ちょっと変。……リュウジもきっと気づいてる」
その言葉に、ルナは息を呑んだ。
外から、メノリの声が聞こえる。
「リュウジ、調査が終わったら知らせてくれ」
「了解」
短いやり取り。その響きは静かで、けれど妙に息が合っていた。
ルナは俯き、毛布をぎゅっと握った。
風が木の壁を揺らす音の向こうで、彼の足音が遠ざかっていく。
(……ねぇ、どうしてこんなに苦しいんだろう)
言葉にならない想いだけが、朝の光の中に滲んでいった。
◇◇◇
昼前、陽が少しずつ高く昇り、木々の間に光が降り注いでいた。
リュウジは背に槍を背負い、川辺の様子を確かめるために歩いていった。
彼の足取りは迷いがなく、森の中を進む音だけが静かに響いていた。
ルナは――どうしても気になっていた。
寝室でメノリと交わした短いやり取りが、胸の奥に引っかかっていたのだ。
“気をつけて”――メノリがそう言ったときの柔らかな声。
リュウジが、あの声に軽く頷いた瞬間の姿。
それが、どうしても頭から離れなかった。
(ちょっと様子を見るだけ……)
そう自分に言い訳をしながら、ルナはそっと木の梯子を降りた。
森の中を歩く。足元の落ち葉がかすかに音を立てるたびに、胸の鼓動が早くなる。
リュウジの姿はすぐに見つかった。
陽に照らされた川辺で、彼は膝をつき、水面を覗き込んでいる。
春の雪解けで川は勢いを増し、冷たい光を反射していた。
ルナは少し離れた木の陰に身を隠し、そっとその姿を見つめた。
リュウジは慎重に川底の石を動かし、水の流れを確かめていた。
時折、槍の柄で深さを測りながら、水位の変化を記録しているようだった。
その横顔は真剣で――でもどこか、優しい。
風が吹いて、黒髪が少し揺れた。
その仕草ひとつひとつが、ルナには胸を締めつけるように映る。
(……どうしてこんなに見ていたくなるんだろう)
ふと、足元の枝を踏んでしまった。
ぱき、と乾いた音が響く。
リュウジの動きが止まり、ゆっくりと振り向いた。
「……ルナ?」
見つかった。
ルナは木の陰から顔を出し、苦笑いを浮かべる。
「……ごめん。ちょっと、様子を見に来ただけ」
「様子?」
「ほら……川の水、急に増えて危ないかもって思って」
リュウジはしばらく黙ってルナを見ていたが、やがて息を吐いた。
「……まったく。お前は心配性だな」
「だって……」
ルナは言葉を詰まらせた。
本当は“心配”じゃなくて、“会いたかった”――そう言いたかった。
けれど、それはどうしても口にできなかった。
リュウジは川の縁に手をつき、立ち上がる。
「水位は思ったほどじゃない。雪解けの流れが落ち着けば問題ないだろう」
「そっか……」
「でも、この辺りは地盤が緩い。立つな」
そう言って、リュウジはルナの腕を軽く掴んで引き寄せた。
その手の温かさに、ルナの心臓が跳ねる。
距離が、あまりに近かった。
頬に当たる息の温度がわかるほどに。
「……ありがとう」
かすれるような声でルナが言う。
リュウジは手を離し、目を細めた。
「危ないことをするな。それだけだ」
そして、川の流れに視線を戻した。
ルナは俯き、小さく頷いた。
頬が熱くて、顔を上げられない。
でもその胸の中では、冷たい川風と一緒に、温かい何かがゆっくりと広がっていた。
二人の間に、言葉のない沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は不思議と優しかった。
春の光が、川面にきらめきながら流れていく。
ルナはその光を見つめながら、
――もう少し、この時間が続けばいいのに、と思った。
◇◇◇
川の流れが遠ざかるにつれ、鳥のさえずりが戻ってきた。
森の中はやわらかな風が吹き抜け、湿った土の匂いが漂っている。
リュウジは、肩に吊った槍を軽く持ち替えながら、先を歩いていた。
その背を、ルナは少し離れて見つめていた。
先ほど川辺で見た真剣な表情が、まだ頭に焼きついて離れない。
「……ねぇ、リュウジ」
静けさを破るように、ルナが声をかけた。
「なんだ」
「こうして歩いてると、なんだか最初の頃を思い出すね」
「最初?」
「うん。島に来たばかりの頃。あの時も、川を探して歩いたでしょう?」
ルナは少し笑いながら言った。
リュウジも小さく頷く。
「ああ。あの時は、みんな必死だったな」
「……今だって、必死だよ」
ルナがそう言うと、リュウジは少しだけ足を止めた。
「そうだな。でも――あの頃と違って、今は“守りたいもの”がある」
その言葉に、ルナははっと息を呑んだ。
「守りたいもの?」
「そうだ。あの時は、過去に囚われていた。けど今は……」
リュウジは言葉を区切り、振り返る。
木漏れ日の中、黒髪が風に揺れた。
その瞳がまっすぐにルナを見つめる。
「みんながいる。お前も、カオルも、チャコも。……それに、この島で築いたものもな」
リュウジの言葉は穏やかで、それでいて芯が通っていた。
ルナは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「……リュウジ、変わったね」
「変わった?」
「うん。最初の頃は、もっと冷たかったよ」
「……そうかもな」
リュウジはわずかに苦笑を浮かべ、森の奥に視線を向けた。
「でも、それはルナのおかげだ。お前が、俺を“人間”に戻してくれた」
ルナの胸がきゅっと締めつけられる。
“人間に戻してくれた”――その言葉の重さが、まっすぐに心に響いた。
「……そんな大げさな」
「いや。本当のことだ」
短く、けれど強くそう言い切るリュウジ。
その声が、森の中に溶けていく。
少し歩いたあと、ルナはふと笑った。
「じゃあ、これからもちゃんと“人間”でいてもらわないと困るね」
「どういう意味だ?」
「だって……時々、無茶するから。あの夜みたいに」
リュウジは言葉に詰まり、視線を逸らした。
「……あれは必要なことだった」
「そういうの、もう少し控えてよね」
「気をつけるよ」
二人の間に、やわらかな沈黙が落ちる。
遠くで鳥の鳴き声が響く。
森の中を抜ける春風が、ルナの髪をやさしく揺らした。
「ねぇ、リュウジ」
「なんだ」
「さっきの“守りたいもの”に、私も入ってる?」
その問いは、思わず漏れたような声だった。
ルナはすぐに後悔して、視線を下げる。
けれど――リュウジは少し間を置き、静かに言った。
「……ああ。当たり前だろ」
ルナは顔を上げた。
その瞬間、リュウジの口元に浮かぶ小さな笑みが見えた。
春の光の中、その笑顔はいつもより少し柔らかく見えた。
ルナの胸の奥がじんわりと熱くなる。
森を抜ける道の先に、大いなる木の影が見えてくる。
家に帰る道なのに、どこか名残惜しい気持ちがした。
◇◇◇
大いなる木の根元まで戻ると、ちょうど日が真上に昇っていた。
枝葉の間から差し込む光は、まだ柔らかいけれど、どこか春のぬくもりを含んでいる。
ルナとリュウジが戻ると、ハワードが真っ先に気づいた。
「おーい、帰ってきたぞー! どうだった、収穫は?」
手を振りながら近づくハワードの後ろで、ベルが焚き火の周りに座り、木の枝で鍋をかき混ぜている。
「おかえり、二人とも。思ったより早かったな」
「川の水位が下がってたの。魚も取りやすかったんだ」
ルナが笑顔で答えると、ハワードが目を輝かせて身を乗り出す。
「じゃあ、魚あるんだな!? やった!」
リュウジは無言で袋から魚を数匹取り出し、焚き火のそばに置く。
銀色の鱗が陽の光を反射して、きらりと光った。
「おお、立派だな」とベルが感心したように言う。
「川の下流のほうに群れがいた。少し冷たかったけど、取りやすかった」
淡々と話すリュウジに、ルナは小さく笑みを浮かべた。
「リュウジ、寒くなかった?」
「平気だ。もう冬じゃない」
「……そうだね」
ルナが頷くと、風が吹き抜け、木の葉の音がさらさらと響いた。
その時、メノリが腰に手を当てて言った。
「じゃあ、魚は焼きにして出そう。ベル、火をもう少し強くしてくれるか?」
「ああ」
ベルは器用に薪をくべ、火が勢いを増す。
「ハワード、今度は焦がすなよ?」
「この前のことは忘れろって!」
「“黒焦げスープ事件”を?」
メノリが淡々と返すと、ハワードはぐっと詰まり、リュウジが横目で笑った。
「よし、ルナ。魚の下ごしらえ頼む」
「うん!」
ルナは水桶を持ち、嬉しそうに魚を洗いはじめた。
シャアラは手拭きを用意し、ベルは串を削る。
焚き火のそばには炭の匂いと魚の香りが混じり合い、穏やかな空気が漂っていた。
ほどなくして、焼きたての魚が並んだ。
香ばしい匂いが漂い、ハワードが鼻をひくつかせる。
「うおお、これはうまそうだ! 早く食べようぜ!」
「ちょっと待て。みんな揃ってからだ」とメノリがピシャリと制す。
全員が座につき、ルナが手を合わせた。
「じゃあ、いただきます」
魚を口に運ぶと、香ばしさとほんのりした塩味が広がる。
「おいしい……!」とシャアラが目を輝かせる。
「うん、脂が乗ってるな」とベルが頷く。
ハワードは何も言わず、夢中でかぶりついている。
「これ、ルナが焼いたのか?」とリュウジが尋ねる。
「ううん、メノリと一緒に。少し焦げちゃったけど」
「いや、これぐらいのほうが香りが立つ」
リュウジがそう言って笑うと、ルナの頬がわずかに赤くなった。
食後、風がやわらかく吹いた。
みんなが満腹でうたた寝しそうになる中、メノリが木陰で手帳を広げている。
「何をしてるの?」とルナが尋ねると、メノリは淡々と答えた。
「今後の食料計画の整理だ。天気も安定してきたし、畑を再開できるかもしれない」
「頼りになるね」とルナが笑うと、メノリは小さく微笑み返した。
焚き火の煙が空にのぼる。
リュウジは静かに魚の骨をまとめながら、空を見上げた。
どこまでも青く澄んだ空に、冬の名残が薄く漂っている。
その横顔を見て、ルナはふと胸の奥が温かくなった。
春の光の中で、みんなの笑顔と焚き火の残り火が、穏やかに溶け合っていた。
◇◇◇
夜風が木々をゆらし、枝葉の擦れる音がかすかに響く。
焚き火の赤い光がゆらゆらと揺れ、みんなの寝床が影絵のように浮かび上がっていた。
他の仲間たちはもう寝静まっている。
けれど、火のそばにはまだ二人の影が残っていた。
リュウジとメノリだ。
メノリは手帳を膝の上に広げ、焚き火の明かりでページを照らしている。
その隣でリュウジは、火にくべる薪の長さを見計らいながら、静かに口を開いた。
「明日の探索範囲は北の丘のあたりに広げるか」
「そうだな。南側の果樹林は昨日、ベルたちが確認しただろう。果実はまだ熟していなかった」
メノリは視線を落としたまま、真剣な表情で言う。
「北の丘なら、風の通り道だから木の実も日当たりもいい。まだ雪の残っている場所があるかもしれないが……」
「それなら、火打ち石を余分に持っていく」
「準備は抜かりないな」
メノリの口元に、ほんのわずか笑みが浮かんだ。
その穏やかなやり取りを、少し離れた木の陰からルナがそっと見つめていた。
彼女は眠れずに外へ出たのだ。
夜の静けさと星の光の中、二人の声が焚き火に溶けて響く。
――いつも通りのリュウジ。
けれど、メノリと並ぶその姿が妙に自然に見えて、ルナの胸がざわついた。
「リュウジ、お前、無理していないか?」
メノリが少し声を落とす。
「無理?」
「お前は常に前を見すぎる。島のこと、仲間のこと、責任を全部抱え込もうとする。……たまには誰かに任せてもいいんだ」
焚き火の赤が二人の横顔を照らす。
リュウジは少し間をおき、火の粉を見つめたまま口を開いた。
「……俺がやらなきゃいけないことだ」
「そうやって抱え込むところ、昔の私に似ている」
メノリの声には、どこか柔らかさがあった。
「だが――そういうところが、このグループを支えてるのも事実だな」
リュウジは苦笑した。
「お前にそう言われるとはな」
「私だって成長してるんだ。リーダー代理くらい務まるさ」
「頼もしい限りだ」
ふたりの間に小さな笑い声が生まれる。
その音を聞いて、ルナの胸がぎゅっと締めつけられた。
――楽しそうに話してる。
別に、嫌なわけじゃない。
でも、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。
星明かりがルナの頬を照らし、静かな夜風が髪を揺らす。
リュウジがふと火に薪をくべる。その火花が宙に舞い、ルナの瞳に映り込んだ。
「……ルナ、そこにいるのか」
リュウジの声がした。
ルナは驚き、思わず木の影から顔を出す。
「ご、ごめん。起こしちゃったかなと思って」
「いや。もう話は終わりだ」
リュウジが立ち上がり、火のそばを離れる。
「おやすみ、メノリ」
「ああ。……ルナ、無理するなよ」
メノリの声に、ルナは小さく会釈してその場を離れた。
二人きりの夜気の中、ルナはうつむきながら歩く。
リュウジの足音がすぐ後ろに続いていた。
「寝られなかったのか」
「うん。星がきれいだったから」
「……そうか」
短い会話。
でも、ほんの少しの沈黙が、言葉よりも雄弁に心を揺らす。
焚き火の光が遠ざかり、夜の闇が二人を包み込む。
ルナはリュウジの背を見つめながら、そっと胸に手を当てた。
――どうして、こんなにも。
その理由を、まだ自分でもわかっていなかった。